ヤクは厄

2016-9933

先日来、大物元プロ野球選手の覚醒剤使用による逮捕がニュースを賑わせています。

プロ野球界においては、昨年も賭博の問題が浮上しましたし、今回のこの事件もあり、いったい何をやっているのか、とファンとしては歯がゆい思いがします。ほとんどの選手が一生懸命やっている中でのこうした一部の輩の不正行為は、球界全体の印象を悪くしてしまっており、至極残念です。

ところで、この覚醒剤と麻薬って、いったい何が違うんだろう、とふと疑問に思ったので調べてみました。

すると、まずわかったのは、その違法な取扱いを罰する法律が違うということ。覚醒剤についてはその取締りは「覚醒剤取締法」という法律に基づいており、一方の麻薬のほうは「麻薬取締法」に基づいているようです。

というのも、そもそも麻薬というのは「薬」としても扱えるものであるのに対し、覚醒剤のほうは、いわゆる薬としての利用はされない刺激物、ということになるためのようです。

ドーパミンという言葉を聞いたことがあると思います。これは簡単に言えば、人に幸福感とか快感を与える物質ですが、脳内でこのドーパミンが増えると人は幸福感や快感を感じます。

覚醒剤と麻薬も作用としてはドーパミンを増やして幸福感や快感を感じさせるものですが覚醒剤はこのドーパミンをどんどん出すように仕向ける働きをします。つまりその使用によって問答無用に人を著しく興奮させる方に働く薬です。

一方で麻薬のほうは、本来は逆に人の神経を「鎮静させる」薬です。ドーパミンはGABA(ギャバ)と呼ばれるは主に脳や脊髄の神経系に流れている「抑制性の神経伝達物質」として使われており、通常の状態では興奮を鎮めたり、リラックスをもたらしたりする役割を果たしています。

つまり、普段はこのギャバ神経系によってドーパミンは出すぎるのを止められているわけですが、麻薬を服用するとその成分はこのギャバ神経を「抑制する」ことになります。このため、結果としてドーパミンがじゃんじゃん出るようになる、というわけです。

結果として覚せい剤も麻薬もドーパミンを増やして快感を得るわけですが、その作用の仕方が全く違います。

問答無用に直接ドーパミンを出させる覚醒剤は扱いが危なく、医療用としては使いにくいものです。一般には、ドーパミンの量が著しく減ることで起きるパーキンソン病の治療ぐらいにしか使われません。扱いによっては暴走しやすいために、同じ薬物であっても、高度に危険視されるのはこのためです。

一方で麻薬は医療用医薬品として使われます。もちろん、厳重に管理されて使われているわけですが、一番良く使われるのはガンの痛み止めです。いわゆる「モルヒネ」などがそれで、こうした麻薬は他の痛み止めと違い、痛みの伝わる神経経路に直接作用します。また、ガンが進んでくると他の痛み止めは効かなくなりますが麻薬は効果が持続します。

このように作用が全く違うのが、これを取り締まる法律も違う理由です。その化学的な成分についても大まかな分類では、前者が植物由来のものが多いのに対し、後者は鉱物由来のものが多い、という違いがあるようです。無論、かなり大雑把な分類なので、厳密に化学成分を分析すると必ずしもそうとは言えないものもあるようですが。

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このほか、植物由来といえば、同じ麻薬の中でも、大麻というのがあります。いわゆる植物の麻を原料にしてできる薬であり、マリファナとも呼ばれます。実はこちらも麻薬取締法や覚醒剤取締法とは別に、「大麻法」という独立した法律で規制されています。

この大麻にも麻酔性があり、戦前には鎮静薬及び催眠薬、喘息への熏煙剤としての使用のほかに嗜好用途として、紙巻煙草として使われることもあったようです。死亡例もほとんどないらしく、麻薬の中でも比較的マイルド、とされるもので、日本以外の国では医療用として使う国もあります。

アメリカの23州、カナダ、イスラエル、ベルギー、オーストリア、オランダ、イギリス、スペイン、フィンランドなどで医療大麻として実際に使われています。しかし、大抵の場合、大麻の使用には処方箋が必要になります。ただ、アメリカなどでは医薬調合品としての利用が可能になってから悪用する輩が増え、大きな社会問題になっています。

このため、日本政府としてはアメリカみたいにならないように、ということで上述の大麻法が定められ、たとえ医療目的であっても使用、輸入ならびに所持は厳格に禁止されています。

ただ、 2013年ごろから日本で規制されていない、茎や樹脂からとれたCBDと呼ばれるオイルがアメリカから輸入されるようになっています。CBDオイルは、いわゆるハイになる物質を一切含んでおらず合法的に輸入代行業者から購入できるためです。抗癌性があるといわれ、こうした病に苦しむ人には期待されているようです。

植物性の麻薬にはこのほか、「アヘン」があり、これはこれでまた麻薬取締法、大麻法とは別に「あへん法」という法律によって規制されています。紀元前から鎮痛作用などが知られ用いられており、後にアヘン戦争を引き起こすなど重大な害悪を引き起こしてきました。

ご存知のとおり、ケシの実から作られますが、精製の必要がなく割と簡単に作れてしまうようです。顕著な薬効があるために、極めて古くから使われてきました。他の麻薬に比べ麻薬性は相対的には少ないとされますが、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、中毒に到ります。

しかし、約10%ほどの豊富なモルヒネを含み、その鎮痛作用などの効果から日本以外では製薬原料として広く利用されています。なお、アヘンは精製によってさらにその化合物であるヘロインの原料となりますが、このヘロインは強い「魔薬性」に偏った成分を持つため、アヘン以上に危険な麻薬として厳しく取り締まられています。

無論、日本でも、あへん法によって厳しく取り締まられるともに、麻薬取締法によっても使用、所持等が禁止されています。またあへん法では、原料となるケシの栽培自体も禁止されています。

以上、日本には、麻薬取締法(正確には「麻薬及び向精神薬取締法」、)覚せい剤取締法、大麻取締法、あへん法の4つの薬物取締法があることがお分かりだと思いますが、これら四つの法律は、合わせて「薬物四法」と呼ばれています。

こうした四重もの規制を敷くのは世界的にみてもかなり厳しい状況のようであり、警察庁のほか、厚生労働省には「麻薬取締部」があり、薬物の利用を厳しく監視しています。この下で働くのがいわゆる「麻薬Gメン」、マトリと呼ばれる麻薬取締官です。先日のK元選手の逮捕に大きく寄与したのもこの麻薬Gメンだったようです。

警察とは違う組織ですが、似たような権限が与えられていることから、国会などで警察機構へ統合すべきでは、との意見が出たことがあるようです。

警察庁にも薬物銃器対策課が存在することから、予算や効率化の観点から今も統合論が根強いようです。実際の業務においても、ほとんどの薬物密売に暴力団が関与しているため、暴力団の情報をほぼ独占的に有する警察との情報交換が常に必要となっています。

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このように、日本では薬物使用に関しては極めて厳しい規制が敷かれているわけであり、そうした厳重な監視の目の中をくぐってまで薬物を手に入れる、ということに対してはそれなりに世間からの厳しい目が向けられるわけです。

犯罪には、殺人や傷害、脅迫や窃盗といった「個人的法益に対する罪」と、放火や騒乱、通貨偽造や公然わいせつ、といった行為により著しく社会への影響を与える「社会的法益に対する罪」の大きく分けて二つがあります(このほかにも公務執行妨害や内乱を犯すといった、国家的法益に対する罪」というかなり特殊なものもありますが)。

この社会的法益に対する罪の中においても、薬物使用の罪はかなり上位の悪質な罪とみなされることが多いようです。というのも、放火やわいせつ行為といった罪は、その被害は一部地域もしくは一部の人々に対する限定的な影響しか与えないことが多いのに対し、薬物の蔓延は多くの国民の脅威となりうる可能性を秘めているからにほかなりません。

もしかしたら騒乱罪よりも罪は重いかもしれず、麻薬取締官や警察官がそれだけ躍起になってホシを挙げようと頑張るのはそのためであり、また世間一般から着目され、メディアにも取り上げられやすいのはこのためです。

こうした薬物被害の中でもとくに覚醒剤によるものは、とくに著しいといいます。上でも述べたとおり、なにしろ「薬物」といいながら、科学者がコントロールできないほど過激な代物であるわけであり、薬としての使用も不可能であるとされるような物質です。

日本では、「シャブ」、「スピード」、という隠語で呼ばれているようですが、「シャブ」の由来は、「骨までシャブる」を由来とする説があるようで、このほか「人生をしゃぶられてしまうからである」という人もいるようです。スピードのほうは、それだけ効き目が顕著で早く利くためでしょう。

乱用者は「シャブ中」などと呼ばれますが、ヒロポン中毒を意味する「ポン中」と呼ばれることもあります。

このヒロポンについては、戦前の日本では、合法的に販売されていました。1941年(昭和16年)、大日本製薬(現在の大日本住友製薬)がメタンフェタミン製剤ヒロポン、武田薬品工業がアンフェタミン製剤ゼドリンとして市販したものが普及したものです。

のちにヒロポンの効果や売上げはゼドリンよりも大きかったことから、ヒロポンのほうが固有名詞として定着しました。ヒロポンの名は、「疲労をポンと取る」にも掛けていますが、ギリシア語のピロポノス(労働を愛する)を由来としています。

覚醒剤として使われ始めたのは、アメリカの薬理学者でゴードン・アレスという人が、1933年、アンフェタミンから吸入式喘息薬を開発して、ベンゼドリンとして市販されたことがきっかけです。

が、咳止めとしてよりも、疲労回復のために長距離トラック運転手がよく使うようになりました。また、スーパーマンになれる薬として学生の間で乱用され、また食欲減退効果があることから、ダイエット薬として販売する業者も現れました。これに目を付けた上の日本の製薬会社がこれを輸入販売するようになったものですが、のちには国産化されました。

ヒロポンの効果については、研究者によって当初、疲労を防ぎ、睡魔を抑える興奮剤としての効果があるといわれ、常習性はないとされていました。不眠、食思不振、頭痛、焦燥感などの副作用も臨床実験で報告されていましたが、効果・副作用を分ける基準が、主として被験者の主観的によるものが大きいとして特に問題にされていませんでした。

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その後日本が太平洋戦争に突入し、戦闘が激化すると、当時の軍部は生産性を上げるべく、軍需工場の作業員に錠剤を配布して10時間以上の労働を強制したり、夜間の監視任務を負った戦闘員や戦闘機のパイロットに視力向上用にと配布しました。

「吶喊(とっかん)錠」・「突撃錠」・「猫目錠」という名前で配られていたそうで、パイロットに対して重点的に支給され、とくに夜間戦闘機のパイロットには効果があるとされました。

夜間戦闘機というのは、視界の悪い夜間に活動するための専用の装備・能力を持った戦闘機のことで、特徴としては、乗員が複数名で黒・グレー・濃緑など、暗めの色で機体が塗装されたものです。このころはまだ珍しいレーダーを搭載しているものもありました。

また、通常機体後上方に向けた防御武装が強力である爆撃機を打ち落とすために、機銃を多くは斜め上方にも向けて装備し、併行して飛行しながら防御の薄い敵爆撃機の下側から連射を浴びせることができました。これを斜銃といいます。

一般的に、夜間戦闘機は昼間戦闘には用いられません。その理由は複座で運用され、かつ重い機銃を複数装備するためであり、このために双発とすることが多く、昼間戦闘機よりも鈍重になったためです。それゆえ発祥となった双発複座戦闘機は、夜間戦闘機に用いられる以前より、偵察や爆撃任務に活用されていました。

日本では月光、銀河、極光、電光、彗星といった夜間戦闘機が製造・運営されましたが、中でも、昭和17年(1942年)から「二式陸上偵察機」として使用され始め、翌年から夜間戦闘機にこれを転用した「月光」は名機といわれました。

月光の初期型に上向きと下向きの斜銃が2挺ずつ装備されており、その重装備により、戦争開始当初はB-17やB-24などの敵米爆撃機を次々と撃ち落しました。その後の本土防空戦においても、夜間のみならず昼間もB-29迎撃に出撃し、それなりの成果をあげました。

しかし、終戦近くになると、速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を挙げることはできませんでした。かなりの数の月光に対航空機用レーダーが装備されていましたが、搭乗員や整備員がレーダーの取り扱いに不慣れであったことや、レーダー自体の信頼性も低く、戦果があがりませんでした。

とはいえ、月光の生産機数は二式陸上偵察機も含めて477機にものぼり、この内40機が終戦時に残存していました。現在、戦後アメリカ軍に接収された横須賀航空隊のヨ-102号機が修理・復元された上でスミソニアン航空宇宙博物館に展示・保存されています。

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この月光の夜間戦闘機月光搭乗員として活躍した旧帝国海軍のエースに「黒鳥四朗」という少尉がいます。飛行兵曹長・倉本十三とのペアにより、6機ものB-29を撃墜したとされますが、この二人もまた、夜間視力が向上するとの事で、ナチス・ドイツより輸入されたヒロポンを使っていました。

ナチス・ドイツでは、その後「ヒロポン入りチョコレート」といったものが配られるようになったといいますが、日本ではまだそのころそこまで技術が進んでおらず、夜間戦闘機搭乗員は、ヒロポンの主成分であるメタンフェタミンを直接注射で投与されていました。

これを注射することによって夜間視力がよくなるとされたことから、「暗視ホルモン」という名前で呼ばれていました。黒鳥少尉以外にも、「大空のサムライ」として有名なエースパイロット、坂井三郎中尉もラバウルで連日激しい空中戦を戦った際に、疲労回復のブドウ糖と一緒にヒロポンを注射していたそうです。

こうした日本軍による覚せい剤の使用状況については公的資料がほとんど残っていませんが、その効果として「疲労回復」や「眠気解消」や「士気向上」が期待されていたものと思われます。夜間戦闘機の搭乗員以外にも、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用に応用されていたといわれています。

「暗視ホルモン」を投与された黒鳥・倉本ペアは、その後目覚ましい成果をあげましたが、その投与に際しては、技量と戦果を考慮し、まだ実績の少なかったこのペアが選ばれたと推測されています。つまり、軍部としては彼らを実験材料にした、ということになります、

その後の目覚ましい活躍によって、はたしてその効果を証明した、ということになるわけですが、その実際の効果について、当の黒鳥少尉は戦後、眠気がなくなり、冷静な判断力とひらめきを得たこと、恐怖心の抑制力があったこと、などをあげています。

ただ、夜間の視認性は向上せず、全体的にさほど影響はなかったとも述べており、実際には「暗視ホルモン」と言われるほどの視力への効果はあまりなかったようです。とはいえ、戦闘能力を高めるうえでは有効だったと考えられるわけです。

しかし、こうした覚醒剤投与の影響は、戦後すぐに異常感覚の発現という形で現れました。黒島少尉に関しては戦後すぐの1946年(昭和21年)初夏から始まり、異常感覚がほぼ消失するには昭和60年ごろまで非常な長期間を要したといいます。具体的には尖ったものや手や鼻が自分の目に飛びこむ感覚、微熱と目眩、食欲の減退などが起こったといいます。

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太平洋戦争敗戦後は、GHQからの指示で厚生省が軍部が貯蔵していた大量の医薬品が医療機関や一般国民に大量放出され、この際にこうしたヒロポンも同時に放出され、大量に巷に流通しました。

戦後間もない闇市ではカストリ焼酎一杯より安い値段で1回分のアンプルが入手できたといい、このため、芸人や作家やバンドマンといった寸暇を惜しんで働く者たちから、興味半分で始めた若者まで瞬く間に広がり、乱用者が増加していきました。

またヒロポンは、薬局においてアンプルや錠剤の形で販売されるようになり、1943年から1950年までは、印鑑さえ持っていけば誰でも購入できました。このため、タクシーの運転手や夜間勤務の工場作業員など、長時間労働が要求される職種の人々に好んで利用され、その疲労回復力から大いに重宝されました。

この結果、日本では大量に社会に蔓延し、多数の依存症患者を生み出す事となります。ヒロポンを販売していた大日本製薬会社は、戦後の国会で戦時中にはその毒性を認識していなかったと前置きの証言をしたうえで、国による早急な対策を訴えたといいます。

しかし、対策が後手に回ったこともあって、やがて蔓延が社会問題化することとなり、ようやく様々な措置が取られることとなりました。こうして、1948年7月には薬事法における劇薬の指定がなされました。また翌年には、厚生省から各都道府県知事に、製造自粛などを通達し、1950年には医師の指示が必要な処方せん薬となりました。

その後、このヒロポンの蔓延がきっかけとなり、遂に1951年に覚せい剤取締法が制定され、施行されるに至ります。しかし、その後も密造の覚醒剤が流通したため、1954年(昭和29年)には、覚せい剤取締法の罰則が、懲役3年以下から5年以下へと強化されました。

同年にはまだ5万6千人近くの検挙者が出ていましたが、軍部からの流通から生じたヒロポンの蔓延による「第一次覚醒剤乱用期」はようやく終息を迎えるところとなりました。しかし、取引は地下に潜って暴力団などの主要な資金源となっていきました。

覚醒剤自体は非常に安価に製造できますが、取引が非合法化されているため闇ルートでの流通となります。このため、闇資金を必要とする暴力団関係者などの悪の組織ではその価格を嵩増しし、末端価格では数百倍にも跳ね上がることも普通です。

イイ金になるからと、密輸や密売があとを絶たないのはこのためであり、韓国ルートのものが増えた1970年(昭和45年)には再び検挙数が1000人を超えました。1973年には罰則がさらに懲役10年以下に強化されるに至り、ここに至って「第二次覚醒剤乱用期」に入ったといわれました。

以後、水商売回りに乱用が流行するようになりましたが、近年では、北朝鮮・台湾・トルコなど大陸からの密輸も相当量あるといわれ、特に北朝鮮のそれは同国の主要な外貨獲得手段となっていると指摘されています。

中学生・高校生が栄養剤感覚や痩せ薬感覚で手を出したり、主婦がセックスドラッグと騙されて服用するケースも増加し、薬物汚染として社会問題になっています。1980年代後半以降は芸能人・ミュージシャンなどの知名度や影響力の高い人物が覚醒剤使用で検挙されるケースも後を絶たず、繰り返しセンセーショナルな社会的話題となっています。

2005年、覚醒剤所持で逮捕された衆議院議員・小林憲司(当時民主党)が、衆議院議員在職中にも覚醒剤を使用していたことが判明し、国民に大きな衝撃を与えました。

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とはいえ、覚醒剤使用者の検挙率は、1998年の22000人超から毎年減ってきており、現在では15000~16000人くらいの水準になってきているといいます。しかし、ここへきて先日の元大物プロ野球選手の逮捕劇があり、その状況に冷や水を浴びせた格好です。列島を大きく揺れ動かす事件となり、今後もしばらくは尾をひくでしょう。

こうした覚醒剤の使用に関しては日本以外の多くの国でも厳しく規制されており、ヨーロッパ諸国ではそれほど厳しくないものの、イギリス、フランスが最高で無期懲役、アメリカ合衆国でも州毎に違い、最高で終身刑となる州もあります。

一方、アジア諸国はかなり厳しく、中には最高刑を死刑と定める国もあります。例えばシンガポールでの不法製造は死刑の対象であり、またマレーシアでも50グラム以上の覚醒剤所持・密輸入では、有罪の法定刑は死刑のみとなっています。

さらにタイ王国においても、譲渡目的での製造・密輸は死刑となり、譲渡・所持でも死刑または無期刑となります。お隣の中国でも50グラム以上の所持で死刑、大韓民国では営利目的のケースでは最高刑が死刑です。1972年(昭和47年)の日中国交正常化後、中国において死刑を執行された日本人は、全員が覚醒剤犯だそうです。

いっそのこと、日本で覚醒剤を使用した輩は中国や韓国へ島流しにする、といった法律でも作ってはどうかと思うのですが、自国の恥を他国へ輸出することはやはりやめたほうがいいのでしょう。

さすがに最高刑を死刑にするというのは日本ではまだ難しいのでしょうが、場合によってはそれもありだよ、とウソでもいいから彼らに伝えれば抑止力になるのかも。

とまれ、薬物使用のない、平和な国により近づけるためには、現状では警察および麻薬Gメンさんたちに頑張ってもらうしかないようです。特に麻薬Gメンさんたちは、警察官と同じ立場でバッタバッタと悪を検挙してくれる頼もしい味方です。

麻薬Gメンには、国家公務員Ⅱ種採用試験の合格者からの採用と、薬剤師資格の有資格者採用があるそうです。国Ⅱからの採用の場合、麻薬取締官の任用資格の関係から、法学部卒者が優先されるそうです。法学部以外の場合、実務経験2年以上が必要なので、麻薬取締官に任用されるまでに時間がかかるといいます。

現在法学部に所属している俊英なあなた、あるいはこれから薬剤師を目指す優秀なあなたも、これからの日本を守る正義の味方、麻薬Gメンを目指してみてはいかがでしょうか。

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あさが来る

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私が日常で手放せないもののひとつに、「リップクリーム」があります。

どうも唇が渇きやすいたちのようで、年から年中、冬でも夏でもいつも胸ポケットに1本入れていて、カサカサ感があると、ついつい手がでます。

今もその一本が手元にありますが、商品名は「メンターム薬用スティック」とあります。製造会社は「近江兄弟社」となっていますが、そういえば、メンターム意外に、「メンソレータム」というのもあったよな、とふと思い出しました。

違いはなんだろう、と調べてみると、「メンソレータム」のほうは、ロート製薬のものだそうです。ところが、この「メンソレータム」も、元々は近江兄弟社が世に出したものだったということがわかりました。

最初に作った近江兄弟社のほうが、その後業績不振に陥り、販売権を手放したものをロート製薬が買取りました。が、その後兄弟社が自主再建の足がかりをつかみ、残っていたメンソレータムの製造設備などを活用して新たに製造・販売した塗り薬が、「メンターム」です。

しかし、主原料・効能、容器のデザインはほぼ同じです。メンソレータムの名前の由来は、メンソールとワセリン(ペトレータム)を組み合わせたもので、この名前はロート製薬が商標登録してあったものを入手したため、再起した近江兄弟社側は使えず、やむなく「メンターム」の名で売り出したものです。

それにしても、両方とも似たようなリップであり、濃い緑色の表装です。が、中身をよく見ると、メンソレータムが黄色ワセリンを使っていて少し黄ばんでいるのに対し、メンタームは白ワセリンを使用しているため白く、色合いは若干異なります。

また、メンソレータムのマスコットは、「リトルナースちゃん(小さな看護婦さん)」であるのに対し、メンタームのほうは、「メンタームキッド」です。

リトルナースは、元々、米国メンソレータム社が雑誌広告と金属容器に一時期使用していたキャラクターで、モデルはかつて天才子役として世界的に人気のあった女優シャーリー・テンプルではないかとの説があります。

近江兄弟社の前身である「ヴォーリズ合名会社」が、明治時代にこのアメリカのメンソレータム社から販売権を譲り受け、日本国内向けに販売、その後、製造も手がけるようになったときに、このリトルナースの商標権も買取りました。その後、若干の修正を加えており、このときオリジナルは右向きの顔で描かれていたものを、日本版では左向きにしました。

一方、メンタームのキャラクター、メンタームキッドはギリシャ神話の医術神アポロンをモデルとして描かれました。さすがに同じナースちゃんではまずいと思ったのでしょう、女の子に対抗して男の子をイメージキャラクターにしたわけです。

この近江兄弟社というのは、滋賀県近江八幡市に本社を置く医薬品メーカーです。明治38年(1905年)に滋賀県八幡商業学校に赴任してきた建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、造った会社です。

ヴォーリズは明治40年(1907年)に教師として来日しましたが、布教もその来日の目的のひとつであり、八幡基督教青年会館という布教所を建設してバイブル・クラスを開設しました。

ところが、この八幡というところは、豊臣秀次(秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男)が建造した八幡城を中心に楽市楽座で栄えた町で、特権商人組織、いわゆる「近江商人」の発祥地でもある保守的な町でした。

その排他的な気風は明治になってもかわっておらず、このため、ヴォーリズは、町民の反感を買うようになり、やがて無理やり教師を解職させられてしまいます。しかたなく翌年には京都に移動し、ここにあった京都YMCA内にヴォーリズ建築事務所を開き、学校、教会、病院などの設計・建築を行うようになりました。

明治43年(1910年)には、宣教活動の為に確固とした経済的基盤を築こうとし、信徒の協力を得て創った会社が「ヴォーリズ合名会社」になります。大正9年(1920年)には株式会社に改変し、「近江セールズ株式会社」となり、さらにその後改名して「近江兄弟社」となりました。

主力商品は、アメリカ合衆国の「メンソレータム社」の製品であり、同社から日本での製造・販売・商標権やマスコットのリトルナースちゃんの使用権を得て、日本国内での製造販売を手がけるようになりました。しかし、創業者のヴォーリズの亡きあと、原材料費の高騰に加えて他社の競合品に食われました。

そればかりか、土地ブームにあやかって滋賀県内の別荘地分譲に手を出したために経営が苦しくなり、自主再建を断念し、1974年には会社更生法を申請し事実上の倒産。同時にメンソレータムの販売権もアメリカの本社へ返上しました。その翌年の1975年にメンソレータムの販売権はロート製薬が取得。

さらに1988年にはメンソレータム社本体もロート製薬に買収されました。一方の近江兄弟社は、その後大鵬薬品工業(現在は大塚HDの傘下)の資本参加で再興をはかることになりましたが、米メンソレータム社からは商品供給を断られたことから、主力商品を失った同社の再建は絶望視されるようになりました。

メンソレータム社が協力をしぶったのは、近江兄弟社の経営破たんをもたらして以来の経営陣のふがいなさに不信感を抱いていたことなどが原因だと取沙汰されています。

このため、メンソレータムの製造設備を利用してオリジナルの類似製品を販売するにあたり、メンソレータムの略称として従前より商標登録してあった「メンターム」を商品名として用いることにしました。おそらく、日本人には「メンソレータム」は発音しにくいと考え、略称として別途用意していたものでしょう。

そして1975年9月から、新たに主力商品として「メンターム」の製造を始め、自社の主力ブランドとして育て、今に至っている、というわけです。

ちなみに、近江兄弟社の「兄弟」とは、創業者のヴォーリスが、人類が皆兄弟のように助け合ってほしいとするキリスト教精神から名づけたものだそうです。その後同社が八幡市に根付いて同市を代表するような会社になってからはクリスチャンが増えました。

その関係からか、近江八幡の市民には、メンソレータムを選ぶかメンタームを選ぶか、としたときに、メンタームを選ぶ人が多いそうです。また、地元企業でもあることから、地域の患者さんからも、名指しの指定が多いそうで、このため、薬局などでも近江兄弟社のものを揃えている店が多いといいます。

かといってロート製薬のメンソレータムもある程度販売されており、近江兄弟社の本拠地にあっては、そこそこ健闘している、といえるでしょう。

なお、かつてはメンタームは医薬品、メンソレータムは医薬部外品とされていましたが、今日ではいずれも医薬品(主に第3類医薬品)とされる製品があるそうです。ただし、両者とも医薬部外品のものも販売しており、今、私の手元にある近江兄弟社のリップを確認すると、これも医薬部外品でした。効能として、どこがどう違うのかよくわりませんが。

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ところで、このメンソレータムを日本に普及させた、ウィリアム・メレル・ヴォーリズというのはどういう人かといえば、まず、生まれは、1880年10月28日、アメリカのど真ん中、カンザス州のレブンワースという町で生を受けました。

上述のとおり、は教師として来日し、八幡に居を構えて布教をしようとしましたが、うまくいかず、京都に移って、数多くの西洋建築を手懸けるようになりました。ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立はその副業に過ぎず、本来目的の布教においては、YMCA活動を中心とし、また「近江ミッション」というキリスト教伝道団体を設立しました。

信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事しました。もっとも、「宣教師」と紹介されることが多いものの、プロの牧師ではなく、単に「伝道者」であったとされます。しかし、讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かったといわれています。

建築のほうの知識は、コロラド州・コロラドスプリングスにある歴史的な有名校、コロラド・カレッジに進学したときに得たもので、来日後の1908年(明治41年)、京都で設立した建築設計監督事務所で活動を始め、以来、学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、多種多様な建築に関わりました。

しかし、その後京都から、滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点を移し、上のメンソレータムなどの販売といった実業家としての側面も見せたことから、地元では「青い目の近江商人」と称されるまでになりました。

太平洋戦争時には、スパイ容疑をかけられてしまい、夫人とともに自身の別荘のあった軽井沢でひっそりと暮らしていたといいます。しかし、太平洋戦争終戦後は自由に行動できるようになり、このとき、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと、戦後すぐに入閣して国務大臣になった近衛文麿との仲介役を果たしました。

そのおかげで、天皇ご自身は戦犯として裁かれなかったといわれており、「天皇を守ったアメリカ人」とも称されます。ちなみに近衛自身は、戦争中末期に、天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えたにもかかわらず、戦争を始めた張本人とみなされてA級戦犯となり、裁判中に服毒自殺をしています。

ヴォーリズは、71歳のとき、こうしたそれまでの功績から、藍綬褒章を受章しており、また、81歳のときには、建築業界における功績から黄綬褒章を受章しています。さらに、78歳になった1958年には、近江八幡市における名誉市民第1号に選ばれていました。

しかし、その前年の1957年には、くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入っており、この受賞と黄綬褒章の受章は病床でのことでした。1964年、近江八幡市内の自邸2階の自室において永眠。83歳でした。この自宅は、現在「ヴォーリズ記念館(一柳記念館)」として公開されています。

その葬儀は、近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬として執り行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められています。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章も受章。近年、彼の残した建築物が再評価され、昨年2014年には、神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築として初の重要文化財に指定されました。

彼が亡くなった自邸が、「一柳記念館」と呼ばれるのは、彼の日本名が、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)というものだからです。無論、この「めれる」というのはミドルネームからとったものです「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落でもあったようです。

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一方、一柳という姓は、1941年(昭和16年)に日本に帰化したのち、華族の一柳末徳子爵の令嬢、満喜子と結婚したことに由来します。

この一柳満喜子夫人は、ヴォーリスより4つ年下の1884年(明治17年)生まれ。兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、一柳末徳の三女として誕生しました。末徳は、維新後、貴族院議員、子爵となっており、いわゆる華族にあたります。

神戸女学院音楽部卒。その後渡米し、途中に立ち寄ったハワイでは、このころまだメカニック芸術大学と呼ばれていたハワイ大学の学長の勧めもあり、米本土での留学先をペンシルベニア州の名門校、ブリン・マー大学(Bryn Mawr College)に定めました。

彼女がここを選んだのは、日本で最初の女子留学生、津田梅子や大山捨松が卒業後、アメリカの大学ではこうした東洋女性を受け入れようとするところも多くなり、この大学もそのための奨学金制度を持っていたためでした。

ブリン・マー大学在学中は、その大山捨松が下宿していた家の娘で、その後アメリカでも有名な女性教育家となっていた、アリス・ベーコンの教育実践活動にも参加しました(アリスベーコンと大山捨松の関係は、「巌と捨松」を参照)。また、留学中の1910年、26歳のとき、ブリン・マー長老教会で洗礼を受け、その後は敬虔なクリスチャンになりました。

しかし、元々彼女の母親もクリスチャンであり、満喜子自身が通っていた築地の櫻井女学校(現・女子学院)はミッション系の学校でした。この母は栄子といい、満喜子の幼いころ亡くなりましたが、日本で最初に洗礼を受けた華族夫人の一人で、日本基督教・婦人矯風会が太政官に訴えた「一夫一婦制運動」などに賛同するなど、先駆的な女性でした。

また、父で元播磨小野藩主、一柳末徳も上京して慶応義塾に学んだあと、ヘボン式ローマ字で有名な、ジェームス・ヘボンや、開成学校(後の東大)などの設立に関わったヘルマン・フルベッキ(オランダ人、のち米国に帰化)などから、西洋事情の教えを受けました。このときキリスト教にも関心を抱いていたことが、娘の栄子にも伝染したのでしょう。

満喜子が帰国した1919年(大正8年)、鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋(明治後、広岡家と改姓)に婿養子として入っていた、兄の一柳恵三(婿養子となり広岡恵三)は、その自宅の新築設計に建築家ヴォーリズを指名。ちょうどその設計の相談のために、ヴォーリスを招いていたところ、満喜子と運命的な出会いを果たしました。

恵三の母、広岡浅子の後押しもあってやがて二人は結婚。ヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、その後の生涯を近江八幡で生涯を過ごし、この間、その語学力を生かして、夫とともに数多くの海外の宣教団体との交流をしました。

そうした団体員の一人で、満喜子に直接取材し、この頃の事を書いた、米国の女流作家グレース・ニース・フレッチャーの「Bridge of Love」は、戦後のアメリカでベストセラーになりました。また、満喜子は、当時皇太子だった少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師をしたことで知られる、エリザベス・ヴァイニング夫人とも交流がありました。

彼女が地元の未就学児童を対象として始めた「プレイ・グラウンド」という集いはその後、「清友幼稚園」に発展、今日の「近江兄弟学園」へと発展しています。滋賀県近江八幡市にある、近江兄弟社グループの学校法人で、幼稚園・保育園(認可外)・小学校・中学校・高等学校があります。

満喜子は、1969年(昭和44年)、ヴォーリズが逝去して5年後に85歳で永眠。夫の眠る北之庄町の恒春園にともに葬られました。 夫婦の間に子供はありませんでした。

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ところで、ヴォーリズがかつて自宅の設計を行ったことのある、一柳満喜子と兄の広岡恵三(一柳恵三)母、広岡浅子(あさ子)は、実は、この秋から始まる、NHKの朝ドラ、「あさが来た」のヒロインのモデルとなった人物です。

こちらもお嬢さん育ちで、その出自は、あの天下の「三井家」です。1849年(嘉永2年)、山城国京都(現・京都府京都市)・油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女として生まれました。

幼名は照(てる)。幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持ちましたが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられていたといいます。

17歳で、上述の大坂の豪商、加島屋の第8代、加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚。のちに間にできた娘、亀子の婿として迎えたのが、広岡恵三ということになります。
ややこしいので、略図化してみると、以下のようになります。

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この加島屋への嫁入りは、あさ(後にあさ子)がまだ2歳のときに決まっていたようで、小石川三井家から、加島屋広岡家には、それまで既にあさ子の母と祖母の2人が嫁いでおり、あさ子で三代続けて、という重縁だったようです。

時代は、動乱期であり、大政奉還が行われて幕府の威信が失墜すると、三井家や加島家など全国の大両替商などが大名へ貸し付けていた900万両(およそ1兆2千億円相当)という金は返済されず、証文は紙切れ同然になりました。

このため、大阪においても、天王寺屋、和泉屋、平野屋、茨城屋大名といった主だった豪商たちは次々に潰れていくという時代であり、三井家や加島家も同様に存亡の危機に立たされていました。

あさ子の夫となった信五郎は、優しい性格の男でしたが、世間知らずの坊ちゃん育ちであり、「わしゃ金儲けにはむかん」と仕事は手代に任せっぱなしで、三味線などの風雅に興じているような人物だったようです。

加島屋の危機をみかねたあさ子は、簿記や算術などを独学するようになり、融資先である諸藩の屋敷に出向いては、逃げまわる悪家老や重役方を追まわし、少しでも返済してくれるように頼みました。が、武士は崇高、男尊女卑の時代であり、町人ふぜいの若い女が武士に向かって何をいうか、と逆ギレされる始末。

しかし、幼いころから漢学になどにも興味を持ち、元々学問が好きだった彼女は、漢学や経学、儒学までも独学でマスターし、その後は、逃げ回る役人を捕まえては、物事の道理から武士道まで徹底的に論破しては、納得いく答えが返ってこないと、「恥を知りなさい」と責め立てたといいます。

そして、明治維新。20歳になったあさ子は、家運の傾いた加島屋を救うために、みずから実業界に身を投じることを決めます。そして、このころようやく事の重大さに気が付いた、夫の信五郎、加島屋当主である第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、と共に、加島屋の立て直しに奔走するようになります。

これを助けたのが実家の三井家でした。実父の三井高益は、新政府が中央主権化をめざして、東京に遷都すると先読みし、経済もやがては東京に移っていくと考えて、東京に本店を移しました。やがてその読みは的中し、東京が新時代の中心になっていく中、政府要人に取り入り、政府ご用達の金融業者となりました。

1872年(明治5年)には家業のひとつであった、呉服業を分割して金融業の三井組を設立し、1893年(明治26年)に「三井家同族会」と「三井元方」を設立して、その後の「三井財閥」の礎をつくりました。

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一方、娘が嫁いだ加島屋に対しても、事業を整理することを勧め、自らと同じ銀行業を始めることを進言します。こうして、加島屋にものちに加島銀行(現・三菱東京UFJ銀行など)となる金融部門が設立されました。

久右衛門はほかにも、大阪株式取引所の理事などを受けて、業界での発言力を増しましたが、こうした業界への働きかけや、銀行業の実質的経営を行っていたのは、あさ子でした。しかし、あいかわらず、女性が相手にされない時代であったため、表向きは夫や久右衛門を社長として立てていました。

1884年(明治17年)、35歳になったあさ子は、このころから、知人から九州の廃れた炭鉱の視察を頼まれたことをきっかけに、炭鉱事業にも参画するようになります。このころの炭鉱というのは、荒くれ者の住処のようなところがあり、気の強いあさ子も、さすがにたじろいだといいますが、持ち前の負けん気でこの話も快諾。

買収した、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)には自ら乗り込んで、居並ぶ男たちを前に檄を飛ばしたといい、その際、万が一のためにと、拳銃2丁を携行していたといいます。懐にそのピストルを抱きつつ、坑夫らとともに寝起きしたとも伝えられており、時には現場視察のため、滴の落ちる真っ暗な坑道にも足を踏み入れたそうです。

最初は、若い女が何を言うかと馬鹿にしていた男たちも、そうした姿を見るにつけ、やがて彼女に帰依するようになり、最後には「姐御」と慕われるまでになりました。しかし、単に男たちを睥睨(へいげい)していただけでなく、彼等の労働条件や待遇を改善し、かつ大胆な投資によって次第に事業を軌道に乗せて行きました。

1888年(明治21年)には、それまで加島屋の一金融部門にすぎなかったものを切り離して「加島銀行」として独立させるとともに、その後も1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど(いずれも夫の信五郎が社長)、加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となっていきました。

また、1899年(明治32年)には、 尼崎の有志と大阪財界の出資により有限責任尼崎紡績会社を創立。1904年(明治37年)には、「尼崎紡績株式会社」と改称しますが、これがのちの「ユニチカ」の前身になります。

この時代、もうひとつ女性社長によって切り盛りされていた会社に「鈴木商店」がありますが、これは夫を亡くしてその経営を引き継いだ「鈴木よね」によって運営されていた会社であり、のちの総合商社「双日」のルーツになります。

この鈴木よねと、同じく銀行業で名を馳せた、峰島喜代子(尾張屋銀行)、広岡あさ子は、明治期における三大女性実業家と称されています。

あさ子はまた、幼いころに自ら学ぶことを禁じられていたということに対する反動からか、女性も十分な教育を受けるべき、ということに対しても熱い思いを持っていました。

1896年(明治29年)、大阪府豊中にある、ミッション系の学校、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、このとき贈呈された彼の著書、「女子教育論」がその教育熱に火をつけました。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つあさ子は、成瀬の説く女子高等教育機関設立の考えに大いに共鳴し、自ら納得のいく教育機関を創生することを決意します。

成瀬と行動を共にして政財界の有力者に呼びかけ、金銭の寄付のみならず、法制面からも学校創立の協力をしてくれるように要請。また、実家の三井家一門にも働きかけた結果、三井家から目白台の土地を寄付させるに至ります。こうして、1901年(明治34年)に生まれたのが、日本女子大学校(現 日本女子大学)です。

初代校長は、無論、成瀬仁蔵であり、現在では、「ぽんじょ」、日女(にちじょ)、「目白のじょしだい」と呼ばれて親しまれるこの学校は、日本で初めての組織的な女子高等教育機関として生まれ、その後日本の女性教育において、多大な影響を与えていきました。

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1904年(明治37年)、あさ子55歳のとき、夫の信五郎が死去。あさ子より5歳年上のこの夫の享年はちょうど60歳でした。これを機に、あさ子は、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲り、社会貢献事業に専念するようになります。

ちょうどこの年に始まった日露戦争では、愛国婦人会に参加し、中心的人物として活動。60歳のときに胸部に腫瘍手術から無事生還できたことをきっかけに、回復後の1911年(明治44年)日本組合基督教会の指導者、宮川経輝によって受洗。婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次ぐ女性雑誌に多数の論説を寄せ、女性奮起の機運に火をつけました。

また、「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による「心霊の覚醒」や自らの宗教的信条を記した「一週一信」を出版して日本のキリスト教化に励みました。

キリスト教を基盤に世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進めることを目的とした、YWCAの活動も積極的に行い、日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長などを務めています。

ちなみに、前述のヴォーリズが建築事務所を創ったのは京都YMCA内です。婿として迎えた一柳恵三の妹、満喜子と結婚したヴォーリズとも親しくしていたためです。

日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。このときの参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいました。

花岡は、「赤毛のアン」の翻訳者として知られ、あさ子と同じく、NHKの朝ドラ「花子とアン」のヒロインのモデルとなった人物です(「ルーシーと花子」参照)。

1919年(大正8年)、東京にて死去。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われます。生前から「子孫には、不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していそうです。浅子の功績を称え、日本女子大学では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催しました。

今月末から始まるNHKの朝ドラ、「あさが来た」のモデルは、言うまでもなくこの広岡あさ子です。その生涯を描いた古川智映子の「小説 土佐堀川」を原案とし、NHKのみならず民放ドラマの作家として人気のある、大森美香が脚本を手掛けます。代表作は、映画化もされた「ネコナデ」でしょうか。

ヒロイン、今井あさ役は、最近人気急上昇中の波瑠(はる)さんで、そのエキゾチックな顔立ちから、ハーフに間違われるときもあるそうですが、純粋な日本人です。このヒロインの人選は「マッサン」と同様に、公募オーディションで行われ、応募2590人の中から彼女が選ばれたそうです。

夫の白岡新次郎こと、広岡信五郎役は、玉木宏さんで、新次郎の父、白岡正吉(加島屋久右衛門)役は、近藤正臣さんだそうです。満喜子やヴォーリスまで登場するのかどうかはまだわかりませんが、実話の人物・企業・団体名などを改名して大幅に脚色してはいるものの、フィクションとして制作されるそうなので、可能性はあるかと思います。

既に、6月から、NHKの大阪局でスタジオ撮影がスタートしており、このとき、朝ドラ史上最も裕福な家に生まれた設定のヒロイン「あさ」の実家・今井家の豪華セットが公開されたそうです。

タイトルの「あさが来た」は、「あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたい」という思いが込められているそうです。

この秋以降、毎日待ち遠しい「朝」になることを期待したいと思います。

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