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サイロシティ 1900

写真は、米東部、バッファローにおける1900年(明治33年)頃の写真です。

バッファローはニューヨークからおよそ西北へ500km。五大湖のひとつエリー湖の東端に接し、ナイアガラ川の始点に位置します。すぐ北側に向かってナイアガラ川が北上し、この川はナイアガラ滝を経て、カナダ側のオンタリオ湖に達します。

この地方におけるヨーロッパ人の入植は、1758年のフランス人による入植地の開基をはじめとします。バッファロー川の河口に築かれたこの入植地一帯は、1825年にエリー運河が開通すると、ニューヨーク市と直結され、その商業上の価値を増しました。

通商のための拠点となるととともに、ナイアガラ滝を利用して作られる豊富な電力によって工業が盛んとなり、20世紀初頭では鉄鋼都市として知られるまでになり、数カ所の製鉄所が煙を上げていました。




こうして、入植当初、約2400人だったバッファローの人口は急速に増加し、1832年に市に昇格した当時の人口は1万人を超えたといいます。

バッファローではまた、20世紀初頭から穀物産業もさかんとなり、アメリカ中西部の穀物が大量に運び込まれました。このため、街の中心を流れるバッファロー川沿いにはアメリカ最大規模の穀物倉庫が多数建設されました。

とくに、ビールの原料となる麦芽、それを製造するための大麦を貯蔵する大型サイロが立ち並ぶようになり、その後、穀物生産はさらに大規模になっていきます。

それにともなってサイロも大規模化すると高さ20メートル(ビルでいうと6~7階規模)直径7メートルもあるような巨大な「タワーサイロ」と呼ばれるようなものが次々と出現してきます。そしてやがてこの一帯は「サイロシティ」と呼ばれるようになりました。冒頭の写真がそれです。

下の写真の背後にそびえるのは、そのなかでも最大のサイロ、「グレートノーザンエレベーター」で、1897年に完成した当時は世界最大のサイロでした。

グレートノーザンエレベーター

「エレベーター」の呼称は、この巨大なサイロに穀物を搬入するエレベーターが併設されていたからです。

このころ、米中央部のグレートプレーンズと呼ばれる穀倉地帯でも、高さが40mを超える規模の穀物倉庫が数多く建設され、「プレーリーの摩天楼」と呼ばれる特異な景観を見せました。大型化したことにより巨大なエレベーターにて搬入を行うようになり、田舎にあるエレベーターという意味で「カントリーエレベーター」呼ばれることもあります。

また、穀物集積地にあるものをターミナルエレベーターと呼び、米南部のニューオーリンズはアメリカ合衆国の穀物輸出の一大拠点で、ターミナルエレベーターが多く設置されていました。バッファローのそれもまたターミナルエレベータといわれるべきものです。



さらに20世紀後半に入ってからの米各地のサイロは、鉄筋コンクリート製、スチール製、そして強化プラスチック製と多様化していきました。サイロシティに今もそびえ立つ背高のサイロの数々は、レンガ造りのレトロなものからコンクリート製、鋼板製の巨大サイロまでさまざまです。

しかし、タワーサイロは穀物を詰め込む作業から、取り出して船に積み込む作業まで、いずれも重労働です。そのうえ修理やメンテナンス費用が大きくて、新規に建てようものなら数千万円もかかりました。

このため、やがて低コストで、しかも重機を使って作業ができる、ラップサイレージやバンカーサイロなど低型サイロに移り変わっていきました。1993年ころまでにはほぼその役目を終えましたが、使われることの少なくなった塔型サイロは、現在に至るまで放置されています。

グレートノーザンエレベーターも1980年代後半、当時の所有者ピルズベリー社によって放棄されました。この建物はバッファロー川地区でも最も古いもののひとつですが、ほとんどが現在は稼働していません。

現在のサイロシティ(一部)

バッファローでは20世紀後半からは主要産業であった鉄鋼業も衰退し、治安悪化と市街地荒廃が深刻となっていきました。

ただ、近年は市街地再開発が進み、医療、教育分野の育成が実を結び、今日では大都市でも治安はかなりいい方に数えられます。2001年にはUSAトゥデイ紙で「アメリカで最もフレンドリーな都市」であるとされました。また過去から現在に至るまで、すぐ近くにあるナイアガラ観光の基地としての役割も失ってはいません。




M4ガスマスク

ガスマスクを使った演習をするジョージ・キャンブラー軍曹 1942年9月 フォート・ベルヴォア、ヴァージニア。

フォート・ベルヴォアは、ワシントンD.C.のすぐ南に位置する場所で、現在、アメリカ陸軍情報保全コマンド(United States Army Intelligence and Security Command 略称:INSCOM)が置かれています。

1977年に、アメリカ陸軍の主要情報部隊を集約して出来た組織で、諜報、防諜、および情報作戦を行っています。INSCOMには、防諜、電子戦、および情報戦における重要な責任があり、さらに、I軍の近代化と訓練にも関わっています。

部隊防護(部隊の安全に関わる情報収集)も携わっており、よくわかりませんが、第二次世界大戦時には、その前身の組織が写真にあるようなガスマスクのテストを行っていたものと推察されます。




ガスマスクとは、毒ガス・粉塵・微生物・毒素などの有害なものや強烈な匂いをするものから体を守るために顔面に着用するマスクで、目など傷つきやすい組織や鼻・口を覆うものです。

初期の物は軍用ではなく民生用だでした。1799年にドイツの博物学者兼探検家で鉱山技師でもあった、アレクサンダー・フォン・フンボルトが開発した粉塵防護用の物が最初だと言われています。

1854年にイギリスでステンハウス式ガスマスクが販売されましたが、これは、普通のマスクに活性炭フィルターを付けた程度で目を防護する機能がありませんでした。

日本でも、幕末の1858年(安政4年)ごろに備後国の医師宮太柱が、銀山における防塵マスクとして、鉄の枠に梅肉を布で挟み込んだ「福面(ふくめん)」を開発し、石見銀山で使用したとされます。

1874年に酸素ボンベを背負って酸欠状態でも活動できるスバートン式が開発されましたが、これが現代でも消防で使用されている物の原型です。

アメリカ軍におけるガスマスク開発の歴史は、第二次世界大戦前あたりがはじまりと思われ、大戦中は「M4ガスマスク」が使用されていました。おそらくは写真のものがそれか、その改良形を実験している様子と思われます。




第二次世界大戦中には大規模な化学兵器戦は行われませんでしたが、各部隊にかならず装備されていたため、次のような本来の用途とは違う使い方もされていたようです。

・キャニスターのフィルターを浄水器の代わりにして飲料水を濾過する。ただし、フィルターが濡れているとガスマスクとして使用できないため、規則で禁止されていた。
・顔面を凍傷から守る防寒具。
・ガスマスクを携行するケース(布または金属製)を、雑嚢代わりに使う。

その後、第一次世界大戦が勃発し、化学兵器が大規模に使用されたことに対する防御手段として各国の軍に採用されるようになります。イギリス軍では、1915年2月に目を覆うゴーグルと民間用のガスマスクをセットにした簡易ガスマスクの支給を始め、その年の後半からは本格的なガスマスクを支給するようになりました。

旧ソ連軍では、自動車化狙撃兵(機械化歩兵)という特殊部隊がガスマスクを呼吸器として流用していました。

演習で戦闘状況に入ると装甲兵員輸送車のハッチがすべて閉められるため、車内の換気が極端に悪くなります。

このため、兵士たちは隔離式のガスマスクを装着し、吸収缶を外すとホースの先端を銃眼から外に突き出して、少しでも新鮮な外気を吸おうとしていたといいます。

アメリカ軍もその後、ガスマスクの改良を重ねています。米軍の装備には代々Mのアルファベットが付けられるのが慣習で、戦後の1960年代にM17ガスマスクが開発され、軍に採用されるとこれがベストセラーとなりました。以後30年にわたってM17A1、M17A2と改良されながら使用されています。

しかし、1991年の湾岸戦争で砂漠での使用に不向きであることがわかると、新型機の開発と配備が急速に進められ、 M40 Field Protective Maskが採用されました。2009年12月からは最新式のM50ガスマスクへの更新が進められています。


M40 Field Protective Mask


最新式のM50ガスマスク

このM50ガスマスクは核・化学・生物兵器に汚染された状況下で24時間の連続使用ができるといい、小型軽量で不快感を減らし、より効果的です。大きな特徴として、フィルターの使用期限が切れると青くなる指標が付けられているそうです。

ちなみに、日本の陸上自衛隊の防護マスクは、「個人用防護装備」の中に含まれており、平成12年に85式防護マスク4型および88式戦闘用防護衣の後継として採用されました。制式名称は「00式個人用防護装備」と呼ばれています。

平成13年から普通科教導連隊や第14普通科連隊等、警備隊区内に重要防護施設が存在する部隊から優先的に配布され、順次戦闘用防護衣との更新が進んでいます。

陸上自衛隊の個人用防護装備

全備重量:7.7kg。防護マスクは内蔵式であり、有毒ガス、液滴、空気中を浮遊する微粒子状物質から全身を保護します。マスクは旧型よりも視界が広くかつ目ガラスが従来のガラスから強化プラスチックに変更されています。また、従来品と違い眼鏡を着用している隊員もそのまま装着出来るように仕様変更されています。

防護マスクは、防護衣ともに有毒化学剤およびフォールアウト(核兵器や原子力事故などで生じた放射性物質を含んだ塵、放射性降下物のことで、一般には死の灰という)に対処できます。防護衣は汗を外部・内部へ発散することが出来るという優れものです。

しかし、地下鉄サリン事件において防護衣を着用した隊員が作業中尿意を催しても対処できず、実に8時間後作業終了後にトイレに駆け込む事案が発生したため、「排尿」を目的とした装備も封入されているそうです。

北の脅威が高まっている昨今、できるだけ使われないことを祈りたいものです。




The largest perfect crystal globe

写真は、世界最大とされる無色透明な水晶球です。

直径32.7cm、重量48.5kg。アメリカの国立自然史博物館所蔵で、水晶の後ろに立っている人物は、ジョージ・パーキンス・メリル博士(George Perkins Merrill、1854-1929)。

アメリカ合衆国の地質学者で、隕石や隕石クレーターの研究などを行っていた人物です。細かい経歴はわかりませんが、メイン州、Auburn に生まれ、メイン大学 (University of Maine)、コネチカット州のウェズリアン大学、ジョンズ・ホプキンス大学で学んだ後、1881年にスミソニアン博物館の学芸員となった、とされます。

1893年から1916年までジョージ・ワシントン大学(当時はColumbian大学)の地質学、鉱物学の教授も務めたのち、1897年、43歳のとき、スミソニアン博物館の学芸員長に任じられました。

全く無名の学者、というわけではなく、1922年に全米科学アカデミーの会員に選ばれ、J・ローレンス・スミス・メダルを受賞しています。鉱物学者、ローレンス・スミスの功績を記念して、全米科学アカデミーが、流星、隕石などの研究に関する研究に対して授与するもので、賞金は現在、5万ドルです。




このローレンス・スミス(John Lawrence Smith、1818-1883)のほうは、元医師で、鉱物学の分野で功績のあった学者です。1846年から1850年の間、トルコ政府のために、鉱物資源の研究を行い、ナクソス島の有名なエメリー鉱石の鉱脈を発見したことで知られます。

エメリーとは、19世紀末にカーボ ランダムの製造 が工業化されるまでは、研磨材の主体をなしていたもので、ギ リシヤやトルコ、北米などの主産地は重要資源でした。化学者としても知られ、倒立型顕微鏡を発明するなどの功績もあります。隕石の収集を行ったことでも知られ、スミスのコレクションは没後、ハーバード大学に寄贈されました。

メリル博士が学芸員長を務めたスミソニアン博物館は、正式には「スミソニアン国立自然史博物館:National Museum of Natural History)といい、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.にある博物館で、植物、動物、化石、鉱石、岩石、隕石の標本や文化工芸品など、総数にしておよそ1億2千5百万個を超えるコレクションを誇る、国立の博物館です。

スミソニアン博物館は、ひとつではなく、全部で15の博物館からなる「博物館群」であり、国立自然史博物館はその一つです。博物館の所有物はスミソニアン協会の所有物の大半を占め、またスミソニアン博物館群の中では二番目に人気が高いとされています。

また、およそ世界各国185人の自然史学者の拠点ともなっており、これは世界における自然及び文化史の研究に貢献する「科学者団体」としては、最も規模の大きいものです。

写真にある水晶玉がどういう由来のものかについては、いろいろ調べてみましたがわかりません。写真は1925年のもので、下にある最近撮影されたらしい写真の撮影年が2008年となっていることから、少なくとも83年以上の歴史はあるものということになります。

水晶玉とは水晶を球状に加工した物のこと。一般的に色の付いた水晶ではなく、無色透明な水晶が材料として選ばれます。定義の上では球状に加工した水晶であれば水晶玉と言えるので、その大きさは問われませんが、後述するように一般的に人間にとっては、その用途ゆえに扱いやすい大きさであることが求められます。

古くから作られてきたと言われているものの、いつ頃から作られだしたのかは定かではありません。

水晶は宝石の一種として扱われることもありますが、無色透明な水晶は地球の大陸地殻ではそれほど珍しい鉱物ではありません。しかも水晶はクォーツ時計など工業用途にも利用されるため、人工的に生産されることすらあり、こちらは「人工水晶」とよばれます。人工生産できるため、大きくて無色透明な水晶を入手することも比較的容易です。



しかし、天然の水晶は主に六角柱状の結晶として産出するので、円形にするためには加工が必要になり、大昔には貴重品でした。比較的硬い鉱物であるため曲面に加工するのは難しく、他の宝石ほど希少ではないものの、それを球状に加工することに高い希少性が発生します。

硬度が高くないため、近代においては身に着ける装飾品として使われることはそれほど多くはありませんが、大昔には希少な装飾用具のひとつでした。水晶にはこのほか呪術的な力があるとされ、昔からパワーストーンとして扱れてきました。

スクライング(scrying)に用いられることも多く、これは水晶を見つめることにより、眼に入った物理的光に対応しない視覚イメージ、すなわち幻視を得ることです。古くから占いの方法として用いられ、儀式魔術では霊的存在の姿を確認したり、霊界のビジョンが得られるなどとされてきました。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「水晶球」 (1902)

科学的な根拠は何らありませんが、透明な水晶は、純粋な白い光を反射して、強いヒーリングエネルギーを作り出し、すべてを浄化し、清めてくれる、といいます。

また「場のエネルギー」を整え、持つ人のエネルギーを高めたりする、といわれます。わが家には10cm大の水晶のほか、大小の水晶があり、家の中のパワーを高めてくれています。

各種の宝石店などで入手できますが、問題は人工のガラス玉をつかまされること。そうならないためには信頼できる店を選ぶことが重要です。

自分で見分ける方法はいろいろあるようですが、ひとつには、本物の水晶を通して細い線を見るとある一定の角度で二重に見えます。髪の毛か何かを透かしながら水晶を廻してみると、どこかで二重線になるはずです。

ガラスではこのような現象はおこりません。また、人工的な美しさと天然の自然の美しさとの違いは全く違います。自分の目を信じて確認してみましょう。




TORPEDO SHOP 1917

Title: NAVY YARD, U.S., WASHINGTON. TORPEDO SHOP
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: 1917. 大正6年
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は、アメリカ東海岸、ワシントンD.C.にある海軍工廠での写真で、“TORPEDO SHOP“は「魚雷工場」です。年は1917年、日本では大正6年で、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦、第一次世界大戦の真っただ中の写真です。



アメリカは、1917年4月6日にドイツへ宣戦布告しており、さらに12月にオーストリアに対しても宣戦布告しています。日本はこれより3年早く1914年にドイツに宣戦布告して、参戦しています。

この大戦でアメリカはドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国軍とたたかいましたが、目立った海戦は行っていません。が、ヨーロッパ戦線での戦闘を支援するためジョン・パーシング将軍指揮の下、大量の兵士を派遣しており、その兵員輸送のために海軍が総動員されています。

また、大戦中の1915年にドイツ潜水艦U-20により攻撃されて沈没したルシタニア号の事件やドイツの無差別潜水艦作戦などによって、世論ではドイツ非難の声が高まっており、ドイツとの海での海戦に備えての数々の準備を行っていました。冒頭の写真は大量の魚雷を製造している現場であり、おそらくはその一環だったでしょう。



魚雷は、大砲と比べ小型な発射機で運用できる上、たくさんの火薬を搭載して目標にぶつけることができるので、この当時から、モーターボートのような船でも大型戦艦を撃沈する能力をもっていました。

そのため魚雷が実用化された1870年代には、魚雷を搭載した小型艇として「水雷艇」が新たに開発されました。水雷艇は大型艦に肉薄し、魚雷による攻撃を行いますが、この水雷艇を駆逐し大型艦を守るために、逆に駆逐艦が開発されました。

ところがこの駆逐艦も魚雷が主兵装の一つだったため、やがては駆逐艦が水雷艇の役割も果たすようになり、現在に至っています。

さらに潜水艦による水中からの魚雷攻撃や航空機から投下される魚雷(航空魚雷)も第一次世界大戦中から実戦使用が開始され、第二次世界大戦中には対艦攻撃手段として広く用いられるようになりました。

現代の魚雷は目的により大きく2種類に分類されます。一つは主として対艦攻撃用の大型・長射程の魚雷であり、長魚雷(重魚雷)であり、もう一つは対潜水艦攻撃用の小型・短射程の魚雷で、短魚雷(軽魚雷)と呼ばれます。

初期の魚雷は制御装置をもたなかったので潮流や波の影響を受けやすく、目的の方向に真っ直ぐ進むことすらままならなかったようです。航走距離が短かったこともありますが、命中させるためにはできる限り目標に接近して発射することが要求されました。

第一次世界大戦の頃になると、深度、速度、進路の調整を可能にする装置が開発されました。これにより命中精度が向上するとともに、標的に対して放射線状に複数の魚雷を発射することや、航行する遠距離の艦船も攻撃目標とすることなどが可能になりました。

そのひとつ、Mk10はアメリカ合衆国で運用された魚雷です。E・W・ブリス社とアメリカ海軍魚雷局(Naval Torpedo Station)が開発したもので、1915年よりアメリカ海軍に配備が開始され、1945年まで用いられています。

冒頭の写真の撮影年は1917年であることから、このMk10だと考えられます。R級潜水艦やS級潜水艦において主兵装として搭載されました。対水上艦用の無誘導魚雷であり、アルコール・水併用の蒸気タービン推進であったようです。

Mk10は第一次世界大戦のみならず第二次世界大戦の全期間を通じ、潜水艦隊で運用され続けましたが、この魚雷の後継として開発されたものはいろいろ問題が多かったようです。

とくにアメリカ海軍が第二次世界大戦時に使用したMk13、Mk14、Mk15魚雷は当初性能が悪く、命中しても爆発しないことがたびたびありました。日本海軍に徴用された捕鯨母船第三図南丸は、1943年7月24日に米潜水艦ティノサから12発の雷撃を受けましたが、うち10発が不発でした。

船体両舷に不発魚雷10発が突き刺さったままトラック島に曳航されてきましたが、その魚雷が突き刺さった様がかんざしを髪に差した花魁(おいらん)のようだったことから「花魁船」と言われました。

また、ガトー級潜水艦タリビー、バラオ級潜水艦タングのように舵の故障により発射した魚雷が潜水艦自身に命中して沈没するという悲劇も生じました。両者とも、発射した魚雷のうち1本が、円を描いて自らに命中したのでした。

しかし、大戦末期になるとアメリカ軍はこれらの欠点を克服したうえ、TNT火薬の1.6倍の破壊力をもつHBX爆薬による魚雷を用いるようになり、日本の船舶に大きな被害を与えました。


サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ
で展示されたMk.14魚雷

現在、魚雷の推進方式には、電気、ガスタービンモノプロペラントなどさまざまなものがありますが、近年の魚雷には、推進器にポンプジェットを採用したものも出てきており、その速力は60ノット(時速111km)を超える場合もあります。

アメリカ合衆国の最新型魚雷の一つである Mk.50 バラクーダの推進装置は、閉サイクル蒸気タービンであり、これは液体金属燃料のリチウムと六フッ化硫黄を閉鎖空間で燃焼させることにより、魚雷外への排気を不要としたものです。

深海においても使用が可能であり、さらに、弾頭にはHEATとよばれる成型炸薬弾が使われており、これは対戦車用の砲弾と同じ威力を持ち、敵潜水艦の強固な耐圧船殻を破壊できるようになっています。

なお、日本の海上自衛隊が採用した日本製の97式魚雷も同程度の性能と互換性を有しています。




青い目の人形


Title: CROWN ‘MOTHER’ WITH EXHIBIT OF DOLLS
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: 1915.
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は1915年撮影となっていますから、日本では大正4年です。タイトルと画面下のほうにcontributions greatfully received の表示があることから、写真に写っているのは何らかの福祉施設の寮母のような人物と思われ、また人形はおそらく寄付で集められたものと思われます。

この人形をもとに何等かの福祉活動をする予定なのでしょう。おそらくは裕福な家庭から集めた人形を恵まれない家庭の子供たちに配るのではないでしょうか。

いわゆる「フランス人形」です。日本において西洋人形のうちの一部のものに対して用いられる名称で、そもそもは19世紀のフランスで作られた幼女形の人形を指したものですが、またロココ風の華麗なドレスに身を包んだ女性の人形を言う場合も多く、厳密に定義されているものではありません。

源流はルネサンス期にさかのぼるとされます。15世紀のイタリアで優秀な彫刻家兼人形師により優れた人形が製作され、それがフランスにも波及して、貴族女性の衣服を宣伝するための等身大の人形が作られました。

もっとも、当時はこうした手の込んだ人形は上流階級のもので、一般庶民の子供の玩具として広まったのは19世紀半ば以降です。即ち、フランス語でプペ・アン・ビスキュイ(poupée en biscuit)、英語でビスク・ドール(bisque doll)と呼ばれるものです。

頭部が陶磁器で作られた幼女形の人形であり、これが本来の意味でのフランス人形で、日本の収集家や研究者などはもっぱらこれをフランス人形と呼びます。同じ様式のものはドイツなどでも量産され、世界的に普及しました。日本でも製造されていました。

しかし、20世紀に入って、第一次世界大戦を境にヨーロッパの人形生産は衰退し、代わってアメリカでセルロイドその他を用いた安価な人形が大量生産されるようになりました。冒頭の写真がそれらです。




当時のアメリカでは人形の量産体制が築かれており、ジェニウィン社、エファンビー社、ホースマン社などが有名メーカーでした。衣装を着ていない状態の裸人形はだいたい1体3ドルで卸されていました。人形の中には瞼を開閉したり(スリーピング・アイ)、体を起こしたり腹を押すと鳴いたりするカラクリ仕掛けとなっているものもありました。

一体ごとに衣装や体形などデザインが異なっており、一般的な規格(1フィート5インチ:40cm前後)に当てはまらない人形も多く、30〜60cmが多かったようですが、90cmほどの大型のものもありました。

第二次世界大戦後は合成樹脂の発展によって新たな趣向の人形が普及するようになり、ビスク・ドール系の人形はほぼ消滅しました。今ではアンティーク・ドールとしてマニア間で取引され、私蔵される程度にすぎません。写真にあるようなアメリカ人形も、現存しているものもかなり少なくなっているでしょう。

ところで、戦前の1927年に、アメリカ合衆国から日本に両国間の親善を目的として贈られた人形がありました。青い目の人形(American Blue-eyed Dolls)と呼ばれ、「親善人形」とよばれましたが、その名のとおり、日米のぎくしゃくした関係を修復するためのものでした。

明治時代末期の日露戦争終結により日本が満州の権益をにぎる情勢になると、かねてより中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだでは日本との政治的緊張が高まるようになっていきました。

また、アメリカ本国においても、日系移民がアメリカへ大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人はアメリカ人労働者に目の敵にされました。実際、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、既に根付いていた人種的偏見等も相俟って、1924年に「排日移民法」)が成立します。

この法案の成立は日本国内での反米感情を煽ることになり、両国民の対立を深める一因になりました。



そんななか、1927年(昭和2年)、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が「国際親善」を提唱し、人形を通じての日本との親善活動を提案します。

近代の日本財界の重鎮である渋沢栄一(1840年 – 1931年)も日米関係の悪化を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担いました。やがてアメリカから日本との親善活動の一環として、多くの人形が全米より集められ、1926年10月〜12月の間、日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が、贈られてきました。

1927年1月18日に横浜港へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜・神戸に着いた後、1927年3月3日に東京の日本青年館や大阪の大阪市中央公会堂で歓迎式典が行われ、全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎されました。

アメリカから贈られてきた人形は野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがメーカー既製品の「コンポジション・ドール」でした。

パルプやおが屑・土を練り混ぜた上で精製し、乾燥させて糊やグリセリンなどを混ぜたものを仕上げ塗りし、顔を描き入れた安価な人形でしたが、中にはドイツ製の高価なビスクドールもわずかに含まれていました。

なお、この青い目の人形は、雛祭りに合わせて女児に贈られることを前提としたため、大半は女の子の人形としての顔立ちや着飾りでした。

アメリカから贈られた青い目の人形

返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に贈られました。人形が贈られた幼稚園・小学校の児童から集められた募金を元に製作されたものです。

青い目の人形が送られた各学校の生徒から1人1銭の募金を行い、そのお金29,000円程で東京の職人たちによって製作された100体以上の人形が、答礼人形の候補として制作されました。さらに、この中からコンテストで51体を選出したものが「答礼人形」として正式採用されたほか、この中からは、「ミス大日本」が選ばれました。

また、主要7都市(東京市、横浜、名古屋、京都市、大阪市、神戸)の代表人形として計7体も作られることになり、ミス大日本とともに、京都の大木平蔵商店(現・丸平大木人形店)に依頼して、最終的な答礼人形が完成しました。

桐塑製(桐のおが屑と正麩のりを混ぜ込んだものを乾燥させたもの)の生地に胡粉を塗り上げた本体に、有名デパート(三越、白木屋、高島屋、松屋、松坂屋)特製の友禅縮緬と本金の帯をあつらえた特製で、外国へ旅立っても恥をかかないようにと素足に両国の職人に作らせた足袋を履かせ、コンビネーションの洋風肌着を着せるという凝ったものでした。

アメリカから贈られた青い目の人形が身長や身なりが不揃いであったこととは対照的に、この日本で用意された答礼人形の背丈は概ね二尺七寸(約81cm)と統一されていました。

アメリカから贈られたものは、メーカーの指定した人形のほかに個別に持ち込んだものも含まれていたため、大きさが不ぞろいになったようです。なお、日本側からの答礼人形のうち、ミス大日本だけは90cmありました。


日本から贈られた「答礼人形」

アメリカから贈り物をされたもの以上の品質のものを贈りかえした、その事情の裏には、アメリカのご機嫌を損ねては戦争につながる、友好関係を保っておくことが国益になる、といった政府の考えもあったかもしれません。が、礼に対しては倍以上の礼を返すという、日本古来の精神にのっとったものとも考えることができます。

日本に贈られたこの「青い目の人形」ですが、その後、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は、アメリカを敵視する風潮の下で、敵性人形としてその多くが処分されてしまいました。

しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を奉安殿(戦前、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物)の備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに隠され、戦後に発見されました。

現存する人形は334体にすぎませんがが、横浜人形の家(横浜市中区)などに、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されています。

一方、日本からアメリカに渡った市松人形は、長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介されました。479の都市で千回以上の歓迎会が行われ、展示された後にニューヨークで合流、その後、個人・法人から人形を買い取りたい、引き取りたいとの申し出もありましたが、ほとんどは各州の博物館や美術館などの公共施設に預けられることになりました。

来場者に見られないように隠蔽されたり売却されたりして存在が忘れられたり、行方不明になったものもあったようですが、一方の日本と比べると戦時中も比較的大切にされていたものが多く、現在、48体の保存が確認されているということです。