あじさいの季節に

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カラ梅雨であるそうな。

それでもわが家の庭のあじさいは、今年もたくさんの青い花をつけてくれています。

ここ修善寺では、青いあじさいをよく見かけるような気がします。あじさいは一般に酸性度の高い土地では青くなり、アルカリ性の強い場所では赤くなるそうです。修善寺一帯は、ほとんどが古火山である達磨山からの流出物でできている土壌が基盤であり、火山性土壌にはアルミニウムがたくさん含まれているとか。

これが溶け出し、酸性になりやすいため、青いあじさいになりやすい、というもっともらしい説なわけですが、本当でしょうか。

実際、同様に火山性土壌の多い伊豆では、あちこちで青いあじさいを見かける機会が多いように思います。が、品種の改良によって、酸性度が強い土壌でも赤い色になるあじさいもあるようで、また土や肥料を調整してわざわざ赤いあじさいにする場所もあるとのこと。

伊豆での紫陽花の名所、下田公園もそのひとつなのでしょう。長年、地元の人によって数多くの品種が育てられてきたこの地では、いろいろな色のあじさいが楽しめます。

下田市内の南西部の海に面した丘の上にあり、毎年6月末まで「あじさい祭」がおこなわれており、この時期には、およそ15万株、300万輪のあじさいが咲き乱れます。丘全体があじさいに覆われているようで、初めてこの青と赤の氾濫を見た人は圧倒されるようです。

この下田公園、実はその昔の城跡です。九州平定を終え、天下統一に向け、歩みをすすめていた豊臣秀吉に対し、後北条氏が秀吉方との対決に備え、南伊豆防衛の拠点として築城したもので、伊豆半島でも最大規模の山城です。

天正18年(1590)3月、総勢1万人を超えたともいわれる豊臣方の軍勢が下田に押し寄せたとき、これを迎え撃つ城将・清水上野介康英をはじめとする軍勢は、わずか600名だったといわれています。ここでの篭城戦は50日にも及びますが、秀吉方軍の海上封鎖及び陸上での包囲作戦により、後北条側はついに力尽き、4月下旬には開城されることとなりました。

6月には後北条氏の拠点であった小田原城も開城し、前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老などほぼ全員が切腹。豊臣家と親交のあった一部の一族が助命されましたが、そのほとんどは高野山などに追放になりました。

北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となりました。しかし、忠次の子・尊次は慶長6年(1601年)に三河国の田原城へ転封となり、以後、下田城は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配するところとなり、廃城となりました。その後、長い間ただの木々が生い茂るうっそうとした森でしたが、戦後、地元の有志によりあじさいの植栽が始まり、現在では静岡県、いや日本を代表するほどの紫陽花の名所となりました。

この下田城、山城とはいいますが、標高は約70mにすぎません。「鵜島山」という正式名称があり、その頂上に主郭(現在の天守台跡)を置き、そこから伸びる尾根の要所には曲輪(くるわ)が設けてありました。曲輪とは、役割や機能に応じて城内で区画された小区域のことで、城の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓などが建てられていました。

現在あじさいが多数植えられている場所の多くは、こうした城としての機能を保つ設備で覆い尽くされていたに違いなく、現在のような公園としての風情などはこれっぽっちもなかったでしょう。

主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられ、戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯ました。最南端のお茶ケ崎や狼煙埼に物見櫓があり、直下の「大浦(和歌の浦とも)」とよばれる船溜りがありました。ここに、戦国時代最強とされた伊豆水軍の艦隊が集結するとともに、常時城の周りの海の警戒にあたっていました。

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この城を造営した、清水康英という人は、後北条氏の譜代の家臣で北条家第3代当主である北条氏康の傅役(もりやく)、つまり養育係でした。さらに母は、氏康の乳母でした。このことからも、伊豆へ進出してきた後北条家と、地侍であった清水氏とが強い関係を築いていたことがうかがわれます。

康英は、後北条氏に帰依した数ある伊豆衆のうちの五家老の一人にも数えられる実力者であったようです。訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆も務めており、氏康の参謀でもあったと思われます。

ちなみに、下田城が落城した後、康英は河津に退去し、家臣らに籠城の苦労を謝して離別。自らは菩提寺である河津の三養院という寺に入って隠栖。天正19年(1591年)に59歳で没しました。

清水康英はまた、伊豆水軍の頭領でもありました。もともとは三島宿以南の伊豆半島を中心とした地域を拠点とした土着の水軍で、北条早雲が興した後北条氏が伊豆に腰を据えるようになってからは、清水康英の配下に組み込まれ、以後、「北条水軍」ともいわれるようになりました。

伊豆水軍は、北条早雲が伊豆に侵攻してきた際にその配下に下った在地領主が中核となっており、土肥(現伊豆市)の富永氏や、西浦江梨(沼津市)の江梨鈴木氏、三津(沼津市)の松下氏らが含まれていました。それに加えて三浦半島に勢力を持った旧三浦水軍や、後北条氏の始祖、北条早雲の出自といわれる熊野から招かれた梶原氏を組み込んで組織されていました。

伊豆水軍は、この下田条とは別に、西伊豆、現在の沼津市西浦に位置する長浜城を本拠にしており、北方から伊豆に侵入してくる敵の脅威に常におびえていました。実際、付近の武田氏、今川氏と対峙し、駿河湾では幾度となく武田氏の水軍と衝突していました。

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そうした中、現在では戦艦に相当する「安宅船」を有した強力な艦隊を伊豆水軍は編成しました。上の秀吉の下田城攻めに遡ること10年前の、天正8年(1580年)には、駿河湾海戦で武田水軍と衝突し、その際、大砲を積んだ、特大の安宅船を用いたことが記録されています。

この安宅船は、あたかぶね、と呼びならわすことが多いようです。が、阿武船(あたけぶね)という呼称もあるようです。由来は定かではありませんが、戦国時代に淡路近辺を根拠としていた安宅氏からきているという説、巨大で多くの人の乗り組める船であったから「安心できる家(宅)→安宅」となったという説、「暴れる」という意味があった「あたける」という動詞から来ているという説、などなどさまざまです。

北陸道の地名である安宅(あたか、現石川県小松市)と関係あるという説、陸奥の阿武隈川流域を指した古地名の阿武と関係があるという説などもあります。

言葉の定義はともかく、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船です。巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ませんが、戦闘時には数十人から百人単位の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができたといわれます。

室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の「関船」と関船をさらに軽快にした「小早」があり、安宅船がこれらで構成される艦隊の中核を成していました。

近代艦種でいえば、安宅船が戦艦に相当し、関船が巡洋艦、小早は駆逐艦に例えられます。近代的な戦艦や巡洋艦、駆逐艦の役割と、この時代の安宅船・関船・小早の用途分担は比較できるものではない、とはよくいわれます。が、快速で、火縄銃や弓矢による射撃を得意とする関船は、中型高速で艦砲射撃の得意な巡洋艦とよく似ています。また、小型俊足で、焙烙火矢や投げ焙烙(ほうろくひや・なげほうろ、火薬を用いた兵器)を主要武器として用いていた小早は、魚雷を主兵装とする現在の駆逐艦と似ています。

戦艦に例えられる安宅船のほうは、遣明船でも使われた二形船(ふたなりぶね)や伊勢船(いせぶね)などの大型和船を軍用に艤装したものです。船体構造は航(かわら)と呼ばれる板材を船底部に置き、前後両側に重木(おもき)というL型の丈夫な部材を用いました。何枚もの横板を重ね継ぎして周囲を囲った上で、横断方向には多数の船梁(ふなばり)を渡して補強しており、これは「棚板造り」と呼ばれる構造です。

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室町時代以前、日本では、古代には諸手船(もろたぶね)と呼ばれる同じ構造の小型の手漕ぎ船が軍事用に使われていたことが記録にあり、これが、のちの安宅船の起源と考えられます。

中世の前半には海上で活動する軍事勢力が活躍するようになりますが、もともとは水軍専用に建造された軍船はなく、漁船や商船を陸戦で用いられる楯板で臨時に武装したものを使用していました。つまりは、軍事目的で開発されたものではなく、民間利用の商船の外壁を固めて軍船として利用したのが始まりと考えられます。

この当時の日本の有力者には、海外に出かけてまで紛争に関わるような力はなく、海での戦いといえば、国内の閉鎖水域で断片的な海戦を繰り返す程度でした。従って欧米のような本格的な外洋船の建造には至らず、内海限定で作られた軍船であったため、構造的には弱いまま建造技術が固定されました。

西洋の船が応力を竜骨や肋材を使用し強度を得ることで大型化をなしとげたのに対し、日本の船舶はそのような構造を持たず、古代の丸木舟以来、外板を継ぎ合せたのみの構造で引き継がれました。

ヨーロッパでは、8-10世紀にはヴァイキングと呼ばれたノルマン人たちがガレー船と呼ばれる独特の丈夫な船を駆って西ヨーロッパの海を支配していたのに対し、日本ではこうした安宅船のような大きな和船の登場すら、14世紀の室町時代中期以降のことでした。

このように、日本の造船技術はこの当時のヨーロッパ諸国と比べて極めて見劣りがするものでしたが、片や船を集めて「船団」として運用する技術には長けており、戦国時代に入ると、戦国大名により、いわゆる「水軍」の組織化が進みました。

彼らは当初は海賊行為を主体とした小規模な集団に過ぎませんでしたが、陸上で武士階層の成立が進んでいく中、海上でも同じように海上の武力をもって世業とする海の武士たちが登場するようになり、これが水軍と呼ばれるようになっていきました。

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戦国大名の側から、積極的に海賊衆と呼ばれていた彼らに水軍の編成に対する働きかけを行い、警固衆として陸上の土豪や国人と同じように家臣団に組み入れるようになり、農村に対する動員とともに漁村に対しても水軍への参加を呼びかけ、組織としての補強を行いました。

とくに、後北条氏では、相模田浦(現横須賀市田浦)や武蔵本牧(現横浜市本牧)の漁民に対して、葛船と呼ばれる大型漁船での操業を許可するという漁業上の特権を与え、その代わりに有事に際して水軍として参加を要請する、といった形での動員が行われました。

水軍の兵士たちは、平時には漁業に従事しており、後北条氏の必要に応じて水産物を上納する義務を負っていましたが、一方ではそれらを自らの糧とすることが許されていました。しかし、いったん戦闘が勃発すると戦闘員として動員されることも課せられており、平時の漁民と有事の水軍兵士という二つの顔を使い分けていました。

毛利氏、武田氏、後北条氏などの有力な大名もまた、こうした平時は漁民、有事は兵士として機能する便利な民の使い方を重要視するようになりました。初め、諸大名配下の水軍は少数にすぎませんでしたが、あちこちの大名に便利に使われるうちにその技術も洗練されていき、やがては主要な軍事集団に成長しました。

大名たちは、船の構造にも詳しい彼らを徴用し、さらには軍船を建造させるようになります。そして、彼らが建造した大型軍船は、いつの時代からか総称して「安宅」と呼ばれるようなっていきました。

安宅船は、小さいものでは500石積から、大きいもので1000石積以上の規模を誇り、これを千石船と呼びました。「石」はこの時代の米の分量を示す単位であり、一石は100升(1升は1.8リットル)になります。米一石=40貫(150kg)であり、これからすると千石積船=150トンということになります。積載能力は150トンということになり、排水量は約200トンと推定されます。

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200トンというと、どれぐらいの大きさか想像しかねると思いますが、漁船でいえば遠洋漁業に使えるようなかなり大型な船になり、また海上自衛隊のミサイル艇がだいたい200トンありますから、現在の軍艦でいえば大きさとしては小型の駆逐艦程度、といったところでしょう。ただ、この時代の軍艦の動力は風力もしくは人力ですから、大きさだけの比較は適当ではありませんが。

比較と言えば、船としての形状も現在の船とはまったく違っており、船首上面が角ばった形状をしており、矢倉と呼ばれる甲板状の上部構造物も方形の箱造りとなっているのが特徴です。上部構造物は船体の全長近くに及ぶため、総矢倉と呼ばれ、聖書に出てくるノアの方舟のようなずんぐりとしたものでした。

この形状によって確保した広い艦上に、木製の楯板を舷側と艦首・艦尾に前後左右の方形に張って矢玉から乗員を保護します。もともと速度の出ない大型船であるため船速は犠牲にされ、楯板は厚く張られて重厚な防備とされました。楯板には狭間(はざま)と呼ばれる銃眼が設けられ、隙間から弓や鉄砲によって敵船を攻撃しました。

また、この時代は「移乗攻撃」がかなり有力な攻撃方法でした。このため、敵船との接舷時には楯板が外れて横に倒れ、橋渡しとできるようになっていました。楯板で囲われた総矢倉のさらに上部には箱状の「屋形」が重なり、外見の上でも城郭施設に似ています。このため、その構造と重厚さから、安宅船はしばしば海上の城にたとえられます。

戦前に活躍した日本や欧米の戦艦も城のような巨大な上部構造物を擁していましたから、そうした点からも、安宅船と現在の戦艦がよく比較されるのでしょう。

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特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣があり、これは、高い望楼があればあるほど索敵が容易になるためです。この当時の和船に共通する船体構造としては、板材を縫い釘とかすがいによって繋ぐことが基本であり、西洋や中国の船のように「背骨」としての、いわゆる「竜骨」はありません。

現代の自動車や、鉄道車両、航空機などのように、外板で応力を受け持つ構造を「モノコック構造」といいますが、安宅船もまさにそうした構造でした。竜骨などの内部の骨組みが必要無い分、軽量で頑丈な構造船を建造することができましたが、一方では外壁一で作ったいわば風船のような構造であるため、衝突や座礁等による漏水には非常に弱かったようです。

これはとくに、自らの体当たりで敵の船を沈める、といった攻撃が不可能である事を意味し、大きな欠点となりました。西洋の軍船の船首には古代から「衝角」という喫水線下に取り付けられる体当たり攻撃用の固定武装具が設けられるのが普通でしたが、これは船体が丈夫な竜骨で作られているからこそできる技でした。

安宅船にはこうした体当たり攻撃、といった発想はなく、また西洋の航洋船と違い、国内での沿岸戦闘を目的とするため、外洋に出る能力はほぼゼロといえました。

推進には帆も用いることもあったようですが、戦闘時にはマストを倒して、艪だけで航行しました。艪の数は少ないもので50挺ほどから多いもので150挺以上に及び、50人から200人くらいの漕ぎ手が乗ったとされます。

大きな安宅では2人漕ぎの大艪を用いる場合もあったようで、戦闘員は漕ぎ手と別に乗り組むため、数十人から数百人にのぼった、という記録もあるようですが、これから計算すると、乗船する者の数は400~500人にものぼることになります。

船の規模を考えると、いくらなんでもこれは多すぎるため、おそらくは漕ぎ手と戦闘員が兼ねることが多く、実質は200人内外が限度だったのではないでしょうか。ただ、「海上の城」として限定使用し、極端に移動性能を犠牲にした場合には、それぐらいの人数は乗せたかもしれません。

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戦国時代も後期に入ると大型化と重武装化がいっそう進み、特に火器を使った戦闘に対応して楯板に薄い鉄板が張られることもありました。武装も陸上の持ち運びに適さない大鉄砲や大砲が配備され、強力な火力で他艦を圧倒しました。

1573年(元亀4年)、織田信長は自領の内海となった琵琶湖で長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型船を建造したとされます。同年、この大船は坂本から湖北の高嶋に出陣し、ここにあった木戸城、田中城を落城させています

1578年(天正6年)には信長の命により、九鬼水軍を率いる部将九鬼嘉隆が、黒い大船6隻を、滝川一益が白い大船1隻を建造した、という記録があります。九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いたといわれ、その本拠は志摩の国(現三重県)でした。

九鬼水軍は、強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口(後述)の戦いで破り、信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取しており、その後の信長の全国制覇を支えた文字通り織田軍のホープです。

九鬼嘉隆が建造したとされる、黒い大船の規模は、その噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録「多聞院日」によれば横七間(幅約12.6m)、竪十二、三間(長さ約24m)鉄張りであったといい、これは現在の200トン型漁船よりもやや小ぶり、といった大きさです。

そして、これが有名な信長の「鉄甲船」といわれるものです。鉄張りにしたのは毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐためと考えられ、当時の軍船としては世界的にみても珍しいもので、最新鋭技術といっていいでしょう。

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この鉄甲船の戦闘を実見した宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノの証言によれば、各船は3門の大砲と無数の大鉄砲で武装していたといいます。この年、6月20日に伊勢から出航して雑賀衆や淡輪の水軍と戦い、大阪湾に回航し、9月30日に堺湊で艦船式、11月6日に木津川口で、九鬼嘉隆の6隻が毛利氏の村上水軍や塩飽水軍と交戦、勝利しており、これが第二次木津川口の戦いです。

ちなみに、このオルガンティノという宣教師は、主として戦国時代末期に宣教活動を行っていたイエズス会のイタリア人宣教師で、人柄が良く、日本人大好きな好々爺したオジサンだったようです。40歳前に来日した彼は、「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となりました。

日本に好感を持っていたオルガンティノは、書簡の中で「ヨーロッパ人はたがいに賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べています。

また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べています。昨今のせちがない世の中に住み、気性も態度も矮小になってしまった我々にとっては少々面はゆい評価ではありますが。

1591年に始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では軍需物資や兵員を輸送し、兵站を維持するために大量の輸送船が西国の大名によって建造されました。これらの輸送用の船舶とは別に、緒戦期に朝鮮水軍の襲撃で被害が出ると、日本側も水上戦闘用に水軍の集中と整備を行いました。

「太閤記」などの記述によれば、このとき秀吉は、各大名に石高十万石につき安宅船二隻を準備させたといいます。その結果、慶長の役ではこうして建造された多数の安宅船で構成された日本水軍が活躍することとなりました。

この役のために九鬼嘉隆が建造した「鬼宿」は、山内一豊に宛てた手紙では、「船長十八間(約32m)、幅六間(約11m)」の大きさだったとされます。櫓百挺で、漕ぎ手と戦闘員をあわせて180名が乗り込んだとされ、豊臣秀吉の命名によってその後「日本丸」と改名されました。

現在の韓国南部、閑山島と巨済島の間の海峡に、単独出撃をした脇坂安治率いる1500人の水軍が、朝鮮水軍の誘引迎撃戦術により壊滅状態に陥った、閑山島海戦(かんざんとうかいせん)では、敵の襲撃を強靱な船体で受け止め、多くの兵士の脱出に寄与したといわれています。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは九鬼水軍を率いる九鬼嘉隆(西軍)と子の九鬼守隆(東軍)が東西に分かれて戦い、西軍が負けたため、嘉隆は自害しました。

嘉隆亡き後、守隆は水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城に当たっては木材や石材を海上輸送して幕府に貢献しました。しかし守隆没後は家督争いが起き、九鬼氏は二分された上に内陸へ転封となり、ここに、日本を代表する水軍として長年高い評価を得てきた九鬼水軍の歴史は終わりを迎えました。

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関ヶ原の戦いを経たのちの江戸時代初期には、日本の各地で次々に巨城が築城され始めました。こうした軍事的な緊張の時代を反映して、西国の諸大名によって九鬼氏の日本丸を上回る巨艦が次々に建造され、安宅船の発展はピークを迎えました。しかし慶長14年(1609年)に江戸幕府は西国大名の水軍力の抑止をはかるため、500石積より大きな船を没収しています。

元和元年(1615年)に大坂の陣が終わり、ようやく平和の時代が訪れると安宅船の軍事的な必要性は薄れていきました。速力が遅く海上の取り締まりの役に立たない安宅船は廃れ始め、かわって諸藩の船手組(水軍)は快速の関船を大型化させて軍船の主力とするようになっていきました。

寛永12年(1635年)には武家諸法度により全国の大名に大型の軍船の保有が禁じられました。「大船建造の禁」といい、500石積み以上の軍船と商船を没収し、水軍力を制限したもので、軍船に転用可能な商船も対象としていました。ただ、500石以上の船格であっても外洋航行を前提とする朱印船は除外されていました。

一方、江戸幕府は500石積より上の軍船保有を禁じたのと同年に、超大型の安宅船を建造しています。長さ三十尋(約55m)で3重の櫓をあげ、200挺の大櫓を水夫400人で漕ぐという史上最大の安宅船で、その名も「安宅丸」と命名されました。ただ、この安宅丸は、伝統的な和船構造ではなく竜骨を持つ和洋折衷船であり、典型的な安宅船ではなかったといわれています。

建造を命じたのは徳川秀忠であり、その後に将軍職を襲った家光によって絢爛豪華な装飾が付けられたといいます。その巨大さから「日本一の御舟」などとよばれ、江戸の名物の一つでもありました。外板の厚みは1尺(約30cm)もあり、当時の関船を主力とした他の大名の水軍力では破壊は不可能であり、さらに船体・上構すべてに銅板を張っていたため、防火・船喰虫対策は完璧でした。

しかし、あまりに巨大であったため大艪100挺でも推進力が不足であり、実用性がなく将軍の権威を示す以外にはほとんど機能せず、また維持費用も巨額にのぼりました。巨体のために航行に困難が伴い、このため隅田川の河口にほとんど係留されたまま長年留め置かれたままでした。その後、奢侈引き締め政策の影響もあり、1682年(天和2年)に解体され、和船最後の巨船となりました。

安宅船の消滅以降、幕府や諸藩が巡行や参勤交代に使う御座船を始めとした、関船主力の時代が幕末まで続きます。そして幕末には西洋式海軍の建設が図られ、在来型の軍船の時代は終わり、安宅船は再び世に出ることはありませんでした。しかし、安宅船の建造で培われた「頑丈な船を創る」という技術は後世に引き継がれることになります。

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その後、幕末の動乱を経て、明治を迎える中、島国であった日本は古くから海外との交流を展開し、異国の文化を輸入する中で、建造技術においても、これを海外から取り入れていく方針に転じます。

近世においては鎖国して外界との接触を避けてきた日本にとって1800年代前後から黒船来航など海外の国々が日本に忍び寄る危機に直面したことが、その転換のきっかけでした。尊皇攘夷を唱える水戸藩が海防を強く主張、水戸藩主徳川斉昭は腹心の安島帯刀に日本初の洋式軍艦「旭日丸」を建造させ幕府に献上しました。しかし、この旭日丸は進水する時に座礁するなど、当時の日本の西洋船舶建造技術はまだ不十分でした。

明治以降の日本は明治政府によって富国強兵、脱亜入欧政策の下、文化的、経済的に一等国となるよう近代化への道を歩んでいきました。小さな国土の島国で地下資源の乏しい日本が貿易による経済とエネルギー供給を支えたのは海運業であり造船でした。

当時、政商として栄えた三井財閥や三菱財閥などの大企業が、国策事業として支援を受けながら海運と造船業界を成長させました。この時代は、西欧列強による植民地拡大政策の脅威と帝国主義の時代であったため、国防上、海軍の役割は一層重要となりました。造船業界は海運業だけでなく軍艦建造でも大きな需要を得るようになり、その後、日本はさらに艦船建造による軍備増強の道を歩み、太平洋戦争に至るまでそうした時代が続きました。

しかし、太平洋戦争で日本は保有船舶の大半を喪失しました。ある統計によれば、日本が喪失した艦船は、軍船・商船も含め、100トン以上のものだけでも2800隻にも上ったといわれます。ところが、戦後、傾斜生産政策や朝鮮戦争での特需によって早期に造船業は回復するとともに海運業とともに成長路線に戻り、戦後日本の経済成長を支えました。

日本の高度経済成長時代には「造船業は日本のお家芸」とまで言われましたが、これは、安宅船の建造以来、500年以上にわたって蓄積された造船技術が一気に開花した時代、といっても過言ではないでしょう。

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しかし、オイルショック以降、造船業は伸び悩み、その間に中韓の2か国が力をつけてきました。2015年現在、世界シェアは中国が40%、日本が30%、韓国が20%程度と東アジア3か国で90%を占めているため、「三国志」と形容されています。

とはいえ、低迷していた日本の造船業も2000年前後からの世界貿易増加に伴う船舶不足により息を吹き返し、高付加価値の船舶を中心に受注が増えています。

ただし、同時期に始まった鋼材の高騰により高騰以前の受注案件が軒並み利益を確保できない状況であること、典型的な労働集約型産業であるため、「2007年問題(団塊の世代の一斉退職にともない、発生が予想された問題)」による優秀な職工の大量退職への対応も迫られるなど、造船各社とも苦しい経営を強いられています。

また、2000年代後半のリーマン・ショック等を契機とする世界的な景気減退と急激な円高ドル安の進行は、さらに日本の造船業界の競争力を低下させ、2014年には受注残すら無くなるのではないかとする「2014年問題」も懸念されることとなりました。これは、2010年代初頭、世界の造船会社の受注残が極端に減少し、2014年頃には新たに造る船舶がなくなるのではないかとする危機感を問題視したものです。

中国や韓国では徐々に中・小造船会社の淘汰が始まり、メーカー間の価格競争も厳しく、利益率の大きい大型案件を受注しても、後日、他社が行った受注条件に応じて、追加値引きを余儀なくされる例も見られるようになりました。

中国では、半数近くの会社が2014年問題を乗り越えられないとする推測があります。2014年からは既に3年が経っていますが、現在の中国の造船業は「受注の崖」から抜け出せず中国造船所の75%が閉鎖しているといいます。

一方、日本の造船業界は、合併などで生き残りを図るようになったほか、2012年末に成立した第2次安倍内閣がアベノミクスを提唱すると70円台だった円相場が100円台になるなどの追い風を受け、2013年後半には各社が徐々に競争力を取り戻し、新規受注に成功するなどの動きが見られるようになりました。韓国の造船業は2010年代以降、構造不況に陥っているため、相対的に日本の造船業の復権が進んでいます。

今年の1月、急激な「受注絶壁」で数年来危機を持ちこたえてきた韓国造船業が、ついに受注残高で日本に抜かれる状況に至っており、1999年末に日本を抜いて世界首位に上がって以来、17年ぶりに“「造船王国」の地位から陥落しました。

しかし、日本も安閑としてはいられません。今後、島国日本の造船業がどうなっていくかは、コスト削減もさることながら、安宅船以来培ってきた造船技術に加え、いかに新たな技術を加えて他国の造船業立ち向かっていけるか、にかかっています。

そんな中、スポーツとしての造船技術も日本の技術は飛躍的に進歩しつつあります。1851年より現在まで続く国際ヨットレース、アメリカズカップで日本は、これまで蓄積してきた造船技術を駆使したヨットを投入し、1992年・1995年・2000年の3回に渡り「ニッポン・チャレンジ」がアメリカズカップに挑んできました。

いずれも準決勝にて敗退(3回とも4位)していますが、今年、6月初めから英領バミューダ諸島で始まった、第35回アメリカスカップでは、ソフトバンクが関西ヨットクラブと連携し「ソフトバンク・チーム・ジャパン」として久々に挑戦しました。

残念ながら今回も日本は敗退したようですが、そのレースのために建造された、新しいレース艇は、全長50フィート(約15m)と、これまでよりもサイズが大きくなり、性能面なども桁違いです。 スピードは最高で時速80kmにもなると言われる、このカタマラン型(双胴)のこのレース艇は、まさに高い技術力で進化する現代日本の造船技術を体現するものといわれます。

造船工学・建築工学・材料工学・流体力学・航空力学・気象学など、各国の最先端技術や軍事からの応用技術が投入されるなど、参加国の威信を賭けた国別対抗レースとしての一面も持ち合わせているこのアメリカズ・カップ。

その最終決戦は、アメリカとニュージーランドの間で戦われます。

ディフェンダー・アメリカ オラクルチーム VS チャレンジャー・プレイオフで挑戦権を得た、ニュージーランドのチーム “Emirates Team New Zealand” の間の決勝戦はもうすぐ火ぶたが切って落とされます。

テレビでの放映予定はないようです。ご興味のある方は、ネットでどうぞ。

2017年6月17日、18日、24日~27日

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次郎長と鉄舟

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1955年8月3日、集英社が、少女漫画雑誌「りぼん」を創刊しました。

「少女ブック」の妹雑誌および幼女向け総合月刊誌として創刊されたもので、その掲載内容は当初、グラビア・おしゃれや習い事についての読み物・少女漫画などで、定価は100円でした。

1958年ごろから、少女漫画の数が増えて純粋に少女漫画誌と呼べる内容になり、1960年代には「ドンキッコ」、「魔法使いサリー」、「秘密のアッコちゃん」がアニメ化され、テレビで放映されて大人気になりました。

また、1970年代末期から1980年代半ばにかけて、マンガ評論流行の影響もあり、本誌の特徴的な作風を「おとめちっく」と呼ぶ一種のブームが起こりました。当時の主要作家の1人、田渕由美子が早稲田大学に在学したことから、「早大おとめちっくくらぶ」をはじめ、東大ほか多数の高校・大学に同種のサークルが男子学生を中心に組織されました。

また、1970年代から付録の多様化が行われ、特に1975年以降は集英社専属のおとめちっく作家による付録が毎号付属し、またその付録自体のファンシーグッズ(装飾品や装身具)としてのセンスのよさが、この時期の高年齢層の読者の支持を集めました。

1977年には小学館から「ちゃお」が創刊されて人気を博し、「りぼん」、「なかよし」とともに、三代少女漫画雑誌(月刊誌)といわれるようになりました。「なかよし」は、りぼんよりも1年早い1954年に講談社が創刊したものです。

講談社はその後1962年にも週刊誌、「少女フレンド」を創刊して好評を博しましたが、これに続いて翌年の1963年には集英社も「マーガレット」を創刊してライバル誌となり、のちに小学館が1970年に「少女コミック」でこの市場に参入し、週刊誌の部門でも、この3社が競合するようになりました。

月刊誌、「りぼん」は1980年代後半から1990年代半ばにかけて部数が上昇し始め、1994年には少女漫画誌では史上最高の部数となる255万部を発行しました。しかし、その年から部数は徐々に減少し、2002年には発行部数で「ちゃお」に抜かれてしまいます。

2010年10月から2011年9月までの平均発行部数は20.9万部と、最盛期に比較して10分の1以下の数字にまで下がりましたが、今度は「なかよし」の発行部数が低下したため、現在では三大小中学生向け月刊誌中の最下位から脱しました。今月、創刊60周年を迎えることになります。

りぼんからアニメ化されたものは、上述の魔法使いサリーやひみつのアッ子ちゃんがありますが、比較的最近のものでは、1990年に「ちびまる子ちゃん」があり、フジテレビ系列ほか放映されて、国民的大ヒットとなりました。

本作品は、1974~5年の昭和50年代初期に、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の入江地区で少女時代を過ごした、作者の「さくらももこ」の投影である小学校3年生の「ちびまる子ちゃん」が、家族、友達とともに繰り広げる日常生活を描いた、笑いあり、涙ありのコメディです。

初期は作者自身が体験した小学生時代の実話をもとにしたエッセイ風コミックでしたが、長期連載になるに従って作風が変化し、ほぼフィクションのみの話になっていきます。それに伴い、登場キャラクターも初期は比較的リアルな人物描写だったものが、次第にマンガチックにデフォルメして描かれるようになりました。

もともと実話がベースだったため、ギャグ漫画として独白風のツッコミが入っていることが本作の特徴の一つです。時に自虐的でもあります。さくらももこは、本名(旧姓)、三浦美紀といい、1965年5月8日生まれ。

清水市立入江小学校、同・第八中学校、静岡県立清水西高等学校卒業後、静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科在学中に「りぼんオリジナル」冬の号(集英社)にて「教えてやるんだありがたく思え!(教師をテーマとしたオムニバス作品。「ちびまる子ちゃん」第1巻に掲載)でデビュー。

英和女学院短大卒業後、上京し「ぎょうせいに」入社しましたが、勤務中に居眠りするなどして上司から「会社を取るか漫画を取るかどちらか選べ」と迫られ「漫画家として生活していく」と回答したため、同年5月末にたった2か月の勤務で退職。同年8月、「りぼん」で「ちびまる子ちゃん」の連載開始。

漫画家のほかにも、エッセイストとしても活躍しており、独特の視点と語り口で人気です。初期エッセイ集三部作「もものかんづめ」「さるのこしかけ」「たいのおかしら」はいずれもミリオンセラーを記録しました。

子供の頃、「青島幸男みたいに偉くなりたい。歌を作りたい」と言ったといい、これに対して父のヒロシは、「青島幸男は国会議員だ。無理に決まっている」と一蹴しました。

その青島を目標としていたさくらが大人になり、漫画ちびまる子ちゃんを描くようになったわけですが、この作品の中でも、主人公であるまる子が青島の作詞したコミックソングに感銘を受け、「大人になったら青島幸男みたいな曲を作る!」と叫ぶシーンが出てきます。

そしてその夢を忘れなかったまる子=さくらが、のちに念願かなって作詞した曲が、大ヒット曲「おどるポンポコリン(BBキング)」だったといいます。

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このさくらが育った清水市は、静岡県中部にあります。現在の静岡市清水区の大半で、旧蒲原町および旧由比町を除いた部分に当たります。2003年4月の合体合併により、現在の静岡市の一部となりました。

日本平の東麓に位置し、古くから富士山を望む湊町です。天然の良港である折戸湾を持ち、古くから海運中継地として栄えてきました。東海道の宿場町でもありますが、近隣には、江尻・興津・由比・蒲原などの宿場もあります。

清水湊はこれらの中でも中心的な宿場であり、西国の赤穂の塩等を江戸へ送る中継基地としての役割を担うと共に、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地でもありました。

また、駿河をはじめ甲斐、信濃の江戸幕府領地からの年貢が富士川沿いの鰍沢河岸、岩淵河岸に集められ、ここから清水湊に送られ、大型船に積み替えられて江戸へ回送されていました。明治以降も続いて発展し、1899年には貿易港の指定を受ける一方、軍事拠点としても発展し、日本軽金属、東亜燃料、日立製作所等々の軍事工場が次々に進出しました。

1945年7月7日には、米軍による清水大空襲を受けました。同月30~31にも米軍駆逐艦からの艦砲射撃を受けて大きな被害を受け、死者・行方不明360名、重軽傷者445名、家屋被害8689棟に及びました。

しかし戦後は、戦時中に臨海部にあった大企業の技術を引き継ぐかたちで民生品製造工場が作られ、昭和20~30年代にはさらに各種工場が建設され、清水の工業生産高は一時県下一を誇りました。しかし、その後のサービス産業へのシフトなどの産業構造の変化によりその地位を失いました。現在の工業生産高は一時の底を脱し微増に転じているようです。

現在の清水の産業といえばやはり貿易であり、主要輸出品としては二輪自動車・自動車部品・機械類などのが多く、ボーキサイト(アルミの原鉱)・液化天然ガス等の輸入港として国際貿易港としては中枢国際港湾に次ぐ位置を占めます。また、清水港はマグロの水揚げ量日本一で知られています。

このほか、あまり知られていませんが、バラの生産量が多く、かつては日本一であった時期もあります。県内各都市がそうであるように、みかんや緑茶の生産も多いほうですが、漁業ではマグロ以外では駿河湾で獲れるシラスや桜えびなどの海産物が有名です。

江戸初期に、幕府は大坂や江戸の橋や河川、道路を整備して都市機能を持たせるともに、清水湊のような直轄港を整備して国内貿易の振興を図る政策を打ち出しました。が、やはりトップダウンだけでは無理があり、多くの牢人に労務管理として口入業を行わせました。

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このため清水湊のような大きな港町には多くの荷役人が集まってきましたが、これらの人夫の荷役作業の口入れなどで権力を高め、地元に君臨する任侠人を容認するような土壌が江戸時代を通じて育ちました。そうした「親分」の中でも、とくに幕末に力を伸ばしたのが、かの有名な清水次郎長です。

「海道一の親分」ともいわれ、大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされます。

文政3年(1820年)、清水町美濃輪町(現清水区美濃町)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれました。幼少時の名は長五郎といい、母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主、山本次郎八に実子がなかったため、甲田屋の養子となりました。

その幼少時代の仲間に「長」という子供がいたために、周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、略して次郎長と呼ぶようになり、自らも長じてからも次郎長で通すようになりました。

幕末のころの清水湊というのは、上述のとおり年貢米を江戸へ輸送する「廻米」でもっており、湊の廻船業者の多くは口銭徴収を副業とする口入屋でもありました。が、次郎長が養子にもらわれた山本家は、清水湊の中でも新開地に属する美濃輪町にあり、ここには牢人出の多い廻船業者と一線を画する新々の海運業者も多く、全うな商売をしていました。

養父の次郎八もそうでしたが、天保6年(1835年)に死去し、このときまだ若干15歳だった次郎吉が甲田屋の主人となりました。ところが次郎長は、このころからもう自在奔放なところがあり、妻帯して家業に従事する一方で、博奕に手を出し、頻繁に喧嘩を繰り返すようになりました。

長じてからもその素行は直らず、そして23歳になった年、喧嘩の果てについに人を斬って死なせてしまいます。このとき次郎長は、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、弟分であった江尻大熊らとともに出奔し、無宿人となりました。そして、諸国を旅して修行を積み、交際を広げ成長した次郎長が清水湊に帰ってきたのは、27歳のときでした。

弘化4年(1847年)のことであり、このとき江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、ここに一家を構えました。このころには子分も何人かでき、清水一家の名前も少しは売れるようになっていましたが、長く清水を不在にしていたためにここを牛耳る博徒の勢力図も変わっており、彼等との抗争が次第に激しくなっていきます。

そんな中、またまた賭場でモメて人を斬り、逃亡の旅に出た次郎長は、今度はその後およそ10年に渡って地方を放浪します。そして、38歳になったころ、清水に残していた妻のおちょうが病気で亡くなったという報に接しました。

彼女の病死の知らせに、慌てて清水へ帰る途中、尾張知多亀崎乙川において彼を捕まえようとした十手持ちの保下田(ほげた)の久六を斬りました。その久六を斬った刀を、次郎長の名代で、四国の金毘羅さんに奉納に行ったのが、子分の森の石松でした。

無事に刀を奉納して帰る途中、石松は近江国の親分から、おちょうさんの香典にと渡された25両の大金を預かります。そして浜松まで戻ってきましたが、このとき石松が大金を持っている事を知った、戸田吉兵衛という博徒がその金を奪って、石松を殺してしまいます。

無論、次郎長はすぐに報復し、吉兵衛を斬りますが、さらにこの年には、菊川において下田金平という別の博徒と手打ちを行う、と言った具合で、これら一連の出来事は、すべて次郎長が清水に38歳で戻って3~4年のうちに起こっています。彼にとってはその生涯で一番激しい起伏のあった一時期です。

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さらに43歳になった文久4年(1864年)には豊川において、甲斐の「黒駒勝蔵」と激しいい戦いを演じました。のちに次郎長最大のライバルと言われる男です。

勝蔵は、甲斐国黒駒(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の名主の次男として生まれた男で、25歳で渡世人となり、隣村の竹居村の中村安五郎(竹居安五郎)の子分となりました。40歳のとき、安五郎が役人に捕縛され獄死したあとは、その手下を黒駒一家としてまとめ、黒駒を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせるようになります。

このころから勝蔵ら甲州博徒は、富士川舟運の権益を巡って、清水次郎長と対立するようになり、勝蔵は次郎長の勢力圏である駿河国、岩淵河岸や興津宿を襲撃しました。これを受けて勃発したのが、上述の抗争であり、文久4年(1864年)5月に起こりました。

博徒抗争史上かつてない殺戮戦だったといわれており、黒駒の勝蔵が三河の平井村(現・豊川市平井町)の雲風亀吉(平井亀吉)のところに滞在していること知った次郎長は、大政以下の中心的な子分を勝蔵、亀吉襲撃に送り込みました。

朝早く、豊川河口(現在の豊橋市梅藪町)の前芝海岸に舟で乗り付けた次郎長の襲撃隊は亀吉の自宅へ向かい、勝蔵たちが昼間から酒盛りをしている最中を襲いました。油断しているところを襲われた亀吉と子分たちは必死で応戦し、親分の勝蔵と亀吉を逃がすことはできましたが、子分5人は全員が討ち死にしました。

この時、酒盛りに一緒にいた亀吉の妾も一緒に殺されており、襲われた亀吉の自宅の座敷は、血だまりで染まっていたと言われています。勝蔵、亀吉の殺害には失敗しましたが、この一件により、次郎長一家の名前は東海道に鳴り響きました。

勝蔵はその後の幕末の動乱期の慶応4年(1868年)に黒駒一家を解散し、「小宮山勝蔵」の変名を用いて、「赤報隊」に入隊し、官軍として戦っています。赤報隊は、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする東山道鎮撫のための一部隊です。

勝蔵はここに入って戊辰戦争に参加しましたが、この赤報隊というのは勝蔵のような男を受け入れたことからもわかるように博徒や牢人を集めた烏合集団でした。旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で3000両を強奪するなど、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面がありました。

このため、のちに「偽官軍」として新政府軍に処罰されるところとなり、このとき隊長であった元・下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士、相楽総三は処刑され、赤報隊は解散となりました。この後、勝蔵は京都で官軍の一部隊、徴兵七番隊(のち第一遊撃隊)に入隊し、「池田勝馬」の変名を名乗り、駿府、江戸、仙台と転戦しました。

戊辰戦争終結後、徴兵七番隊が解散されると明治3年(1870年)甲斐へ戻り、甲斐の黒川金山の採掘に携わりました。しかし、翌年脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年10月14日に山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首されました。

一説によれば、勝蔵は自分の功績に対して新政府に恩賞を求めたといい、これに対して新政府としては博徒を官職につける訳にもいかないので、過去の悪事を理由に勝蔵を捕え、処刑したといわれています。このように、次郎長の最大のライバルとされながらも、日ごろの素行の悪さや末路の悲惨さなどから、後世の評判は何かとかんばしくありません。

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一方ライバルの次郎長は、勝蔵が赤報隊に身を投じたのと同じ慶応4年(1868年)に、東征大総督府の駿府町差配役から清水湊の警固役を任命され、この役を7月まで務めました。

同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊しました。ところが、その修理が遅れたために、新政府海軍に追いつかれて交戦に発展し、このとき見張りのため船に残っていた船員全員が死亡して海に放り込まれました。

彼等の遺体は、逆賊として清水港内に放置されていましたが、市民の誰もが新政府の威光を恐れて弔おうとしません。このとき、次郎長は小船を出して彼等を収容し、現在の清水港マリンパーク裏にあった向島の砂浜に埋葬して、ここに「壮士墓」を建立しました。

死体の収容作業を見ていた新政府軍は、その行為を咎めましたが、次郎長は一喝、「死者に官軍も賊軍もない」と言って突っぱねたといいます。この話を、新政府において後に静岡藩大参事となる、旧幕臣の山岡鉄舟がのちに聞き、次郎長の義侠心に深く感じ入ったといわれており、これが機縁となって次郎長は山岡と深い付き合いをするようになります。

以後、明治時代以降の次郎長といえば、数々の慈善事業をした篤志家として知られるようになります。1871年(明治4年)には旧久能山東照宮の神領である山林開墾を企図しますが、このときは地元の大谷村の村民の抵抗に遭い断念しています。が、それに懲りず、1874年(明治7年)には本格的に富士山南麓の開墾事業に着手。

このころまでには完全に博打を止めていた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目し、蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立しました。

このほかにも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援しました。また、明治に入ってから駿府では旧幕臣が新政府に対する恨みを込めてテロ行為を行う、といった事件が相次ぎましたが、次郎長は地元で血を流させないため双方の調整役を買ったりしています。

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ところが、明治17年(1884年)に、突如次郎長は「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕され、同年4月には懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄(静岡市葵区井宮町)に服役しました。しかし、このときの静岡県令(のちの知事)で、旧幕臣の関口隆吉など尽力により、翌年には刑期の満了を待たずに仮釈放になりました。

その後も次郎長の慈善事業は続き、明治19年(1886年)には、済衆医院という病院を土佐出身の医師らの援助で清水に開設しているほか、富士山南麓開墾官有地払い下げを受け、その開発を横浜の実業家、高島嘉右衛門に依頼しています。

1888年(明治21年)7月19日には深い親交のあった山岡鉄舟が死去し、谷中全生庵で行われた葬儀には清水一家で参列しています。が、自身もその5年後の明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。

戒名は碩量軒雄山義海居士。その墓は、清水区南岡町の梅蔭禅寺にあり、ここには妻のおちょう、大政、小政の墓もあり、次郎長の銅像もつくられています。ちなみにこのおちょうは二代目であり、幕末の動乱の中で精鋭隊(慶喜護衛隊、後の新番組)の隊士に殺害されています。

この新番組の隊長格だったのが山岡鉄舟であり、次郎長と親交があった山岡が統じる隊のメンバーがなぜ次郎長の妻を殺害したのかは謎ですが、おそらくは幕臣である山岡と博徒の次郎長が親しくするのをよく思わない隊士も多かったのではないかと推察されます。

この山岡と次郎長の関係ですが、駿州政財界の御意見番といわれ、元県議会議長を務めた村本喜代作は、1956年に遠州新聞社から「遠州侠客伝」という次郎長の伝記を出しており、この中で、次郎長は鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろうと書いています。

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山岡鉄舟は、天保7年(1836年)、江戸の幕臣の絵に生まれ、明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任しました。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称され、人物として評価の高かった人です。剣・禅・書の達人としても知られ、身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格で、家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学んで武術に天賦の才能を示し、維新後、一刀正伝無刀流の開祖となりました。

幕末には、清河八郎とともに新選組・新徴組の前身にあたる浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現静岡市)で単身で西郷と面会。この時鉄舟は、同じ幕臣の勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼みました。

この際、西郷から5つの条件を提示されますが、それは、江戸城を明け渡す、城中の兵を向島に移す、兵器をすべて差し出す、軍艦をすべて引き渡す、将軍慶喜は備前藩にあずける、という厳しいものでした。鉄舟はそのうちの4つの条件を飲みましたが、このうち最後の条件だけを拒んだところ、西郷はこれは朝命であると凄みました。

これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論したところ、西郷はこの論理をもっともだとして認め、これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれるところとなりました。

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下り、静岡藩藩政補翼となりました。このとき知り合ったのが清水次郎長であり、咸臨丸の一件を聞いてからは意気投合するようになり、彼と共同で幕臣の救済事業である牧之原開墾などにも取り組みました。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。その侍従時代には、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られています。

宮内大丞、宮内少輔を歴任しましたが、明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌でした。享年53。墓は、東京谷中の臨済宗国泰寺派の寺院、全生庵にあります。没後に勲二等旭日重光章を追贈されました。

その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させました。明治政府への致仕後、勲三等に叙せられましたが、これを拒否しており、このときのエピソードが残っています。

勲章を持参した井上馨に対し、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったそうです。

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第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で、東郷茂徳と広田弘毅のアメリカ側弁護人を務めた「ジョージ山岡」は曾孫にあたります。

ジョージは、静岡県出身の父・鈴木音高のもと、5男1女の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。父の音高は、日本では自由民権運動の活動家の中でも過激派として知られており、静岡事件では中心人物として無期懲役を宣告され、北海道で10年間服役した後、1897年にアメリカへ渡ったという経歴があります。

この静岡事件というのは、自由民権運動の名のもとに、明治政府を顛覆しようとする旧幕臣らが起こした事件です。中心人物は、山岡音高と、中野次郎三郎でした。中野はもと丹波亀岡藩(京都府)の藩士で、明治15年静岡の遠陽自由党の常議員となりました。岳南自由党の党員であった山岡音高とは自由民権運動を通じて知り合い、事に及びました。

彼等ははじめ、容易に藩閥政府を顛覆し得ると楽観していましたが、が、各地での試みが失敗するのを見て、挙兵では目的達成は困難であると考えるようになります。このため、少数の者による大臣などの要人の暗殺によって、その目的を実現しようということになりましたが、そのためには先立つものが必要だということになりました。

このため1886年(明治19年)、浜松の金指町にあった銀行に押し入り、ここから逃げようとしたところ、追跡してきた警察の剣道師範を待ち伏せのうえ殺害してしまいます。一味はその犯行が発覚しないのをいいことに、さらに翌年7月に箱根で行われる予定の箱根離宮落成式で大臣を殺害し、天皇を擁立しようという計画を立てました。

爆弾まで作って準備したといいますが、官と通じていた仲間の密告によって事前に発覚、首謀者善意が捕縛されました。罪名は主として強盗であり、1887年(明治20年)に判決言い渡しがあり、首魁2人は徒刑14年、幹部12人は徒刑12年、ほか11人は懲役または禁錮に処せられました。徒刑とは、男は島流し+労役、女は内地で労役に就かせたものです。

しかし、10年後の1897年(明治30年)、英照皇太后死去に際しての大赦減刑に浴し、生存者は大部分、出獄することができ、その後、山岡は単身、アメリカ、南カリフォルニアに移民として渡りました。

1938年に発刊された「在米静岡県人寫真帖」には、初期の移民が紹介されており、この中に山岡音高は「1897年渡米」とされ、ほかに9名ほどの日本人名が記載されています。男性名ばかりですが、多分ほかに女性もいたことでしょう。

1898年(明治31年)には、山岡はシアトルへ移住し、ここで友人二人と合資会社を設立して、日本品の貿易の傍ら鉄道人夫の請負を始めて、成功しました。この当時は、日本人蔑視がはなはだしかったことから、山岡もともに渡米した女性と結婚したと思われます。

そして、1903年(明治36年)にジョージが生まれ、のちにワシントン大学へ進学しました。大学では、法律学を専攻する傍ら、日本人学生会の理事を務めるなどの英才でした。1924年にはインディアナポリスで開催された世界学生大会に、ワシントン大学から選ばれた日系人学生2人のうちの1人として参加しています。

この頃から当時の二世の中でも、将来のシアトル日系人社会における指導者の一人として見なされるようになりましたが、周囲の期待とは裏腹に、山岡はワシントン大学卒業と同時に、首都ワシントンD.C.にあるジョージタウン大学ロー・スクールに進学します。

在学中には、ジョージタウン・ロー・レビューのビジネス・マネージャーを務め、1928年に法務博士号を取得。卒業後は同年から翌1929年まで在米日本総領事館顧問、1929年から1930年にかけてはロンドン海軍軍縮会議日本代表団顧問を務めたほか、1931年にはニューヨーク州で日系人として初めて弁護士登録を受けました。

同年、ニューヨークの法律事務所でアソシエイトとしての活動を開始し、1940年には同事務所のパートナーに昇格ました。東部に移住した結果として、山岡は開戦後も、日系人の強制収容に巻き込まれることもなく、法律家としての活動を続けることができました。

戦後に東京裁判が行われた際は、日英両語に堪能というだけでなく、その能力と識見の高さを評価され、A級戦犯の弁護人として日本に赴くこととなり、ジョージ・F・ブルーエットやウィリアム・ローガンなどと並んで弁護団の要としての役割を果たしました。

帰国後も、弁護士として日米関係の構築に努め続け、1968年に日本政府から瑞宝章を授与されました。1981年11月19日にニューヨークのマンハッタンでタクシーに乗り込もうとした途中、その場で心臓発作により78歳で死去しました。

東京裁判においては、東郷茂徳と広田弘毅の弁護人を務めました。東郷茂徳は、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。広田弘毅は、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となりました。

日本が無条件降伏した日が近づいています。今年は戦後70年。暑い一日になりそうです。

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