蔵六


あけましておめでとうございます。

伊豆では、大晦日の夜から少し雨が降りましたが、元旦には上がり、ここ数日は素晴らしい富士の姿を見ることができます。

そうした新春の爽快な空気の中、今年も気負うことなくボチボチとこのブログを書いて行こうと思います。お気が向いたら、ご笑覧ください。




さて、今年は明治維新150周年ということで、先日帰省した山口では、あちこちの街灯などにこれを祝うペナントがぶら下げてありました。

あらためて、この「維新」の意味を調べてみたところ、江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制の転換へと、それに伴う一連の改革全体を指すようです。

その範囲は、法制から、身分制、金融、産業、経済、文化、教育、宗教などなどの広範囲に及ぶため、いったいいつ維新が始まり、どこで終わったかについては必ずしも明確にはできないようです。

西南戦争の終結(明治10年、1877年)までという説や、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説あるようですが、やはり区切りとしては、年号改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)をもって、維新となすことが多いようです。

山口の維新150年もこれに基づいており、維新の原動となった人物を数多く輩出した萩市では、今年の10月に向けて各種の記念シンポジウムや講演会、パレードなどが行われるようです。

私も長州人の血を引く一人として何か記念すべきことしたいな、と思うのですが、なにぶん貧乏暮らしゆえに寄付は無理としても、やはりすべきは、このブログで維新の立役者となった長州人について書き残しておくことかな、などと思っていたりしています。

が、膨大な人材を輩出した国のこと、いったい誰のことを書いていくかな、と考えたときになすべきことは、やはり好きな人物、興味のある人のことを取り上げることでしょう。

カッコよさという点においては、若き血を散らした高杉晋作や久坂玄瑞といった松下村塾の面々が思い浮かぶのですが、こういった松陰門下の面々とは距離を置き、独自のビジョンを持って時代を突き進んだ人物として興味をそそられるのが、村田蔵六こと大村益次郎です。

実は私の祖父が婿入りする前の本名が村田といい、名前も七蔵ということもあり、昔から親近感を持っていた人物です。山口にはこの村田姓はわりと多いようで、とくに現在の山口市を中心とした、「周防(すおう)」と呼ばれた地域にこの姓の家が多いようです。

一方、長州藩にはもうひとつ、その西と北側に広がる「長門」というエリアがあり、この中の「萩」がかつての長州全体の首府で、藩庁もここに置かれていました。

多くの志士たちもこの萩の町から排出されていますが、その原動力となったのが、当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされていた吉田松陰の私塾、松下村塾です。ここで学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながっていきます。

その活動がだんだんと過激になるにつれて、もともと討幕には消極的であった藩侯以下の指導者たちもこれに巻き込まれるようになり、激動する情勢に備えて、ついには藩の中心をより山陽筋に近い場所に移すことを決めます。

こうして1863年(文久3年)4月に、長州藩は山口に新たな藩庁を築き、ここを「山口政事堂」と称するようになりました。

藩主毛利敬親候は、歴代の藩主が暮らした萩城からこの山口に入りますが、このときまだ表だって幕府に楯突こうとは考えておらず、山口移住と新館の造営の申請書を恐るおそる江戸に提出して「山口藩」と改名する旨了承を得ています。

しかし拠点をより軍隊を動かしやすい山陽側に移したということは、無論討幕の伏線であり、このころから政治だけでなく軍事のそれを萩から山口へ動かすようになっていきます。



村田蔵六が生まれた、周防国吉敷郡鋳銭司というのは、この山口から山を一つ越えた南側にあり、瀬戸内の海にほど近い場所にあります。

現在は国道2号が地域を貫き、山陽自動車道山口南インターチェンジが設けられたことから、交通の要衝の一つとなり、物流拠点として複数の運送会社等の営業拠点が置かれているような場所ですが、おそらく江戸時代には大きな特徴のない寒村だったかと思われます。

ただ、平安時代には貨幣を造る役所が置かれており、「鋳銭司」の地名はここから来ています。また、長沢池という比較的大きな灌漑用水池があり、これは、慶安4年(1651年)頃築かれたとされ、鋳銭司村をはじめ、名田島村、台道村といった周囲の田畑に堤水を供給していました。

たとえ他村が干ばつにみまわれても、長沢堤を利用する村々は干ばつを免れたといいます。また海が近いことから、このあたりの農家では塩田を持っているところが多く、このことから寒村とはいえ、村人の暮らしぶりは比較的豊かだったと推定されます。

父は村田孝益いう村医者で、妻うめの長男として生まれ、蔵六は幼いころから青年期までを「宗太郎(惣太郎とも)」という名で育てられました。

物心つくまでには、父の跡を継いで村医になるつもりだったようですが、はるか北にある萩で討幕を叫んでいた連中が、萩から山口への藩庁の移転とともに大挙して山口に移り住むようになり、鋳銭司を含む山陽側はがぜん騒がしくなってきました。

鋳銭司村の東には、三田尻港(現在の防府市・三田尻中関港)があり、江戸時代初期にここは、海路で参勤交代へ向かう出発地となりました。1654年(承応3年)に毛利綱広が萩往還を造った際に、公邸である三田尻御茶屋を築造すると、以後大いに栄えましたが、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものとなりました。

それでも、7代藩主毛利重就は、隠居後にこの三田尻御茶屋に住むなど、三田尻は要衝として重視され、幕末に至るまでもその重要性は変わらず、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して、下関に向かう際にはここに立ち寄っています。また、綱広が建造した御船倉も海軍局と名前を変え、欧米より伝わった近代航海術の教練や造船技術の教育も行われていました。

北には藩庁のある山口、東にはこの軍事的要衝である三田尻港を控えるという立地の鋳銭司村は何かと国内政治や江戸向きの話は入って来やすい土地柄であり、それまでは政治とは無関係な辺地であったこの村にも、時代の変化は次第に大きなものとして押し寄せてくるようになります。

単に村医を目指していた村田蔵六もまた、頻繁に江戸や京、そして山口藩庁のきな臭い噂を耳にするようになり、やがてはこのままこの僻地に埋もれていてはならぬ、と思うようになったのでしょう。このころまだ20そこそこだった彼もまた、世に出ることを考えるようになります。

ちょうどこのころ三田尻で、シーボルトの弟子のひとり、梅田幽斎という人物が塾を開き始めたと聞き、ここに頼み込んで医学や蘭学を学ぶようになりました。ちなみに、三田尻から鋳銭司までは直線で10kmほどですから、歩いて通うことも可能だったでしょう。

もとも秀逸な頭脳を持っていた彼はすぐに梅田の知識レベルを凌駕するほどになったようですが、蘭学以外の学問にも親しむべきだという梅田の意見を入れ、翌年には豊後国日田に向かい、国学者の広瀬淡窓の私塾咸宜園に入り、漢籍、算術、習字など学びました。

その後帰郷していったんは梅田門下に復帰しますが、このときもう既に山口では学ぶことはないと感じたのでしょう、弘化3年(1846年)、22歳のときに大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶようになります。

洪庵は牛痘種痘を日本に初めて導入したことで知られる蘭学者で、おそらくはこの時代、国内においては最先端の医療技術を持ち、蘭学においても最高知識をもっていた人物だったかと思われます。彼が運営する「適塾」には全国から秀才が集まっていましたが、宗太郎と呼ばれていた蔵六はその後わずか2年ほどでこの学舎の塾頭まで進んでいます。

適塾時代の彼を知る者の伝えるところによれば、「精根を尽くして学び、孜々(シシ)として時に夜を徹して書を読むことを怠らず」とあるほど猛勉強をし、暇さえあれば解剖の本を読み、動物をとらえれば解剖を行うなど研究熱心であったといいます。

また、塾頭になってからは、綿密に考えて講義をすることで定評があり、熟生には評判もよく、学外では遊びをしない品行方正な人格であったとされます。

とくに秀でていたのは語学力だったといわれ、このほかにも医学、化学に関しても豊富な知識を得ていた彼を凌駕するほどの人間は、この時すでに関西にはいなかったと思われます。が、この人が面白いのは、それほど秀でた才能を持ちながらそれを生かそうとせず、その後適塾を辞して、片田舎の鋳銭司へ帰ってしまっていることです。

父親に帰国して医業を継ぐようにと請われたためであり、この要請に素直に納得して27歳で帰郷し、四辻という街道筋で開業しました。そして父の跡を継ぎ、村医となって村田良庵と名乗るようになり、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚しました。




ちなみにこの四辻というところは現在でも民家が散在するような田園地帯で、現在でもこんなところで商売が成立するんかい、といった場所です。無論、藩庁にいる長州藩の上層部の人間も、こんな僻地にしかもそれほどすごい人物がいるということを誰もが気付くこともなく、話題にもあがりませんでした。

江戸時代の町医というのは、供を連れて歩く徒歩医者と、奉行から許可を得て駕篭を使用する駕篭医者がありましたが、地方の村医者の場合はどちらでもないことがほとんどで、蔵六も一人歩いて診療に行っていたことでしょう。しかし、この時代、医者になりたければ誰でも開業できたこともあり、医療はそれほど信頼されていませんでした。

誰でも医者になれるとしても、腕のいい医者に患者が集まり、腕の悪い医者には患者が集まりません。医術の心得がない医者には患者が集まりませんが、宗太郎(蔵六)の場合、医術の心得があるにも関わらず、その偏屈な性格のために誰も診療に訪れませんでした。

無論、近くの三田尻からも患者が来るわけもありません。ましてや藩庁のある山口では誰一人その存在を知らなかったでしょう。ところが、江戸の適塾で塾頭まで勤めていたこの人物のことは他藩の秀才たちは皆知っていました。四辻で村医者を開業して2年ほど経ったころ、突然、伊予宇和藩島からおよびがかかります。

宇和島藩は、初代仙台藩主伊達政宗の長男である、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)に宇和島城に入城したことから成立した藩です。歴代の藩主には有能な人物が多く、第7代藩主、宗紀の代には、奢侈の禁止や文学の奨励、産業の振興と統制、人材の育成などを中心とした大胆な藩政改革が行われました。

ただ、宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣がなかったため、江戸の伊達家の親類筋にあたる旗本山口家から養子を迎え入れ、第八代藩主になったのが宗城です。宗城は前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、さらに西欧化を推し進めて富国強兵政策をとり、シーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となった高野長英を登用しました。

蔵六の採用を宗紀に上申したのは、同じくシーボルトの門人の二宮敬作です。二宮は日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる人物です。この年(嘉永6年(1853年))は、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航した年であり、時代は風雲急を告げ、洋学者の知識が求められる時代となっていました。

おそらくは二宮はシーボルト門下の他の蘭学者から、大阪の適塾にすごいヤツがいる、と宗太郎の才能を聞き知っていたのでしょう。藩侯からの了承を得ると、宇和島に招き入れ、一級の蘭学者として扱うようになります。

しかし当初、宇和島藩の役人たちは、村田の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めたといいます。役人たちにしてみれば、汚い身なりで現れた宗太郎に対して、むしろ親切心をもってこの禄を決めたようですが、このことを江戸出張から帰ってきた藩侯に二宮が注進すると、宗城は怒り、役人たちを叱責したといいます。

すぐに給料は上士格並みの100石取に改められたといい、その後、宗太郎の才能はこの宇和島藩でいかんなく発揮されていきます。

西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築いたほか、長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い、その結果として洋式軍艦の雛形の製造にも成功します。そうした成果も認められたこともあり、この頃、村田蔵六と改名します。

「蔵六」とは、頭としっぽ、そして四肢を甲羅の中に仕舞いこんでいる「亀」の意で、亀は酒を好む、といわれることにちなみ、大酒家の自身をなぞらえたのだといいます。ずいぶんと泥臭いネーミングであり、このあたりに、自分を大きく見せようとしない謙虚な、というよりも自嘲気味の彼の性格が見て取れます。

その後、宇和島での忙しい生活は3年ほども続き、安政3年(1856年)の初夏ごろ、蔵六と名を改めた宗太郎は、藩主伊達宗城の参勤に従って、再び江戸に出ます。

この二度目の江戸滞在における彼の仕事は、宇和島藩時代に比べれば割と暇だったようで、このため私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教えはじめました。

また、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給されるようになりました。20両は現在の価値にして400万円ほどで、20人扶持は35両に相当しますから、総額では1000万円を超える収入のある高給取りだったといえます。

その後35歳になるまでにはその名声はさらに高まり、やがては築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行うようになります。その後討幕に動くこの人物がこの時代、幕府の御用で潤っていたというのは不思議なかんじがします。

この翻訳は幕府からも高く評価され、安政5年(1858年)には、銀15枚の褒章を受けています。ちょうどこのころ、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行いますが、ここから蔵六の運命が一変していきます。

この会読会に参加してひとりに、桂小五郎(のちの木戸孝允)がおり、桂は、村田が同じ長州人だと知って驚きます。同郷にこれほどの才能を持った人物がいるとはつゆとも知らず、しかもその人物が幕府からも重用されているのを知った桂は、この才能を藩のためにぜがひでも持ち帰らねばと考えました。

ここもまた村田の面白いところであり、桂から長州のために働いて欲しいと乞われると、二つ返事でこれを了承し、高額で雇われていた幕府からはさっさと暇をもらって、宇和島藩の御用も辞退しているところです。

生きているころの村田蔵六という人と知り合った人々の話などから、この時なぜ彼が長州帰りを了承したかが推論できます。

村田蔵六という人は、細かいことによく気が付く学究肌である一方で、挨拶もろくにしない、偏屈な人間といわれていました。しかし、根は非常に真っ直ぐで、自分が信頼するに足ると感じた人間にはすべてを委ねてまかせてしまう、というところがあったようです。

また自分の才能を開花させるためにはどんな努力も惜しまないタイプの努力家でもあり、その才能を認めてくれる人間にはとことんついていく、といった気風があったように思われます。

師である緒方洪庵も高い人格を持った人物であったと伝えられており、温厚でおよそ人を怒ったことがない反面、学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責しました。ただ決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があったといいます。

そうした洪庵を尊敬し、師と仰いで努力し続けただ蔵六に対し、また洪庵も塾頭という立場を与えて報いました。



一方、桂小五郎という人も周囲の人間に慕われていました。立場に拘らずに周囲への気配りを忘れない人だったといい、偉くなっても格式張らずに目下の人を遇することでよく知られていました。

のちに山形有朋の側近として活躍し内務大臣なども務めた、元米沢藩士の平田東助がまだ20代の一書生にすぎなかった若い頃、ある朝に木戸が訪ねて来ました。このころの木戸は既に討幕藩である長州藩のリーダーと目される重要人物でした。

そのとき取り次いだ下足を信じることが出来ず、「そんな訳があるか。お使いだろう」と言ったところ、その者が「いや木戸公ご本人です」と言い張るので、半信半疑で覗いてみたら本当に木戸本人でした。慌てた平田ですが、家が狭くて応接間がなかったため、とっさに寝ていた布団を庭に放り捨てて、寝間に木戸を迎え入れたという逸話が残っています。

こういうふうに後輩や若い書生を訪問する木戸に、逆に後輩たちが困惑させられた、という話も数多く残っており、村田もまたそんな実直な木戸の魅力によって落とされたのでしょう。

とはいえ高禄を捨ててまで長州に戻ったというのは、それなりに郷里に愛着を持っていたのかもしれず、あるいは、自分が長州藩の最前線に立って導き、この国をなんとかせねば、といった大志をもっていたのかもしれません。

しかしそういう情熱を秘めた熱い人間であることを思わせないほどに、あまり多くを語らない人物であったようで、また生活は質素であったといい、芸者遊びや料亭も行かず、酒を好む以外は楽しみはなかったといいます。

若いころに幕府の蕃書調所時代の大村は贅沢をしていた時期もあったようですが、長州に帰って以降は極めて質素で、維新後に兵部大輔の高位になった後も、側近だった曾我祐準(後陸軍中将)に「強記博聞、おのれを持することが極て質素でありました」と言わしめました(注:「強記博聞」は、広く物事を聞き知り、それらをよく記憶していること、の意)。

学究肌で趣味らしい趣味もありませんでしたが、豆腐を食べながら酒を飲むのが大好きだったそうです。また骨董品を買うことを楽しみにしており、掛け軸が好きでしたが、1両以上のものは決して買うことがなかったといいます。

つまりは人並み以上の「欲」というものがほとんどない人だったようで、金というものも必要分だけあれば生きていける、といったふうに考えていたのではないでしょうか。

類い稀な語学力と、医学、化学などの知識があればもっと立身できたでしょうが、自分からは望まず、与えられた立場に文句も言わない蔵六が、瞬く間に昇進するのをみても周囲の反発は少なかったようです。しかし、医師としての素質はまったくといっていいほどありませんでした。

上でも書きましたが、蔵六がまだ村医をやっているころの評判は散々でした。この時代の村医者というのは、愛想で食っていくような人気商売で、多少薬草の知識があれば医者を名乗れる時代であり、気に入らなければそっぽを向かれ、別の医者に向かわれました。

それにしても鋳銭司村は僻地であり、三田尻や山口といった町に出れば医者には事欠かかないということもあり、またこの時代、西洋医学を学んだからといって、あんな毛唐の術なんか使えるもんか、和医者のほうがいいに決まっている、といった風潮がありました。

さらに蔵六は礼儀作法などというものほど無用なものはない、と考えていたようなきらいがあります。時候のあいさつをされても「夏は暑いのが当たり前です」「寒中とはこういうものです」と答えるような無愛想さで、治療も上手でなく評判は極めて悪く、訪れる患者はめったにいなかったといいます。

江戸の「鳩居堂」時代の塾生も、学識は尊敬するが「先生は藪」と陰口を叩いていたといいます。あるとき、塾生の一人が目を患った時も「決して薬をつけてはならぬ、薬はつけるものではない。ただれたら水で洗い夜中に書見することはならぬ」と診断し、塾生たちに「先生は医者のくせに医術というものを知らない」と笑われたといいます。

そんな蔵六でしたが、桂に勧誘されたのを機に万延元年(1860年)、正式に長州藩からの要請を受け、江戸在住のまま同藩士となりました。この時代、医者は士分ではありませんでしたから、正式に苗字帯刀を許されたことになります。扶持は年米25俵を支給されたといいますから、長州藩もそれなりに彼の価値を認めたということでしょう。

塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移り、以後、藩のために一心に働くようになりますが、江戸に滞在していたこの時期はまだヘボンのもとで英語、数学を学ぶとともに、箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者と交わり、彼らとの情報交換を通じて内外の情勢を知ることに勤めました。

その後長州に帰り、萩にあった西洋兵学研究所である博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行うようにもなります。

手当防御事務用掛(防衛担当)に任命され、30歳で兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進しはじめました。

一方では語学力を買われ、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命されて下関に出張しているほか、外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰して、長州藩の軍事外交におけるトップとしての道を歩み始めました。

しかしこのころ江戸では、次々と軍備を増強する長州藩の動向に、幕府が神経をとがらせ始めており、やがて訪れる長州征討へ向けての布石が着々と進められていました(この項続く…)。