爪楊枝の季節

2015-8009

伊豆の山々もかなり色めいてきました。

当別荘地のメイン通りの桜の葉も先週までは黄色を帯びていたものが、かなり赤くなり、あとは落葉を待つばかり、といったかんじです。今朝ゴミ出しに外へ出たときの寒暖計の温度は10度でした。

東京では木枯らし一号が昨日吹いたといいます。季節が秋から冬へと変わる時期に、初めて吹く北よりの強い風のことを言います。10月半ばから11月末の初冬の間に、初めて吹く毎秒8メートル以上の風、と気象庁では定義しています。

冬型の気圧配置があらわれたときに吹きます。冬型になったときには、ユーラシア大陸から日本に向かって吹いてくる冬の季節風が日本海を渡る時に水分を含みますが、日本列島の中央部には連山があるために、日本海側ではこの風が時雨となって雨や雪を降らせたことで水分を失います。

結果、山を越えた太平洋側では乾燥した空気となり、これが吹き抜けることによって木枯らしとなります。気圧配置の状況によっては災害が起こる可能性のあるほど強風になることもあり、こうした、場合には警報が出る場合もあります。

ただ、台風ほどひどくはなく、全国的に吹き荒れるということはむしろ少ないようです。気象庁では、人口の多い東京と大阪でのみ「木枯らし1号」のお知らせを発表しています。今年と去年は10月(去年は東京大阪とも27日)でしたが、東京でも近畿でもだいたい11月以降になることが多く、2005年には近畿で12月5日という記録がありました。

木枯らし一号に対して、春先に吹き荒れるのが春一番です。こちらは、立春から春分までの間に、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、前日に比べて気温が上昇することを発生条件としています。木枯らし一号がこれから本格的な冬を告げる嵐であるのに対し、こちらは春の訪れの予告です。

従って、近年の日本では、一般的にはこの木枯らし一号が吹き荒れる11月の頭から、春一番の吹く2月の中旬ぐらいまでが、真冬、ということになるようです。二十四節気に基づく節切りでは、だいたい11月6日ごろの立冬から2月5日頃の立春の前日まで、とされており、だいたいこれとも一致します。

次第に寒くなり、やがて野外で霜や雪など氷に関わる現象が見られるのが冬です。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなりますから、太陽からの暖を取る時間も短くなるということで、生物にとっての冬は直接に命の危険にさらされる季節でもあります。このため、多くの生物はこの間、活動を控えたり、様々な方法で越冬体制に入ります。

多くの動物は、凍結しない場所で活動を停止しじっとするようになり、一般にはこれを冬眠といいます。トカゲやカエルは土中に、カメやドジョウは水中の底に潜ります。ほ乳類のコウモリやヤマネ、クマなどの哺乳動物は体温を下げて冬眠します。

しかし、シカやサルなどのように、冬眠しない動物もおり、これらの動物は餌に苦労することになり、他の季節には見向きもしない木の芽や樹皮などを食べてしのぎます。これらの動物では、冬季の死亡率が個体数に大きな影響を持つとも言われているようです。

一方、低温というのは植物にとってはかなり厳しい環境であり、平たくて薄い葉はとくにその影響を受けやくなります。冬季でもそれほど温度が低くならない地域では葉を小さく厚くすることでこれを耐えますが、ある程度以上ではこれを切り落として捨てます。これが、落葉です。多くの落葉樹は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らします。

人間は、といえば防寒のために厚手の冬服に着替え、さらに手袋やマフラーなどの防寒具を着用して寒さを防ぎます。火を使えるのは人間だけであり、暖房器具を使用するのも冬ならではのことです。こたつが恋しい季節であり、我が家でもそろそろストーブを出そうかと思っています。

北半球においては、一般に農業生産は春から秋にかけて行われ、冬は翌年の生産への準備に当たる季節です。このため、その年を締めくくったり一年間を振り返ったりするための行事が多くなります。クリスマスもそんな中で訪れる一日です。

一般に「イエス・キリストの誕生日」と考えられていますが、実はこれには根拠がないようで、キリストが降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があり、3世紀の古代ギリシアでは5月20日と推測していました。

今のように、12月25日ごろになったのは、農業活動における収穫の時期が終わり、牧畜などであちこちを放浪していた民がたちも本拠に戻り、家族と過ごす時期に合わせてキリストの生誕日をここに持ってきた、という説もあるようです。

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日本でも神道にのっとり、この時期には大祓(おおはらい)が行われます。これはその年に起きてしまった災厄をリセットして翌年の国体の鎮守を図る儀式です。日本人もまた農耕民族であるため、時期としては農作業が一段落した年末、という時期が選ばれたのでしょう。

このほか、針供養、お歳暮といった行事もおおかた12月に取り行われ、これに忘年会が続き、大掃除、年越しそば、除夜の鐘と段取りが進んでいきます。

木枯らし一号から、この年末のあまたある行事の数々の合間には、関東地方では上天気が続き、この間、からっ風(空っ風)が吹きまくります。主に山を越えて吹きつける下降気流のことで、山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となります。

ここ静岡でも、浜松市などの静岡県西部でも冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれます。しかし、からっ風といえば、やはり群馬県であり、ここに冬場に吹く北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられています。

上州名物は、「かかあ天下と空っ風」といわれるように、女性が強い県とも言われます。これは、上州では養蚕が盛んであったことに由来しているようです。この仕事は女性が行うため、一家の経済の主導権が女性にあることが多く、当然、発言力も大きくなります。

きめ細かな蚕の飼育、すなわち女性の持つ繊細な感覚と骨身を惜しまぬ勤勉さであり、上州の女性は、春から夏にかけては、養蚕に精を出し、秋の収穫を終えると今度は、糸挽きと織物に専念しました。このため群馬では高い品質の生糸と織物が生産されるようになり、ひいてはその原動力である女性は高く評価されるようになりました。

かつての彼女らの収入は、男性のそれよりもはるかに高額であり、このため、「上州では女が男を捨てる」とよく言われていたようです。嫌いな夫、働きがいも生活力もない夫に多額の慰謝料を支払うことが出来るのは、それを可能にする経済的実力を手にしていた、というわけです。今の上州の女性も男性を捨てる傾向があるのでしょうか。

一方では、懸命に働く女房を見て、男どうしが自分の女房を自慢し合った、ともいわれているようで、それを他県人が「かかあ天下」と揶揄し「かかあ天下と空っ風」の言葉が生まれた、という説もあります。

また群馬県南部は関東平野の北西に当たり、かつては中山道の宿場町として江戸からの街道者で賑わいました。宿場町であったことから賭場も多く、群馬男のバクチ好きはよく知られるところです。このバクチの金の出所といえばかかあが稼いだ金であり、その金でバクチを打つというのは、まさにヒモです。

このため、金を貰うためにはかかあを大事にしなければならず、これがやがてはバクチ打ちが持つ資質、「義理人情に厚い」に変わっていったといわれており、そのDNAは現代の群馬県民にも受け継がれているといいます。

群馬県民の、情に厚く、小さいことにこだわらない、だれにでも愛想がよく気持ちいい、といった気質もまた博徒をもてなすバクチ打ちから受け継いだ気質と思われ、一方では、自分の尺度で物事を押しつける直情型が多く、「見た目重視の内容なし」で物事が進みがち、という群馬男性の気質も単純ゲームである賭博のせいだともいいます。

一方では、「かかあ天下」の気質を受け継いだ群馬の女性は、生まれもって行動的であるといわれ、会社組織であれば部下のミスもカバーする責任感のあるタイプの上司が多いといいます。おおらかで包容力もありますが、意外に些細なことで悩むことも多く、情に厚いが気配りベタで、誤解され敵をつくりやすいそうです。

私の知人・友人には群馬県民はほとんどいません。なので、これらが当たっているのかどうかは正直なところよくわかりません。が、もし間違っていたら、群馬県民の方、お許しください。

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ところで、こうした「木枯らし」「博打打」といったキーワードからどうしても連想してしまうのが、「木枯らし紋次郎」です。笹沢左保の股旅物時代小説を原作とし、フジテレビ系列で1970年代に放映され、大人気を博したテレビドラマです。

私の世代の人にはおなじみのキャラクターですが、同番組を見ていない若い方に簡単に説明しておくと、その舞台は天保年間の江戸時代です。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は、生まれてすぐに間引きされそうになる所を姉の機転に助けられます。

薄幸な子供時代を過ごした紋次郎は、10歳の時に家を捨てて渡世人となりますが、ボロボロな大きい妻折笠を被り、薄汚れた道中合羽を羽織り、長い楊枝をくわえているのが彼独特のスタイルです。その旅の先々で色々なトラブルに出くわしますが、かならずその劇中で紋次郎が口にする決め台詞が「あっしにゃぁ関わりのねぇこって…」です。

毎回毎回、事件には関与しない、との姿勢を貫こうとしますが、その生まれ持っての「優しさ」ゆえに結局は事に関わってしまい、いつも人助けをしてしまう……というストーリーです。しかし、一話完結となっており、毎回のストーリーに連続性はありません。

自分には関わりがないこと、といいながらいつも関わってしまう照れ隠しなのか、物語の最後になると、いつもお決まりのシーンがあります。

その咥えている長い楊枝を、ニヒルに片方の口端を上げながら「スー~ッ」と息を吸い込んだあと、勢いよく「ピッ」と吹き出すと、その楊枝が物語の要となっている文物、時には人物に命中します。これがまたカッコよく、世代を超えた男性を虜にしました。

私が聞いた話では、この木枯らし紋次郎が流行っていたころには、企業のエレベーターの中に、よく爪楊枝が転がっていたといいます。このころのサラリーマンたちは、この紋次郎を自分になぞらえて、こうしてひと目につかないところで、上司に向かって楊枝を飛ばし、ウサを晴らしていたに違いありません。

番組は「市川崑劇場」と銘打たれ、1972年の元日に放送開始されました。ただ、市川監督は監修と第1シリーズの1~3話・18話で演出(監督)を務めただけで、全作品のメガホンを取ったわけではないようです。が、要となる部分では物語全般でかなり細かい部分に渡って関わっており、とくにその中でもこだわった斬新な映像美は秀逸でした。

実は、市川監督は実は元アニメーターだった、という話は意外に知られていません。少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれ、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(のち東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、アニメーターを務めていました。

アニメの下絵描きからスタートし、「ミッキー・マウス」や「シリー・シンフォニーシリーズ(ウォルト・ディズニー・カンパニーによって製作された短編アニメーションシリーズ)」などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだといいます。

市川昆は、1915年(大正4年)、三重県宇治山田市(現伊勢市)に生まれました。呉服問屋の生まれでしたが、父が急死し4歳から伯母の住む大阪に移り、その後脊椎カリエスで長野県に転地療養。その後広島市に住んだこともあり、彼自身は難を逃れましたが、母親は被爆しています。出生名は市川儀一という名前で、成人してから市川崑に改名しました。

改名の理由は、市川自身が漫画家の清水崑のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われています。17歳のときに信州での初恋の女性をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を週刊朝日に投稿し当選した、とされます。調べてみたところ、これが小説だったのか、漫画だったのかどうかはよくわかりません。

当初は画家に憧れていたといい、なので漫画だったのかもしれません。ともかく画家にあこがれていた少年時時代でしたが、ただ、この当時は画家というのはその画材を得るためにも相当裕福ではないと無理な時代であり、あきらめざるを得ませんでした。

1932年に公開された伊丹万作監督の「國士無双」を見て、感動し志望を映画界に変更。映画人になるための早道として、得意だった絵を武器に京都のJ.O.スタヂオのトーキー漫画部に入所しました。

1936年(昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画「新説カチカチ山」を発表。漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、伊丹万作、阿部豊らに師事。このころ、東宝と改名していた東宝京都撮影所の閉鎖にともなって、東京撮影所に転勤になりました。

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この東宝の砧(きぬた)撮影所は、以後、短い新東宝時代、10年程度の日活・大映時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなりました。終戦を29歳で迎え、1948年の「花ひらく」で監督デビュー。アニメーションから実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人となりました。

戦後すぐには、東宝で風刺喜劇やオーソドックスなメロドラマ作品も撮っていますが、1955年(昭和30年)にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。「ビルマの竪琴」で一躍名監督の仲間入りを果たし、その後大映に移籍。このように映画会社を転々とする中で文芸映画を中心に数々の名作を発表してその地位を確立しました。

とりわけ1960年(昭和35年)の「おとうと」は大正時代を舞台にした姉弟の愛を表現したもので、自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となりました。1965年(昭和40年)には総監督として製作した「東京オリンピック」が、当時の興行記録を塗り替え、一大センセーションを起こします。

市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリータッチの映画を撮りあげました。冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影しました。

また、2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げて好評を博しました。

その後テレビ放送が開始され、一般家庭にも普及していく中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくありませんでした。しかし、市川はテレビを新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年よりこの分野に積極的に進出。

通常、映画監督のテレビ進出はフィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムにとどまることが多いものですが、市川はそれだけでなく、テレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛け、テレビ史においても先駆的な役割を果たしました。

1965年から1966年にかけて放送された「源氏物語(毎日放送)」では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、テレビに関連する様々な業績に与えられ、知名度も非常に高いアメリカの「エミー賞」にノミネートされたこともあります。

テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)のCMが彼の手によりシリーズ化されました。このCMでは、大原が和服姿で登場し、ぷっとほっぺたを膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」と懇願。

サントーレッドは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、このCMは1980年(昭和55年)から10年間もシリーズ化されて放送されていました。

そして、1972年に監督・監修を手がけた、フジテレビの連続テレビ時代劇「市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ」です。テレビで放映されるにもかかわらず、映画と同じフィルム撮りとし、市川自身による斬新な演出と迫真性の高い映像から今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われています。

元々原作の笹沢佐保は紋次郎を田宮二郎をモデルにイメージしていたそうです。が、「主役は新人で」という市川の意向により、元・俳優座の若手実力派で当時すでに準主役級の俳優として活躍していながらも、一般的な知名度は必ずしも高くはなかった中村敦夫が紋次郎役に抜擢されました。

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これまでの股旅物の主流であった「義理人情に厚く腕に覚えのある旅の博徒(無宿人)が、旅先の街を牛耳る地回りや役人らを次々に倒し、善良な市井の人々を救い、立ち去っていく」といった定番スタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチ。

22時30分開始というゴールデンタイムから外れた時間帯にも関わらず、第1シーズンでは毎週の視聴率が30パーセントを超え、最高視聴率が38パーセントを記録する大人気番組になりました。

その殺陣においても、それまでの時代劇にありがちだったスタイリッシュな殺陣を捨て、ひたすら走り抜ける紋次郎など、博徒同士の喧嘩にも独特な殺陣が導入されました。時の博徒が正式な剣術を身につけているというのはありえず、このため、刀は斬るというより、振り回しながら叩きつけたり、剣先で突き刺すといった演出が多用されました。

また、田舎の博徒が銘のある刀を持つことなどありえないとし、通常時代劇に見られる「相手が斬りかかってきた時に、刀で受ける」などの行為は自分の刀が折れてしまうので行いません。

金もないのに刀の手入れを砥師に頼むといったことも考えられないことから、自分で刀を研ぐ、着ている道中がっぱも自分で繕う、といったリアリティを重視したたて(殺陣)がシリーズ全編を通して徹底されていました。

ただ、紋次郎のまとっていた外套は元々江戸時代の風俗には無く、西部劇のガンマンが着けていたポンチョを真似て採用されたものだと、後に中村がトーク番組で語っています。また、道中がっぱのほかにもこの当時の渡世人は三度笠をしていた、というのは、明治期以降に流行した講談などにおける創作とも言われています。

三度笠というのは、京都、大坂の三ヶ所を毎月三度ずつ往復していた飛脚(定飛脚)のことを三度飛脚と呼び、彼らが身に着けていたことからその名がついたものであり、これと縞模様のかっぱを常用していた、というのは、俗説のようです。

ドラマの主題歌「だれかが風の中で」は、その作詞を市川の妻で市川監督作品のほぼすべてに関わった名脚本家の和田夏十に依頼。また作曲をフォークバンド・六文銭を率いるフォークシンガーの小室に依頼。力強く希望に満ちた歌詞と、西部劇のテーマ曲を思わせるような軽快なこのメロディーを、上條恒彦が歌いあげました。

上条のその歌声はおよそ時代劇には似つかわしくないものでしたが、逆にその新鮮さが幅広い支持を得ることになり、結果的に1972年だけでシングル23万枚を売り上げる同年度屈指の大ヒット曲となりました。

最近の映画やテレビでは普通になっている、血しぶきが飛ぶ、といった演技もこのドラマでは見送られました。フジテレビジョン編成部の金子満プロデューサーが、「テレビで血を見せると絶対に茶の間から拒否され、ヒットしない」という信念を持っていたためであり、金子は市川崑が演出として提案した凄惨なアクションシーンを毅然とした態度で拒否しました。

市川も「そういう方針もあるよね。ようし、それでいこう」と理解することで、こうして流血のシーンは無くなりましたが、金子は「血はともかく、映像は素晴らしいものだった」と当時を回願しています。

「喧嘩の仕方や衣裳、食事もヤクザらしいリアリティを持たせて描き、最初と最後には情緒たっぷりのナレーションを毎回同じ時間に同じ場所で流す」といった市川のストーリーとともに、金子が主張した「絶対に血のアップを撮らせない」という方針がなければ、これほどまでの人気は得られなかったのかもしれません。

この初代の木枯らし紋次郎の人気から、1977年には「新・木枯し紋次郎」が同じ中村敦夫主演で製作されましたが、このときのテレビ局は東京12チャンネルでした。本作での紋次郎の決め台詞は「あっしには言い訳なんざ、ござんせん」だったそうですが、これは前作ほどの話題とはなりませんでした。

1993年にも中村敦夫主演で映画「帰って来た木枯し紋次郎」が東宝配給で制作され、監督も市川崑が務めました。当初はTVスペシャルのために製作されたものでしたが、出来栄えが良かったため急遽劇場上映が決定したもので、主題歌も、テレビ版の「だれかが風の中で」が使われていました。

このほか、1990年には岩城滉一、2009年には江口洋介の主演で単発のスペシャルドラマが製作されています。

中村敦夫は、この「帰って来た木枯し紋次郎」を最後に役者を休止し、1998年(平成10年)の参議院議員選挙に立候補し、東京都選挙区から初当選、政治家となりました。

同年「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を一人で旗揚げをし、任期中は議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任、静岡空港建設反対運動などに取り組んで、活躍されましたが、2004年(平成16年)7月参議院選挙では比例区に転向して出馬し、落選。

政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰し、最近ではサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズCMで政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じる事が多くなっています。また、最近では評論活動や執筆活動も続けており、同志社大学などの大学などで講演も行っているようです。

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その後市川監督のほうは、「木枯らし紋次郎」がヒットしたりしたものの、メジャー映画でこれといった代表作を出すことができず、スランプや衰弱が囁かれたこともありました。

しかし、1970年代に入り、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛けたところ、その絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で人気を博し、全作が大ヒットとなりました。これを機に横溝正史ブームが始り、さらに「細雪」「おはん」、「鹿鳴館」などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した「幸福」、時代劇「四十七人の刺客」などもリリース。

そのほか、「どら平太」「かあちゃん」など、多彩な領域で成果を収めましたが、役所広司が主演してヒットしたこの2000年の「どら平太」が撮影された時には既に、85歳を超えていました。

90歳を超えても現役で活躍したという点では新藤兼人に次ぐ長老監督に位置し、日本映画界においては受賞歴と興行実績をあわせたキャリアにおいて比肩する者のない存在となっていました。2006年(平成18年)に監督した「犬神家の一族」は30年前の作品をリメイクしたものであり、老いてなおその実験精神は衰えませんでした。

この映画では、まったく同じ脚本を用い同じ主演俳優を起用してみせたといい、カット割や構図も前作を踏襲したものが多かったようですが、前作では飄然と汽車に向かう金田一が今回は画面に向かってお辞儀するエンディングとなっており、この挨拶が市川の長年にわたる監督生活のラストカットとなりました。

結局この作品が遺作となり、2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。92歳没。同年3月、日本政府は閣議に於いて市川に対し、彼の長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去日に遡って正四位に叙すると共に、旭日重光章を授与することを決定しました。

しかし、日本映画の巨匠としてはヒット作や大衆的人気にめぐまれましたが、錚々たる授賞歴の一方で、キネマ旬報社の叢書「世界の映画作家」では最後まで採り上げられませんでした。

黒澤明監督のように、世界に誇れる映画人、というふうに紹介されなかったのは、この年代の巨匠としてはめずらしく社会的テーマを前面に打ち出した作品がほとんどなかったからだといわれています。

が、木枯らし紋次郎シリーズや金田一耕助シリーズのように、日本人のような繊細な民族の心の琴線にだけひっかかるような映画を撮ることができるのは、彼だけではなかったか、という気がします。

市川の独特の映像表現は、後輩の映画監督に多大な影響を与えており、枚挙のいとまはありませんが、彼と同じく故人となっている、伊丹十三は「師匠は市川崑さんです」と明言していたそうで、彼が手がけた英映画の完成したシナリオは、必ず市川のもとに届けられたといいます。

また、三島由紀夫は「日本映画の一観客として、どの監督の作品をいちばん多く見ているか、と訊かれたら、私は躊躇なく市川崑氏の作品と答える」と書いています。

今は、伊丹や三島といった天才とともにあちらの世で新しい作品の構想を練っているに非違いありません。今後とも市川監督のDNAを受け継いだ映画人の中からは、あの世にいるその監督からのインスピレーションを得た作品が数多く出てくるに違いありません。

それにしても、カッコ良かった木枯らし紋次郎、もう一度みたいものです。これからのからっ風が吹く季節、紋次郎になったつもりで、もういちど青空に向かって楊枝を飛ばしてみるのもいいかもしれません。みなさんもひとついかがでしょうか。

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ダイヤモンドと日本刀

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1792年 9月11日。 「ブルーダイヤモンド」と呼ばれる巨大なダイヤモンドが、フランス王室の宝玉庫から盗まれました。

6人の窃盗団が王室の宝玉庫に侵入し、ブルーダイヤモンドを含む宝石類を強奪。当時はフランス革命のさなかで、国王一家は囚われて幽閉されていました。

その後、このダイヤモンドの行方はわからなくなりましたが、窃盗団の一人、士官候補生の「ギヨ」という男が、後にさまざまな宝石類を、フランスのル・アーヴルやロンドンの宝石商などに売りつけようとしていたことが警察のその後の調査でわかりました。

1796年に宝石を売った、とする記録が残っているようですが、ただ、文献として残っていたカラット数などから、これはブルーダイヤではなかったと判明しています。

時を隔てて2000年代に入り、アメリカのスミソニアン協会、そしてフランス国立自然史博物館の両機関が、イギリスのダイヤモンド商、ダニエル・エリアーソンが、あるダイヤモンドを1812年ころに所有していた、という事実を確認しました。

そしてこのダイヤこそが「ブルーダイヤモンド」から再カットされたものであることも判明し、これが今日もアメリカ国立自然史博物館に所蔵されている「ホープダイヤモンド(Hope Diamond)」の原型であることがわかりました。アメリカ国立自然史博物館とは、スミソニアン協会の運営する博物館群のひとつです。

エリアーソンがこのダイヤを保有していたことが確認された年が、ちょうど最初の窃盗から20年後のタイミングであったことから、これを犯罪の時効との関連を見る向きもあり、彼が何等かの形でこの盗難に関わっていたのではないか、とする向きもあります。おそらくは、盗品であることを隠すためにオリジナルを再カットしたのでしょう。

なぜ、イギリスにあったものがアメリカにあるかといえば、アメリカの銀行家、ヘンリー・フィリップ・ホープという人物が1830年頃、このダイヤモンドを、ロンドンの競売で1万8000ポンドで落札した」ためです。「ホープ」ダイヤモンドの名は、彼がこれを所有したことからきています

オリジナルのネーミング通り、青い色をしたダイヤモンドです。45.50カラットもあり、ホープダイヤモンドとなった現在では、その周りに16個、鎖に45個のダイヤをはめ込まれ、白金製のペンダントとなっています。

紫外線を当てると、1分以上に渡って赤い燐光を発します。紫外線を当てて発光するダイヤモンドは珍しくはなく、およそ1/3は紫外線を当てると発光するといいます。しかし、赤く、しかも1分以上も光り続けるというのは極めて珍しく、現在のところその原理は解明されていません。

青い色の原因は、不純物として含まれるホウ素が原因であることが解析の結果判明しました。ダイヤモンドが生成される地下深くでは、ホウ素はほとんど存在しないとされています。このため、なぜ、ダイヤモンドの生成時にホウ素が含まれたのか?についても謎となっています。

そもそも、このダイヤは、9世紀頃、インド南部のデカン高原にあるコーラルという町を流れる川で、農夫により発見された、とされます。その後、紆余曲折を経て、1660年に、フランス人ジャン=バティスト・タヴェルニエという人物がこれを購入しましたが、このときの記録で112と3/16カラットあったことがわかっています。

実は、このダイヤ、この当初から、持ち主を次々と破滅させながら、人手を転々としていく、いわゆる「呪いの宝石」として有名でした。その理由は、このダイヤはその後、ヒンドゥー教寺院に置かれた女神像に使われていたものが、あるとき盗難に遭ったことに由来がある、とされます。

この彫像は、「シータ像」と呼ばれて信者たちの崇拝を集めていましたが、その目の部分の片方に嵌められていたのが、このダイヤでした。そして、盗まれたと気づいた僧侶は、それを盗んだであろう、あらゆる持ち主に呪いをかけました。その結果、以後の持ち主は次々と死んでいったとされます。

その後、ペルシア王朝の時代には、ペルシア軍がインド侵攻した際、地元の農夫が軍の司令官が国王に献上したことで、ダイヤはペルシアに渡ります。このとき献上した農夫はペルシア軍に殺害されたといい、一方ダイヤを手にした司令官は、親族のミスが理由で処刑されたといいます。その後このダイヤを取り上げた国王は謀反で殺されました。

その後1660年になって、これを手に入れたのが、上述のタヴェルニエです。彼自身も「直後に熱病で死んだ」あるいは「狼に食べられて死んだ」ことになっていますが、実はそのような事実はなく、84歳まで生きながらえ、死因は老衰であったようです。

しかし、タヴェルニエ以後もさらに複数の持ち主が亡くなったことから、この「呪いの伝説」はエスカレートしていくようになります。

1668年、フランス王ルイ14世がタヴェルニエからダイヤを購入。このとき、大胆なカッティングがなされ、およそ半分の67と1/8カラットの宝石となり、「王冠の青」あるいは「フランスの青(フレンチ・ブルー)」「ブルーダイヤモンド」と呼ばれました。このダイヤは王の儀典用スカーフに付けられたといいます。

ルイ14世がカットさせたことで半分になったため、「本当はもう1個あるのではないか」と噂されています。しかし、そのもう片方の行方は知れません。しかし、半分になったとはいえ、67カラットものダイヤモンドはそうそうあるわけではありません。

このころから、この呪いがかけられたというダイヤは次第にその魔力を発揮し始めます。まず、タヴェルニエ宝石を入手した頃からフランスの衰退の一端の兆しが現れ始めました。彼からダイヤを購入したルイ14世の治世以降のフランス経済は停滞し始め、その後の1787~1799年に生じたフランス革命の原因となりました。

さらに、このルイ14世からダイヤを相続したルイ15世は天然痘で死亡しました。そして次にダイヤの持ち主となったルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、そろってフランス革命で処刑されています。ちなみにマリー・アントワネットの寵臣ランバル公妃は、このダイヤを度々借りていたそうです。ランバル公妃は革命軍によって惨殺されました。

その後、冒頭で記したとおり、1792年に王室の宝玉庫からイギリスの窃盗団によって盗み出され、フランスからイギリスに渡ります。彼等は出所を不明にするためこれを再カッティングさせた後、アムステルダムの宝石店に売り飛ばしました。

ところが、この宝石商の息子がダイヤを横領し、宝石商はそのショックで死亡。このといき、盗んだ息子も父の死を苦にして自殺したとされます。その後これを同じダイヤモンド商、ダニエル・エリアーソンが入手した、といわれますが、このショック死した宝石商こそ、エリアーソンだ、とする説もあるようです。

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そして、エリアーソン親子の死後、ロンドンの競売にかけたものを、ホープが入手した、ということになります。ところが、その後このホープ家も崩壊します。

この「呪いの伝説」は、そもそも、このホープ家が没落後の1909年にロンドン・タイムズの6月25日号において、パリの通信員が「悲惨な最期を遂げた」とする架空の所有者を多数含んだ記事を寄せたのが最初であるとされます。しかし、日付だけは確かのようですが、その中身がウソではどこまで信じていいいのかわかりません。

さらにこれらの伝説を拡大する役割を果たしたのが、フランシス・ホープと離婚したメイ・ヨーヘでした。彼女は離婚後に新しく愛人を作りましたが、やがて別離しました。ところが、ダイヤをこの愛人に奪われたと主張したり、自分の不運がダイヤのせいだと決めつけました。実際にはダイヤを所有していないにもかかわらず、です。

しかし、不思議なことに、その愛人と再びよりを戻して結婚、再度離婚しており、ようは巷によくある「お騒がせ屋」の類の女性だったようです。この2度目の離婚後、メイは「ダイヤモンドの謎」という15章からなる本を他の執筆者の助けを借りて書き上げ、その中にさらに架空の登場人物を加えました。

ついには彼女は自分の書いた本をベースにした映画を作らせ、それにフランシス・ホープ夫人役で主演し、ここでも話の誇張と人物の追加をしています。メイは映画の宣伝と自分のイメージアップのためにホープダイヤの模造品を身につけていたといいます。

1896年に、フランシス・ホープ破産。ホープダイヤの売却を迫られ、メイもそれを手助けしたとされます。ダイヤは1902年頃に2万9000ポンドでロンドンの宝石商アドルフ・ウィルが買い取り、アメリカのダイヤモンド商サイモン・フランケルに売却します。フランケルはダイヤをニューヨークに持ち込み、14万1032ドル相当と評価されました。

1908年、今度はフランケルが、ダイヤをパリのソロモン・ハビブに売却。実業家だったようですが、その後呪いの影響か、事業に失敗し、1909年に債務弁済のため、ダイヤを再びオークションに出します。このときは、約8万ドルでパリの宝石商ローズナウがホープダイヤを落札。

さらにローズナウは、1910年、ダイヤを王の宝石商と呼ばれていた、ピエール・カルティエに55万フランで売却します。たった2年でおよそ7倍の額に膨れ上がったダイヤをカルティエはさらに宝石を装飾し直し、1911年、アメリカの社交界の名士エヴェリン・ウォルシュ・マクリーンという女性に売却しました。

このように、「ホープダイヤモンド」の語源となったホープ以後、エヴェリン・マクリーンの手に渡るまでのわずか9年間に、ホープ→ウィル→フランケル→ハビブ→ローズナウ→カルティエ→マクリーン、と6回も持ち主が変わっており、これがまた、それぞれの持ち主がその呪いを恐れて、転売を急いだのだ、ということもまことしやかに言われています。

エヴェリン・マクリーンは当初、投資目的のためにこれを買ったようですが、やがて社交の場でいつもこれを身にまとうようになります。また、ペットの犬の首輪にこのダイヤを付けていたこともあります。

また、エヴェリンは、このダイヤの由来を人に話す時、先のメイが映画ででっち上げた話に、ロマノフ朝第8代、ロシア女帝エカチェリーナ2世などの所有者の話を加えて面白おかしく脚色していたといいます。

しかし、1947年にエヴェリン・マクリーンは死去(61歳)。彼女は相続人に、自分の孫の将来を考えて、つまり呪いを恐れて、今後20年間このダイヤを売却しないよう遺言しました。

「呪いの伝説」ではその後、「マクリーンは教会で祈祷させたが一族全員が死に絶えた」とされますが、その孫が存命であることからもわかる通り事実ではありません。1949年、相続人はマクリーンの債務の弁済に、ホープダイヤを売却する許可を得て、ニューヨークのダイヤモンド商ハリー・ウィンストンに売却。

このウィンストンこそが、ダイヤを個人でもっていた最後の人物になります。彼は「宝石の宮廷」と名付けたアメリカ国内での巡回展や、各種チャリティーパーティーでホープダイヤを展示しましたが、売却はしませんでした。

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そして、1958年、ウィンストンはスミソニアン協会にホープダイヤを寄贈。こうしてダイヤはついに公的な施設で保管されることになりました。ダイヤを寄付したウィンストンは1978年に82歳で病没。彼自身は、まったく呪いを信じず、ジョークのネタにしていたといいます。また、以下のような逸話が残っています。

あるとき、ウィンストン夫妻は共に遠出をすることになりますが、所要で予定が狂い、妻のみが別の旅客機で移動することになりました。妻がキャンセルした席、つまりウィンストンの隣の座席に代わりに乗ってきた男は、安心したように隣のウィンストンに話しかけてきました。

「実は、私が乗った旅客機に、あのホープダイヤの持ち主であるハリー・ウィンストンの妻が乗り合わせていると聞いたのでね。慌てて便の変更をしたってわけですよ…いやまったく、この席がキャンセルで空いてくれて本当に良かった。これで安心ですな」

ウィンストンは笑って「それはそれは」と答え、ホープが入ったトランクを撫でたのみでしたが、飛行が終わり席を立つ際、名前を明かし相手を大変驚かせた、といいます。

その後、ダイヤを入手したスミソニアン協会が呪いで没落したか、といえばそんなことはありません。

しかし、アメリカ合衆国は、ダイヤがこの地に渡った1950年代の終わり以降、激しい人種差別によって揺れまくるとともに、泥沼のベトナム戦争に突入しました。その後も貿易赤字に苦しんだ後、単独主義によって世界から孤立傾向となり、9.11をきっかけにテロとの戦い、イラク侵略戦争などなど、現在に至るまで、不安定な時代を過ごしています。

もしかしたら、これはブルーダイヤモンドの呪いの結果なのかもしれません。

2009年、スミソニアン同協会は、国立自然史博物館創立50周年を記念して、一年間ホープダイヤをペンダントから外して単独で展示すると発表しました。その後は再びペンダント形に戻され、今もその展示場で人々の熱い視線を浴びているはずです。

なお、翌年の2010年には、フランス国立自然史博物館2007年にフランスで発見された鉛製の模型などを参考にして、ルイ14世時代の「フランスの青」としてカットしたとされるもののレプリカを模造ダイヤで復元すると発表。さらに200年以上前に盗難・破壊されたルイ15世の金羊毛騎士団用ペンダントも復元して、2013年にフランスで公開されました。

模倣したブルーダイヤとはいえ、フランスにも同じく不幸が訪れなければいいのですが……

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さて、以上は西洋での呪いの品の話です。似たような話は日本にもたくさんあり、その代表的なものとして、「妖刀村正」というのがあります。

村正というのは、戦国期から江戸時代初期にかけて、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名です。

美濃の国(現岐阜県)に在住の、赤坂左兵衛兼村という刀鍛冶の子とされます。関鍛冶の祖といわれる、赤坂千手院という鍛冶の子孫とも伝えられています。片手打ちの刀、脇差、寸延び短刀、槍など、戦国期の実用本位の刀剣の名作を数多く世に出しました。

妖刀といわれるゆえんは、徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でもその凶器は村正の作刀であったといわれることにちなみます。また、家康の嫡男、信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったといいます。

さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げました。このとき、その槍を家康が見ていると、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切りました。聞くとこの槍も村正で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったといいます。

これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになりました。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅したとされます。

しかし、実は、以上の話は実は民間伝承に過ぎず、実際には、家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡されました。

これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになりましたが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていき、これが妖刀につながった、ということがいわれているようです。

ただ、この説にも疑義があり、家康がコレクターだった、とするにしては現存するものが少なすぎます。

家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されておらず、現在は尾張家の1振だけが徳川美術館に保存されています。なお、徳川美術館にあるものは、家康が所持していたものとされ、これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したものです。

日本刀には、江戸以前のいわゆる「古刀」のほか、江戸期以降の新刀などがありますが、村正は、戦国時代頃の古刀である、「末古刀」であり、その中でも出色の出来といわれます。
江戸時代に入ってからも極めて人気が高かったといわれ、このことから、徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったというのは「後世の創作」であると断言しています。

しかし、江戸末期の享和年間(1801~04年)の尾張家の刀剣保存記録には、この尾張家伝来の村正がすべて、健全な焼刃の作品であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と残されています。この記録からも、時代が下がるにつれて、徳川家でも村正が忌避される傾向が強くなっていったことは想像できます。

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ただし、民間に伝わる「妖刀」としての村正伝説は、江戸の人々が歌舞伎などの寄席ものででっち上げていったものであり、あくまで創作と考えられます。

その嚆矢は、寛政9年(1797年)に初演された、初代並木五瓶作の歌舞伎「青楼詞合鏡」(さとことば あわせ かがみ)だとされます。この演目で初めて村正が「妖刀」として扱われ、妖刀伝説が巷間に普及していったと考えられています。

万延元年 (1860年)には「妖刀村正」に物語の重要な役どころを負わせた「黙阿弥」作の「八幡祭小望月賑」が初演され、大評判を博しました。また、幕末から維新の頃にかけて書かれた巷本、「名将言行録」には、「真田信繁(俗に幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があります。

この本には、さらにそれを家康の孫である徳川光圀が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されています。これらのことから、村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には巷に行きわたっていたことがわかります。

また、明治に入ってからも、明治21年(1888年)に、三代目河竹新七によって作られた「籠釣瓶花街酔醒」でも村正が登場します。以後、大正、昭和と似たようなものが繰り返し歌舞伎やら時には映画やテレビの題材として登場し、村正が「妖刀」である、という話は、完全に定着しました。

しかし、実際に妖刀とまで言われるほどの逸話があったのかどうかについては、さほどはっきりした史実はありません。

そもそも、そんな妖刀を作れるような村正とはどんな人物だったのか。上述のとおり、登場し伊勢国桑名出身とされ、戦国期から江戸初期にかけて活躍し、その活動拠点も伊勢であったといわれます。が、活動範囲については必ずしも定かではありません。

村正は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に鎌倉で活動した刀工で、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人、五郎入道正宗の弟子という俗説もありますが、これは事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話です。そもそも正宗は鎌倉時代末期の人であり、村正は室町時代中期以降が活動時期です。

また、鎌倉とも縁は薄く、他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、坂倉関の正吉・正利・正善など・「正」の字が村正に酷似するなど、主として関鍛冶たちとの技術的な交流をうかがわせます。

しかし、その作風を見ると、美濃だけではなく、隣国の大和(奈良)伝の作風、相州(神奈川・鎌倉)伝の3つの流派を組み合わせたものといわれ、また本来は、「数打ち」といわれる実用本位の粗製濫造品や「脇物」と呼ばれる郷土刀を鍛える刀工集団に所属していた、と見られているようです。

その行動範囲は伊勢から東海道に及びますが、「村正」の銘は、主として桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続きました。また、村正は一代で潰えたのではなく、同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説です。

村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重など、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在します。江戸時代においては「千子正重」という刀鍛冶がその問跡を幕末まで残しています。

なお、この千子正重は、4代目以降、正重を廃して、「千子」と改称したと言われています。これは「正重」の中に徳川家が忌避する「正」の文字を大名や旗本が嫌い、帯刀を避けるようになったことが原因と考えられています。

さて、こうしたことから、村正は一人ではなく、「村正」という伊勢の鍛冶集団の一派であったことなどが、想像されますが、それでは、そんな彼等が造った刀について、本当に妖刀といわれるようになった史実があったのかどうか、です。

上述の、徳川家康の祖父清康と父広忠が、共に家臣の謀反によって殺害されて際に使われた凶器が村正であったということ、また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際の刀も村正であったという民間伝承には、ある程度の根拠はあるようです。

家康の祖父松平清康が突如、家臣の阿部正豊に刺殺された短刀は実際にも村正であったようです。また、家康の父松平広忠が片目弥八によって殺害されたのも村正である、という事実は、「岡崎領主古記」という古文書にも書かれています。

さらに、家康の嫡子、松平信康が信長の厳命で切腹を申しつけられた時、介錯人を命ぜられたのは、服部正成という人物であり、彼が佩刀していたのも村正である、という確かな記録があるようです。

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ただし、これら一連の処刑の事実があったのは、江戸初期のころのことであり、それぞれの村正保持者に関する記録は江戸後期に書かれたものです。従って、これらの「事実」は、時代が進み、徳川家内部で村正が忌避される傾向が強くなって以降、創作された可能性が高いと考えられます。

また、家康の父の広忠の死因は多くの史料では病死とされており、謀叛による暗殺説は、上述の岡崎領主古記に書かれているだけで、他の文献では確認されていません。

それにつけても、徳川家ゆかりの不祥事には数多く村正が出てきます。家康夫人である築山御前を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正、元和元年五月七日、真田幸村が大坂夏の陣で徳川家康の本陣を急襲した時家康に投げつけたと云われる刀も村正という記録があるようです。

こうした史実はわりと、センセーショナルな出来事でもあり、その中で村正を登場させることで、よりこれらの事件を人々に印象付けようとしたとも考えられます。

このほかにも、文政6年(1823年)に起きた「千代田の刃傷」で用いられた脇差も村正という説と村正ではないという説があります。これは、文政6年(1823年)、松平外記忠寛によって引き起こされた刃傷事件です。

西の丸の御書院番の新参・松平外記忠寛は、古参の本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の度重なる侮罵と専横とに、ついに鬱憤これを抑えることができず、この3人を殿中において斬り殺し、なお、間部源十郎および神尾五郎三郎の2人には傷を負わせ、自らは潔く自刃し果てました。

時の老中・水野忠成が厳重詮議をおこなった結果、殺害された3人の所領は没収され、神尾は改易を申し渡され、間部は隠居を仰せつけられました。 なお松平家は忠寛の子栄太郎が相続を許されました。

この事件は須藤南翠が小説化し、また歌舞伎狂言にもなったほどの事件ですが、それだけに物語の内容をより引き立たせるために、村正が用いられたと考えてもおかしくはありません。従って、これらの血なまぐさい事件で使われた刀が村正であるという論拠は乏しく、やはり妖刀としての村正はこうした文芸や技芸の中での創作でしょう。

歴史作家の、海音寺潮五郎は、吉川英治が「宮本武蔵」を連載しているときに散歩のついでに吉川邸に立ち寄り、先客であった岩崎航介という東大卒の鋼鉄の研究家から、以下のような話を聞いたとされ、海音寺はそのときのことをこう書き残しています。

「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在の刀鍛冶から買い求める。三河からすぐ近くの桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家は九州の武士に美濃鍛冶のものを差させたり、甲州の武士に波ノ平を差させたりしているが、そういうことは絶無ではないにせよ、まれであった」

すなわち、村正はよく切れるために、江戸時代にはかなりもてはやされ、ベストセラーだったというわけです。それゆえに、より売れるようにと逸話として妖刀の話を流行らせた、と考えることもできるでしょう。

ちなみに、海音寺と吉川が、このときこの研究家からもらった名刺を見ると住所は逗子でした。そして、それから数日経った日の宮本武蔵の新聞連載には、「厨子野耕介」という刀の研ぎ師が登場したそうです。

一方、村正は、妖刀どころか、徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重された、とする史実があるようです。

江戸初期の慶安4年(1651年)には、幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪がこの村正を所持していたことは、明らかである、とされます。また、幕末になると西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めたといいます。

そのため、明治以後市場には多数の村正のニセ物が出回ることになりました。もっとも、そのすぐ後に廃刀令が出たため、これらの偽物もやがて時代の中で消えていきましたが…

このほかの村正がもてはやされていたことがわかる根拠としては、「通航一覧」という歴史書内の記述があります。江戸初期の1634年(寛永11年)、訴出によって長崎奉行の竹中重義の女性問題が露見したとき、幕府におるこの竹中家の屋敷の捜査で、おびただしい金銀財宝とともに、幕府が厳しく所持を禁じていた多数の村正が発見されました。

24本も所蔵していたといい、この竹中重義は、幕府直轄の長崎奉行としては珍しく外様出身ということもあり、その後徳川家に切腹を命じられています。こうしたことからも、村正は江戸時代の初めごろからすでにコレクターの垂涎の的であったことがわかります。

私は素人なのでよくわかりませんが、村正級になると、現在においてもその刀剣としての美術的価値はかなり高いようです。正真の上出来の刀で800~900万円位もするといい、村正の銘はないものの、それと推定される短刀でも100万円以上するといいます。

切れ味もそれなりにスゴイらしく、村正作の一振と正宗作の一振の二本を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れたといいます。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったといいます。

このほかにも、村正の斬れ味にまつわる逸話は数多いようですが、ある刀剣研磨師によれば、「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」のだそうです。

この「ピリッとした他にはない痛み」に関連するような記事が、その昔、科学雑誌「ニュートン」に掲載されました。

戦前、東北大学の物理学教授で金属工学の第一人者として知られていた本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ってみたところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込みました。測定器の性能は概ね期待した通りでしたが、なぜか村正だけが測定するたびに数値が揺れて一定しなかったといいます。

この測定結果がどういう意味を持つのかはよくわかりませんが、単純によく切れる、というわけでなく、やはり「妖刀」と呼ばれるような何か電気特性のようなものを持っているのかもしれません。

ちなみに、この妖刀の不可思議な側面にあらためて感心した本多先生は、一言「これが本当の“ムラ”正だ」と論評した、といい、「あの生真面目な先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になったといいます。

それほど切れる刀なら、もし台所で使ったら、どんなことになるのだろう、などとついつい卑俗な想像をしてしまいます。生きた魚などは捌けばさぞかしスゴイ活造りができるだろうし、髪の毛ほどの太さの千切りキャベツなどもできてしまうのではないか、と思うのですが、悲しいかな、ウチには村正を買うほどのお金はありません。

お金持ちのあなた、お宅の台所用に一刀お買い求めいただき、結果をお教え願えませんでしょうか。

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