ハゲの里

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6月7日に梅雨入りしてから40日ほどが過ぎました。

今年はカラ梅雨とのことでしたが、伊豆ではそれなりに雨に恵まれ、おかげで庭木の水やりにもそれほど気を遣わなくて済んでいます。

ただ、逆にこれから梅雨末期にかけて雨が降りやすい時期であって、集中豪雨などの大雨には注意が必要です。

先日の熊本・大分の集中豪雨も、台風3号が取り込んだ湿った空気によって、積乱雲が次々と発生し、同じ場所に連続的に雨を降らせました。

いわゆる「線状降水帯」です。この九州北部を襲った降水帯は9時間以上停滞したといい、気象庁の専門官も「これほど狭い範囲に長時間停滞するのは驚きだ」と話していました。

その原因は、梅雨末期になると、梅雨前線を構成する北側のオホーツク海気団と南側の太平洋高気団のバランスが崩れ、不安定になってくることと関係があるようです。

上空では寒気や乾燥した空気が流入し、地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入しやすくなります。そこへ、西から台風や低気圧が近づいてきたりすると、前線の活動が活発化し、積乱雲をともなった強い雨雲が発生し、時に豪雨となります。

梅雨末期のこうした大雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼びます。とくに雷をともなった雨が降ることも多く、これは、送り梅雨(おくりづゆ)と呼ばれます。

その後、梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされます。

ここ、東海地方の梅雨明けの平年値は、7月21日で、他の地域もだいたいこれに準じてこの前後の事が多いようです。

今年もまたその時期が近づいてきました。

一方では、梅雨明けした後も雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがあり、これを帰り梅雨(かえりづゆ)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼びます。

こうした年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にあるといいます。昨年も結構暑い夏になりましたが、7月下旬に限っては、東日本は冷夏であり、平年より気温はかなり低くなりました。

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日本では1983年までは2年以上連続で猛暑になることはなく、1993年までは冷夏の頻度も高かったようです。しかし、かなりの酷暑となった1994年以降、猛暑となる年が急増しています。最近では、2004~- 2008年の間は、5年連続の猛暑となりました。

さらに、2010年(平成22年)は1994年を大幅に上回る、観測史上「最も暑い夏」になりました。多くの地点で平均気温の最高記録や熱帯夜などの最多日数を更新し、特に8月は平年よりも2℃以上高い所が多く、全国77の気象官署で月平均気温の最高記録を更新しました。

9月になってからも38℃以上の記録が相次ぎ、札幌市、岐阜市、名古屋市などの9地点の気象官署では9月の平均気温が過去最高になりました。

この観測史上最も暑かったといわれる2010年に匹敵するほどの暑さだったとされるのが、2013年(平成25年)の夏です。前年には記録的な高温にならなかった西日本太平洋側や南西諸島も含め、3ヶ月及び全ての地方を通して高温になりました。

特に8月中旬は暑さが厳しく、8月12日に、高知県四万十市、「江川崎(えかわさき)」で日本の最高記録41.0℃を更新し、その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続しました。

この、「日本で最も暑い場所」として最高気温が観測されたのは、北緯33度10.2分 東経132度47.5分、標高72mの地点にある、気象庁の観測所です。

「江川崎観測所」といい、気象庁の誇る、アメダス(地域気象観測システム)の拠点観測地のひとつです。正確な所在地は、「四万十市・西土佐用井(もちい)」で、これは四万十市立の西土佐中学校に隣接する場所になります。

付近には駐車できる場所もあることから、日本の過去最高気温を記録して以来、この観測所を一目見ようと訪れる観光客の姿も見られるようになったといいます。

また日本の最高気温記録を更新した、2013年8月12日の翌日の13日には、商工会が「日本一の暑さ江川崎」の看板を制作したほか、農産物直売所の「西土佐ふるさと市」で、気温41度にちなんだ41円のかき氷を販売するなど、以後、現在に至るまで、「暑い」をテーマとして、地域振興に結び付ける取り組みが行われてきました。

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現時点で、日本一暑い町といわれる、この江川崎ですが、高知県の南西部の山間にある地域です。私の生まれた場所、愛媛県の大洲市から直線で約40kmほどのところにありますが、無論私も、生まれてこのかた、こんな山深い土地を訪れたことがありません。

町や村ではなく「地区」として扱われていて、6つの大字で構成されています。それぞれ「西土佐」が頭に付き、西土佐「江川(えかわ)」、西土佐「長生(ながおい)」、西土佐「西ケ方(にしがほう)」、西土佐「半家(はげ)」、西土佐「用井(もちい)」、および、西土佐「江川崎(えかわさき)」になります。

このうち、西土佐江川崎(にしとさえかわさき)が中心的な地区になるようで、中世以来の地域の中心地でもあり、JR予土地線の江川崎や四万十市役所の西土佐総合支所などの役所があるのもこの場所です。

行政区分上は、これら6地区を併せて「江川崎地区」と呼び、「江川崎」の名称は、旧「江川崎村」に由来します。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、江川・長生・西ケ方・半家・用井、および下山(川崎)・の6村が合併し、この江川崎村が成立しました。村役場は下山の「宮地」という場所に置かれていました。

大正期以降、交通の要として発達しました。1932年(昭和7年)頃の資料によると、村の総生産は、農産が最も高く特に生繭・米・桑葉・用材・木炭が主要産品でした。1953年(昭和28年)、愛媛県西方の「豊後水道」に面する町、宇和島を始発駅とする日本国有鉄道「宇和島線」が成立し、これが延長されて「江川崎駅」が開業、終着駅となりました。

1958年(昭和33年)、隣接する津大村と合併し西土佐村が発足、村名としての江川崎は失われましたが、下山が江川崎に改称となり、大字名として「江川崎」の名が残されました。

西土佐村成立後、江川崎は現在に至るまで、法務局出張所、営林署、土木出張所などの出先機関や役場・商工会・中央公民館などが設けられ、地域の拠点として発展を続けました。1978年(昭和53年)には、四万十川を横断する西土佐大橋架橋が完成し、これにより、対岸の「用井」も村の中心機能の一部を担うこととなりました。

この用井は、上で述べたとおり、2013年に国内最高気温を記録した場所です。それまでの用井は、陸の孤島状態にありましたが、西土佐大橋の架橋後、西土佐中学校や村の総合グラウンドが建設されるなどの開発が進み、江川崎の中心地と目されるようになりました。

1974年(昭和49年)には江川崎駅以東の鉄道路線が開業、宇和島線から「予土線」に改められました。ちなみに、この予土線は、終点の若井駅を経て土佐くろしお鉄道:中村線に乗り入れ、さらに四国旅客鉄道:土讃線に接続して、高知県の県庁所在地、高知に至ります。

ローカル線であるがゆえに、運行頻度は低いようで、乗り換えも必要ですが、県庁所在地まで、一本の路線で行ける安心感があります。

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江川崎は、2005年(平成17年)、平成の大合併により、隣接する中村市とともに四万十市の一部となりました。ちなみに、この中村市は、江川崎の南に位置し、昭和時代までは高知県西部(幡多郡)の中心都市でした。戦国時代には土佐一条氏の城下町であり、中心市街地は碁盤目状に区画されていました。「土佐の小京都」として知られるとともに、「土佐中村」として独自の文化を築いてきました。

人口も合併前には35,000人ほどもあり、これに比べると、同じ四万十市に属するながら、江川崎地区の世帯数は670世帯、人口は1,600人弱にすぎません。段丘上に集落を形成する山間の小さな町であり、産業の中心は農業と林業で、米・野菜・シイタケなどを産出するほか、木材が大きな収入源です。

かつて江戸時代以前に「下山郷」と呼ばれていた時代、ここから産出される木材は「黒尊材」または「下山材」として知られ、和泉国(現大阪府南西部)などへ出荷されていました。当初、木材輸送には四万十川のいかだ流しを利用していましたが、近代ではトラック輸送に取って代わられています。

1983年(昭和58年)、NHK特集「土佐四万十川〜清流と魚と人と〜」という番組が日本全国に放映されました。このとき、アナウンサーが用いた「日本最後の清流」の語は、のちに四万十川を表す語として全国に響き渡るところとなりました。

この番組は、全国的にセンセーションを巻き起こし、放映後、江川崎では四万十川を活用した観光が盛んとなっていきます。旧西土佐村の観光客は1990年(平成2年)には10万人であったものが、1997年(平成5年)には23万人へと増え、観光業が急成長しました。

江川崎の古くからの観光スポットには白綾の滝や金刀比羅宮があります。金刀比羅宮といっても香川県にあるそれと比べるとかなり規模の小さいものです。ただ、天正年間(1592~1593年)の勧請ということで、歴史は古く、ネットで調べてみると奥深い風情のある神社です。

一方の白綾の滝は落差が10mほどあり、天保8年(1837年)には宇和島藩主が訪れています。が、こちらも他地域にある滝に比べるとそれほど大きなものではないようで、観光スポットとしての集客効果は、少々弱そうです。

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これに比べ、四万十川の知名度はダントツです。この川が観光資源になるという認識は、NHKの報道により有名になるまでは、地元、江川埼住民にも高知県行政にもなかったようです。が、放送をきっかけに、この四万十川中流域にある小さな町にも一大観光ブームが訪れました。

今や全国的にも知名度の高くなった、この四万十川は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で全長196km、四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっています。上流にダムが建設されていないことから、上のとおり「日本最後の清流」のキャッチフレーズを持つほか、柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」とされ、名水百選、日本の秘境100選にも選ばれています。

ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではないといいます。

水質以上にその環境が評価されている川であり、その高い評価のひとつには、四万十川には支流も含めて47の沈下橋があることです。

沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところに、主として鉄筋コンクリートなどにより架橋されるものです。床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの、増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいいます。

かつて架橋技術が未熟であった時代は、洪水でも壊れない橋を造ること自体が難しい、という現実がありました。このため、あえて増水時に沈む高さで橋を造って流木などが橋の上を流れていきやすいようにする、という苦肉の策が採用されるところとなり、これが、全国でも増えました。

土木用語としては「潜水橋」あるいは「潜り橋」というのが正式な名称で、その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られ、とくに台風などの豪雨に度々見舞われる、四国をはじめとする西日本の各地で多く建設されました。

しかしその後、架橋技術が進歩するにつれ、現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られるようになり、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えない、ということもありました。こうして沈下橋は新たに建築されなくなり、永久橋に架け替えられて徐々に姿を消しつつあります。

こうした中、沈下橋を河川の文化的景観、技術的遺産、観光資源として保存する動きもあり、この四万十川流域でも、江川崎にある沈下橋も含め、重要文化的景観に選定されているものが多数あります。高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定しています。

また、四万十川には堰がないことから、カヌーに最適とされ、日本有数のカヌーの盛んな地域となりました。拠点となる「四万十 川の駅 カヌー館」にはカヌー資料館が併設され、江川崎周辺ではカヌー教室やリバーツーリングが展開されます。

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とはいえ、これ以外にこれといって大きな観光の目玉があるわけではなく、宿泊施設もホテル星羅四万十というホテルがひとつと、西土佐山村ヘルスセンターという公営の日帰り温泉施設がひとつ、このほか旅館や民宿が5~6軒ほどもある程度です。

ただ、この地には綺麗な夜空があります。町の内外に建つ住宅は分散していることから光害が少なく、星がきれいに見えるため、この星を使った町おこしに最近取り組んでいるようです。旧環境庁から「星空の街」の認定を受けているとのことで、最近小さな天文台も作られたようです。

このほか、この地はその昔、土佐国と伊予国の境にある軍事要衝地であり、支配する権力者が次々と変わるなど、歴史的にみると、かなり面白い場所であるようです。現在の江川崎地区に相当する地域は、戦国時代に「下山郷」と呼ばれ、伊予国に占領されていましたが、文明元年8月(1469年9月)土佐国の、土佐一条氏が奪還しました。

土佐一条氏は、室町時代の公卿・古典学者であった、「一条兼良」を高祖とする一族です。

一条家は、五摂家のひとつで、摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流です。また、五摂家とは、公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のことで、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できるという家格の高い家柄です。

兼良は、その一条家の中にあっても、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身も「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、和歌・連歌・能楽などにも詳しかったといいます。

1468年(応仁2年)に、この一条兼良の子で関白の「一条教房」が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに、一族の歴史が始まります。そしてその土地こそが、江川崎の南側にある、旧中村市になります。

鎌倉時代末期から室町時代にかけてこの地は地元の豪族の争いが絶えず、朝廷にしてみればその安定化を図る目的もあったと考えられます。教房は、この中村の前身である幡多郡(はたのしょう)を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置きました。

以後ここは「中村御所」と称され、同時にここを中心とする地域を「中村郷」と称するようになりました。また、教房とともに京にいた公家や武士、職人などもここに下向するなど、土佐一条氏繁栄の基礎が築きあげられました。

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しかし、繁栄を誇った土佐一条氏も、5代目の一条兼定の代に没落します。兼定の父の4代目房基は、伊予国南部への進出を図るなど一条氏の勢威をさらに拡大していましたが、1549年(天文18年)、突如として自殺しました(一説に暗殺説も)。

その子の一条兼定は、暗愚で遊興にふけったため信望を失い、他豪族を滅ぼして勢力を拡大しつつあった長宗我部氏(当主 長宗我部元親)が中村に侵攻してきます。このとき、一条氏の家臣は先を争って元親の軍門に降り、これにより兼定は九州豊後国に追放されました。以後、土佐一条氏は土佐を追われ、下山郷は長宗我部氏の配下となります。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い、四国全土に勢力を広げたことで知られる人物です。しかし、その後織田信長が四国平定に乗り出すところとなり、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。

慶長4年(1599年)に元親が死ぬと、長宗我部盛親が第22代当主となります。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしますが、家康への密使を関所で留め置かれ、西軍に組みしました。本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗戦し、このため長宗我部氏は戦後所領を没収されて改易となり、浦戸という狭い土地に押し込まれました(浦戸藩・現在の高知県高知市浦戸)。

その後盛親は、慶長19年(1614年)から同慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に付きましたが、この戦いでも豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され、直系は絶えました。

しかし、長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫が土佐藩に下級藩士として仕え、断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっていきます。が、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられており、再び長宗我部を名乗ることができるようになったのは、明治維新後のことです。

長宗我部元親は、その全盛時代、現在の江川崎地区である下山郷で天正17年(1589年)に検地を実施しています。それまでの川埼村が下山村と呼ばれるようになったのはこの時代であり、以後江戸時代に至るまで、もっぱらこの地は下山郷、もしくは下山村と呼ばれていました。

合わせ4つの城があり、長宗我部氏が伊予国南部へ侵攻する際の入り口となるなど重要な軍事拠点でしたが、関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が土佐を去ると、下山郷は土佐山内氏の所領となりました。

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山内氏は、内助の功で知られる千代を妻に持つ、ご存知「山内一豊」を開祖とする一族です。千代と一豊の国盗り物語は、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」の中で描かれたため、ご存知の方も多いでしょう。千代役を仲間由紀恵さんが、一豊を上川隆也さんが演じ、なかなか視聴率も高かったようです。

一豊はその後、江戸期を通じて繁栄した土佐藩の初代藩主となります。高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行いました。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わっており、それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになりました。これが鰹のタタキの起源だとされています。

江戸時代を通して下山郷もまたこの一豊を初代藩主とする土佐藩の配下にありました。しかし、長宗我部時代に伊予国とのつながりが深かった下山郷は、土佐藩領になっても隣国の伊予国との交流が深く、自国よりもこちらの民との婚姻が結ばれることも多かったといいます。現在でも方言や家屋の様式に類似性が認められるようです。

下山郷のうち、町の中心である下山は舟運の拠点で、四万十川河口部の海に面する下田との物資の往来、特に下田からの食塩の輸送が盛んでした。また、現在の「西土佐江川」に相当する江川は紙や弓の生産が盛んで、文政7年(1824年)には紙の取り扱いを巡って江川一揆が発生しました。

紙漉きはまた、隣接する長生のほか、半家でも行われていました。

この半家、実は平家の落人が開いた村であった、という伝承があります。

グーグルマップをみると、予土線の「半家駅」以外にとくに目立ったランドマークのない、ひなびた山村ですが、ちょうど四万十川がうねりにうねってSの字型に蛇行した場所にあり、その左右岸の緩い山裾の斜面に家々と田畑が広がるという地形を持った山里です。

明らかに四万十川の水利を利用して生活維持をしてきた様子がうかがえ、そのために古くから、氾濫の多い万十川への架橋が試みられてきたようです。そのひとつ、「半家沈下橋」は、現在四万十川流域にある沈下橋のうちの最も古い橋になります。

と同時に、四万十川に架かる47もある沈下橋のうちの最上流の沈下橋で、四万十川における「沈下橋観光」の撮影スポットの一つです。急流に架かり、瀬音や白い水しぶき楽しめる全長約125mの橋で、普通車の通行可能が可能といいます。すぐそばに半家天満宮というひっそりと静かな古刹があり、秋祭りでは「牛鬼」と呼ばれる、中に人が入った大きな赤牛の形をした人形が、この沈下橋の上などを練り歩きます。

秋祭りには、多くのカメラ愛好家や地元住民らが訪れるといい、この牛鬼は、古くから交流が盛んだった愛媛県宇和島市から伝わったとされます。土佐国に属しながら、国境にあるがゆえの伝統であり、隣国である伊予国の影響が色濃い地域である証でもあります。牛鬼の行進のほかに、「五鹿(いつしか)踊り」や「花取り踊り」が半家天満宮で毎年行われ、五穀豊穣(ほうじょう)や魔よけを、地元の人たちが願うといいます。

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そして、その人々の先祖こそがこの地に住み着いた平家の落人だという伝承が伝わります。

実は「半家」は、「はんげ」と読むのではなく、「はげ」と読みます。ハゲというと、最近、「このハゲ~」発言でひんしゅくを買った、某女性政治家を思い出してしまいますが、なぜこういう読みになったのかは不明です。

が、漢字の由来は、そもそも平家の落人だったこの村の先祖たちが、源氏方の追討を逃れるために「平家」の「平」の字の横線を移動させて「半」にしたためと言われています。と同時に、その読みも「へいけ」では都合が悪いので、「ハゲ」ということにしたのでしょう。

この半家の村人たちは、その昔から「助け合い」の精神が強い人たちが多かったといわれ、江戸時代には、「半家義民村」と呼ばれるほどだったといいます。義民(ぎみん)とは、本来、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、義人とも言いますが、この場合は、命を賭すほどのこともなく、単に郷土愛にあふれた義侠民のことのようです。

日本各地にはあちこちにこうした義民伝説が残っていますが、この半家でも「半家義民録」「半家義民記」といった形でその記録が残されているそうです。

伝統的に相互扶助を行ってきたことを土佐藩主に知られ、「半家義民村(はげぎみんそん)」と呼ぶように、と8代藩主、山内豊敷(とよのぶ)から許しを得るとともに、12代藩主、山内豊資(とよすけ)から米を下賜されたりしました。戦前には、そうしたことが教科書で取り上げられる、ということもあったといいます。

この半家の義民たちが、平家の落人だった、といわれているわけですが、彼らは、平家滅亡の元となった、治承・寿永の乱(源平合戦)を生き延びた人々の可能性があります。

この乱の末期に行われた、屋島の戦い(讃岐国屋島(現高松市))や、壇ノ浦の戦い(現下関市)での生き残りと考えられ、当地は高松市と下関市を結ぶ直線のほぼ中間地点にあります。その両方からここへ命からがら逃げてきた、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

源平合戦において敗北し、僻地に隠遁した落人としては、主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられます。連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方のいわば「難民」であり、残党の追捕から逃れた者が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになりました。

ただし、武士に限っては平家の「落武者」と呼ぶ場合もありますが、落ち延びたのは必ずしも平家一門の末裔であるとは限りません。「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士、あるいはその家族なども含まれていました。

このため、平家の「落人」という言われ方をすることの方が多いようです。そうした平家の落人が潜んだ地域は、後年、平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などと呼ばれるようになりました。

源氏に見つかることを恐れ、山の奥深くや離れ島や孤島などに存逃げ込んだといわれており、このため、人口が少ないところや山間部や谷間などが、隠れ里だと言われることが多いようです。この半家の郷も四万十川の最上流部に位置する山里であり、落人伝説が発生したとしても不思議ではない土地柄です。

落ち延びたのは必ずしも身分の高い人々だけではなかったと思われるわけですが、こうした伝説がある場所では、落ち延びたのは実は、もともと平家の中でもとくに身分が高い人たちだった、という憶測が往々にして生まれました。その理由としては、彼らがふだんから使っている食器や生活用品に高級品が多かった、とされることなどからです。

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それにしても、そうした高級品を彼らが持っていることが、どうして巷でも知られるようになったのか、ですが、こうした隠れ里の生活の中では、それらを川で洗ったりする時にうっかり流してしまった、ということがあったようです。また、隠れ家を探しての移動中、山中に落としてしまった、といったハプニングも時に起こりうります。

平家の隠れ里以外に住まう人たちにすれば、ある日見慣れない、こうした漆塗りの高級器が流れてきたり、山中の思いがけない場所でそうした「証拠」を発見して、あれっ?と思うわけです。

が、そうした異変に気づくのはごく少数にすぎません。大抵の場合、平家の落人の隠れ里の存在を知る者もごくごく限られ、たとえその存在を知っても、あえて隠れ里を探そうとしたり、公にしたりするケースも少なかった、と考えられます。

それはなぜか?ですが、そのひとつは判官贔屓(ほうがんびいき)の心理が働いたからだ、という説があります。これは平家を滅亡に追いやった源義経(九郎判官義経)が、のちに兄の頼朝から討伐を受けた際に生まれた用語です。

第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」といった心理現象を指します。

同じ感情が、平家の落人に対してもあったとしてもおかしくなく、あえて彼ら落人のことを追及したり、話題にすることすらタブーとなっていたと考えられます。かくして、長い年月のうちには、平家の隠れ里は伝説となり、やがては「桃源郷」として神秘的な存在になっていきます。

そうした中においては、ある日偶然にもそうした場所にうっかり足を踏み入れてしまった、といった話も出てきます。たとえば、貧しい家の女が小川に沿って蕗(ふき)を採っていく内に、道に迷って谷の奥深くにまで分け入り、豪勢な御殿を発見して中に入りますが、人の姿が見えないので怖くなり逃げ出した、といった類の話です。

そして、そうした話には、やがて尾ひれがつき、お伽噺の形態を帯びるようになっていきます。後日、その貧し家の女が小川で洗い物をしていると、上流から赤い椀が流れて来ます。その椀を使うと穀物をいくら使っても減らず、その家はやがて村一番の金持ちになっていく、といった具合です。

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東北、関東地方には、このように訪れた者に富をもたらすとされる山中の幻の家の話が数多く残っており、山中のこの種の家は「迷い家(まよいが)」と呼ばれ、マヨイガが転じて、マヨヒガとも呼ぶようになりました。

柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、「遠野物語」によれば、迷い家とは訪れた者に富貴を授ける不思議な家であり、訪れた者はその家から何か物品を持ち出してよい、というものでした。

転じて、無欲ゆえに富を授かった貧しい家の者が、迷い家を訪れることで救われることになった、という成功譚と、欲をもったせいでその富が身を滅ぼす原因になったという失敗譚のふたつが一対になってそこに描かれています。

こうした桃源郷は一種の仙郷で、山奥や洞窟を抜けた先などにあると考えられ、「隠れ世」とも呼びならわされてきました。猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、などという話が語り継がれています。

そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごします。

が、いったん外部の世界に戻り、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできません。奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地はある種の「霊界」ともいえるような場所でしょう。何の憂いもなく平和な世界であり、しかも人間の世界とは違う時の流れがあります。

岩手県和賀・鬼柳村(現・東和賀郡北上市)にはこんな話があります。あるとき、「扇田甚内」という人物が、朝早く起きて沼を見ると若い女が手招きをしていました。同じことが2、3日毎朝続いたので近くへ行ってみると夫婦の約束をするため家に来てくれといいます。女はこの世に類のない艶やかさであり、甚内は一目ぼれしてしまいます。

女の後を付いていくと見たこともないような世界に着き、家に着けば美しい女達があまたいて甚内を主のように尊敬してくれます。やがて女の一人と契りを結びますが、月日が流れるにつれ、ふるさとの妻子が気にかかりはじめます。

そのこと女に話すと、家にいない間に男の家を有徳富貴にしておいたから案ずるな、といいます。それでも甚内が帰ろうとすると、女は口外してはならぬと約束させ、ここでの生活のことを外で語れば、あなたとは二度とは会われぬだろう、と泣きます。

それを振り切るようにして、男が家へ帰ると、なるほど実家は豊かになっていました。ところが、1ヶ月とばかり思っていたが三年の月日がたっており、甚内は死んだものとされ、自分の法事まで終わっていました。

家内にどこに居たと問いただされ、真実を吐くと、たちまちの内に甚内は腰を折って気絶し、そのまま不具廃人となりました。そしてそれ以前の貧乏になり、つまらぬ一生を送った、とされます。

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こうした話は、無論平家の落人伝説とは関係なく、全国に伝わる、民話、伝説にみられる一種の山仙郷のお話です。

が、このような隠れ里は地下の国や深山幽谷といった、いかにもありそうな、一応到達可能そうな場所に置いているところが特徴的であり、そこに平家の落人が住んでいてもおかしくない、と人々に思わせるところがあります。

ただ、その伝説の発展形は、かなり現実に近い話とお伽噺の類の話の大きく分けてふたつがあるようです。各地の隠れ里伝承を比較研究した柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしています。

とくに西日本によくある、夢幻的な話の中には、隠れ里を訪ねた者が贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものが多く、また隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多いようです。

また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたというものが多く、時間の経ち方が違っています。こうした逸話は隠れ里の異境性をよく表しており、「浦島太郎」などの説話との共通点も見られます。

一方では、同じ西日本にあって、四国にはかなり現実味を帯びた平家の隠れ里伝説も数多く残っています。

徳島県三好市東祖谷阿佐には、屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が讃岐山脈を経て阿波へと入り、追手に脅かされ祖谷に住んだというは話が残っています。

阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存します。この平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、他の平家落人伝承より注目度が高いとしてされます。

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このほか、江川崎から、直線で50kmほど北東にある同じ高知県の越知町にある横倉山には、安徳天皇の陵墓ではないか、とされる墓があるそうです。「屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲した」との言い伝えがあるといい、歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常ではないといわれます。

また、この地にある横倉山の前を流れる川は、仁淀川と呼ばれているほか、京都ゆかりの地名が多く存在します。北の集落は藤社と呼ばれ、これは当時京の北の守りであった藤社神社にちなむ、とされます。周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく、石に名前を書いて並べ置くだけ、といった風習があり、これは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致します。

これらのことから、香川県の屋島から徳島県の東祖谷へと逃れた平家一門が、最後に住み着いた場所である可能性は高い、と考えられているようです。

片や、残念ながら、江川崎の半家が、平家の落人の里であるという確証データはほとんど何もありません。

が、ここからほど近い愛媛県八幡浜市の佐田岬には、壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が上陸したという話があります。すぐそばの「伊方」を流れる、宮内川上流の谷、「平家谷」に隠れ住んだとの言い伝えがあり、それによれば、落人たちは8名で畑を開き暮らしていました。が、やがて源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったといます。

平家谷には平家神社がまつられているといい、もしかしたら、この伊方の落ち武者の他の生き残りやその家族が半家に辿りつき、ここに住み着いたのやもしれません。

……想像は膨らむばかりです。

さらに想像を膨らませたいところですが、まるで私自身が、桃源郷にいたかのごとく、このブログを書いてしまっていました。そのための時間も一瞬であったように思えるものが、気が付けばかなり長い時間になってしまっているようです。

この続きは、このあとの熱帯夜の寝苦しい宵に夢としてでも見ることとし、今日の項は、そろそろここで終わりにしたいと思います。

それにしてもはてさて、梅雨は明けたのでしょうか…

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ウンカとキリギリス

blog170523-9226富士山の雪が遠目にもかなり融けてきて、夏山になりつつあるのは明らかです。

暑さ厳しい季節に入りつつある証そのものであり、夏が嫌いな私にとっては、今年の夏もいつも通り暑いぞ~、と脅しをかけられているような気分になってきます。

とはいえ、富士山そのものに悪気があるわけでなし、日々変化する凛々しいその姿でどれだけ心が洗われていることか。がしかし、富士の守り神、木花咲耶姫もまた暑い夏がお嫌いだからこそ、その高嶺の涼しい場所に鎮座しておられるに違いありません。

そろそろ厚く着込んだ十二単を脱ぎ捨てて衣替えをされているに違いなく、もしかしたら、今日あたりは残雪を使ってかき氷など、召し上がっているかもしれません。

それにしても今日も暑くなりそうです。朝から気温がどんどん上がり、9時の時点でもう既に25度。まだ、5月だというのに…です。

ここは山の上ゆえに、やや気温は低いものの、午後には30℃まではいかないまでも、おそらくそれに近い暑気になるのではないでしょうか。

こうした暑さに誘われてか、虫が多くなってきました。先日、庭の水やりをやっている間に、今年初めて蚊に食われ、仕舞ってあったキンカンはどこかと探し回る、という一幕があったばかり。そろそろ虫よけスプレーを買い、蚊取りも求めて、これからのムシムシする季節に備える必要がありそうです。

ところで、虫といえば、その昔は、虫送り(むしおくり)という行事があったそうな。

虫追い(むしおい)ともいい、農作物の害虫を駆逐し、その年の豊作を祈願する目的で行われるこれは、今はかなり廃れてしまった日本の伝統行事のひとつです。

ちょうど春から夏にかけての今の時期、すなわち初夏のころ行われていた行事で、夜間たいまつを焚いて行います。一般的には藁人形をつくって悪霊にかたどり、作物を食い尽くす害虫をくくりつけて、鉦や太鼓をたたきながら行列して村境にいき、川などに流しました。地域によっては七夕の行事などと一緒にやることもあったようです。

しかし、明治時代以後、虫送りは各地で廃れていきました。農薬が普及するようになったことと、火事の危険などから行われなくなったことが原因のようです。

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とはいえ、長い歴史を持つす風習だけに、現在も続いているところもあちこちにあり、私の郷里の山口でも、長門市から下関市にかけての日本海沿いの北浦地方で「サバー送り」という虫送りの風習が残っています。萩藩やその支藩では、虫の害によって米の凶作が起こることも多く、その度に飢饉が生じたため、各地で虫送りが行われました。

北浦地方の場合、「サバーサマ」「サネモリサマ」という2体の騎馬武者姿の藁人形を作ります。それを自分たちの地域から隣の地域へ、さらに隣の地域へと、かつての村の境を幾つも越え、延々と送り出していく、リレー形式であるのが特徴です。どこまで行くかについては、その年によって異なりますが、最長では60km近くになるようです。

確認されたものでは最長約53kmあったそうで、そのときは約1ヵ月にわたって送り出されています。こういった形の虫送りは、全国的にもまれで、2009(平成21年)には、県の無形民俗文化財に指定されました。

この北浦地方の「サバー送り」「サバーサマ」のサバーとは、稲の害虫であるウンカなどを指します。時に、大発生して米の収穫に大打撃を与える、体長2~3cmほどのバッタとセミのあいの子のような虫で、ウンカは「浮塵子」と書きます。「「雲霞のごとく」、という表現がありますが、こちらは「雲」や「霞」のように人が集まっている、という場合に使い、虫のウンカとは関係ありません。

「サネモリサマ」のほうですが、こちらは、源平合戦で亡くなった老武士・斉藤実盛(さいとう さねもり)のことです。その死にざまから、無念の死を遂げた怨霊が稲を荒らすようになったという伝説があります。その怨霊を鎮めるために「サネモリサマ」として崇めるようになり、害虫であるウンカの化身であるサバーサマをよそへ連れて行っていただくよう祈る行事として「サバー送り」が定着したようです。

この北浦地方のサバー送りは、6月末から7月上旬にかけて長門市の飯山八幡宮で、地域の人々が藁人形を作ることから始まります。長門市中心部から南の山の手のほうに行ったところにある、東深川藤中(ふんじゅう)にある古社です。奈良時代に湊の浜にまつられ、平安時代初期に現在地に移されたと伝えられています

この神社で、宮司さんたち主導で、街の有志が藁の馬に人が乗った形の「サバーサマ」「サネモリサマ」を作ります。騎馬武者姿のこの2体の藁人形が出来上がると、顔には、白い半紙を貼り付け、目・鼻・口を描き、頭には紙で作った兜をかぶせ、背には羽織代わりに貼った紙に「一○」と書き、腰には木の枝で作った刀を差します。

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ネットで見つけた写真で見ると意外に大きく、中学生の背丈ほどもあります。2日間の神事の後、地域の人たちがこの藁人形を担ぎ、幟(のぼり)を持ち、鉦(かね)や太鼓をたたきながら八幡宮を出発し、長いリレーが始まります。その後は、車に乗せ換え、初日は旧長門市域と長門市街の西にある日置(へき)との境に藁人形を置いて立ち去ります。そこからは、子ども会などが徒歩や車で中継点まで運び、そっと置いて立ち去ると、また送り出されます。

このリレーは日置のさらに西にある、油谷(ゆや)に入っても同様に行われます。その後も、西へ西へと進み、各自治会や子供会などにより、数週間をかけ、最終的には下関市豊北町の粟野のあたりに達します。このあたりは、美しい海岸線が続く場所で、大きな海水浴場こそはありませんが、碧い海と岩礁帯、そして青い空との組み合わせが魅力です。

このころになると、藁人形はかなり傷んでいますが、見つけた人によってさらに運ばれ、置く場所も一定せず、どこまで行くかはその年次第です。豊北町には、このさらに西に、粟野以上に美しい海岸線のある角島という景勝地があり、このあたりまで行ったこともあるのではないか、と想像します。

豊北町では、この藁人形を運べば不幸にならないとされてきたため、その昔から誰がしかが見つけると、こっそりと別の村へと運び出す、ということが繰り返されてきたようです。ただ、近年では伝承を知らない人が増え、道端に放置された藁人形は、雨風に打たれるまま、そのうち朽ちていく、といったこともあったようです。

しかし、有形文化財に指定されてからは逆に有名になり、新聞なども取り上げるようになりました。今では、藁人形を見つけた子どもたちが、そのいわれを寺社や地域の古老に聞いて地域の伝承や歴史を学ぶ、ということもあり、古くからあるこうした風習を、社会教育的な意味合いを込めて紹介されることも多くなっているようです。

豊北へ来たあとの藁人形の行方は不定ですが、最終的には海に流されることが多いようです。誰がどういう基準で最後を決めるのかはよくわかりませんが、不幸の源とされるものはいつかは始末しなければなりません。その行先が海のかなたというのは、そこに冥土があると信じられてきたからでしょう。

こうした虫送りは、昔から全国的に見られる行事でした。しかし、現在では広域にわたり送り継がれる例は全国的にも稀となり、この山口県の例のようにヒトガタを用いて行われるものはかなり少なくなりました。山口県内でも数少なく、貴重なものであり、今後こうしたかつての農耕文化を象徴するような行事は長く伝えていってほしいものです。

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ところで、このサバー送りの「サネモリサマ」の語源となった、斉藤実盛ですが、なぜ害虫のシンボルになったかといえば、それは「平家物語」に書いてあった逸話から来ているといいます。

斎藤実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたといい、その後実盛は民間伝承の中に取り込まれ、稲を食い荒らす害虫(稲虫)ということで定着していきました。馬が切り株につまづいた、というのはちょっと想像しにくいシチュエーションですが、それがきっかけとなったとしたら、稲の切り株さえなければ~、と実盛が死後の世界で強く思ったとしてもおかしくはありません。

実盛にすれば、稲憎しだったわけですが、これが高じて稲を食い荒らす稲虫(ウンカ)に例えられ、あげくは実盛虫とまで呼ばれるようになりました。そして、虫送りのことを実盛送りまたは実盛祭とも呼ぶようになっていきました。

それにしても、この実盛とは実際にはどんな人物だったのでしょう。

調べてみると、平安時代末期に生きた武将のようです。時代背景を見てみると、ちょうどこのころが武士が台頭し始めた時期であり、武力を背景にさかんに朝廷の政治に口出しをするようになったころです。その結果として保元・平治の乱が勃発し、それを契機に朝廷の権威がゆらぐようになり、やがては平清盛の率いる平氏が台頭し始めた、という時代です。

実盛は、越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現、埼玉県熊谷市)を本拠とする、長井別当と呼ばれる斉藤家の一子として、天永2年(1111年)に生まれました。このころの武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯でした。

源義朝といえば、あの有名な源頼朝・源義経らの父です。そのさらに父の源義家はもともとは畿内・河内の人でした。その死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていましたが、都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられました。その後勃発した保元の乱では、東国武士団を率いて戦功を挙げ、さらに勢力を伸ばしました。

実盛の本拠地は、現在の東京・埼玉にあたる武蔵国ですが、その南にある、現在の神奈川県にあたる相模国を支配していたのが、源義朝でした。逆に北側にある、上野国、現在の群馬県にあたる地域に進出し、支配をしていたのが、義朝の弟の義賢になります。

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実盛は初め、この兄のほうの義朝に従っていましたが、相模よりも大きな武蔵国と上野国を併せた地域で勢力を伸ばしていくほうが、今後関東地方に君臨していく上では有利と考えたのでしょう。義朝を見限って、やがて義賢の幕下に伺候するようになっていきます。

対する、義朝には、義平という長男がいました。通称は鎌倉悪源太といい、母は京都郊外の橋本の遊女とも言われ、源頼朝・義経らの異母兄にあたる人物です。勇猛果敢な武将として恐れられていました。

武蔵衆と上野衆の連合という、こうした動きを見ていたこの義朝の子、鎌倉悪源太・義平は、これを危険視し、ついに行動に出ます。そして、久寿2年(1155年)、義賢を急襲してこれを討ち取ってしまいます。「大蔵合戦」といい、ともに源氏であるこの両家の身内争いは、その後それぞれの後ろ盾である宮中の勢力の争いにつながっていったため、保元の乱の前哨戦とも言われています。

この実盛という人は、もともと旧恩には篤い性格だったらしく、義朝の元を離れて義賢の元に伺候するようになってからも、義朝への義理を忘れていなかったようです。そのためもあり、義賢が討たれるとみるや、今後の関東の勢力地図は義朝中心になっていくとみて、再び義朝・義平父子とよりを戻し、再びその麾下に入りました。

ただ、旧知の恩に報いるタイプ、というよりも、時勢のバランスを見ながら世を渡っていく、八方美人的な人物だったというのが正しい見方かもしれません。

この義朝・義平父子の配下には、もう一人畠山 重能(はたけやま しげよし)という人物がいました。大蔵合戦では、源義賢を討った立役者で、義平はこの重能に、義賢の子で2歳になっていた「駒王丸」を探し出して必ず殺すよう命じました。

しかし、見つけたその幼子に刃を立てる事を躊躇した重能は、その子をそのころ義朝・義平父子の部下に戻っていた斎藤実盛に託します。義賢に対する旧恩を忘れていなかった実盛はこれを了諾し、重能から密かに預かった駒王丸を信濃国へ逃しました。

信濃国には、木曾地方に本拠を置く豪族、中原兼遠という武将がおり、実はこの兼遠の奥さんが、駒王丸の乳母でした。そういった縁もあり、兼遠は斎藤実盛から、駒王丸が源義賢の遺児であることを聞かされると、ひそかに匿って養育することを約束します。

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こうして、駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、長じてからは、育った土地にちなんで、「木曾」姓を名乗るようになります。義朝を叔父に持ち、つまり源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたるこの人物こそが、後に「旭将軍」と呼ばれ、頼朝・義経の最大のライバルとなる「木曾義仲」です。

保元の乱、平治の乱において実盛は、平家打倒を旗印に上洛する義朝の旗下、忠実な部将として奮戦します。しかし、やがて清盛率いる平家の逆襲に遭い、徐々に義朝は追い詰められていきます。東国で勢力挽回を図るべく東海道を下りますが、その途上度重なる落武者狩りの襲撃を受け、配下の重鎮たちは深手を負い命を落としていきました。

そんな中、義朝の三男の頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、兄の義平は別行動で北陸道を目指して一旦離脱します。そして再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党と共に清盛暗殺を試みますが、失敗してしまいます。

その後も、義平は近江国に潜伏して清盛を付け狙いますが、結局は平家の郎党に生け捕られ、六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けます。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまったといいます。

やがて義平は六条河原へ引き立てられますが、その斬首の太刀取りに向かい、「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言ったそうです。太刀取りが「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と言い返すと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答え、義平は斬首されました。このときの義平の享年はわずか20でした。

この話には後日談があります。それから8年後、この太刀取りだった、難波経房という人物は、清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行きました。すると、にわかに雷雨となり、激しい雨の中、突然稲光が光ったと思うと、あっという間に雷に打たれて死んでしまったといいます。はたしてこの雷を落としたのは義平だったのでしょうか。

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一方、父の義朝も平家軍との緒戦での連敗を重ねます。やがては馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せました。しかし、恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受け、ついには殺害されました。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊と呼ばれる真言宗の寺院の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられています。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池があるそうです。

こうして義朝そその傘下の武将たちが次々と平家に捕えられ、命を落としていく中、義朝たちと行動を共にしていた実盛だけは、関東に無事に落ち延びました。

通常ならば、ここで命運が尽きてもよさそうなものですが、しかし、ここでも実盛はその八方美人的な才能?を発揮して生き延びます。

その後平氏隆盛の世の中になることに気付くと、今度は逆に平家に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用されようになっていきました。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平清盛の嫡孫、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣しています。

その後、平氏軍は富士川の戦いにおいて、伊豆で蜂起した頼朝に大敗を喫します。

富士川の戦いとは、駿河国富士川で源頼朝らと平維盛が戦った合戦です。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国で再挙し、集めた東国武士による大軍と、都から派遣された平維盛率いる追討軍とが戦ったもので、この戦いに勝利した頼朝はその後、鎌倉幕府の基礎を東国で築いていくようになります。

この富士川の戦いでは、平氏軍が突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま戦闘が終結しました。この件に関しては以下のような逸話が有名です。

両軍が富士川を挟んで対峙していたその夜、頼朝方の武将、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れました。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立ち、これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者までおり、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたといいます。

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、総崩れになって逃げ出し、遠江国まで退却しますが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていたそうです。

この話にはもうひとつ逸話があり、実はその敗因の原因のひとつには、実盛の存在が大きかったのでは、といわれています。このころ69歳になっていた実盛は、事あるごとに頼朝ら東国武士の勇猛さを日ごろから説いていたといい、このため、維盛以下味方の武将の多くはついには過剰な恐怖心を抱くようになったといいます。

その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまった、という説ですが、事実がどうかはわかりません。が、それだけ平家は武士というよりも公家化しており、維盛軍は烏合の衆だったわけです。戦わずして負ける、とよく言いますが、源氏側にすれば勝つべくして勝ったと言っていいでしょう。

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その後、実盛は72歳まで生き延びます。寿永2年(1183年)には、再び維盛らと、今度は木曾義仲追討のため北陸に出陣しました。

このころの義仲はというと、これに遡ること3年前の治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発したのち、これに賛同して行動をともにすることを誓います。兵を率いて北信で平家と戦う源氏方の救援に向かい、さらには頼朝勢力が浸透していない北陸に進出して、ここで勢力を広めていました。

実はこのころから、義仲と頼朝との関係は急速に悪化しており、同じ平家打倒を掲げていながら、両者は反目するようになっていきます。そのきっかけは、頼朝と敵対し敗れた、父義賢の弟、源義広(志田義広)と、同じく頼朝から追い払われた叔父の源行家が義仲を頼って身を寄せたことにあるといわれています。

この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化し、ついには直接戦うに至ります。そして、このわずか一年後の、宇治川や瀬田での戦いで、義仲は源範頼・義経率いる鎌倉軍に敗れ、その後近江国粟津(現在の滋賀県大津市)であっけなく討ち死にしています(享年31)。

木曾義仲は、頼朝や義経ほどではないにせよ、多くの武勇伝がある武将です。が、本項では主人公ではないため、ここではこれ以上詳しくは述べません。

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とまれ、このころはまだ義仲も頼朝の部下として北陸方面で元気に奮戦していた時期であり、破竹の勢いで、各地の平家軍を蹴散らしていました。無論、平家方に付いていた実盛とは敵味方同士です。

こうした中、勢力を強める義仲を討伐しようと、平維盛らは実盛らの旗下の兵を率いて、義仲が牛耳る北陸へと出陣してきました。しかし、加賀国の「篠原の戦い」では、緒戦の倶利伽羅峠の戦いで敗れたところへ、義仲らの源氏軍からの追走を受け、平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走しました。

平氏側は甲冑を付けた武士はわずか4,5騎でその他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てては山林に逃亡しましたが、ことごとく討ち取られました。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経らは一人の供もなく逃げ去ったといいます。

味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られました。このとき、その死の原因となったのが、最初に述べた、稲の切り株に馬がつまづいたことだったとされるわけですが、なにぶん900年以上も昔の話であり、本当かどうかを証明するものは何もありません。

ただ、この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた、という話が残っているようです。このため首実検の際にもすぐには実盛本人と分かりませんでしたが、そのことを義仲は、側近の樋口兼光の口から聞きます。

この樋口兼光とは、義仲を実盛から預かった、あの中原兼遠の息子であり、義仲が駒王丸と呼ばれていたころのあの乳母の息子でもあります。乳母子として義仲と共に育ち、長じてからは忠臣として義仲に従って各地を転戦し、上の倶利伽羅峠の戦いなどでも重要な役割を果たしています。おそらくは、母である乳母伝いに、武蔵国にいたころの知人から実盛の近況を聞き及んでいたのでしょう。

義仲は、これを聞き、その首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったといい、これで実盛の死が確認されました。

このとき、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだといいます。

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こうして実盛の死から長い年月が経ちました。それから約230年後の室町時代前期の応永21年(1414年)3月のこと、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)というところで、浄土宗の僧たちが庶民とともに七日七夜の念仏勤行を行っていました。

そうしたところ、突然、白髪の老人が現れ、居合わせた「太空」という高僧から十念(「南無阿弥陀仏」を十回称える作法)を受けるやいなや、諸人群集のなかに立ち入り、そのまま忽然と姿を消してしまったといいます。

このことは噂として広まり、この老人こそが、源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたちました。太空はその供養を決め、卒塔婆を立てて、その霊魂をなぐさめたといいます。のちにこの話は、観阿弥とともに謡曲の祖といわれる猿楽師、世阿弥のもとにもたらされ、謡曲「実盛」としても作品化されました。

以来、浄土宗の盛んな地域を中心に、実盛の供養が慣例化するようになるとともに、謡曲として実盛が演じられる機会も増えることになりました。やがては、それらが虫送りの風習とつながり、住民の間では夏を迎える行事として定着するようになっていったのでしょう。

実盛が最後を迎えた「篠原の戦い」の古戦場は、現在の加賀市の片山津温泉から2kmほど北西に行ったところの、海岸に近い場所にあります。現在ここには「篠原古戦場跡実盛塚」がという碑とその説明文の立札が建てられています。また、ここから東へ1.4kmほど離れたところには、実盛の首を洗ったとされる池も残っています。

さらに、この実盛がかぶっていたとされる兜が、ここから10kmほど東の小松市内の多太神社に残されています。実盛が討たれたあと、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献したものとされ、現在、国の重要文化財となっているようです。同神社では、現在でも回向が行われているといいます。

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実は、江戸時代の元禄二年(1689)に、かの有名な俳人、松尾芭蕉もこの地を訪れています。

奥の細道の途次、旧暦の七月二十四日(現8月27日)に北陸路を金沢から小松へ入り
ここに宿泊して、句会を開催。多太神社にも詣でて、実盛の兜や袖を拝観しました。このとき、木曽義仲と斉藤実盛の数奇な巡りあわせに思いをはせ、詠んだといわれるのが、有名な次の句です。

「むざんやな 甲の下のきりぎりす」

句中の「きりぎりす」は、秋の季語であって、実際のキリギリスのことではありません。この場合、全国あちこちでよくみられる、ツヅレサセコオロギのことだと言われています。2~3cmの小型で黒い色をしており、農耕地、庭、草地に生息します。成虫は夏から秋に出現し、家屋内に入ってくることも多く、見たことがある人も多いでしょう。

中国では、このツヅレサセコオロギを喧嘩させて楽しむ闘蟋(とうしつ)という遊びがあり、この国の伝統的昆虫相撲競技です。子供の楽しむ純娯楽的なものではなく、闘犬、闘鶏、闘牛に近く、あるいはタイ王国の国技「ムエタイ」のような国技だといいます。

奇妙な名前ですが、漢字では「綴れ刺せ蟋蟀」と書くそうです。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来するそうです。

で、芭蕉の句に戻って、「むざん」とは、いたわしい、ふびんなこと。「いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。おいたわしいことである。」という鎮魂の感情を表した句です。

謡曲の「実盛」にも、「むざんやな」という表現があり、芭蕉の句はそれを引用したと言われています。

それにしても、コオロギが鳴き終わる秋は当分来そうもありません。ウンカやコオロギが死に絶え、私の大嫌いな夏の終わりが一日でも早く来ることを祈りつつ、今日の項を終えたいと思います。

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