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アナポリス 1937

School’s out. Annapolis, MD. June 3. School’s out for the graduating class at the Naval Academy at Annapolis, after receiving their diplomas the midshipmen are shown getting rid of their midshipmens caps for the headgear of an ensign. 6/3/37
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [19]37 June 3.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller

写真は、1937年6月3日、メリーランド州アナポリスにある、アナポリスの海軍アカデミーの卒業式の模様です。海軍の士官学校であるこの学校では、卒業式で在学中にかぶっていた帽子を投げ上げる風習があり、長年の伝統になっています。

首都ワシントンから東へ車で1時間ほどの距離にあるアメリカ合衆国の海軍兵学校(United States Naval Academy )は、1845年同じメリーランド州のフォートセヴァン創設で、1850年にアナポリスに移ってきて以後、長年この地にあることから、「アナポリス」の通称で呼ばれることも多い学校です。

従来、海軍士官の養成は艦艇乗り組みの洋上勤務を通じて行われており、陸上に学校を設けて士官教育をするようになったのは、世界でも本校が最初であり、文武両道に秀でた全米選りすぐりのエリートが集まります。

入学可能年齢は17歳から23歳までで、未婚者であること等の条件があります。設立当初は男性のみでしたが、1976年以降は女性の入校も認めています。兵学校の学生はMidshipman(士官候補生)と呼ばれ、4年間の教育課程を経て卒業すると少尉に任します。

卒業後、その大半はアメリカ海軍または海兵隊で少なくとも5年間勤務しますが、文字通りエリートであり、その後はアメリカ海軍の中枢を担います。

同じく国立大学である米海軍兵学校は数々のリーダーを世に送り出してきた米屈指のエリート校として名高いこの学校からの卒業生の中には、のちに政治家に転身する者も多く、有名な卒業生としては、元大統領のジミー・カーター、国務副長官だったリチャード・アーミテージなどがいます。

米海軍兵学校の教育方針は、「知育」「体育」「徳育」の3つです。知育は勉学、体育はスポーツや格闘技ですが、これに「徳育」が加わっているところが、過去に数多くのリーダーを生み出してきたこの学校の特色かもしれません。

徳育とは、人間としての心情や道徳的な意識を養うための教育であり、知育・体育と並び、教育の重要な一側面を成すものです。道徳教育と同義に用いられることもありますが、徳育の場合は、知識の習得よりは実践的な性格形成に重点を置いたものといえます。

同校には兵器・工学部、数理学部、人文・社会科学部の3学部があり、全部で25の専攻があります。

海軍の学校だけに、工学・兵器部には「海洋工学」の分野もあり、ほかに「原子力工学」などもあります。こちらは原子力潜水艦や空母といった船舶の搭乗員を養成することを目的としています。

また、数理学部には「サイバー軍事学」といった専攻もあり、近年の戦争がウェブ空間に移行しつつある現状も反映しています。さらに、人文・社会科学では、アラビア語や中国語といった米国と緊張関係にある国の言語も学ぶことができるといい、アメリカが置かれている国際情勢を物語っています。

全候補生に義務づけられている必修科目もあり、船舶操縦術や航行術などがそれです。下の写真は、1930年代のものですが、戦前から既にこうした教育が行われ、伝統となっていることがわかります。ていることを示しています。

将来の海軍を担うことになることから、海軍史やリーダーシップ論なども学びますが、無論、基礎的な学問はおろそかにしないようなカリキュラムになっており、すべての候補生が基礎的な数学や物理を学ばなくてはなりません。

人文・社会科学部を擁していますが、アナポリスでは文系専攻の候補生も「理学士」として同校を卒業します。元々は海軍の学校ですから、卒業生が派遣される職場のほとんどが文筆を生業にするものではなく、理系の分野の専門知識が必要とされる職場がほとんどのためです。




「「愛と青春の旅立ち」で有名になったアナポリスですが、そうしたイメージもあって、始終過酷な訓練ばかりしているという印象を持つ人も多いでしょう。「兵学校」ということで、かなり厳しい校風なのか、と思いがちですが、意外と校風は自由だといいます。

規律を厳しく叩き込まれる入学年を除き、意外にも全般は、ほぼ他の大学とは大きな違いはないといいます。

入学すると、4年間の寮生活を送ることになり、この時点で「米海軍の軍人」となりますが、実際は考えられているよりもかなり自由な私の時間を与えられており、休日ともなれば、でバスケットボールの試合を観戦したり、ダウンタウンへ繰り出して女の子をナンパする学生もいたりします。

しかも入学すると給与をもらうことができ、このあたりは日本の防衛大学校と同じです。ただ、7月の入寮日から8月の終わりまでは、「入校訓練期間」があり、ここはまさに、「愛と青春の旅立ち」の世界です。厳しい新兵教育があり、実際、脱落者もいるようです。

どこへ行くにも号令がかかり、新入生はあらゆる建物を直角に曲がりますが、急ぎ駆け足で向かわなければペナルティを課されます。食事にさえ規則があり、食事中は腕を直角にしていなければならず、また朝昼晩の食事のメニューを記憶しておくことが強いられます。

ただ、この新兵教育期間が終われば、後の大学生活は普通の大学生と同じであり、また、卒業後も必ずしも軍に入らなくてもよいきまりです。

もとより全米中から選りすぐりの優秀な学生が集まっているアナポリスですから、彼らは転職してもキャリアアップしていけます。なので、海軍に入ることをあきらめ、他大学へ移る学生もおり、また海軍に入ってからも辞めていく士官もいます。

自分に自信がない学生は脱落することが許されており、逆に、自律心があり、自ら考えて行動し、決断できるリーダーを育てるのがアナポリスの教育といえます。

そうしたこともあり、無事卒業できた人材はたとえ上級士官にならなくても、かなり優れた軍人になる可能性があります。それらの中でも特に優秀な上位10%ほどの卒業生が将来の海軍を担っていきます。毎年およそ250人ほどもいるこれらの卒業生の中から、カーターやアーミテージのような優れた指揮官が生まれてくるわけです。

また、卒業後は海軍に所属する者が他大多数ですが、陸軍、空軍、沿岸警備隊に入隊することも可能であり、全アメリカ軍のリーダーの養成校という一面もあります。

日本の自衛隊とも縁が深く、海上自衛隊からも、将来の幹部候補生として、一等海佐や三等海佐クラスが連絡官として派遣されており、現在も2名ほどがアナポリスで教官として赴任しているといいます。

逆にアメリカ海軍からも大尉クラスの教官が赴任し、広島県江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校で教鞭をとっているそうです。



ちなみに日本人がアナポリスに入学できるか、といえばこれは難しそうです。というのも、米海軍兵学校では、入学を許可してもらうために特別な推薦状の提出が求められます。それは、連邦議会議員からの推薦状、あるいは米大統領、もしくは副大統領による指名推薦状です。

アメリカ連邦議会は、上院と下院に分かれており、上院議員は各州に2名、下院議員は州の人口比率に応じてその定員が決まります。選出された議員は各自5名の推薦枠を持っています。つまり、各州の人口比率に応じて士官候補生が推薦される仕組です。

上院か下院の議員、そのいずれから推薦状をもらえばいいわけですが、将来にわたってよほどアメリカという国に寄与するであろうと期待されるような人物でなければこの推薦状はもらえないでしょう。ましてや、大統領や副大統領から推薦状をもらうのはかなりハードルが高そうです。

それでもアナポリスに入りたい、という人は若いころからアメリカで就労し、グリーンカードを入手して帰化する、ということも考えられなくもありませんが、そこまでして海軍兵学校へ入りたいという人がはたしているかどうか…

アナポリスも優れた学校でしょうが、アメリカにはもっとたくさんの魅力的な学校があります。おそらく日本以上に。おそらくアナポリス以上に自由な校風と厳しさを持ち、あなたを育ててくれる学校もきっと見つかるに違いありません。世界に羽ばたきたいと考えている方は、アメリカ行をぜひ検討してみてください。




ビキニ環礁 1946

Title: [Mushroom cloud with ships below during Operation Crossroads nuclear weapons test on Bikini Atoll]
Date Created/Published: [1946 July]
Medium: 1 photographic print.
Reproduction Number: LC-DIG-ds-02944 (digital file from original item)

写真は、1946年にビキニ環礁で行われた核実験を撮影したものです。使用された爆弾は、21キロトン級原子爆弾とされ、広島型、長崎型とほぼ同サイズです。

ビキニ環礁(Bikini Atoll)は、南太平洋のマーシャル諸島共和国に属する環礁で、位置的にはオーストラリアの北東約4,000kmにあります。ビキニ島とも呼ばれ、第二次世界大戦前の日本の海図にはピキンニ島と記述されていました。アメリカ軍による核実験で有名になり、その派生で、のちには水着のビキニという言葉も生まれました。




実験が行われた礁湖の面積は594.1平方キロメートルで、これは半径約13kmの円形ほどの大きさです。実験は、1946年から1958年にかけて行われ、その実験の数は奇しくもマーシャル諸島共和国に属する島の数、23と同じでした。

当実験が行われたことで、ビキニ環礁は、世界遺産にも登録されています。2010年、第34回世界遺産委員会において、ユネスコの世界遺産リストに登録され、マーシャル諸島共和国初の世界遺産となりました。

1946年、アメリカ合衆国は、当時信託統治領であったこのビキニ環礁を核実験場に選びました。選んだ理由は無論、他の大陸から遠く離れた場所にあり、核の影響が及びにくいからと考えたためですが、ここには先住民が住んでいました。

170人ほどの住人がいましたが、核実験を行うということで、強制的に近くのロンゲリック環礁という別の島に強制移住させられました。しかしこの新しい住処は漁業資源にも乏しく、移住させられた住民たちはその後、飢餓に直面したといいます。

ビキニ環礁で行われた最初の核実験は、1946年7月1日と7月25日の2回であり、それぞれ21キロトン級原子爆弾を用い、エイブル 実験(Able)とベーカー実験(Baker)と呼ばれました。

7月1日のエイブル実験では、核爆弾がB-29スーパーフォートレスの「ビッグ・スティンク」によって高度158mから投下され、7月25日のベーカー実験では、艦船群の中心に停泊した上陸用舟艇LSM-60から吊り下げられ、水深27mの海中で核爆弾が爆発しました。

3番目としてチャーリー実験(Charlie)が予定されていましたが、ベーカー実験において生じた放射能が予想よりも激しかったため中止されました。

なお、エイブル(Able)、ベイカー(Baker)、チャーリー(Charlie)は、米軍が使っていた識別暗号によるA、B、Cを示しています。また、実験全体は、「クロスロード作戦」と命名されました。「交差点」の意味ですが、こちらについては、どうしてこういう名前にしたのかは不明です。

この実験は、1945年のニューメキシコ州アラモゴードでの核実験および、同年、広島、長崎で実施された実弾投下に続く、史上4番目と5番目の核爆発であり、その目的は、海上の艦艇や部隊など海上戦力への被害を計測することでした。

大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾の実験であり、主要標的艦はアメリカ海軍の戦艦「ネバダ」、「アーカンソー」、「ニューヨーク」、「ペンシルベニア」、空母「サラトガ」などのほか、第二次世界大戦で接収した日本海軍の戦艦「長門」、ドイツ海軍の重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」などの接収艦も標的となりました。

そのほか、駆逐艦、潜水艦、上陸用輸送船・艦艇・舟艇なども含め、大小合わせておよそ100隻に上る艦艇が標的としてビキニ諸島に集められました。また、核爆発現象を研究するための技術的な実験も行われ、生きている実験用動物も使用されたといいます。


長門
プリンツ・オイゲン

サラトガ



この実験のために、第一統合任務部隊(Joint Task Force 1)が編成され、隊員の宿舎や実験施設として150隻以上の実験支援艦艇が利用されました。動員された人員は42,000人(このうち37,000以上は海軍の人員)にも上りました。

この他の人員は、エニウェトクやクェゼリンなどの近くの環礁に滞在し、実験前のビキニ環礁もまた、リクリエーション用途や計測所として用いられていました。

しかし、当然のことながら、最初の実験の前に全ての人員はビキニ環礁と標的艦隊から退避しました。彼らは実験支援艦隊に乗り、ビキニ環礁から東に少なくとも18.5km以上離れた安全地帯で待機していました。

上述のとおり、二回目のベーカー実験は、ビキニ環礁付近に激し汚染をもたらしました。大部分の艦で予定されていた影響確認検査が行われなくなるほどであり、このため、標的艦隊の除染作業が一週間後の8月1日から実施されました。

この除染作業は、放射線検知器を装備した作業員が艦船の外面を海水で洗浄する、というものでした。しかし、汚染が激しいため、作業員が標的艦に乗艦できる時間は数分しかとれず、除染作業はなかなかはかどりませんでした。このため、時が経過するにつれ、作業員自身が軽度の放射能を帯びた海水によって汚染されるようになっていきました。

そこで、ビキニ環礁での作業を中止し、汚染されていないクェゼリン環礁へ残存標的艦を移動させるという決断が8月10日までになされ、この移動は9月までに終了しました。ここでの主作業は無論、汚染除去でしたが、このほかにも標的艦に搭載されていた弾薬を抜き取りが行われました。クェゼリンでの作業は結局、翌年の1947年まで続きました。

その後、各艦艇のダメージを調べるなどの検査が行われましたが、検査にあたり、参加人員の放射線被曝量は0.1レントゲン/日(1ミリシーベルト/日)以下に抑えられました。実験当時、0.1レントゲン/日は健康に影響を及ぼすことのなく、長期にわたる被爆に耐えられる量であると考えられていたからです。

現在、人体に影響のない程度の被爆量は、1年あたり0.1レントゲン(1ミリシーベルト)とされていますから、この当時の作業員は、一日で一年分に匹敵するほどの被爆をしていたことになります。

0.1レントゲン/日を超える値を示した作業員は、1日または数日の間安全な場所に退避させ、作業を休ませる等の対策をとったといいますが、現在ならそれでも不十分であるとして、作業は中止させられていたでしょう。




しかも、こうした被爆量の測定が行われたのは、主に被爆リスクの高い場所で作業する者だけであり、その人員は全体のわずか15パーセントにすぎませんでした。この基準に基づき、放射線被曝のおそれがない、とされた人員は約6,600人もいたとされます。

ちなみに、本実験を通して記録された最大放射線蓄積量は放射線監視モニターが示した3.72レントゲン(37.2ミリシーベルト)であったといい、これはX線CTスキャンによる撮像1回分の線量7~20ミリシーベルトの2~5倍以上の値になります。

その後、被爆した艦艇の中から、12隻の艦艇と2隻の潜水艦が選ばれ、放射能の検査のためアメリカとハワイに曳航されました。この12隻の標的艦の汚染は大変軽微であったので、乗組員が乗艦して直接操船し、アメリカまで航行することができました。

残りの標的艦は1946年から1948年の間にビキニ環礁、クェゼリン環礁、ハワイ諸島近海のいずれかで撃沈処分とされました。

その後ビキニ環礁では、1954年から4度の水爆実験が実施されました。1954年3月1日のキャッスル作戦では、広島型原子爆弾約1,000個分の爆発力の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成されました。

このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上の漁船が、死の灰を浴びて被曝し、無線長だった久保山愛吉さんがこの半年後の9月23日に死亡したほか、他の21名の船員が、「放射能症」を発症した、とされました。この第五福竜丸の被爆は、その後日本国内で反核運動が萌芽するきっかけとなりました。

この水爆実験ではまた、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになり、今日に至るまで原島民は島に戻れていません。ビキニ島の半分の面積しかない、キリ島に避難・移住を余儀なくされた400人の住民は、現在も食糧難にあえいでおり、米政府から生活保障費を受け取っています。

放射能の影響が薄れ、ビキニ島に人が居住できるようになるのは、早くても2052年頃と推定されています。

ちなみに、水着の「ビキニ」の由来は、1946年7月1日の原爆実験(クロスロード作戦)の直後の1946年7月5日に、フランスのファッションデザイナー、ルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える「破壊的威力」を原爆にたとえ、「ビキニ」と命名してこの水着を発表したためです。

今日、多くの魅惑的な女性がこの水着を着用して世の男性を悩ませていますが、その同じ名前のサンゴ礁でかつて、多くの関係者が放射能に悩まされ、今日もなお、その影響を引きずっていることをどれほどの女性たちが知っているでしょうか。



ジョン・F・ケネディ国際空港 第5ターミナル

Title: Trans World Airlines Terminal, John F. Kennedy (originally Idlewild) Airport, New York, New York, 1956-62. Interior
Creator(s): Korab, Balthazar, photographer
Related Names:
Saarinen, Eero, 1910-1961 , architect
Date Created/Published: [between 1956 and 1962]
Medium: 1 negative : b&w ; 4 x 5 in.

写真は、ジョン・F・ケネディ国際空港(John F. Kennedy International Airport)の第5ターミナル内部で、1962年に開港される直前にメディアなどを対象に内部公開されたときの写真と推定されます。

この未来都市のような斬新なデザインは、アメリカの新進気鋭のデザイナー、エーロ・サーリネンの手によるもので、完成したターミナルは、旧トランスワールド航空(TWA)のターミナルとして長年使用されていました。

「サーリネンのターミナルビル」としても知られるこの優美なデザインは、同空港を代表する建築物となっており、また、歴史的建造物にも指定されています。

このジョン・F・ケネディ国際空港の名前を聞いたことがある人も多いでしょう。巨大都市ニューヨークの空の玄関口であるこの空港は、アメリカを代表する国際空港のひとつとしても位置付けられ、50を超える国々から100社近い航空会社の定期便が就航、1日の国際便の離着陸は400件に達します。

しかも国内線の離着陸はその2倍近くもあり、朝や夕方の繁忙期には数十機の出発待ちが発生するなど、世界でも有数の繁忙空港です。

さらにターミナル数は9つで空港施設の規模としては全米一。面積は約20平方キロメートル(成田国際空港の約2倍)で、マンハッタンの42丁目通り以南の面積に匹敵します。4本の滑走路が中央ターミナルを囲み、それぞれがペアで平行に走っており、13R-31L滑走路は商用滑走路としては北米最長の4440mです。

1942年に、ゴルフコースの一部を空港に転用して発足した当時は、4平方キロメートルしかありませんでした。その後、航空機産業の活性化に伴い後に16平方キロメートルが追加され、6年後の、1948年になって初の商業飛が行われました。そして同年、ニューヨーク港湾公社に運営が移管され、国際空港となりました。

この際、正式名称として「ニューヨーク国際空港(New York International Airport)」が,予定されていましたが、これが既存の「ニューヨークの空港(All New York Airports)」と紛らわしかったために使用が見送られ、それまで愛称だった「アイドルワイルド空港(Idlewild Airport)」が、そのまま暫定空港名として使用されるようになりました。

その後、上の第5ターミナルが完成したのとほぼ同時期の1963年に現在の名前に変えましたが、これは、同年11月22日に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の栄誉を讃えたものです。

1948年から1957年まではターミナルが1つしかありませんでしたが、その後第5ターミナルを含む8つのターミナルが、1958年から1971年にかけて次々と建設されました。各ターミナルはそのターミナルのメインとなる航空会社によって設計され作られましたが、第5ターミナルは、上述のとおり、TWAの手によるものです。





設計者のエーロ・サーリネンは、家具デザイナーとしても知られるフィンランド生まれのアメリカ人建築家であり、同じくフィンランドの建築家エリエル・サーリネンの実子です。

1910年、ヘルシンキに生まれ、13歳のときアメリカ合衆国に移住。ミシガン州のクランブルック美術大学教える父の講座に学び、彫刻を学ぶためパリへ留学した後、イェール大学建築学科に入学。1934年、イェール大学で建築学の学位を取得し卒業しました。

その後現場で研鑽を積み、27歳のとき、父エリエルと共同で建築設計事務所を設立。1950年に父のエリエルが逝去するまで勤め、数々の設計を手がけました。

1940年には、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募し、成型合板を使った椅子、棚、机を出品した結果、6部門中2部門で優勝しました。1941年からは兵役に就きましたが、この間、アメリカ戦略局の建築技術者として働くようになり、このころから建築家としての実力を備えるようになっていきます。

彼が注目を浴びるようになったのは、1948年、ミズーリ州セントルイス市に建設された国立公園、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑のデザインが注目を浴びたことです。この公園は、西部への国土拡大と開拓を記念して建設されましたが、そのデザインコンペで優勝した案が採用されました。

「ゲートウェイ・アーチ」と呼ばれるこのモニュメントは、高さ192m、最大幅も192mあり、セントルイスでは最も高い建築物です。断面は正三角形になっており、3面の側壁は鉄筋コンクリート造り、高さ91m地点まではステンレス鋼板で、それより上では炭素鋼板で覆われています。

内部は中空になっており、展望台へは、特殊な形のエレベーターが備えられています。アーチの頂点には展望台があり、ここには地上からは見えないほどの小窓がついており、東側にはイリノイ州西部から南部、西側にはセントルイスの街並みやその背後のグレートプレーンズを望むことができます。晴れた日であれば、視界は50km近くに達するそうです。

サーリネンは、アーチの頂点に達する手段として1,000段を超える階段を上らせずに済むよう、内部に「トラム」と呼ばれる小型の軌道車を設置する計画を立てました。しかし、アーチの特殊な形状から、数社のエレベーター会社が設計を試みましたが、いずれも失敗に終わります。

そこでサーリネンは大学を中退したエレベーターデザイナー、リチャード・バウザー(Richard Bowser)に着目しました。彼は、エレベーターと観覧車の技術を組み合わせたトラムシステムを研究しており、そのアイデアを見たサーリネンは、これだ!と思ったのでしょう。彼を雇い、トラムを設計させました。



バウザーは、見事にデザインを描き上げ、観覧車のゴンドラにも似た、このエレベーターと組み合わせたトラムシステムは、アーチが完成した1965年から3年経った1968年に完成しました。しかし、残念なことに、サーリネンは、その7年前の1961年に亡くなっています。

ちなみに、トラムを設計したバウザーは、1982年に退職するまで、ワシントン地区で国立公園局の常勤職員として働いていました。このトラムの設計と永年勤続により、国立公園奉仕勲章を受けていますが、2004年に82歳で亡くなっています。

サーリネンは、その後も前衛建築家として活躍し続け、生前のもう一つの代表作が、上のジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルビルです。コンクリート・シェル構造を用いた、流れるような曲面の表現主義的なスタイルの建築で一世を風靡しました。


 

彼が手がけた有名作品としては、このほか、ゼネラルモーターズの技術センター、MITクレスゲ・オーディトリアムなどがあり、生前、全部で26作品ほどを残しています。

彼は建築の中の内装や家具デザインも手がけており、チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインも20世紀中期を代表するものです。また、彼は自らが審査委員を務めたシドニー・オペラハウスの建築設計競技において、落選案の中からヨーン・ウツソンの案を強く推し、これを最終的に優勝させたことでも知られています。



サーリネンは1961年、51歳で脳腫瘍のためミシガン州アナーバーで亡くなりました。ゲートウェイ・アーチをはじめ多くの未完成のプロジェクトが残されましたが、彼の下で働いていた建築家たちが、その多くを完成させました。

作品ごとにその作風を変えることから、生存中はしばしば建築界の権威から無視され嘲笑される、といったこともあったようですが、今日では20世紀のアメリカを代表する巨匠の一人として数えられています。





イレアナ姫

Title: Most beautiful child in Europe.
Date Created/Published: 26 August 1920 [date received]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in.

写真は、かつて“ヨーロッパで最も美しい子供”といわれたルーマニアのお姫様、イレアナ妃です。

母マリアは、イギリスのエディンバラ公(ヴィクトリア女王の次男)とその妃であるロシア皇女の間にできた子で、ルーマニア王太子フェルディナンド(ルーマニア王カロル1世の甥)と結婚。イレアナはその三女として1909年1月5日ブカレストで誕生しました。

ところが、母のマリアは、父フェルディナンドと不仲でした。二人の間にはイレアナのほか、兄のカロルや姉のエリサベタがいましたが、その後に生まれたほかの兄弟たちの父親は、マリアの愛人ではないかと噂されていたようです。




兄のカルロは、1930年に即位し、カルロ2世と呼ばれるようになり、その後およそ10年に渡って国内を統治しました。しかし、独裁ともいえる政治を行ったため、次第に国民の信を失っていきます。

その後ヨーロッパ情勢は、ドイツを中心に様変わりし、ルーマニアも、外国支配を受け入れざるを得ない状態になっていきます。ドイツだけでなく、ソビエト、ハンガリー、ブルガリア、イタリアから降伏の圧力を受ける中、カルロ2世は親独派の将軍イオン・アントネスクによって裏をかかれ、失脚。

ポルトガルへ向けて亡命する際、ルーマニアを発つカロルが乗った列車には、王家の財宝が乗せられたとされています。

カルロは2世はまた、女癖が悪く愛人に溺れていたといわれ、数多の女性遍歴は、現在のルーマニア王家にも暗い影を落としているといわれます。

しかし、妹のイレアナは幼いころから国民に愛され、長じてからもその親しみやすい人柄が広く支持され、醜聞にまみれた長兄カロルよりもはるかに高い人気を得ていました。そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策します。

1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。それを契機に、兄カロルは、イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じますが、彼女を擁護する重臣たちにも助けられ、2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、そこで6子を生みました。

第二次世界大戦でルーマニアは、日独伊三国と同じく枢軸国側で参戦。夫アントンはドイツ空軍に所属しますが、このころからイレアナは福祉活動に力を入れるようになります。居城をルーマニア傷病兵の病院として使用させ、自らも看護をすることもあったといいます。

1944年、戦況は悪化し、ドイツをはじめとする枢軸国、そしてルーマニアは連合国やソビエトに追い詰められていきます。イレアナは子供たちと、ルーマニア南部のブラショヴ県南部の山中に位置する古城、ブラン城へ移り住みました。

夫アントンもブラン城へ合流しましたが、一家は赤軍の監視下に置かれるようになりました。それでも、イレアナは城外のブラン村に新たに病院を建設し、ここで傷病兵を受け入れる活動を続けました。

しかし、やがて戦況はさらに悪化していきます。そうした中、ルーマニア王制はついに崩壊。共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われました。

イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカに移住。マサチューセッツ州に居をかまえ、ルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え続けました。



2冊の本を執筆するなど精力的に活動しましたが、この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人のステファン・ニコラ・イサレスクと再婚しますが、さらに1965年に離婚。

その後は新たな夫を持つことはなく、フランスに移り住み、フランス北東部のビュシーにある修道院に入りました。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、その後も福祉活動を続け、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米しました。

1981年に引退するまで、アメリカ国内で精力的に活動しましたが、1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問しました。

ルーマニアでは、彼女が帰国する直前まで、悪名高いニコラエ・チャウシェスクによる独裁政権が続いていましたが、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めました。

そして、イレアナの帰国直前の1989年、チャウシェスクの独裁政権は、ついにルーマニア革命によって打倒され、民主化されていました。

彼女が帰国したルーマニアは、かつて彼女が住んでいたころの栄光を取り戻しつつあり、その時代の移り変わりを彼女は目の当たりにしたことでしょう。

翌1991年1月、彼女は80歳の誕生日の夕方に秋に腰を痛めて入院。その2年後に82歳で亡くなりました。




Whailing in 19th

Title: [Whaling scenes at Skaaro. The “Nancy Grey” with a whale, Norway]
Date Created/Published: [between ca. 1890 and ca. 1900].
Medium: 1 photomechanical print : photochrom, color.
Reproduction Number: LC-DIG-ppmsc-06256 (digital file from original)
Rights Advisory: No known restrictions on publication.

写真は、1890年から1900年頃に撮影されたものに、着色をしたもののようで、黒い船腹の前に横たわる白いものはクジラです。

二本マストの船は、いわゆる捕鯨船であり、“ナンシー・グレー”という船名から、おそらくはアメリカの捕鯨船でしょう。

北大西洋における捕鯨は、17世紀初頭よりヨーロッパ諸国でさかんになりました。この頃のヨーロッパにおける捕鯨の重要かつ最大の目的は、食用としての鯨肉確保ではなく、鯨肉から採れる「鯨油」の採取でした。

マッコウクジラに代表される「ハクジラ」から採取される「マッコウ油」と、シロナガスクジラに代表される「ヒゲクジラ」から採取される「ナガス油」は、前者がワックス・エステルなどの工業用途に、後者は主に灯火用としてそれぞれ用いられていました。

分厚い皮下脂肪層からの採取が中心で、骨や内臓も原料となりました。通常は原料となる部位を細かくした後に、釜に入れて煮るなどして加熱する融出法で採油されました。帆船時代に捕鯨船で遠洋に出る場合には、船上で採油ができるように薪や煉瓦を搭載して出航し、炉の使用が終われば炉を解体し、煉瓦は投棄していました。

この他にはヒゲが甲冑、帽子、コルセットの骨などの装飾品に利用されることもありましたが、クジラを獲る主目的はその油でした。16世紀に捕鯨はその最盛期を迎え、鉄に次ぐ重要産品として、鯨油を中心とした各部位はヨーロッパ全域で販売されていました。

このため、クジラを巡る国家間の争いも勃発し、ノルウェーよりさらに北にある、スピッツベルゲン島周辺でのイギリスとオランダの争いは、武装捕鯨船同士の争いから軍艦の出動にまで発展しました。




1618年になり、島の分割とその沿岸海域での捕鯨独占権を相互に承認することが定められましたが、1630年代後半になると、早くもスピッツベルゲン付近のホッキョククジラが枯渇し始め、捕鯨船団はグリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る北大西洋をクジラの姿を求めて彷徨いました。

1680年代になると、イギリスを抑え、一時的にオランダの優位が確立しました。オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになりました。スピッツベルゲンに設けられた捕鯨基地、スミーレンブルクの漁期には、港が鯨で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していたといいます。

その後、18世紀後半にはイギリスも捕鯨再開し、これにアメリカの捕鯨船も加わりました。冒頭の写真にもあるように、20世紀に入ると、アメリカもさかんに北大西洋に進出してクジラを捕獲しましたが、こうした各国の乱獲により、大西洋におけるセミクジラとホッキョククジラは徐々に姿を消していきました。

世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は太平洋へも進出し、カナダ北東部、バフィン島付近において新たな捕鯨場を発見することになります。

このバフィン島を含む北米大陸東岸では17世紀中頃、マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかり、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨が開始されました。

1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見以降、北米ではヨーロッパからの移民が増加し、1775年にアメリカ合衆国が独立するころまでには、捕鯨もさかんに行われるようになっていました。当初は沿岸捕鯨から始まりましたが、18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船とした「アメリカ式捕鯨」へと移行します。

この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、それまでイギリスやオランダが行っていたような、クジラの全ての部分を利用するものではなく、その後の資源枯渇を加速させたという批判があります。

操業海域は当初、アメリカ沿岸だけでしたが、やがて新たな資源を求めて太平洋全域へ活動を拡大していきました。北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺や南大西洋のサウス・ジョージア諸島まで活動しました。

操業海域の拡大にあわせて捕鯨船は排水量300トン以上に大型化しました。大型のカッターでクジラを追い込み、銛で捕獲し、船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で制作した樽に保存し、薪水を出先で補給しながら、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになりました。

日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まるようになりました。長期化にわたる操業にあたっては薪と水の補給が不可欠であり、このような事情から、アメリカはその補給基地として日本を重要視するようになり、頻繁にその海域を脅かすようになります。

これがやがては、ペリーの来航につながり、やがてその後の日米和親条約締結、明治維新へと向かうきっかけとなったわけです。



このころのアメリカの捕鯨船の捕獲用器具としては手投げ式の銛が主流でしたが、のちにはこれに加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃と呼ばれる捕鯨銃が開発されるようになり、これにより格段に捕獲量が増えました。

捕獲対象種としても、それまで対象とされなかった小型種であるコククジラやセミクジラ、ザトウクジラも加わり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定されました。

19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業するアメリカの捕鯨船の数は500~700隻に達し、アメリカだけでマッコウクジラとセミクジラ各5千頭、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラ7千~1万頭を年間に捕獲していたといいます。

南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていました。とくに、捕鯨船の母港となった、マサチューセッツ州の、ナンタケットやニュー・ベッドフォードは大いに繁栄しました。

幕末から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活躍した、ジョン万次郎こと、中浜万次郎はこの港町で成長しました。土佐の漁師の子だった万次郎は、14歳のとき漁に出て嵐に遭遇として遭難し、このニューベッドフォードのフェアヘブンを母港とする、ジョン・ハウランド号に拾われました。

船長であるホイット・フィールドの養子となって一緒に暮らすようになり、地元の海員養成学校で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学び、首席となりました。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれるまでになりましたが、帰国を望み、その後幕府に召し抱えられました。

アメリカ文学を代表する名作、世界の十大小説の一つとも称され、たびたび映画化されている「白鯨」を執筆した、ハーマン・メルヴィルもまた、ニューベッドフォードにほど近いニューヨークの出身で、捕鯨船の乗組員として働いていました。

1840年、捕鯨船アクシュネット号の乗組員となり、翌年太平洋へ航海しますが、きびしい環境に嫌気が差し仲間と脱走。タヒチ島では乗組員の暴動に巻き込まれイギリス領事館に逮捕されるなどの波乱万丈な航海は、1843年にハワイに着くまで続き、その後の彼の作品に大きな影響を与えました。

アメリカの捕鯨は20世紀初頭までさかんに行われ、このように、文化や歴史にも大きな影響を与えましたが、やがて太平洋においても大西洋の場合と同様に資源の減少が起きました。カリフォルニア州沿岸のコククジラは激減し、マッコウクジラやセミクジラも大きく減少していきます。

資源枯渇に対し、再び操業海域変更による産業継続が図られ、大西洋を南下した捕鯨船は南極海域にある島々に基地を設けて活動するようになり、20世紀初頭には、手付かずに近かった南極海での本格的な捕鯨が始まりました。

まず、ノルウェーが操業をはじめ、すぐにイギリスが続き、公海上での捕鯨合戦が始まると、ノルウェーとイギリス以外の国も南極海での捕鯨に関心を抱き、1934年に日本、1936年にドイツが捕鯨船団を出漁させるようになります。

以後、制限頭数に到るまでに如何に自分の国で多く鯨を取るかという捕鯨競争が活発になり、「捕鯨オリンピック」等と呼ばれる事になります。南極海の資源量は他の漁場に比べて大きなものでしたが、近代漁法による乱獲はやがてここでも資源減少をもたらしました。

当初、主たる捕獲対象だったザトウクジラが獲れなくなり、次には主たるシロナガスクジラも減少し、1930年代後半にはナガスクジラが頭数の上では中心となりました。第二次世界大戦中も捕鯨は続きましたが、南極海における資源量の減少は止まりませんでした。



無論、このころまでの捕鯨の主目的は鯨油ではなく、食肉ほかの用途目的によるものになっていましたが、戦後は自然環境の保全という新たな視点が加わるようになり、1946年、国際捕鯨取締条約が(ICRW) 締結されます。さらに、これにより2年後に国際捕鯨委員会 (IWC) が成立し、日本も1951年加盟しました。

現在においては、このIWCの規制により、各国の捕鯨は著しく規制されていますが、今でもノルウェーは商業捕鯨を操業しており、また日本も「調査捕鯨」として捕鯨を継続しています。なお、一般には捕鯨をしていない、と認識されているアメリカやカナダでも、先住民が捕鯨をおこなっているなど、一部の国や地域では今も捕鯨が継続されています。

ただ、今や「資源」としてよりも、「環境」の一部として認識されるようになった鯨の捕獲は、世界の多くの国でタブー視されるようになっており、「伝統」であるとして捕鯨を続ける日本をはじめとするこれらの国の立場は悪くなる一方です。

私個人としては、クジラ肉が大好きですが、これがなくては生きていけない、というほどではありません。やはり、失われつつある環境の一部として認識し、保全していく、という立場に賛同せざるを得ません。