シヴァと大黒

blog170602-0245

6月になりました。

新緑は早、深緑になりつつあり、その色が伊豆の野山のほぼ全部に定着するようになるころには、そろそろ雨の季節がやってきます。

東海地方の梅雨入りの平年値は、6月8日だそうで、昨年は少し早く6月4日でした。長期予報を見ると、来週末あたりが雨になっており、おそらく今年の梅雨入りは平年並みなのではないでしょうか。

この、梅雨をもたらす、梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つだそうです。モンスーン(monsoon)とは、ある地域で、一定の方角への風がよく吹く傾向があるときの風、「卓越風」のことを指します。季節によってその卓越風の向きは変わります。このため、アラビア語では「季節」を示す(マウスィムmawsim)と呼び、これがこの言葉の語源といわれます。

日本では夏季には太平洋高気圧(小笠原気団)から吹き出す南東風が卓越し、モンスーンとなります。これが、中国北部・モンゴルから満州にかけて発生する、暖かく乾燥した大陸性の気団、揚子江気団や、オホーツク海にある、冷たく湿った海洋性の気団、 オホーツク海気団と干渉しあって梅雨前線ができるわけです。

日本を含む南アジアや東南アジアで発生するモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因です。この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、このため、世界最多の年間降水量を誇ります。広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれ、同時にこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアといいます。

気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島、そして日本列島の大部分もモンスーン・アジアに含まれます。

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このモンスーン・アジアにおいて、世界最多の年間降水量を有する場所は、インドのチェラプンジです。インドの東部、メーガーラヤ州にある都市で、北西部にはネパール、東にはミャンマーがあり、それぞれの国境まではわずか200kmほど、という位置関係です。

標高1,484mの山地に位置し、ベンガル湾からの吹き上げる湿気の影響が非常に大きく、これが多雨の原因です。1860年8月から1861年7月の1年間には26,461mmという世界最高の年間降水量を記録し、長年、年間降水量世界一の記録を保持していました。

しかし、1994年、近隣のマウシンラムにその記録を抜かれました。

マウシンラムは、同じメーガーラヤ州のカーシ山地にある村で、2017年現在も、「世界で最も湿った地」として知られ、ここ約50年間の年平均降水量はおよそ11900mmに達します。ギネスブックによれば、中でも1985年度の降水量は26000mmに達したとされます。

日本で一番雨が多いとされる高知県の年間降水量が3700mm程度ですから、いかにものすごいかわかります。ちなみに、静岡県は9位で、2400mmほど。1985年のマウシンラムの降雨量のわずか10分の1以下です。

加えて、ここの降水量は年較差が比較的少ないのが特徴です。また、極めて霧が多く、晴天を望むことが少ないといいます。年から年中雨、というのは、考えただけでも気が滅入りそうですが、いったいどんなところなのか、想像に絶します。カビ対策はどうしているのでしょうか。

ところで、このマウシンラムと多雨度に関してライバル関係にあるチェラプンジは、東に直線距離でわずか9~-16kmの位置関係です。従って、その降雨量に関してはおそらく目糞鼻糞です。このためマウシンラムが1994年に世界で最も降水量が多い地として認定された際、ライバルのチェラプンジの住民が強く憤慨したといいます。

このマウシンラムには、「マウシンビン」とよばれる洞窟が存在します。マウシンビンにはシヴァ神の宝塔を象ったかのような巨大な石筍(せきじゅん)や巨大な岩塔が立ち並び、シンパー・ロック(Symper Rock)とよばれています。

石筍とは、洞窟の天井の水滴から析出した物質が床面に蓄積し、たけのこ状に伸びた洞窟生成物です。これに対して、洞窟の天井面から垂れ下がる形態のものが鍾乳石です。鍾乳石は、広義ではこの石筍や石柱などを含む洞窟生成物の総称としても使用されています。

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シヴァは、サンスクリット語で「吉祥者」の意味です。ヒンドゥー教の神であり、現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人。そしてヒンドゥー教の一派、シヴァ派ではとくに最高神に位置付けられています。

シヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマンであるといわれます。ブラフマン(brahman)とは、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。一方、アートマンは、最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源としており、意識の最も深い内側にある個の根源を意味します。「真我」とも訳されます。

真我は、スピリチュアル的には、「自我」、「魂」であり、言い換えれば「本当の自分」です。自己の中心であるアートマンと宇宙そのものであるブラフマンとは、同一であるとされており、つまり、宇宙と真我は表裏一体、ひとつのもの、ということです。

これを古代インドの思想では梵我一如(ぼんがいちにょ)といいます。アートマンとブラフマンが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとするのが梵我一如であり、インド哲学の聖典、ヴェーダの究極の悟りとされます。

ヴェーダ(Veda)は、日本語では「梵」と書き、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称で、「知識」の意でもあります。

こうした流れから、すなわち「シヴァ」とは全ての中の全て、創造神、維持神、破壊神、啓示を与える者です。全てを覆い隠すものだと信じられており、とくにシヴァ派にとってシヴァは単なる創造者ではなく、彼(彼女)自身も彼(彼女)の作品だといいます。

シヴァは全てであり、普遍的な存在である… というのですが、ここまでくると何やらわけがわからなくなってきそうです。この世、いなや宇宙に広がり、私たちの体をも突き抜けるという、ダークマターのようなもの、というのが現代的な解釈かもしれません。こちらも物理学が専門でない私にはわけのわからないものですが…

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ただ、そうした説明は一般人にもわかりかねます。このため、古来から数多くのシヴァ像が形作られてきました。偶像上のシヴァの特徴としては、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)、などなどがあります。

また、シヴァは通常「リンガ」という形に象徴化され信仰されることも多いようです。リンガは、一般に男性の性器(男根)を指すサンスクリット語で、本来は「シンボル」の意味を持ちます。

特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されています。リンガ像の原型が、インダス文明にあるという説もあります。が、この当時の遺跡から発掘されたものが性器崇拝に使われたかどうかは判然としません。ただ、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられているようです。

こうした性器崇拝に関する記述は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩「マハーバーラタ」にも数多くみられます。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、そこには豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されています。

後世にシヴァ信仰の広まりとともに、こうしたシヴァの姿がより人々に鮮明に意識されるようになり、大小さまざまなリンガ像が彫像されるようになりました。こうした彫像が多くのヒンドゥー教寺院に祀られるようになったのはこの聖典に拠るところが大きいといわれます。

その説明によれば、通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現されます。人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣があります。

シヴァの主要な性格は、「サマディ」で、これは日本語の「三昧」に相当する言葉です。日本では、「贅沢三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味でよく使われますが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、極度の偏執的な「凝り性」を表しているといいます。

つまり、瞑想だけでなく、エッチに関しても、何に関してもシヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するわけです。こうした究極の凝り性の姿が「リンガ」という偶像に例えられ、これを尽きることなく生命を生み、さらに破壊する女神として崇めるわけです。リンガは、シヴァの原理や現世の本質をあらわしており、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされてきました。

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こうした性器崇拝はかつての日本にもありました。我が国にも「男根崇拝」の時代があり、その名残のひとつが、実は「道祖神」だといいます。ご存知の通り、守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状のものが多いようです。基本的には、厄災の侵入防止を祈願するために村の守り神として崇められてきましたが、実はそのルーツには子孫繁栄の意味も含まれていたといいます。

こうした思想を生み出したインドの特異性は、その思想をさらに発展させ、性魔術である「タントラ思想」を生み出しました。今でもインド北部のカジュラーホーには、ミトゥナという男女の性交場面を現した彫刻がありますが、これはタントラ思想を具現化したものと言われます。

シバ神妃の性力 (śakti)を崇拝し、実践行法に関する規則や、神を祀る次第、具体的方法も含む魔術だそうで、その術は192種もあるとされます。どんな秘術なのか想像しかねますが、セックスにも48手あるそうなので、あるいは似たようなものなのかも(※ここのところ未成年の閲覧不可!!)。

これが元となり、のちに発展したインド密教では、タントラを所作、行、ヨーガの3種に分類しています。また、チベット密教では、タントラを所作、行、ヨーガ、無上ヨーガ、の4種に分けています。

所作とは、現在の日本語では、行い、振る舞い、しわざのことで「一日の所作を日記に記す」という風に使います。が、もともとは仏語で、身・口・意の三業(さんごう)が発動することを意味します。

また、行も、現在の日本語に名残として残っており、こちらも仏教用語です。心の働きが一定の方向に作用していくこと、意志形成力のことであり、例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、といった場合に使われます。

ヨーガは、現在では、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にした、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われていますが、本来のヨーガは、古代インドに発祥した伝統的な宗教的行法です。心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱」に至ろうとするものです。

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こうした現在の日本語にも残るタントラの思想を日本にもたらしたのが、密教です。性魔術であるタントラ思想は、最初インド密教に取り入れられ、さらにはヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教、そして仏教にも取り入れられて共通して存在します。こうしたタントラはさまざまな形で南アジア、カンボジア、ミャンマー、インドネシア、チベット、モンゴル、中国、韓国、そして日本に伝わりました。

タントラ思想と仏教が融合したものが、チベット密教であり、これが中国に伝わり、そしてこれを初めて日本に持ち帰ったのが、弘法大師こと、空海です。空海はこれを真言密教の形にまとめ上げ、これがさらに発展したのが、今なお日本中に数多くの信者のいる真言宗になります。

タントラの心は日本に今なお強く息づいているといえ、このタントラの流れをひく密教の聖地としては、比叡山、高野山などが有名です。このほか、全国の身近にある稲荷もタントラの影響から発生したものといわれています。

このタントラを人類にもたらしたのは、そもそも人知を超えた存在に対する恐れの感情と、自然のメカニズムです。そしてそれを具現化したものがシヴァであったわけですが、このシヴァは実は非常に化身が得意だとされます。このため、多数の別名を持ちますが、その一つが「マハーカーラ」です。「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味します。

マハーは「大いなる」もしくは「偉大なる」、カーラは「黒、暗黒、時間」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れます。シャマシャナという森林に住み、不老長寿の薬をもします。力ずくでも人を救済するとされており、本来は、究極のいいヤツです。

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ここで、「大」と「黒」といえば、日本人ならすぐに思い浮かべるのがあの「大黒天」です。

タントラの流れを引く密教用語が、日本に入ってきた際に翻訳されてできた言葉ですが、大黒天は、大暗黒天とも漢訳され、その名の通り、もともとは青黒い身体に憤怒の形相をした護法善神でした。

例えば、東京の神田明神の大黒天像は怖い顔をしており、福岡県の大宰府市にある観世音寺の大黒天立像も憤怒相です。

この逆に、千葉県市川市にある日蓮宗の寺院、本光院の大黒様は柔和な顔をしていますし、近年お土産物店などで売られている大黒天像なども、ほとんどが優しい顔をしています。

これはなぜか。実は、憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような福徳相で作られるようになったためです。習合(しゅうごう)とはさまざまな宗教の神々や教義などの一部が混同ないしは同一視される現象のことで、神道の神格と仏教の尊格が習合した場合は神仏習合と呼ばれます。

日本での大黒天は、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道の大国主神と習合したといわれており、現在の大黒天が上記の本来の姿と違い柔和な表情を見せているのはこのためです。

しかし、鎌倉期以前は、破壊と豊穣の神として信仰されていました。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となりました。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。

現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表されますが、袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされます。

奈良市の春日大社には平安時代に出雲大社から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があります。

かつて、ここ静岡、熱海の伊豆山神社(伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていたそうです。が、現在では熱海の老舗温泉旅館、古屋旅館に移されているといいます。一泊数万円する高級旅館のようなので、当分、お目にかかることはないでしょうが。

その熱海に近い場所に住む、我々夫婦の結婚記念日もそろそろ近づいてきました。6月20日のそのころにはもう既に梅雨に入っていることでしょう。

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異邦人

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ふもとの温泉場のはずれから、「いろは道」、と地元では呼ばれている、のどかな農道があります。

このあたり一帯は、湯舟集落と言い、つい先週までに終わった田植えによって、見渡す限りが水郷になっています。その瑞々しい風景の真ん中に続く緩い坂道を歩くこと約30分、「奥ノ院」と呼ばれる古刹に辿りつきます。

正覚院ともいい、延暦10年(791)に18才の空海が修業をした場所といわれています。石段を上がったところに駆篭の窟(くりゅうのくつ)という奥行2~3mほどの幅広の洞があり、その上の岩壁からは「阿吽のノ滝」という小さな滝が流れ落ちています。

滝の下には、その飛沫をかぶりながら修行をしたという、弘法大師像が正面にしつらえられており、またその右手には「降魔壇」と呼ばれる石があって、その左右におよそ20体ほどの石仏が置かれています。

窟や滝、石の名前といい、弘法大師の像を中心になにやら巧妙に配置されたように見えるこれらはまるで何かの舞台装置のよう。もともとは背後に流れ落ちる、滝があるだけの山深い場所にすぎなかったでしょうが、土地の人々は、その景勝にインスピレーションを働かせ、ここを弘法大師が修行した場所としてしつらえたのでしょう。

伊豆へ引っ越してきてからここを訪れるのは、5回目くらいになるでしょうか。久々にこの場所を訪れたのは、新緑のころを迎え、さぞかしすがすがしい空気が味わえるだろうと考えたからでもあります。

が、この場所の持つ何やら不思議な魅力に惹かれるから、というのも偽らざるところでもあります。霊感のある私にはわかるのですが、ここを訪れるたび「何か」を感じることも多く、ある種のパワースポットと考えていいでしょう。

連休明けのことでもあり、その雰囲気を独占できると考えたわけでもあるのですが、なるほどこの日は明るい陽光の中、ひとっ子ひとりいない澄んだ空気を存分に味わうことができました。残念ながらこの日は邪念が多かったせいか、上からの宣託らしいものは何ら受け取ることはできませんでしたが…

私だけではなく、多くの人はこの地に何等かの「気配」を感じるようです。この妖しい雰囲気にふさわしい逸話も残っており、その昔、この地に天魔地妖が多く出て住民をも煩わせた、という話もあります。この地で修行を始めた大師様も、あまりにもその妨げになるといいうので、あるとき、妖魔が出たころを見計らい、天空に向かってエイやっ!と大般若経の文字を書いたそうな。

すると、妖魔たちはギャーっと叫びながら、あれよあれよと、この岩谷に封じ込められてしまったとか…

その名残がこの殺伐とした岩屋の風景なのだ、と言われればなんとなくそぅであるような、とすれば、そこここにちらばっている岩々の中には、風魔が閉じ込められたままなのか……

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この弘法大師こと、空海の名を聞いたことがない、という日本人は少ないでしょう。774年に生まれ、835年4月22日に61歳で滅したとされる、平安時代初期の高僧です。真言宗の開祖でもあります。

その名の通り、「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージを持つこの人物、歴史上もっとも有名な僧と言われます。天皇から「大師号」を下賜された僧は全部で27名いるそうですが、一般的に大師といえば、たいていの場合は弘法大師を指すことが多いようです。空海や弘法大師を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いでしょう。

全国津々浦々に逸話が残されており、弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるそうです。無論、わずか60年余りのその生涯で日本中のそれだけ多くの土地に出没して逸話を残すというのは不可能なこと。歴史上の空海の足跡をはるかに越えています。

しかし、そういう伝説が各地に残るということは、それほど人気があったということでしょう。弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたります。が、この中でも特に多いのが「弘法水」に関する伝説であり、日本各地に残されています。

これすなわち、弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった類の伝説であり、この「弘法水」なる伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといいます。ここ修善寺温泉もその一つであって、大師が手に持つ「独鈷(とっこ)」で岩盤を、トンっと突くと、あれよあれよと豊富な湯が湧き出たのが始まりといわれます。

無論そんなわけはありません。いろいろ歴史を調べてみると、空海が創建したとされる修禅寺が建立されたころ、といえば、ちょうど彼は唐への留学から予定より早めの帰国。朝廷からはもっと長い間勉強しろ、と言われていたのを切り上げて、無理やり帰国した時期のようです。その理由の朝廷への申し開きを前に、福岡で謹慎待機をしていた時期であり、こんな伊豆半島の片田舎までわざわざやってきて、修行に励んでいたはずもありません。

とはいえ、それも真実と思えるほどに、中国留学から帰ってきたのち、空海が布教のために活発にあちこちを渡り歩いたのは事実のようです。彼の弟子たちの一人が空海の布教を助けるため、伊豆あたりまでやって来た、といったことももしかしたらあったかもしれません。

上の悪魔退治の話もそのあたりから出てきたことと思われ、まったく弘法大師と関係がない、というのも言い過ぎでしょう。

弘法大師が、いろいろな不思議な術を使ったという話も弟子たちが広めたものでしょう。10人以上もいたといわれる高弟たちが、全国で真言宗を広め歩いている間、伊豆にも足を延ばし、村人に接待されているうちに、出たホラ話に尾ひれがついていった、というのが本当のところでしょう。

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とはいえ、法大師だけでなく、その弟子たちにも不思議な術を使う人がいたといい、こういう魔術を使う人のことを実は、「異邦人」と言ったりもするようです。

「異邦人」といえば、そのむかし、久保田早紀が唄ったエキゾチックな名曲を思い浮かべる人も多いでしょう。が、「邦人」とは日本人という意味ではなく、「邦」とは「くに」と読みます。すなわち「国」のことであり、つまりは日本には住んでいない、異国の人、「異人」という意味になります。

社会集団の成員とは異質なものとして認識された人物であり、異界の住人、異国の人、西洋人、普通でない性質を持つ人であり、また別の意味では、「優れた人」、そして不思議な術を使う人を意味し、共同体の外部から内部へ接触・交渉する形象、とも目されていました。

ちなみに、久保田早紀のこの歌は、中近東のどこかをイメージして作られたと思っている人が多いと思いますが、実は、この曲は西東京の国立駅前の大学通りの景色をイメージして書かれたものだそうです。

「子供たちが空に向かい 両手を広げ …」という歌い出しは、歌詞作りに苦しんでいた久保田さんが、美しい並木通りのある国立駅近くの空き地で遊ぶ子供たちの姿を電車から見、とっさにイメージとして写しとったものだそうです。本人もそんな不思議なイメージの曲が売れるとは思っていなかったのでしょう。のちに「そんな、ふとした瞬間に出来た曲が、ここまでヒットするとは思わなかった。」と語っています。

それはさておき、「異人」とはそもそもは、「まつろわぬもの」、つまり朝敵として排斥された人々のことです。世の中からのけ者にされた人々であり、やがては、乞食、難民、犯罪者、被差別民・障害者なども異人だと決めつけられるようになりました。

さらに時代が下るにつけ、その後は「もののけ」と呼ばれるような霊的な存在こそが異人であると考えられるようになり、これはすなわち、鬼や怨霊のことです。これらの「もののけに」ついて語る、語り部の多くが、「耳なし芳一」で知られるような盲目の障害者であったようです。一般的には「琵琶法師」と呼ばれ、彼らもまた異人と目されていました。

この当時、異人のことを「モノ」と呼び、ここから「物の怪(もののけ)」ということばができました。語り部であるモノが、モノ(まつろわぬもの・もののけ)を語ることが「物語」であり、すなわち、「物語」とは元来、語り部である琵琶法師たち、異人が異人の話を語ることにほかなりません。

この琵琶法師たちが語った異人は、やがては神・来訪神と同一、と考えられるようになっていきます。古い時代の共同体の人々は外との境界を区切り、秩序ある世界像を作ろうとしました。

伝承において異人は、福を運んでくる存在として、異人である神を歓迎する一方で、禍をもたらす存在として排除したり、犠牲に供するようになっていきます。今我々の周囲に数多くある神社は、そうした神に生贄を屠る場所でもあり、通常の生活から隔離する場所でもありました。

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日本だけでなく、こうした「異人」を忌とするイメージは全世界にあり、英語では“Outsider”(アウトサイダー)、“Stranger”(ストレンジャー)などと呼び慣わされています。極端な例では“Alien”(エイリアン)という表現もあり、こちらは宇宙からやってきた異人というわけです。

オーストラリア北方のメラネシアでは、年に一度季節を定めて他界から来訪する、こうした異人、神を祀る祭りを催すそうです。彼らはこのときの仮面仮装の神を「異人」と呼びますが、日本にも似たような風習があり、地方によっては呼び方がかなり異なります。

例として、秋田のナマハゲや沖縄八重山のアカマタ・クロマタなどがそれであり、村落あるいは社会の外部から来訪し幸福をもたらすとされます。日本の場合、山伏をはじめとする遍歴の宗教者などが形を変えたものといわれています。

古代の日本では、このように、特定の時代・地域に限定されない、外部からやってくる人を、「異人」として扱うという概念が生まれました。昔の人々は海の彼方にあると信じられている他界からこれらの人が定期的に来訪すると考え、こうした霊的存在を「まれびと」と呼びました。

「まれびと」とは「客人」を訓読みで読んだもの、という説もあり、本来、神と同義語であり、その神はあちらの世界から来訪するとされます。

時たまにしか来ないため、マレビト(稀人)と書く、という説もあります。時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神であり、民俗学者たちは、こうした呼びならわしの変遷を今日の日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりと考えているようです。

実際、今日でも、外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられます。その理由は経済的、優生学的なものが含まれます。

「優生学」というのは聞きなれないことばでしょうが、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義され、20世紀初頭に大きな支持を集めました。

難しそうですが、難しく考える必要がなく、その最たるものがナチス政権による人種政策です。要は、自分たちの人種だけが優れていると考え、他を排除するための方法論を確立するための学問というわけです。ただ、ここでいう優生学的とは、その逆で、排斥するのではなく、それを自分たちの共同体に取り込もうとするわけです。

他からやってくる異人たちこそ優れた人種と考え、食事だけでなく金品を与え、できるだけ長居をしてもらい、挙句の果ては嫁を持たせて、自分たちの子孫の能力を向上させていこうという試みであり、それこそが自分たちが生き残る術と考えたわけです。で、あるからこそ、来訪者、まれびとを大事にしたわけです。

この風習の根底には、異人を「常世」からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれます。「常世」とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていました。今も集落の中心や神社などに数多く残る、「常夜灯」はこの世とあの世の境の「結界」の証しであり、信仰の対象として設置されたものです。

常夜は、古くは、かくりよ(隠世、幽世)ともいい、永久に変わらない神域です。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされます「永久」を意味し、時代の変遷とともに「常夜」と表記するようになりました。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙したものに、「現世(うつしよ)」があります。

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やがて、農村の住民達は、毎年定期的に、この常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至ります。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになり、現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるといいます。

時代が下がるにつけ、「まれびと」とい言う言葉もその意味も失われていきましたが、異邦人である神が祭場で歓待を受ける、という風習は残りました。やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることとなり、神格化すらされるようになります。

上のメラネシアと同じような風習は秋田や沖縄以外の各地でも残っています。「万葉集」や「常陸国風土記」といった古い書物には、祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されているそうです。

さらに時代が下ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、彼らに対しても神様並の歓待がなされるようになりました。こうしたことから、「遊行者」と呼ばれる存在が社会的に認められるようになっていきますが、やがてそれは宗教的な意味合いを強めていきました。

仏教の世界では「遊行」とは、仏教の僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くことです。つまり、日本中を旅して説法を行った空海もまた、異人、異邦人であったわけです。ほかにも、行基、空也、一遍などがその典型的な例であり、彼らは「少欲知足」を主旨とし「解脱」を求め、全国を遊行して歩きました。

空海のみならず、こうした過去の有名な僧侶の遊行先には数多くの伝説などが存在します。また僧侶自身が知識人であるため、寺の建立、食文化の普及、農作物の普及など地域文化に数多くの影響を与えたようです。

修善寺という土地柄が成立した背景にもそうした影響がうかがえます。空海本人の行幸はなかったとはいえ、その弟子たちがその理想を伝え、師匠から学んだ土木技術や農業技術を地元に落としていったと考えるのもまた、不自然ではなく、ごくごく自然のことと考えられます。

このように、日本各地には、伝説の人物がそこに訪れたかどうかは定かではないものの、その恩恵を受け、地域の発展に大いに果たした、といった話が数多くあります。

一方では、「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」という言葉があります。尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つといった説話のことです。「物語」の類型の一種であり、若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるというたぐいの話です。

「源氏物語」では、光源氏が都から遠ざけられ須磨に配流となりますが、その後栄誉を得た復帰、伊勢物語では、藤原の業平が都を去り東国に下るものの、その後復権して、朝廷の重鎮になる、といったのがそれで、ほかにも平家の落人伝説や、源義経を主題とした復活話などが有名なところです。

実はあの人は死んでいなかった、という類の話でもあります。全国各地に残る弘法大師伝説もまたそうであり、日本中のあちこちで大師様は今でも生きていて、あそこで修行を続けておられる…といった話をよく聞きます。これももまた、貴種流離譚の一種なわけです。

昨今、本屋に行けば数多く居並ぶ「小説」もまた、そうした貴種流離譚にルーツを持ち、そこから派生した「物語」であり、そうした物語文学こそが、日本文学の原型だとする説もあるようです。

日本文学の歴史は極めて永く、古くは7世紀までさかのぼるとされ、同一言語・同一国家の文学が1400年近くにわたって書き続けられ読み続けられることは世界的に類例が少ないといいます。

古くはあの世からやってきた異邦人、すなわちご先祖様や神様がもたらし、その結果形成された日本文化の上に根付いたのが日本文学、と考えると、今こうしてその日本語を使ってこのブログを書いていること自体、なにやら不思議な気分になってきます。

いわんや、私のブログなど文学といえるようなシロモノではありませんが、この先訪れる長雨の季節、ひとつやふたつ、きちんとしたものを読破してみたいと、考えたりもします。

どんなものがいいでしょう。空海は当代一流の文人としても知られていたようなので、そうしたもののひとつでも読んでみたいと思ったりもしますが、敷居が高すぎるでしょうか。

その昔、司馬遼太郎さんが「空海の風景」という小説を書いておられました。私は既に一度読んでいますが、もう一度読み返すのもよろしいかと。みなさんも遠い平安の時代の昔を、この本を通じて味わってみてはいかがでしょう。

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