祝ハロウィン!

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明日はハロウィンだそうで、昨今は町のあちこちでおばけカボチャのディスプレイやら、魔女やお化けを模した人形などが飾られることが多くなりました。

ほんの十年ほど前までは、これほどの盛り上がりはなかったように記憶しているのですが、最近は10月末日になると、あちこちで仮装パーティが開かれることも普通になり、東京では渋谷の交差点などでいろいろな仮装をした外国人が集結し、これに対して機動隊が出動する、といったことも風物詩になりつつあるようです。

近年のハロウィーンの経済効果は1100億円に上るといわれており、バレンタインデーの1080億円、ホワイトデーの730億円を抜き去って、すでに6740億円のクリスマスに次ぐビッグイベントとなっているそうです。

その「元凶」はというと、1970年代に、「キディランド」が、ハロウィン関連商品の店頭販売を開始したことのようです。玩具製作会社のタカラトミーのグループ企業で、同社の玩具だけでなく、他のキャラクター玩具や関連書籍などを置いている店で、若い人には人気があります。

キディランド原宿店における販売促進の一環として、ハロウィン・パレードを開催したのが嚆矢といわれているようで、毎年恒例行事となりました。原宿表参道といえばファッションの発信地であり、流行に敏感な若者たちがこのハロウィンという一風変わった催しに飛びついたことで、全国に広まるようになっていったのでしょう。

無論、クリスマスなどと同様に、日本では宗教的色彩はかなり薄い行事です。このため、その意味を知りながら騒いでいるといった人は、実はほとんどいないのではないでしょうか。

もともとは、全ヨーロッパ人のご先祖様といえる、ケルト人たちの「サウィン祭」というお祭りであり、彼等の1年の終りは10月31日でした。この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられており、同じくこの時期になると有害な精霊や魔女などが地下から這い出して来ると信じられていました。

ケルト人たちが31日の夜、こうした魔物たちから身を守るために被るようになったのが仮面であり、またその仮面に合わせて仮装をすることもありました。そして、魔除けのために焚き火をしましたが、さらに時代が進むと焚火のかわりに、野菜をくりぬいた中に蝋燭を立ててランタンとする、「ジャック・オー・ランタン」を作るようになりました。

この野菜は、現在ではカボチャが主流となっていますが、カボチャを使うようになったのはこれが豊富に収穫できたアメリカで普及したためであり、その昔、ヨーロッパ諸国ではカブの一種である「ルタバガ」を使っていました。

日本産のカブにも似ていますが、別種であり、日本では「カブラ」という場合もあります。原産地はスウェーデンとされ、北欧からロシアにかけて栽培され、重要な栄養源となっていたものですが、やがてスコットランドに移入され、他のイギリス各地や北アメリカにも広まっていきました。

現代ではこのカボチャのランタンは、アメリカからヨーロッパに逆輸入されて使われているようですが、アイルランドなど一部の地域では今でもこのルタバガを使っているそうです。アメリカにジャック・オー・ランタンの風習を伝えたのもこのアイルランドからの移民といわれています。

ハロウィンのこのほかの行事としては、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat)」つまり、「お菓子をくれないと悪戯するよ」と唱える、というものがあり、お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい、とされています。

これは、古くは9世紀のヨーロッパのキリスト教における「ソウリング(Souling)という儀式が由来といわれおり、この時代のキリスト教では、11月2日が「死者の日」でした。

「ハロウィン」の語源は、カトリック教会で11月1日に祝われる「諸聖人の日(古くは「万聖節」とも)」の前晩にあたることから、諸聖人の日の英語での旧称”All Hallows”のeve(前夜)、”Hallows eve”が訛って、”Halloween”と呼ばれるようになったとされています。

一方、この万聖節が終わった翌日の11月2日は逆に「死者の日」とされ、キリスト教徒は「魂のケーキ」を乞いながら、村から村へと歩きました。ケーキといっても現在のようなものではなく、この時代には、 香辛料と干しぶどう入りの甘いパンを指します。

キリスト教徒が物乞いをし、このケーキをもらうときには、それと引き換えにその家の亡くなった親類の霊魂の天国への道を助けるためのお祈りをすると約束します。これが「魂のケーキ」であり、毎年11月2日になると、村人たちはそのためにこのパンケーキを焼いて訪れるキリスト教徒を待っていました。

古くはケルト人たちも上述のサウィン祭の期間中に徘徊する幽霊に食べ物とワインを残す古代の風習を持っていましたが、この風習がキリスト教会によってこの魂のケーキの分配に変えられたともいわれています。

魂のケーキの分配は、ヨーロッパにおけるキリスト教の広まりとともに奨励され、広まっていきましたが、これが、現在の家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄ってハロウィン・パーティーを開く、あるいは、近所の家を巡っては「トリック・オア・トリート」を繰り返して菓子をせびる、というふうに発展したわけです。

元々は11月2日に行われていたものですが、これが時代が下るにつれ、日にちの近い、10月末日のハロウィンと習合するようになったものでしょう。

私が20年ほどまえにアメリカにいたころにもハロウィンになると近所の子供たちが様々な仮装をして下宿にやって来ていたかと思います。確か何等かのお菓子を用意して待ち受けていたような記憶がありますが、なかなか楽しい行事ではありました。

ただ、日本ではこの「トリック・オア・トリート」の風習だけは伝わらず、おばけカボチャをかざる習慣と仮装の習慣だけが定着しました。

中身を理解せず、うわべだけを取って身につけるというのは、海外の風習の良いとこどりをすぐにする日本人の悪い癖ではあります。が、ハロウィンになると仮装をして町を練り歩く、というこの風習が逆に日本に滞在している外国人に大ウケしました。

いまやこうした在留外国人だけでなく、この季節になるとそれを目当てに多くの外国人が来日するといい、渋谷の交差点などで仮装しているのは日本人よりも外国人のほうが多いようです。仮装行列はアニメやコスプレとともに日本発のポップカルチャーとまで言われつつあります。

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このように、日本では仮装だけがハロウィンの行事として定着しましたが、実は「トリック・オア・トリート」と似た日本独自の行事があり、これは「ローソクもらい」といいます。

子供たちが浴衣を着て提灯を持ち、夕暮れ時から夜にかけて近所の家々を回って歌を歌い、ローソクやお菓子を貰い歩く、というもので、欧米で行われているトリック・オア・トリートとかなり似ています。

ただ、全国的な行事ではなく、北海道の富良野や函館、江差などの道南地方や札幌市など家々の密集する地域、およびその周辺の市町だけで行われているようです。時期は七夕の7月7日、あるいは旧歴の七夕である8月7日におこなわれるようです。

七夕というのは、元々は農作業で疲労した体を休めるため休日という意味合いが強い行事ですが、七夕のときに吊るす短冊は、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の幟(のぼり)とも関係しているといわれ、そういう意味では、「死者の日」が起源である、トリック・オア・トリートとも似ています。

函館の古い習俗を記した安政2年(1855年)の「函館風俗書」という博物誌には、七夕の習わしとして、子供たちがめいめいに「額灯籠(四角い形をした行燈風の灯籠)」を差し出して、柳に五色の短冊をつけて、笛や太鼓を鳴らし囃し立てて歩くようすが描かれているそうです。

ローソクもらいの習俗が北海道に根付いた説のひとつとしては、青森県の青森ねぶた、弘前ねぷたとの関連があげられており、灯籠を見せて歩く習わしは、「ねぶたッコ見てくれ」と練り歩く青森県のねぶたの習わしに似ているようです。

津軽地方では戦前までのねぶたの照明はローソクであったため、ローソクをもらって歩くことが習慣となっていたそうで、青森の西津軽、北津軽といった地方では「今年豊年 田の神祭り」などと唱え、家々を廻ってローソクをもらって歩いたり、ねぶたをリヤカーに乗せ「ローソク出さねばがっちゃくぞ」などと言いながら各家を廻り歩いていたそうです。

現在北海道で行われているローソクもらいにもそうした風習の名残が見て取れ、ローソクもらいの日には、学童前から小学校低学年の子供たちが缶灯籠や提灯を手に三々五々集まり、7人前後の集団となって、囃し歌を歌って、ローソクもらうために近隣各戸を訪ねあるくといいます。

無論、子供たちは当然お菓子を貰うことを期待しているわけですが、引越してきたばかりの人など、この行事を知らない人は囃し歌の通りにローソクをあげてしまうので子供ががっかりしてしまうことあるそうです。ただ、逆に菓子を準備していない家は菓子代としてお小遣いをあげる家もあるそうで、現代っ子にはこちらのほうが嬉しいのかもしれません。

とはいえ、最近のように物騒な世の中であることを反映し、最近では治安の悪化や火災の心配などからこうした行事を行わなくったところも多いといい、また人間関係の希薄さも手伝ってローソクもらいをするところは確実に減少しているようです。場所によっては日が沈む前の明るい時間帯に行う地域も増えてきているといいます。

このローソクもらいに関連して、「お月見泥棒」という行事をやるところもあるようです。これは、いわゆる「お月見イベント」であり、こちらはお盆や七夕ではなく、中秋の名月の夜に行われます。

十五夜の夜、飾られているお月見のお供え物を、この日に限って盗んでいいというもので、かつて江戸時代の子供たちは、竿のような長い棒の先に釘や針金をつけてお団子を盗んだといいます。この風習は、その昔は子供たちは月からの使者と考えられていたことからきており、この日に限り盗むことが許されていたためだといいます。

お供えする側も縁側の盗みやすい位置にお供えするなど工夫していたといい、現在では「お月見くださ〜い」、「お月見泥棒でーす」などと声をかけて、各家を回りお菓子をもらう風習が残っているようです。

各地にこの風習が残っているようですが、一般的、といわれるほどまでは普及しておらず、福島や茨城、千葉などの農村部でみられるほか、東京の多摩地区、甲府のほか、愛知県や三重、奈良、大阪、大分などで似たような風習があるとか。ほかに、鹿児島の与論島や沖縄の宮古島でも同じようなものがあるといいます。

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しかし、こうした日本の「ローソクもらい」や「お月見泥棒」では、ハロウィのような仮装は伴いません。ハロウィンで仮装をしてトリック・オア・トリートをやるのは、時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るためでしたが、日本では自らが化けるという発想はなく、もっぱら火や鳴り物で魔物を退散させるという行事が多いようです。

一方、ハロウィンで仮装されるものには、魔物を退散させるためには目には目ということで、一般的には「恐ろしい」と思われているものが選ばれる傾向があります。

たとえば幽霊、魔女、コウモリ、悪魔、黒猫、ゴブリン、バンシー、ゾンビなどの民間で伝承されるものや、ドラキュラや狼男、フランケンシュタインのような欧米の怪談や恐怖小説に登場する怪物などです。

日本でもこうした怖いもの、恐ろしい者に扮するということは昔から行われており、その代表例がお化け屋敷であり、そのルーツは江戸時代の見世物小屋にあります。へび女やタコ女・タコ娘、手足のなりだるま女に奇形動物、生人形といった不気味なものが江戸の庶民は大好きでした。

お化けに扮するというのもそうした見世物小屋の見世物の中から出てきたものと考えられますが、ただ日本では、こうした「仮装」は欧米のハロウィンのような年中行事とは習合しませんでした。

こうした見世物小屋でのお化けや、お伊勢参り、富士登山などの宗教における集団参詣の仮装、あるいは民衆踊りの際に仮装などなどで、それらの多くは単独で普及したものがほとんどで、年間行事とは無縁です。

また、江戸時代の京都では、人気芸妓が歴史上の人物や物語の登場人物に扮して祇園などを練り歩く、ということが行われたいたそうで、途中で馴染み客から「所望!」という呼び声が掛かると、立ち止まって役にちなんだ舞を披露する「ねりもの」と呼ばれる仮装行列がありました。

一方の欧米では、いわゆるカーニバル、と呼ばれるものの中で仮装が普及しましたが、このカーニバルとは何かといえば、そもそもこれはカトリックなど西方教会の文化圏で見られる「謝肉祭」と呼ばれるお祭り行事のことです。

カーニバルの語源は、ラテン語のcarnem(肉を)levare(取り除く)に由来し、肉に別れを告げる宴のことを指しました。「断食の前夜」の意で、カトリックでは、イエス・キリストの受難に心をはせるためにこのとき断食を行っていました。もっとも現在では「食事制限」になっており、1日に1回十分な食事を摂り、あとの2食は少ない量に抑える程度です。

その断食祭りがなぜ仮装につながったかについては諸説あるようですが、その昔のカトリック信者たちは、その祭りの最後に自分たちの日頃の罪深さを大きな藁人形に転嫁し、それを火あぶりにして閉幕するというのがお決まりだったといいます。そして、やがては自分たちがその藁人形そのものに扮するということが行われるようになったのでしょう。

このほか欧米では仮装舞踏会や仮面舞踏会がなどでも仮装をしますが、これらもそもそもは婚礼などのめでたい行事の一環として行われていたものであり、ハロウィンやカーニバルと同様にお祭りごとの余興として発展したものです。

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このようにただ一口に仮装といっても、その中身やそれが行われるようになった背景には文化の違いあります。日本と欧米それぞれの歴史があるわけですが、ただ、最近ではそうしたものがごっちゃになり、何が何だかよくわからなくなりつつあります。

仮装とコスプレの違いは何か、といわれて、それは何とすぐに答えられる人も少ないのではないでしょうか。仮装の定義としては、「着用者の本来の属性・立場とは異なる服装をするもの」ということになり、一般的には、自分の立場を秘匿し別人であることを装う「変装」とは区別されます。

また「扮装」という言葉を使うこともありますが、これは主に演劇や舞台芸術における衣裳を指します。近年では、仮装に用いられるこうした衣服・装身具の一式を衣裳やコスチューム等とも言いますが、この「コスチューム」なるものの定義によっては、従来の仮装が「コスプレ」になる、というのが一般的な解釈のようです。

そもそもこのコスチュームなるものは、SFの世界から出てきたものです。1960年代後半のアメリカでは、「SF大会」とよばれるイベントがSFファンの間で開かれるようになり、この頃の人気番組、「スタートレック」などのSF作品に登場する人物の仮装大会が行われていました。

日本においてもこのアメリカで主に開かれていたSF大会の影響を強く受けた日本SF大会が1960年代末から1970年代から行われるようになり、この中のプログラムのひとつとして、「コスチューム・ショー」が取り入れられていました。最初にこのショーが行われたのは1974年の京都大会だそうで、翌年からは毎年行われるようになりました。

1978年に神奈川県芦ノ湖で開催された第17回日本SF大会の仮装パーティーにおいては、当時はファンの一人だったSF評論家の小谷真理やひかわ玲子らで構成されたファンタジーサークル「ローレリアス」が、「火星の秘密兵器(創元SF文庫)」というSFの登場人物に扮した格好で参加しました。

これを見た参加者がその姿を見て、この当時に日本で流行っていたアニメ「海のトリトン」の仮装だと勘違いし、本人らも強く否定しなかったことから、いつの間にか、日本のコスプレ第1号は、海のトリトンだ、と言われるようになったそうです。

実際にはその後も毎年行われている日本SF大会の中で出てきた別のアニメキャラのコスプレが第一号なのでしょうが、それが何だったのかはもううあやふやになっており、ともかくも日本のコスプレ第一号や海のトリトンということになりました。また、以後、毎年のようにこうしたコスプレのコンテストが行なわれるようになりました。

ただ、この当時はまだSFの主人公になりきる、「架空の人物に扮する」という行為をする人達は、活字でのSFファンが多勢を占めていた当時において特異な存在であり、ともすれば異端とみなされる、という風潮もありました。

このためコスプレをやる連中というのは、自称「SFファン」とする一般のSFファンとは一線を画す、少数の限られた嗜好団体でした。

しかし、SFファンというのは、これらのコスプレファンも含めてそもそもがかなりオタッキーな連中であり、かなりマニアックな知識持っている反面、何かと白い目で見られることも多く、こうしたSFファンクラブというものに対しては、何かしら一見識がないと参加しづらい、という一面がありました。

これに対して、コスプレというのは、ひと目みただけで、それが何者なのか、というのが想像できるという特徴があり、このため、それまでハードルの高かったSFのコミュニティーに、「単に参加してみたかっただけ」というライトなSF層にも受けました。

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その後、「仮装」という見た目がわかりやすい形でSF大会へ参加するこうしたライトSF層の人々が増え、それまで「覗き見」だけだった者らも取り込んでSFファン層はどんどんと厚くなってきました。

一方では、こうしたSFとは別に、日本独特の文化である、「漫画」の世界でもコスプレは行われるようになっていきます。同人(同好の士)が、資金を出して漫画雑誌を作成、共同で販売するという、いわゆる「同人誌」の即売会等でもコスプレは行なわれるようになりました。

このころから、単にアニメの仮装と呼ばれていたマンガやアニメの扮装をすることをコスチュームプレイと呼ぶようになり、元は少女マンガの同人作家やファンがコミケ(同人誌即売会、コミックマーケットの略)をお祭りの場として派手な格好をしていた中から、アニメのキャラクターの扮装をする者が現われ、徐々に増えていきました。

1977年になってこうしたコミケにおいて、上述の「海のトリトン」の衣装をした少女が登場して注目を集めましたが、これがSF大会とコミケの世界が合体した最初の出来事だったようです。その次の回には「科学忍者隊ガッチャマン」のコスプレが登場し、徐々に広まっていきました。

その後、こうしたSFの世界とコミケの世界の融合は続きます。1979年にテレビで放送されるようになった「機動戦士ガンダム」はかなりSF色の強いアニメであり、ガンダムの登場人物になりきるコスプレファンの中には多くのSFファンが包含されていました。

1970年代後半に大ヒットしたSF映画「スター・ウォーズ」の人気により、アメリカでもコスプレはさらにポピュラーとなり、「機動戦士ガンダム」などの日本のアニメも人気を博しました。

これによりアメリカ全土で行なわれるようになったアニメコンベンションなどのイベントでは日本の漫画やアニメのキャラクターに扮する光景が見られるようになり、SF大会におけるコスプレと双璧をなすようになっていきました。

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一方の日本でも1990年代にはコスプレの人口は増大し続け、コミケのコスプレイヤーは1991年には約200人、1994年に約6000人、1997年には約8000人を数えました。その後ヒットしたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の流行もあり、こうしたコミケなどの世界は「サブカルチャー」とまで言われるようになっていきます。

これと同時にコスプレという用語・行為も普及し、1990年代初頭のビジュアル系バンドブームの火付け役となるX JAPANのライブではファンによる凝ったコスプレが披露され、これがまた、コスプレの流行に拍車をかけました。

この頃から商業資本もコスプレに着目するようになり、従来、コスプレ衣装はコスプレイヤーによる自家製によるものしかありませんでしたが、これを既製服として製作・販売する業者が現れ、「コスチュームパラダイス(現・コスパ)」と呼ばれるようなコスプレを専門に製作するような会社も現れました。

こうした業者が製造するコスプレ衣装は、製作者の技術に出来が左右される自家製の物に対してかなりハイレベルで、しかも一定レベル以上の品質を保っていたために人気を集め、ブランドを確立することに成功しました。以後、これを真似るコスプレ衣装製作業社が増えた事で市場はさらに拡大していきました。

イベントについても、それまではコミックマーケットを始めとする同人誌即売会や、日本SF大会等において付随的に行われていた状態から、コスプレ単独のイベントも開催されるようになりました。

形式としては、コスプレをしてダンスミュージックやアニメソングに合わせて踊る「コスプレダンスパーティーや、コスプレイヤー同士が互いに交流や撮影を行ったり、アマチュアカメラマン(カメラ小僧)に撮影の場を提供する撮影会などがあるようです。

模型メーカーによって射出成形で大量生産されるプラモデルに対し、少数生産向きの方法で作られる組み立て模型を「ガレージキット」と呼び、個人やグループ、小規模なメーカーなどで作られますが、こうしたガレージキットにおいてもSFやアニメのフィギアは人気です。

ミニチュア模型で有名な造形メーカー、海洋堂は、こうしたガレージキットを製作する小規模製造業者を集めた「ワンダーフェスティバル」と呼ばれる見本市などを開催していますが、ここにも多くのSFファンやアニメファンが訪れ、彼等の中に混じって行われるコスプレのパフォーマンスが人気を博すようになっています。

2003年からはテレビ東京系のテレビ愛知が主催となって、名古屋市内を会場とし、世界各地の著名なコスプレイヤーを日本に招いて「世界コスプレサミット」が開催されるようになっています。このコスプレサミットは2005年は名古屋市内だけではなく愛・地球博会場でも行われました。

2005年に紀宮清子内親王が黒田慶樹と結婚した際に、結婚披露宴で着用したウェディングドレスは、「ルパン三世 カリオストロの城」のヒロイン、クラリス姫だったそうで、いまやコスプレ文化は皇室にまで浸透しつつあるようです。

また、日本発のコスプレは世界に進出しつつあります。欧米諸国を始め、東アジア諸国ではコスプレを行なう層が増えており、各国で行われているコスプレサミットなどにおいては、日本人から見ると想像もつかないほどの盛り上がりとなっているところもあります。

日本人のコスプレに対するイメージは、とかく「オタクがやるもの」になりがちですが、これに対して、外国人のイメージが「何かになりきってみんなで騒ぐのは最高」という、いわば変身願望の延長線にあるもののようで、そのイメージの違いは甚大です。

お隣の中国でも、日本の漫画やアニメを愛好する者によるコスプレが流行っているそうで、コスプレは中国語では「角色扮演」と書くそうです。中国政府は「国家事業」としてコスプレイベントの全国大会である角色扮演嘉年華(コスプレカーニバル)を毎年主催しているといいます。

しかし、中国にはもともと様々な題材で仮装して劇を行う文化があり、日本発の角色扮演もわりとすんなりと受け入れられる土台があったようです。同好会を作って数人でキャラクターに扮し、昔ながらの「寸劇」を行うことも普通に行われており、日本作品のコスプレも大人気だといいます。

いま何かと問題になっている、南沙諸島に駐留している中国兵士たちにも、いっそのこと甲殻機動隊のコスチュームや甲冑を着せたりさせれば、諸外国からの批判も多少和らぐかとも思うのですが、どうでしょう。しかし、逆にGIジョーや、スターウォーズキャラの扮装だと、さらにアメリカの怒りを買い、扮装が紛争に化けてしまうかもしれませんが。

なので、どうせ日本の真似をするなら、彦ニャンやクマモンなどのゆるきゃらにすれば、何かと話題のタネになるかと思うのですが、そこのところ、森元首相似の周金平さん、いかがでしょうか。

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8まん

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先々週の大雨といい、先週末の戦後最悪の法律の可決といい、どうもこの9月はかなり記憶に残りそうな月になりそうです。

さまざまな凄惨な事件も勃発しており、テレビをみるたびに、あ~またか、と少々暗い気持ちになってきます。

しかし、明るい出来事もあり、先日は、ラクビーで日本代表が優勝候補の南アフリカを破るという快挙もありました。この連休中は、全国的にお天気にも恵まれたようで、一歩外へ出てみれば、開かる日陽射しの中咲き乱れるヒガンバナと、どこからともなく匂うキンモクセイの香りに包まれて、うっとりとしてきそうです。

そんななか……明日はもうお彼岸、ということで、お墓詣りに行かれる方も多いことでしょう。が、連休中ということで、遠方に墓所がある人たちは、さぞかしその移動に苦労をされていることかと拝察いたします。

ここ伊豆も、天気がまずまずということもあり、あちこちで渋滞が起こっています。いつものことではあるのですが、ほかに観光地も多いのだから、もう少し分散してくれんかな、と思ったりもします。

しかし、風光明媚な海に山、数々のレジャースポットがあり、しかも東京、名古屋からもさほど遠くないこの地に観光客が集まるのはあたりまえで、そうしたところを住処に選んでしまった以上は仕方ないかな、とも思います。

その伊豆のジオパークへの登録も昨今話題になっています。残念ながら、今回鳥取市で開かれた国際会議では、議論を重ねたものの、結論が出ず、保留となりました。しかし、世界ジオパークネットワーク(GGN、本部パリ)は、「後日指示を送るので、早急に詳細な資料の追加を」と11月までの書類提出を日本お推進協議会協側に求めたそうです。

つまり、今回の決定は認可の却下ではなく、継続審議ということのようです。送った書類が彼等の期待するような内容ならば、早ければ11月中に認定の可否が再度決定される可能性があるといいます。

世界ジオパークの不認定には、保留のほか、再び現地審査が必要な場合と、地質自体が評価できず認定を却下される場合があるようです。が、今回は追加資料の提出のみが求められており、最も認定に近い評価だったといいます。早期の認定に期待したいと思います。

今回伊豆はジオパークに認定なりませんでしたが、同時に審査を受けたアポイ岳(北海道様似(さまに)町)は認定を受けました。これは、北海道南部、襟裳岬の少し西にある山です。日高山脈の西南端に位置し、一等三角点を持ち、標高は810.5mあります。

ウチのすぐ近くにある、金冠山という山が標高816mですからほぼ同じです。こちらは、昔の達磨山火山が浸食されてできた一峰ですが、アポイ岳も、地名の由来はアイヌ語の「アペ・オ・イ」(火のあるところ)だそうなので、昔は火山だったのかもしれません。

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が、調べてみると違いました。そもそもアポイ岳を含む日高山脈は、約1300万年前に、北海道東側に広がる北米プレートが、その西側のユーラシアプレートに乗り上げてできました。その際、プレートとプレートの激しい衝突は、北米プレートの端っこをめくれ上がらせ、結果としてプレート端部を地表に表出させました。

文字に例えると、三→川、といった感じです。つまり、プレートの端っこが90度近くねじ曲がり、完全に上向きになってその断面が表出しました。これが隆起したまま残り、日高山脈になりました。そしてその一部が、アポイ岳になったというわけです。

アポイ岳を含む日高山脈には、このときのめくれ上がりによって、地質の異なる岩石が東西に順序良く横倒しで並んでいます。このような場所は世界的に見てもほとんどなく、地球内部の様子を知るうえでの貴重な学術標本といえます。しかも、このうちのアポイ岳の部分は、「かんらん岩」という特殊な地層でした。

「幌満橄欖岩(ほろまんかんらんがん)」と呼ばれているかんらん岩でできており、特殊なものです。そもそも、かんらん岩はマントル上部を構成する岩石の一つであり、そのほとんどが地下深くに存在するため、普段あまり我々が目にすることはありません。

地表で見られるものには、マグマ等が急激に上昇する際に引きずり込まれて「捕獲岩」として運ばれてきたものがあります。が、アポイ岳の場合は、プレートとプレートとのぶつかり合いによって地殻がまくれあがってマントル物質が地表に現れたものであり、非常に珍しいものです。

ちなみに、かんらん岩はより高圧な力がかかると、いわゆる「柘榴石」という宝石を含むかんらん岩となります。柘榴石は、いわゆる、「ガーネット」という宝石で、世界的にみても、西アルプス、ボヘミア、ノルウェーなど10ヵ所くらいで見つかっているにすぎません。

残念ながら、アポイ岳の、幌満かんらん岩には、ザクロ石そのものは入っていないようです。が、ザクロ石が周りの条件の変化に合わせて輝石やスピネルといった鉱物に分解してしまったあとが観察されているそうです。また、日高山脈の他の箇所では、実際にザクロ石が見つかっているそうです。

このアポイ岳は、こうした地質的な特徴以外にも、様々な豊かな自然を包括しており、1952年には、その高山植物帯が「アポイ岳高山植物群落」として国の特別天然記念物に指定されています。また、1981年には日高山脈襟裳国定公園の特別保護区となっています。「アポイ岳と高山植物群落」として日本の地質百選にも認定されているそうです。

標高が低いわりに、特殊な岩体のため森林が発達せず、「蛇紋岩植物」が生育する高山植物の宝庫としても有名であり、花の百名山となっているといいます。今回世界ジオパークにも登録されたことで、ハイカーなどの人気が出てきそうです。が、今後は、くれぐれもその豊かな自然が壊されないことを祈りたいところです。

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ところで、このアポイ岳がある、様似町には、私も行ったことがあります。町内を流れる様似川の上流に、様似ダムというダムがあり、ここに魚道が設置されている、というので、このころ魚道の調査設計に関わる技師だった私も見学に行きました。

北海道にありがちなだだっ広いながらも簡素な町で、住んでいる方々には大変失礼かもしれませんが、少々寂しいかんじがします(何もないとは言いませんが)。人口は、5000人を切っており、現在4700人ほどです。

町名のサマニは、アイヌ語起源の地名です。語源については「サマムニ」または「サムンニ」(倒れ木)、エサマンペッ(カワウソの川)など諸説あり、はっきりしたことは分からないようです。

江戸時代(1600年ごろ)に砂金採取のために和人が多数移り住むようになり、その後、1906年(明治39年) 様似郡様似村を含む周辺村落が成立しました。1952年(昭和27年)、これらの周辺の村々を吸収して、町制が施行され、現在に至っています。

寂しい町と書きましたが、基幹産業は漁業で、昆布などが獲れるほか豊かな海の幸に恵まれた町です。また、稲作、酪農がさかんなほか、馬産などもおこなわれています。

その関係から、元JRA騎手で、JRA賞最優秀新人賞、NHK杯、G1タイトルなどを獲得した岡潤一郎(若くしてレースで事故死)、厳しい調教で数多くの名馬を生み出したJRA調教師の松田国英などを輩出しています。

このほか、函館大経(だいけい、またはひろつね)という明治の陸軍軍人を出しており、この人はのちに、北海道開拓使職員、北海道庁職員として馬の生産、馬術の普及に関わるようになりました。私的にも、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献し、現代では「伝説の馬術師」ともして言い伝えられるほどの人です。

1847年生まれといいますから、第14代将軍の徳川家茂が生まれた年であり、これより7年ほどのちのペリー来航前の「夜明け前」の時代の人です。武士の子だったようですが、貧しかったからか海産商・小野市右衛門の養子となり上京。昌平坂学問所において漢学を学びました。

明治政府誕生後は陸軍)に属し、1868年よりフランスの軍騎兵士官、ペルセルという人の下で馬術を習得。陸軍省兵学寮に所属していた1870年、東京招魂社例大祭において行われた天覧競馬において優れた乗馬技術を見せ、横浜レース・クラブ所属の外国人騎手とのマッチレースを制しました。

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この活躍が明治天皇の目にとまったことがきっかけで、のちに開拓使、次いで北海道庁に採用され、馬の生産技術の向上に努めるとともに、持ち前の馬術の技を後人に伝えるようになりました。また、この出来事を境に名を「函館大経」と改めました。

「函館」という変わった姓は、明治天皇からの下賜品を辞退した際、代わりに函館姓を与えられた、という説や北海道を視察中の明治天皇の目にとまり、函館姓を与えられたという説など色々な説があるようです。出生時の氏名は斎藤義三郎ですが、このとき名前のほうも大経と改めました。改名後も数回、明治天皇の前で馬術を披露しています。

34歳のとき、函館支庁長だった時任為基(のちの元老院議官、貴族院議員)の提案により現在の函館市海岸町で行われた競馬に協力したのをきっかけに定期的な競馬開催を目指すようになり、2年後に「北海共同競馬会社」を設立。同社は、海岸町に函館海岸町競馬場を開設し、競馬を開催し始めました。

のちに同社は「函館共同競馬会」と名を変え、1896年(明治29年)に現在の「函館競馬場」を建設しました。その後も同競馬会でも役員を務めるなど長年にわたり函館競馬の役員を務めました。

北海道庁を退官後は獣医、蹄鉄業を営み、のちに「湯の川競馬会社」に勤務し、人々に乗馬技術を伝授しました。その卓抜した騎乗技術は現在にも様々な逸話として言い伝えられており、中には「糸乗り伝説」といい、絹糸1本で馬を御したという話もあります。

晩年、馬に蹴られた右足が思うように動かなくなりましたが、その後も技術は健在で、難なく馬を乗りこなしたといいます。1907年に死去。享年61。墓所は函館市内にあります。

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このように、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献したわけですが、こういう、競馬にかかわるすべての事に関わる人のことを、「ホースマン」というそうです。
生産者・調教師・騎手・厩務員・馬主・調教助手・獣医師・装蹄師・騎乗依頼仲介者などさまざまなことに関わるため、いわば競馬界における、キーマン、ドンです。

大経の門下生からは、日本の近代競馬を支えたホースマンが数多く育ちました。現在もその流れを汲むホースマンは中央競馬、地方競馬、生産者などに数多く存在しており、日本国内でも最古かつ最大級のホースマンの系譜のひとつだそうです。

たとえば、現代競馬で最も著名な騎手の一人、武豊は大経の直弟子の「武彦七」の子孫です。この武彦七の兄の園田実徳は、日本の近代競馬黎明期の有力者でもあり、大経が発足させた、上述の「北海道共同競馬会社」の発起人の一人に名を連ねていました。

また、現在の競馬界の調教師の大御所といわれ、元騎手でもあった、大久保正陽とその子の大久保龍志(同じく元騎手で現調教師)はやはり、大経の直弟子の大久保福松の子孫です。また、戦後の地方競馬にも大経由来の系譜は存在し、その多くを辿れば、やがて大経に行き着くといいます。

なお、現在の競馬界においては、社台グループという、競走馬生産牧場集団があり、これは今日世界最大規模の競走馬生産育成グループです。中国系かな?と思ったらそうではなく、こちらは、吉田 善哉(ぜんや)という、札幌市出身の元酪農家が創始者です。

父の吉田善助は、戦前、日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、その後息子の善哉が農場を引き継いで、現在の社台グループを築き上げました。函館大経とは無縁の人のようですが、この人も競馬界では立志伝中の人のようです。

わずか8頭の繁殖牝馬をもって元々勤めていた牧場から独立後、アメリカに渡り、現地の先進的な生産・育成方法を学んで、現在の王国を築き上げました。が、この話は長くなりそうなので、また別の機会に改めましょう。

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様似町は、このように函館大経を初めとして、現在の日本競馬界にとってかけがえのない人達を輩出してきましたが、このほか、出身者ではありませんが、幼少のころ、ここで育った人物として、桑田二郎という漫画家さんがいらっしゃいます。

今では知らない人も多いと思いますが、その代表作である、「まぼろし探偵」、「月光仮面」、「8マン」と聞けば、あ~あのひとか、と誰でもが知っているでしょう。

13歳の中学生だった1948年に「奇怪星團」でデビュー。その後月光仮面ほか、数々の名作を手がけ、少年漫画誌の歴史にその名を残しました。「残しました」と過去形で書きましたが、今もってご健在です。80歳の現在では、少年漫画の世界を脱し、独特な精神世界の漫画化に取り組んでおられます。

若いころから、その描線の美しさは特筆もので、手塚治虫と双璧と言われていました。実際、病床の手塚治虫に代わって「鉄腕アトム」の代筆を務めたこともあるといい、私も子供のころに桑田さんの描いた漫画を少年漫画誌で読むのを楽しみにしていました。

様似にいたのは、小学校までだったようです。生まれたのは大阪府吹田市でしたが、お父さんの仕事の関係でしょうか、北海道でその幼少期を過ごしました。が、その後、家族とともに大阪に戻っています。

大阪では、両親と兄のつましい4人暮らしの新生活が始まりました。が、詳しいことはよくわかりませんが、このころどうやらお父さんが何等かの病気に罹ったようで、これが桑田さんにとっての転機になったようです。

中学に上がった13歳のころであり、元々漫画好きであった彼は、自分の作品を地元の出版社を回り自作を売り込んだところ、ある会社に認められました。そして1948年に単行本化されたのが、デビュー作のSF、「奇怪星團(怪奇星団とも)」です。

以後、継続して作品を発表するようになり、その原稿料は微々たるものではありましたが、これで病気で職を失った父の代わりに家計を支えていくことができるようになりました。
しかし、苦しい生活状況の中、望んでいた高校進学も叶わず、本格的に漫画の仕事で身を立てようと中学3年で単身横浜に越し、雑誌の漫画を手がけるようになりました。

そんな桑田さんが注目されるようになったのが、22歳の時に描いた「まぼろし探偵」でした。そして1年後の58年、大ヒット作「月光仮面」の仕事が舞い込みます。連載したのは少年マガジンの前身である「少年クラブ」。

当時、この月光仮面の連載だけで発行部数が3倍に伸びたといわれ、桑田さんの睡眠時間はナポレオンをしのぐ1日3時間だったといいます。ファンレターだけでなく、毎年正月の年賀状はミカン箱いっぱい届くようになりました。その人気が買われ、5年後、月光仮面に続くヒーローとして描いたのが「8マン」でした。

この作品は、当時の「週刊少年マガジン」の看板作品で、その後テレビアニメ化もされました。ちなみに、私はこのころまだ小学生の低学年でしたが、毎週親にせがんではこのマガジンを手に入れ、8マンを読むのが楽しみでした。

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この8マンという名前のいわれですが、実は「8人目の刑事で8マン」ということだったようです。当時TBSで放送されて人気だった刑事ドラマ「七人の刑事」を踏まえたもので、8マンも元は東八郎という刑事でした。

ちなみにこの名前は同性同盟の有名コメディアン、東八郎(故人)とは全く関係ありません。コメディアンのほうの東八郎の芸名は、この当時所属していた浅草フランス座を経営する“東”洋興業創業者の松倉宇“七”にちなんだものだそうです。

刑事だった東八郎は、あるとき凶悪犯の「デンデン虫」の奸計に嵌って射殺されてしまいます(アニメ版では車で轢き殺される)。ところが、この刑事・東の死を、ちょうどスーパーロボットの開発をしていた、科学者・谷方位(ほうい)博士がたまたま知ります。

そしてこの谷博士によって、東刑事の人格と記憶はこの開発中のスーパーロボットの電子頭脳に移植され、警視庁捜査一課にある7つの捜査班のいずれにも属しない八番目の男「8マン」として甦りました。

平時は粋なダブルの背広姿の私立探偵・東八郎ですが、ひとたび事件が起き、上司の田中課長から要請を受けると8マンに変身し、数々の難事件・怪事件に立ち向かいます。8マンのボディは、谷博士が国外から持ち込んだ戦闘用ロボット「08号」でした。

ハイマンガンスチール製の身体(???)、超音波も聞き取れる耳、通常の壁なら透視できる「透視装置」の付いた眼、最高3000km/hで走れる能力(加速装置)を持ち、原子力(ウラニウム)をエネルギー源とした活動します。なお、漫画版では眼から紫外線を放つこともできました(……)。

電子頭脳のオーバーヒートを抑えるため、ベルトのバックルに収めてある「タバコ型冷却剤(強化剤)」を定期的に服用しなければならず、時には服用できずに危機に陥ることがありました。

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……とまあ現在みれば結構荒唐無稽な話しではあるのですが、死んだ刑事をロボットとして蘇らせる、という話はなるほど読むものを惹きつけます。そういえばどこかで似たような話があったな、と思ったら、アメリカ映画の「ロボコップ」もまた死んだ刑事をロボットとして復活させる話でした。

もしかして、ロボコップの原題は、8マン?と思って調べてみたのですが、どうやら偶然のようです。ただ、ロボコップの映画製作の際、監督のポール・バーホーベンは、このヒーローの外観モデルを日本の特撮ヒーローに求めたといいます。「宇宙刑事ギャバン」がそれで、これをデザインしたのは、元バンダイ専務で、デザイナーの村上克司という人でした。

バーホーベンから、村上に対してデザイン引用の許諾を求める手紙が送られたそうで、村上はこれを快諾したといいます。

宇宙刑事ギャバンは、かつて宇宙刑事として地球に赴任していた宇宙人と、日本人女性の間にできた子供、という設定のため、8マンやロボコップとは少々ストーリーが異なります。が、バーホーベン監督が、こうした日本の特撮モノなどを含め、日本の映画やアニメを研究していた、ということはあるかもしれません。

アメリカでは、アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーの関連会社ABCフィルムズが8マンの放映権を取得し、1964年から「The Eighth Man」の題名で、ネットワークに乗らない番組販売の形で放送されていました。なので、バーホーベン監督もこれを見ていた可能性があります。

ちなみに、8マンの原作者は、「幻魔大戦」などで有名なSF作家、平井和正さんです(故人)。桑田さんは平井さんの原作をもとに8マンの作画を担当しましたが、この二人はその後も数多くの作品を共同で仕上げています。その二人が、ある雑誌で対談したとき、やはりこのロボコップと「設定が酷似しているよね」という話をしていたそうです。

漫画版の8マンは、少年マガジンに連載されて好評でしたが、と同時に1963年11月からは、テレビアニメ化されて、こちらも人気を博しました。主人公の躍動感あふれる構図に加え、タバコ型の強化剤を吸うシーンは当時の子供達に影響を与え、放送時にはタイアップで発売されたシガレット型の固形ココアが人気を得ました。

スポンサーは丸美屋食品工業で、この「ココア型シガレット」を愛用していたオヤジ少年は多いでしょう。私もそのひとりです。また、8マンは、同社のふりかけのキャラクターにもなりました。

アニメ化したのはTBSで、同社にとっては初の自社制作によるアニメ参入作品でした。最高視聴率は1964年9月17日放送の25.3%。漫画版の表記は数字の「8マン」でしたが、テレビアニメ版の表記はカタカナの「エイトマン」に変更されました。これは放送されたTBSが6チャンネルであり、8チャンネルはフジテレビだったからだそうです。

また、漫画版では、8マンのボディを開発したのはアメリカのNASAでしたが、アニメ版では、アマルコ共和国という架空の国家で製作された、というふうに変更されていました。

番組は1964年12月31日まで、およそ1年続きましたが、話その物は前週の同年12月24日で終了しており、この最後の放送は次番組「スーパージェッター」の宣伝を兼ねた最終回特番「さよならエイトマン」でした。

実は私はこのエイトマンを毎週楽しみに見ており、なぜか急にこの番組が打ち切りになったのを不思議でしょうがありませんでした。しかし、次回作のスーパージェッターは、8マンを凌ぐ面白さであり、その後このことを長らく忘れていました。

ところが、この項を書いていてわかったのですが、実は、漫画のほうの8マンの連載中、桑田さんが拳銃不法所持による銃刀法違反で逮捕される、という事件があったのだそうです。このため、連載は急遽打ち切りとなりましたが、おそらくテレビのほうもこれにのっとって、強制的に終了させる、という裁断がなされたのでしょう。

いかにも残念な話しではあるのですが、その後、エイトマンは不朽の名作として語り継がれていくことになります。1975年に広島カープをリーグ優勝に導いた山本浩二選手の背番号は8番であり、ミスター赤ヘルの称号とともに、「エイトマン」と呼ばれて人々に親しまれました(そういえば、今年のカープはもうだめでしょうか……)。

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桑田さんはその後、ウルトラセブン(朝日ソノラマ、1978)、怪奇大作戦(朝日ソノラマ、1978)ゴッド・アーム(原作:梶原一騎、双葉社、1979)などの名作を残しましたが、「42歳の厄年」を境に少年漫画界から身を引きました。

その後は、精神世界の漫画化を始め、「マンガで読む般若心経」「マンガ チベット死者の書」「マンガエッセイでつづる魂の目」といった著作(漫画だけでなく文筆も)が多数あります。

若いころ、売れる一方で2度の結婚離婚を経験したそうです。こうした出来事は、デビュー当初から胸に巣食っていた「生きることのむなしさ」を、やがて「死」を現実に近づけたといいます。そして、漫画を描いても一生懸命になれない自分を見つめ直すために、42歳で少年漫画界から身を引いたのだといいます。

収入は無くなり、蓄えも底をつく苦しい暮らしの中で、精神的な放浪を繰り返し、やがてたどり着いたのが瞑想だったといいます。それを機に仏教教典や聖書、論語、古事記などあらゆる教えを読みふけるようになり、その内容を咀嚼することで自分の役目も見えてきました。

やがて「難解な内容も漫画であれば表現できるかも」とも思いはじめ、50歳のころ「般若心経」の漫画を描き始めると、タイミングよく出版社から出版依頼がきました。シリーズ全3巻のこの「マンガで読む般若心経」は大ヒットを飛ばし、再版を重ねました。

テレビや各マスコミでも取り上げられ、続編の「マンガで読む論語」「宮本武蔵―五輪の書」などを次々に発刊できるようになり、経済的な危機を脱しました。

その後、縁あって茨城県の鉾田市に東京から移り住んだのは1986年ころだといいます。鹿島灘に面する、農業が基幹産業ののんびりとした町です。一帯は別荘地として開発されたこともありましたが、バブルがはじけてからは、元の閑散とした寒村に戻りました。

鉾田市へ合併する前、大洋村、といわれていた当時の村の村長の勧めで仕事場兼住居の家を建てることになり、以来、1人で暮らしておられるようです。後半人生で新たな花を咲かせる「花咲か爺さん」と呼ばれているそうです。

「私のヒーロー漫画で育った人も今は実年世代。いろいろあるでしょうけど夢を忘れず明るく生きてほしいですね」とは、ウェブ記事でみつけた、近年の桑田さんの言葉です。私自身、励みにしたいと思います 。

最近では、ニンテンドーDSゲーム用の「It’s tehodoki! 般若心経入門」といった作品もあるそうです。秋の夜長にふけってみてはいかがでしょうか。

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