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バガデル公園 ~河津町

梅雨が近づくにつれ、天気のおもわしくない日も増えてきました。雨が降って花が散ってしまわないうちに、ということで、前から気になっていた、バラの名所、河津バガテル公園に行ってきました。

修善寺から天城峠を越えておよそ1時間ほどのところにある河津町は、本州で一番早く咲く桜、河津桜で有名な町。産業は何かな、とちょっと調べてみたら、どうもみかんなどの柑橘系の果物を作って出荷する農家が多いみたい。下田にもほど近いので、下田に仕事に出る兼業農家も多いのではないかと思われます。

お昼直前に着いたので、どこかでお昼を食べる良いレストランでも、と探していたら、伊豆急行の河津駅前にある、「伊豆海鮮どんぶり屋」というお店が目にとまりました。駅前にもかかわらず、ほかにはあまりお店らしいお店もないので、ともかく入ってみることに。お昼時にもかかわらず、先客は一組だけで、店内はがらんとしています。河津桜の咲く季節でもなく、平日でもあることを考えればこんなもんなのでしょう。店の名前からして、丼物中心だろうな、とは思っていましたが、案に違わずメニューは、いろいろな海鮮どんぶりがあります。

わたしは、豪快海鮮丼、タエさんは、サーモン親子丼を注文し、およそ待つこと5分。出てきた丼は、なるほど豪快にいろいろな地ざかなの刺身と青物が乗っています。タエさんのほうは、ピンク色のサーモンの上に、いくらがまぶしてあるタイプ。どちらもおいしそうです。ここの丼は、すべて酢飯になっているとのこと。寿司の好きな私にとっては大歓迎。早速いただくことに。

さすがに、良いお値段なだけに(二人で3500円ほど)、味は上々で、お刺身もぷりぷり。いろんな味も楽しめてなかなかのものです。ただ、値段の割には一緒に出てきたお吸い物の中身がわかめだけ、というのはちょっと寂しいかんじ。せめて何かの魚のあら汁くらいにして欲しかったかな~。まあ、大満足とはいいませんが、私的にはまずまずといったところで及第点を差し上げたいと思いました。しかしタエさんはといえば、おそばか何か別のもののほうがよかったみたい。もともと、どちらかといえば魚は苦手なタイプなので、もっと別の店があればそちらに入りたかったご様子。でも選択肢はあまりたくさんなかったんで、仕方がないねー。

まあ、公園に行ったら、おいしいケーキでもご馳走するよ、と少しご機嫌をとりつつ、今日の目的地に向かいました。

その目的地、河津バガテル公園は、駅から車で10分ほどの高台にありました。山間の緩傾斜面の土地を整地して作ったらしいその公園は、かなりの広さがあります。どのくらいの広さかなと思ったら、約5ヘクタールあるそうで、そのうちの2haがバラ園だそうです。甲子園球場が、1.3ヘクタールだそうですから、バラ園としては、かなり大きい公園です。

その名前の由来ですが、「バカ」が出る公園かと思っていたら、デルではなく、テルだそうです。しかも「バカ」ではなく、「バガ」。フランス語で、「小さくて愛らしいもの」という意味とのこと。

天才バカボンとも何の関係もないらしく、有名なパリのブローニュの森の中にある公園の姉妹園として10年ほど前に開設されたとか。

バガテル公園を運営する会社のHPによると、初期のパリ・バガテル公園は、18世紀にルイ16世の弟のアルトワ伯爵という人が命令して、建築家のブランジェとその助手に作らせたらしい。
「公園全体が単なる集まりの場ではなく、人の和・愛・知恵等を主張するスペースで、自分のイマジネーションを、純粋な子供の如く自由に働かせ、多様さに満ちた自然との会話を楽しむ憩いの場であるというものであり・・・」と長い説明があるのですが、よくわからん。が、どうやらクラッシックなフランス風の庭園をめざしたのではなく、フランスの田舎の風景を凝縮したようなものを作りたかったらしい。

その後、1905年にパリ市が公園を買収したあと、モネなどの印象派の画家達の影響を受け、公園のイメージは少しずつ変化し、だんだんと華やかになっていったそうです。当初は大きなバラ園はなく、現在のようなバラ園が誕生したのは更にそのあと。

で、なんで河津町にパリの公園? と突っ込んで調べたところ、よくわかりませんがたぶん、桜以外何の観光産業もない町のこと、町おこしのために大きな目玉が欲しかったんでしょう。平成9年に、パリのバガテル公園を運営している会社と基本協定を結ぶことに成功。その後町が主導する形の、第3セクター方式の会社を設立し、運営を始めたようです。

このあたり、何やらわが伊豆市の誇る、修善寺虹の郷とよく似てる。市や町が主導で第三セクターが運営する施設を町おこしの目的でつくる、というのはよくあるパターンです。しかし、なかなかうまくいった例はなく、開園後まもなく潰れてしまったという施設はゴマンとあります。

それからすると、開園後、バラだけで10年以上も頑張っているバガテル公園はなかなかたいしたもの。うーん、あなどれんなー、敵もなかなか・・・とすっかり伊豆市のスパイのような気分。

実際、中に入ると、確かになるほどなるほど、とうなづけるようなしかけがいろいろあります。入場料一般1000円が高いかどうかは別として、園内のレストランで食事をすると、セット料金で食事代が割安になるというのは、ひとつのアイデアです。また、春から秋はよいとして、冬のオフシーズンにはバラは咲かないことから、こうしたオフシーズンには逆にそのレストランでの食事やショップ運営などを売りにしています。オフシーズンには入園料を安くし、いろんなイベントを打って、食事の質で集客を図る・・・ 園内の食事処のクオリティがいまひとつの修善寺虹の郷とは違ったアプローチといえます。

とはいえ、さすがにオフシーズンには人は少ないだろうなーと思う次第。ただ、この第三セクター、国民宿舎の管理運営もやっているそうで、公園とそのショップ運営だけではやっていけない部分を他で補っているらしい。だから、10年以上ももっているんだあ、と妙に感心。

それにしても、園内各所はきれいに清掃され、入口からバラ園に至る途中のレストランや喫茶店、お土産物屋、噴水、そしてそれらを囲むような木々、といずれも本当にフランスにやってきてそのの風景を見ているような趣があり、なかなかえーです。あちこちに、花を寄せ植えにしたワゴン車が置いてあって、これがまた牧歌的な雰囲気をかもしだしています。

この日はあいにく先にランチを済ませてしまっての入園だったので、レストランで出されるというフランスの田舎料理を食べることはできませんでしたが、次回はぜひその質を確かめてみたいもの。

・・・さて、前置きが長くなりましたが、肝心のバラ園はどうだったかというと・・・これもすばらしいものでした。手前から奥に向かうやや細長い形で配された庭園は、縦横に砂利の園路が配され、バラが植樹されている部分はすべて芝生で覆われています。庭園の一番奥は展望台になっていて、ここからは太平洋が見えるしかけ。逆に一番手前には宮殿風の休憩所の建物が作られていて、中はちょっとしたイベントが開催できるホールになっています。この日はそのホール内で写真展をやっていて、バガテル公園でバラをとったアマチュア写真家の写真がたくさん並んでいました。グランプリには河津町長さん賞などが与えられたみたい。ざっと拝見しましたが、グランプリ受賞作品はなかなかのクオリティでした。

バラの種類は、全部で1,100品種。6,000本のバラがあるんだそうで、広い園内を隅から隅まで歩いては、気に入ったアングルでいろいろな写真を私も撮ってみました。今日ここに掲載しているのはそのほんの一部ですが、今改めてみても写真からほのかな甘い匂いが漂ってくるようではありませんか。

園内をくまなく歩き、満足のいくまで写真を撮ったあとは、カフェでのどを潤しましたが、タエさんと食べたケーキもなかなかのもの。値段も手ごろで、納得感あり。カフェやレストランは、有料のバラ園の外にあるので、お茶や食事だけの利用客も利用が可能。これから何度か下田方面に来ることもあろうかと思いますが、ここで食事だけを楽しむために来るというのもありかな、と。良いスポットを見つけた、とタエさんと二人で大喜びです。

これらカフェやレストランの横には、バラの苗を直売しているガーデニングショップもあります。一般のホームセンターや園芸店では置いていないような品種のバラも多数置いてあって、それらをひとつひとつ見ていくのもまた楽しいもの。お土産にどれか買っていこうというわけで、二人で小一時間ほども見てしまいました。

最終的に、二株を選び、修善寺に持ち帰ることに。今回は二株だけですが、これからもたびたび訪れて、いろんなバラを集め、庭に植えようねと二人で話ながら、バガテル公園を後にしました。

そんなわけで、今日のショートトリップにはふたりとも大満足。それにしても、これだけ遊んでも帰宅は5時すぎ。東京ならば、ちょっとした遊び場へ出かけるにしても、帰りの渋滞に巻き込まれて、帰りが遅くなるなんてことはしばしば。伊豆半島内のどこにでも数時間で行くことができるという立地は、修善寺ならではのもの。あらためて良いところに住んでいるなーと実感できました。

そんなわけで、来週は下田まで行ってみよう、ということに。今、下田ではアジサイが見ごろになっているはず。こちらも出かけていき、たくさん写真を撮ってこようと思います。その結果はまたブログにアップしますね。それでは今日のところはこれまで。

神前にて

九州地方はとうとう梅雨に突入したようです。伊豆も時間の問題でしょう。先日、山口の母に電話をしたとき、そちらのホタルはどうかと聞いたら、もうそろそろ終わりに近いそうで、近くのホタル生息地、一の坂川のホタル祭りは、この3日に終わったそうです。ここ伊豆では、修善寺のほたる祭りが10日までなので、関西よりはやはり少しホタルは遅いようです。天城湯ヶ島のほたる祭りに至っては、7月1日までだそうで、伊豆では山奥に行けばいくほど遅くまでホタルが見れる、ということなのかな。おそらく、天城のほうが修善寺より気温が低いためなのでしょう。

さて、今日はタエさんとの30年ぶりの出会いの話などを書きだそうかな思っていましたが、昨日までの塀づくりで多少疲弊(へい)しているのと、天気もどん天で、気分もいまひとつ乗りません。今日のところはやめておきましょう。なので、昨日に引き続き、宮島での結婚式について書いていくことにします。

広島プリンスホテルから出航した船は、雨模様の中、それでも静かな瀬戸内海をゆっくりと進み、30分ほどで宮島の桟橋に着きました。宮島へ行ったことがある人は、ご存知だと思いますが、桟橋から厳島神社の社殿までは、通常徒歩で向かいます。途中、お土産物屋さんがあるルートと、海沿いの静かなルートのふたつがありますが、まずは海沿いの静かなルートを通って参拝し、帰りはお土産物屋さんのいろんなお土産で目を楽しませながら帰る・・・というパターンが一般的でしょう。

海沿いのルートには、本物の鹿があちこちにいて、観光客を迎えてくれます・・・といっても餌をねだりに近寄ってくるだけなのですが、なかなかかわいいもの。しかし、さわってみるとわかりますが、そのゴワゴワ感はやはり野生生物。あちこちにフンも落ちているので参拝のときには気をつけましょう。

もし、その日が晴れた日で多少時間に余裕がある方は、神社から10分ほど歩いた山の手にある「紅葉谷」という場所から出ているロープウェーに乗って、宮島の最高峰、弥山(みせん)に登ってみるのも良いかも。頂上からは、瀬戸内海の雄大な景色が広がり、最高の気分を味わえると思います。運がよければ猿の群れにも出くわすことができ、なかなかワイルドな経験をするかもしれないぜぇ。

あまり時間がない方にお勧めなのは、神社のすぐそばにある、「千畳閣」という建造物。別名、豊国神社といいますが、これは実はかの豊臣秀吉が建てようとした神社。「建てようとした」のですが、秀吉が途中で死んでしまったので、未完成のまま放置され現在に至っている建物です。「千畳閣」の名前どおり、とてつもなく広い伽藍で、広さは857畳とか。未完成なので、外壁はなく、その北側には広々とした瀬戸内海が見通せます。わたしは、子供のころからここの風景が好きで、宮島へ行くと必ずと言っていいほどここへ行きました。宮島の中でも最もおすすめのスポットです。

ちょっと脱線してしまいましたが、このほかにも宮島にはたくさんいいところや、おいしいものがたくさんありますので、一度も行ったことがない方はぜひ行ってみてください。島内にはほかにも面白いスポットがいろいろあるので、また機会があればご紹介しましょう。あ、そうそう、宮島へ行ったら、ぜひ「あなごめし」を食べてみてください。店にもよりますが、絶品ですよ!

・・・で、桟橋に到着した私たち一行ですが、さきほど説明したような通常の観光客が通る参道は通らず、その山の手側にとおる山道をバスで、社殿に向かいました。この道は、地元の人が使っている道で、観光客でごったがえすふもとの参道を迂回するためのいわゆるバイパスです。宮島は世界遺産ですが、昔から人が住んでいて、現在も2000人を超える住人がいます。参道からちょっと裏の路地に入ると、普通の民家がたくさんならんでいて、そのギャップにちょっとびっくりしますが、まぎれもない庶民の町。あちらこちらから島の暮らしの生活の匂いがします。

そんな裏道を通り、社殿前の駐車場に到着した我々一行が向かうのは、神社の最奥部にある本殿横にある待合室。その待合室までは、朱塗りの柱と天井に囲まれた長い渡廊下を通っていきます。我々の結婚式だからといって、別に貸切というわけではなく、普通に観光客が通っている廊下。おおぜいの観光客が和服のわれわれをジロジロと見ていきます。

羽織紋付の私と金襴緞子を着たタエさんは、とくに目をひくらしく、中には写真に撮る人も。途中、外国人さんのご一行がすれ違い、その人がハーイ、ハッローと声をかけてきました。写真を撮らせてくれ、と言うので、二人して外人さんご一行とハイ・チーズ。なんだかしらないけれど、珍しいものが撮れた、という感じで手を振りながら喜んで去っていきましたが、へへぇ、国際親善に一役買ってしまったなあぁ、とわたしは少しご満悦。

式直前で少し緊張気味ではあったのですが、そんなこともあってすっかりリラックスできた私。でもタエさんのほうを見るとやっぱ、緊張しているなーという感じ。そりゃあそうだ、生まれて初めての結婚式ですもの。私は二回目だけど・・・

待合室では、式が始まるまで30分ほどもいたでしょうか。この間、宮司さんから式の進行手順などの説明があり、それが終わるとお茶が出ました。式を待つ間、お茶を飲みながら親族同士でなごやかに会話をしたのですが、しかし、厳島神社本殿横の待合室、という特異な環境のためか、みなさんもやはり少し緊張気味のご様子。タエさんも緊張したせいか、おトイレに行きたくなったらしいのですが、なにせ重厚な帯でぎしぎしにおなか回りを「縛って」いるわけですから、無理からぬこと。付き添いの方に手伝ってもらってなんとか用を済ませたようですが、いやはや女性は大変だわ。

私はというと、羽織紋付とはいえ、いたって軽装なので小用もらくちん。鼻唄混じりで用を足しましたが、さきほどの外人さんとの一件もあり、なんだかとってもリラックスしていて、さあ出陣じゃ~という気分。酒を飲んでいるわけでもないのに、式直前になって妙にハイになっていました。

そしていよいよ式が始まりました。待合室のすぐ横はもう本殿の広間になっており、そこには神棚を中心として、そのすぐ前に新郎新婦の席。その両サイドにはそれぞれの親戚・友人の席がずらりと並びます。通常は、新郎新婦のほかに媒酌人、つまりお仲人さんがいるものなのですが、我々二人はとくにお仲人さんは設けませんでした。それで問題ないのか、と思われる人もいるかもしれませんが、媒酌人はいてもいなくてもいいのだそうです。若い人が結婚する場合、ゆくゆくの後見をしてもらうという意味から媒酌人を設けるようですが、我々のような熟年夫婦にはその必要はない、という判断でした。

神道における結婚式の手順は、日本全国だいたいぜんぶ同じです。入場から始まって、退場までだいたい10ぐらいの手順がありますが、簡単にいうと、まず、神主さんによるお祓いの儀式と全員による一拝。神主さんによる祝詞(のりと)の奏上。そしていわゆる三々九度の儀式をおこないます。三々九度のあとは、神社の「楽団」によってお神楽が奉納され、それが終わると、夫婦そろって神前で誓いの言葉をのべます(誓詞奏上)。

その後結婚指輪の交換を行ったあと、夫婦で玉串を神様に捧げます。玉串というのは、榊(さかき)などの小枝に紙を添えたもの。神様に対する貢物みたいな意味を持つようです。その儀式は玉串奉奠(たまぐしほうてん)というのだそうですが、これと、三々九度のふたつが、もっとも儀式めいた作法といえば作法です。それほど難しい作法ではないのですが、玉串奉奠では玉串を持ちかえる所作などに決まりがあり、三々九度でも最初の一口では酒を口に含まない、などの決まりがあります。この二つは結婚式では誰もが一番緊張するシーン。事前に練習しておくと本番で焦ることもありません。

玉串の奉納が終わると、今度は、親族一同が順番にお神酒をいただきます。そして最後に全員で神様に一拝して、無事、結婚式の終了です。

実際の式では、ちょっと心配だった三々九度と玉串奉奠の儀式もスムースにやることができ、晴れて二人は夫婦になりました。わたしとしての採点は95点ぐらい。緊張もしていなかったし、とくに誓詞奏上は気持ちよく行えました。用意された誓詞を夫婦二人して読み上げるのですが、わたしはこれをできるだけ大声で読み上げました。

神様に誓うのだから、声は大きいほうが良いと思ったからなのですが、式当初からかなりハイだった私の声はいつになく大きく、読み上げる本人もびっくりするくらい本殿に響き渡ります。これがまた実に気持ちのイイこと。だからといってとりわけご利益があるというわけでもなかったでしょうが、大声を出したことで、さらに気分はすっきり。気持ちよく本殿をあとすることができました。

結婚式が終わったあとは、社殿内のあちこちで、親戚や友人と記念写真。きらびやかな結婚衣装を着たタエさんはとくにみんなの引っ張りだこで、大人気でした。出口に向かう回廊では、これから参殿する大勢の観光客とすれ違いましたが、おめでとう、と声をかけてくれる人もいて、気分は最高潮。あー、宮島で結婚式をしてよかったなー、と実感できる瞬間でもありました。 が、三度目をやりたいか、といわれると、もういいかな。面白かったし、良い経験ではあったけれど、やっぱ肩こるわ。

社殿からはふたたびバスに乗って桟橋へ。そして、また船に乗ってプリンスホテルへ向かいます。午後からはいよいよホテルでの披露宴の開始。これまでは親戚と親しい友人だけでしたが、これからは、ほかの招待客も交えての宴が始まります。あとで聞いた話では、その披露宴には我々がお呼びした招待客だけでなく、あちらの世界からもお客様が見えていたとのこと・・・

そんなスピリチュアルな話も交え、またその披露宴の様子なども、このブログで紹介していこうと思います。そして、我々二人のなれそめのことなども。

今日はこれから、残る塀の作業を完成させなければなりません。疲れていなければまた明日続きをアップしましょう。

出航

厳島は、広島市内中心部から4kmほど西に行った場所の沖合にあります。「宮島」とも言いますが、どちらが正しい、とかいうのはないようです。学術的な文献や行政文書では「厳島」が多く使われ、観光地として指すときには「宮島」が多く使われるみたいですが、地元の人は「宮島」と呼ぶことのほうが多いかな。

私たちがこどものころの運動会では、「宮島さんの神主がぁ、おみくじ引いて申すには~、いーつも○○がぁ、勝ぁち、かーち、かっちかち!」という応援歌をよく歌っていました。○○のところには、紅(あか)か、白(しろ)が入ります。紅組か白組の応援歌としてこれをみんなで歌いながら応援するんです。

たぶん今も広島の小学校や中学校では歌っているんじゃないでしょうか。教師から教え子へ伝えつがれてきた歌です。高校野球の応援合戦のときにもこの曲を演奏しているのを聞いたことがあります。

それほど「宮島さん」といえば子供のころから慣れ親しんだ島。一番最初に行ったのは、たぶん幼稚園の遠足だったと思います。以後、小中高といずれの学年でも遠足の定番といえば宮島で、それ以外のプライベートでの渡島も数えると、おそらくは20回以上は行っているとおもう。広島育ちのわたしにとっては、こころのふるさと、と言っても過言ではない場所です。

そんな場所で結婚式を挙げようという話をタエさんがしたとき、ほんとうにそんなことができるのかしらん、と思ったものです。無論、神社には違いないので、結婚式を挙げる人もいないではなかろう。ただ、世界遺産にまで登録されるようになった今、ほんとにそんなところで結婚式挙げさせてくれるんだろうか、と私が疑ったのも無理もなからんとお思いではないでしょうか。

とはいえ、思い立ったが吉日、ということで、早速ネットで「宮島」「結婚式」と入力して検索してみると―― あるわあるわ、結構いろんな業者さんが「宮島ブライダル」とかなんとか名前をつけて、晴れある結婚式をぜひ、宮島で!と宣伝しているではありませんか。その数は結構多い。が、よく見てみると、結婚披露宴をやる式場を提供しているホテルや結婚仲介業者さんなどが運営しているサイトがほとんどで、さらにいろいろ調べてみると、式の予約などは宗教法人としての厳島神社社務所に直接申し込むということがわかりました。

気になる費用はいくらかな、と思ってみてみると、結婚式の費用として神社に収める玉串料が10万円ほど。これとは別途、式を挙げるときに神様に奉納する舞楽の費用がやはり10万円とのこと。舞楽のほうは、希望があれば、ということで、ようするに10万円払えば誰でも宮島で結婚式が挙げられるらしいのです。

おそらく、中には披露宴なんかいらない、結婚式だけ挙げればいいや、ということで、スーツ姿でシンプルな神前結婚を挙げる若い人も多いだろうと想像します。しかし、アラフィフにさしかかっていた二人としては、それまでの人生で関わった人たちも多く、たとえ自分たちが望まないとしても、そういう人たちへのお披露目という意味においては、きちんとした正装で臨むべきかなと思ったものです。

とはいえ、実はわたし自身は結婚式などにお金をかけるのはばからしい、と思うタイプ。結婚式をプリンスホテルで、とタエさんが提案したときも、即座に快諾したものの、できるだけお金のかからないシンプルなプランを・・・と考えていました。しかも、それでなくても一大観光地の宮島のようなところで式を挙げるということは、どれだけ多くの人の目にふれるんじゃろー(ここのところ広島弁)と、考えるだけでも顔が赤くなる思いでしたし、さらに、そのあとに結婚披露宴となると、例のたきしーど、とかいう洋風のちゃらちゃらしたのを着るんかい、いやじゃのー、と一時はずいぶん気おくれしたものです。

しかし、そうした経験することが、これからの人生の糧にもなるのよ、とわけのわからん理屈でタエさんにも諭されるうちに、えーい、どうせやるならパーッとやるかパーッとという気にだんだんとなっていきました。結婚式も披露宴もやらなければならないならば、ちまちましたものをやるよりは、どーんといいものをやって、記憶に残るものにしよう!と決めたのです。 いよっ、いい男! とタエさんが言ったかどうかはよく覚えていませんが、ともかく、式も披露宴もいっぱしのものをやることにし、次のステップに進むことに。

しかし、それにしても気になるのは、かの宮島での結婚式の予約状況。早速、電話で神社に確認したところ、予約が空いているのは、2ヶ月ほど先の6月とのこと。神社で挙式をする人は最近増えているとのことで、その中でもとくに人気の高い厳島神社だけのことはある。ずいぶん先だなーとは思いましたが、それでも、半年とか1年待ちとかいうわけでもなく、お互い晩婚だし、いまさら焦る必要もないか、とこれまたわけのわからぬ理由から、ともかく予約をすることにしました。

神社のほうで予約が空いている日は複数あったのですが、同じ日に披露宴をやる予定の広島プリンスホテルのほうの予約状況も確認する必要があり、両者に確認。その結果、午前中に宮島で式を挙げ、午後ホテルで披露宴ができるパターンとしては、6月20日の金曜日がよかろう、といことになりました。遠方から来ていただく方にとっては土日のほうが都合が良いのでしょうが、そうなるとかなり予約は先になってしまいます。それなら、できるだけ週末に近いほうにしようということで、金曜日に挙式をすることを決めたのでした。

それからは、「目標」に向かって二人して着々と準備を進めました。まずは、会場の下見とホテル側の担当者さんとの打ち合わせに始まり、宮島とホテルで着る貸衣装の選択と寸法合わせ。式に呼ぶ人のリストの作成と案内状の作成・・・

結婚式をやったことがある人はおそらくみなさん同じような手順を踏まれるだろうと思いますので、そこのところの詳細は割愛しましょう。しかし、とくに印象的で記憶に残っていることは、それらの準備のお手伝いをしてくださった方々のこと。とくにプリンスホテルの式場担当者のOさんは、テキパキと仕事をこなし、キレのよい会話と気配りのできる御嬢さんで、元アナウンサーでタレントの夏目三久にちょっと似た感じのなかなかの美人さん。宮島での式から始まって式最後のお見送りまでのすべてのスケジュールに目をくばり、およそスキのない手配をしてくださいました。

このほか、貸衣装屋さんのコーディネーターのお姉さんもとてもセンスのある人で、タエさんの長所を生かした素敵なウェディングドレスを選択してくれました。私といえば、男性はどちらかといえば「添え物」的な対象なので、ごく普通のタキシードを選択するんかなと思いましたが、案に反して私の年齢に合ったシックな衣装を選択。自分で言うのもなんなのですが、結構おしゃれな「髭男爵」が誕生することになったのです。

もう一人、忘れてはならないのは、式当日のメイクなどをお願いしたYさん。この人はタエさんの昔からの友人で、広島市内でマッサージ店を経営している方ですが、コスチュームコーディネーターやメイクアップアーティストもこなす、ばりばりのキャリアウーマン。式当日は、披露宴会場の裏方として、衣装替えのたびに衣装や髪形を整えたり、メイクを直してくださったりしました。実はスピリチュアル的なことのお話もできる方で、タエさんとは海外旅行にも一緒に行ったことのある親友。この方は、なかなか面白いといっては失礼ですが、いろんなエピソードを持った方なので、いずれまた機会があればそうしたことも詳しく書いてみたいと思います。

結婚式当日の前の夜はここプリンスホテルに宿泊し、あちこちの地方から来られた親戚や友人たちと食事をしたり、お話をしたりで、ふだんはなかなかできない貴重な時間を過ごしました。

・・・そして式の当日。かねてからの予報により、天気は良くないとは知っていたものの、その日は朝からもう少しなんとかならんかいなーというほどの、どしゃ降り。あー、こりゃあ日頃からの行いのせいかなー、とか思ったもんですが、ともかくその日の早朝から私は羽織はかま、タエさんは金襴緞子に着替え、ホテル一階のロビーに向かいました。

広島プリンスホテルは、広島市内中心部から南へ4kmほど離れた「元宇品公園」という半島の先端にあります。もともとは島だったもので、間の海を埋め立てて今は半島になっており、小高い山を中心にしたその島全体が公園になっていて、島を一周する散策道がついています。広島市民のよき散策の場所でもあり、デートスポットでもあるこの場所は、私も子供のころからしょっちゅう遊びに行っていました。そんな場所で結婚式を挙げることになろうとは、不思議な気分・・・

その半島の先端にそびえたつ瀟洒なデザインの広島プリンスホテル。場所が場所だけに、一階のラウンジからも海が見えますが、さらに上の階にいくと、瀬戸内海の島々が見える絶景に恵まれていて、観光客にとても人気があるようです。広島市民も何かとイベントがあるたびにこのホテルを利用しているようで、結婚式の会場としても人気があります。

ここから、宮島までは直線で15kmほど。この日の午前中は、厳島神社本殿で結婚式を挙げる予定だったのですが、では、なぜ宮島から離れたプリンスホテルへ? と思われる方もいるでしょう。実は、我々のプランは、式に参加する方々をここプリンスホテルから宮島まで船で直接送り迎えしようというもの。式には遠方から来られる方も多いので、海から見る宮島を見てもらい、観光客としての気分も味わってもらおう、という配慮もあったのです。

しかし、あいにくのどしゃ降り。船は大丈夫かなーと思いましたが、幸い、雨はすごいものの、波はほとんどなく、予定どおり船は出向できるとのこと。衣裳部屋で、私は紋付袴。タエさんは金襴緞子に着替えて出発です。

ホテルの裏には宮島行きの不定期便の専用桟橋があり、船はここから出ます。降りしきる雨の中を着物の裾をからげて、ホテルスタッフに差し出された傘に守られながら船へと向かう二人。船にはこのほか、親しい友人や親戚が乗りこみ、ほぼ予定時刻に、桟橋を離れました。船から陸のほうをみると、さきほどまで傘を貸していてくれたホテルスタッフさんたちが総出で、傘をあげ、手を振ってくれています。なかなか心のこもったサービスに感激。そして・・・船は宮島へ宮島へと進んでいきます・・・

・・・少々長くなったので、今日のところはここまでにしたいと思います。次はいよいよ結婚式本番について書こうと思います。が、その前に、もしかしたら、二人の奇跡的な出会いについても触れるかも。30年ぶりに出会ってそこからスタートした我々二人が結婚に至るまでに、今思えば本当に不思議なことが数々ありました。そんなスピリチュアルなお話も交え、この項を綴っていくのも面白いかも。修善寺の日常のことなども書いていきたいので、不定期になるかもしれませんが、お時間のある方は、時々のぞいてみてくださいね。それでは今日のところはこれまで。

ジューンブライド

そろそろ梅雨の季節です。沖縄はもうすでに4月28日に梅雨入り、九州地方も今週あたりから突入予定とか。ここ、修善寺の空気も、気持ち湿ってきたような気がします。今朝はよく晴れていますが、夕べも一雨あった様子。庭の土が濡れています。

最近庭造りと塀づくりに追われていて、なかなか遠出ができませんが、テレビのニュースによれば、あちこちでバラが満開になっているようです。伊豆東海岸の下田にほど近いところに河津(かわず)という町があります。本州では一番早く咲く「河津桜」で有名な町ですが、ここに河津バガデル公園というのがあって、今桜ならぬ、バラが見ごろだそうです。まだ一度も行ったことがないので、今やっている塀づくりが終わったらぜひタエさんと行ってみようと思います。

ご存知の方も多いと思いますが、バラは一年に2回花季があって、最初は6月ごろ、次いで秋口の10月が見ごろです。その6月に結婚式を挙げると、幸せな結婚生活が送れるというので、梅雨のさなかであっても、6月に式を強行する人も多いと思います。

いわゆるジューンブライド(june bride)ですが、ネットで調べてみると、そもそもこの風習は、欧米からきたらしい。おもわず、また欧米か!と突っ込みたくなりますが、日本ではいつごろから定着したのかなと思ったら、流行りだしたのは意外と遅く、どうやら戦後の昭和40年代くらいかららしい。

それ以前は、結婚式といえば桜の咲く春や、天気がよく空の晴れ渡った秋にやる、というのがふつうだったらしいのですが、どうして雨の時期にやるようになったのかな~とさらに調べてみると面白いことがわかりました。なんでも、昭和40年代ごろからは高度成長期に合わせて日本人もいろいろ贅沢になり、テレビや冷蔵庫、洗濯機の「三種の神器」の普及に加え、電車やクルマなどの公共交通機関では冷房が導入されはじめたらしいです。催し物をやるホールや会場など、一カ所に人がたくさん集まるところでは費用対効果も抜群、ということで、エアコンが導入されるところも次第に多くなってきたとのこと。

結婚式場も例外ではなく、これまで気候がいい春や秋の利用が多かったのに対し、雨の日や暑い日でも冷房のおかげで快適な結婚式ができるようになるということで、一気に需要が加速。ふだん、あまりお客の多くない、真夏や真冬でも快適な結婚式ができますよ、ということで結婚式業者も式場費用を割り引いたことから、さらに利用者が増えていったそうです。

しかし、さすがに天気が悪くて湿気も多い、梅雨の時期にはお客はあまり増えなかった。なんとか梅雨のじめじめした季節でもお客を増やしたいなーとおもっていたところ、おっ!こ、これだー と誰かが思いついたんでしょう。欧米ではジューンブライドというのがあって、この季節に結婚すると、幸せになれるという言い伝えがある。そうだ、こいつをキャンペーンに使ってお客を倍増しよう、エッヘッヘ・・・と言ったかどうかは知りませんが、6月に結婚すれば、どんなブスな・・・いえ月並みなお顔のあなたでも幸せな結婚ができますよ~~ とか、きっと宣伝を打ったんだと思う。

これが当たりにあたって、6月に結婚する人が一気に増えた・・・というのがことの真相のようです。なにやらバレンタインでーとかホワイトデーを流行らせた菓子業界の陰謀と似ていますが、欧米風の結婚にあこがれる世の乙女たちにはおおいに受けたようで、かくしてジューンブライドは全国津々浦々にまで定着していったのでした・・・

全国津々浦々と書きましたが、6月には早々と梅雨の明ける沖縄や梅雨のない北海道ではどうだか知りません。でも6月に北海道で結婚式を挙げる人は多いみたいですね。

ところで、ヨーロッパでなぜ、ジューンブライドが定着したか、については諸説あるみたいです。その昔、ヨーロッパでは、3、4、5月の3ヵ月間は結婚することが禁止されていて、結婚が解禁になる6月になっていっせいにカップルたちが結婚したからとか、ヨーロッパの6月は1年中で最も雨が少なく良いお天気が続くためとか、6月には復活祭があるから、とかとかです。

しかし、ネットで調べたところ、いろんな結婚業者さんの解説で一番多かったのは、英語の6月の意味のJuneに由来するもの。ギリシャ神話の主神ゼウスのお妃ヘラというおばさん女神は、ローマ名でユノ、英語名Juno。JuneはこのJunoがなまってできたことばだそうです。ヘラは女神の中でも最高位の女神なんだそうで、結婚・出産を司り、家庭・女性・子どもの守護神と云われているとか。

さぞかしこわい顔立ちのゴットねーちゃんなんだろうな、と思って画像検索してみたところ、昔の絵画や彫刻では、なかなかシックでおしとやかなおばさん、いや淑女として描かれているようです。それにしても、なんで昔の絵や彫刻に出てくる女神ってみんな裸なんでしょうか。服を着ていると人間と間違われるからかしら。人間ではない、ということは、トイレには行かんのかな~ とか妄想は膨らむ・・・

さて、なんで6月がJuneなのかというと、このヘラおばさんが守護している月が6月のためなんだそうです。ちなみに、私の誕生月3月の神様は農業の神マルスで、Marchはここからきたみたい。ほかにも5月の神はゼウスの子供のマイアが語源で、マイアから派生してMayになったみたいですね。12カ月分の神様を全部調べると日が暮れそうななんでこのへんでやめますが・・・

で、結論としては、ヨーロッパでは、6月の神様、ヘラを祭る祭礼が6月1日に催されたことから、結婚式を6月に挙げると女神ヘラの加護を受けて生涯幸せになれると云われる習慣ができたんだとか。

で、なんでここまでジューンブライドにこだわっているのかというと、かくいう我々夫婦が4年前に結婚式を挙げたのも6月だからです。が、実は、当初とくに6月に結婚式を挙げる予定はなく、式場の予約の関係からそうなっただけ。

法的な婚姻手続きである入籍そのものは、それに先立つところの2月14日に広島の五日市区役所で済ませていたものの(バレンタインデーというのも結構、ミーハーですが)、それじゃあ結婚式をどこで挙げようか、という話になったのは、そのあとだったかな。

その頃は、とくにどこでやらなければならないというのはなく、どうせやるなら、こぎれいなところがいいね~ という程度の話。タエさんのご両親は、お父さんが神社の宮司さんの息子だったこともあり、その神社、島根柿本人麻呂神社で結婚式を挙げています。なので、お二人にあやかって、どこかの神社という手もあるね、という話は出ていたかと思います。

一方、二人が交際を始めたころ、ちょっと海辺でお茶でもしようか、ということで立ち寄ったのが、広島市内の最南部、「宇品(うじな)」にある広島プリンスホテル。このホテルの一階ラウンジで二人でお茶をしながら、ぼんやり海を見て過ごした、という一時がありました。

結婚式をやるならあそこがいいんじゃない、と言い出したのはタエさん。入籍後にどこで結婚式をやるかを相談していたときのことです。私としても、すぐ目の前に海が広がるそのホテルの眺望は最初に訪れたときから気に入っていたので、タエさんの提案に、即、あ!いいね! と賛成。

そして、タエさんの提案はさらにエスカレート。ねえ、披露宴はプリンスホテルでやるとして、結婚式そのものは、宮島でやらない? と。

エッ、宮島!? と結構びっくりしたのを今でも覚えています。それもそのはず、宮島といえば、今や世界遺産にまでなっている広島でも一番有名な観光スポット。天橋立、松島とともにその名を全国にとどろかせている、日本三景のひとつです。

確かに、広島プリンスホテルは、海に面していて、そこからも目と鼻の先に宮島が見えます。宇品港から宮島へ向けての定期観光船も出ていて、タエさんの言うように、宮島で結婚式を挙げ、披露宴をプリンスホテルでやる、というのは不可能ではないのかもしれません。

その時は、まだそれが実現するとは思っていなかったのですが、やがてあれよあれよとそれが実現していくことに・・・

・・・ということで、今月は結婚記念日月間ということで、ムシャ&タエのこの結婚式にまつわるエピソードを紹介していこうと思います。世界遺産、厳島での結婚式。なかなか体験できるものではありません。今ふりかえると、いろいろ面白いエピソードもあったかと思うので、そのころのことを思い出しつつ、我々の結婚式にまつわるよもやま話を綴っていきたいと思います。乞うご期待。

 世界遺産 厳島神社

王様とわたし

庭造りが進行しています。一昨日までに、庭中にあった、切り株をほぼ全部取り除き、そのあとを平地にして、ようやく庭全体の形が見えてきました。昨日はその平らになった庭先のお隣との境界に板塀をとりつける準備を始めました。出来上がれば、総延長13mもある、過去の人生で一番長い塀になります。

しかし、それにしても、庭づくりの過程で発生した切り株や根っこを掘り出した大量の木ゴミをどうしようか、とかねがね悩んでいました。そうしたところ、家をリフォームするときにお世話になり、今も門回りのアプローチを作ってもらっている大工のTさんから、ウチの敷地に捨てるところがあるから、持って行ってあげるよ、というお申し出がありました。

これぞ渡りに船。ということで、早速早朝からTさんの軽トラックで木ゴミを出すことにし、Tさんにも手伝っていただいて、トラックに積み込みをはじめました。中には、切り株だけでなく、長さ2m、太さも15cmほどもある根っこや、高さ3mほどの切り倒した木などもあり、運びだしには結構難儀しましたが、Tさんにも手伝ってもらってなんとか全部運び出しに成功。搬出した木ゴミは軽トラックの荷台に山積みになるほどもあり、えー、これ全部自分で掘り起こしたんだ~ と感心。自分のことながら、人間、コツコツやればなんでもなんとかなるもんだな、と改めて思った次第です。

これで庭の隅に大量に盛り上げてあったゴミ捨ても終了し、あとは塀を作れば、本格的なガーデニングを始めることができるようになります。梅雨に入る前にある程度形になればいいや、と考えていたので、前倒しで作業がはかどった分、得した気分。それにしても、いつもいつも何かにつけ、助け舟を出してくださるTさんには頭が下がります。感謝感謝です。

ゴミの問題が片付き、ちょうどお昼になったので、ダイニングの椅子にどっこいしょと腰をおろしていたら、タエさんが話しかけてきました。去年の今頃は何をしていたのか、知っている? というのです。見ると、愛用の手帳を片手に去年の出来事を反芻していたご様子。えー、なんだっけかなーと、考えていると、この6月のはじめには、長野の伊那にあった物件にご執心で、そこを移住先としてほぼ決めかけていた時期のようです。これまでも何度も書いてきたように、その後、結局はその物件はあきらめ、伊豆地方に目を向けなおして新たに移住先探しを始めようとしていた時期・・・・・

あれからもう一年経ったのか、と思うと、感慨もひとしお。と同時に時の過ぎる速さにあらためてびっくり。でも、昨日書いたように、ここ一年の間に起こった出来事はあまりにも記憶に鮮明に残るようなできごとばかりだったので、今後ともきっと長らく思い出し、逆にあのときは長かったなー、などと思うのでしょう。

そしてもうすぐ、6月の20日を迎えます。この日は、何を隠そう私たちの結婚記念日。二人の故郷の広島、厳島神社で結婚式を挙げてから、今年で4年にもなるのです。結婚4年目は、「花婚式」というのだそうで、花が咲き、実がなるように、という意味が込められているそうです。ということは、今年はなんか花が咲くんかな~ とぼんやり考えてみたりするのですが、どうもイメージがわかん。が、今やっている庭造りが終われば、花も植えられるようになるし、なるほど花婚式にふさわしい年になるのかも。どんな花が咲く庭になるんでしょう。楽しみです。

ところで、先日から引っ張っているタエさんとの前世のかかわりのことです。ちょうど結婚式の話題になったので、このあたりで触れておこうかと思います。

わたしの前世はその昔、どこかの国のスパイだった、というお話はすでにしました。霊能者Sさんによれば、シルクロードなどを通って行商をしながら敵国の情勢をひそかに探っていたとのことで、そのときの人生は、どこかで掻き消えるように終わったようです。時期としては、11~13世紀のアラビアンナイトの時代だったとのこと。現在でいう、イランとかイラクあたりが拠点だったのでしょうか。こうしたわたしの前世にかかわるタエさんの前世はどういうものだったのか。気になるところです。

話は、先の結婚式に先立つちょうど一年ほど前、今から数えると5年ほど前のこと。わたしがSさんに初めてお会いしたときのことです。そのときSさんには、タエさんと私の前世を別々にリーディングしていただきました。わたしのリーディングが終わったあとに、タエさんの前世をみていただいたのですが、そうしたところ、Sさんが、突然、あーなるほどね、とおっしゃいました。

なんだろうなあ、と怪訝なふたり。おそるおそる聞いてみると、どうやらこういうことのようでした。

すなわち、タエさんの前世は、私がスパイをしていた同時代にある国を治める王様だったそうで、なんと、私はその王様のじきじきの家臣だったというのです。野心家?だったタエ王?は、その当時、領土を広げ、戦争をするために敵国の情勢を知る必要がありました。そのため、敵国のいろいろな情報を誰かに集めさせる必要があり、白羽の矢が当たったのが私。そして、密命を与え、敵国情勢を探るよう旅立たせたのです。

しかし、いろいろ情報を集めたあげく、自国へ帰る前、私は砂漠のどこかで客死してしまいます。こうして、わたしの帰りを今日か明日かと待っていた王様にはとうとうその情報は届かずじまい。その結果、タエ王の戦争がどういう結果になったかまではリーディング結果ではわかりませんでした。しかし、敵国情報をつかむことができなかったその国は、もしかしたら滅んでしまったのかもしれません。

このように、その前世での私とタエさんとの関係は主従関係ということだったようですが、Sさんによれば、その前世では、私が客死してしまったので、タエさんは私の能力を使い切れなかった。そのため、今生ではその能力を思う存分に使いたいと思っている。また、私はその情報を伝えることを果たせなかったため、それを今生で果たしたいと思っている、ということでした。

前世で主従関係だった二人。その時代から7~800年もたった現生で夫婦になるというのはどういう意味があるのだろう、と考えさせられてしまいます。そして、今日まで起こってきたことなどを踏まえ、その意味を改めて考えてみると、いろいろ思い当たるふしもあります。

そのひとつは、ここ伊豆へ移住してくるまでの家さがし。情報収集の得意な私は、せっせせっせと不動産情報を集め、それを整理してタエさんに提供。吟味して最終的な結論を出したのは二人の共同作業です。しかし、なんとなくタエさんの意見に従って決めたような気がしないでもない。

それから、引越しの作業にあたっての廃棄ゴミの処理、持ち込むべき荷物の選定、各種業者の選定と、後処理などなど。これもほとんどすべて私がやりましたが、おそらくタエさん一人では無理だったでしょう。もとスパイだった私を使うべくして使い、思う存分働かせている、と考えることができます。

このほかにも、私がいろいろ調べて彼女に報告、彼女が決定、というパターンは結構あるような気がする。うーん、前世おそるべし。

それにしても、男としては女にあごで使われている、というのはあまりいい気持ちではありませんが、前世でそういう主従関係だったふたりが夫婦になったのは、それが一番前世のカルマを解消する上で自然だったからだと思います。なぜ夫婦なのか、前世と同じ主従関係でもよかったのでは、とも思うのですが、今生で二人が出会ったタイミングや場所などを考えると夫婦という形が一番都合がいいのでしょう。夫婦のほうが、タエさんも私を使いやすいし、私としてもそういう関係のほうが、使われやすい。そう二人で相談し、今生に生まれてきたのだろう、と推察します。

タエさんにそのことをどう思うか聞いたことはありませんが、私自身、今世で彼女のために働いていることを楽しんでいる、という部分もあるように思いますので、確かに、Sさんのお見立ては当たっているように思うのです。

今後、さらに何十年も彼女と暮らし、そしてどちらかが死んでその関係が終わったとき、前世から持ち越したカルマは消化されるのでしょうか。おそらくはこれからも何かにつけ、タエさんに情報を渡し、それを彼女が消化して役立ていく・・・といった生活が続いていくのでしょう。それは私も楽し。タエさんも楽し、なのだと思います。そしてその関係が終わったあと、前世からの宿題はようやく終わるのです。そして、来世でもまたタエさんと関わる人生があるのかどうか、はたまた来世もまた、この地球に戻ってくるのかどうか・・・それは今まだわかりません。

が、これだけはいえそうです。現時点でも私はタエ王に十分な情報を届けることに成功していると・・・