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キャサリン・スティントン

Title: Katherine Stinson and her aeroplane
Date Created/Published: July 1918
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写真中央、飛行機をバックにしている女性は、キャサリン・スティンソン(Katherine Stinson)といい、1977年に86歳でなくなった人物です。

アメリカで建築家として名の通った人物でしたが、また宙返り飛行を行なった最初の女性パイロットとして知られる人物であり、日本に来たこともあります。

1891年にアラバマ州フォート・ペインという町で、4人兄弟の長女として生まれました。チェロキー族の血を引いて生まれており、写真からはよくわかりませんが、やや浅黒い肌をもっていようです。

13歳の時に両親が離婚してからは母親の下で過ごしました。ピアノを好んだキャサリンは音楽家になることを考え、音楽の本場であるヨーロッパで学ぶことを目指していたといいます。

そんな中、20歳の頃にカンザス州で当時はまだ稀であった熱気球に乗る機会を得ます。このことが契機となって、ヨーロッパで音楽を学ぶための学費や渡航費を稼ぐため、パイロットとなることを思い立ちます。そして、飛行機免許を取ることを決心しました。

1912年、マックス・ライルという飛行家の経営していた飛行学校の門を叩きますが、当初ライルは女性に教えることを断っていました。しかし、キャサリンの飛行に対する熱意とともに飛行家としての資質を見てったライルは、入門を許します。

キャサリンはわずか4時間の練習の後に単独飛行を行なえるほどの才能があったといい、同年7月には、アメリカ合衆国で女性としては4番目の飛行ライセンスを得ました。

いざ飛行士になってみると、彼女は空が大好きなことに気づきます。飛行機に熱中するようになり、そうこうしているうちに音楽家になることをあきらめ、飛行士に専念するようにります。その後は新型飛行機が出るたびにその試乗に名乗り出、ライルの学校で行われていた展示飛行会などに参加して、”Flying Schoolgirl”と呼ばれ、有名になっていきました。

キャサリンと愛機



その後、より飛行に適した気候のテキサス州サンアントニオに移り、女性として9番目のライセンスを得た妹のマージョリーとともに、飛行学校を開きました。弟のエディはメカニックとなり、同じく弟のジャックも操縦をマスターし、兄弟姉妹で揃って飛行学校の経営を行うようになります。

ところが、1917年に第一次世界大戦が勃発。これによりやむなく飛行学校は解散することになりましたが、これをきっかけに、弟のエディが航空機会社スティンソン・エアクラフトを運営するようになりました。

スチンソン・エアクラフト社は1926年、その手始めに新型の単葉機であるSM-1 デトロイターを販売します。そうしたところ大人気を博し、事業は着実に拡大して1929年までに121機を販売するまでになりました。

こうしてエディが優れた実業家でもあることが証明されましたが、彼はまた曲芸飛行の名手であり、企業経営が成功している中でも常に飛行家であり続け、曲芸飛行で当時としては巨額の年間10万ドルを稼いでいたといいます。

一方の姉のキャサリンもまた曲芸飛行に取り組んでいます。はじめて曲芸飛行を行ったのは、24歳、1915年のことであり、場所はシカゴのシセロ飛行場でした。以来、宙返り飛行を行った最初の女性飛行士として有名になり、日本の興行師、櫛引弓人(くしびき ゆみんど)の招きにより翌年末に来日して、日本での興行飛行にも参加しました。

東京で群衆に取り巻かれるキャサリン・スティンソン




櫛引弓人は、博覧会における各種興行を取り扱う「ランカイ屋」と呼ばれる興行師の一人で、「博覧会キング」と呼ばれた人物です。シカゴ万国博覧会やセントルイス、シアトルの万国博覧会、日英博覧会などでその手腕を発揮しました。

キャサリンだけでなく、チャールズ・ナイルズ、アート・スミスといったアメリカ人飛行家を招いては日本各地でアクロバティック飛行の興行を打っており、日本におけるアクロバティック飛行興業の祖とも言われる人物です。

櫛引は続いて中華民国でも興行飛行を行ており、これによりキャサリンは美貌の女流飛行家として世界中の人々に知られるようになります。

無論、日本でも大人気で、彼女の飛行に感銘を受けた与謝野晶子は「女学世界」大正6年(1917年)1月号に「ス嬢の自由飛行を観て」を寄稿し、その中で「新たな時代の自由な女性像」として彼女を描き、褒め称えています。

「国民飛行会」のメンバーと

飛行学校を閉鎖する原因となった第一次世界大戦中は、アメリカ空軍にパイロットとして志願しましたが、女性を理由として拒否されました。

やむなくカーチスJN-4ジェニーやその単座型のカーチス スティンソン・スペシャルで飛び、アメリカ赤十字の資金集めのための興行飛行を行ないました。また、ヨーロッパ戦線にも赴き、赤十字の救急車の運転手まで務めています。

キャサリンはまた、アメリカ初の郵便飛行を行なった最初の女性飛行士としても知られているほか、カナダでは、飛行距離と飛行時間の記録を残すなど、数々の冒険飛行にも挑戦しました。しかし、29歳のとき、結核にかかり、このため飛行士から引退。

その後はニューメキシコ州サンタフェで暮らし、建築学を学んで建築家として働きはじめすが、ここでも優れた能力を発揮し、全米の住宅デザイン協議会から授賞されるなど建築家としても評価されるようになりました。

37歳のとき、同州の裁判官を務めるミゲル・オテロと結婚しましたが、子宝には恵まれなかっため、孤児院から4人の子供を引き取り、養子として育てました。1977年に同地の自宅で没。86歳でした。

飛行家として活動した8年間に500回ほど宙返りを演じましたが、1度も失敗することはありませんでした。彼女の飛行機の操縦は、ピッチの制御とロールの制御を別々のレバーで行うという、余人には真似のできない神業的なものだったと伝えられています。




クロスカントリードライブ 1903

Title: REO Mountaineer, New York to San Francisco and back
Related Names:
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: [between 1900 and 1905]
Medium: 1 negative : glass ; 6.5 x 8.5 in.

写真タイトルには ”REO Mountainee“とあり、さらには、「ニューヨークからサンフランシスコへ」と書かれています。調べてみたところ、搭乗しているのは、” Percy MegargelとDavid Fassett。自動車メーカー、オールズ・モビル社のドライバーです。

REO Mountainee のREOとは、Ransom E. Oldsの略で、創業者、ランサムE. オールズのこと。Mountaineeは、悪路での走行も得意とするツーリングカーの意味です。

彼らは、この16馬力の車を使い、ニューヨークからサンフランシスコへ、そしてその逆コースを通って11,000マイルの大陸間横断・往復旅行を初めて成功させ、その旅の終わりに、ニューヨークはブロンクスの162番通りに着きました。

当初、この偉業を達成するのに112日で可能と公言していましたが、実際要した時間はおよそ10ヶ月かかっており、過酷な旅だったようです。写真をみても二人が乗っている車はドロドロで、その苦労がうかがわれます。

100年前、アメリカには舗装された道路はほとんどなく、自動車は一般大衆にはまだ認識もされていませんでした。わずかに知る人でさえ “馬の要らない車” は新しいが奇妙な乗り物であり”実用には使えない単なるおもちゃ”と思っていました。そういう時代の話です。10ヶ月でも早いといえるかもしれません。

この当時としては画期的な冒険旅行でしたが、実はこのオールズ・モビル社による大陸間往復横断成功の前に、初の大陸間横断(片道)をわずか2ヶ月でなしとげた人物がいました。

レィシォ・ネルソン・ジャクソンといい、自動車メーカーの人間でもなんでもなく、バーモント州で医者を営んでいた人物です。

事の発端は、1903年5月18日、サンフランシスコ大学のあるクラブで、このジャクソンが「自動車でも大陸横断ができるはずだ」と話したことに始まります。

彼はサンフランシスコ大学のあるクラブに「自動車好き」ということでゲストとして招かれていたようです。この当時、自動車はまだ「単なる流行で金持ちの道楽」と思われていましたが、ジャクソンはそうは思っていませんでした。

そこでは、今後自動車というものがはたして普及していくかどうか、という議論がなされていましたが、すっかりと自動車に心奪われていたジャクソンは、はたして車でアメリカ大陸を横断するということは可能かどうか、という話になったとき、「50ドル(現在の約1000ドル、約十数万円))賭けてもいい、できる」、と言い放ちました。

このときジャクソン31歳。妻とサンフランシスコに滞在中に運転の教習を受けていた最中であり、もちろん十分な自動車の運転の経験などありませんでした。この時代、たとえ馬であっても大陸を横断したことがある人物などおらず、無論たどるべき地図などもなかったころのことです。

当然のことながら、このときその場にいた男たちは、そんなことはできっこないと思い、多くの者が「できない」側に賭けました。できると宣言したジャクソンの側に付いたものも何人かいましたが、ごくわずかでした。

バーモント州は、アメリカ合衆国北東部にあります。この州の最大の都市バーリントンに自宅を持つ彼は、そこに数日後に帰る予定でしたが、この賭けに乗った彼はさらに「自分で運転し、サンフランシスコから合衆国を横断して3ヶ月以内ニューヨークに行く。」と宣言。その日のうちに旅支度を始めました。

しかし、自らがまだ運転教習中であり、運転技術に未熟な彼がまず最初にやらなければならなかったことは、まず同道してくれるメカニック兼ドライバーを探すことでした。

自動車産業界には誰もつてがなく、しかも慣れない土地でのドライバー探しでしたが、苦心の末、まだ若い22歳のセワール・クロッカーという男を探し出し、説得して旅の供とすることに成功します。

クロッカーはワシントン州タコマの生まれで、競輪選手としてお金を得ていましたが、ジャクソンと出会ったときはサンフランシスコのガソリンエンジン工場で技術者として働いていました。

次にやらなければならないことは無論、車探しでしたが、クロッカーはジャクソン対して「ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニー」の車を使うことを提案。ジャクソンは、かなり使い込まれたウィントンの中古を購入し、これにホームタウンの名「バーモント」と名付けました。

「バーモント」は20馬力2気筒エンジンを載せた2人乗りツーリングカーで、最高時速30マイル(48キロ)。オープンカーで屋根はなく、風防もサイドウインドウもない、といったおよそ大陸横断には不向きの車に見えましたが、クロッカーは、ウィントン・モーター社の車の安全性を何よりも買っていました。

社主のアレグザンダー・ウィントンウィントンは今日、米国で初めて自動車を販売した人物として知られている人物です。100以上もの特許を取得していましたが、たとえ競争相手であっても、安全に関することであれば率先して技術を提供したといわれています。

のちにアメリカ中を席巻することになる自動車会社・フォードモータースの社主、ヘンリー・フォードに対しても、「フォードのハンドルでは誰かが死ぬことになる」と自身のアイデアのステアリング機構を無償で教えたといいます。

1904年には、車両後方にトノーを載せて5名が乗車としたツーリングカーモデルを2500ドルで販売しましたが、「バーモント」はその販売前に試験的に作られた車両でした。

水平水冷直列2気筒エンジンを車両中央に搭載しスチールのチャンネル部材とアングル部材でフレーム組みされたこの車の車重は1043kgありました。ジャクソンらは、これを長旅が可能なように手を加えるとともに、他の資材の準備にかかり、それからのち、たった4日で旅支度を済ませました。


ウィントン・モーターが1908年に売り出したツーリングカー




ホレィシォ・ネルソン・ジャクソンは、牧師の子として1872年に生まれました。20歳でバーモント大学医学部を卒業後、バーモント州のブラトルボロで開業、その後バーリントンに移りました。

27歳でバーサ・リチャードソン・ウェルスと結婚。バーサの父はアルコール除菌薬を作っていた、ペインズ・セレリー・コンパウンド社の創業者であり、バーモントでも指折りの富豪でした。

結婚の翌年、ジャクソンは軽度の結核にかかり、医業を中断することになりましたが、妻バーサが裕福だったこともあり、カナダのケベック州の境界に位置するシャンプレーン湖に別荘を購入し、そこで養生していました。ここに滞在しながら炭鉱などに投資する、という生活を送っていましたが、サンフランシスコまで旅行に妻と出たのは自動車の操縦を覚えるためでした。

サンフランシスコへの旅行といい、そこでの自動車教習といい、さらには自動車で国を横断するという当時ありえない賭けに出ることができたのも、その背景には裕福な妻がいたおかげでした。

その愛する妻に別れを告げ、賭けに勝つべくサンフランシスコのパレスホテルを発ったのが1903年5月23日のことです。

車に積み込んだのは、コート、あて布で補強した服一式、寝袋、毛布、炊事道具、水袋、斧、シャベル、望遠鏡、工具類、スペアパーツ、予備のガソリン缶、オイル缶、カメラ、といったものでしたが、ほかに護身用にライフル銃、ショットガン、ピストルなども用意していました。

このほか、装備品の中には150フィート(約46m)の麻縄(ヘンプロープ)が付いた滑車装置(ブロック&タックル)がありましたが、この装置は、のちの道中でたびたび溝にはまった時、車を引っ張り出すのにかなり重宝したといいます。

ジャクソンは、これ以前に、ウィントン社(自動車創成期の米国の自動車メーカー)の創業者アレグザンダー・ウィントンが、アメリカ南部に広がるサウスウエスタン砂漠を横切るのに失敗した、という話を知っていました。ロッキー山脈の南に広がるこの砂漠を超すには、標高のあり、起伏の激しい土地を通過しなければなりませんでした。

このため、南ではなく、逆に北側のルートを取ろうと考えましたが、彼が選択したのはサクラメント・バレーから北のオレゴントレイルへ抜けるルートでした。アメリカ西海岸にそびえるロッキー山脈の北側を回り込むこのルートなら、南ルートに比べれば比較的高所を通らなくてすみます。

こうして、カリフォルニアから北のオレゴンへ向けて出発した彼らでしたが、この旅はその当初、たった一台による冒険旅行のはずでした。ところが意外にもこの旅行は、途中から全米史上初のクロスカントリーレースの様相を呈してきます。

というのも、ジャクソンがサンフランシスコを発ってから約1ヵ月後の6月20日、のちに高級車生産で定評を得ることになる「パッカード社」が、新型12馬力ツーリングカーで、ジャクソンよりも先に大陸横断することを宣言したためです。

サンフランシスコ大学のクラブでの賭けの話はその後、新聞にも大々的に取り上げられ、この当時、全米で雨後の竹の子のように乱立し始めていた自動車会社の関係者たちも注目していました。そのひとつであったパッカード社も自社の新型車の宣伝のために、この「レース」に参入したのです。

ドライバーはパッカードのテストドライバー、もう一人は、自動車雑誌、オートモビルマガジン社のレポーターで、彼らの任務は、定期的にレポートを送り一般大衆に宣伝しながら、先にニューヨーク市にたどり着き、パッカード社の車の耐久性を立証することでした。

用意した車はジャクソンたちのものよりガソリンタンクの容量も大きく、登坂能力も上で、しかもパッカード社は、大陸横断鉄道の駅を主要立ち寄り地点に設定していました。

ここへは、クルーが先回りして必要品を渡す手はずをし、また、車のトラブルはオハイオにあるパッカードの工場からメカニックを汽車と車とで派遣する、という周到な計画を立てていました。こうした体制と車の性能があれば、出発は遅れたもののまだジャクソンを抜けるとパッカード社は計算しました。

ところが、このレースに参入したのはパッカード社だけではありませんでした。7月6日、今度は、冒頭の写真のオールズモビル社が、ジャクソンやパッカードのツーリングカーよりも軽量なラナバウトでニューヨークを目指して旅立っていきました。

ドライバーに選ばれたのは2人ともランサム・オールズ自身が優秀なドライバー兼メカニックと認めた人物で、到着したあかつきには1,000ドルの賞金が約束されていました。

ちなみに、冒頭の写真の二人とこのレースの二人が同じであるかどうかは、資料が残っておらず不明です。が、おそらくはこの最初のレースとは違った人選だったでしょう。その理由としては、結論としてこのレースではオールズモビルは敗退するためです。負けレースに出場したドライバーを再び採用することはなかったでしょう。


オールズモビルの1906年型REOラナバウト(冒頭の写真と同型)




とまれ、レースはこうして三つ巴の戦いとなりましたが、時間的には先行するジャクソンらが有利なはずでした。しかし彼らの道程はけっして楽なものではありませんでした。ジャクソンは一日の走行距離をおよそ200マイル(約320キロ)と踏んでいましたが、結局それができたのは数回のみで、しかも、夜中も運転してのことでした。

それを毎日続けることはとても無理であり、また天気の悪い日はまるでカメのようなノロノロ運転を強いられました。カリフォルニアから北上してロッキーを回るためにオレゴンに達したときには、その荒れた道々に横たわる深い川を滑車装置でひっぱりながら渡ることもたびたびありました。

ロッキーを迂回してグレートプレーンズに入る前には、土地を通らせてもらうために、4ドル(約85ドル、約一万円弱)を払わされたりすることもありました。またタイヤがパンクすることもたびたびだったため、悪路を走るときには、ホイールをロープでぐるぐる巻きにして走りました。

それでもタイヤの交換を余儀なくされることもあり、スペアタイヤがなくなったときには、交換用タイヤをサンフランシスコから立ち寄り地点まで送ってくれるよう電信することもありました。車が故障し、近くの牧場までカウボーイに引っ張ってもらったこともあります。

そうした中、強力な援助も得ることができました。クロッカーが、「バーモント」の修理のため、製造元のウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーに直接電信を打ち、エアインテークパーツを送ってほしいと頼んだときのことです。

このとき、ウィントン社は、初めて自社の車がアメリカ横断に使われていると知り、以降は同社も協力することを申し出てくれたのです。結局同社は、最終ゴールまで援助を惜しまず、その後最終目的地のニューヨーク市では、彼らが宿泊するホテルまでのウイニングランにも参加しています。


アメリカ大陸横断中のジャクソン

こうして苦難の末彼らはようやくロッキーの東側に出ました。7月12日に、北米大陸のほぼ中央部、ネブラスカ州オマハにたどり着きましたが、ここからの道路はかなり舗装されており、それまでの悪路と異なり、かなり楽な行程で進むことができるようになりました。

そして1903年7月26日、ついに彼らはニューヨーク市に到着します。サンフランシスコを発って63日と12時間30分、約2ヶ月でした。この冒険旅行にかかった費用は8000ドル(現在の価値換算で約17万ドル、日本円にして約2000万円)でしたが、賭けに勝ったために得られるはずの50ドルをクラブの面々には取り立てなかったといいます。

ジャクソンらの後を追った、パッカード組が到着したのは8月22日。走行日数はジャクソンより1日半短かったものの、2番手では「史上初大陸横断」の称号を得ることはできませんでした。オールズモビル組がニューヨークに到着したのは、それよりさらに遅い9月17で、かかった時間は72日と21時間30分でした。

この競争に敗れたオールズモビルのランサム・オールズは、よほど悔しかったのか、のちに同じ大陸横断でもこれを往復する、という「史上初」に取り組みます。快挙を達成したのは、1906年の6月。ジャクソンらの快挙より3年遅れのことでした。冒頭の写真がそのときのものです。


大陸間往復を成し遂げ、ニューヨークを凱旋するオールズモビル




こうしてホレィシォ・ネルソン・ジャクソは、アメリカ合衆国を自動車で横断した最初の人物となり、この無謀ともいえる冒険に打ち勝った人物として、のちにマッド・ドクター(The Mad Doctor)と呼ばれるようになりました。

その後、ジャクソンはバーリントンで企業家となり、銀行の頭取なども務めました。また、新聞社バーモント・デイリー・ニュースの発行や街の最初のラジオ局WCAX(のちのWVMT)の開設をおこなうなどの成功を治めましたが、1955年永眠。82歳でした。

ともに旅したセワール・クロッカーはニューヨークに留まり、6ヶ月間で世界一周する車の旅を提案し出資者を募りましたが、その夢はかないませんでした。その後2年間、欧州を旅して過ごしたあと、故郷ワシントン州タコマに戻りますが、しばらくして病に冒され、1913年永眠。30代はじめの早すぎる死でした。

晩年、ジャクソンは、聞きたいというなら誰にでも、自らの大陸横断冒険物語を語り聞かせることを楽しみとしていたといいます。また、70を過ぎてからもドライブを楽しんでいたといい、一度だけバーリントンで10マイルを超えるスピード違反でチケットを切られています。




オッペンハイマー


Title: [Automobile with ad for Oppenheimer’s shop, 800 E St., N.W., Washington, D.C.]
Date Created/Published: [between 1910 and 1920]
Medium: 1 negative : glass ; 8 x 6 in.

写真は、」1910年から1920年(明治43年~大正9年)の間に、ワシントンD.C.の一角で撮影されたものです。

現在の地図でみると、ワシントン特別区の中心部にあるホワイトハウスの東側約500mほどの至近距離にあり、街の中心部にあたります。

ホワイト・ハウスは2001年9月の同時多発テロ以降、一般観光客の見学はできなくなっていますが、現在も観光名所として人気がある場所です。その東側から北側にはダウンタウンが広がり、D.C.の中でも最も賑わう繁華街のひとつです。

周辺には、多くの観光スポットが集中しており、アメリカ合衆国議会議事堂、ワシントン記念塔、リンカーン記念館などのモニュメントのほか、スミソニアン博物館、ナショナル・ギャラリーなどをはじめとする、多数の博物館・美術館があります。




おそらく当時も高級商店街であったであろうこの場所に停車している車には、「OPPENHEIMER SHOP(オッペンハイマー商店)UNIQUE」の文字があります。UNIQUEは、「変わった、独特の、珍しい」の意で、その根本にあるのは「並ぶもののない、比類のない、他に存在しない」といったイメージです。

アパレルメーカーのユニクロも、「UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE」の略であり、「ちょっといいもの」を置いているお店、といったニュアンスでしょうか。

ほかに、“SEWING MACHINES  DRESSMAKERS SUPPLIES”の文字が見て取れ、ミシンや衣装生地などの卸問屋を経営していた商店のようです。車種はおそらく、このころのベストセラー、フォードT型と思われます。

1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産されました。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみです。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及しました。



「オッペンハイマー商店」と同名の会社をネットで調べてみましたが、ヒットしないところを見ると、その後名前を変えたか、現在までには店をたたみ、存在しなくなっているのでしょう。

ただ、オッペンハイマー(Oppenheimer)を冠する企業は現在も多数存在します。ドイツにいたユダヤ人に多い姓の一つで、ドイツ連邦共和国 ラインラント=プファルツ州マインツ=ビンゲン郡にある「オッペンハイム」出身者に多い名前です。隣国のオーストリア・ウィーンやチェコのプラハのユダヤ人からは最上流階級として尊敬を受けていた人種です。

オッペンハイマー姓を名乗る有名人としては、ダイヤモンドや金の採掘で富を築いたドイツ出身で南アフリカの鉱山事業家「アーネスト・オッペンハイマー(1880~1957年)がいます。このオッペンハイマー家はその息子と孫の代かけて大いに繁栄し、巨万の富を築いたことで知られます。

そして、オッペンハイマーの名で、おそらくもっとも有名なのは、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(1904~1967年)です。

この人はユダヤ系アメリカ人の物理学者で、実は日本との縁が深い人物です。

というのも、彼は第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導し、広島と長崎に落とされた原爆を開発した中心人物だったからです。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たし、「原爆の父」と呼ばれました。

ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれました。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンです。

非常に早熟だったといわれ、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいました。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかったようです。ただし、セーリングと乗馬は得意だったそうです。



ハーバード大学に入学し、化学を専攻しましたが、1925年に最優等の成績を修めて卒業。しかも3年次に飛び級で卒業するという秀才でした。その後、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、核物理学のメッカとも呼ばれる「キャヴェンディッシュ研究所」で物理学や化学を学びました。

オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになります。ボーアはデンマーク出身の理論物理学者で、量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した人物です。

しかし彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得しました。

ここでの業績には、ドイツ生まれのイギリスの理論物理学者、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」があります。1929年には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執り、1936年には教授となりました。

1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行って。しかし、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカでは1942年に原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始されました。

オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導します。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、これは、ニューメキシコ州アラモゴードでの核実験(「トリニティ実験」と呼ばれている)の後、広島・長崎に投下されることになりました。

後日ドキュメンタリー映画“The day after Trinity“の中で語ったところでは、彼はその開発当初、世界に使うことのできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうです。

しかし、実際に原爆が投下され、その新兵器の破壊力を目の当たりにしたのちは、自分が開発した兵器が多くの人を死に追いやったことに絶望していたそうで、戦後、原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残しています。




戦後、1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命されました。アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン市にある研究所で、自然科学、数学、社会科学、歴史学の四部門を持ち、世界でももっとも優れた学術研究機関の一つとされているものです。

しかし、かれはここでの仕事の傍ら、核兵器の国際的な管理を呼びかけるようになり、第二次世界大戦直後の平穏期において原子力技術の研究と利用のために、原子力エネルギー問題をアメリカ軍から民間の手に移すために、成立sれた「原子力委員会」のアドバイザーとなりました。

そして核兵器製造反対のロビー活動を行いはじめ、その後米ソが冷戦に入ってのちは、ソ連との核兵器競争を防ぐためにも働くようになりました。

さらに、その後開発された水素爆弾などの核兵器に対しても反対するようになっていきます。このため、これを開発して「水爆の父」と呼ばれた、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ人理論物理学者エドワード・テラーらと激しく対立するようになります。

1950年代のこの時期、アメリカは冷戦を背景に、マッカーシズム(McCarthyism)と呼ばれる反共産主義に基づく社会運動、政治的運動がさかんになりましたその急先鋒であった、共和党のジョセフ・マッカーシー上院議員が筆頭となり、いわゆる「赤狩り」が強行されるようになると、これがオッペンハイマーの活動にも大きな打撃を与えました。

彼の妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーは、アメリカ共産党員であったためです。

彼自身も共産党系の集会に参加したことが暴露されたため、1954年4月、米原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分としました。しかし、これは事実上の公職追放でした。その後オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けました。

オッペンハイマーは晩年、古代インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」に嵌(はま)ったといいます。

その一節には、ヴィシュヌ神の化身「クリシュナ」が自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語るシーンがあります。

そして自分自身をこのクリシュナに重ね、人類を滅亡に導く兵器開発を主導した張本人こそ自分だと後悔していることなどをマスコミの取材などで吐露しています。

しかし、彼が開発した原爆が日本を敗戦に追い込んだことなどが評価され、1963年には、米国エネルギー省が主催する理学の賞、エンリコ・フェルミ賞受賞。これは、エネルギーの開発、使用、または生産に関する業績を対象とする賞でした。

その2年後の1965年、オッペンハイマーは咽頭がんの診断を受けます。手術を受けた後、放射線療法と化学療法を続けたが効果はありませでした。1967年2月18日、昏睡に陥ったオッペンハイマーは、ニュージャージー州プリンストンの自宅で死去。62歳でした。

原爆の開発以外では、量子力学における、上述のボルン-オッペンハイマー近似が、物理学者としての最もよく知られた業績ですが、彼はまた宇宙物理学の権威でもありました。

中性子星の研究にからんで、星の質量がある限度を超えれば、中性子にまで縮退した星がさらに圧潰する可能性を一般相対性理論の帰結として予測しました。こうしたブラックホール生成の研究の端緒を開いた研究者でもあり、彼が発表した研究は、「トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界」の名で現在も広く知られています。

彼が取り組んだブラックホール研究は、マンハッタン計画への参画によって中断しましたが、もし原爆の開発がなければ、現在よりももっと早くにブラックホールの謎が解かれていたかもしれません。




病院船ソレースの帰投

Title: [Memphis, U.S.S., caskets of dead, brought home by U.S. Hospital Ship S̀olace’]
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [between 1914 and 1918]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は、病院船「ソレース」を出迎えるアメリカ軍の儀仗兵たちと思われます。

「儀仗(ぎじょう)」とは、本来、国家元首や他国の高官が来訪した場合に、敬意を表するための儀式であり、これを行うために「儀仗隊」というものが組織され、この隊にはほかに要人の警護にあたる役割などがあります。

この写真は、病院船で帰国した死者の棺を出迎えるため、アメリカ海軍が儀仗隊を繰り出したものと思われ、こうした儀式は、国を守るために死した魂を最高礼で迎えるという、欧米諸国の長年の習わしでもあります。

タイトルにある“caskets of dead”は棺のことであり、これから棺が下され、葬礼の儀式が行われたものと想像されます。また儀仗兵たちとともに軍楽隊らしき人々が待ち受けており、下の写真をみると、棺を運んでいると思われる馬列らしいものが写っています。



この病院で運ばれてきた死者とは、おそらくはアメリカ合衆国がヨーロッパ戦線で失った兵士たちでしょう。

アメリカは第一次世界大戦においては当初、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていましたが、1917年の初めにドイツが無制限潜水艦作戦を再開したことなどから1917年4月6日にドイツへ宣戦布告、12月にはオーストリアに対しても宣戦布告しました。

連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送ったほか、ドイツと連合国がベルギー南部からフランス北東部にかけて激しく戦ったいわゆる「西部戦線」戦線にも遠征軍を送りました。

しかし、アメリカ遠征軍(AEF)の指揮官であったジョン・パーシング将軍は面攻撃戦術に固執したため、結果としてアメリカ軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験しました。

32万人もの死傷者を出したといわれ、そのうちの戦死者は5万3千人あまりでした。また1918年秋期のインフルエンザの世界的大流行もこの遠征軍の兵士の命を多数奪い、これによる死者も2万5千人に上ったといわれています。

ソレース内の病室ベッド




写真で「帰国」した死者たちが戦闘で亡くなったのかインフルエンザで亡くなったのかは不明ですが、儀仗隊まで出ているところをみると、おそらくは西部戦線の激闘で亡くなった兵士たちなのでしょう。

写真に写っている病院船は「ソレース」といい、アメリカ海軍がこれまでに20隻保有してきた病院船のうち、二番目に就航した初期の病院船のひとつです。

病院船(hospital ship)とは、戦争や飢餓、大災害の現場で、傷病者に医療ケアを提供したり、病院の役割を果たすために使われる船舶のことです。現在も世界中のさまざまな国々の海軍が運用していますが、医療システムにかかる維持費等のコストが莫大であることから、輸送艦や強襲揚陸艦として運用されている病院船も少なくありません。

ちなみに、アメリカにおいて現在就航している20隻目の病院船、「コンフォート(USNS Comfort)」は、石油タンカーから病院船に改装されたもので、もともと医療目的で建造されたものではありません。このあたりに軍縮後のアメリカの軍備に対する考え方がみてとれます。こうした装備にはあまりお金をかけたくないわけです。

病院船コンフォート

とはいえ、現在、アメリカ海軍が保有する病院船はこのほか「マーシー」(USNS Mercy)」などがあり、両者とも世界でもっとも大型の救命救急の船舶として知られています。

戦場において傷病兵への医療活動を行う船は、既に古代ローマ時代には出現しており、近代においては1850年代のクリミア戦争でイギリスやフランスの病院船が活動したことが知られています。1860年代アメリカの南北戦争では、レッドローバー号(1859年就役)が南北両軍の傷病兵を治療しました。

このころ、赤十字活動の勃興とともに、病院船の戦時国際法上の地位も確立されていきました。その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦などでは、いくつかの国で客船を改装した病院船が整備され、運用されるようになりました。イギリスのブリタニック号などが有名であり、日本でも現在横浜港に係留されている氷川丸などが活躍しました。

ソレースの外観

近代戦時国際法のもとでは、病院船は一定の標識を行い、医療以外の軍事活動を行わないなどの要件をみたすことで、いかなる軍事的攻撃からも保護されることになっています。今日では1949年のジュネーヴ第2条約が明文規定を定めています。

第一次世界大戦、二次大戦を経て時期によって若干の変遷はあるものの、その基本的要件は以下のようなものです。

船体の塗装 : 船体は白色とする。軍用病院船は緑色、民間病院船は赤色の帯を引く。
赤十字標識 : 赤十字(または赤新月)の旗を掲げる。船体や甲板にも標識し、夜間は電飾する。
非武装: ただし船内の秩序維持などのための小火器を除く。
軍事的活動の禁止 :兵員・軍需物資の輸送、軍事情報の発信などには利用しない。
交戦国への通知:船名等の基礎データを通知する。

ソレース内の食堂



過失による撃沈を防ぐ為に病院船は夜間も明かりを灯し病院船である事を主張しましたが、実際には保護されるべきはずの病院船が、敵艦から意図的に攻撃を受ける事件も過去には多数ありました。

純白の美しい外観、病院船という任務目的からか、付近の味方艦船乗員の心理的安堵感が増し、気が緩んだ隙に病院船周囲を周回している敵の潜水艦に撃沈(多くの場合は誤認)されるという凄惨な例もあったといいます。

もっとも保護を悪用して、病院船を軍需輸送に使用する例もあり、1945年(昭和20年)に日本陸軍が国際法に違反して病院船として運用していた「橘丸」(東海汽船、1,772トン)は、部隊・武器を輸送し、国際法違反によりアメリカ海軍に拿捕されました。

ソレースの乗員、看護師、医療チーム

一方では、日米間の協定で安全航行を保障され、病院船に準じた保護病院船とされていたのに攻撃された貨客船「阿波丸」のような例もあります。

1945年(昭和20年)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船阿波丸は、アメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュ(USS Queenfish)雷撃により撃沈され、商船員480人、三井物産支店長以下の商社員・技術者・大東亜省次官以下の公務員など非戦闘員600人、軍人・軍属820人、合計2000人以上の乗船者のほとんどが死亡しました。

現在、日本の海上自衛隊には病院船が在籍していません。ただし、はしだて型迎賓艇、潜水艦救難艦が有事や災害時の医療機能を考慮して設計されており、おおすみ型輸送艦、ひゅうが型護衛艦、いずも型護衛艦が野外手術システムを搭載していて高度な医療機能を有しています。また、各護衛艦、補給艦には小規模な医務室と衛生員が配置されています。

過去には、超党派の国会議員による病院船建造推進議員連盟の働きかけで、病院船建造の調査費が計上されたこともありましたが、新造では建造費用が350億円かかる、維持費も高価であることから専用船の新造や中古船改造は断念されています。

現状では、大規模自然災害や武力紛争など有事の際は、既存民間輸送船に野外手術システムを積む予定であり、今後試験運用が行われる予定だといいます。




明治天皇の崩御

Title: Funeral, Japanese Emperor
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: [1912 Sept]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller.

明治天皇が崩御されたとされる公式の日時は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分です。

今から105年前のことであり、満59歳の御年でした。昭和天皇がかなりご長命であったことや、今上天皇も長生きをされていることを考えると、かなりの若さで亡くなられた感があります。

「明治天皇記」には、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して崩御されたとあります。

この年の7月11日の東京大学卒業式に出席した時からもう既にご気分は悪かったようです。

侍医では対応できなくなり、大学医らが診療にあたりました。森鴎外とも親交があり、森がその才能を高く評価した樋口一葉の診察も行ったことで知られる医学博士、青山胤通(たねみち)らが診察し、得られた診断結果が尿毒症でした。




28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まりました。皇室内には病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典待)だけでした。

このほか、特別に侍医は入れましたが、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、それまで病室であったご自分の寝室から居間であった「御座所」が臨時の病室ということになり、ここで一般看護婦がお世話をしました。ただ、この看護婦も勲5等以上でなくてはならないきまりで、5位以上の女官が看護をしたといいます。

宮内省は崩御日時を7月30日の午前0時過ぎの上の時刻を公表しましたが、当時宮内書記官であった栗原広太は、その後の回想録で、本当の崩御日時は前日の7月29日22時43分であった、と記しています。

これは、29日に亡くなったとき、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったためであり、践祚の儀式を崩御当日に行うことできなくなったためです。皇室の規定上、践祚の儀式を崩御当日に行わなければなりません。

皇太子嘉仁親王(昭和天皇)が新帝になるための色々な手続きが必要であり、その時間を確保するため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせることになり、翌日午前0時43分と発表されました。



天皇崩御に際してその側にいた皇族の「梨本宮妃伊都子」は、この間の様子を日記に克明に記しています。彼女の日記によれば、伊都子ら皇族は38日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機していました。

29日午後10時半ごろ、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召されたため、伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていました。

天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしましたが、時計が10時半を打つ頃には、声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなりました。2~3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしましたが、そのまま音もなく眠るように亡くなったといいます。

その最晩年は、持病の糖尿病のために体調も悪く歩行に困難をきたすようになっておられました。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐かれていたといいます。

また、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまう、ということもあたといい、「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴られています。この時期にはそれまでの壮健だった天皇に見られなかったことがいくつも起こり、周囲を心配させたといいます。




その葬儀、「大喪の礼」は、同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において執り行われました。このほか、崩御からこの日までの約1ヶ月半の間、宮中ではこれ以外の様々な儀式が執り行われていました。

なお、この大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死し、社会的影響を与えました。

大葬終了後、明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれましたが、冒頭の写真はそれ以前に行われた東京での大喪の礼の際の行列かと思われます。京都での埋葬は翌日の9月14日になされています。

ちなみに、この大喪のためにしつらえられた東京の葬場殿の跡地には「聖徳記念絵画館」が建てられました。今、おそらくは銀杏の紅葉でまっ黄色に染まっている、神宮外苑のあの場所です。

大喪の礼で屠られた牛

Title: Sacred oxen for funeral, Emperor Japan
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: 1912 Sept. 9 (date created or published later by Bain)
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller.

この明治天皇の崩御は世界各国で報道されました。天皇崩御に関するこれらの記事は、衆議院議員(7期)でジャーナリストでもあった、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された「世界に於ける明治天皇」にまとめました。

各国(20余)別全28章からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国の新聞の論調がまとめられ、このほか在中国外国人が書いた記事まで掲載されていました。



この望月がまとめた論評によれば、日露戦争を戦ったロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」したと書いています。ロシアもそれなりに明治天皇を評価していたようです。

このほか、日本が影響力を増していたフィリピンでは、明治天皇のために挽歌が創られたことなどが書かれています。さらに南米諸国では、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖」などを「憧憬仰慕」として感心しているといった記事が書かれていたそうです。

そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と彼らが明治天皇を高く評価していたことを報じています。

明治天皇が写真嫌いであったことは有名です。現在最も有名になっている若い頃の明治天皇の肖像は、エドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)によるものです。

最も有名な御真影
(エドアルド・キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(明治21年(1888年)1月・36歳頃))

これは、ご本人は写真嫌いだったものの、この時代、国の最高指揮官が天皇であったこともあり、政治的にも何かとその「御真影」が必要となることも多く、苦心の末に作成されたものです。明治天皇ご自身の注文もあったためか、かなり若々しく描かれています。

一方、下の肖像画はその2年後に書かれたものですが(作者不詳)、上のものと比べてかなり年上に見えます。

1890年38歳頃の明治天皇

明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見されており、こちらは上の肖像画に似ているといいます。

また最晩年の明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、この写真が生前の明治天皇が最後に撮影された姿といわれています。上の写真と異なり、髭を蓄えられており、なかなかの風貌です。これが撮影された、わずか2年後に亡くなっています。

栃木県那須村演習統監時の写真
(1909年〔明治42年〕11月、最晩年の57歳

陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)です。公式形式は上円下方。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇でもあります。

伏見桃山陵