ネオ・ファウスト

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11月になりました。

もう既に何度も書いているように、今年はまだこれといって何を成し遂げたでもなく、不完全燃焼感がずっと続いているのですが、あともう2ヵ月ともなると、あはははは、と笑って開き直るしかしょうがないな、という気分にもなってきます。

ま、深まる秋を満喫しながら、ケセラセラで今年残りの日々を過ごすか、と考えたりもしています。明日は休日だし、何も考えずにぶらりと散歩など出かけると、良い気分転換になるかもしれません。

その11月3日は文化の日です。しかし、そもそもなんで文化の日なのかな、と改めて調べてみたところ、これは日本国憲法が公布された日であり、憲法記念日でもあるようです。

しかし、憲法記念日は別にあり、これは5月3日です。1947年(昭和22年)のこの日に日本国憲法が施行されたことを記念して作られた休日です。

つまり、11月3日は憲法が「公布」された日であり、5月3日は「施行」された日です。その違いは、公布は、成立した法令の内容を広く一般に周知させるため公示する、つまり広く人々に知らしめるという行為であり、施行は、成立した法令を発効させること、すなわち法的に有効になることです。

憲法が公布されたのは、1946年(昭和21年)の11月3日であり、施行されたのは、その6ヵ月後の1947年(昭和22年)の5月3日です。おそらくは、発布から半年後に正式に施行になる、という取り決めのもとに憲法の公布が国会で認められたためでしょう。

ところが、この憲法発布はもともと11月1日の予定であったといいます。ところが、GHQ側が、その日だけは絶対にだめだと主張したのだそうです。その理由は、その半年後の5月1日は、メーデーと重なるためでした。

第二次世界大戦敗戦翌年の1946年のメーデー、5月1日には、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれました。これは別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」と呼ばれました。

全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まりましたが、5月12日には「米よこせ」を叫ぶ市民が宮城内に入るという騒ぎに発展し、さらに同19日には「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、「民主人民政府の樹立」が決議されるなどの混乱が生まれました。

これを見たGHQは、翌年のメーデーもまた同じ騒動に発展するのを恐れたのでしょう。その後憲法の発布を11月1日に予定していたものの、強引に11月3日にしろ、と日本政府に働きかけました。

参議院の議員たちは反対したようですが、衆議院のほうで11月3日に同意してしまい、結局押し切られてしまいます。このため半年後の5月3日が憲法の施行日となり、と同時に自動的にこの日が憲法記念日となりました。

反対した参議院側は衆議院からもGHQからもつんぼさじきにされて孤立する事態になりましたが、このときどうやら、GHQ側から、変更案に賛成するなら何等かの恩恵を与えてやる、という提案があったようです。

その内容は、賛成するなら5月3日の憲法記念日とは別途、11月3日も何等かの記念日にしてやってもいい、ということだったらしく、記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたようです。

こうして11月3日は「文化の日」と呼ばれることになりましたが、これは憲法が施行された翌年の昭和23年の「国民の祝日に関する法律」、いわゆる「祝日法」の中で定められました。その条文によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としており、日本国憲法が平和とともに「文化を重視している」ことを設立の理由としています。

ちなみにこの法律は、公布も施行も同年に行われており、この年以来、毎年11月3日は「文化の日」と定められるようになりました。

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このように現在までにわれわれは普通に文化の日、文化の日といっていますが、本来は文化などとはまるで関係なく、政治の混乱を避けるためにこの日が設けられたようなものです。

そんなもん、喜んでいてどうするんじゃぁ~と、ひねくれた国民の一部は騒ぎ出しそうですが、その後この文化の日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催される、皇居で文化勲章の親授式が行われるなどの、既成事実が年々、着々と積まれていきました。

博物館の中にはこの日を入館料を無料にしたり、様々な催し物を開催する所も出てくるようになり、日本武道館で全日本剣道選手権大会が開催され、NHKで生放送されます。

また、この日は晴天になる確率が高く、「晴れの特異日」として有名であり、それゆえにその昔は、この日に秋の大運動会が行われる学校も多かったようです。ただ、最近は年末に行事が重なるのを嫌がる学校が多く、運動会も春先に持ってくることが多くなりましたが。

こうして元々政治の混乱からスタートした文化の日は、いまではすっかり国民に定着しました。同じく11月3日を何等かの文化記念日に制定する企業なども増え、たとえば、日本レコード協会(RIAJ)は、「レコードは文化財」としてこの日を「レコードの日」として制定しています。

また、東京都文具事務用品商業組合等が「文具と文化は歴史的にみて同義」という、わけのわからん論理で、この日を「文具の日」として制定しています。このほかにも、日本漫画家協会と出版社5社が「漫画を文化として認知してもらいたい」としてこの日を「まんがの日」として制定しています。

ここまで定着してしまった文化の日を私も別段批判するつもりはありませんが、そもそも物事の意味も知らないで騒ぐ、というのは長いものにはすぐ巻かれる癖のある日本人にはありがちなことであり、改めてしかるべき習慣かと思います。

最近通過した戦争法案に対しても、時代の流れ容認してしまうような気運が出てこないとも限りません。先日のニュース番組でもやっていましたが、最近の日本では沖縄の例もあるように、反対意見をすぐに丸め込んでしまうような風潮が蔓延しているような気がします。

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ところで、この11月3日がまんがの日、というのはどれぐらいの人が認知しているでしょうか。おそらくは、ほとんどの人が知らないのではないかと思うのですが、いまや日本が世界に誇る文化ともいわれる「漫画」というものを知らない日本人は逆にほとんどいないでしょう。

「漫画」は英語では、”comic”となり、これは”cartoon”とともに明治時代に輸入されました。その日本語訳を「漫画」としたのは、は明治から昭和にかけて活躍した元日本画家の北澤楽天や明治期の錦絵師、今泉一瓢だといわれており、両者ともその後「漫画家」と呼ばれるようになりました。

今泉一瓢福澤諭吉の義理の甥(諭吉の妻・錦の姉・今泉釖の長男)にあたり、諭吉は秀太郎に絵画の才能があることを見抜き、石版や写真術を学ぶための留学を手助けしたりしました。時事新報社で諷刺画を担当し、大きな足跡を残しましたが、病弱だったために1902年(明治35年)には北澤楽天に漫画担当を譲り、40歳で早世しました。

その北澤は、元々は代々紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役という格式高い家柄の出であり、楽天はその13代目にあたります。楽天の漫画家としての人生に最も大きな影響を与えたのは、オーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベルでした。政治漫画家として本国では活躍していましたが、来日後も日本の出版社から風刺画を描いて収入を得ていました。

北澤も幼少のころから実家で日本画の手ほどきなどを得ていたようですが、1895年、楽天の風刺漫画家としての才能に目を付けた福澤諭吉の紹介により、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社します。そこで同紙の漫画欄を担当していたナンキベルと知り合い、彼から欧米漫画の技術を学びました。

ナンキベルが日本を去った後にはその後継者として同紙の漫画を担当するようになりましたが、1905年に発売されたB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌「東京パック」は日本発の漫画雑誌といわれています。

日本国内のみならず、朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売されましたが、その内容は、もっぱら政府や警察などの国家権力への風刺を扱ったものでした。

その後楽天は1915年には、日本最初の漫画家団体である東京漫画会(後の日本漫画会)の創立にも参加しており、多くの漫画史研究家より楽天は「日本の近代漫画の祖」と見なされています。

また、楽天は日本で最初の職業漫画家でもあったともいえ、第二次世界大戦前に発行された彼の「楽天全集」は、幼少期の手塚治虫に大きな影響を与えたとされます。

この手塚治虫のことを知らない日本人もまたいないでしょう。没後26年を経た現在でも手塚治虫といえば漫画の代名詞のように扱われており、今も昔も「漫画の神様」として慕われています。

多作の漫画家としても知られ、いったいどれくらいの漫画を残したのか調べてみたところ、総数は604作とのことで、その内分けは少年向け341作、少女向け36作、大人向け110作、低年齢向け32作、絵本39作、4コマ漫画17作、1コマ漫画29作に及びます。

細かいシリーズなどを入れると700タイトル以上といわれ、原稿枚数15万枚分といわれます。この他に出版はされていませんが、終戦(1945年)までに描いた漫画の原稿は約3000枚に及ぶといい、さらにテレビや映画などで手がけたアニメーション作品数は70作品もあります。

伝説の人という印象であり、いまさらその伝記を書くつもりもありません。が、概略を書いておきましょう。

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大阪生まれで大阪育ち、お父さんはその当時めずらしい前衛写真家でした。手塚粲(ゆたか)といい、1900年(明治33年)東京に生まれ、住友伸銅鋼管(のちの住友金属工業)に勤務する一方、当初は東京写真研究会関西支部に所属して写真家として活動しました。

その手塚粲の父、手塚治虫の祖父は、手塚太郎といい明治時代には司法官を勤める高官でした。さらにその父、手塚治虫の曽祖父は医師で、こちらは手塚良仙といいました。大沢たかお、綾瀬はるかの主演で人気を博したテレビドラマ「仁」にも出てきた人物で、緒方洪庵の適塾に入門して、ここで医学の手ほどきを受けました。

大槻俊斎・伊東玄朴らと、お玉が池種痘所設立したことでも有名であり、曾孫である治虫は、手塚良仙を主人公の一人とした歴史漫画「陽だまりの樹」を執筆しています。維新後、大日本帝国陸軍軍医となり、西南戦争に従軍しましたが、その任地の九州で赤痢に罹り、長崎陸軍病院で51歳で亡くなっています。

その血を引く手塚治虫も、大阪帝国大学附属医学専門部を卒業後、医師免許取得を得ており、のちに奈良県立医科大学で医学博士の称号も取得しています。

学生のころからもうすでに漫画を毎日新聞などに持ち込んで収入を得るようになっていました。最初の単行本は「新寶島(宝島)」であり、1947年に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなりました。漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなりました。

面白いことに、このときの指導教官の教授は、手塚に対して医者になるよりもむしろ漫画家になるように勧めたそうで、また母の後押しもあって、専業漫画家となることを決めたといいます。

手塚は「せむしの仔馬」というアニメ映画を見ることを口実に母親を連れ出し開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるか相談したそうです。このとき母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答え漫画家一本で行くことを決心しました。

ちなみにその時の映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになったといわれています。

もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年)。さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。

このため、後に手塚は自伝ので、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べています。

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その後飛ぶ鳥を落とす勢いで数多くのヒット作をこの世に送り出し、「神様」とまで言われるようになりました。が、45歳になったころには、少年誌においてもうすでに手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていました。

さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負うことになりました。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想しています。

しかし、1973年に「週刊少年チャンピオン」で連載開始された「ブラック・ジャック」がヒットし、さらに1974年、「週刊少年マガジン」連載の「三つ目がとおる」のヒットも続いて、本格的復活を遂げることになります。

50代になった1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった「陽だまりの樹」や、アドルフ・ヒトラーを題材にした「アドルフに告ぐ」など、いわゆる「青年漫画」などを多く書くようになり、「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞を受賞し、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞しました。

1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受けますが2カ月で退院。以前とまったく変わらない多作振りを見せていましたが、同年11月、中国でのアニメフェスティバル会場で倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。医師の診断ではスキルス性胃癌でした。

しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人にはそのことは告知されなかったといいます。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画を描いていましたが、1989年年1月25日以降、昏睡状態に陥ります。

意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたそうで、鉛筆を握ると意識がなくなりの繰り返しだったといいます。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くしませんでした。

最後の言葉は、「頼むから仕事をさせてくれ」であったといい、そして半蔵門病院の病室で、1989年(平成元年)2月9日に死去。墓所は、東京豊島区巣鴨の總禅寺(そうぜんじ)にあります。

その死によって「グリンゴ」「ルードウィヒ・B」「ネオ・ファウスト」などの作品が未完のまま遺されましたが、その中でも最後に描かれたのは、「ネオ・ファウスト」の原稿でした。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていたといいます。

周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされますが、しかし、手塚が病院で描いていた遺作「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれています。

医者であった彼が自分の症状を客観的にみて何の病気であるかがわからないはずはなく、おそらくは逆に周囲を気遣って、知らないふりをしていたのではないでしょうか。

ところで、この手塚さんが亡くなったとき、私はフロリダにいました。ハワイ大学へ入学する前のことであり、このころはまだ語学がとはいえるレベルではなかったため、ここで英語を学びつつ準備をしていたのです。このとき、隣人に後の親友となる日本人留学生がいました。

彼は既にフロリダ大学の大学院生であり、海洋工学を専攻していました。同じ分野での留学を考えていた私とは年齢もほぼ同じであり、妙に気が合ったふたりは、すぐにお互いの下宿を行き来するようになりました。

このとき、彼が定期的に日本の親から送ってもらっていた雑誌が「朝日ジャーナル」であり、その中に手塚さんの最後の作品である「ネオ・ファウスト」が掲載されていました。この当時のフロリダは日本から遠く離れた辺境の地であり、日本からの情報はほんのわずかです。

このため、彼から借りてむさぼるようにこの雑誌を読んでいましたが、結局、私がフロリダを引き払う前に、手塚さんは亡くなり、このため、毎回楽しいに呼んでいたネオ・ファウストも私の中で未完に終わりました。

「朝日ジャーナル」での「ネオ・ファウスト「の連載は1988年1月から開始され1年近く続けられていたといいますが、私が渡航したのは確か5月であり、フロリダにおける滞在はほぼその連載と重なります。

手塚さんはこの作品の連載中に胃癌で入院していますが、ベッドの上でこれを描き続けながらも死の間際までこの作品の完成にこだわっており、痛み止めのモルヒネを打ちながら、手が動かなくなるまでこの作品を描いていたといいます。

手塚治虫の娘である手塚るみ子さんは、「体を若返らせたい、もう一度人生をやり直したい、まだまだやり残したことはあるんだ」という主人公の願いは治虫自身の願いと重なる、とのちに語っています。

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未完に終わった大作ですが、実は、この作品の漫画化の前に、同目のタイトルでアニメ映画の企画がもたれたことがありました。このとき、完全なシナリオ原稿を書き上げていますが、その後予算の面から計画は立ち消え、その後に手塚が死去したことから、この作品が日の目をみることはありませんでした。

ストーリーは漫画とはかなり異なるようですが、その物語の概要は以下のようなものです。ウィキペディアからの引用ですが、ほとんど変更はしていません。文化の日にふさわしいかどうかはわかりませんが、手塚ワールドの最後の物語としては記念すべきものだと言えるかと思います。ご一読ください。

ネオ・ファウスト アニメ版あらすじ(出典:ウィキペディア)

舞台は現代の学園都市から始まる。一人の女悪魔メフィストフェレスは人間界に降り立ち、「フェレス」という偽名を使った。フェレスはファッション雑誌を参考に可愛い女の子へと姿を変え、とある大学教授を探していた。

フェレスは神と賭けをしたからである。もし善良な選ばれた人間の魂を、悪魔的な魂に変えることができたら、地球は悪魔たちのものになるといった内容であった。その賭けの魂に選ばれたのが、大学の老教授であるファウストである。

その頃、ファウストはおのれの人生にはかなんでおり、助手が置いていった牛乳に毒が入っていると悟ると、それを飲み干そうとする。それを見たフェレスは、ファウストの自殺を止め、悪魔の契約をする。契約の内容は、3つの願いごとを叶え、彼が満足すれば代わりに魂を悪魔に譲る、というものであった。

3つの願いごとは「若返る」「絶世の美女をものにする」「権力者になる」に決まった。そして、その願いが叶えば、「時間よとまれ、今のお前は美しい」という約束のもとに悪魔との契約は実行される。

フェレスはファウストを若返らせ、権力者にすべく、この国の大統領になることを薦めた。まずファウストは、フェレスの計画通り、6000億ドルほどの金を用意して裏工作を行い、大蔵大臣の地位を得る。ファウストはその前後に、一人の少女に恋をして愛を育むが、その兄である軍事司令官を殺す。

ファウストは彼を殺したことによって、軍事司令官の地位を得た。そして大統領はファウストに、隣国との戦争に勝てば大統領の地位を与えることを約束する。ファウストは隣国に勝つために、かつて自分が研究していた人工生命体を使うことにした。

ファウストは大量の資金を投入し、昔自分が務めていた大学で人工人間を大量生産した。ファウストは戦争に勝つだけでなく隣国を丸ごと壊滅状態にしたが、大統領からはやり過ぎだと警戒される。ファウストはフェレスの助言を受け、大統領を殺害するクーデターを計画し、実行に移す。大統領は思惑通り殺された。

しかし、ファウストは若さ・絶世の美女・権力、全てを手に入れたはずなのに、一向に満足はできなかった。

クーデターの最中、思いがけないことに人工人間たちは暴走を始め、自らの手で増殖し、破壊の限りを尽くすようになる。そこへファウストに一本の電話が入り、かつて自分が恋をしていた少女が人工人間たちに襲われつつあることを知る。

ファウストは、本当に自分の大切なものは何だったのかを悟り、人工人間たちが量産されている大学のコンピューター施設を破壊しに出向く。ファウストは手榴弾でコンピューターを破壊するが、人工人間たちはファウストに自動小銃で痛手を与える。

ファウストは血を流しながらも、バイクで少女を助けに行く。少女が住んでいた家は、炎に包まれていた。もう逃げることもできないほど燃え上がった建物の中で、ファウストは少女を抱きしめると、この上ない幸せを感じた。そして満足した彼は「時間よとまれ、今のお前は美しい」を叫ぶ。

ファウストの魂はフェレスのものになるはずであったが、フェレスはファウストに恋心を抱きつつも自分のものにはならないと悟っていたため、契約書を青い炎で焼いた。ファウストと少女は、焼け崩れた建物の中に包まれる。

しかし、二人の魂は一つの光となって天高く舞い上がった。それを見ていたフェレスは、泣いているような、笑っているような複雑な顔でいつまでもそれを見つめていた。

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シバとソロモン

2015-9354私は、子供のころから音楽の分野ではまるで才能がなく、学校の音楽の時間で何かを演奏するにしても覚えが悪く、楽器というものが大の苦手でした。

観賞するほうにおいても積極的に音楽を聴く、ということはあまり好まず、とくに重厚なクラッシック、あるいは洋モノ、とくに派手なロック、といった類のものはからっきしダメで、同じ年頃の友人たちがそういうものにはまり込んでいるのを見ても、何が面白いのだろう、といつも思っていました。

強いていえば、その当時フォークソングと言われていたようなポピュラーミュージックを勉強の合間に聴くぐらいで、あとはBGMとしてイージー・リスニングといわれるようなものをたしなむくらいだったでしょうか。

このイージー・リスニングとは、くつろいで楽しめる軽音楽の意味で、ムード音楽ともいえる分野ですが、今も続くラジオ番組、JET STREAMは当時もその代名詞ともいえるようなものでした。

深夜の時間帯に穏やかで美しい曲を流し、世界各地をロマンチックなナレーションで紹介するこの番組の一番最初のパーソナリティは、城達也さんという人でした。1967年7月に始まったこの番組を27年間も続け、この間7387回もこの番組を司会しています。

1994年2月に食道癌に罹っていることが発覚した後も治療のかたわらこの番組に登場し続けましたが、「自分の納得できる声が出せない」と同年12月30日の放送を最後にパーソナリティを降板。それから数か月を待たず、翌年2月25日に亡くなりました。わずか63歳であり、あの渋い声がもう聞けないのかと、大変残念です。

「JET STREAM」のナレーターをするにあたり、機長の役に入り込むために、必ず、スーツを着てスタジオの照明を暗くして臨んでいたといいますが、これは航空会社における定期運送用操縦士の制服はダブルのスーツスタイルであったこと、また夜間飛行の際には、旅客機のコックピットは当然真っ暗であったためです。

こうした機長としてのイメージを壊されないようにテレビ出演は一切断り続けるなど、仕事に対して大変真摯なプロ意識を持っていた方だったようです。

この「JET STREAM」でこの当時よく流れていたのが、ポールモーリアや、レイモン・ルフェーヴルといった指揮者によるグランド・オーケストラの曲です。とりわけ私はルフェーヴルが好きで、音楽をあまりたしなまない私としてはめずらしく、LPまで買い込んでよく聞いていました。

ポール・モーリアの「ラブ・サウンドの王様」に対して、「ラブ・サウンドのシャルマン」と呼ばれていたようで、シャルマンとはフランス語で「魅力的」という意味ですが、ここでの意味は「高級なラブ・サウンド」ということだったでしょう。

とくにバイオリンなどの高音が印象的なオーケストラですが、ルフェーヴル自身はピアニスト出身で、パリ音楽院を卒業後、フランク・プゥルセル楽団でプロピアニストとしての経験を積みました。

1956年に「ミス・エジプト」に選ばれたほどの美貌を持つ美人歌手の「ダリダ」のデビュー曲「バンビーノ」の編曲と伴奏指揮を担当。これが、レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラとしてのスタートでした。

その後、1958年に「雨の降る日」、1968年の「ばら色の心」「ラ・ラ・ラ」などが相次いで全米ヒットチャートにランクインし、注目を集めました。

映画音楽も手がけ、サウンドトラック盤を数多く発表していますが、日本では1969年にシングル・カットされた「シバの女王」がロングヒットとなったことから知名度が一気に上昇、ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、カラベリとともにイージー・リスニング全盛期を迎える立役者の一人となりました。

1972年に初来日して以降、日本公演は11度に亘って開催され、その間の7公演でライヴ・アルバムが制作されていますが、私が10代のころに聞いたのはそのうちのどれか複数でしょう。

引退するまで約650曲を録音したと言われており、中でも、クラシックの曲をイージー・リスニング風にアレンジした「ポップ・クラシカル・シリーズ」は、彼の十八番といわれました。

さすがにもう亡くなっているだろうな、と思いましたが、調べてみるとやはり2008年6月27日、パリ郊外で肝機能不全により半年強の入院生活を経て亡くなられています。こちらは78歳でした。

私も彼の曲の中ではとく「シバの女王」が好きでしたが、この楽団のオリジナル曲なのかなと思ったら、もとはフランスのシンガーソングライター、ミッシェル・ローランという人が創ったシャンソン曲だったようです。

日本でのこの曲の人気は無論、このルフェーヴル楽団がつくったものですが、その人気上昇のためにラジオが果たした役割は大きく、とくにTBSラジオの深夜番組「白石冬美・野沢那智のパック・イン・ミュージック」で長くエンディングテーマとして使用されたことも多くの人に親しまれた要因でしょう。

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この曲のタイトルにもある、「シバの女王」というのは、実在の人物だったようです。その昔、といっても紀元前1000年前にも遡る時代に、アラビア半島南部に存在していた国家があったとされ、シバの女王はこの国の支配者でした。

どんな人物であったのかについてはほとんど記録がないようですが、ただ、ヘブライの神話として残されたものの中には、エルサレムのソロモン王とシバの女王からネブカドネザルという王子が生まれた、という記述が出てくるそうです。

エルサレムというのは、ご存知のとおり現在のイスラエルの首都とされる街です。が、イスラエルは同国の首都と主張しているものの、国際連合を初めとして多くの国家はこれを認めていません。

大戦後に、ここに住んでいたパレスチナ人などを排除し、アメリカの肝いりで建国されたイスラエルでは、その後組織された議会により、一方的にエルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとしました。

1980年に国連総会はこのイスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1で決議(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など)しましたが、今に至るまで、イスラエルはエルサレムが首都と宣言していながら、現在も多くの国は認めていないのはこのためです。現在もエルサレムに置かれている大使館・領事館はひとつもありません。

このイスラエルにおいては、古代にイスラエル王国という国があり、この国を治めていた王ダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバと不義の関係を結び、2人目の子として生まれたのがのちのソロモン王です。彼は父の死後、兄など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となりました。

ソロモンはエジプトのファラオの娘をめとり、エルサレムの北西約10kmに位置するギブオンという町で神に対して盛大なささげものをしましたが、ここでその神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンはそこで「知恵」を求めたといいます。

神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束したといい、これ以後、ソロモンは知恵者として名を馳せるようになりました。ソロモンといえば「知恵」を示す代名詞ともいわれるほどその名は広く知られるようになりましたが、その知識を用いて国を隆盛させるとともにその名に恥じぬほどの善政を行いました。

ソロモンが子供のことで争う2人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、この話はのちに日本にも伝わり、江戸時代には、いわゆる「大岡裁き」の話などにも取り込まれました。

この話はご存知の方も多いでしょう。ある時、町奉行である大岡越前の守のところに、ふたりの女がひとりの子を連れてやってきて仲裁を願い出た、という話です。二人の女は互いに「自分こそこの子の本当の母親だ」といって引かないのをみた越前守は、二人にその子の腕をそれぞれ持たせ、引き合うように命じます。

「力いっぱい引き合って勝ったほうを実母とする」という越前守の言葉に従って、女たちは子供の腕をおもいきり引っぱりはじめましたが、子供が痛がって泣くので、一方の女が思わず手を放しました。

勝った女は喜んで子を連れてゆこうとしますが、そこで越前守は「待て。その子は手を放した女のものである」と言います。勝った女は納得できず、「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」とはげしく抗議しました。

これに対して、越前守は、「本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」。

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とまあこういう話なのですが、この話の大元はソロモン王がその昔に行った行為をパクッたものだ、というわけです。

が、実際のソロモン王がそんな民間人の裁判までやっていたとは思えず、おそらくこの話は後年の創作でしょう。実際にはもっと王様らしい政治的なことをやっていたわけで、例えば外国との交易を広げて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行いました。

このほか、外国との貿易のための隊商路を整備のため要塞化された補給基地を建て、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化しました。さらに軍事面ならびに外交面では、近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげました。

その結果、イスラエル王国の領土はユーフラテス川からガザにまでおよび、誰もが安心して暮らすことができるようになり、この時点でソロモンは初めてエルサレム神殿を築きました。

やがてソロモンの知恵の深さと浩瀚な知識は周辺諸国にも知られるようになり、親交を求めて来朝する王や使者が絶えなかったといい、レバノンの南西部、地中海に面する国、ツロの王とは深い親交を結び、またアフリカのエチオピアの女王なども、ソロモンの英知を試すため、わざわざみずからやってきたといいます。

このように、ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしましたが、彼の野心的な事業を遂行するためには資金が必要です。このため重税と賦役を民衆に課すようになり、またソロモンが自分の出身部族であるユダ族を優遇したことなどから、その後、ソロモン王の支持者と反支持者の対立が拡大していきました。

やがてソロモン王も老いていきましたがその晩年、民衆への負担が激増していく中で享楽に耽ったため財政が悪化。さらにユダヤ教以外の信仰を黙認したことなでユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発し、そうした中でソロモン王は没しました。

死後、ソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、それがこの王の死とともに一気に噴出して、イスラエルは南北に分裂、対立していくことになります。

その後もこの地域一帯は分裂や併合が相次ぎ、次々といろんな国ができては消え、対立しては血を流して現在に至るわけですが、その歴史は極めて複雑で日本人には理解しがたく、無論ひとことで語ることはできません。が、その源流はこのソロモン王が統治した、古代イスラエル王国にあることだけは間違いなさそうです。

このソロモン王とシバの女王の出会いは、女王自らがソロモン国を訪問したときとされます。ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するためにわざわざ遠方からソロモン王の元を訪れたとされ、その来訪時には大勢の随員を伴い、大量の財宝を寄贈したとされます。

新約聖書にもこれに関する記述があり、ここには「地の果て」からやって来た南の女王(Queen of the South)という表現がみられるそうです。

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このシバ国がどこにあったのかについては、上述のようにアラビア半島南部のイエメンあたりであったとする説以外に、アフリカのエチオピアという説もあるようです。が、両説ともこれを裏付ける考古学的発見は未だ皆無だといい、謎の多い王国です。

ただ、ソロモン王との間に子をなしたことがわかっていることから、シバの女王による統治期間はソロモン王とほぼ同時期の紀元前10世紀頃と推定されています。

この二人の話からすぐに連想されるのは、後年のエジプト女王、クレオパトラとローマの独裁官カエサルとのラブロマンスです。

この二人もよく歴史上の奇蹟としてよく引き合いに出されるわけですが、シバの女王とソロモン王のロマンスもまた謎に満ちており、それだけに逆に想像力を掻き立てるのか、何度も小説や絵画などの芸術作品に取り上げられています。

映画化もされており、最近では、1995年の”Solomon & Sheba”などがあり、これは日本では、「クイーン・オブ・エジプト」という名前で公開されたものです。この映画でのシバの女王役は、2002年公開の「007 ダイ・アナザー・デイ」でボンドガールを務めたハル・ベリーでした。

1959年にも”Solomon and Sheba”、というアメリカ映画が創られており、これは「ソロモンとシバの女王」という邦題で、ソロモン王役はユル・ブリンナーだったそうです。シバ女王役は、ジーナ・ロロブリジーダという人で、あまり日本には馴染のない女優さんですが、イタリア人です。

1947年にミス・イタリアの3位に入賞したことをきっかけに芸能界入りし、ハリウッドデビューし、世界的な人気を博したといい、来日もしています。が、知っている人がいるとするとかなりの年配の方でしょう。ユル・ブリンナーすら知らない世代が増えています。

このほか、音楽でもやはりこのシバの女王をイメージして作られたものも多く、前述のミシェル・ローランのシャンソンのほか、古くは、バロック期を代表する作曲家の一人である、ヘンデル(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル)が作曲した者の仲にも、「ソロモン」というものがあり、この中に「シバの女王の入城」というフレーズがあります(1749年発表)。

このほか、ユダヤ人作曲家のゴルドマルク・カーロイが作曲した歌劇「サバの女王」は名作と言われ、1875年にウィーンで初演されると好評を博し、1938年までウィーン国立歌劇場のレパートリーに残り続けたといいます。

また、バレエ音楽にもイタリア人作曲家のオットリーノ・レスピーギの「シバの女王ベルキス(1930-31年)」というのがあり、女子フィギュアスケートシングルにおいて、アメリカのキミー・マイズナー選手がこの曲をフリープログラムで使って演技しました。

マイズナーは2005-2006年のシーズンに行われたトリノオリンピックではこの曲で6位入賞しており、翌月開催された世界選手権では優勝を果たしています。

しかし、おそらく日本人にとって一番馴染が深いのはやはり冒頭で述べたレーモン・ルフェーブルの、「シバの女王」でしょう。そのシングルは発売と同時に、オリコンシングルチャートに110週に渡って100位以内にランクイン、同期間のみで約32万枚を越えるレコードセールスを記録したといいます。

最近、この曲をむしょうに聞きたくなり、You Tubeなどで探して聴いているのですが、その優雅で哀しげな曲に浸っていると、きらびやかな衣装をまとったシバの女王がソロモン王のところを訪れ、金や宝石などを献上しながら、拝謁する様子などが目に浮かんでくるようです。

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白乳香などの香料なども献上していたという記録もあるようです。この「乳香」というのは、樹木から分泌される樹脂のことで、この樹木は、「ボスウェリア」といいます。オマーンなどの南アラビア、ソマリアなどの東アフリカ、インドなどにしか自生していません。

その樹皮に傷をつけると樹脂が分泌され、空気に触れると固化します。次々とその傷から出て乳白色~橙色の涙滴状の塊となったものを採集しますが、「乳香」の名は、その乳白色の色に由来します。

古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし、または香水などに使用する香料の原料として利用してきており、香以外にも中医薬・漢方薬としても用いられ、鎮痛、止血、筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされます。

乳香は紀元前40世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されているため、このころにはすでに焚いて香として利用されていたと推定されています。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていたといい、聖書にも神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られるそうです。

日本にも10世紀にはシルクロードを通じて伝来しており、キリスト教の一派である日本ハリストス正教会などでは、古代からの慣習として香炉で乳香を頻繁に焚くことが行われており、これを神様への奉仕としているようです。

16世紀に入ってからは、水蒸気を当てて蒸留して精油が得られるようになり、これは食品や飲料に香料として添加されているほか、香水にも利用され、シトラス系、インセンス様、オリエンタル系、フローラル系など、様々な香水に使われています。

ただ、一般に高価であり、これはボスウェリアは栽培して増やすことが困難なためです。このため、これらを産する地域では特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともあります。現在では、その中でもとくにオマーンのものが良質とされ、その商業的な生産は主にこの地域で行われているようです。

シバの女王の時代から使用されていたとすると、乳香は数千年にわたり利用されてきたことになります。香として利用した際の芳香成分には、リラクセーションや瞑想に効果的なものが含まれているとされ、樹脂を燃やした香りを嗅ぐとリラックス効果も得られるそうです。

一方では精油には強い刺激作用があって、その香りには興奮作用もあるといい、麻薬ほどは強い効果はないにしても、ある種の軽い幻覚作用もあるのかもしれません。

古代のシバの女王やソロモン王もこれを嗅ぎながら、ゆったりと二人の間に流れる時間を過ごしたのかも、と考えるとなおさらロマンチックな感じがします。

何かとせちがない現代においても、こうした乳香のような良い香りを嗅ぎながら深い瞑想に入る、というのは忙しく日々を送る人々にとっては必要なことなのかもしれません。

キリスト教の伝統においては、特に修道院の修道士らの日課には瞑想を行う時間が設けられていることが多いといい、信者にとって、俗世から離れたうえで、神への祈りを絶やさず瞑想に励む修道士は、1つの理想、憧れの姿でもあるそうです。

日本のカトリック教会では、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりと神に関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のようなものが行われているといい、これをその名も「霊操」と呼ぶそうです。

「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とし、修業の到達点においては神と深い人格的交わりを持つことすら可能になるといい、そこで神の御意志を見出すことができるともいいます。

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ちなみに、神といえば、仏教の源教ともいわれる、ヒンドゥー教には、シバの女王ともよく混同される「シヴァ神」というものがあります。世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をするという、「破壊神」です。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌとともに、ヒンドゥー教における3最高神の一柱です。

このシヴァ神の最初の妻は、サティーといいましたが、病いで亡くなり、これを嘆き悲しんだシヴァは、彼女の体を抱き上げて都市を破壊しながら世界を放浪したといいます。それを見かねたヴィシュヌ神がチャクラでサティーの死骸を切り刻み、シヴァを正気に戻しました。

そのとき、世界にサティーの肉片が飛び散り、落ちた地がシヴァの聖地となり、肉片はそれぞれ「シヴァの妃」としてよみがえったとされます。このシヴァとシバは音が同じであり、これが「シバの女王」とも重なるのが、この二つが混同される理由でしょう。が、実は全く別の話です。

こうしたヒンドゥー教の神やその祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えており、その仏教においても古くから瞑想が行われています。仏教の始祖とされているブッダは、”悟った人”の意でもあり、この瞑想によって究極の智慧を得た人とされます。

あなたもときには今の仕事や家庭の喧騒を離れ、一人静かに香を焚いて瞑想にふけってはいかがでしょう。

その中に現れるやもしれぬシヴァ神に会えるかもしれず、はたまたシバの女王やソロモン王の霊とも交わることもできるかもしれません。

そろそろ冬が終り、穏やかな春がやってきますが、そんな早春の静かな夜のひととき、しばし彼等神の世界を垣間見る、というのはいかがでしょうか。

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