マイルドてんてん

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最近、2005年に製造が中止になった、犬型ペットロボット「AIBO」に対する修理依頼が増えているといいます。

生産が中止になったあとも、ソニーは修理対応をしていましたが、それも2014年3月末で打ち切られたため、故障したAIBOの修理は困難となり、「死なないペットロボット」であったはずのAIBOに実質的な「死」が訪れることとなりました。

ところが、千葉県習志野市の電子機器修理会社がこのAIBOの修理を行ってくれるという口コミが広がり、修理依頼が殺到。

1999年に発売され、家庭向けロボットの先駆けとなったこのアイボの修理は、ソニーを退社したOBたちが立ち上げたこの会社にとっても初めてだったそうですが、社長は「やってみよう、道は必ずある」と引き受けたのが始まりだといいます。

ソニー時代のつてをたどって情報を集め、数カ月かかって何とか修理に成功。それが口コミなどで広がり、同社には全国からアイボの修理依頼が舞い込むようになり、これまで200体近くを修理しましたが、まだ260体余りが修理待ちの状況だそうです。

しかし、いずれ修理部品の枯渇は見えており、やがてこの会社での対応も行き詰ると考えられます。今年の2月には、飼い主によってAIBOの「合同葬儀」が執り行われたとい、これらのAIBOは、今後、故障した他のAIBOの「ドナー」となるといいます。

このアイボを創ったソニーは、トランジスタラジオ、トリニトロンカラーテレビ、ウォークマン…と数々のヒット家電を生み出してきた日本を代表する家電メーカーですが、ちょうどアイボの販売をやめた2005年ごろから元気がなくなりはじめました。

10年ほど前に退社した社員によれば、「社内が、売り上げなどお金の話ばかりになってきた」といい、昔は「お客さんにどういうサプライズを与えるか」を絶えず考えている会社だったのに」とかつての勤めた会社の凋落ぶりを嘆いています。

このソニーと入れ替わるように飛躍したのが米アップル社であり、2007年にスマートフォン時代の幕開けとなる初代「iPhone(アイフォーン)」を発売し、現在も日本国内のスマホの約6割を占めるまで業績を伸ばしました。

ソニーは、革新的な企業というお株をアップルに奪われた格好であり、ここでようやく、一つの技術が一つのヒット商品を生み出せる時代ではないと気づいたようです。

また、優れたハード、ソフト、デバイスを結集させ、さらにそこに「魅力」を醸し出すなんらかの「スパイス」を添加することができた企業だけが生き残れると考えるようになったようです。

このため、約1年前に、新規事業の開発につなげる“オーディション制”を取り入れました。100人程度の参加を見込んだこのプロジェクトの説明会には1200人もの応募があったといいます。

現在では、3ヶ月月ごとに新たなアイデアを募集し、合格した案件も3ヵ月枚に進捗状況をチェックしているそうです。このプロジェクトとは別に、30代の社員が着想した「電子ブロック」も市販の準備に入っています。

「MESH」というLEDや加速度センサーなどを備えたブロックを組み立てるDIYキットだそうで、タブレット画面上でアイコンをリンクさせるだけで連携して動かすことができるといい、これを使えば、レゴのように簡単に電子機器を自作できるようです。

かつてプレイステーションやネット銀行を世に送り出した「革新力」が胎動し始めているのでは、と業界からは期待を込めたエールがソニーに送られています。日本を代表するメーカーとして、ソニーは好業績だけでなく、常に革新につながる何かを期待される宿命を負っているといえるでしょう。「攻め」に転じるのはこれからなのかもしれません。

それにしても、アイボという製品を世に出し、「ペットロボット」というジャンルを確立した功績は大きいといえます。それまでにも類似の商品がなかったわけではありませんが、受け身ではなく自律稼働する装置が家庭に持ち込まれ、これを「ペット」と称した点は革命的でした。

「電気製品の日本」「ロボット大国日本」のイメージを世界に向けて強く発信したという面も功績の一つだといえ、おそらくはエンターテイメント装置としては歴史に残る金字塔を打ち建てた、といっても過言ではないでしょう。

近年では、このAIBOに代わるロボットが次々に登場しており、一般家庭に愛玩品や娯楽品、果ては「家族」という位置付けで、家庭の構成員すべてに愛されるべき様々な家庭用ロボットが発売される時代に入ってきました。

これらは人間とコミュニケーションを取ったり、自由に動き回って目を和ませたり、更には「ロボットの居る生活」という「近未来的な暮らしをしたい」という欲求に応えているといえます。人間型も増えてはいますが、動物型の方が多く、これらは主に、「ペット」という性格付けが強いことから、人間型よりも多く市場投入される傾向にあるようです。

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この「家庭用ロボット」というヤツですが、本来はその動作を持って人の役に立つ事を求められる機械装置です。1960年代以降、SF小説や漫画・テレビアニメ・映画等でロボットが活躍する作品が増えるにつれ、こうしたロボットの動作している所を見たい・自宅に置きたいと考える人が増えました。

その潜在需要は次第に巨大な市場基盤を形成していき、1980年代から1990年代にかけては、潜在的な市場はさらに奥行を深め、人々をロボット展示のあるイベント会場や博物館に駆り立てました。しかし、制御するコンピュータの製造・運用コスト的な問題から、一般家庭に普及するにはあまりにも高価過ぎました。

また家庭進出を目指した先駆的製品では、高価な上に機能的には非常に限定された物で、使用するにはかなりの技術知識を要する物でもあることから、ほとんど普及する事はありませんでした。

その一方、「ロボットが欲しい」という欲求は衰える事は無く、ロボットと称した単なるラジコンやマイコン制御で簡単な動作を繰り返すおもちゃは数多く発売され、消費者の購買意欲を度々煽ってきました。

しかし、操作が複雑なわりには自動的に何かをやってくれる訳でもないこれら製品は、飽きられるのも早く、次々と新種の製品が出ては消えていきました。しかし新しいものがでるたびに、多くの購入希望者を出していたことは事実であり、「ロボット」という分野の市場を広めるという意味ではある程度の成功を収めたといえるでしょう。

そして、1990年代からは急速に、コンピュータの低価格化と高度・小型化が進みました。この中で1997年にAIBOが発表されるやいなや、なんだ、今はもう「本物のロボット」を“飼える”時代になっていたんだ、と人々は気づきました。

誰もがロボットを家に置く、ということは夢ではなく現実的な話だ、と誰もが思いはじめました。そして、個人的な玩具としてのロボットに寄せる期待は高まりに高まり、その期待の高さはAIBOの初売りの時に表出しました。

日本時間で1999年6月1日の午前9時にインターネット上でのみの販売で、一台25万円(動作を編集できる別売キットは5万円)もするこの製品は、計5,000台(日本国内3,000台・米国2,000台)が受付開始後たった20分で完売しました。

AIBOは、自分で判断して行動する他、持ち主が一緒に遊んだり、叩くなどの動作・声や音・光に反応する機能を持っており、これによって動作状況が変化するといった「動物的な反応」を主な機能にしていました。しかも各家庭のそれぞれ違う環境に応じてです。

言い換えればこれを「性格」とも考えることができ、そこが単なる機械ではなく、「ペット」として広く受け入れられた理由でしょう。それ以外にはちょっとしたゲーム的機能があるだけで、何等かの家事を分担させられるような、実用を目指した物ではなかったにもかかわらず、販売を開始した1999年以来、あわせて15万台以上を販売したといいます。

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この成功を受け、その後ソニー以外の会社もこうしたロボットの開発に取り組むようになりました。その多くはAIBOのように犬や猫など、ペットとして親しまれている動物の形状をしたもの、あるいは、何らかのキャラクターを模したものなどが多く、「顔(頭部)」・「2つの目」・「手や足といった棒状の機能部分」を持っているのが特徴です。

コミュニケーションを取る際に何らかの意思表示を音声以外で行うものも想定されており、最近は目が光ったり、口を開いたりと言った動作によって「表情」に相当する動作をさせるものも多いようです。

円滑なコミュニケーションを図る機能が想定されており、コンピューターと人間の間での情報をやりとりするためのインタフェースである、「ユーザーインターフェイス」は最近のロボットにとってなくてはならない機能です。

これにより、こうした愛玩ロボットの中にはメールをチェックしたり、扱い状況を計測することがきるようになったものもあります。例えば自分にタッチされた回数を記録し、これを独居老人の安否情報として看護施設に送信したりする、といった機能がそれです。

また、動物アレルギーの人でも、」いわゆる「癒し」とされるアニマルセラピー的な好作用をこうしたロボに求めることができます。さらには、これらの愛玩ロボに住宅内の防犯・防災機能を持たせようという製品の開発や研究が行わつつあり、センサーと連動した「防犯ロボット」などが一部では実用化されているようです。

しかし、防犯ロボットなどになると、これはもう動物ロボットの範疇を出るところとなり、相手を威嚇するという意味では少々迫力に欠けます。このため、犬猫よりもむしろヒト型の方が良いということで、人の姿をしたもの、ヒューマノイド型、アンドロイド型の家庭用防犯ロボットの開発も急ピッチで進められています。

そうした人型ロボットの最前線にあるのが、テレビコマーシャルへの出演でも有名な、ASIMO(本田技研工業)のほか、HRP-2/HRP-3(川田工業・産業技術総合研究所・川崎重工業)、SDR-4X/QRIO(ソニー)・PALRO(富士ソフト)といった、二足歩行可能な人型ロボットです。

オーケストラを指揮したり、TPR(トヨタ)等のトランペットを吹いたり、ドラムを叩いたりする物も登場しており、こうした企業が製作した人型ロボット以外にも、ROBO-ONEのように、個人が趣味で製作したロボットを募集して競技大会を開催する、といったことも行われるようになってきています。

二足歩行ロボットによる格闘競技を中心としたロボット競技大会であり、2002年の初開催依頼、年々参加者が増え、昨年9月に開催された第25回ではエントリー数113 台、予選参加101体の盛況を博しました。

2000年代に入り、ロボットブームが盛り上がった中で本大会は生まれたこともあり、第1回大会から広く注目を浴びることとなり、そして早くより広く一般に知られたことから、2足ロボット関連の製品などが数多く発売され、安価なロボットキットの普及にも貢献しました。

現在では長年にわたって高い知名度を持つ高専ロボコンに勝るとも劣らない知名度を持つ大会となっています。今後は、ロボット競技としては異例とも言える宇宙を舞台にした宇宙大会も計画されており、ここから新たな分野のロボット産業が生まれていく可能性もあります。

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これら人の形を目指したロボット開発は、古くからのSF作品で描かれた「人間社会に溶け込んで、人間と共同作業や共に生活するロボット」というイメージに沿ったものです。日本においては「鉄腕アトム」に触発されて二足歩行ロボット開発の道に進んだ、とする技術者も少なくありません。

前述のASIMOの開発陣のメンバーの多くはこの「鉄腕アトム」世代だそうで、その一方で、もう少し若い世代では「機動戦士ガンダム」に代表されるような巨大ロボットに触発されたという人も多いようです。このほか川崎重工のHRP-2/HRP-3は、「機動警察パトレイバー」で有名な出渕裕がデザインを担当したことでも有名です。

ちなみに、この「機動警察パトレイバー」は近未来の東京を中心とした地域を舞台としたアニメに登場する警察ロボットで、その姿を模したHRPは、映画の「ロボコップ」を彷彿とさせます。

これらの人型ロボットは、近年のコンピュータの高度化に伴い、施設案内業務等の仕事を実質的に任せることもできるほど高度なものも増えてきています。ASIMOは、イベント会場の客寄せにレンタルされるなど既に実用化されているといってよく、2002年にはニューヨーク証券取引所で、史上初めて「人間以外では初めて」取引開始の鐘を鳴らしました。

最近では日本科学未来館・ツインリンクもてぎ・鈴鹿サーキットホールメープル・Hondaウエルカムプラザ青山に常設され、訪れた人々の間を歩き回ったりもしています。

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このほか、最近ソフトバンクの宣伝でよく見るようになった、pepper(ペッパー)もほぼ実用化を達成した人型ロボットです。「感情認識ヒューマノイドロボット」とされ、これはフランスのアルデバランロボティクスと同社に出資するソフトバンク傘下のソフトバンクモバイルにより共同開発されました。

「感情エンジン」と「クラウドAI」を搭載した世界初の感情認識パーソナルロボットだということですが、ヒト型ロボットといいながら足がありません。これは、二足歩行機能とすると連続稼働12時間以上の実現が難しくなるためと、コストを削減するためであり、このため、販売価格は19万8000円(税抜)とかなり健闘しました。

これは1999年に発売されたAIBOが、動作編集キット込みで30万円もしたのと比べれば格安といえるでしょう。開発者向け初回生産300台が今年の2月27日に開始されましたが、ものの1分で売り切れになったといい、また先の6月20日に開始された一般向け販売1000台に関しても、受付開始1分で完売となりました。

現在、Pepperの生産体制では、月間で最大でも1000台が生産台数の限界とされているため、次回以降の販売についても1月当たり1000台程度になるとみられているようです。

既に2014年末からはネスレ日本のネスカフェにおいて、接客を開始しており、このほかカラオケ店JOYSOUND八丁堀店で夜間の接客が始まっていますが、こうして購入されたペッパーが町のあちこちで見られるようになる日もそう遠くないでしょう。

従来、家庭向けといわれるロボットは、自律的な動作しない「玩具」に分類される物多く、大半が動物型でしたが、人工知能の研究が深まるとともに、このペッパーのような人型タイプが増えていく傾向にあるようです。人類が四足で歩くサルから進化してきたように、ロボットも進化しているというわけです。

動物型と違って、「友達」感覚で対話が楽しめるのもこうした人型ロボットの特徴です。各種イベントで登場し、歩き回りながら、人間と「コミュニケーション」をとるものも多くなり、家庭用ロボというよりは「エンターテインメント・ロボット」と呼ばれることも多くなってきました。

従来の家電製品・玩具・家具・インテリア・情報機器(パソコン・テレビゲーム等)のいずれにも属さない、かなり新しいジャンルの工業製品であるといえます。Pepperに代表されるようにそれなりに価格も手ごろとなり、高価なわりには機能が低く、しかもただのペットにすぎなかったAIBOとはまた一味違う魅力があります。

しかし、こうした家庭で用いられるロボットでは、安全性が最優先となります。もし誤動作して家庭内の器物を損壊させたり、人だけでなく、それこそ本物のペットに怪我を負わせるなどした場合は、メーカー側の責任を問われる事にもなりかねません。

ただ、現在のエンターテインメント・ロボットでは、自意識が存在せず、動力もさほど強力ではないため、過度の気遣いは必要ないかもしれません。が、いずれはさらに高度化するに伴って、さらに高知能を持ち、かつ大型化、強力化される可能性もあります。

こうなると、古くからSFで問題視される「フランケンシュタイン・コンプレックス」の発端に成りかねないという意見もあります。これは、自律性を持つ人間の創造物に、人間が迫害されるかもしれないという懸念です。

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ただ、そこに至るまでにはまだまだ相当時間がかかるでしょう。現在開発が進められているエンターテインメント・ロボットでは、むしろそうした懸念よりも人間といかに自然なコミュニケーションを取れるようになるか、といった機能が重要視されており、ロボットを人間に近づけるためには、このことが最重要課題といわれています。

人間は感情の生き物であるわけですが、それら感情をロボットが感じ取り、適切な応答を返す事が求められているわけです。ということは楽しい愉快だといったことばかりではなく、悲しい寂しいといった感情のほか、「怒り」もその対象に含まれます。このため、その一端として「口喧嘩する事の出来るバーチャル・キャラクター」の研究も行われています。

が、現段階では予測された範囲内でしか対応できない事もあり、対話しているとわけのわからないことで怒りだすので、「別の意味で苛立つ」といった問題もあるようです。

ただ、将来的には声の抑揚だけではなく、表情や仕草でも感情を読み取り、予め適切であるとしてプログラムされた物であるにせよ、それに対して自身の感情を身振りでも表現する事の出来るような対話型ロボットが登場するのではないでしょうか。

この他にも、連続して動作させるために「空腹」を感じて自分で充電する機能や、学習した情報を適切に処理して行動に反映させていく機能、少々乱暴に扱われても自分で対処する機能も必要です。

さらには、屋内のどんな環境にも対応できる必要があります。そのロボットを置くためにわざわざ部屋の大改装が必要になる、といったものは困りものであり、引越ししたら使えなくなったというのも問題です。家屋内の何処のどんな環境でも対応できる、自在に環境に対応し得るだけの判断力も求められています。

そうした中においても人間との対話は不可欠であることから、上述のユーザーインターフェイスの開発はとくに重要です。言語によるコミュニケーションが想定される一方で、仕草や表情と言った、人間間で重視される非言語的なコミュニケーション手段も必要とされており、場合によっては「手話」ができるロボットも必要かもしれません。

しかし、その一部ではなまじ人間に似た外観を目指したために、いわゆる「不気味の谷現象」を起こすものもあり、この辺りの改良も視野に入れて研究が進んでいます。

不気味の谷現象というのは、はロボットや他の非人間的なものに対する人間の感情的反応です。一般に、外見と動作が「人間にきわめて近い」ロボットと「人間と全く同じ」ロボットは、見ればすぐにわかります。

その見る者の感情的な反応をポリグラフのようなもので測定してグラフ化した場合、著しく「感情が低下する」ケースがあり、これが「不気味の谷」です。

いわゆる「嫌悪感」というヤツで、人間とロボットが生産的に共同作業を行うためには、人間がロボットに対して親近感を持ちうることが不可欠ですが、この不気味の谷に陥った「人間に近い」ロボットは、人間にとってひどく「奇妙」に感じられ、親近感を持てません。

この現象は、対象がある程度「人間に近く」なってくると、非人間的特徴の方が目立ってしまい、観察者に「奇妙」な感覚をいだかせるために起こります。一方、対象が実際の人間とかけ離れている場合、人間的特徴の方が目立ち認識しやすいため、親近感を得やすくなります。これはつまりは、マネキン、あるいは死体とゆるキャラの違いに似ています。

ヒューマノイドが多くの不自然な外観を見せるのは、病人や死体と共通するためであり、こうした場合にはロボットに対して同じような警戒感や嫌悪感を抱きます。しかも死体の場合、その気持ち悪さはわかりやすいものですが、ロボットの場合は、それがいったいなぜ気持ち悪いのか、明確な理由がわかりません。

ゆえに、実際の死体よりも不気味に感じることさえあり、動作の不自然さもまた、病気や神経症、精神障害などを思い起こさせ、時に不快な印象を与えます。ロボット開発における不気味の谷の最大の問題は、この不快だ、不気味だ、と思う感情をどうやったらV字回復できるかという点です。

というのも、本当に完全な人間に近づけば好感度が増すのか、それとも「人間と全く同じ」にすれば好感を持ってくれるのかがわからないのです。なぜかといえば、まず、これまではまだ「人間と全く同じ」ロボットが作られていないため、それがどの程度不快なものなのかが誰にも分かりません。

たとえ「人間と全く同じ」だとしても、ロボットだと聞いたとたんに、なーんだ、ロボットじゃん、と不快感を持つ可能性もあり、ロボットが完璧すぎることがその答えとはいえないわけです。また「限りなくロボットに近い」ものができたとしても、それはどこかやはり人間と違うものであり、いつかどこかで親近感を失う可能性があります。

こうした研究は進みつつあるようですが、いまだ確固たる結論が出ているわけではありません。ただ、最近はCGにより「人間臭さ」を表現する手法の研究が進んでおり、不気味の谷に落ちないように人に良い感情を抱かせるため、登場人物の人間的な特徴のどこを少なくすれば良いのか、といった知見がかなり蓄積されてきています。

3D技術を使ったバーチャルなキャラクター開発も進んでおり、近いうちにはこの不気味の谷問題にも解決の糸口が見つかるかもしれません。

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ところで、こうした人型ロボットではありませんが、最近、極めて「動物に近い」ロボットがアメリカで開発されて話題になっています。ビッグドッグ(BigDog)という愛称が付けられており、2005年にアメリカのボストン・ダイナミクス社とジェット推進研究所、ハーバード大学が開発した四足歩行ロボットです。

ビッグドッグは起伏の多い地形で歩兵に随伴出来る輸送用ロボットとして用いるため、米軍の国防高等研究計画局による資金提供で開発されたため、カテゴリーとしては「軍事ロボット」ということになります。

テレビのニュースでご覧になった方も多いかもしれませんが、その歩行の様子は幾つかの動画共有サイトに掲載されています。まるで向かい合った二人の人間が足踏みしているかの様な、機械とは思えぬ特徴的なロボットでそのユーモラスな動きが話題を呼んでいます。

荒い砂利道、雪上、砂浜、及び海の浅瀬などでも問題無く歩行でき、また、歩幅が非常に小さくはなるものの、急な勾配も登る事ができます。35度の傾斜を登る事も可能であり、かつて軍馬が担っていた勾配のある不整地での物資輸送を担うことが期待されています。

横から胴体部分を蹴られても倒れる事無く即座に姿勢を復元でき、氷上で足を滑らせても素早く体制を立て直す事で転倒にはいたらず、その姿勢制御技術の高さは見事です。転倒対策に半円のボディを採用し、転倒時は反動を利用して自力で起き上がることができるためです。

また、通常は左右の脚を互い違いに進ませて歩行しますが、馬のギャロップの様に疾走させ、ジャンプして障害物を飛び越えさせる実験も行われており、現時点では脚を素早く動かし時速8km(5マイル)の速さで走ることもできるようになりました。

荷物を積んだままの歩行もできます。車輪では走行不能な地形において、154kgの荷物を搭載したまま時速5.3kmでき、最近では180kgの荷物搭載で30km踏破する事が可能になったそうです。30kmというのは一回の燃料補給で走る事が出来る距離であり、燃料を足せばさらに長距離を歩く事ができます。

取り付けられた一本のアームでコンクリートブロックを掴み、それを放り投げることもでき、ブロックを投げる際、人間の運動選手が行う様に脚や胴体を総合的に使う事もできるようです。

さらには、GPS機能を使用し自動で目的地へ移動する事もでき、兵士を認識して追尾する機能も備えるといい、足には姿勢制御用の接地センサーを持ち、レーザージャイロとステレオビジョンで地面の傾きなどを把握できるともいいます。ここまでくるとまさにハイテク技術を駆使した大型ロボット犬です。

既に2012年からアメリカ海兵隊で運用試験が始まっており、音声指示が可能となっているほか、既に今年あたりから実運用開始が開始されたという情報も入ってきています。

15馬力の2ストローク単気筒ガソリンエンジンを搭載し、毎分9000回転で油圧ポンプを駆動することで作動します。これにより作られた油圧で各脚4本、合計16本の油圧アクチュエータを作動させ、スムーズな歩行を実現しているそうです。

「大きな犬」という名称ですが、サイズは子牛ほどもあり、全長約1m、高さ約70cm、重量約110kgもあります。Calf(子牛)のほうがより適切なネーミングのような気もしますが、これをビッグ・ドッグとあえて呼ぶのはアメリカ人なりのユーモアでしょう。

アメリカではこのロボットのような特殊用途のロボットも数々研究されているといい、二足歩行のPet-Proto、PETMANなどが存在します。Pet-Protoのほうは、上述のHRPに似ていますが、PETMANのほうは、まさに「ロボット兵士」と言った趣です。

このほかビッグドッグを小型化した、その名も「リトルドッグ」というものもあり、こちらも同様に不整地踏破性が強く、学習機能により的確な接地点を判断したり、姿勢制御や踏み外した時での復帰制御、踏む力の自動調整などに優れ、動作も高速です。

さらに小型化された高速移動を重視したタイプに「ワイルドキャット」と言うモデルも開発されているようですが、これこそネコというよりも、「ドッグ」と言った感じです。

ちかいうちに、さらに小型のネコ型高速ロボを開発して欲しもの。うちのテンちゃんを模した、「マイルドてんてん」というネーミングはどうでしょう。一緒に走れる日が来ることを夢見ましょう。

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あぁ 雛祭り

2015-86383月になりました。

実は明日は私の誕生日です。5×歳になりますが、例によって詳しい年齢はあかさないことにしています。私の年齢など、今の世の中にあまたある重大事件に比べれば、取るに足らないことでもあるので、忘れていただくこととしましょう。

雛祭りです。男として生まれたのに雛祭りとはおめでたい……と子供のころからさんざん言われてきたことなので、いまさら気恥ずかしい気も何もありません。が、かえすがえすも悔しいのは、5月5日は端午の節句、男児の成長を祝う日ということで休日なのに対し、女の子の成長を祝うこの雛祭りはなぜか休日でないことです。

江戸時代には雛祭りは「五節句」のひとつとしてれっきとした祝日だったそうで、男尊女卑のこの時代でも男女平等に休日があったというのに、男女雇用均等法が施行されている民主国家でありながら今の日本ではこれは実現されていません。

この日も休日にせんか~い、といつも思うわけですが、政権が民主党になっても自民党が返り咲いても、これを悔い改める法案は今のところで出そうもありません。

ただ、かつて二度ほどチャンスがありました。一度目は、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになったときで、祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたそうです。

が、最終的には5月5日の端午の節句を祝日とする案が採用されました。3月は北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪いことも多いのでこれを避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされます。しかし、そんなの関係なーい、と声を高らかにして言いたいところです。休日を決めるのに寒い暑いの議論は無用です。

二度目。これは、かつて社会党の村山富一さんが自社連立政権を敷いて総理大臣になったときのことです。村山さんの誕生日は3月3日で私と同じ。彼が強いリーダーシップを取って、自らの誕生日を休日にしよう!と言ったなら、きっと実現したと思われます。

が、村山内閣のときには阪神・淡路大震災発生があり、この時政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落、その後デフレも顕在化するなどして、その政治の遂行能力を問われるようになり、2年を待たずに連立政権は崩壊しました。

その後、雛祭り生まれの総理大臣は誕生しておらず、同じく3月生まれの魚座の総理大臣なども実現してこなかったことから、この雛祭り休日法案は未だに出されていません。

ほかにだれか雛祭り生まれの有力政治家はいないかな、と思って調べてみたところ、1951年生まれの竹中平蔵さんが同じく雛祭り生まれです。が、小泉政権時代にさんざん活躍したためか、最近はあまり表に出てくることも少なくなり、経済がご専門のことでもあり、どうやら今後ともこの雛祭り休日法案を応援してくれそうには思えません。

政治家以外に他にどんな人が雛祭り生まれかな、と調べてみると、有名どころでは、電話機の発明者のアレクサンダー・グラハム・ベル(1847)、小説家、正宗白鳥(1879)などがそうですが、そのほか歴史に残るほどとりわけ有名な人、というのはあまりいないようなかんじです。私が知らないだけかもしれませんが。

芸能人では、中田ダイマル・ラケットの中田大丸さん(1997没)とか、徳光和夫さん、マッハ文朱さん、栗田寛一さんなどがおり、スポーツでは、陸上の金メダリスト、ジョイナー選手や、サッカーのジーコ元日本チーム監督なども3月3日生まれです。

いずれも私とはくらべものにならないほど才能豊かな人々ですが、誕生日が同じだからといって同じ才能に私が恵まれているわけではありません。だから何なのよ、と突っ込まれるのがオチです。

それでも性懲りもなく、ならば、ヒト以外の誕生物ならどうか、ということで調べてみると、まず、1845年にはこの年の3月3日にアメリカでフロリダが州に昇格し、アメリカ合衆国27番目の州・フロリダ州となっています。

また、ミネソタ州も1849年にミネソタ準州が州に昇格して、32番目の州・ミネソタ州となっており、このほか1915年には、NASAの前身の国家航空諮問委員会(NACA)が創立されています。

1885年には、アメリカ電信電話(AT&T)が設立、1923年、週刊ニュース雑誌「タイム」が創刊、1931年「星条旗」がアメリカ合衆国の国歌として制定、といった具合で、アメリカでやたらと雛祭り生まれの事物が多いのはなぜなのでしょうか。

しかも私はといえば、そのアメリカへ、しかもフロリダで留学経験があります。単なる偶然の一致のようにも思えないのですが、かといって、あちらへ行ってOh! Youはわが州の誕生日と同じ日にウマレタネ~♫とかいって喜ばれたことは一度もありません。

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日本の事物でこの日生まれは何かないのかな~と、さらにしつこく調べてみたのですが、余りめぼしいものはないようです。が、その中でも1958年に富士重工業が「初の軽自動車」ともいわれる、スバル・360を発表した、という記事が目につきました。

私くらい以上の年齢の方には懐かしい乗用車のひとつでしょう。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台も生産された国民車であり、量産型の軽自動車としては史上初めて実用上大人4人の乗車を可能とするとともに、当時の水準を超える走行性能を実現したことで有名です。

3月3日がこのスバル360の誕生日だといわれるゆえんは、1958年のこの日、このクルマが市販車両として公式にプレス発表されたからで、その会場は東京都内の千代田区丸の内にあった富士重工業本社でした。

プレス発表というイベントに慣れていなかった富士重工のスタッフは、実車無し、カタログのみで発表を済ませようとしていたそうですが、斬新な新型車を期待して大挙参集した報道陣から「実車はどうした」と催促されました。

そこで、急遽2台のスバル・360がトラックで群馬県の伊勢崎にあった工場から東京本社へ届けられることになりました。夕方4時まで辛抱強く待った記者たちは、到着したスバルを代わる代わる運転し、その乗り心地と走行性能を体験しました。

その反響は著しいものがあったといいます。彼等が書いた記事を読んだ国内の他の自動車メーカー各社からも関心を持たれ、一般人も試乗車に殺到。日本国内のメディアのみならず、イギリスの老舗自動車雑誌「オートカー」が「これはアジアのフォルクスワーゲンとなるだろう」と好意的に評するなど、欧米の自動車雑誌にも取り上げられました。

当初から強く注目される存在となりましたが、販売1号車の顧客が松下幸之助であったということは、有名な逸話であるのに意外と知られていません。

昨年亡くなった長州人の私の叔父も大のスバルファンであり、戦後最初に買ったクルマがやはりこれでした。母と姉妹であった叔母ともども夫婦でよく私の実家のあった広島にもこのクルマでやってきていました。その関係で、夏冬の休みや盆暮れなどにはこのクルマに同乗させてもらってあちこち遊びに行ったこともあり、私にとっても懐かしい一台です。

戦前は航空機製造メーカーであった富士重工がその技術を駆使して開発した超軽量構造を採用しており、また限られたスペースで必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが数多く導入されたクルマでした。比較的廉価で、十分な実用性を備え、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎され、モータリゼーション推進の一翼を担いました。

日本最初の「国民車」ともいわれ、同時に「マイカー」という言葉を誕生・定着させ、日本の自動車史のみならず戦後日本の歴史を語る上で欠かすことのできない「名車」と評価されています。

模範のひとつとなったといわれる「フォルクスワーゲン「のあだ名となっていた「かぶと虫」と対比させ、「てんとう虫」の名愛称で広く親しまれました。そのコンパクトにまとめられた軽快でキュートなデザインは今みてもなかなか斬新です。

そのためか、生産中止後も、1960年代を象徴するノスタルジーの対象として、日本の一般大衆からも人気・知名度は高く、私の叔父と同様にスバル・360が初めての自家用車だったという中高年層が多いこともその人気を裏押ししているようです。

生産台数も多かったことから、生産終了後約50年近く経過してもまだ後期モデルを中心に可動車も少なくなく、愛好者のクラブも結成されており、ごくたま~に街中を走っているのをみることさえあります。

スバル360発売以前の1950年代中期、日本ではこうした国産乗用車は富士重工以外にも複数の大手メーカーから発売されていました。しかしその価格は小型の1000cc級であっても当時で100万円程度であり、月収がわずかに数千円レベルであったほとんどの庶民にとっては縁のないものでした。

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そこに「軽自動車」という規格が現れました。そのきっかけは、第二次世界大戦後、敗戦国を中心に、二輪車や航空機の余剰部品や材料を利用した簡易車両を造ろうという動きが出たことでした。

戦後の日本は(戦中もそうでしたが)、道路事情が悪く、細い道が多かったことなどから、大型の車よりもより小さい車のほうが求められる傾向にあり、経済復興とともに手軽な移動手段としてのほか、省資源の観点からこうした超小型自動車を見直す気運が高まりました。

日本の軽自動車が初めて規格として世に登場したのは、1949年(昭和24年)のことで、当初から運転免許証も普通車、小型車とは区別され、免許取得月や地域によっては、実地試験が免除となり、費用負担も少ない「軽限定免許」なる優遇措置があることがウリでした。

しかし、当時のモータリゼーションの主力および市場の需要はもっぱらオート三輪やオートバイに集中しており、軽四輪自動車の本格的な製造販売を手掛けるメーカーはなかなか出てきませんでした。

この1949年にはじめて制定された規格では、軽自動車とは、長さ2.80m、幅1.00m、高さ2.00mと規定され、4サイクル車は150cc以下、2サイクル車は100cc以下という現在の軽と比べるとかなり小さく非力なものでした。

このため、実際にこの規格で製造された四輪車は存在せず、翌1950年に早くも最初の規格改定を迎えることとなり、このとき、4サイクル車は300cc以下、2サイクル車は200cc以下となり長さ3.00m、幅1.30m、とやや拡大されましたが、高さは2.00mのままでした。

しかし、この規格でも実際に製造を試みるメーカーはなく、この時代までに軽四輪自動車の製造販売に挑戦した少数の零細メーカーはほとんどが商業的に失敗するか、資本の限界で製造の継続ができなくなるなどの理由で、ほどなく市場からの撤退を余儀なくされていきました。

そんななか、翌年の1951年には、運輸省令「道路運送車両法施行規則」として規格改定がなされ、4サイクル車の排気量は初めて360ccまでアップされました(2サイクル車は240cc)。

この360ccという規格は、その後1976年まで続きました。排気ガス抑制のための4サイクルエンジンへの移行を促進させたい、という政府の意向を受けたものです。それなら排気量をアップさせてよ、というメーカー側からの強い希望により実現したもので、この排気量550ccが法令化されるまで、360ccの軽自動車生産はなんと22年も続きました。

そしてその後も平成2年排出ガス規制が敷かれるなか、この550cc規定の改定についてもメーカー側から強い働きかけがあり、1990年にも660ccにまでアップして現在に至っています。

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この1951年における360ccへの軽自動車規格改定において、ようやくメーカー側も、ここまで排気量をアップしてもらえたならなんとかいける、と思ったのでしょう。翌年の1952年には、史上初の4輪軽乗用車となる、250cc車「オートサンダル」というクルマが、名古屋の零細メーカーである「中野自動車工業」で製造されました。

三菱の汎用単気筒エンジンを用いて手作業で製造したもので、リアエンジン2人乗りのフリクションドライブ車であったため、およそ通常の実用に耐えうる性能ではありませんでした。

フリクションドライブというのは、駆動装置の接触による摩擦力を利用して動力を伝達する方式のことで、回転する円盤同士を接触させてその摩擦により動力を伝達するものです。ギアやチェーンなどに比べて構造が単純で、かつ滑らかで無段階な動力の伝達が可能ですが、伝達時にすべりが発生するため、大きな力の伝達には効率が悪くなります。

このクルマはそれでも1954年までに200台ほどを製造して初めて販売がなされました。が、この中野自動車というメーカーは零細企業のためほとんど資料が残されておらず、どのくらい売れたのかも詳細は不明です。その後より革新的な前輪駆動モデルの開発なども行ったともいわれているようですが、量産化せずに生産中止したと言われています。

その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行い、「日本自動車工業」が、「NJ(ニッケイタロー)」を、三光製作所が「テルヤン」などを開発しました。しかしこれらの会社も中野自動車と同様の零細企業であり、確たる技術的裏付けの薄いままに急造した粗末なものであったため、製造も販売も長続きはしませんでした。

このほか、大手織物メーカー傘下の住江製作所という町工場が、軽量4輪軽自動車「フライングフェザー」開発しています。これは2気筒の350ccのエンジンを積む2座席者でしたが、4輪独立懸架の採用はともかく、華奢な外観は商品性に乏しく、前輪ブレーキがないなど性能的に不十分な面も多く、結局数十台が市販されただけで製造中止となりました。

このほかにも、上述の「フライングフェザー」の開発者が、富士自動車という小さい会社から後輪を1輪とした125ccの2座キャビンスクーター「フジキャビン」を出しました。が、こちらもパワー不足と操縦安定性の悪い失敗作で、85台しか作られていません。

比較的まっとうな成績を収めたのは、自動織機メーカーから2輪車業界に進出していた当時の鈴木自動車工業で、この会社は現在の「スズキ」です。現在、日本市場においては軽自動車の販売台数で国内屈指のメーカーに成長しましたが、この会社は1955年に前輪駆動の360cc車「スズキ・スズライト」を開発しました。

これは実質西ドイツの「ボルクヴァルト」という会社が販売していたミニカー、「ロイトLP400」を軽自動車規格に縮小したような設計で、外観も酷似しており、乗用車・ライトバン・ピックアップトラックの3タイプがあり、乗用車タイプは大人4人が乗車できる、が一応の謳い文句でした。が、実際は後部座席は子供が精一杯の広さでした。

乗用車・ピックアップの販売は不振で、1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバン仕様のみとするなど販売面では追い込まれました。結局このライトバン仕様の「スズライト」も商業的に大きな成功は収められず、スズキの軽自動車生産が軌道に乗るのは改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降のことでした。

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このころ、戦前の航空機メーカーの雄、旧・中島飛行機を前身とする「富士産業」という会社が興っていました。群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げており、徐々に注目を集めていました。

また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスを真似たリアエンジンバス、「ふじ号」を日本で初めて開発しました。いずれも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功でした。

ところが、1950年にGHQ指令による財閥解体命令が出たため、富士産業は計12社に分社されました。うち2工場は富士工業に、また伊勢崎工場は富士自動車工業に改組されます。

しかし、1952年(昭和27年)に日米地位協定締結され、アメリカと日本との平和条約が発効されて日本の主権が回復されると、ようやくGHQの占領が終わりを告げます。

これを受けて翌年の1953年には、この富士自動車工業に残りの5社が協同出資して「富士重工業」が設立され、2年後の1955年にはこの5社はすべて富士重工業に吸収合併されるという形で統合されました。

その後、富士重工業は1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始し、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功しました。が、バブル崩壊後、提携していた日産自動車が経営不振に陥り、同社保有の富士重工業株全てがゼネラルモータース(GM)に売却されます。

しかし、GMの業績悪化に伴い2005年(平成17年)Mが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が買い取って筆頭株主となり、現在のように富士重工業とトヨタ自動車は提携し、蜜月関係にあるわけです。

最近スバルのクルマがやたらにトヨタっぽくなりつつある、と感じているのは私だけではないと思いますが、これはトヨタとの共同開発も多くなっているためでしょう。

このように少々昔の荒々しさが消えつつある富士重工ですが、しかしスバル・360を開発したころはまだ唯我独尊で開拓精神旺盛でした。その開発以前の1952年から既に普通乗用車の開発に取り組み、モノコック構造を備えた先進的な1500cc・4ドアセダン「スバル1500」の試作まで行っていました。

しかし、採算面や市場競争力への不安から、富士重工業成立後の1955年に市販化計画を断念しました。もっともこの幻のスバル1500の開発は、技術陣にとっての多大なデザイン・スタディ、ケース・スタディとなり、その成果はスバル360に遺憾なく注ぎこまれました。

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そのスバル360に関するマニアックな性能の記述は煩雑になるので避けたいと思いますが、フル・モノコック構造の超軽量車体後部に空冷エンジンを横置きし、後輪を駆動するリアエンジン・リアドライブ方式は、その後長らく主流となるFR車のスタンダードになりました。

サスペンションは日本で初めてトーションバー・スプリング(棒鋼のねじれによる反発を利用したばね)を用いた極めてコンパクトな構造として車内の客室容積確保を図り、またタイヤは当時としては異例の10インチサイズでした。

14インチ以上が主流であったこの時代にこんな極小タイヤはなく、これまた新規開発させたものでした。ちなみにこの10インチタイヤはその後、ブレーキ規制が強化された1980年代末を境に、サイズアップし、12インチサイズに移行して行きました。

その斬新なボディのデザインを完成させたのは、佐々木達三という人で、戦前から船舶塗色や建築などのデザインを手がけてきたベテランでした。が、彼にとっても初めての自動車デザインであり、彼はデザインと並行して自ら自動車免許を取得したといいます。

日野自動車がライセンス生産していた当時の代表的小型車「日野ルノー・4CV」を運転するなどして自動車の理解に努めたといい、フォルクスワーゲン似と言われることの多いスバル360ですが、随所のディテールを見るとむしろこのルノー・4CVとのほうがよく似ているといわれます。

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とはいえ、従前の軽自動車のようにこのルノーを滑稽なまでに強引に縮小した、というイメージはなく、4人乗りミニカーという大前提のもと、機能と直結した美しい形が生み出されたことは画期的であり、スバル・360が日本の工業デザインの歴史において高く評価されている理由でもあります。

車内は、これ以上ないというほどに簡素な車内で、軽量化とコストダウンのためにあらゆる無駄が省かれており、航空機開発の経験が豊富な同社の技術陣が、戦前に開発した航空機を先例として可能な限り軽量化に徹して完成させたものです。

例えばステアリングホイールは強度に問題のないギリギリにまで部材を細身に削られており、計器類はステアリングポスト上に配置されたスピードメーターとその中の積算距離計が唯一です。

また、最小限のスイッチ類が薄い「ダッシュボード」前面に備わっていますが、このダッシュボード下には車体全幅に渡るトレーが設置され、荷物スペースの一助とする、といった工夫も取り入れられており、こうした点が運転(操縦)装置以外の無駄なものは一切取り払われた戦闘機とは異なるところです。

ただ、シートは前後席とも、アルミ合金の湯たんぽ状のフレームをベースに、ゴムひもとウレタンフォームでクッションを整えてビニール表皮を張っただけという軽量でシンプルな構造で、それほどの高級感はありませんでした。とはいえ、私もなんとなく覚えているのですが、座り心地は当時としてはまずまずの水準であったと思います。

この名車ともいわれるスバル360の開発を主導したのは戦前の中島飛行機のベテランエンジニアたちでしたが、中でも、百瀬晋六という人が主導をとりました。上述でも述べましたが、1949年に日本初のモノコック構造リアエンジンバス「ふじ号」を開発した人であり、スバル360のあとも、初代スバル・サンバー、スバル1000などの名車を生み出しました。

長野県塩尻市の造酒家の家に生まれで、旧制松本高等学校を経て、東京帝国大学工学部航空学科へ入学した俊才です。大学では原動機を専攻し、1941年の卒業と同時に、中島飛行機株式会社に入社。主に戦闘機用エンジン「誉」エンジンの改造などに従事しました。

その後海軍技術士官として海軍航空技術廠に転向したため、中島飛行機での仕事は軍籍のまま行われたものであり、このため終戦時には海軍技術大尉の身分でした。敗戦後、伊勢崎工場を継承した富士自動車工業の社員に返り咲きます。

富士重工業が飛行機産業から自動車生産業者へと転換するにあたり、上述のふじ号の第1号試作車、スバル1500を1954年に開発。その際に蓄積された技術をもってスバル360の開発を主導しましたが、その時代を先取りした人間優先の設計思想により、軽自動車の設計に新しい可能性を切り開き、日本における「軽自動車の父」とも称されるべき人です。

スバル360は後輪駆動者ですが、1961年には、百瀬の理想であった前輪駆動車(FWD)の開発にも取り組み、スバル1000を完成させました。1966年に発売された同車は、現在も富士重工車の技術の象徴ともいわれる水平対向4気筒エンジンなどをはじめ、電動式冷却ファンを導入するなど画期的な新技術を満載していました。

その根本的な設計思想は今日のスバルの主力車種、インプレッサ・レガシィ・フォレスターといったクルマにも受け継がれています。

チーフエンジニアとしての百瀬は、暇さえあれば部下の机を覗いて回り、問題点を発見するとそこに腰を据えて担当者と共に考える習慣を持っていたといい、「技術に上下の差は無い」というのが口癖だったそうです。

技術・車に対する真摯な姿勢やその考え方・哲学は社内外で「百瀬イズム」と呼ばれ、今日に至るまで思想的財産として引き継がれています。1993年の2代目レガシィのビッグマイナーチェンジ大ヒットを見届けて、1997年(平成9年)1月21日逝去。享年77でした。

ちなみに、この2代目レガシーは、私がハワイから留学後、はじめて買った愛車であり、このクルマに搭載されていたボクサーエンジンと呼ばれる水平対向エンジンのボッボッボッという、腹の底に響くようなサウンドを聴きながらのドライブは最高でした。

というわけで、私自身もこのスバルのクルマとは縁が深いことに今気づいたのですが、このスバル360の生みの親の百瀬氏ももしかしたら、雛祭り生まれ?と思ったのですが、調べてみてもさすがにこれは違っていました。

しかし、2月20日生まれの魚座であり、私と同じです。早春の生まれにふさわしく、デリケートで優しいのが魚座の特徴だといい、何よりも「感応する力」が最大の特徴であり、その直観力により百瀬氏もまた優れたアイデアを探し当てることができたのかもしれません。

芸術的な才能にも恵まれているといい、そんな才能がスバル360のようなすばらしいデザインの車を生み出したのでしょう。

私もあやかりたいものですが、百瀬氏が生きた77歳まで生き延びれるかどうか、いわんや彼のような素晴らしい業績が残せるかどうか…… 先行きは妖しいところです。

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