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アリゾナ、ミズーリ、イノウエ

2014-2562今年も、お盆が近づいています。

しかし伊豆へ引っ越してきてからは、この時期に郷里の山口に帰ることもなくなり、ただでさえ遠い山口が更に遠くなった気がします。

その分、伊豆の風土が体に沁みこんできているようで、ここが新たな故郷になりつつあることを感じさせます。写真撮影のためもあって頻繁に半島内のあちこちにも出かけるようになり、知らない土地がひとつひとつ無くなっていっていることも理由のようです。

しかし、日本中どこに住んだとしても、その土地の隅々まで知り尽くす、というのはおよそ無理であり、例えば伊豆では天城の山奥のほうには、道路さえ整備されておらず、いまだもって分け入ることのできないような場所もあります。

それでふと思い出したのですが、若いころ留学していたハワイのホノルルの町も、住んでいた当時は隅々まで知っていたつもりでしたが、今改めて考えると、あ~あのあたりには実際には行ったことがなかったな、と思いだされます。

とくにホノルル西部のほうは、軍の施設が多く、一般人は立ち入り禁止になっていて入ることができません。ホノルル西部を走るクイーン・リリウオカラニ・ハイウェイから南側は、いわゆるパールハーバーにあたる領域であり、海岸一帯が軍事施設化されていて、この地域に入るには許可が必要になります。

唯一民間人の立ち入りが自由で、一般観光客にも公開されているのが、ホノルル最大のフットボール競技場、アロハ・スタジアムのすぐ西側の海に浮かぶ島、フォード島にある「アリゾナ記念館」です。

この記念館は1945年の日本軍の真珠湾攻撃によって撃沈された戦艦アリゾナ、及びその乗組員を追悼するとともに、真珠湾攻撃自体を記念する施設であり、施設は沈没した戦艦アリゾナの真上に建設されています。

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記念館が建設されたのは1962年で、毎年100万人以上の人々が訪れています。館はボートでのみ入ることができ、アリゾナ本体と交差するような角度で海上に配置されています。

このフォード島の対岸にあるボート発着場付近には、合衆国国立公園局によって1980年に開設され「アリゾナ記念館ビジターセンター」があり、記念館と陸上との往来や真訪問客への対応が行われています。

このアリゾナ記念館、およびビジターセンター内の史料室への入館は無料です。ビジターセンターではアリゾナの錨や鐘のほか、真珠湾攻撃に関する展示がなされており、中にあるミュージアムショップの収入が記念館の維持にあてられています。

ビジターセンターからフォード島の記念館へは米海軍の運航するボートでアクセスしますが、ビジターセンターで番号が振られ出発時刻が記載された整理券を入手する必要があります。毎日多くの観光客が訪れますが、ボートの数は限られているため、入場制限がされており、混雑する日には午前中で整理券が売り切れてしまうこともあるようです。

ボートに乗船する前にはビジターセンターで約20分ほどのドキュメンタリー映像を見せられますが、ここでは真珠湾攻撃に関する映像が流れます。なかなか迫力のある映像です。このあと、記念館自体は各自での見学となりますが、その展示内容はその昔私が学生のころに見たのとさして変わっていないようです。

記念館の内部はエントランス、広間、慰霊所の3つに大きくわけられます。建物中央部にある広間には両側の壁と天井にそれぞれ大きな窓が7つずつ設置されており、これは真珠湾攻撃が行われた日付を表しています。

この広場にはアリゾナの甲板を見下ろすことが出来る穴が開いており、この穴から海中に花を投げ入れることで、戦死した乗組員たちの霊を慰めることができるようになっています。記念館の一番奥は慰霊スペースとなっており、大理石の壁には真珠湾攻撃で戦死したアリゾナの乗組員全員の名前が刻まれています。

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1941年12月2日、択捉島の単冠湾からハワイ近海に進発した南雲忠一中将率いる日本海軍空母機動部隊は、大本営から「ニイタカヤマノボレ」の暗号を受けて準備を開始し、12月8日未明から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機を真珠湾に向かわせました。

ハワイ現地では12月7日日曜日の朝のことでした。航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見し、7時40分に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、さらに7時49分、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命しました。

さらに、真珠湾奥深くに侵入した淵田機は7時52分、旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電しますが、これは世に名高い「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号でした。

航空機による攻撃は現地時間で、8時00分に雷撃により開始される予定でしたが、これより5分早い7時55分に急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ250kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となりました。

実は、このときまだ日本はアメリカに対して宣戦布告をしておらず、このことがのちに「騙し打ち」とアメリカが日本を糾弾し、その後の戦線でアメリカ全土を奮い立たせる結果となりました。

本来は、ハワイ時間で午前7時30分までには野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に対して、「宣戦ノ詔書」を手渡す予定でしたが、実際に手渡されたのは、これよりも1時間以上も経った、午前8時50分でした。

この文書の手渡しが遅れたのは、駐ワシントンD.C.日本大使館の事務官や書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取ったためでした。日本の書記官たちが、どたばたしていたちょうどそのころの7時55分、ハワイではアリゾナの監視員が日本機を発見し、空襲警報が発令されました。

さらにその3分後の7時58分、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない。」との警報を発しますが、その僅か数分後の8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中。

次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中し。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は轟沈しました。このとき、乗組員1177名のうち1102名が死亡しましたが、すぐ近くに停泊していた戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中し、オクラホマも転覆沈没して将兵415名が死亡しました。

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そのほかのアメリカ側の主な被害としては、戦艦ネバダが擱座、カリフォルニア着底、ウエストバージニア着底、などでしたが、擱座・着底したこれらの戦艦はその後サルベージされ、改修を受けて戦線に復帰しました。

沈没して使えなくなったのは、オクラハマとアリゾナだけでしたが、アリゾナはその後二日間に渡って炎上し、爆発の残骸はフォード島に多数降り注いだといいます。しかし、このときの被害は戦艦ばかりであり、日本側が本命として狙っていた空母群は演習のために港外に出ていて不在でした。

この真珠湾攻撃を引き金に太平洋戦争が開戦され、日米が本格的に第二次世界大戦へと参戦することとなったわけですが、全体的にみればこの攻撃によるアメリカ側の被害は寡少といえ、逆に「だまし討ち」と彼等を思わせ奮い立たせたことは日本の大きなミスでした。

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それから、3年半もの間、日米は太平洋各所で激戦を続けることになりますが、戦況は日本に不利なまま末期に突入し、各種海戦で米軍に敗れた日本は制海権に加えて制空権も失い、やがては日本全土が逆に米軍機による空襲を受ける事態になっていきます。

1945年7月に入ると、米軍は主力艦隊の日本近海へも決め、このとき、かつてアリゾナが沈没したホノルルのフォード島に本部が置かれた第3艦隊をその主力とすることが決定されました。

7月8日、この第3艦隊の旗艦である、戦艦「ミズーリ」は艦隊を率いてに北海道室蘭沖に接近し、7月15日から艦隊によって室蘭市内の製鉄所を砲撃しました。いわゆる「室蘭艦砲射撃」であり、これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃でした。

この攻撃は、7月15日午前9時35分ごろから始まり、ミズーリからはおよそ800発の砲弾が撃ち込まれ、この結果日本製鋼所室蘭製鋼所、日本製鐵輪西製鉄所などが破壊され、死者439人を含む多数の死傷者が出ました。

ミズーリは、続く17日、18日には茨城県に移動し、日立市の工業地帯を砲撃しました。さらにその後第3艦隊の各空母からの艦載機による攻撃が行われ、7月25日までこの空襲が継続され、ミズーリはその空母護衛任務あたりました。

日本軍はこのころにはもう戦艦を動かすほどの十分な燃料がなく、駆逐艦や砲艦、潜水艦ばかりの戦力では制海権は殆ど無いに等しく、ミズーリを初めとするアメリカ艦隊の艦艇は日本近海で自由な活動を行っていました。

その後、8月6日には広島に原爆が投下され、その3日後の8月9日には長崎にも原爆が投下されました。この日ミズーリは、北海道および本州北部への攻撃を行っており、翌日10日には、乗組員が非公式ニュースとして「天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができている」という知らせを受けます。

こうして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、これを受け、ミズーリはトルーマン大統領の命により東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士をアイオワに移乗させたのち、8月29日に降伏調印式準備のため東京湾に入りました。

大日本帝国の降伏文書調印式は9月2日に東京湾の中の瀬水道中央部、千葉県寄りの海域に停泊するミズーリの甲板上で行われ、ここにはアメリカ合衆国をはじめ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドの代表が訪れ、各国が調印して日本の降伏を受け入れました。

午前9時過ぎに、にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送され、この式中ミズーリの甲板は2枚の星条旗で飾られました。

そのうちの1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物で、48州の星が描かれた星条旗であり、もう1枚は1853年の黒船来航で江戸湾に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた31州の星が描かれた星条旗でした。ペリーが掲げた星条旗が使われたのは、90年越しに改めて日本を征服した証しとする意図があったと言われています。

このとき、マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文書に調印し、このうち4本はウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校ほかこの戦争で功績があった人物に贈り、残る1本は妻のジェーンに残したという話は有名です。

その後、ミズーリは、1950年に勃発した朝鮮戦争に投入されましたが、1955年に退役。西海岸ワシントン州のブレマートンの太平洋予備役艦隊入りしました。ここでは桟橋に係留されて公開され、1年あたり約180,000人の見学者が訪れるほど人気のある観光名所となり、艦の側には多くの土産物店などが建ち並ぶようになりました。

それから30年近い年月が過ぎた1984年、なんとミズーリのサンフランシスコでの再就役が決定します。このころはまだ冷戦の時代であり、膨張を続けるソビエト海軍に対する優位を維持・確保するため、アメリカが掲げた「600隻艦隊構想」のためでした。

ミズーリにはこのとき最新鋭の武器類が増設され、32発のBGM-109トマホーク・ミサイル、16発のハープーン・ミサイルが発射可能な箱形発射筒、敵の対艦ミサイルを迎撃する4基のファランクスCIWSなどが増設され、最新の電子機器も搭載されました。

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1990年8月2日、中東においてイラク軍がクウェート侵攻を開始しました。これに対し、同月中旬にジョージ・ブッシュ大統領はサウジアラビアおよびペルシャ湾に多国籍軍支援のため数十万に及ぶアメリカ軍の第一陣を派遣します。湾岸戦争の勃発です。

このときミズーリは9月に始める予定であった4ヶ月間の西太平洋巡航に向かう予定でしたが、その直前に出航は取り消され、この中東情勢に対応するため動員されることになりました。イラクのクウェート侵攻の翌年の1991年1月初めにはペルシャ湾に到着し、ここで火災を起こした船を救援し、その後バーレーンに向かいます。

1月17日、ミズーリは、イラク領内に向け、改修後初めてトマホーク・ミサイルを発射し、ここに湾岸戦争が本格的に開始されました。このとき世界中の人々が米軍が発した「クウェートの解放は始まった」という一報に耳を傾けました。この初戦においてミズーリはトマホークを発射し続け、全部で28発をイラク領内に打ち込んでいます。

さらには、カフジ北部のイラク軍司令部および燃料庫に対して、主砲によって1,200kgの砲弾を撃ち込みました。これは1953年3月日本に向けて発して以来、37年ぶりの主砲発射でした。さらにその後もミズーリは何度も艦砲射撃を行い、イラク軍砲台を沈黙させ続けるなど、この戦争では重要な役割を担いました。

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このアメリカ軍の侵攻によってイラク軍は沈黙を強いられ、1991年2月28日、イラクはソ連提案の停戦協定に同意し、湾岸戦争はここに終結しました。この結果ミズーリは3月中旬には中東を離れ、オーストラリアおよびタスマニアを経由して帰国しました。

こうして、太平洋戦争、朝鮮戦争、イラク戦争と三度の戦争に投入されるという極めて稀な経験をすることになったミズーリですが、ついにその退役の日を迎えます。現役最後の活動は、シアトル、バンクーバー、サンフランシスコの訪問を行い、これら各地でイラク戦争での活躍に対する賞賛を受けることでした。

その後1991年の感謝祭の翌日、更に最後の任務に出発しましたが、この任務とは、太平洋を横断しハワイで真珠湾攻撃50周年記念式典に参加し、ここに永久保存されることでした。

ちょうどこの年、1991年12月25日にはソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立し、ソビエト連邦は解体されました。このソ連崩壊に伴いアメリカ合衆国に対する脅威は低下し、国防予算の徹底的な削減が行われることとなったのが、ミズーリの退役の直接的な理由でした。

戦艦を運用する高額なコストはもはや効果のない浪費と考えられ、ミズーリは1992年3月31日付をもって、正式にカリフォルニア州ロングビーチで退役しました。

1998年5月4日、海軍長官ジョン・H・ドルトンはホノルルに所在する非営利団体の戦艦ミズーリ保存協会に艦を寄贈する契約書に署名します。艦はワシントン州ブレマートンからオレゴン州アストリアの港に牽引して廻航され、コロンビア川の河口で船体に付着したフジツボや海草を除去し、そののちストリアで2日間公開されました。

ハワイへの航海も自力ではなく牽引によるものであり、太平洋を渡ったのち真珠湾でフォード島のドック入りしました。そして、ここで最終的な化粧を終えたミズーリは1999年1月29日、アリゾナ・メモリアルの後方に係留され、ここで博物館として公開されるようになりました。

この当初真珠湾でミズーリを公開するという動きには多数の抵抗があったといいます。太平洋戦争終結の象徴であるミズーリを、真珠湾攻撃を象徴するアリゾナ記念館と並んで公開することによって、アリゾナの存在意義が薄れるのではないかと危惧する人が多かったためです。

これに対してミズーリ公開時のセレモニーにおいて、ミズーリはアリゾナ記念館の後方に、アリゾナに向けて艦首が向くように係留されました。これにより、その後ミズーリの後部甲板で行われることになる各種セレモニーの際に、その参加者がアリゾナ記念館のほうを直接望むのを妨げるように配置される形になりました。

艦首をアリゾナ記念館に向けるこの決定は、アリゾナ船内に葬られる戦死者が平和の元に眠るのを見守ることができるようにするためだとの公式発表があり、このコメントはミズーリとアリゾナの個々のアイデンティティを保持することを助け、同じ湾内に2つの記念物を保持することに対する市民の賛同を得るのに役立ったといいます。

日本人の我々からすれば、どうでもいいといったら失礼になるかもしれませんが、どちらかといえば理解のしがたい微妙な配慮です。が、彼等にとっては、太平洋戦争の開始の際の屈辱の遺物と、最後における歓喜の象徴それぞれが同じ場所にあって記念館として存在するというのは複雑な気持ちなのでしょう。

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実は、ミズーリはアメリカ海軍が完成させた戦艦としては最後のものとなります。今や電子装置を満載したイージス艦が主力であり、こうした巨大な軍艦は不要なものとされており、世界を見ても新たに戦艦を建造している国はありません。

従って、歴史的にも過去の産物といえ、日本の降伏調印もなされた歴史的な建造物ともみなされるということで、1971年5月には、アメリカの国定歴史「記念史跡」として登録を受けました。

しかし、アメリカ各地にある古い教会や集会所のような国定「歴史建造物」としての資格はありません。その理由は1986年の再就役で近代化されたときにオリジナルの設備の多くが撤去され、新装備を配置するため多くの改造がなされたためです。

一方のアリゾナは、1989年5月5日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されています。また、その上部に新たに建設された記念館も含めた「アリゾナ・メモリアル」は1966年10月15日に国家歴史登録財に登録されています。

同じ戦艦でありながら、ミズーリは「記念史跡」にすぎず、アリゾナは「歴史建造物」だという仕分け方もまた、我々には理解しがたいところがありますが、もうひとつの違いとしては、ミズーリは艦自体が勲章を受けているのに対し、アリゾナは受けていません。

ミズーリは第二次世界大戦の戦功で3つ、朝鮮戦争の戦功で5つ、湾岸戦争の戦功で3つの従軍星章を受章していますが、アリゾナに受賞経歴はありません。

戦役に投入される前に沈没したということもありますが、ミズーリは記念すべき勝利の象徴であるため賞予に値しますが、アリゾナは、心ならずも敗北を喫した悪夢の記憶にすぎず、勲章を与えるのは違う、ということなのでしょう。

そう考えると、日本の原爆ドームが世界遺産として認定されようとしたとき、アメリカがこれに強く反対した、という理由がよく分かる気がします。

このアメリカの敗北の象徴であり、太平洋戦争の勃発点ともなった、アリゾナからは、現在でもオイルが漏れだしているそうです。近くまでいくと、海面まで上昇しているのを目視できるそうで、このオイルは「アリゾナの涙」または「黒い涙」と言われることもあるといいます。

2001年に発売されたナショナルジオグラフィックス誌では、アリゾナの隔壁の腐食により漏れ出しているオイルが真珠湾の環境悪化に大きな影響を及ぼしているとし、これに対し米海軍はオイル流出や隔壁の腐食を継続的にモニタリングしていくと述べているそうです。

実は、1950年代においてはアリゾナをすべて廃棄処分にするとの議論がなされていました。しかし、保存の声が高まり、このため1958年にアイゼンハワー大統領が記念碑の建設を承諾し、50万ドルの予算が個人の寄付で賄われることになりました。しかし、実際には20万ドルあまりが政府から助成金として支給されたようです。

この記念碑建設への寄付者の中にはハワイ州関係者のほかに、著名なテレビ番組や世界的に有名なミュージシャンのエルヴィス・プレスリーなどのほか、後に日系人初の上院議員となるダニエル・イノウエ、も含まれていました。

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ダニエル・イノウエは、1963年から50年近くにわたって上院議員に在任していた長老議員であり、上院民主党の重鎮議員の1人でした。2010年6月28日に最古参であったロバート・バード上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、またこれに伴い慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出、亡くなるまで同職にありました。

上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなります。また第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に従軍し、数多くの栄誉を受けました。

祖父は福岡県、祖母・母は広島県の出身で1899年(明治32年)に福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)から渡米しました。1924年(大正13年)にホノルルで生まれ、その後ホノルルの高校を経てハワイ大学マノア校に進学しました。私の母校でもあります。

ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、これによりアメリカが第二次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願、その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦いました。

第442連隊戦闘団は、日系アメリカ人のみで編成された部隊で、ヨーロッパ戦線に投入されるやいなや枢軸国相手に勇猛果敢な奮闘ぶりを見せました。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示しており、アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られています。

第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどはこの団のほか、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属されました。

イノウエも第442連隊戦闘団に所属し、イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて激戦を経験しましたが、1945年4月21日にドイツ軍兵士の使用したグレネードランチャーによって右腕を負傷し切断、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院を余儀なくされます。

しかし、その後多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられるようになっていきます。ミシガン州バトルクリークには、イノウエら負傷兵の名を冠した病院が作られたほどです。

最終軍歴は陸軍大尉であり、戦後1947年名誉除隊されました。しかし右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめ、ハワイ大学に復学して政治学を専攻し、1950年に学位を得て同大学を卒業。

卒業後、ジョージ・ワシントン大学の法科大学院に進学し、1953年に法務分野での博士号を取得。1954年に同じく退役軍人のエルトン・サカモト、サカエ・タカハシらとCentral Pacific Bankを設立しました。

この銀行業で成功し、その後は政界に進出したイノウエは、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選し、1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選、アメリカ初の日系人議員となりました。

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1963年には上院議員となり、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォータゲート事件、1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びました。また、1980年代に、日米間の貿易摩擦が政治問題化した際には、対日批判の急先鋒として立ち回りました。

しかし、晩年は日本に対して融和的で、2007年には中華人民共和国や韓国が主張する「慰安婦強制連行説」については、大日本帝国軍人はむしろ慰安婦への暴行を抑制していたと主張し、日本政府がこの問題を謝罪し続けてきたことを取り上げ、あらたに謝罪を求めることに反対したといいます。

カリフォルニア州ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある全米日系人博物館の理事長も務め、2000年6月21日には軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されました。

2008年アメリカ合衆国大統領選挙においては、ヒラリー・クリントン上院議員を支持しましたが破れ、2010年の中間選挙おいても所属する民主党は上下院共に苦戦を強いられますが、自らは再選を果たしました。

1996年に前妻と死別していましたが、2008年1月29日に「全米日系人博物館」館長 アイリーン・ヒラノと再婚しています。それからわずか4年後の2012年12月、ワシントンD.C.郊外のメリーランド州ベセスダにあるジョージ・ワシントン大学附属病院に入院し、同月17日、呼吸器合併症のため死去。88歳没。

死去の前、「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思うよ。」と語り、最後の言葉は「アロハ(さようなら)」だったそうです。ちなみに、アロハには、こんにちは、の意味もあります。

死去に際して、同じくハワイ出身のオバマ大統領は「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表したのに続き、パネッタ国防長官、クリントン国務長官、上下両院の軍事委員長らが相次いで功績を称えました。

同月20日、遺体を納めた棺が合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれました。大広間に遺体が安置されるのは、エイブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、イノウエ議員は全体でも32人目、かつアジア系の人物としては初めてここに遺体が安置された人物となりました。

しかし、その墓所は、ホノルルにあります。国立太平洋記念墓地で、ここは通称、パンチボールと呼ばれており、これはその形がフルーツパンチなどを入れるボールの形に似ているためです。私がハワイ在住中に最も好きだった場所のひとつであり、その頂上付近からは、ホノルル市街はもちろん、ダイヤモンドヘッドなども一望に望めます。

実は元火山であり、その火口部分である約47万平方メートルもある広大な敷地内には、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで戦死した3万人以上の兵士らの魂が安らか眠っています。

また、ここには第二次世界大戦のイタリア前線でイノウエ議員と共に戦った第442連隊戦闘団の面々も眠っています。記念墓地正面には国の歴史的建造物に指定された高さ10mほどもある女神像があり、女神像へ登る階段の両側には石の厚板が並び、戦没者の名前が刻まれており、とても厳粛な気持ちになります。

なお、イノウエ議員のような軍人だけでなく、1986年にスペースシャトル「チャレンジャー」号の事故で亡くなったハワイ出身の宇宙飛行士のエリソン・オニヅカ氏など4万人以上の魂が眠っています。

2013年5月、アメリカ海軍の新造アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の艦名が「ダニエル・イノウエ」に決定したと発表されました。戦後、69年。アメリカに敗れた日本人の名前が初めてアメリカの軍艦につけられることになるわけです。時代の流れを感じます。

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忍者の国から

2014-1438前回、ひさびさにタエさんがこのブログに参戦しました。最近、少し心境の変化があったようで、今後はときどき、私の代わりを務めてくれるつもりのようです。今後とも期待してやってください。

さて、7月中は、天気は良い日が多かったのですが、大気が不安定なのか、富士山が見える日が少なかったように思います。

それが、8月に入ってからは良く見える日が続いており、真夜中に双眼鏡でのぞくと、黒々としたその姿が視野に入ってきます。ただ、真っ黒というわけではなく、そこには、一筋、二筋と、光の列が見えます。夜間登山をする人達が手に持つライトが、麓から頂上まで延々と続いているわけです。

ここへ住むようになって最初のころは、何だろう、と不思議に思っていたものですが、訳を知ってからは驚かなくなり、最近は夏の夜の窓を飾る風物詩になりました。

そんな夏の日のこと、実は先日、山口に住む母方の叔父が亡くなりました。たしか、80を過ぎていたはずですが、長らく認知症を患い、最近はほとんど寝た切り状態で、それでも頑張っていましたが、この夏の暑さのせいか、ついに力尽きたようです。

元自衛官でしたが、それだけに頑強な肉体を持った人で、たしか剣道は七段か八段だったと思います。生粋の長州人で、それだけに幕末の志士たちが大好きだったようです。家業は農業でしたが、自らも武士の末梢だったらしいことをほのめかしていたことがあり、たしか、自宅にあった古い蔵には古い甲冑やら太刀やらがしまってあったかと思います。

この叔父が住まう土地は、「伊賀地」といい、これで「いかじ」と読みます。平成の大合併で今は山口市に編入されましたが、かつては「佐波郡徳地町」に属しており、この徳地町は現在の山口市全域の40%近くをも占めるという、広大なエリアを持っています。

しかし、山川と田畑がほとんどであり、住居地域はほとんどない、はっきり言ってド田舎です。

ところが、ここは太古には朝廷の直轄地だったそうで、徳地県(あがた)が置かれ、伝説では、出雲種族が移民し開発した一帯です。日本に天皇制が定着したころの初期の天皇で、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父である、景行天皇が熊襲(くまそ)を征伐した際には、その征討をここの人達が手助けをしたといいます。

熊襲というのは、日本神話に登場してくる、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々です。現在の熊本県の球磨川上流域から大隅半島にかけて住んでいたとされる部族で、5世紀ごろまでには大和朝廷によって平定されて臣従するようになり、これがいわゆる「薩摩隼人」といわれる武士集団の先祖という説もあるようです。

この熊襲の首領は、渠師者(イサオ)といい、その下に梟師(タケル)という複数の頭を持つ小集団がたくさんあって武士団を形成していましたが、このころの大和王権にはまだ力がなく、武力では押さえられないので策略で熊襲を成敗しようとしました。

このためまず、イサオの娘に多くの贈り物をしててなづけ、この娘に父に酒を飲ませて酔わせました。そしてイサオが酔いつぶれて眠っている隙に、景行天皇の手のものが弓の弦を切り、無力化たして上で、イサオを殺害したそうです。

このイサオの暗殺に組みしたのが、この徳地に住む人々だったとされるわけですが、このころの朝廷は奈良県の桜井市あたりにあったらしく、ここはその後、忍者の発祥の地とされる「伊賀」の地からは直線距離で50キロほどのほど近くになります。

従って、景行天皇が熊襲の平定の際に派遣した兵の中には、その後「伊賀国」と呼ばれるようになるこの土地の人々も含まれており、その人々が事が成ったあとも徳地に住みつき、やがてその荘を「伊賀地」と呼ぶようになったのではないか、と私は推定しています。

無論、なんの歴史的な証拠もないわけですが、私の叔父のように武術が優れた人達が、江戸時代まではずっと「忍者」としてその武技を伝統として蓄えつつも、現業としては農業に就き、現在に至ったのではないか、という想像は、いかにもロマンを感じさせます。

もっとも、この叔父は私の母の妹が嫁いだ先の主であるため、私に忍者の血は流れていません。が、この家には私よりも二つ年下の従弟がおり、仲がよかったため、夏休みになると、しょっちゅうここに泊まりがけで遊びに行っていたものです。

近くに佐波川という川があり、この川でカニや魚を取ったりしたり泳いだりと、楽しかった思い出がよみがえります。

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実は、この川の上流にこの当時建設中だった「佐波川ダム」には、私の実父が旧建設省の役人として赴任しており、父はここでの勤務がご縁で、この叔父の嫁の姉、つまり私の母と結婚をしました。

母と叔母はこの伊賀地からそう遠く離れていない、仁保という村に住んでおり、ある時にこのダム建設現場の役人とのお見い話を持ってきた村人がおり、それからとんとん拍子にその結婚話が進んだ、ということのようです。

従って、この佐波川が流れる徳地という場所は、私にとっても少なからぬご縁のある土地柄です。古くから良質の木材の産地として知られ、鎌倉時代には、1180年に焼失した華厳宗大本山である東大寺(奈良県奈良市)の復興に使う木材をここから切り出したと言われているそうです。

森林地帯であることから当時この一帯には生業がなく、東大寺の木材調達のために訪れた「重源」という僧侶が村人の貧困を憐れみ、紙や茶の製造を教えたと伝えられています。以降、紙製造はこの地域の産業となり、毛利藩政時代には藩の事業として大いに発展しました。

その後、この徳地紙は名産品として全国に知れ渡ったといい、紙の買い付けに北前船の商人たちが訪れ、街が大いに賑わった時代もあったようです。が、この紙製造業は、明治に入り藩の後ろ盾がなくなるとともに衰退していったようです。

この重源和尚もまた、現在の奈良県の生駒出身の人です。従ってこの伊賀地のある徳地を訪れたのも、近くに住み、熊襲の平定に尽力した伊賀国の人々の紹介であったかもしれません。木材を調達する場所は、熊野を始め、紀州方面にはいくらでもあるのに、わざわざ山口くんだりまで来る必要はなく、この推定はもしかしたらあたっているかもしれません。

このころ東大寺は、治承4年(1180年)の平氏政権による南都焼き討ちによって灰燼に帰しており、後白河法皇は直ちに復興の意思を表し、その責任者として重源を大勧進職に任命しました。

当時、61歳だった重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事しました。

また、重源自身も、京都の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼しており、途中、多くの課題もありましたが、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建されました。

このときの木材のやりとりの中で、伊賀国の人々と徳地の伊賀地の人々の交流があったことは想像に難くなく、もしかしたら、伊賀地の名前はこのころに定着するようになったものかもしれません。

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いわゆる、「伊賀流」の忍者たちは、ちょうどこの鎌倉時代から室町時代にかけての時代に勃興しています。このころの伊賀国は小領主が群雄割拠し争っているような土地柄であり、このため、民は自らを守るためゲリラ戦の技を磨いていきました。これが伊賀の忍者の起こりとされています。

伊賀は古琵琶湖層に由来する粘土質の土壌のため、農耕に苦労する土地柄でした。特に、渇水になると深いひびが入り、水田は壊滅的打撃を受けます。そのため、伊賀の者は傭兵として各地に出稼ぎをするようになったのです。

戦国時代、伊賀には伊賀守護・仁木氏の傘下に属しながらも、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い自治共同体が形成されていました。しかし、実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く、合議を開いても彼らの意見に従うことが多かったようです。

ただ、その後伊賀と並んでその後忍者の巣窟とされるようになる「甲賀」には、「惣」と呼ばれる自治共同体を形成しており、各々が対等な立場にありました。これは多数決の原理を重んじる「伊賀惣国一揆」の運営ぶりとは対照的です。

甲賀と伊賀は、現在の新東名高速を隔てて、北に甲賀、南に伊賀、という位置関係にあり、一般的には伊賀と甲賀は互いに相容れない宿敵同士というイメージがあります。しかし、実はこれは誤解であり、両者はいわば一つ山を挟んだ言わば隣人同士です。

争いあっても何の得も無く、むしろ、伊賀の人々と甲賀の人々は常に協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう約束していたようです。

そんな中、天正7年(1579年)、伊賀忍者の一人・下山甲斐は仲間を裏切り、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し、侵略を進言しました。下山の言葉に乗った信雄は、ただちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにします。

ところが、信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまいます。これが「第一次伊賀の乱」です。この結果に激怒した信長は、勝手に軍を動かした信雄を絶縁すると脅して戒しめる一方、2年後の天正9年(1581年)には自ら、およそ4万の兵を率いて伊賀に攻め込みました。

これを「第二次伊賀の乱」といい、驚いた伊賀の人々は、すぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意します。しかし、かねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の一人・多羅尾光俊の手引きにより、伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこないました。

これにより、伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正時代の第二次伊賀の乱は終わりを告げました。

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その最後の段には織田方の大倉五郎次という人物が柏原城に入って、和睦の仲介に入り、一方、伊賀方は惣名代として滝野吉政という武将が城を出て信雄に会い、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けました。

こうして伊賀勢の命は保証され、伊賀の地にもようやく平和が訪れたかにみえましたが、やがて本能寺の変がおこります。この政変で信長が死んだことを知った伊賀忍者たちは、ふたたび一斉蜂起し、各地で信長の跡を継いだ秀吉の軍勢と争いを繰り広げるようになります。

この本能寺の変の直後、堺にいた徳川家康は、伊賀の服部正成らに助けられ、護衛されながら三河国へ逃げ戻った話は有名です。この出来事をその後徳川家では「神君伊賀越え」と呼ぶようになりますが、その後徳川の時代になって以後も伊賀忍者たちが徳川に保護されるようになるのは、このときの出来事に起因しています。

一方、甲賀忍者のほうはというと、この地が信長を経て豊臣秀吉の支配下に入ると、家康の監視活動を主な任務に命じられるようになりました。その結果、敵対する徳川方では伊賀忍者を甲賀忍者追討の任に当てがうようになりました。

こうしたことが、のちに江戸時代になって、「伊賀忍軍対甲賀忍軍」という形で講談や読本の題材になるという結果を生みました。が、前述のとおり、もともとはこの両者はよしみの深い、同盟関係にありました。

しかし、はからずも両者は徳川と豊臣との代理戦争の手先となって争うようになり、その結果徳川が勝って、伊賀は上述の「伊賀越え」の功績を認められ、徳川幕府におおいにひきたてられるようになりました。

一方、秀吉側についた甲賀衆は秀吉の家臣中村一氏の支配となりましたが、関ヶ原で豊臣が負け、徳川の世になると、これら甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していくこととなりました。

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徳川家に重用されるようになった服部正成は、一般に「服部半蔵」として知られており、この名はこれ以降、世襲されていきます。また、その配下の忍者集団を率い、これは「伊賀組同心」としてその後幕府に召し抱えられるようになります。

初代服部半蔵である正成自身も忍者であったかのように言われることも多いようですが、正成自身はむしろ普通の戦働きでならした侍であったようです。正成は、伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった服部保長の四男として三河国に生まれました。

なぜ、伊賀ではなく、徳川の本拠地であった三河だったのかはよくわかりませんが、もしかしたら人質に出されていたかもしれません。いずれにせよ伊賀と徳川は古くから縁が深かったことがわかり、その後正成は長じてからは父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江国掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねました。

16歳のときに、徳川の宿敵今川方の三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立て、この際、家康から持槍を拝領したといいます。このときから、徳川には忠誠を誓ってやまない、譜代の臣下となっていったのでしょう。

天正7年(1579年)に家康の嫡男信康が織田信長に疑われて遠江国二俣城で自刃に追いやられたとき、正成が検使につかわされ介錯を命ぜられました。

このとき正成は「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙して介錯をすることが出来ず、この顛末を聞いた家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と正成をより一層評価したといいます。

天正18年(1590年)の小田原征伐で家康に従軍し、その功により遠江に8000石の知行を得るところとなり、家康の関東入国後は、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を拝領するようになりました。

このように、正成自身は忍者ではなく、武将としての経歴が際立ちます。しかし、父親が伊賀出身であったこともあり、江戸幕府の成立とともに徳川家に召し抱えられることになった故郷の伊賀忍者たちの集団をも統率する立場になっていきました。

伊賀を藤堂家が統治して以後は、伊賀忍者たちは「無足」という士族階級を保障され、扶持米を支給され、支配階級に組み込まれていきました。このため、その後江戸期を通じて勃発した各種の内乱、例えば天草の乱のような乱の討伐戦をはじめ、全国の多くの一揆鎮圧に伊賀衆が派遣され、活躍するようになります。

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その後も伊賀衆は、徳川幕府の親衛隊のような立場を貫いて行き、それは幕末まで続きました。幕末のペリー来航の際、伊賀者の沢村甚三郎という人物が偵察のため黒船に潜入したという話も残っており、正成の子孫で、12代目の「服部半蔵」を称した服部正義は、桑名藩家老となり、慶応4年、鳥羽・伏見の戦いに桑名軍を率いて参戦しています。

が、明治元年には転戦した柏崎の鯨波戦争では破れて降伏。官軍に身柄を拘束され謹慎処分となります。その後、桑名藩の戦後処理の終了と共に謹慎が解かれ自由の身となり、桑名藩の要職を務めたあと明治19年(1886年)に没しています。詳しいことはわかりませんが、おそらくはこの服部家は現在まで続いているのではないでしょうか。

一方では、伊賀国の忍者たちは、その後江戸時代にはその多くが帰農し、農民になっていきました。享和3年(1803年)正月の中瀬村(現伊賀市)の記録によると、村の農民側から無足身分である忍者に対して、農民と同様の「棒役」を務めるよう要請がありましたが、忍者側が士族の身分であることを盾にそれを拒否したところ、村八分にされました。

棒役というのは、祭りの際に出る、山車の前後に一対づつある梶棒を担当して、山車の楫を切る役のことです。それまで子供としてお囃子を担当していた者が15~18歳位で「若者」に仲間入りを果たして、この時初めてもらう役割であり、この棒役になった時点から、懸かり物(=組費)を納める義務が発生します。

つまり、棒役を務めるということは、農民と同様の立場になるということであり、身分上は武士であった伊賀衆はこの棒役になることを不服として村役人に訴え出ました。が、村役人側は、士分としての身分を放棄して帰農するか、あるいは士分のまま棒役を務めるならば仲介には立とうと申し渡したといいます。

このことからわかるように、江戸時代には武士として忍者をやめて帰農しても「抜け忍」のレッテルを押されることはなく、穏便に地域との融合を図りつつ、農民として振る舞えるようになるよう役人たちも尽力していたことがわかります。

つまり伊賀忍者たちは、武士をやめても処罰されることはなく、やがて長い年月の間に武士の立場を維持しつつも帰農していったのです。私の叔父が住まう伊賀地にも、古くからの付き合いによってこの伊賀国から多くの忍者たちが移り住み、その多くは江戸時代の太平の世において、次第に無足の立場を捨てて農民になっていったのでしょう。

そう考えると、叔父の家の倉に甲冑やら刀やらが治めてあった理由もわかります。そうした先祖からの遺物を子供のころから眺めて育った叔父が、お父さんやお爺さんからそうした言い伝えを聞き、やがて武道に励むようになっていったのも自然のことのように思えます。

その叔父も亡くなり、山深いこの家を守るのは叔母一人になってしまいました。二人息子がおり、その一人が私と親しかった従弟ですが、彼は東京に家を持ち、ここを継ぐ気はさらさらないようです。

もう一人の次男も農業を続けるつもりはなさそうで、そうすると、伊賀忍者の住処であったかもしれないこの土地と家も早晩、廃墟になっていくのかもしれません。

今回、この叔父の葬式には仕事の関係もあり出席することはできませんでしたが、いずれ郷里に帰った際には、線香を手向けにこの地を再び訪れたいと思っています。そこには昔と変わらない美しい伊賀の里があるはずであり、今もその美しい風景が目に浮かんできます。

ちなみに、この伊賀地のある徳地には、「重源の郷」という体験型交流公園があります。緑豊かな里山に茅葺き屋根や水車など、昔懐かしい山村風景を再現した、一種の田舎のテーマパークであり、たしか開業してから15年近くが経っているはずですが、いまだに営業を続けていられるというのは、それなりの人気があるからでしょう。

その名の通り、上述の重源和尚にちなんで作られた施設で、昭和初期の山村風景を再現したこの郷では、徳地の豊かな自然や特色ある歴史、文化にふれられると同時に、紙漉きや木工、竹細工、紙細工など、さまざまな体験をすることができます。

もし、山口に行かれることがあれば、こうしたひなびた施設で、時間を忘れてのんびりとした1日を過ごすのもいいかもしれません。

以下にリンクを貼っておきますので、ご興味のある方は一度そのHPも訪れてみてください。

重源の郷」山口県山口市徳地深谷1137

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数字のメッセージ

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こんにちは。突然ですが、タエです。

先日、ムシャと買い物に出かけた道すがら、私たちの車の前に一台のタクシーが入ってきました。そんなことはよくあることで、いつもなら気にもとめないのですが、いつもとは違っていたことがありました。それは、タクシーのリアウィンドウに貼ってあった車体番号です。

車体番号“515”。その数字は、9年前に亡くなった私の母の命日…5月15日と同じ数列だったのです。

その番号を見てもう一つ思い出したのは、私が半年前にそのタクシーに乗ったことがあるということでした。約半年前の1月下旬、私は義母の入院先である病院から美容院へ向かうため、タクシーを利用しました。

伊豆へ越して来て2年目にして初めて乗る地元のタクシーです。年末に山口から遊びに来た義母が、我が家に着いたその晩に股関節を骨折・入院して以来、「非日常」な日常が続いていたこともあって、車内の私はいつも以上にテンション高め。

30代後半くらいの運転手さんと、結構プラベートナことまでおしゃべりしていました(タクシーに乗ると、情報収集も兼ねて話しかけるのが私の常です)。

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その内容はほとんど覚えてないのですが、降りる段になってしゃべりすぎたことを少し反省していたとき、目に入ったのが車体番号の“515”。

「この番号って、母の命日と同じなんですよ。しゃべりすぎたのも、そのご縁ということで、許してやってくださいね」とかなんとか言い訳したことだけは鮮明に覚えています。

「いやぁ、私も楽しかったです」と笑顔で答えてくれたあの時の運転手さん。その見覚えのある眼元が、前を走るタクシーのバックミラーに映っています。そうこうするうちにタクシーは右折し、私たちの視界から消えてしまいました。

「このタイミングで“515”って、お母さんからの何かのメッセージかな?」
「さぁ・・・」問いかけられたムシャも首をかしげるばかりです。

でも、それだけではありませんでした。

そのあと買い物をした1件目のスーパーで支払いをしたところ、レジで受け取ったお釣りが「622円」。次に立ち寄ったお店で支払った金額が「6224円」。両方に共通する数字“622”は、母の誕生日6月22日を表わす数列なのです。

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そんなのただの偶然じゃないか。きっと多くの方がそう思われるでしょう。けれど、我が家には、この誕生日や命日にまつわる不思議な偶然がたくさんあります。

その代表的な例として私がよく話のネタにしているのが、私の家族の誕生日です。

先ほどふれた母の誕生日の6月22日。この数列を逆にした2月26日が父の誕生日なので、二人は生前よくこの偶然を、夫婦仲のよいカップルの印のように自慢していました。もしそれが運命で定められたパートナーを探す目印になるのであれば、こんなにわかりやすい目印もありません。それなら私も自分の誕生日の数列を逆から並べ替えた誕生日の彼を探せばよいわけです。

しかし、残念ながら私の誕生日は12月21日。逆から読んでも12月21日なので、「な~んだ、私はひとりで完結しちゃってるのね。それか、同じ誕生日のパートナーを探せってこと?」なぞと、自嘲気味に思っていたものです。

それが、長い長いパートナー探しの旅に疲れ果てた末たどりついた(?)元同級生のムシャは、12月21日の数字をそれぞれ足した3(1+2)月3(2+1)日生まれ。彼の息子は、12月21日をバラして並べ替えた11月22日生まれ。

それを知った時は「はぁー、そう来たかー」と、ひとりで感心したのでした。

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長かった独身時代にも、父と同じ誕生日の男性や女友達と親しくなったり、好きになった相手と友達が同じ誕生日だったり(そういうケースは2件ほどありましたが、どちらの場合もあえなく玉砕)・・・あまりにそういうことが重なるので、あるとき霊的な能力のある方に聞いてみたことがあります。

すると、その方曰く、そういったことはすべての人に当てはまる法則ではなく、私にとってのサインとして現れる現象なのだとか。つまり、私に何かメッセージ的なものを感じ取らせるためのサインとして、誕生日(や命日etc.)の法則があるみたいなのです。

結婚してからもこの種の偶然は続きました。私の父は、2000年の12月25日(ミレニアムクリスマス)に亡くなったのですが、この12月25日というのは、ムシャの姉の誕生日。今年知り合った地元の町内会の役員の男性も、同じ誕生日だということがわかりました。

また、現在千葉でキャンパスライフを満喫している11月22日生まれの息子くん。彼が去年の秋からつきあいだした1年後輩の彼女の誕生日が、同じ11月22日だというのです。

こうなってくると、これらの数字のメッセージに意味を感じないわけにはいきません。

この世で起きてくることに偶然はなく、すべては必然。ユーミンの歌にもあるように「目に映るすべてのものはメッセージ」だとしたら、それを見落とさないようセンサーの感度をつねに磨いておきたいものですね。

ところで、最初にふれた亡き母からの数字のメッセージ・・・それは、その2日前の出来事を母が喜んでくれたサインなのだろう、と私の中では結論付けたのですが・・・
その出来事についてはまた、次の機会に譲らせてもらいましょう。

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今年も花火の季節になりました

2014-3-10807318月になりました。

今年ももうあと5か月かぁ~と嘆くのはあまりにも早すぎますが、まだまだ半年ある、と思っていた先月に比べ、確実に今年という年の時間が減っていっているのは確かであり、出来れば年内中には成し遂げたいと思っていることも、そろそろ拍車をかけねば、という気分になってきます。

そのことと関係があるのかどうかよくわかりませんが、この8月の始まりである、8月1日というのは、やたらに記念日やら行事が多いようです。ここを押さえておけば、あとはなんとかなる、というわけなのかもしれませんが、水の日、観光の日、花火の日、バイキングの日、麻雀の日、肺の日、パインの日など続々です。

バイキングの日というのは、1958年のこの日、帝国ホテルに、北欧風の食べ放題料理「スモーガスボード」を提供するレストラン「インペリアルバイキング」がオープンし、このことこから、日本では食べ放題のことを「バイキング」と呼ぶようになったのを記念した日で、帝国ホテルが2008年に制定したものだそうです。

麻雀は麻雀牌のパイ=81の語呂合わせであり、パインや肺も同じくごろ合わせ。これはその筋の業界が定めたのだろうとすぐに想像できますが、そのほかは必ずしもごろ合わせではなく、水の日や観光の日などのように何やらあいまいな理由で無理やり役人が定めた記念日もあります。

8月1日が花火の日になったのは、第二次世界大戦後、GHQによって花火が解禁されたのが1948年のこの日であったことや、東京の花火問屋で大規模な爆発事故があったのが1955年8月1日だったこと、さらに、世界一とも言われる花火大会、大阪の「教祖祭PL花火芸術」が毎年この日に行われるからだそうです。

PLとは、ご存知の人も多いでしょうが、「パーフェクト リバティー教団」の略で、この花火大会はこの教団の「宗教行事」と位置付けられていて、毎年雨天でも決行されます。花火大会としてその打ち上げ数では日本最大かつ世界最大級のもので、約30万人の人出があるとされ、花火が見える範囲の周辺市町は毎年見学者であふれかえります。

教祖を讃仰し、PL教団の礎を築いた初代・二代教祖の遺徳を讃える祭(教祖祭)の中の一行事で、当初はその打ち上げ数は10~12万発程度とされていましたが、2008年からは数え方を改め、小さなものは数え入れないようにし、純粋に丸玉の総数に変更したため、現在では2万発が公称値となりました。

従って当初より規模が小さくなっているわけではなく、予算もほとんど変わっていないといいます。が、それにしても2万発はかなりの規模です。

主会場である、富田林市内には打ち上げ場所近くに教団関係者でなくとも利用できる有料観覧場所が設けられますが、無論一般の人も同市及び、各周辺都市で見ることができ、遠くは大阪市内や、東大阪市・北摂・北河内・泉州地方ばかりでなく、神戸市などでも鑑賞できるようです。

とくにラストに打ち上げられる花火はおよそ8000発の花火は、「超大型スターマイン」と表現され、その際は南河内一面に花火の音が地響きの様に轟き、一瞬昼のように明るくなり、「壮絶」と表現できる規模だそうです。

淡路島や奈良県北部の天理市あたりからも気象条件等によっては見ることができるそうで、いかに大規模な花火大会かは想像に難くありません。「裸の大将」として有名な山下清画伯もこの花火を書いた絵を残しています。

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かつては7月末ないし8月初旬に開催されていたそうですが、近年では8月1日に固定されており、どんなに雨が降ってもやるということなので、かつては昭和57年台風第10号の豪雨の中でも開催されています。もっとも、8月1日は晴れの特異日でもあるようなので、もともとは雨の降りにくいころでもあります。

PL教団の初代教祖である御木徳一は晩年、「自分が死んでもこの教えが世に広まるのであれば、死ぬことは世界平和のためになる。だから、私が死んだら嘆いたりせずに花火を打ち上げて祝ってくれ」と常々話していたそうで、これが毎年花火大会が行われるようになったゆえんです。

この初代が亡くなったあと、息子であり二代教祖でもある御木徳近氏はその遺志を継ぎ、1953年、お父さんと自身の故郷でもある愛媛県松山市での教祖祭で、初めて花火を打ち上げました。しかし、以後の教祖祭は大阪府富田林市の大本庁において行われるようになり、1963年には名称を「PL花火芸術」と改めています。

これを契機に花火はより華やかになり、関西地方では夏の風物詩として定着しました。他の花火大会などに比べてもこの花火は特大に大規模であるため、花火が行われる付近では各種の規制が行われるなどの大きな影響があります。

とくに開催日が8月1日と固定されているため、この日が平日に当たった年などは、帰宅ラッシュと重なるため周辺への影響はより大きくなります。このため、周辺各都市を走る電車やバスの各路線は、増便などの臨時ダイヤでの運行を余儀なくされる一方で、路線によっては、花火大会時間中の運行を休止するところも多いようです。

一般道路も、開催地近くでは当日13時から翌日7時まで付近の歩道橋が通行禁止となり、交通規制が施かれます。近くの小中・高等学校・大学などの学校では、多くの生徒が鉄道やバスなどの公共交通機関を使って通学するため、これが運休すると帰れなくなるため、午前中で完全下校となり、場合によっては一日中閉鎖される学校もあるそうです。

さらには、衣料品店・家電量販店・ガソリンスタンド・自動車ディーラーなども、この日は商売にならないそうで、当日は早々から閉店時間を早めるか、臨時休業するそうで、富田林市内では従業員の帰宅などを考慮して、閉店時間を早める店が多くあるといいます。

私は元々人ごみが嫌いなので、こういう花火大会にはあまり近寄らないようにしていますが、昨年、一昨年と、馴染の大工さんが、狩野川沿いの一等地に用意した桟敷席に呼んでくださったので、ここで行われた「大仁花火大会」では、かぶりつきの花火を見ることができました。

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それにしても、すごい人ごみであり、私は、いつもこうした大きなイベントに行くたびに人気(ひとけ)に当たって、少々げんなりして帰ってくるのですが、こうした人ごみが多いところではやはり盗難やら喧嘩なども多く、さらには事故が起こることも多いものです。

記憶に新しいところでは、2001年7月21日の明石花火大会における歩道橋事故があり、このときは、花火大会の観客が歩道橋で群集雪崩を起こし、死者11人・負傷者247人の大惨事になりました。

この大会では、警備にあたっていた警察や自治体の対応の不備が浮き彫りになりましたが、多くの人でごった返す場所でこうした人の流れの管理するのは、少ない人数ではやはり大変であり、全責任を負えというのは少し酷な気がします。

過去の事故の例としては、本番ではなく準備中に起きた事故も多く、前述のとおり、8月1日が花火の日とされた理由のひとつは、東京の花火問屋で大規模な爆発事故があったことです。1955年8月1日のこの事故は、「玩具問屋爆発事故」とされ、東京都墨田区厩橋で、おもちゃ花火問屋で準備されていた花火が爆発して、死者18人を出しました。

これ以前からも花火の事故は多くあったようですが、統計が残っているのは1950年代ごろからのようで、とくに1950年代から1960年代にかけては花火工場の爆発事故が多く、毎年10人以上の死者が出ていた時代もあったそうです。

多くは花火工場が爆発し従業員が死亡するというものでしたが、近隣の建造物や一般人の生命に危害を及ぼしたものもあり、これらの事故により花火製造に関する規制は徐々に厳しくなってきており、新しい花火製造ラインを申請して認可されるのはかなり難しくなっているようです。

花火の事故としては、このように花火工場における製造過程での事故などの準備段階での事故と、花火大会当日の実演時の事故とに大きく分けられます。

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一方、実演時の事故として最近のもので大きいのは、1989年8月2日の横浜花火大会爆発事故があり、この事故では山下公園前海上の台船で打ち揚げていた花火の火が、他の打ち上げ前の花火に引火し花火玉325個が爆発。花火師2人が焼死し、7人が負傷しました。

また、2002年8月の、北海道の勝毎花火大会では、二尺玉花火の破片3.4kgが観客席に落下し、小学3年生が直撃を受けて死亡しました。

海外の事故で大きいのは、2000年5月13日におきたオランダでの事故で、これはオランダのエンスヘーデにあった花火保管倉庫に保管されていた100tの中国製花火が爆発し、20人以上が死亡、900人以上負傷、1,000人が住居を失ったというものです。

この事故は街にオランダ史上第二次世界大戦以来と言われる壊滅的被害を与え、その被害総額は8,900万ドルに上りました。

5月に花火?と思うかもしれませんが、日本とは異なり、諸外国では冬をピークに花火大会が行われるそうで、日本のように夏に集中するのではなく、年間を通じて花火が消費されているようです。

ただ、日本でも最近は、自治体の緊縮財政などで消費が伸び悩んでいる中で、打ち上げ花火大会を見送る自治体も増えており、これに対応するため、花火業者たちは年間を通した小口での販売へとシフトする傾向が出てきているといいます。

とはいえ、まだまだ日本では、花火の消費は夏に集中しており、そのほかの季節は需要は少ないようで、これは、そもそも花火大会が、夏の到来を記念する「川開き」の際に催されてきたことに起因しているようです。

こうした花火を支える花火業界の実情をみると、敗戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されましたが、以後は逆に外国からの輸入が増え、とくに現在は中国からの輸入が増えています。

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その理由としては、国内の多くの花火業者は地元に根付いた零細・中小企業が多く、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっているため、生産量を増やせない、といった理由があるためです。

中国製は2000年頃から徐々に増え始め、いまでは、全国で行われるほとんどの花火大会で、打ち上げられている花火の6~7割が中国製であるといわれており、全部の花火が中国製、という花火大会もあるようです。その内容は何をかいわんやですが、最近は日本からの技術輸出も増えていて、中国産とはいえ侮れないレベルの花火に仕上がっています。

一方、国産花火の打ち上げ花火の製造には半年以上かかり、ほとんどの工程が手工業で量産が不可能であり、また、危険な業種でもあることから、その美しさには定評のあるものの、なかなかこれを使った花火ばかりで大会を開くのは難しいのが現状です。

それにしても、これほど花火大会が増えたのは最近のことで、1980年代には、名のある花火大会といえば、せいぜい10~20くらいでした。

しかしその後、安価な中国産花火が大量に輸入されるようになったことに加え、1985年に鍵屋十四代天野修が電気点火システムを開発すると、少人数で比較的安全に打ち上げができるようになったことから、花火大会の数は激増しました。

日本煙火協会によれば、2004年に行われる花火大会は200近くにのぼるといい、協会が把握していない小規模なものもあるため、実数ではその倍近くもあるのではないかと言われています。

ちなみに、鍵屋というのは、花火の打ち上げ時の掛け声、「玉屋~、鍵屋~」のあれで、これは現存する日本で最も古い花火業者です。1659年(万治2年)に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出したのが始まりであり、弥兵衛はその後研究を続け、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号とするまでになり、これが代々世襲するようになったものです。

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一方の玉屋のほうはというと、1843年(天保14年)に、その製造元である玉屋の店舗で火事が起き、この火が燃え広がって江戸の半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動を引き起こしました。玉屋はこの失火を幕府からとがめられ、財産没収の上、お江戸追放となり、僅か一代で家名断絶となってしまいました。

鍵屋のほうはその後も生き残り、多くの花火業者がここから暖簾分けで増えていきましたが、それらの多くが現在の国産花火の製造元の起源となっています。中国製花火が増えているとはいえ、こうした江戸時代から伝わる花火製造技術を伝承する「花火師」は、花火大会が増えていることもあり、これを志す若者が増えているといいます

単に「カッコ良さ」だけでなく、伝統技術を受け継ぐとともに、花火を通して、「多くの人を楽しませ、感動と夢を提供する」といったことに共感を持つ若者も多いといい、昨今のような就職難の時代において、こういう大志を抱く若者が増えているというのはとても喜ばしいことです。

ただ、「花火師」と一口ではいうものの、これは花火を製作する「花火職人」だけではなく、その打ち上げをコーディネートする人達や、国産や外国産花火の輸出入に携わる貿易関連の人達も含まれます。

この業界では製造・打ち上げをしている業者を「花火師」、打ち上げ・企画のみの場合は「花火屋」あるいは「打ち上げ屋」と称しているようで、このほかにも後片づけを専門にやっている業者もあるようです。

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いわゆる花火師の業務形態は大別すると、以下のようになるようです。

・煙火企画・製造・仕入れ・販売・委託
構想から火薬の調達、配合、星作り、組立、仕上げ、貯蔵までの一環作業を行う。製造を行っていない業者もおり、これは製造業者への発注、完成玉の仕入れをする。

・企画、消費許認可代行
花火大会やこれに関連する運動会、学園祭、結婚式などのイベント、各種祭りを企画し、実施にあたっての資材運搬・搬入、設営、打ち上げ、撤収、事後点検などを行う

・輸出入等貿易業務
中国産花火など外国製の花火の輸入のほか、国産花火の他国イベントへの売り込み営業、外国での国産花火による打ち上げのコーディネートなど。

ただ、これは大分類であって、それぞれをひとつの業者がこなしているわけではなく、例えば工場を持たず、企画と打ち上げ業務のみ、製造販売のみを行うなど、各業者によりその守備範囲は異なります。

これら花火師さんたちの仕事は、当然ながらその業務の最盛期は夏場になります。このため年間を通じて、それだけで食っていくというのは大変ですから、とくに花火の製造・販売業者さん達のなかには、花火以外のイベントの企画や貿易業を兼業で行って年間を通じて安定した収入を得られるよう頑張っているところもあるようです。

それにしても、花火の製造は火薬を取り扱うこともあり、危険極まりない仕事であり、また真夏の炎天下での打ち上げ準備や本番での打ち上げは、肉体的にもかなり厳しい仕事といえます。

一般の人がイメージする「花火師」も、「花火を作る人」もしくは「花火大会で花火を打ち上げている人」でしょうが、その重労働を厭わず、伝統芸であると捉えて真剣な取り組みを続けるためには、やはり花火が好きでないとやっていられないでしょう。

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しかし、最近のように花火大会が増えてくると、こうした職人さんたちの存在も確かに重要ではあるものの、これ以外に花火打ち上げの総合的な企画・演出を高いレベルで創造できるプロデューサー的なポストも重要視されてきています。

最近の日本の花火界は、欧米の影響を受け、花火大会そのものだけでなく、これを他の催し物と合わせて実施するよりエンターテイメント性の高いものに方向が変わってきつつあるといいます。

伝統的な日本の花火といかに融合させ、活かし、そしてより観客を楽しませるかが、最近の花火大会のプロデューサーに求められており、そのためにはこうした人達は当然ながら花火づくりにも精通し、芸術面、営業面でも手腕を発揮できる人でなくてはなりません。

最近の花火製造業では、各種規制によって新規に大規模な工場を造ることが難しくなっており、このため、花火製造ラインを持っている工場は減る一方であり、こうした業者さんの中には、それまでの経験を生かし、こうしたプロデューサーに転向する向きも多いそうです。

そもそもは企画・演出の仕事ですから、性別は関係なく花火に関われるということで、女性の中にもこうした花火コーディネーターを目指す人が増えているといいます。

国産の花火は、その一発一発が「芸術作品」とも言われ、花火職人達が創意工夫を重ねて完成度を高めてきたものですが、今後はではその花火を用いて、「いかに観客を楽しませるか」をテーマに花火大会全体の打ち上げを統括し、一幕のショーとして成功させるための演出が不可欠となっていく時代になっているといえます。

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一方、このエンターテイメント性、という点に着目すると、現在、日本が欧米などと比べてやや立ち後れている分野が「特殊効果花火」だそうです。

とくにアメリカでは、映画や演劇、イベント、ショーなどでこうした特殊効果花火が使用されることが多く、ハリウッドでの映画産業を中心にこうした技術は飛躍的に進歩してきました。

現在、多くの映画がSFX と呼ばれるコンピューターによる特殊映像で製作されていますが、それでも爆発、炎上などのシーンはCGで創るのは難しく、実際に火薬が使用される場合がほとんどです。

ちょっと前の映画で「インデペンデンス・デイ」というのがありましたが、この映画ではホワイトハウスの爆破シーンなどでかなり高度な技術が効果的に使われたそうです。

こうした映画ではミニチュアのセットをいかに「効果的に爆破するか」が大きなテーマであり、この映画の爆破担当の特殊効果の専門家は専用の爆破装置を考案したりと、かなり知恵を絞ったそうです。以後、他の映画でもこうした技術が伝承され、そのレベルは世界でもトップレベルだといいます。

日本とアメリカでは、消防法の規定が異なり、映画産業の規模なども違うため、アメリカと同様にというわけにはいきませんが、こうした花火による特殊効果分野のエキスパートは、今後の日本の花火業界においても需要が高く、発展性の高い専門職であると考えられます。

ただ、現在の日本ではどうあっても、アマチュアが趣味で火薬を使って花火を造り、打ち上げることはできませんから、こうした技術を学ぼうにもなかなかそういった教育機関はありません。さらに技術的な問題もあり、そもそも火薬の入手が困難ですし、仮に購入できたとしてもこれは非常に高価な部類に入る薬品です。

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その昔、花火といえば米相場と同様に資産を食いつぶす「道楽」でもあり、金持ちのお大尽の遊興の対象でもありました。現在でも、花火は非常に高価なものであることから、企業などのスポンサーがつかないと打ち上げがきまりません。

花火の種類、複雑さ、花火師により価格が大きく異なりますが、一般的な打ち上げ花火の一発あたりの相場は、10号玉までの小さいものなら、だいたい6万円どまりですが、これが20号玉ともなると、一発が55万円ほどもし、正三尺玉ともなると、150万円、最も大きい正四尺玉に至っては、一発約260万円もするそうです。

ところが、最近は実際に打ち上げなくても、コンピュータを使って花火づくりと打ち上げの両方を疑似体験できる「花火シミュレーションゲームソフト」があるそうで、その代表的なものとしては「花火職人になろう」なるソフトです。

自分で考えて作った花火で競技会を勝ち抜き、賞金で工場を拡張、師匠を凌ぐのが最終目標というゲーム性の高いもののようで、薬品の込め方で実際の打ち上げが変化する、といった細かいシミュレーションもできるといい、花火シミュレーションとしては出色の出来です

ただ、シミュレーションとはいえ、優れた玉を生み出すには相当時間の試行錯誤と根気が必要だそうで、この点も実際の花火づくりと似ています。

現実に火薬を扱って好みの花火を上げてみることはできませんが、これなら自宅にあって花火師の修業ができるため、花火大会のプロデューサーのようなエンターテイメントを目指す人が花火の作り方を学ぶにはうってつけのソフトかもしれません。

最近は、スマホ用のものもあるそうで、発売元ではこのソフトを使用して作ったオリジナル花火のコンテストも開催されていると聞きます。

今年の夏は、花火大会に行かず、自分のパソコン上で花火を上げてみるというのもいいかもしれません。みなさんもいかがでしょうか。

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虚無僧たちの夏 ~旧修善寺町(伊豆市)

2014-4052最近、やや心境の変化があり、活発にフィールドに出るようになりました。伊豆に落ち着いて3年目に突入し、ようやくあちこちの様子が分かるようにもなり、そうなると、まだ行ったことのない場所への興味ががぜん沸いてきたのが原因であり、そうした場所をしらみつぶしのように漁っています。

暑い夏でもあり、そんな中でもとくに最近よく行くのが渓流や滝といった場所です。

山がちの場所の多い伊豆では、ちょっとクルマを走らせればどこにでも、といったかんじで川があり、そこから少し山合いに入ればこれが渓流となり、さらに奥へ奥へと分け入ると、あちこちに滝があります。

名のないものが多い中で、有名なものとしては、演歌でご存知、浄蓮の滝や、河津町にある河津七滝(ななだる)などがあり、このほか有名どころは、万城の滝、旭滝、雄飛滝などです。

このうちの最後の二つ、旭滝と雄飛滝はウチからもクルマで十数分のところにあり、とくに旭滝の周りはきれいに整備されていて気持ちが良いので、ついつい長居をしてしまいます。

高低差100mあまりもある大滝で、細かくみると、6段に分かれており、真東を向いていて毎朝朝日を受けることから、この名がつけられたようです。

先日もここを訪れて、展望台から写真を撮り、ウチに持ち帰って現像をしていたところ、なにやらぼーっとした白い影のようなものが映っているのに気が付きました。ゴミかな、あるいはハレーションかなと思ったのですが、どうみても違うようで、拡大してみたりしているうち、これはあー「玉響(たまゆら)」だ、と気が付きました。

オーブ現象とも呼ばれる。写真などに映り込む小さな水滴の様な光球です。肉眼では見えず写真でのみ確認され、信じない人も多いようですが、霊魂が姿を現したものとされます。なぜに私の写真に写りこんだのかは謎ですが、一般に霊からの何等かの働きかけがあるときに現れるといい、私に何かを伝えたかったのかもしれません。

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実はここには以前、功徳山瀧源寺という伊豆では唯一の普化宗の寺院がありましたが、明治初年に廃宗となりました。修験宗などとともに、普化宗では葬式をしなかったそうで、虚無僧たちの亡きがらはここにあった本堂の境内に埋葬だけされていたようです。

江戸時代にはここにその本堂と観音堂があり、本尊であった、木彫11面観音菩薩立像と木彫不道明坐像の2体は静岡県の県指定文化財となり、この旭滝のある谷から尾根を一つ隔てて南側の谷にある、「金龍院」というお寺に安置されているそうです。

ちなみに、この金龍院というのは、北条幻庵の菩提寺になっています。北条早雲と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた3男で、早雲の男子の中では末子となります。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺であった、金剛王院に入寺しました。

箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られます。

幻庵はここで僧侶としても活躍しましたが、馬術や弓術に優れ、甲斐の武田信虎や上杉謙信との合戦にもたびたび出陣して戦功をあげており、早雲亡きあとは、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していました。天正17年(1589年)に死去。享年97という当時としては驚異的な長寿でした。

幻庵の死から9ヵ月後の天正18年(1590年)、後北条氏は豊臣秀吉による小田原成敗で攻めたてられて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡しました。

伊豆一帯は、この後北条氏とゆかりの多い場所が多いものですが、従ってこの旭滝のある近辺もまた後北条氏と縁の深い場所のようです。

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話しは戻りますが、この功徳山瀧源寺がなぜ廃寺になったかといえば、これは、明治に入ってからの明治政府による神仏分離令や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の余波によるものです。仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃した政策で、このお寺もこのときに廃されたようです。

神仏分離令は、そもそも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われ、結果として多くの寺も廃されるところとなり、これが廃仏毀釈といわれるようになったものです。

このとき、瀧源寺が廃寺となっただけでなく、普化宗そのものも廃宗となりましたが、その理由は、普化宗が徳川幕府の意向を受け、ある任務を帯びた特殊な宗派だったためです。普化宗は「宗」と称して仏門を標榜していましたが、実際には教義や信仰といった内実はほとんどなく、禅の修行のみが仏的な活動だったようです。

宗徒は、いわゆる「虚無僧」と呼ばれる人々で、尺八を「法器」と称して托鉢のために吹奏して日本中を行脚して回っていましたが、実際には諸藩の内情を探るといった、スパイ的な要素も強かったようです。

1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」には、この虚無僧を保護する旨の文々が書かれており、普化宗が江戸幕府からの保護を受けて特別の任務を持っていた、とされる根拠となっています。

そこには、普化宗の山門は、勇士である浪人の隠れ家であり、守護(警察)も入ることのできない宗門(禅宗)である。よって武家の身分である事を理解すべきである、といったことや、虚無僧は、木太刀、懐剣などを心にとめ所持しなければならない、といったことが書いてあります。つまりは仏門に入った人々というよりはむしろ、武士です。

また、武家としての正しい行いを見失わず、武者修行の宗派と心得なければならない、とし、このため、日本国中の往来を許可する、とも書いてあり、この一文をもとに、その後普化宗では、虚無僧としての入宗資格や服装なども細かく決められるなど組織化されました。

この文書により、諸国通行の自由など種々の特権を得ることになったため、いわゆる「隠密」の役も務めたとも言われます。今で言う「秘密警察」のようなものであり、しかも幕府御用達の特別警察です。

こうした江戸幕府との繋がりの強かった秘密組織を明治政府が残しておくわけはありません。このため、宗派そのものは、1871年(明治4年)に解体されなくなってしまい、これと同時に旭滝がある場所にあったような普化宗のお寺の多くが廃寺となったり、他の宗門に吸収合併されたりしました。

しかし、明治23年(1890年)に東福寺の塔頭(たっちゅう、祖師や高僧の墓塔の側に建てられた小院)である善慧院に「明暗教会」として復興されたほか、戦後の1950年(昭和25年)には、宗教法人として「普化正宗明暗寺」が再興されており、現在では普化宗は復活しています。

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廃仏毀釈前の普化宗の総本山は、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)にあった、金龍山梅林院一月寺でした。

また、武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)にも廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、この二寺を中心として、全国に普化宗末寺120を持つほどの大組織を持つまでになりましたが、廃仏毀釈後の一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となりました。

昭和になってから復興した明暗寺は、京都市東山区にありますが、この「明暗」というのは、時代劇でよく虚無僧が首からぶらさげている箱に書いてあるあれです。一見宗教的な意味を持っているように思えますが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味です。

この箱には名称があり、偈箱(げばこ)といいます。が、「明暗」の文字は江戸期にはなく、明治末頃から書かれるようになったもので、虚無僧の姿を真似た大道芸人が虚無僧の雰囲気出すために用いたものが流行るようになったものです。

従って、江戸時代がテーマの映画やドラマに出てくる虚無僧が下げている箱に「明暗」と書かれているのは時代考証的には間違いということになります。

偈箱の、「偈」とはこれすなわち尺八の譜面のことです。この中には偈の他、お布施等が入っており、江戸時代には、天皇家の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、「明暗」などとは書かれてはいませんでした。

現在の時代劇では、よく虚無僧の恰好をして世間を欺く人物が描かれたりしますが、江戸時代にも実際にこうした偽物の虚無僧が横行していたようで、こうした偽虚無僧も本物らしく見せるためにこの皇室の裏紋を用いていたようです。

この当時の虚無僧の装束としては、深網笠をかぶり、白の手甲、脚絆に草鞋、あるいは草履、下駄等をはき、手には尺八、左手に数珠、また左の腰には袋に入れた替え笛を挿し、偈箱を首からさげている、といった風情です。

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この虚無僧のトレードマークともいえる尺八ですが、これを門徒の虚無僧たちに使うように広めたのが普化宗の開祖といわれる、「心地覚心」です。もともとは、臨済宗の僧で、29歳の時に奈良東大寺にて受戒、高野山で真言密教を学びますが、さらに密教禅を深めるために、1249年(建長元年)にこの当時「宋」であった中国に留学しました。

5年ほどで帰国し、その後多くの宗教家に影響を与えましたが、この帰国の際には中国普化宗の4人の高僧を伴って帰ってきており、この4人は、紀伊由良の興国寺山内に「普化庵」という小寺を建ててもらってここを居所としました。

4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていき、これがさらに全国に広がることで、普化宗は大組織になっていきました。

この4人の中国僧のパトロン的存在だった心地覚心が、尺八を中国から持ち帰って広めたとされるわけですが、実は尺八はこれ以前からもありました。有力な説としては7世紀ごろに唐の学者で呂才という人が考案したというものがありますが、日本に伝来したのもこのころのことのようです。

「尺八」の名前の由来は標準の長さが一尺八寸である事に由来していると言われています。日本に伝わった時は雅楽楽器として伝わりましたが、平安時代頃には使われなくなってしまいました。その後、鎌倉時代になって、これを基にしたと思われる「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる縦笛が広まりました。

これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものであり、尺八と比べるとやや細めです。義経が九条大橋の欄干に立って吹いていたのは横笛ですが、おそらくはこの一節切の発展形でしょう。この一節切は武士の嗜みの一つとしてこの当時の武家社会で大いに流行し、上述の北条幻庵などもその名手の一人として知られ、所蔵の一節切が残っています。

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「田楽法師」と呼ばれるこの当時の旅芸人の中には、これを吹いて物乞いをする集団が現れ、やがてはこの集団は、「薦僧(こもそう)」と呼ばれるようになりました。

この集団がやがて普化宗と結びつき、「薦僧」の音がもじって、「虚無僧」となっていったと考えられます。心地覚心はちょうどこのころ日本では廃れていた尺八を携えて宋から戻り、自身が興した普化宗の門徒の間で広めたと考えられます。

この心地覚心が持ち帰った尺八の演奏技術は、「竹管吹簫(ちくかんすいしょう)」と呼ばれるもので、それなりの奥義であったようです。一節切の演奏方法にもこの奥義が適用されるようになり、さらに普化宗の創設とともに「法器」に指定され、形も工夫されて現在に伝わる尺八に変わっていきました。

が、一方の一節切は17世紀後半に全盛を迎えたのち、その後急速に衰退していきました。ちなみにこのとき、心地覚心は尺八以外にも「金山寺味噌」を持ち帰っており、これは彼が宋で学んだ径山寺(きんざんじ)で製造されていた味噌の製法を模したものと言われています。

やがて、虚無僧と呼ばれるようになった普化宗の門徒たちは、尺八を吹き喜捨(金品を寄付すること)を請いながら諸国を行脚し、修行するようになっていきました。しかし「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在であり、有髪の僧でした。

最初のころは普通の編笠をかぶり、白い小袖を着て袈裟を掛け、刀を帯しただけといったシンプルな姿でしたが、江戸時代になると徳川幕府の命によって、「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶることが強要され、足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つという固定スタイルになりました。

幕府は、上述のとおり、「慶長掟書」を普化宗に与え、そこには「武者修行の宗門と心得て全国を自由に往来することが徳川家康により許された」との記述があったため、これをもって虚無僧は普通の人がいけないような場所にも行くことが許されていました。

しかし、その原本は徳川幕府や普化宗本山である一月寺や鈴法寺にも存在しないため、実は偽造ではないかともいわれています。最初のころはたしかに幕府からスパイを命じられることもあったかもしれませんが、そのためだけに永世許可証を与えられるとは考えにくく、普化宗門徒たちが自分たちの特権を守り続けるために捏造したのでしょう。

が、真偽のほどはわかりません。とはいえ、幕府からもその存在が認められた天下無双の秘密警察、という暗黙の了承が世間でまかり通るようになり、幕府も野放しにしていたことから、やがては罪を犯した武士でも普化宗の僧となれば刑をまぬがれることたができるようにまでなりました。

江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が偽虚無僧になって横行するようになり、このため、幕末近くになると、幕府は虚無僧を規制するようになりました。しかしその後、明治維新を迎え、新政府は明治4年(1871年)、普化宗を廃止する太政官布告を出しました。この結果、虚無僧たちは僧侶の資格を失い、民籍に編入されることになりました。

しかし、前述のとおり、明治21年(1888年)に京都東福寺に明暗教会が設立されてからは、虚無僧行脚が復活し、現在に至っています。

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とはいえ、現在に至っても本当に虚無僧はいるのか?という疑問がわきます。調べてみたところ、「虚無僧尺八」の愛好者として、この京都東福寺善慧院内の明暗教会会員が約200名ほど、東京新宿区の法身寺というところに本部を置く「虚無僧研究会」のメンバーが約600名ほどもいるとのことで、両会に重複している人を除けば700人程度になるようです。

ちなみに、江戸時代でも虚無僧の数も数百人程度だったそうで、あまり実数はかわりません。ただ、これら現代の虚無僧愛好者もまた、江戸時代と同じように日常的に虚無僧姿で全国行脚しているかというとそうではなく、各会がそれぞれ年1、2回開催する大会に出席するか、何かのイベントがあると虚無僧姿で尺八を吹くだけのようです。

とはいえ、こうした会員の間での、普化禅師の禅、普化道を究めようとする精神性は高いそうで、そうした意味では江戸時代の、純真な虚無僧の精神を引き継いでいるといえるようです。

ちなみに、虚無僧が、自宅を訪れたとき喜捨を断わる場合には、「手の内ご無用」と言って断わるそうです。「手の内」とは、手のひらです。そして、何かものをもらう時には手のひらを見せて「ください」とやるわけです。

つまり、「手の内ご無用」とは、「手のひらを見せないでください」、つまり、「托鉢お断り」の意味になります。お宅にある日突然、虚無僧が現れたら、試してみてください。無論、ありがたく拝んで、喜捨を行うほうが功徳があるに決まっていますが。

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こうした「純正」の虚無僧以外にも、尺八の愛好者は多いようで、その吹奏人口については正確な人口は不明ですが、推定では3万人程度もいるといわれているようです。

現行の尺八は、真竹の根元を使用して作る五孔三節のものです。古くは一本の竹を切断せずに延管(のべかん)を作っていましたが、現在では一本の竹を中間部で上下に切断してジョイントできるように加工したものが主流です。

これは製造時に中の構造をより細密に調整できるとの理由からのようですが、結果として持ち運びにも便利になりました。材質は真竹ですが、近年では木製の木管尺八やプラスチックなどの合成樹脂でできた安価な尺八が開発され、おもに初心者の普及用などの用途で使用されています。

明治時代以降は、西洋音楽の影響により、七孔、九孔の尺八も開発され、五孔の尺八に比べれば主流ではないものの多様な音が楽しめるためか、こちらを好んで使う人もいるようです。

現行の尺八の管の内部は、管の内側に残った節を削り取り、漆の地(じ)を塗り重ねることで管の内径を精密に調整します。これにより音が大きくなり、正確な音程が得られます。

これに対し「古管」あるいは「地無し管」と呼ぶ古いタイプの尺八は、管の内側に節による突起を残し、漆地も塗りません。正確な音程が得られないため、奏者が音程の補正をする必要があります。

尺八はフルートと同じく、奏者が自らの口形によって吹き込む空気の束を調整しなければなりません。リコーダーのような縦笛なら、歌口の構造の工夫があるため初心者でも簡単に音が出せますが、尺八やフルートで音を出すには熟練が必要です。

しかし、口腔内の形状変化や流量変化等により、倍音構成はよく通る音色や丸く柔らかいものなど、適宜変化させることができ、メリ、カリ、つまり顎の上下動(縦ユリ)、あるいは首を横に振る動作(横ユリ)によって、一種のビブラートをかけることができます。

これによって、フルートなどの息の流量変化によるビブラートとは異なり、独特の艶を持つ奏法が可能であり、こうしたところも尺八の愛好者が多い理由でしょう。ひとつひとつ微妙に構造が変わる尺八のもつ個性もまた様々に音色を変化させるため、これもまた愛好家にとってはたまらない魅力となっているようです。

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尺八にも流派があり、組織として大きいのは「都山流」というそうです。1896年(明治29年)、といえば、明治21年(1888年)に明暗教会が設立されてからわずか後ですが、この年に、「中尾都山」という人が興した流派のようです。

中尾都山は独自の記譜法を使い、箏の奏者で文筆家としての評価も高かった宮城道雄という人らとも積極的に交流し、尺八と琴の合奏を広めました。この都山流はすぐに全国に広まって大組織となるとともに、この流派の所属者の中からは洋楽を学んだ作曲者も出て、新しい曲を作曲して多様なスタイルで演奏されるようになり、現在に至っています。

しかし江戸時代には、「琴古流」というのが主流だったようで、この流派は元黒田藩の藩士であった黒沢琴古という人によって創始されました。江戸へ出て一月寺や鈴法寺の吹合指南役となりましたが、天賦の才があったようで、この際にそれまでの尺八曲の整理を行い、全36曲の琴古流本曲を制定しました。これが尺八の世界では「古典」とされるものです。

その後3代に渡って、「黒沢琴古」の名跡を残しましたが3代目で途絶え、琴古流はその後、弟子の荒木古童らが隆盛を築いていき、現在も続いています。ちなみに、この荒木古童の名跡も現在、6代まで続いており、この6代目荒木古童の本名は荒木半三郎さんといい、自らCDを出し、こうした活動から数々の世界的な賞を得ています。

尺八曲に「滝落」という曲があり、古典本曲をやっている人ならば、「おぉぉ・・あれか・・」というほど有名な曲なのだそうです。そして、これは先の琴古流の36曲の中に入っている一曲だそうです。

その尺八の名曲は、冒頭で述べた旭滝から生まれたと言われており、現地に行くと、滝のすぐ側にそのことが書かれた説明板が建てられています。この地にあった寺は廃されてしまいましたが、ここで生まれた曲は今も残り、この地に伝えられていた虚無僧たちの精神もまた現在に伝わっているわけです。

写真に写っていた大きな玉響は、おそらくはこの地で修業を重ねていたかつての虚無僧であり、きっと私に今日これまでに書いてきたことなどをきちんと伝えてくれよ、と言いたかったのに違いありません。

あるいは前世でスパイだったこともあるらしい私にシンパシーを覚えて出てきてくださったのかもしれませんが、実は先にこの滝を訪れたときから、ずーっと右肩が痛いのが続いており、これはもしかしたら何等かの霊的なメッセージなのかもしれません。

それが何であるのか、解き明かされる日が来るのが楽しみです……

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