切り捨て御免

台風一過のもと、秋の深まりが加速しているかんじがします。

あちこちでヒガンバナが咲いたとの便りが聞こえてきていますが、わが家の庭の曼珠沙華もようやく芽を吹き始めていて、今週末にも第一花が咲くのではないでしょうか。

それにしても… 解散総選挙だそうです。こんな時期に…

野党側にすれば、これから、というときに出鼻をくじかれたかんじ、与党側にすればしてやったり、と思っているのかもしれませんが、相手の弱みにつけこんで、こういうやり方で強硬手段に出る、というのはあまり良い印象のものではありません。

後世でどういう名前の解散総選挙になるのかわかりませんが、「抜き打ち」解散というよりは、「不意打ち」のイメージが強く、人によっては、「だまし打ち」解散と呼ぶひともいるかもしれません。

日本人は、不意打ち、だまし討ちといったことが嫌いです。先の大戦の真珠湾攻撃は、相手への警告が手違いで遅くなった、という理由はあったにせよ、そうなってしまいました。アメリカ人から卑怯者のレッテルを張られ、そう言われるようになったことについては、いまだに「恥」と感じている日本人は多いのではないでしょうか。

同じ日本人で「恥」という言葉を理解しているなら、もう少しやり方があるのではないか、と思うわけですが、数に任せてやりたい放題をやっている政党には、「厚顔無恥」の意味も分からないに違いありません。

都民選では大打撃受け、一度は死んだふりをしていましたが、ここへきて「いないいないバア」とばかりに突然の侵攻。何の準備も整っていない野党にとっては「弱いものいじめ」にほかなりません。

日本人は、こうした弱い者いじめも大嫌いです。「判官びいき」のことばにあるように、弱い立場に置かれている者に対しては、ついつい同情を寄せてしまう傾向にあります。なので、今回の解散も、国民感情を考えれば必ずしも与党の思う通りにはいかないのではないか、と思ったりもします。

とはいえ、あまりにも弱すぎる野党ばかりで、ひいきにするにしても頼りなく、じゃあ、いったいどうすればいいのよ、といったかんじです。




それにしても、ここまでこう書いてきて、日本語の中に「○○討ち」とされる用語があまりにも多いのに少しびっくりしています。

ほかに、「上意討ち」というのもあります。主君本人、またはその部下が主君の命で不都合をしでかした家来を討つことで、この場合の家来には武士のみならず中間や下男下女などの武士以外の奉公人も含まれており、理論的には日雇いの奉公人も対象となりました。

主従関係に基づく、こうした無礼討ちでは、主人が有する家臣への懲罰権の行使と考えられたため、合法な行為とみなされました。正当防衛云々は関係なく、懲罰であるため、殺害自体の刑事責任も問われません。

ただし、家来に対する管理能力に問題があるとみなされ「家中不取締」として御役御免や閉門といった処分を受けることもありました。また懲罰であるため、とどめを刺すことも許されるなど、無礼な行為と判断し手討ちにすることは主人の家来に対する特権として認められていました。

また、江戸時代には、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う「敵討ち(または仇討ち)」も認められていました。

殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていましたが、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められていました。

ただし、基本的には子が親の仇を討つなど、血縁関係がある親族のために行う復讐だけが認められていたわけであり、誰しもにリベンジが許されていたわけではありません。

こうした上意討ちや敵討ちは、武家社会の秩序を保ち、幕藩体制を維持するための観点から武士同士のいさかいを調停するために認められていたものです。しかし一方では、武士と武士だけでなく、武士と町民や農民などのトラブルが生じる場合もあり、こうした場合に許されていたものに、「切捨御免(きりすてごめん)」というのがあります。

苗字帯刀とともに武士に認められていた、階級を超えての殺人の特権であり、別名を「無礼討ち」ともいいます。ただし、「切捨御免」という言葉は近代になり、時代劇が流行るようになって、この中で使われるようになった用語です。史料においては「手討(ち)」「打捨」などと表現されていました。

武士が耐え難い「無礼」を受けた時は、相手の身分にかかわらず切っても処罰されないとされるもので、法律的には、江戸幕府が定めた「公事方御定書」の「第71条追加条」によって明記されていて、れっきとした合法行為です。

ただし、あくまでも正当防衛の一環であると認識されているため、上意討ちや敵討ちと違い、結果的に相手が死ぬことはあっても、とどめを刺さないのが通例でした。また無礼な行為とそれに対する切捨御免は連続している必要があり、以前行われた無礼を蒸し返しての切捨御免は処罰の対象となりました。

こちらも合法的な行為でしたが、その判定は極めて厳格だったそうで、実際に切り捨て御免を実施する場合には、命懸けでやる必要があったといいます。

と、いうのも、切り捨て御免を行使するためには、それなりのきちんとした理由がなければ許されない、とされており、れっきとした証拠がない限りは、逆に死刑となる可能性が大きかったためです。死刑までいかなくても、重い刑は必至であり、ましてや処罰を免れる例は極めてまれだったといいます。

そもそも切り捨て御免が行使される前提としては、武士である本人に対する相手の「無礼」な行為があることです。相手に対して失礼な態度を意味し、例えば目上あるいは年上の人に対して「お前」などといった言葉を使い、敬語を使わないなどがこれにあたります。

もっともこうした言動だけでなく、なんらかな無礼な「行為」の行使についても、「不法」「慮外」ととられるものについては対象となりました。ただ、その受け取り方については個人によって差異があったため、対象たりうるとされた「無礼」は、2段階に分類されて慎重に吟味されていました。

まず、第一段階としては、武士に対して故意に衝突、及び妨害行為があった場合で、これら一連の行為や言動が「無礼」「不法」「慮外」なものととらえられケースです。この段階では必ずしも手討ちには至るレベルとは限りませんが、武士に対してなんらかの「非礼」があったと認められる段階であり、後日それが認められた場合には何等かの処罰の対象になりました。

問題は第二段階目で、その行為が武士に対して著しい「名誉侵害」にあたると考えられ、かつその回復が不可能と判断された場合、および、その無礼が発言の身にとどまらず、何等かの生命を脅かす行為である場合には、「著しい無礼」と判断されました。すなわち相手からの「攻撃」があった場合であり、自身の身を守る「正当防衛」が成り立つ場合です。

この第二段階目に行った場合は、「切り捨て御免」となるわけですが、この後の行動にも規定があり、斬った後は速やかに役所に届出を行うことが義務付けられていたほか、その討ち捨てにどのような事情があったにせよ、人一人斬った責任の重みのため、20日以上に及ぶ自宅謹慎を申し付けられること、などでした。

また、斬った際の証拠品を検分のため一時押収されるとともに、無礼な行為とそれに対する正当性を立証する証人も必要とされました。

近年の時代劇では、武士が町民を切り捨ててそのままその場を立ち去る、といったシーンもよく放映されますが、実際にはそんな風に簡単には済まされません。法律的に「手討ち」の適用になる条件は極めて厳格であり、証人がいないなど、切捨御免として認定されない場合、その武士は処分を受けました。

この時代、武士の「切腹」は不始末が生じた場合にその責任をみずから判断し、自分自身で処置する覚悟を示すことで名誉を保つ社会的意味がありました。切り捨て御免の場合、最悪はその切腹も申し付けられず、斬首刑を受けるなど、「罪人」として扱われることもありました。

家の取り潰しと財産没収が行われる可能性も大いにあり、このため、本人謹慎中は家人及び郎党など家来・仲間が証人を血眼になって探したそうです。見つかりそうにない場合、評定の沙汰を待たずして自ら切腹する者が絶えなかったといいます。

もっともこれは首尾よく無礼討ちを完遂できた場合のことであって、時には手討ちを行おうとしたものの、相手に逃亡されて果たせなかった、といったこともありえます。

この場合、そうした「無礼討ち」を果たせないほど愚かなヤツ、とみなされ、相手に逃げられたことがつまびらかになった場合には、「武士の恥」といわんばかりに、不名誉とされ処罰の対象となることもあったそうです。

一方、上意討ち・無礼打ちを受ける側の方ですが、こちらも一方的にやられっぱなし、で放っておかれたわけではなかったようです。無礼を理不尽を感じた者は、両者にどのような身分差があっても、たとえ殺すことになっても刃向かうことが許されていました。

とくに、討たれる者が士分だった場合、必至で反撃しなければなりませんでした。何も抵抗せずにただ無礼打ちされた場合は、むしろ「不心得者である」とされてしまい、生き延びた場合でもお家の士分の剥奪、家財屋敷の没収など厳しい処分が待っていたからです。

無礼討ちをする相手に逃げられてもダメ、ただ単にやられっぱなしでもダメ、ということで、この当時の武士のトホホさがうかがわれますが、逆にいえばいかに武士の「名誉」が重んじられていたかがわかります。

このため、こと「切り捨て御免」といった事態に突入した場合には、無礼打ちする方も受ける方も必死になり、命懸けで臨まねばなりませんでした。いざそうしたトラブルが発生した場合には、武士の体面を賭けて、「真剣勝負」で臨むことが求められていました。

こうしたことから、無礼討ちをされる相手が帯刀していなかった場合などには、手討ちをする側も無腰の相手を切ったとしてお咎めを受けるケースがありました。このため、自分は太刀を持って優位に立った上で事に臨み、相手には脇差を持たせた上でけしかけ、刃向かわせてから即座に斬る、という場合もあったそうです。

ところが、相手がいつの場合も同じ武士とは限らないわけであり、こうした「武士道」を対手がいつも理解しているとは限りません。

記録に残っている中では、尾張藩家臣の“朋飼佐平治”なる武士が、雨傘を差して路上を歩いている際、ある町人と突き当たりました。佐平治が咎めたのにもかかわらず、この町人は無視してそのまま立ち去ろうとしたので、佐平治はそれを無礼とみなし町人を手討ちにしようとしました。

このとき、佐平治は無腰の町人を手討ちにするのを不本意と考え、自らの脇差を相手に渡して果たし合いの形式をとろうとしますが、あにはからんや、相手の町人はその脇差を持ったまま、遁走してしまいました。

そして、「あまれ(痴れ)、佐平治をふみたり(アホの佐平治を打ち負かしたのは俺だ)」、と触れ回ったといい、悪評を立てられた佐平治は、やむなく書き置きを残して出奔たといいます。しかしメンツをつぶされ、根にもっていたのでしょう。その後、このままでは捨て置かぬ、とこの町人の家を突き止め、女子供に至るまで撫で切りにしたといいます。

このほか、江戸時代には他領の領民に対して危害行為におよぶことはご法度でした。この時代、封建社会であったとはいえ、各大名がそれぞれの領地においてある程度独立した統治機構(藩)を形成しており、地方分権はある程度認められていました。

このことから、他領で切り捨て御免を行うことはたしなめられていました。仮に自分が属する藩以外の領地で切捨御免に及んだ場合、その切られた領民が属する藩主・領主への敵対的行為とされる恐れがあったためです。

これは幕府直轄地である江戸でも同じであり、江戸の町民に他藩の武士が危害を加えた場合は、江戸幕府への反逆行為とみなされる恐れがありました。

このため諸藩は江戸在勤者に対し、「町民と諍いを起こさずにくれぐれも自重すべき」旨の訓令をたびたび発していました。これを知っていた町民の中には、武士たちが簡単には斬れない事情を知り、粋をてらったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する言動をする者もいたといいます。

ただ、芝居小屋・銭湯といった人が大勢集まる場所で切り合いをされてはたまったものではありません。このため、こうした無用のトラブルを避けるため、江戸中期以降には、武士と町民がかち合う可能性のあるようなこうした公共施設では、だいたいのところで、刀を預ける「刀架所」が下足所の横に設けられていました。

また諸大名家は江戸町奉行の与力・同心には毎年のように付け届けを行うことで、万一そうしたトラブルがあった場合でも握りつぶしてもらうよう配慮していました。このため、彼らは正規の俸禄の数倍に相当する実収入を得ていたといいます。



以上のように切捨御免は武士の特権として一般的に認められてはいたものの、気ままに実行出来るようなものではありませんでした。正当な行為とは認められず、逆に「違法」とされるリスクも高かったため、実際に切捨御免を行い、認められた事案はそれほど多くはないといいます。

例外としては、明和五年に岡山藩士が幕領内で起こした無礼を理由とした手討ちについて、幕府道中奉行は無礼討ちに当たると認定してお咎め無しと判断、そればかりでなく当該行為を「御賞美」しました。

この岡山藩は、どうもこうした無礼討ちには寛容だったようで、ほかにも証人の証言を元にして無礼があったと認定されれば、無礼討ちと認定され処罰されなかった事例があったということです。

また、徳島藩では“林吉右衛門”なる人物が藩の禁令だった夜間の相撲見物をしていた際に町人を無礼討ちしたことがありました。この件については、相撲見物の件を咎める一方で無礼討ちの件では林吉右衛門を咎めなかったといいます。

同じく徳島藩の”星合茂右衛門”が家臣と銭湯入浴に出かけた際に町人を無礼討ちした件でも、藩の禁令だった家臣の入浴については咎められましたが、無礼討ちの件は咎められなかったそうです。

こうした無礼討ちの事例は、旗本奴(やっこ)といわれるようなかぶき者(遊び人)があふれていた江戸初期に見られましたが、江戸中期に減りはじめ、後期には殆ど見られなくなっていきました。

とはいえ、江戸期を通じて参勤交代終始行われていたため、江戸市中を諸大名や旗本が行列を作って通る場合などには、武士と町人の間のトラブルとしてたびたびあったようです。

宝永6年、“戸田内蔵助”なる武士の一行が江戸木挽町を通過した際、町人が偶然に行列を横切ろうとしました。お供の者がそれを咎めると、町人は逆に悪口を言ってきたため、お供が町人を掴んで投げ飛ばしました。

しかし、町人はさらに悪口を言ってきたため、籠の中からそれを見ていた内蔵助は町人の切り捨てを命じ、町人は無礼討ちにされました。後日この事件を幕府に届け出ましたが。お咎めは無かったといいます。

もっとも、江戸後期になると、こうした通行中のトラブルも減っていきました。江戸市中での行列では通行人の妨げにならぬよう行列の途中で間隔をあけ、通行人の横断が許可されるようになったためで、また、人命に係わる職業である医者と産婆の場合は、「通り抜け御免」として行列を遮ることが許可されるようになりました。

このほか、実際には、刃傷沙汰や喧嘩によって死者が出た場合でも、手討ちや無礼討ちとして処理される、といったこともあったようです。

西洋では「決闘」による名誉回復がありましたが、日本では基本的には敵討ち以外の「私闘」は認められていなかったためです。切捨御免は、その抜け道として使われることもあり、記録に残っていない刃傷沙汰はかなりあったに違いありません。

振り返って現代。

今回の解散総選挙もまた、与党が野党にしかけた「私闘」の様相です。弱いものいじめではあることは明らかですが、合法的ではあるがゆえにお咎めはなく、やはり抜け道として使われているような気がします。

抜き打ち、不意打ちに対抗するには、やはり「返り討ち」しかないと思うのですが、我々国民にとってのそれが何なのか、どうすればいいのか、今はまだみえないようです。




原爆と水爆 ~忘備録

ここのところ、毎週のように北朝鮮がミサイルを打ち上げており、この暴走国家をどう裁いていくか各国の度量が試されている、といった状況です。

北朝鮮は、このミサイルとは別に、先日は過去最大級の核実験も行っており、開発に成功したとされているのが水素爆弾(hydrogen bomb)です。

わかった気にはなっているものの、いったいどういうものなのかは理解していなかったので、今日はひとつ、忘備録としてこれを整理してみることにしました。

そもそも原爆とは何が違うのか、という点ですが、ひとくちに言うと、原子爆弾は「核分裂」であり、水素爆弾は「核融合」です。

まず、核分裂のほうですが、物理学者であるアインシュタインは、相対性理論によって、物質はその質量分だけエネルギーを持っているという事実を明らかにしました。例えば広島に投下された原子爆弾に使われていたウラン235という物質は、中性子を強制的にあててやると複数に「分裂」し、そのときエネルギーを発する、という性質を持っています。

ここで中性子とは何か、ですが、地球上の物質の多くは細かく分けていくと分子になります。分子はその物質の化学的な性質を保った最小の単位で、原子の組合わせでできており、この原子は100種類以上あります。

原子は電子と原子核でできており、ほとんどの原子核は陽子と中性子でできています(水素原子のほとんどは陽子のみ)。陽子は正の電荷を持った素粒子で、中性子は電荷ゼロ(中性)の素粒子です。ややこしいですが、ここまでを単純にまとめると、

分子→原子→(電子+原子核(→(陽子+中性子))

いうことになります。

ここで、原子核を構成する陽子、中性子の組み合わせは多数あるため、いろいろな原子ができますが、この原子核の種類を「核種」といいます。核種によってはその量子力学的バランスの不釣り合いから、「放射線(α線、β線、γ線など)」を放出するものがあります。

この放出を「放射性崩壊」と呼び崩壊現象を起こして他の核種に変化します。そしてこのような放射線を放出して放射性崩壊を起こす性質のことを放射能 (radioactivity) と呼びます。

一般的には放射線のことを放射能と呼ぶことが多いわけですが、もともとは「放射する能力」のことを指しているわけです。

ここで、「崩壊」と「分裂」の違いですが、この2つは似てはいますが別の現象です。「分裂」は原子核がその不安定さゆえに「割れる」ことで、中性子を当てるなどして無理やり分裂させることです。

一方、「崩壊」は原子核がその不安定さゆえに「欠ける」ことで、何もしないでも普通自然に起こる現象です。そして崩壊の段階でα、β、γなどの放射線が、「欠けた原子核の片割れ」として放出されます。

さて、通常の物質陽子と中性子は互いにπ(パイ)中間子を交換しながら安定な結合をしています(このパイ中間子こそが、当時大阪大学の講師であった湯川秀樹が、その存在を予言し、のちに確認されたものです)。が、他の物質に比べて不安定な放射性物質であるウランなどではここに余分な中性子を当てるとさらに不安定になって分裂が促進されます。

いくつかあるウランの種類はみんな不安定ですが、そのひとつ、ウラン235はそれがとくに著しい、つまり分裂速度が速く、原子核が中性子を吸収すると2つに分裂し、また、この際に2個ないし3個の中性子を出し、それによってさらに反応が続く…といったふうに加速していきます。

ちなみにウランは、地球上では安定して存在し続けられない元素であることが知られており、だんだんとエネルギー、つまり放射能を放出しながら崩壊して小さくなっていきます。その時間を半減期といいますが、ウラン238の半減期は約44億6800万年もあるのに対し、ウラン235の半減期は約7億380万年です。

このように半減期の長い放射能性物質はウランに限らず、ほかにもいくつか地球上に存在していますが、ウランの場合、現在の地球に天然に存在しているのは、ウラン238(地球上のウランの約99.274%を占める)、ウラン235(同0.7204%)、ウラン234(0.0054%)の3種だけです。

ウランと同じくよく耳にするのがプルトニウムですが、ウラン鉱石中にわずかに含まれており、天然ではウラン以上に希少です。原発の原子炉において、ウランが崩壊する過程でプルトニウムができるので、まあ言ってみれば姉妹の放射性物質といっていいでしょう。

ウラン238、238、234などはこれらは原子番号は等しいものの、質量数が異なる原子なので、「同位体」といいます。また、プルトニウムもプルトニウム239、プルトニウム241その他いくつかの同位体が存在しています。ちなみにプルトニウムはウランよりもかなり不安定な物質のため、原爆の開発の段階で危険とみなされてあまり利用されなくなりました。

強制的に当てた中性子を吸収し、分裂後に生成された物質をすべて足し合わせたウランの質量は、当初よりごくわずかに軽くなっています。足し合わせたのになぜ軽くなるか、ですが、その質量分が実はエネルギーとして外部に放出されているわけです。

通常は長~い時間をかけて「崩壊」しながら放出されるわけですが、無理やり「分裂」というやり方で放出を促進すると、このわずかな差分が、瞬時に途方もないエネルギーとして外部に放出されることになります。これを応用したものが、これすなわち原子爆弾です。

ウランやプルトニウムの分裂が瞬間的に進むように設計したものですが、分裂の速度があまりにも速いので結果として「爆発」という現象になります。

ちなみに、こうしたウランやプルトニウムは微量なエネルギーを何億年もかけて放出しますが、このエネルギーを生活に必要な程度に、かつ人類の時間感覚に合うようなスパンでゆっくり取り出すように設計されたのが、「原子力発電所」ということになります。



核分裂を利用した原爆の説明、ここまではよろしいでしょうか。

さて一方の水素爆弾のほうです。冒頭で述べたとおり、原子爆弾のような核分裂反応ではなく「核融合」反応を用います。

この核融合に用いる原子はウランではなく、「水素」です。水素をある条件で4つ組み合わせるとヘリウムという物質に変化しますが、水素4つの質量とヘリウムの質量を比較すると、足し合わせたのにも関わらず、ごくわずかにヘリウムの方が軽くなっています。このときわずかな質量変化ではありますが、膨大なエネルギーが出ます。

中性子を吸収したのに軽くなり、このとき大きなエネルギーが出す、といったところが核分裂と似ています。しかし、核分裂のように原子を「分裂」させるのではなく、逆に複数の物質を併せて「融合」させ、質量の差分をエネルギーとして取り出すのが核融合反応です。似たところはあるものの、その原理はまったく逆の発想から来ています。

このアイデアの発見は、そもそもは、「なぜ、太陽は何十億年も輝き続けられるのか?」という疑問から始まりました。「決して物が燃えているのではない、物が燃えているのであれば、数十年で燃え尽きるはずだ」という疑問から始まり、「太陽の中心部では、水素同士が融合してエネルギーを発しているにちがいない」という結論にたどりつきました。

そして研究が進み、太陽は基本的にその構成要素の73%を占める水素と水素同士を結合(融合)させ、その結果として膨大なエネルギーを生み出しているということがわかりました。

上で少し触れましたが、水素の原子核は中性子を持っておらず、陽子のみからなる原子核11個と電子1個からできており、非常に単純な構造であるとともに、この世で最も軽い元素です。

もっとも、水素のなかには、中性子が1個存在する「重水素」と、2個存在する「三重水素」という同位体があり、水爆の原料にはこの重水素や三重水素、あるいはリチウムなどを用います。が、説明がややこしくなるので、ここではこれらを説明しません。



で、何が言いたいかと言えば、水素原子は1個の陽子しか持っていない単純構造のため、原子核どうしが引き付けあう力(核力という)が元素の中では最も小さく、融合し易い元素です。宇宙が誕生した時は水素しかなく、そのうち水素が核融合して陽子2個のヘリウムが誕生したと言われていますが、その単純さがこの世界を生み出したわけです。

ここで疑問が生じます。それだけ融合し易い元素なら、地球上にある水素は絶えず融合して、いつもエネルギーを出せるようになるじゃないか、と誰もが思うでしょう。が、そうはなりません。水素核が融合するためには大きな条件が必要であり、それは「熱」と「圧力」です。

水素核を融合させるには、水素ガスの温度を1億℃以上、または圧力を地球の大気圧の1千億倍にしなければならないといわれています。これに比べれば鉄が溶ける温度はわずか 1500~1600度であり、通常の火薬を爆発させても1億℃というような超高温にはなりません。1億℃といえば、溶鉱炉の温度の6万倍もの温度になります。

そんな超高温は、普通では考えられないし、地球上の自然ではつくることもできませんから、水素核は融合することはない。従って、水素核が融合してエネルギーを放出する、といったことは、我々の周囲で日常的には起こらないのです。ちなみに宇宙の始まりのビッグバンの時には信じられない規模の高温高圧があり、大量の物質融合が進んだとされます。

この宇宙の形成過程においては、時間が経つにつれて、ほとんど一様に分布している物質の中でわずかに密度の高い部分が重力によってそばの物質を引き寄せてより高い密度に成長し、ガス雲や恒星、銀河、その他の今日見られる天文学的な構造を形作りました。

そしてその名残のひとつが太陽です。太陽の中心部には、この高温・高圧があります。太陽は地球よりも遥かに大きな星であり、その中心部ではとてつもなく大きな圧力が生じています。圧力が大きくなれば温度が上がるのはごく自然のことです。太陽の中心部では水素核を融合させるだけの温度と圧力があり、ゆえに核融合反応が生じているのです。

で、地球上で核融合を起こさせるためにはどうすればいいか。それなら太陽と同じような条件で高温高圧の状態を作り出せばいい、ということになります。ただ、普通のやり方ではそんな非日常の状態を生み出すことはできません。

もうおわかりでしょうが、そこで使用されるのが、「原子爆弾」です。水素核を融合させるために、原子爆弾の核分裂反応から生じる高温・高圧を利用します。

まず、原子爆弾を爆発(核分裂)させ、その爆発によって生じる高温と高圧によって水素が核融合を起こすほどのエネルギーが発生します。そして次々と水素核の核融合の連鎖反応を生じさせることによって、大きなエネルギーを生み出すのです。

つまり、核分裂爆弾が水素爆弾の起爆装置になっており、水爆とは原子爆弾を起爆装置とした複合爆弾ということになります。

ただ、そうしたアイデアは同じであるものの、各国で作っている水爆の構造形式は違っていると考えられています。ただ、それがどの程度違うのかはよくわかっていません。なぜかといえば、水爆の構造は重要な軍事機密であるため公式には公表されていないためです。

とはいえ、各国ともこうした爆弾に詳しい軍事アナリストがいて、その機密をある程度は解き明かしているようです。それによれば、どの水爆も、構造的には、3段階のプロセスを経て、最大限の力を出させようとするようになっているらしいことがわかっています。

まずは、一端が丸い円筒形や回転楕円体をした二つの容器が用意されます。ひとつの容器の中には核分裂速度の速いウラン235を用いた核分裂爆弾、つまり原子爆弾が置かれ、もう一方の容器の外層には核分裂反応の弱いウラン238などが使用されます。

そしてその内部には、核融合物質としての重水素化リチウム、更なる熱源として中心にはプルトニウム239などが置かれ、水素爆弾の核とされます。まるで具が二重三重に入ったおにぎりのような重厚さです。

この二つの容器はくっつけて瓢箪型のような形状にされる場合もあるし、また別の形になっている場合もあるようです。最近テレビで公開された北朝鮮のものは前者のもののようです。こうした形にされるのは円筒形であるミサイルに搭載しやすいからであり、ミサイルでない場合は別の形状でも良いわけです。

実際の核爆発においては、第1段階で、原子爆弾が起爆され、その核反応により放出された強力なX線とガンマ線、中性子線が直接に、または弾殻の球面に反射して爆発が起こります。第2段階ではこれに誘発された水素融合によって中心部で水素爆発が起き、最後の第3段階で、一番起爆しずらい外郭のウラン238の核爆発が起こります。

合計3回の爆発が生じることになりますが、これら3回の爆発は1秒の何万分の一という瞬時に発生しますから、ほとんど同時に爆発することになり、原爆の数百から数千倍もの破壊力を持ちます。

ウランなどを使った核分裂反応は物理的特性上、爆発力に上限がありますが、水爆の場合には、おにぎりの具である反応物質を、大量に投入すればするだけ、大きな核融合を誘発でき爆発力を増やすことができます。このため、広島、長崎に投下された原爆の何百倍、何千倍もの爆発力を持つ爆弾も理論的には製造可能となります。

もっとも、ここまではできるだけ説明を簡単にするために述べた構造であって、核融合反応を起こすための仕組みは原子爆弾よりも難易度が高く、はるかに複雑です。今回の北朝鮮の実験が本当に水爆なのかはまだ不透明ですが、もし事実であれば、彼の国の核開発技術はアメリカなど核先進国のものにかなり近い段階に進んだとみてよいでしょう。

こうした核実験は、1945年から約半世紀の間に2379回も各国で行われており、その内大気圏内は502回です。大気圏や水中核実験は環境への放射能汚染が著しいため最近は行われていません。

1998年にパキスタンが行った地下核実験(原爆)以降は、北朝鮮以外の国で実験を行った国はありません(アメリカは“Zマシン”という室内核融合実験装置で2010年に実験を行ったとされる)が、その北朝鮮による実験は今回のもので8回目にもなります。

回数を重ねるごとに規模が大きくなってきており、完成度も高まっているのではないかと指摘されているようですが、はたしてこれで最後かどうかといえば、現時点では判断できる材料は何もないようです。

地下核実験の場合、核爆発が完全に地中で収束した場合には、放射性降下物は殆ど発生しません。しかし爆発によって地面に穴が空いてしまった場合には、そこから大量の放射性物質が噴出してしまう可能性もあります。

技術レベルが未知な国がやる核実験でその可能性がないとはいえず、万が一そうした事態になれば、ほぼ隣国といえる我が国においては深刻な事態が発生しないとは限りません。

国連ならびに関連諸国の共闘により、今後実験を行わせない方向性に持っていくことが最善であることは言うまでもありません。



養老の日に向けて

台風が接近中とのことで、せっかくの三連休の先行きを心配している人も多いでしょう。

ところで何の休日だったかなと?? と改めてカレンダーを見てみると敬老の日…

まてよ、15日じゃなかったけかな、と思って調べてみたところ、2003年(平成15年)から9月第3月曜日になったようです。

2001年(平成13年)に成立した祝日法改正、いわゆるハッピーマンデー制度の実施によるもので、もう10年以上もそうなっているのに気が付かないとはボケたもんだな~と思うわけです。

が、会社勤めをやめてからは、毎日遊んでいるというわけではありませんが、時間感覚的には日々が休日のようなものなので、言い訳にはなりませんが、これまではあまり意識してこなかったわけでもあります。



ただ、初年度の2003年の9月第3月曜日が偶然9月15日であったため、9月15日以外の日付になったのは、2004年(平成16年)の9月20日が最初だそうです。で、今年は18日。

私のように覚えが悪い人間がいることなどを考えると、毎年、日にちが変わるのは、敬老会の予定を組んだりするうえでいろいろ問題があったりするのではないかな、と思ったりもします。

するとやはり、導入当初はいろいろあったようで、敬老の日を第3月曜日に移すにあたっては、財団法人全国老人クラブ連合会(全老連)が反対を表明したそうです。長年親しんできた日にちを変更されるというのは心理的にも抵抗があるし、正月や端午の節句のような正式な?休日に比べて格下げになったような気分もあるからでしょう。

それにしてもなぜこの日が敬老の日なのか?といえば、これは、1947年(昭和22年)9月15日に兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町八千代区)で、村主催の「敬老会」を開催したのが始まりなのだとか。

これは、この当時、野間谷村の村長であった「門脇政夫(故人 2010年逝去)」という方が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開いたもので、9月15日という日取りは、農閑期にあたり気候も良い9月中旬ということで決められたのだそうです。

2013年からのハッピーマンデー法によるこの祝日の変更に関しては、当時存命であった、この門脇政夫さんも日付の変更について遺憾の意を表明したそうです。

休日への昇格?にあたってはいろいろなご苦労がおありだったようで、なんでもかんでもパッパぱっぱと変えてしまうお役人のやり方には反発もあったでしょう。

この9月15日という日を門脇政夫さんらが決めたのは、上述のように農閑期で気候がいいことなどに加え、「養老」にまつわる話なども参考にしたといいます。

岐阜県養老郡養老町に「養老の滝」というのがあります。落差32m、幅4mの滝、「日本の滝百選」や「名水百選」に選定されています。ここに「養老の滝伝説」というのがあり、これは、古今著聞集に記載されているもので、「養老孝子伝説」ともいいます。

“親孝行の伝説”とされる故事で、その昔、美濃の国に、源丞内(げんじょうない)という貧しい若者がいました。丞内は、毎日老父を家に残しては、山へ薪を拾いに行き、それを売って日々の糧を得ていましたが、時には父親のために酒を買うこともありました。

老父は、目が不自由で日々酒だけが楽しみでしたが、ただ、さすがに毎日高価な酒を与えるというわけにはいきません。そんなある日、丞内は薪ひろいに疲れてしまい、山の中で転んで眠ってしまいました。そうしたところ、夢うつつのなか、プーンといい匂いがします。

はっと気が付いて目を覚ますと、小さな泉があり、そこからはなんと、香り高い酒がこんこんと湧き出ているではありませんか!源丞内は喜んで、瓢箪にその酒を汲み、持ち帰って老父に与えました。すると、みるみるうちに老父の目が見えるようになりました。

源丞内はほかの村人にも酒を分け与えましたが、不自由な体を直すということで有名になり、泉の酒を売ってお金持ちにもなりました。

この「養老の酒」の噂は、この当時の帝の耳にまで達し、帝は親孝行の丞内をほめたたえるとともに、源丞内を取り立て、美濃の守に任じたとのこと…めでたしめでたし。



このはなしは、夢物語、というばかりではなく、実際、霊亀3年(717年)9月に滝を訪れた元正天皇(680~748)は、この泉を訪れています。飲んで、そのおいしさに驚嘆し、「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋(けだ)し水の精なればなり」と称賛したそうです。

まるで水の精が創ったような銘水だ、これを民に知らしめ、老を養わせるとしよう、というわけで、元正天皇はそれだけではなく、「天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」との詔を出し、この年から年号を「養老」に改元しました。また、元号が変わったこの年には、全国の高齢者に賜品まで下したといいます。

このほか、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日が593年9月15日だった、という話もあり、これが養老の日と結びついたという説もあります。四天王寺は、大阪市天王寺区にあるお寺さんで、寺院蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のもの。国宝、重要文化財で埋め尽くされているような寺です。

悲田院(ひでんいん)は、四箇院(しこいん)の一つとして建てられたものです。四箇院とは悲田院に敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)合せたもので、これは現在の医科学大学のようなものです。

非田院とは、身よりのないお年寄りなどを受け入れる施設、療田院とは、今日の病院と同じ病気を治療するところ、施薬院とは、薬を調合して施薬する薬剤師のいる場所、敬田院とは、仏教の経典を学ぶ寺院で、つまり現在の大学のような場所です。

現在の四天王寺には悲田院のあとは残っていないようですが、四天王寺のある大阪市天王寺区内には、悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)があり、地名としては残っています。このほか京都市東山区の泉涌寺の塔頭の一つとして悲田院があります。

上の門脇政夫さんも、敬老の日を決めるとき、養老の滝伝説だけでなく、この四天王寺の話なども知っていたようです。

その当時のもう少し詳しい経緯について書くと、そもそも1948年7月に制定された「国民の祝日に関する法律」においては、こどもの日、成人の日は定められてはいたものの、老人のための祝日は定められていませんでした。

このため門脇さんは、自らが提唱して開催されるようになった敬老会のうち、1948年9月15日に開催された第2回「敬老会」において、9月15日を「としよりの日」として村独自の祝日とすることを提唱しました。ちなみに、このときの門脇村長は、37歳であり、やり手バリバリの活動家だったようです。

その後、県内市町村にも祝日制定を働き掛けたところ、その趣旨への賛同が広がっていき、1950年(昭和25年)には、ついに兵庫県が「としよりの日」を制定するに至ります。1951年(昭和26年)には中央社会福祉協議会(現全国社会福祉協議会)が9月15日を「としよりの日」と定め、9月15日から21日までの1週間を運動週間としました。

こうした動きを受け、国も動きます。1963年(昭和38年)には、「老人福祉法」が制定され、ここに、9月15日が老人の日、9月15日から21日までが老人週間として定められ、翌1964年(昭和39年)から実施されるようになりました。

さらに1966年(昭和41年)に国民の祝日に関する法律が改正されて国民の祝日「敬老の日」に制定されるとともに、老人福祉法でも「老人の日」が「敬老の日」に改められました。

以来、2012年までのおよそ半世紀にわたって9月15日が敬老の日であったわけですが、その「伝統」もいまやなくなり、毎週9月第三月曜日がこの日、と定められるようになったわけです。

もっとも、伝統という意味では、9月には、重陽(ちょうよう)という五節句の一つがあります。旧暦9月9日のことで、現在では10月にあたり菊が咲く季節であることから、菊の節句とも呼ばれ、邪気を払い長寿を願う日でした。菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしたといい、酒という点では上の養老伝説ともつながります。

現在では、他の節句と比べてあまり実施されていませんが、このことからもやはり9月10月というのは老いをいたわるにはちょうど良い季節のようです。

アメリカでも、9月の第一月曜日の次の日曜日がNational Grandparents Day(祖父母の日)とされているほか、エストニアでは9月の第2日曜日、ドイツでは10月の第2日曜日、イタリア10月2日といった具合です。

韓国でも10月2日が「老人の日」として記念日になっているほか、10月は「敬老の月」として記念月間に指定されています。重陽の習慣の輸入元、中国でも旧暦9月9日を「高齢者の日」と定めています。

さらに国際連合は、高齢者の権利や高齢者の虐待撤廃などの意識向上を目的として、1990年12月に毎年10月1日を「国際高齢者デー」とすることを採択し、1991年から国際デーとして運用しています。



日本の高齢者も毎年のよう増え続けており、高齢者人口は3186万人で過去最多総人口に占める割合は25.0%で過去最高となり、4人に1人が高齢者 65歳以上の高齢者という時代になっています。

100歳以上の人のことを、「センテナリアン」といいます。日本はアメリカ合衆国に次いで2番目に数が多く、推計51000人超もセンテナリアンがいるそうです。

国際連合は2009年、世界中に推計45万5000人のセンテナリアンがいると発表しており、まさに地球はセンテナリアン時代に突入しようとしているようです。

敬老の日を提唱した門脇さんは、1967年(昭和42年)から1979年(昭和54年)まで3期12年にわたり兵庫県議会議員を務め、自民党県議団幹事長、農林常任委員会委員長などを務めました。

2010年2月19日、急性呼吸不全により98歳で亡くなりましたから、もう2年長く生きていただいたなら、センテナリアンでした。

日本では、100歳の百寿を迎えた人には銀杯と共に総理大臣から祝状が送られ、長寿と生涯の繁栄を祝されるといい、アメリカ合衆国では、伝統的に大統領が手紙を送り、長寿のお祝いとしています。

このほかスウェーデンでは国王又は女王から電報が届くといい、多くの文化において、100歳の誕生日に贈り物を進呈するなど、何らかの祝賀を行う国は多いようです。

なので、ご近所にもし今度の敬老の日にセンテナリアンになる方がいらっしゃったら、銀杯とはいいませんが、せめてお祝いのお酒など差し上げてみてはいかがでしょうか。先手なり?あーん?と誤解されるかもしれませんが、喜ばれること必至です。

それにしても高齢化社会の中、我々もまたその予備軍ではあることには違いありません。高齢者予備軍のボクやワタシ、そして何も人生でいいことがなかったと思っているあなた。そんなことはありません。

長く生きていさえすれば、やがて国から表彰されるのです。センテナリアンを目指してお互い頑張りましょう。



宇宙戦争

最近、ニュースといえば、北朝鮮のミサイルや核開発の話題ばかりです。

少々うんざり気味ではあるのですが、わが国、いや全世界を滅ぼしかねない最終兵器を持つ暴走国家の動向から目が離せないのはあたりまえであり、いたしかたないこととは思っています。

それにしても、かつては夢物語と思っていた核戦争や宇宙戦争といったものが現実的になりつつある時代なのかな… と夏バテで少々ふやけ気味の頭でぼんやりと考えていたりもしています。

ところで、宇宙戦争といえば、やはり巨匠ジョージ・ルーカスの大作、スターウォーズがまっ先に思い浮かびます。しかし、イギリスの作家H・G・ウェルズが1898年に発表した小説にも同名のものがあり、SFの古典として今も高く評価されています。

原題は、”The War of the Worlds” となっており、“wolds”は直訳すれば「世界同士」となります。「地球人の世界」と「火星人の世界」の2つの「世界」が争いを描いた話であり、その後こうした架空の宇宙人とのあいだで戦闘が勃発する、といったモチーフを用いた小説や映画が繰り返し創作されてきました。

映画として中でも有名なのは、戦後の1953年9月に公開された「宇宙戦争」で、製作はSF映画の製作者として名高いジョージ・パル。H・G・ウェルズ作の翻案で、舞台は20世紀半ばのカリフォルニア。映画の中で登場する火星人の戦闘機はエイのような形をしており、1本の触角を生やしていました。

また、1996年に7月に公開された「インデペンデンス・デイ(ローランド・エメリッヒ監督、ウィル・スミス主演)」。こちらはかなり原作とは異なったものとなりましたが、多数のCGを駆使し、ジョージ・パル版同様、非常に凝った爆発シーンやアクションが多数あったことが受け、大ヒットました。

一番最近では、2005年、巨匠スティーヴン・スピルバーグ監督により再び映画化された「宇宙戦争」があります。巨大なマシンを操り地球を攻撃する宇宙人に対して、必死の抵抗を試みる人々を描いた映画で、トム・クルーズとダコタ・ファニングという人気の俳優の主演ということもあり、そこそこヒットしたようです。

未知との遭遇」「E.T.」と過去に人類に友好的な異星人との交流を扱った作品を手掛けてきたスピルバーグが、一転して宇宙侵略物の古典の映画化に挑んだ本作は、2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件で受けたアメリカに住む人々の衝撃・思いを反映して製作された、といいます。

映画には墜落したジャンボ旅客機、掲示板に貼られた無数の人探しの張り紙、といった舞台装置が登場していますが、映画のメイキングでスピルバーグも公言している通り、これらは9.11のテロを連想させるため、あえて描いたものだそうです。

本作もH・G・ウェルズの小説を原作としていますが、それだけではなく、1938年にオーソン・ウェルズの演出で発表され、一世を風靡したラジオドラマ版の要素をも引用して製作されたといいます。




そのH.G.ウェルズのオリジナルの「宇宙戦争」のあらすじを少し書いておきましょう。

9世紀6月の金曜日の未明、イギリスは、ウィンチェスター上空で緑色の流れ星が観測され、天文学者のオーグルビーは、この流れ星がロンドン南西ウォーキング付近に落ちているのを発見。それは直径およそ30mほどもある巨大な円筒形をした宇宙船でした。

見物人が群がる中、円筒の蓋が開いて醜悪な火星人が現れ、彼らが円筒に近づいた途端、目に見えない熱線が人々を焼き払います。熱線は恐るべき威力で、人間や動物を含め、周囲の木々や茂み、木造家屋などが一瞬で炎に包まれました。

その夜、英国軍が出動しますが、十分に攻撃体制が整わないうちに、火星人の第二、第三の円筒が落下(着陸)します。翌日・土曜の午後にようやく軍隊の攻撃が始まりますが、今度は円筒の中から屋根よりも高い3本脚の戦闘機械(トライポッド)が登場し、あたりの街の破壊の限りを尽くし始めます。

これに対して出動した英国軍は全滅。さらに翌日の午後には、テムズ河畔に火星人の戦闘機械5体が現れますが、英国軍の砲撃で戦闘機械の1体を撃破。一旦は撃退に成功します。しかし、火星人はその夜から、さらに新兵器を投入。液体のような黒い毒ガスと熱線を使う攻撃に戦法を変更し、軍を撃破してロンドンへと向かいます。

月曜日の未明になるとさらに火星人の進撃は続き、ロンドン市民はパニック状態で逃げ惑います。軍隊は総崩れ。英国政府は「もはや火星人の侵攻を阻止し、ロンドンを防衛するのは不可能である。黒い毒ガスからは逃げるより他にない」と避難勧告を出しました。

その日英仏海峡に現れた火星人の戦闘機械3体に対し、沖にいた駆逐艦サンダーチャイルドは、戦闘機械目がけて突進し、砲撃で撃破。2体目に迫る途中、熱線を受けて大爆発するも、体当たりで2体目も撃破するなど善戦をしました。3体目の戦闘機械は逃げ去りますが、その後もイギリス本土への火星人の円筒の落下は続きます。

ところが15日目の朝、突然火星人の進撃が止まります。火星人に襲撃され、あと一歩で捕まりそうになり、廃屋に閉じこもっていた主人公、オーグルビーが思い切って外に出ると、火星人らは姿を消していました。

静寂に包まれたロンドンに入った彼は、そこで戦闘機械を見つけます。死を決意し近づいていきますが、そこで見たものは火星人の死体でした。のちに判明したのは、彼らを倒したのは人間の武器や策略ではなく、太古に造物主が創造した微生物ということでした。

微生物に対する免疫がない火星人は地球に襲来し、呼吸し、飲食し始めた時から死にゆく運命だったのです。やがて人々は破壊された街へ舞い戻り、今度こそは宇宙人に負けない国づくり、いや星づくりをと、復興が始まりました…

原作は、1890年代後半にイギリスの雑誌や新聞に連載されていましたが、1898年に最終版が出版され、それ以来、現在に至るまで重版が続いています。この初版本の公表に先立ち、アメリカでは2回の無許可の連載が新聞に出されました。

最初は1897年12月から1898年1月までニューヨーク・イブニング・ジャーナルに掲載されたもので、物語の舞台はニューヨークに変えられていました。また第二の連載では、火星人が現れたのがボストン近郊になっていました。

その後、アメリカでも正式に出版されて人気を博しましたが、1938年10月30日には、ハロウィン特別番組として、アメリカCBSのラジオ番組「マーキュリー放送劇場(The Mercury Theatre on the Air)」の中で放送されました。

番組は、音楽中継の途中に突如として臨時ニュースとして火星人の侵略が報じられるという体裁になっており、物語の舞台は、先の新聞連載と同じく、アメリカ合衆国に実在する各地の地名に改変されていました。

ところが、この生放送を多くの人が本物だと信じました。侵略がフィクションである旨を告げる「お断り」が何度もあったと言われますが、そのうちの1度は放送開始直後、残り2度は終了間際でした。このため、聴取者の多くが話に夢中で、この「お断り」を聞きのがしたと考えられています。結果として多くの聴取者を混乱と恐怖に落としめ、実際の火星人侵略が進行中であると信じさせました。

無論、原作本を読んでいた人も多くいて、すぐにおかしいなと感じた人も多かったようです。番組の内容がウェルズの「宇宙戦争」であることに気がついた人や、番組内容の非現実的なディテールに気がついた人などは、他のラジオ局で同様の放送をやっているか確認したり、新聞の番組表を見直すなどして事実を掴みました。

しかし、同じように番組を聴いていてパニックに襲われ、混乱していた人に確認の電話をかけてしまい、逆に感化されてしまった人も多かったようです。こうして、正確な知識や情報を得られず、明確な根拠も無い人が増え、そのままに広まる、いわゆる「デマゴーグ」が全米中に連鎖的に広まりました。

「マーキュリー劇場」は、もともと聴取率が非常に低い不人気番組であり、「宇宙戦争」の前週の聴取率はわずか3.6%でした。しかし、たまたまこのとき、裏番組では当時アメリカ国民の3人に1人以上が聴取していたという“The Chase and Sanborn Hour(チェースとサンボーンの時間)”というコメディ番組をやっていました。

ちょうど宇宙戦争のほうがが始まったとき、この国民的人気を誇る裏番組に、なぜか超不人気の歌手が登場したといい、多くの人が局を変えた瞬間、たまたま火星人によるニュージャージー州襲撃のくだりが放送されました。その迫真のナレーションが、パニックに拍車を掛けたもうひとつの原因といわれています。

さらに1938年といえば、ちょうどこのころヨーロッパでは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方帰属問題をめぐってナチス・ドイツと欧米列強が緊張関係にありました。アメリカ国民の間でもヨーロッパで戦争が勃発して自国も巻き込まれるかもしれないという懸念が膨らみつつあった時期であり、このため、火星人による襲撃をドイツ軍による攻撃と勘違いした住民も多かったようです。

ナチス・ドイツの台頭により、開戦への緊張感が高まっている時代であったことも関係したわけですが、さらに混乱に拍車をかけたのは、この作品をプロデュースしたのが、天才脚本家といわれたオーソン・ウェルズであったことです。

子供のころから、詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児といわれたウェルズですが、このころは人気俳優として人気絶頂でした。劇団「マーキュリー劇場」を主宰し、シェークスピアを斬新に解釈するなどさまざまな実験的な公演を行って高く評価され、1936年、ラジオにも進出し、CBSのラジオドラマのディレクターも始めていました。

オリジナルの「宇宙戦争」の舞台はイギリスでしたが、これを放送する際には、舞台を現代アメリカに変え、またその出だしもヒンデンブルク号炎上を彷彿とさせるような臨時ニュースで始めました。そしてウェルズ自らが演じる「目撃者」による回想を元にしたドキュメンタリー形式のドラマとして番組をスタートさせしました。

この前例のない構成や演出と迫真の演技は、生放送のニュースと間違うほどの出来であり、結果として聴取者から本物のニュースと間違われ、パニックを引き起こすに至ります。おそらく歴史上最も成功したラジオドラマ作品だったといえるでしょう。



この事件でウェルズは全米に名を知られるようになり、それまでスポンサーの付かなかったこの番組は、その後キャンベル・スープ社の提供による“The Campbell Playhouse”に改題して1940年3月まで継続しました。その後も1950年代半ばまで、ウェルズはラジオ番組に関わり続け、多くの印象的な番組を残しています。

しかし、オーソン・ウェルズの演出が素晴らしかったにせよ、H.G.ウェルズの原作はそれ以上に説得力のあるものでした。臨場感あふれる描写にあふれていたことが人を惑わせた理由と考えられます。原作本の作者もウェルズなら、ラジオ演出もウェルズであり、この名前の人には天才的なストーリーテラーがが多いのかもしれません。

それにしても原作が発表された1898年といえば、日本はまだ明治31年であり、3年前の1895年(明治28年)には、日清戦争が終了したばかりのころです。この戦争の勝利によって軽工業を中心とする産業革命が本格化、1901年(明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である官営八幡製鉄所が開業したばかりです。こうしたことなどで、ようやく日本においても重工業とよばれるべき産業の端緒が形成されはじめた、といった時代です。

もっともイギリスはこの時期、パクス・ブリタニカ(Pax Britanica:イギリスの平和)と呼ばれた時代を迎えており、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていました。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、世界中から資本が集まっていました。

産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を情勢に応じて使い分け覇権国家として栄えた時代であり、H.G.ウェルズのような想像力のある人間が書いたSFを人々が単なる夢物語と受け取らず、将来的な自分の国の姿としても十分にありうる、と考えうる下地が整っていた、ということでしょう。

ただ、H.G.ウェルズという人(正確にはハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells))は科学者でも研究者でもなく、単なる文筆業家、つまり作家にすぎませんでした。作家になる以前は、呉服商や薬局の徒弟奉公、見習い教師などを経験していますが、いずれも長く続かなかったといいます。

子供の頃から教員を目指していたようですが、このころのイギリスの教育界は、極めて保守的だったといわれており、丁稚奉公をしていたような青年を受け入れるような寛容さは持ち合わせていませんでした。また、父は商人でしたが、家庭は下層中流階級に属しており、けっして裕福ではありませんでした。

このため、奨学金でサウス・ケンジントンの科学師範学校(現インペリアル・カレッジ)に入学。このころ「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護したことで知られる生物学者、トマス・ヘンリー・ハクスリーの下で生物学を学び、進化論には生涯を通じて影響を受けることになります。

これをきっかけに学生誌「サイエンス・スクールズ・ジャーナル」に寄稿し、22歳のときに掲載された「時の探検家たち」は、のちの「タイム・マシン」の原型となりました。また、25歳のときには、四次元の世界について述べた論文「単一性の再発見」がイギリスの評論雑誌「フォート・ナイトリ・レヴュー」に掲載されたりしました。

師範学校を卒業後、ヘンリー・ハウス・スクール(高校?)で教職に就きます。このころ、ウェルズは彼のいとこイザベル・メアリー・ウェルズと結婚しますが、3年後には離婚し、肺をわずらったこともあり、教師の道はあきらめ、文筆活動へ進むことを決意します。

その後、エイミー・キャサリンと再婚。このころから「アーティスト」としての活動にも取り組んでおり、かなりの枚数の絵を描いています。日記で自己表現をすることも多く、このころは政治的解説から現代文学への彼の気持ち、現在のロマンチックな興味に至るまで幅広い話題を取り上げています。

多数の絵やスケッチを残しており、彼はこれらの写真を “picshuas”(ピシャウス)と呼んでいますが、今風の漫画とスケッチを足して二で割ったような絵です。これらのpicshuasは、長年にわたってウェルズの学者による研究の話題となっているとともに、骨董の世界ではかなりの高額で取引されているようです。

その後ウェルズはジャーナリストとなり、「ペルル・メル・ガゼット」といった保守層を対象とした新聞にのちのSFの元になるような幻想小説を書いたり、総合科学技術誌「ネイチャー」に寄稿したりするようになります。

1890年代から1900年代初頭にかけて、「タイム・マシン」(1895年)をはじめ、「モロー博士の島」、「透明人間」、そして「宇宙戦争」など現在に至るまでも名作といわれるような有名作品の数々を発表しました。これら初期の作品には、科学知識に裏打ちされた空想小説が多く、ウェルズ自身は「科学ロマンス」と呼んでいました。

晩年は、人権家としての社会活動に携わり、歴史家としても多くの業績を遺しました。が、生涯を通して糖尿病、腎臓病、神経炎などさまざまな疾患と戦いながら仕事を続けたといいます。

満79歳のとき肝臓ガンが悪化して逝去。ロンドンの友人のフラットで亡くなったといい、直接的な死因は臓発作だったようです。

その生涯における創作活動の結果は膨大で、とくに後世でもよく扱われるSF的題材を数多く生み出し、また発展させた事で評価を得ており、小説家としてはジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれます。

社会活動家としては、50~60代に「新百科全書運動」を展開しています。世界平和の基盤となる新世界秩序のための知識と思想を集大成させる、としたもので、これに関する著書「世界の頭脳」を執筆。この中では、書籍の形態をとらない世界規模の百科事典を構想しており、これは現在のウィキペディアの構造を予言していたとも言われます。

また、自らが糖尿病を患っていたこともあり、1934年、糖尿病患者協会の設立を「タイムズ」紙上で国民に呼びかけました。これにより、国家規模での糖尿病患者協会が初めて設立されました。

ウェルズが書いた小説のひとつ、「解放された世界」は、SFでもありましたが、原子核反応による強力な爆弾を用いた世界戦争と、戦後の世界政府誕生を描いた社会小説の面もありました。核反応による爆弾は、原子爆弾を予見したとされ、ハンガリー出身の科学者レオ・シラードは、この小説に触発されて核連鎖反応の可能性を予期し、実際にマンハッタン計画につながるアメリカの原子爆弾開発に影響を与えたといいます。

また、ウェルズは、第一次世界大戦中に論文「戦争を終わらせる戦争」を執筆。大戦後に戦争と主権国家の根絶を考え、国際連盟を樹立すべく尽力しました。しかし、結果的に発足した国際連盟はウェルズの構想とは異なり国家主権を残す様相を示すようになったため、彼はその後「瓶の中の小人」という論文で国際連盟を批判しています。のちに発足した「国際連合」も同様に批判していました。

第一次大戦と二次大戦の二つの大戦を経験した彼は、戦争に翻弄される多くの人々をみて、「人権」にも言及しました。1939年には「人権宣言」についての書簡を「タイムズ」とルーズベルトに送るととともに、これを世界中の指導者に送っています。

知る権利、思想と信仰の自由、働く権利、暴力からの自由などを示したもので、これをもとに、1940年には、イギリスの貴族院議員所属の裁判官、ジョン・サンキーが議長を務める「サンキー委員会」にちなんで「サンキー権利章典」が創られました。11の基本的人権を含んでおり、これは以下の通りです。

人生への権利
未成年者の保護
コミュニティに対する義務
知識の権利
思考と崇拝の自由
仕事の権利
個人所有権
動きの自由
個人的自由
暴力からの自由
法の制定の権利

この権利宣言は、1941年1月6日に公表されたアメリカ大統領、ルーズベルトの一般教書の中の「四つの自由」を包含しています。さらにのちの1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択された「世界人権宣言」などに影響を与えたとされ、さらには戦後の新日本国憲法の原案作成に大きな影響を与えたとされます。

特に日本国憲法9条の平和主義と戦力の不保持は、ウェルズの人権思想が色濃く反映されている、といいます。原案では、全ての国に「戦争放棄」を適用して初めて自由が得られる、といったことが記されていようです。しかし、結果として日本のみにしか実現しなかったことで世界平和の達成は遠い先の話になった、といったことが言われているようです。

また、ウェルズの原案から日本国憲法の制定までに様々な改変が行われた結果が、現状の憲法9条だといいます。そして、このあたりのことが、現在活発に議論されるようになった改正議論の原因のひとつにもなっているともいわれているようです。

ウェルズが、晩年にこうした人権運動に走るようになったのは、自らが創作したSFの世界での世界平和の延長線上の行為であったことは想像に難くありません。

また、「戦争を終わらせる戦争」とは人類世界のためだけのものではなく、今後実際にありうるかもしれない宇宙人の世界との戦いの中で必要になってくるものなのかもしれません。

2017年も暮れに近づいてきました。残る時間の中、宇宙人との接触はあるでしょうか。




赤とんぼの色は?

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9月になりました。

まだまだ秋本番にはほど遠いようですが、朝晩かなり冷え込むようになり、日が短くなってきました。私の大嫌いな夏も遠からず終わりを告げるのは確かであり、いずれ、そこここを赤とんぼが飛び回るようになるのでしょう。

トンボは漢字で「蜻蛉」と書くようですが、この赤とんぼは、「赤卒」とも書くようです。

中国語でもこれで通じるようですが、なぜ「卒」の字をあてるのか調べてみたところ、この文字には「にわかに」、「急に死ぬ」、「終える」、という意味があるようです。なので、秋の終焉を迎える虫ということで使うのかもしれません。赤とんぼが終わるころには、秋が終わり、冬がやってきます。

赤卒は「せきそつ」と読む一方で、「あかえんば」とも読むようです。こちらも由来を調べてみたのですがよくわかりません。飛騨地方の方言で「えんば」とは、もうじき、もうすぐ、という意味のようなので、こちらもやがてやってくる冬を意味するのかもしれません。

昆虫の分類上、赤とんぼといえば、普通「アキアカネ」を指すようです。こちらは「秋茜」と書き、秋にふさわしく、哀愁を感じさせるネーミングです。トンボ科アカネ属に分類される日本特産種で、日本では小笠原諸島、沖縄県を除き各地で普通に見られる種です。

平地から山地にかけて、水田、池、沼、湿地などにヤゴとして生育します。孵化した未熟な成虫は夏に涼しい山地へ移動し、成熟し秋になると平地に戻る、という習性があります。他の多くのトンボも未成熟成虫が水辺を離れて生活しますが、アキアカネの場合この移動が極端に長距離なのが特徴です。

5月末から6月下旬にかけての日中の気温が20-25℃程度のとき夜間に羽化します。まれに標高2000m代の高所からの羽化記録もあります。成虫となったアキアカネは朝になると飛び立って水辺を離れ、1週間ほどを摂餌に費やします。

様々な小昆虫を空中で捕食し、長距離飛翔に必要なエネルギーの蓄積を行います。十分に体力がついた段階で3000mぐらいまでの高標高の高原や山岳地帯へ移動して、7~8月の盛夏を過ごします。そして、夏が終わるころ、通常は秋雨前線の通過を契機に大群を成して山を降り、ふたたび平地や丘陵地、低山地へと戻ってきます。

なぜ移動するか、ですが最も大きな理由は暑さが苦手なためです。アキアカネが活動中の体温は外気温より10~15℃も上昇するそうです。にもかかわらず排熱能力が低いため、気温が高い場合は簡単にバテてしまいます。30℃を超えると生存が難しくなるといい、このあたり、25℃を超えると生息が危うくなる私とよく似ています。前世は赤とんぼだったか?

逆に低温時におけるアキアカネの生理的な熱保持能力は高く、秋の終わりごろになり、大半の虫が死に絶えるころになっても平気です。ただ、ちょっと残暑が厳しくなると涼しい環境をみつけて移動します。酷暑の年には移動先はより高い標高の地域となり、冷夏の年にはそれほど高いところまでは移動しないこともわかっています。

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普通にじっとしているときも何気に暑さ対策をしています。夏の昼間の日差しが強い時間帯に、止まっているアキアカネが逆立ちをしているのをよくみかけますが、これは、日光が当たる面積を減らし体温の上昇を抑えるためと考えられています。

赤い色をしているためか、危害を加えると罰が当たるとする言い伝えもあるようです。東北地方では、捕まえると雷に打たれるとして「かみなりとんぼ」と呼びます。また、東海地方では目が赤くなったり腹が痛くなったり、瘧(おこり・マラリア)などの発熱発作を起こすとする伝承があります。

アキアカネに限らず多くのトンボは害虫を食べてくれるので、むやみに殺生することを戒めため、こうした伝承がうまれたのでしょう。あるいは、秋に真っ赤になるほどの大群で出現するため、その姿に何らかの霊性を認めたためかもしれません。同じく秋の赤い色の風物詩といえばヒガンバナがあり、こちらは“あの世”である「彼岸」にちなんでいます。




赤い色をしたトンボにはこのほか、「ナツアカネ」と呼ばれる種があり、アキアカネは夏に一旦低地から姿を消し、秋に出現するのに対して、こちらは一夏中低地から姿を消しません。「ナツ」の和名が与えられたのはこのためのようです。ただ、アキアカネに比べ、相対的に数は少なく、夏の間でもほとんどみかけない地方も多いようです。

いずれも同じアカネ属に分類される近縁種ですが、高地と平地でそれぞれ棲み分けがなされているのは、おそらくその生活史の中での食餌環境をシェアするためでしょう。ナツアカネのほうが少ないのは、同じ平地においては競争相手として他のトンボもいるためと考えられます。

なぜ赤い色をしているのか、ですが、これは彼らの生殖行動に関係があるようです。通常アキアカネもナツアカネもオスはメスに比べて赤色が濃いようで、これは交尾のためによりメスにアピールするため、といわれています。メスが性的に成熟したオスを識別しやすくするためでもあります。

また、赤く見えるということはその色をはね返しているということでもあり、青や紫、さらに紫外線などの波長の短い光を吸収しやすいということです。紫外線などの波長の短い光は、高いエネルギーを持っています。それを吸収しやすいということは、晩秋のよう寒い時期になっても体温を暖かく保てる、ということになります。

暑さに弱いという特徴があるのに矛盾しますが、寒い季節になっても保温能力が高いということは、摂餌においてはそれだけ他の昆虫に比べて有利になります。また、とくにオスが日なたにとどまって縄張りを守る際には役立つ、といったこともあるようです。

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この「赤」という色名ですが、あらゆる文化には、それぞれ化特有の特徴を持った色があり、呼び方はさまざまです。文化の背骨となっている言語の中で生まれてきたものであり、日本語では「赤」ですが、中国語で赤という場合は「紅」になります。こうしたある文化で生まれた固有の色名を「基本色名」と呼びます。

日本のJIS規格での基本色は、無彩色としては白・灰色・黒の3種類であり、有彩色では赤を含めて10種類が採用されています。アメリカでは13種あります。

ところが、色というのは、そんな単純なものではなく、特別な名前が付けられた色や、また名前の付けられていないような色が、それぞれの国でゴマンとあります。ただ、それらは全て基本色名で言い換える事ができます。

例えば、日本では黒みがかったシブい赤色で「蘇芳色(すおういろ)」というのがありますが、これも基本色名である「赤」と言い代ることができますし、空の色や海の色などをまとめて「青」と呼んでいます。

同様に、基本色である赤にはほかにも、朱(シュ)、丹(タン)、緋(ヒ)、紅(コウ)などがあり、それぞれが日本の長い歴史のなかで文化的な意味を保ってきました。

基本色名である「赤」の語源は「明(アカ)るい」に通じるとされます。「赤恥」、「赤裸(赤裸裸)」などの用例のように、「明らかな」、「全くの」という意味を持つとともに、暗黒の世界の象徴である悪霊や病気に対する効果がある色とされてきました。

古来日本では、疱瘡(天然痘)をもたらす疫病神(疱瘡神)が赤色を嫌うと信じられており、患者の周囲を赤で満たす風習がありました。また沖縄では病人に赤を着せ、痘瘡神を喜ばせるために歌、三味線で、痘瘡神をほめたたえ、夜伽をしたといわれます。

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そのほかにも、赤系の色はさまざまな文化的意味を持って使われてきました。中でも特筆すべきなのは、朱色です。

朱は、硫化水銀(HgS)からなる鉱物から採れる「辰砂」から作られます。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入されるようになり、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになりました。中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、顔料や漢方薬の原料として珍重されていました。

日本では弥生時代から産出が知られ、古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていました。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていました。

色料としての朱の範囲は比較的幅があり、例えば「黄口」や「青口」といったものがあります。赭土(三酸化二鉄)、鉛丹(四酸化三鉛)、鶏冠石(硫化砒素)を加えるか、それ以外の顔料や染料、或いは他の朱色の発光物の混合に基づいて、いろいろなバリエーションがあり、これらの混合の度合いで朱の色合いが定まります。

この朱を作る材料のひとつ、赭土(しゃど)は、別の赤色である「丹(タン)」を生み出します。発色成分の三酸化二鉄は、いわゆる赤土に多数含まれているものです。要は鉄が錆びたものであり、古来から日本国中どこでも容易に入手できる顔料のひとつです。鶴の一種タンチョウの和名は、頭頂部(頂)が赤い(丹)ことに由来し、“丹鳥”の意です。

朱や丹が鉱物から生み出される赤色であるのに対し、緋(ヒ)は、植物性由来の色で、「アカネ」の根を原料とします。「茜染」といわれる染物に古来から使われてきており、濃く暗い赤色を「茜色」というのに対して、最も明るい茜色を「緋色」といいます。

日本では大和朝廷時代より緋色が官人の服装の色として用いられ、紫に次ぐ高貴な色と位置づけられました。また江戸時代には庶民の衣装にも広く用いられていました。ちなみに、緋色は英語圏の色、scarlet(スカーレット)とほぼ同じ色と言われています。

紅(コウ)は、くれない、べに、とも呼ばれ、こちらも植物性です。キク科の紅花の汁で染めた赤色で、鮮やかですが、やや紫を帯びており、中国に由来するとされることからで「唐紅(からくれない)」とも言います。ほかに古来から染料として利用してきた色に「藍」があり、“くれない”は「呉の藍」(くれのあい)から来ている、という説もあります。

現在の中国や旧ソビエト連邦をはじめ、共産主義のシンボルとしても使われています。紅花の原産地はエジプトとアナトリア半島といわれており、このためか、どちらかというと他の赤い色よりもエキゾチックなイメージがあります。

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このように、日本における赤色は、他の基本色と比較すると、かなりバラエティーに富んでいます。以上は代表的なものにすぎず、いわゆる赤系の「和色」と呼ばれるものは、分類法にもよりますが、だいたい90種類ほどもあるようです。日本の国旗の色でもあることを考えると、日本人というのは赤という色に相当のこだわりがある国民のようです。

ちなみに、日章の色に定められているのは、輸入色ともいえる「紅色」で、マンセル色体系(色を定量的に表す国際的体系)で 3R 4/14 です。ただ、より明色に見える朱色系の「金赤(同 9R 5.5/14)」が使われることも実際には多いようです。いずれにせよ、より日本的な色である朱や丹が使われていない、というのは不思議なことではあります。

この赤色に限らず、一般に色は、生活や文化、産業や商業、デザインや視覚芸術の重要な要素であるため、多種多様なものが生み出されてきました。「様式」「作風」「文化」の特徴の一つとして、特定の色の使用、特定の色の組み合わせ、色と結び付いた意味などが含まれている場合も多く、色に関していえば、広辞苑や国語辞典のような一般的な辞書というものは存在しません。

また、色は様々な感情を表現したり、事物を連想させることがあり、時代や文化による影響も大きいといえます。たとえば今日では喪服は黒が一般的ですが、江戸時代までは白が一般的でした。

ただ、「赤」 ついていえば、太古の昔からおおむねその意味は変わっていないと思われます。日の丸の赤は太陽を表しており、すなわち日本そのものですし、このほか血や生命、火に関するものも赤、女性も赤です。現代的なものとしては、左翼、革命、力、愛、情熱、危険、熱暑、勇気、攻撃、敵、といったものも赤で示されることが多く、電気や信号も赤で表現されることがあります。

交通信号などでは、赤色が停止や危険を示す表示として使われるほか、日本の消防車の車体色は運輸省令「道路運送車両の保安基準(昭和26年号)」で朱色と規定されています。フランス、イギリス、スイス、オーストリア、アメリカの一部の州等でも消防車の色に赤を用いています(ドイツでは赤または紫)。

このような場合に赤が使われる理由としては、人間には感知し易い色と知覚し難い色があるためです。色が人の注意を引きやすく目立つ度合いを、色の「誘目性」と呼び、無彩色よりも有彩色、寒色系よりも暖色系のほうが誘目性が高く、赤は暖色系です。

また、赤や黄などの暖色系の色および白色は実寸より物が大きく近くに見える膨張色で、他の色より知覚し易くなります。日本の児童の帽子やランドセルカバーが黄色なのは、知覚し易く、大きく見える色を採用する事で自動車事故を減らす狙いがあるからです。

ちなみに、青や黒等の寒色系の色は実寸より物が小さく遠くに見える収縮色です。誘目性も低く小さく見えるため、実際に黒色の自動車は他の色に比べて事故が多く、バスやタクシーが黒色を避けているものが多いのはこのためです。また、囲碁の碁石も黒石と白石が同じ大きさだと黒石の方が小さく見えてしまうので、黒石を一回り大きく作っています。

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また、赤を多用するのは人間の生理にも基づいているためともいわれます。乳幼児は赤色を強く認識するので、乳幼児の玩具は赤色を基調に作られています。また、子供部屋を黄色や赤の暖色を基調に作ると、知能指数が高い子供が育つという説があります。

さらに、年齢を重ねると波長の短い青色緑色系統の色は黒っぽく見えるようになりますが、波長の長い赤色は比較的年長の方でもよく見えます。ちなみに、老人性白内障に罹ると水晶体が黄色く濁り、より青色緑色系統の色が見えにくくなります。このため、老人はガスコンロの青い炎が見えにくく、火傷や火事を起こし易いといわれます。




生理学的に言うと、人間の目は、赤、緑、青の光を感知する「錐体」によって様々な色の視覚情報を知覚していますが、このうちL錐体は「赤錐体」と呼ばれ、赤色を感知する錐体です。その分布密度はM錐体(緑)の2倍、S錐体(青)の40倍もあり、他の色に比べて赤色光に対する感度が高いということがいえます。

これをもう少し詳しく説明すると、ヒトの目の網膜内には、L錐体・M錐体・S錐体と呼ばれる3種類の「錐体細胞」があり、これらが吸収する可視光線の割合が色の感覚を生んでいます。

これらの錐体細胞は、それぞれ長波長・中波長・短波長に最も反応するタンパク質(オプシンタンパク質)を含んでいます。錐体が3種類あることはそのまま3種の波長特性を構成する元となるので、L , M , S の各錐体を赤・緑・青でなぞらえることもあります。

ところが、人や猿などの霊長類における錐体はかつて2種類だったそうです。色刺激の受容器である目の進化の過程で、2種から3種に分岐したとされており、ヒトを含む旧世界の霊長類の祖先は、約3000万年前、3色型色覚を有するようになったといわれています。

これに対して、ヒトと同じ哺乳類の多くは2色型色覚か、色覚を持ちません(実は色覚を持っているがその感度が低い)。目の進化の過程で取り残されたかたちです。

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ところが、さらに、です。この哺乳類のさらに祖先である古代の爬虫類は、もともと4色型(4色型色覚)だったそうです。上のL、M、Sに加えて4つ目の色覚がありました。

この4番目の色覚とは、波長300~330ナノメートルの紫外線光を感知できる錐体網膜細胞のことで、これによってこれらの生物は長波長域から短波長域である近紫外線までの色を認識できるものと考えられています。

哺乳類の祖先ももともとこの4つ目の色覚を加えて4錐体細胞を持っていましたが、これがある過程で2種類になりました。

その理由としては、哺乳類だけは他の種類からの捕食を恐れて、夜や暗い所で活動することが主となったためです。わずかな光でも見えるよう桿体細胞(光の刺激を受容する細胞)が発達し、その代わりに2色型色覚になり、色覚そのものを失ったとされます。

夜行性となったため、色覚は生存に必須ではなく、結果、M錐体(緑)と紫外線感知錐体の2タイプの錐体細胞を失い、青を感知するSと赤を感知するLの2錐体のみを保有するに至りました。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態です。

変わらず昼夜ともに活動が活発だった魚類、両生類、爬虫類、鳥類はそのまま4色型色覚にとどまり、この名残で現在でもこれらの種のほとんどは4タイプの錐体細胞を持っています。

一方、2錐体のみを保有するに至った哺乳類のうち、ヒトを含む旧世界の霊長類の祖先は、上述のとおり、約3000万年前、突然3色型色覚を有するようになりました。3000万年前といえば、氷河期が終わり、ようやく地球全体が緑に包まれるようになった時代であり、このころ2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類から、人や猿の先祖である霊長類が分科しました。

その理由としては、ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存に有利だったためと考えられ、霊長類が暮らすようになった「森の環境」がその原因です。

森の中というのは、うっそうと木々が生え、緑と緑陰に囲まれた場所です。こうした環境では、果実が熟した時などに、葉の緑の中から赤を識別できるかというと、2色型色覚ではそれができません。

明度(明暗)が違えば識別できますが、常時ほぼ同じ明度の森の中では、色度だけをたよりに果実を区別しようとしても周囲の緑に完全に埋もれてしまいます。ところが、3色型の色覚なら、緑の背景から黄色やオレンジや赤っぽい果実がポップアップして見えます。

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これが、ヒトや猿が現在のように3つの錐体を持つに至った理由と考えられています。ただ、ヒトに関して言えば、その他の猿とは違って、その後狩猟生活をするようになりました。このため、果物などの植物に依存して生活する必要がなくなり、若干この3色型色覚の優位性が低くなったといわれており、それは他の霊長類に比べて色盲が多いことからもわかります。

色盲の出現頻度は狭鼻下目のカニクイザルで0.4%、チンパンジーで1.7%です。これに対し、日本人では男性の4.5%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされます。またニホンザルもヒトよりも色盲の数が非常に少ないことがわかっており、3色型色覚という点では人はやや退化した状態ということになります。

イギリスのロマン主義の画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)は、黄色を好んで使用したといわれています。彼の絵具箱では色の大半が黄色系統の色で占められていたといい、逆に嫌いな色は緑色で、緑を極力使わないよう苦心したそうです。このことから色覚異常ではなかったかと言われており、同様にやゴッホ、ピカソやシャガールなど著名な画家達も色覚異常であったのでは、との説があります。

ターナーは知人の1人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っており、また別の知人からヤシの木を黄色く描いているところを注意された時には、激しく動揺していたといいます。近代社会においても、とくにアニメなどのように、生理的な識別が容易で単純な色を多用する分野・領域では、色覚異常者はとかく肩身が狭い思いをしています。

しかし、色覚異常といわれているのは、あくまで標準的な色覚を持っている人に対しての評価であり、一般に普通と言われている人であっても、色覚に関しては大小の差異があります。人が色として感じる感覚には非常に多くのものがあるといわれており、赤色の和色が90種あるように、他の国の基準を入れればもっと多くの赤色の分類ができるでしょう。

こうした色覚の違いが表面化するのは、同じように見えるもののその見え方の違いが微妙であるため、お互いの意見に疑義が生じるなどの場合です。大多数の人がはっきりと同じものだ、あるいは異なる、といった判断をしているのにそれは違う、という人はその生理については色覚異常、機能については色覚障害というレッテルを張られてしまいます。

ところが、色覚が正常といわれている普通の人々の生活の上においても、印刷や塗装の過程において、いつもとは異なり、明るく鮮やかな色を多用するとか、色素の濃度を高くしたり塗料を厚く塗ったりすることはママあります。色の飽和度を高くしたり、色素の存在比を大きくして生理的な弁別の容易さを高めるなどした結果、結局はオリジナルとはかなり変わった色になってしまった、というのはよくあることです。

上で色覚異常が疑われている画家たちに関しても、彼らが生きていた時代には用いる絵具などの画材の消費量は少なく、また使用法も厳密ではありませんでした。一般に原料の品質も低く、このため発色が良くないものも少なくなく、より古い時代はなおさらです。従って、上の有名画家たちが本当に色覚異常だったかどうかはわかりません。

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さらに、同じ組成の光を受けた場合でも、それをどのように知覚するかは人それぞれの目と脳の相関関係によって異なるので、複数の人間が全く同一の色覚を共有しているわけではありません。同様に、ある人が同じ物を見ても右目と左目では角度や距離が異なり、見えた色も一致しないことがわかっています。他者の色知覚を経験する手段は存在せず、同一の色知覚を共有することも不可能です。

また、知覚した色をどのような色名で呼ぶかは学習によって決定される事柄であり、例えば赤色を見て二人の人間が異なる知覚を得たとしても、二人ともそれを「赤」と呼ぶので、色覚の違いは表面化しませんが、実際にはイチゴ色とサンゴ色ほどに違っていたりします。

近年、人間以外の様々な生物の色覚を知ろうとする試みがあり、色覚の有無や性質が研究されていますが、こうした研究もはたして人間が感じるのと同様な色を感じているのかどうかを確認することでその生活史を探るためです。違った色の見え方をする人を比較してみた場合、その世界は青と赤ほども違っている可能性もあるわけです。

もっとも、文明が発達した人間社会ではそれでも共同生活は可能です。複数の個体間で知覚される色がどのような色であるかを直接すり合わせることは出来ませんが、人間同士であれば言語やカラーチャートを用いて情報交換することが可能だからです。色の違いで混乱がおきないのは、人間がこうした高度な科学力を持っているからです。

なので、この項で強く言いたいのは色覚に「異常」というものはなく、それは個性だということです。

ヒトも生物である以上、色覚の個体差があるのはあたりまえであり、このように色の認識の上において違いがあるのは、色覚を感知する目の機能がひとりひとり微妙に違うためです。目は色刺激に由来する知覚である「色知覚」を司りますが、色知覚は、質量や体積のような機械的な物理量ではなく、音の大きさのような「心理物理量」であるといわれています。

同一の色刺激であっても同一の色知覚が成立するとは限らず、直前に起こった事象による知覚や体調・心理状態によって、それをその人がどう感じるか結果はかなり異なります。たとえば、対象物が白や灰色・黒といった無彩色なのに、色を知覚する場合があり、その例えとして良く使われるものに「ベンハムの独楽(こま)」というのがあります。

イギリスのおもちゃ製造業者である「チャールス・ベンハム」の名に由来する独楽です。視覚に関する錯覚、「錯視」の実験として良く知られており、ベンハムは、1895年に下図に示したように上面を塗り分けた独楽を発売しました。

Benham's_disc_(animated)ベンハムの独楽

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回転していないオリジナルは白と黒の図形にすぎない

見るとわかると思いますが、ベンハムの独楽を回すと、何等かの色のついた弧があちこちに見えるはずです。この弧の色は、刺激に関する感覚の定式を“ヴェーバー‐フェヒナーの法則”として定式化したドイツの物理学者、グスタフ・フェヒナーによって、「フェフナーの色」と呼ばれています。

誰が見るかによって異なる色となりますが、なぜこのような現象が起こるのか完全には理解されていません。ただ、赤(正確には黄色からオレンジ)、緑、青に感受性が高い網膜内の光受容体(錐体)が応答する光の変化率がそれぞれ異なっているからではないかとも考えられています。

このベンハムの独楽は、単色光の下で回してもやはり色感覚が生まれます。さらに左目と右目別々に、独楽の模様の一部分ずつを見せるように工夫しても色感覚が生まれます。日本では、あるテレビ局がこの錯視を応用してモノクロテレビ放送で擬似的な色を発生させる試みが行われ、テレビCMでの映像効果に使用した事もあったそうです。

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このベンハムの独楽の現代版ともいえるようなおもちゃが最近流行しているようです。

ベンハムの独楽と違って色の変化をみるためのものではなく、ストレス解消等が目的で、「ハンドスピナー」といい、アメリカ生まれの手慰み玩具です。英語ではフィジェットスピナー(fidget spinner)とも呼ばれており、あちらではこのほうが一般的な呼び名です。

考案者はアメリカフロリダ州のキャサリン・ヘティンガー(Catherine Hettinger)という女性で、重症の筋無力症を負った彼女が、娘と遊べる玩具として考案しました。特許も保有していたそうですが、特許更新料の支払いができずに2005年に特許が切れています。

本来はただ単に、「回すだけの玩具」でしたが、回転速度や回転時間を向上させるなどの改造を加えた遊び方が受け、全米で広まりました。実際は一方方向に回っているにすぎませんが、ストロボ効果で逆回転しているようにみえるものもあり、このほか5枚羽のハンドスピナーやLED付きハンドスピナー、いろいろなものがあります。

一般には手のひらに乗るサイズであり、ボールベアリングと、その外輪から放射状に伸びるように付くプラスチックや金属等で出来たプレート部分、内輪を軸方向から挟むホールド用の部分とで出来ています。手や指でプレート部分を回転させることで一定時間プレート部分が回り続けます。

製品によっては5分以上回転し続けることを謳った商品もあるそうで、 基本的には指の間や机の上などで回転する様子を眺めたり、ジャイロ効果を感じたりして遊びます。動画サイトYoutubeなどでは「トリック(技)」を組み合わせてパフォーマンスを行う動画も個人などによって公開されています。

ただ、アメリカでは流行の拡大とともに遊んでいた子供が眼を怪我する事故や、幼児の誤嚥、子供たちが熱中するあまり学業の妨げになる問題も起きたため、一部の学校で使用を禁止するなどの混乱も起きたようです。しかし、その後改良は進み、日本にも輸入されるとともに、日本独自のオリジナル商品も出始めました。

アメリカでは昨年暮れぐらいから流行し始め、今年の4月あたりから「fidget spinner」の検索数が急激に伸びたといいますが、日本でも先日NHKのニュースなどで取り上げられたことから、これから話題になりそうです。

米CNNはADHD(注意欠陥・多動性障害)のカウンセリングにも有用であると報道したといい、もともとは筋無力症という重度の病を負った女性が生み出したものであることから、精神医学的にも着目されそうです。

暑かった夏がそろそろ終わり放心状態のあなた、夏バテで最近集中力が途切れがちな貴兄。飛び回り始めた赤とんぼを指先をクルクル回して捕まえてみるのも一興ですが、ここはひとつ、長い秋の手慰み。こちらをスピンさせてみてはいかがでしょうか。

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