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ボール計測 1938

Title: Baseballs undergo outdoor tryout. Washington, D.C., Mar. 7.
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [19]38 March 7.
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1938年、アメリカ標準局(National Bureau of Standards, NBS)は、新たに設計された計測装置を使ってメジャーリーグで使用されているボールのホームラン特性を計測する実験を開始しました。

ホームラン特性?と現代の野球を知る人は首をかしげるでしょうが、このころから、メジャーリーグ (MLB)では、そのシーズンに行われるすべての試合使用球が規定内の反発力であることを求めるようになりました。“ホームラン特性”なるものもこの当時の基準のひとつだったようです。

それが数値上、どういった形で表わされていたのかよくわかりませんが、ともあれ、こうした規制はすでに1860年代から始まっていました。その理由はただひとつ、「ボールが飛びすぎるから」です。

そもそも、1842年頃から現在の野球に近いルールでプレーしていた初の本格的野球チーム、ニューヨーク・ニッカーボッカーズが最初の6、7年間は自分達でボールを縫っていたように、当初のボールは手製でした。勝利チームが敗戦チームから賞品として受け取れる貴重品であり、こうした基準とは無縁でした。

ところが、南北戦争が終結した1860年代後半になると一気に野球熱が高まり、多くのメーカーが工業生産でボールを生産するようになります。

MLB の公式球は1878年から1976年まではスポルディング社が、1977年からはローリングス社が独占供給するようになりました。現在においても、ローリングス社コスタリカ工場で生産されているものが使用されています。

しかし、その製造品の品質には、過去から現在に至るまである一定の幅があります。MLBとしては、公正な試合を司る以上、その品質においても、製造会社毎に違いがあってはならないとしたわけです。




野球がグローバルなスポーツとなった現代においても、こうした品質規制は重要であり、もうひとつ、それぞれの国家で行われている野球において使われているボールの品質に差がある、といいう問題もあります。

例えば、日本のプロ野球(NPB)の公式球は、野球規則に定められた大きさ・重さのほぼ「下限」であるのに対し、MLB公式球はほぼ「上限」であって、両者には大きな隔たりがあるといわれます。

つまり、大リーグのボールは日本の公式試合球よりも若干大きく、重いものであり、こうした差異は、日米野球が行われるようになった当時から問題視されていました。

このほか、アメリカのボールの表面の牛革の質感は日本のものよりもツルツルとした滑らかなもので、縫い目も日本のボールより高く、空気抵抗の違いから同じ握り・投げ方の球種でも日本の公式球とは変化の度合いに顕著な違いが出ます。




また、昔から品質規制が行われていたアメリカのボールでも、依然、品質にバラツキはあります。そして、その最たるものは、現在においても「反発力」です。今でも、反発力検査はシーズン中に2週間に1回程度行われ、大きさの基準に合格したそれぞれのメーカーのボールの中から1ダース取り出して検査されます。

試験方法はマシーンでボールを射出して壁に当てる方法で、壁に当たる前の速度と跳ね返った後の速度を計測し、その比から反発係数を求める、といったものです。冒頭の写真は、そうした計測方法がようやく確率され始めた時期のものであり、同様な試験をフィールドで行おうとしたものでしょう。

写真は、かつてアメリカのワシントンD.C.にあった、“グリフィス・スタジアム”における試験模様です。このスタジアムは、ワシントンD.C.という立地から、大統領も観戦に訪れ、D.C.のスポーツの中心地でした。

しかし、1961年にはメジャーリーグが球団拡張を実施し、新たなワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)が誕生したのを契機に、その翌年にはロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムへ移転しました。使い手がなくなったグリフィス・スタジアムは1965年に取り壊され、跡地にハワード大学病院が建設されています。

写真の試験は、1938年、3月7日に行われたもので、標準局・NBSはあらかじめ室内実験で装置の具合を確かめた上で、グリフィス・スタジアムへこの装置を運び込みました。この試験では、ボールをエアガンで撃ち、どこまで飛ぶかが試験装置によって記録されたようです。

こうしたボール試験は野外だけでなく、室内でも行われていました。下の写真は、打者が持つバットに相当する木製の発射体と空気銃を組み合わせたもので、空気銃によって発射された弾丸は、錘のついた振り子にぶつかります。このとき振り子の動きを読み取ることによってボールがどれほど激しく錘に当たったかが計測されます。

こうした野球のような娯楽において使われる道具においても、その精度にこだわりがようになったのは、18世紀半ば以降に始まった、イギリスを中心とする産業革命以後のことです。

アメリカにおいても1790年1月、ジョージ・ワシントンが最初の年頭教書演説で「合衆国における通貨および度量衡の均一性は極めて重要であり、それを正しく遂行させるべく…」などと述べ、国務長官トーマス・ジェファーソンに、工業生産品に関する「精度」に関する基準の確立のための計画立案を命じました。

実際に、工業製品に関する基準の一様な標準群が完成したのは、それから48年後の1838年のことであり、後にその報告書は Jefferson report と呼ばれるようになります。そして、この報告書をもとに様々な試行が行われ、1901年になって、ようやく、これを順守するための機関として、アメリカ標準局・NBSが設立されました。

このNBSは、現在ではNIST (National Institute of Standards and Technology)と名を変えており、邦訳では「アメリカ国立標準技術研究所」になります。

現在のNISTは1300種もの最高純度で正確な量の標準物質 (Standard Reference Material, SRM) を産業、学界、政府、および他のユーザーに供給する役割を担っています。NISTで認定された「標準物質」は、特定の性質や材料構成を持つことを保証されており、日本のJIS規格のもとに定められる標準物質と似ています。


NIST AML ビル

もう少し詳しく説明すると、「標準物質」とは、測定機器や測定手順の較正に使われたり、実験の対照サンプルとして使われるもので、例えば、食品製造分野のための標準物質としては、水、脱脂粉乳、小麦粉、米粉、といったものです。

生活に欠かせないものばかりであり、このほか、カキの細胞、牛レバー、トマトの葉 、ピーナッツバター といった特殊なものまであります。もとは、米や小麦といった、標準的な食材ばかりが対象であったものですが、食生活の多様化とともに「標準」の意味もまた変わりつつあります。

現在、NISTには約3000人の科学者、工学者、技術者がおり、また、国内企業や海外から約2700人の科学者、工学者を受け入れています。さらに国内約400ヶ所の提携機関で1300人の製造技術の専門家やスタッフが関わりつつ、アメリカにおける「標準物質」の定義の研究に日々勤しんでいます。

NISTの出版している “Handbook 44” は「計測機器についての仕様、許容誤差、他の技術的要件」を提供しており、これはアメリカ工業会におけるスタンダーとみなされています。少々形式は異なりますが、日本のJIS規格と同様のものと考えていいでしょう。

話題を元のボールの話に戻しますが、このNISTの前身のNBSの認定によって、MLBでは1910年のワールドシリーズに初めてコルクを芯にした飛ぶボールが使用されました。このボールを使用した翌1911年のシーズンでは3割打者が前年の30人から57人に増えました。

ところが、飛ぶボールによって本塁打が増えすぎ、批判が起き始めました。硬式球の製造過程における何らかの要因で反発係数が上がったり、重量が軽くなることで飛距離が著しく上昇するボールは飛び跳ねるウサギに例えられ、「ラビットボール」、「飛ぶボール」などと呼ばれました。

ラビットボールは本塁打が出やすいことで、走塁や盗塁などのプレーの重要性や観戦の醍醐味が損われるとしてしばしば批判の対象となってきました。このために、MLBでは、1931年にはコルクをゴムで包んで反発力を抑える工夫をしており、同時に投手が握りやすいように縫い目を高くする改善なども行いました。


国立標準局。ワシントンD.C.、撮影日不明(1910年〜1926年)

こうした、ラビットボールの問題は、日本でも起こっています。1948年、イシイ・カジヤマ(ジュン石井)が製造したボール自動製造機械によって製造されたボールは、NPBに試験導入され、翌1949年から1950年まで全面的に使用されました。

それまでほぼ手作りだったボールが、この自動製造機械導入で精度が格段に上がりました。材質面では、戦時中より粗悪品のままだったものを機械導入を期に大手毛糸会社と契約を結ぶことで、質の高いボールを製造できるようになりました。

材質の改良に加えて、電気乾燥機で湿気を飛ばす製造手法も反発力向上の要因となりました。このボールの導入によって本塁打数が劇的に増加。その結果、日本でもこの後に初めて反発力の規定が作られるに至ります。

しかしそれでも、「飛ぶボール」の問題は払しょくされず、1978~ 1980年にも「飛ぶボール」問題が発生し、当時のミズノ社製のボールが他社のボールと比べて10数メートル飛距離が出る反発力の高いボールであったことが問題視されました。

その発端は、1978年には阪急ブレーブスが導入し、打率・本塁打数・得点数でリーグ1位を記録し、優勝したことです。次に、それを知った近鉄バファローズが1979年に導入し、リーグ1位の打率・本塁打数を記録して初のリーグ優勝を遂げました。

さらに、1980年にはパシフィック・リーグ3球団でチーム本塁打数が200本を超え、リーグ全体で1196本(1球団平均199.3本)もの本塁打が出ました。この事態を重く見た当時プロ野球コミッショナーの下田武三の指示により、反発力テストの規定を見直すに至ります。

その後2000年代になっても「飛ぶボール問題」は消えていません。2001年頃のミズノ社製のボールが他社製のボールと比べ反発係数が高く、飛距離が出やすいと言われていました。



例えば、東京ドームでの1試合あたりの平均本塁打数(公式戦)は1988年は1.31本(112試合で147本)だったのに対して2004年は3.43本(76試合で261本)と本塁打率が2.6倍以上に増加していました。また、2004年、規定打席に到達した3割打者は36人(セ21人、パ15人)にものぼりました。

その他、2003年にミズノ社製に切り替えた横浜ベイスターズは、本塁打数を前年比95本増加させた。2004年のシーズンで中日ドラゴンズは本拠地のナゴヤドームで使用するボールの一部を対戦相手によってミズノ社製からサンアップ製(ミズノ社製のものより飛ばないとされている)に切り替えました。

これらが問題視された2005年にはミズノ社が新開発した「低反発球」が巨人、横浜、ソフトバンクら8球団に採用されました。その結果、2005年の総本塁打数は247本減少しました。2010年には、両リーグ11球団でミズノ社製が採用されていましたが、依然、他社製に比べると打球の飛距離が伸びやすいと言われています。

こうした「飛びすぎる」問題は現在までも延々と続いており、2011年には、WBCなどの国際試合で採用されるボールに近づけるという目的などから、2012球団全てでミズノ製の低反発ゴム材を用いた統一球を採用しました。

ストライクゾーンの変更など諸条件と合わせた結果、両リーグあわせて2010年の本塁打数と比べると1605本から939本に激減しました。

ところが、2013年6月11日、NPBは会見で過去の反発力検査でボールの反発係数が基準値以下になることがあったと発表しました。実際に2012年のボールと2013年のボールを割って調べてみたところ、球の中心にあるコルク材の感触が2013年になって硬くなっているという調査結果がでました。

NPB側はミズノ社側に「ボール仕様の調整は公表しないでほしい」と要請するなど、この事実を隠蔽、また選手会には「仕様は変わっていない」と虚偽の説明をしていましたが、6月11日の記者会見で変更したことを認めました。

加藤良三コミッショナーは混乱を招いたことについて謝罪する一方で、加藤の了承の上で変更が行われたという下田事務局長の主張について「昨日まで全く知りませんでした。」と否定し、責任を追及する記者に対しては「不祥事を起こしたとは思っていません」と答えました。

しかし、実際には統一球検査の報告を随時受けていたことが取材で発覚しており、これにより加藤コミッショナーが辞任に追い込まれる事態にまで発展しました。


2013年に日本プロ野球で使用された統一球。
時のコミッショナー・加藤良三のサインが印刷されている。

2014年以降は、ボールメーカーであるミズノ社によってボールの回収と在庫品の選別、今後の製造工程における対策が発表されました。その結果、基準値に基づく検査は許容範囲が狭く「違反」になる球が多すぎるというプロ野球選手会が抗議、2015年に基準値は「目標値」と改正、上下限は撤廃されました。

以後、現在に至っていますが、いずれまた時代の変遷とともにボールの基準値改定は行われていくのでしょう。それまでプロ野球が現在の形のまま残っていれば、ですが。




騎馬警官

Title: FORT MYER. UNIDENTIFIED GROUP OF OFFICERS ON HORSEBACK
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [between 1909 and 1914]
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かつて人が得うる高機動力の代表と言えば馬でした。

写真は、20世紀初頭(1909~1914年頃)の米国でのものですが、アメリカの警察でも馬はパトロールなど様々な業務で活用されており、この時代における騎馬警官は、今日でいうパトカーや白バイに乗務する警察官のような役割を担っていました。

しかし20世紀に入り機械の車(自動車やオートバイなど)が普及していくと共に、警察でもパトロールカーや白バイが導入されるようになり、騎馬警官の重要度は相対的に下がっていきました。

それでも馬には自動車やオートバイにはない特長・利点があるので、今日でも馬は多くの国の警察にとって欠かせない装備の一つになっています。米国の多くの都市の警察が騎馬部隊を備えており、例えば、ニューヨーク市のそれは米国の都市の中でも最大級で、80人近い騎馬警官と60頭の馬を備えています。また、国境警備にも活用されています。

アメリカの各州の警察にも「State Trooper」と称する機関があり、これは直訳では“州騎兵”です。西部開拓時代に馬でパトロールしていたなごりであり、アメリカの歴史が馬とともに形成されてきたことを反映しています。


「聖パトリックの祝日」に、行進を先導するサンフランシスコ市警察の騎馬警官




この騎馬警官が現在に至るまで生き残っている理由にはいくつかありますが、特に群衆のコントロールをする時にすぐれた心理的効果を発揮する、という点でその必要性が認められているようです。

街頭警備、デモ警備において、馬は非常に柔軟性のある機動力として使われており、これは、馬は車両ほどの速度は出せないものの、車両よりも柔軟な動きが可能で、必要に応じて群集を威嚇することも可能であるためです。

雑踏警備や街頭警備においては、馬であれば車両では入れない路地でも入ることができますし、歩行者や他の車両を馬自身の判断で避けてくれます。オートバイも狭いところに入っていけますが、こうした判断は運転者自らが制御しなければいけません。

人が歩くほどの低速で移動する事も容易であり、また人の背丈より高い位置から周囲を俯瞰することもできる点も優れています。

群衆のコントロールをしなければならない場面で騎馬警官は特に優れた働きをします。群集が暴動を起こしかけたり、暴動ではないがある一箇所に殺到する場合では、その大きな体躯を活かして威嚇したり、群集に一定の流れを作り出すこともできます。

何事もないときはただ立って尻尾を揺らしているだけで、その愛らしい姿が人々の心を和ませます。また群集は暴徒と化したとき警察車両に対しては容赦なく破壊行動を行いますが、生き物である馬に対して、人々が直接的な危害を加えることは稀です。

潜在的暴徒であるデモ隊に対しては騎馬警官が集結して堵列を作ることで抑止力にもなり、デモ隊に対する突撃は騎兵の衝撃力に類似した効果をもたらします。この効果をもって、デモ隊を押し戻したり分散させるなどの制御が可能となります。日本においても、大正時代に護憲運動が起こり、デモが頻発した際に、憲兵隊が騎馬で群衆を蹂躙し鎮圧しました

この高い柔軟性と人々に対する心理的効果は、車両にはないものと言え、現在でも欧米各国が騎馬警官を残しているのはこのためです。その昔は、現代の機動隊が行うような群衆排除の手法が確立していなかった、ということもありますが、現在に至るまで、こうした非致死的実力行使の手段はほかに見当たりません。

群衆整理を行う騎馬警官(イギリス・エジンバラでの反G8サミットデモにて)



このほか、騎馬警官の特徴としては、車両が立ち入れないような場所でのパトロールを行うことができる、ということがあります。

日本ではほとんど必要性はありませんが、アメリカ絵はカナダやメキシコといった隣国があり、こうした国境付近や国立公園、自然公園といった野や林や森林地帯などで、騎馬警官はパトロールの主力として威力を発揮します。

これらの場所では道路がない、あるいは貧弱な場合も珍しくなく、また地区によっては自然保護の観点から車両の進入が禁止されており、自動車によるパトロール・警備が難しいこともあり、馬は、人が得られる数少ない機動力の一つになっています。

そのほか、騎馬警官はしばしば儀礼的な目的でも活用されます。例えば国賓などのパレードが行われる際に、その先導に騎馬警官がつくことがあり、かつての王族や貴族のパレードのような雰囲気を醸し出す役割を果たしています。歴史の浅いアメリカでは、こうした演出が特に好まれるようです。




この点は日本も同じで、現在も天皇に謁見する外国の外交使節が馬車に乗り、それを皇宮警察や警視庁の騎馬隊が警護する、といったことが行われています。

現在、日本には、京都府警察の平安騎馬隊、皇宮警察本部の騎馬隊、警視庁の騎馬隊(交通部第三方面交通機動隊)三つがあります。

もっとも、毎日のように国賓や外交使節団が日本を訪れるわけではないので、通常のその活動内容は、学童向けの交通安全教育や交通整理、パレードの先導や参加、信任状捧呈式等の警護といった広報・儀礼目的が中心です。

その他、観光地等における警備・巡回といったこともやっており、平安騎馬隊は水難事故防止のため、賀茂川・宇治川・木津川等の河川敷における水辺パトロールもやっているそうです。

葵祭の行列を先導警備する平安騎馬隊員



以上、騎馬警官が現在まで各国でなくならないのは、それなりの需要があるからですが、ただその運用のためには、人馬一体の技術訓練を受けさせることが必要で、その手間がかかるのも事実です。とはいえ、厳しい訓練を経て優れた技能を持つに至った騎馬警官は、人が直接行うよりも遥かに少ない手間で群衆整理を行う能力を持っています。

また、厩舎から警備実施地点まで移動するための車両が必要です。日本では、競走馬輸送車のような大型で自走する物が主流のようですが、欧米では乗用車やトラックで牽引するホーストレーラーが利用されているようです。

なかなか、こうした警備用の馬がトレーラーから降りてくるのを見る機会はないようですが、皇居の周りあたりでは時たまみられるようです。筆者も一度見たことがあります。みなさんも一度見学に出かけてみてはいかがでしょうか。




ライフガード in USA

Title: A Life saver on the lookout
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Detroit Publishing Co. , copyright claimant
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: c[between 1880 and 1906]
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写真タイトルは、“巡回中のライフセーバー”となっています。左端に立っている、目つきの鋭い長身の男性がライフセーバーかと思われますが、写真中央の二人の女性のうち、右側の女性のコスチュームが男性のものと似ており、あるいは巡視などの補助的な役割をしているのかもしれません。

一般的に「ライフセービング」とは、溺れかかった者を引き上げ、必要に応じて人工呼吸や心臓マッサージなどの応急処置を組織的かつ合理的に行う活動、および事故回避のための様々な活動を指します。

海におけるライフセービングは、諸外国では、サーフ・ライフセービング(Surf lifesaving)と呼ぶことが多く、海流、波や津波、潮汐や高潮、危険な海洋生物など海洋に適した技術や知識が問われます。

また、ライフセービングを職業とする者は、日本のようにライフセーバーとは呼ばずに「ライフガード(命を守る者)」と呼ばれることのほうが多く、フルタイムやパートタイムで地方公務員やスポーツ施設社員として勤務しているようです。

欧米豪の海岸などでは、普段から自治体に雇用されたライフガードがパトロールしており、シーズン中の週末や休日には、本職を別に持つボランティアがライフセーバーとしてパトロールに参加するという形態をとっています。

アメリカ合衆国では19世紀末からライフガードの雇用が始まっており、ライフガードという呼称もこの時期に生まれました。ただ、写真タイトルは“A Life saver”となっていますが、その昔はライフセーバーという呼称が使われることは少なく、またライフガードもあまり使われなかったようです。

ライフセーバーズ・キャンディの呼称で呼ばれることが多かったようで、キャンディ (candy)は縞々模様の砂糖菓子のキャンディを指しており、名前の由来は、同様に縞々模様の救命浮き輪から来ているようです。

ところが、1989年から2001年にかけて放映されたテレビドラマ「ベイウォッチ(水難監視救助隊)」が大ヒットした関係で、そこで働くライフガード(救命隊員)たちの活躍から、アメリカでもライフガードと呼ぶ場合が増えてきました。

ちなみに、このベイウォッチというドラマは、アクション・アドベンチャー仕立てで、レギュラーに加えてシーズンごとに新たな美女ぞろいの隊員が登場するのも見どころであり、アメリカだけでなく、全世界142ヶ国で大ヒットしました。ギネスブックにも登録され、史上最も視聴者の多いとされたテレビ番組です。


フロリダ パブロビーチでのライフガードの訓練模様 1919~1929年頃




このライフガードという職業は、そもそも17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパが発祥とされます。

フランスでは、ナポレオン戦争の際、患者の重症度に基づいて治療の優先度を決定して選別を行う「トリアージ」などのシステムが発達しましたが、同時期にボランティア消防士(サプール・ポンピエ)などの救命活動も発達し、これがライフガードに発展しました。

また、国土の4分の1が海面下にあるオランダ、プールの建設ラッシュとなったイギリスといった国々でも、水に対する危険防止と水難救助のためにライフセービング手法が確立されました。

最初の国際ライフセービング会議は1878年にマルセーユで行われ、10年後の1910年には国際機関FIS (Fédération Internationale de Sauvetage Aquatique)が発足。

メンバーはフランス、ベルギー、イギリス、アイルランド、ドイツ、オーストリア、ルクセンブルク、スイス、デンマーク、スウェーデン、ブルガリア、ポーランド、トルコ、アルジェリア、チュニジアなど大部分がヨーロッパ諸国であり、これにアメリカは入っていません。




一方のアメリカでは、18世紀から19世紀にかけて沿岸における難破船の救助を目的とした有志団体の活動で始まりました。ヨーロッパに先駆け、1848年には既に合衆国ライフ・セービング・サービス(United States Life-Saving Service)が発足。

同機関は1915年に財務省傘下の合衆国税関監視船サービス(United States Revenue Cutter Service)と合併して、その後、かの有名な、アメリカ沿岸警備隊(コーストガード)となり、現在に至っています。

ただ、沿岸警備の救助活動とは別に、海水浴場での遊泳者の監視や救命活動を担う役目としてのライフセービング活動が、南カリフォルニアと東海岸のニュージャージー州などで続いていました。

他国と異なり、これらの任務に就く者は地元で雇用され、その多くは公務員として警察官や消防士に近い活動をするライフガードでした。最初のライフガードは1892年にニュージャージー州アトランティックシティ で雇われています。

冒頭の写真の撮影地はフロリダになっており、撮影年は1880年から1906年の間とされていることから、フロリダでもこの時期、同様のライフガードが活動が始まっていたのでしょう。

1956年のオーストラリア メルボルンにおける夏季オリンピックの際には、オーストラリアのライフセーバー達がアメリカ、イギリス、南アフリカ、セイロン(現スリランカ)、ニュージーランドにライフセービング技術を競う国際招待試合を申し込みました。

名誉審判はデューク・カハナモク。ハワイ出身でした。ただ、アメリカ・サーフ・ライフセービング協会が「アメリカ」代表として送りこんだのは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡およびロサンゼルス市内のライフガードだけでした。


ホノルル、ワイキキビーチのライフガード 1920年




この大会で、アメリカはレスキューチューブ、救命ブイ、マリブボードをオーストラリアに紹介してブームを起こした。マリブボードとは、1950年代にカリフォルニア州マリブにちなんで名づけられたサーフィン用ロングボードのことです。

一方でオーストラリア・サーフ・ライフセービング協会の全国組織としての団結力と統率力を目の当たりにしたアメリカは、カリフォルニア州南部のライフガード組織に呼びかけ、1963年にアメリカ・サーフ・ライフセービング協会(Surf Life Saving Association of America)を設立しました。

同協会は、その後1965年にナショナル・サーフ・ライフセービング協会(National Surf Life Saving Association 略称 NSLSA)と改名し、ライフセービング・スポーツ大会を開催するようになります。

同年テレビ局 ABC主催によるライフガード・チャンピオン大会を機に、初めて西海岸と東海岸のライフガードが対決し、全国組織の基盤を作りました。オーストラリアやニュージーランドとの国際交流も続いており、1971年のWLS結成にも名前を連ねました。

WLSとは、オーストラリア・サーフ・ライフセービング協会が中心となり、ニュージーランド、イギリス、南アフリカ、アメリカ合衆国などが団結し立ち上げた国際組織で、ワールド・ライフセービングの略です。FISのメンバーがヨーロッパ諸国が多いのに対し、WLSのメンバーは環太平洋諸国が多いのが特徴です

一方、アメリカのNSLSAのメンバーは海水浴場の多いカリフォルニア州が圧倒的に多く、残りは東海岸各州という、全米組織とは言いがたい偏りが見られました。これはサーフ(磯波)という言葉が、湖や河川を含まないためです。




そこで1979年に名称から「サーフ」という言葉を抜き、オープンウォーター(海洋、湾、川、湖、池、沼など。プールは含まない)での救助を目的とした「ライフガードの組織」として合衆国ライフセービング協会(United States Lifesaving Association 略称 USLA)と改名。五大湖周辺都市など内陸地のライフガードも受け入れるようになりました。

日本の場合、こうした内水面での水泳活動などは少ないことから、内陸のライフガード活動もあまり活発ではなく、当初はこのアメリカの影響を受けていましたが、近年はオーストラリアの影響を多大に受け、制度も彼の国のそれを真似ている部分が多いようです。

なお、1993年にヨーロッパ中心のFISと環太平洋諸国中心のWLSが合併し、国際ライフセービング連盟 (International Life Saving Federation 略称ILS)が生まれました。

日本は、1991年にそれまで複数あったライフセービング協会(SLSAJ、JLGAなど)が合併し、NPO法人 日本ライフセービング協会(略称 JLA。本部は東京都港区)となり、1993年に設立した国際連盟のILSに日本代表機関として承認されています。




ミシガン・セントラル鉄道トンネル

Title: Sinking last tubular section, Detroit River tunnel
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Date Created/Published: c[between 1900 and 1910]
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あけましておめでとうございます。本年も当サイトをよろしくお願いいたします。

さて、今日のブログのタイトル、「ミシガン・セントラル鉄道トンネル(Michigan Central Railway Tunnel)」は、デトロイト川の下をくぐり、アメリカ合衆国のミシガン州デトロイトとカナダのオンタリオ州ウィンザーを結ぶ鉄道トンネルです。

アメリカ側の入口は、デトロイト中心部にほど近いポーター・バーモント通りの南側にあり、このデトロイトは、人口等から全米9位の規模の町です。主要産業は自動車産業であり、かつては「自動車の街」とも呼ばれて繁栄しましたが、現在は、失業率、貧困率が高く、犯罪都市として有名になってしまいました。

こうしたこともあり、今も残る、デトロイト側のトンネル周辺は一般人の立ち入りが規制されており、デトロイト市警察などが定期的に巡回しているそうです。

一方、対岸側のウィンザーは、人口はおおよそ20万人。主な産業は加工組立、鉱業、観光、農業で、カナダ国内でも有数の自動車工業都市ですが、これはもちろん、対岸側のデトロイトの恩恵を受けてのことです。国境を越えアメリカ合衆国からも多くの人が訪れます。

両者を隔てるデトロイト川は、五大湖水系の全長約51kmの川で、川幅は最も狭いところでも700mほどあります。アメリカとカナダの国境にあるため、交通の要衝ですが、両国の行き来のためには、かつては船舶が主要な交通手段であり、鉄道もまた鉄道連絡船(フェリー)で接続していました。




このため、川の下を通るトンネルの建設が長年検討されていましたが、1906年10月に建設がようやく始まり、4年の歳月を経て1910年7月26日に開通にこぎつけました。冒頭の写真はそのもっとも最後期に建設のために用いられた埋設トンネルです。

沈埋トンネル(ちんまいトンネル)ともいい、あらかじめ海底に溝を掘っておき、そこに鉄やコンクリートで作ったトンネルユニット(沈埋函)を沈めた上で、その上から土をかぶせます。

写真の構造物下部はトンネル本体であり、その上にある筒状のものは、水を注入してトンネル本体を沈めるための「重し」です。沈埋後に取り外し、水を抜いて浮上させ、回収します。

沈埋トンネルの本体とその周囲の型枠は、この当時、鉄のみで形成され、埋設後に水中コンクリートなどでその周囲を固められたと推定されます。その後、技術が進化してのちは、埋設函自体が鉄筋コンクリート製となり、現在これは「ケーソン」と呼ばれています。

海底や川底などにトンネルを作る際に開削するよりも手早くできますが、水深が比較的浅く、短距離の場合に使われることが多かった工法です。


現在の沈埋函(ケーソン)

最近では、鉄道用の沈埋トンネルとしては、1990年に完成した東京臨海高速鉄道りんかい線東京港トンネル(全長1470m)のほか、2013年に開通した、トルコのボスポラス海峡トンネル(マルマライ・トンネル) が話題になりました。

ボスポラス海峡トンネルの、トンネル部分13.6kmは世界最長で、計画自体はオスマン帝国時代の1860年に設計図が描かれて以降、何度も計画が立ち上がったものの、政治的あるいは技術的理由により頓挫した経緯を持ち、トルコ国内では“トルコ150年の夢”として国民の関心も高かったものです。

その沈埋トンネル部の建設には高度な技術を必要とするため、主に日本の大成建設が施工しました。このため、開業記念式典・開通式典には日本の安倍晋三首相も出席しています。



ミシガン・セントラル鉄道トンネルのほうは、全長1.6マイル(約2.6キロメートル)にであり、ボスポラス海峡トンネルに比べれば随分と短いものです。しかし、これでも東京港トンネルより長く、この当時としては世界最高水準の技術で建築されたものであり、無論、鉄道用の沈埋トンネルとしては世界初です。

建設を行ったのは、デトロイト・リバー・トンネル会社という、アメリカ・カナダ両国のトンネル会社の合弁企業体で、両岸に鉄道を敷設していたカナダ・サザン鉄道向けに建設を行ったものです。その後この鉄道はニューヨーク・セントラル鉄道の所有となり、以後も持ち主が何度も変わっていますが、現在は「カナダ太平洋鉄道」が使っています。

1910年7月26日にまず旅客列車に対して開通し、9月15日からは貨物列車も運行が開始され、10月16日にはすべての列車がトンネルを経由するようになり、それまで使われていた鉄道連絡船は廃止となりました。


1900年代初頭の絵葉書、ミシガン・セントラル鉄道トンネルの内部


1911年の絵葉書、トンネル内を行く電気機関車

西側のアメリカ側では、ミシガン・セントラル鉄道の本線に接続しており、トンネル入り口から約4km西側に離れた箇所に設けられた分岐点に「ミシガン・セントラル駅」が1913年12月26日に開業しました。

地上18階建ての構造は、当時、世界で最も高い駅舎(駅ビル)であり、その後、1975年には、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定。その後、大陸間横断鉄道として有名な アムトラックが市内に専用駅を建設したため、不要となり、1988年には、駅の営業を終了しました。




しかし、廃業後、あまりにも大きな構造物であったため転用は難しく、取り壊しもできず放置されたまま廃墟となりました。カジノや警察を含む公的機関の入居など、いくつかもの再開発計画は立てられましたが、巨額の資金を要することから次々と頓挫しました。

2009年にはついにデトロイト市が、駅舎周辺のスラム化を解消するために取り壊しを決議しますが、一方で歴史的建造物として保存を目指す機運が高まり、取り壊しは中断されるに至ります。

その後、アスベストの除去作業や窓ガラスの撤去などが細々と続けられてきましたが、2013年、デトロイト市が破産。保存や撤去を行う予算付けは、当面の間不可能となり、周囲を有刺鉄線付金属フェンスでめぐらされたまま、事実上放置されることとなりました。

現在もそのまま残されており、時折、映画ロケ地として利用されることもあります。実写版の「トランスフォーマー」や「アイランド」といった映画でこの駅がロケ地として使われたといいますから、映画を見た人は現在の状況がおわかりでしょう。

ミシガン・セントラル鉄道トンネルのほうは、いまだ現役です。ただ、2000年初頭には、新しい鉄道トンネルの建設計画が発表されました。

現在、近くのアンバサダー橋、デトロイト・ウィンザートンネル、デトロイト・ウィンザーフェリーなどの国境連絡交通の負担を緩和するために、既存のトンネルを2車線のトラック用トンネルに改造する、といったことが検討されています。

しかし、この計画はウィンザーおよびデトロイトの市政府、オンタリオ州とミシガン州、そしてアメリカとカナダの両連邦政府が将来的にどこに国境連絡を設定するかを検討するために保留されており、ウィンザー側では、トンネルよりも橋梁を作ってその上にハイウェイを作ったほうが好ましいといった声も上がっているようです。




ちなみに、日本初の沈埋トンネルは、1944年に開通した、大阪市にある「安治川(あじがわ)トンネル」です。

安治川は河川舟運の重要航路で、上下流を運搬船が頻繁に行き交っていました。一方、川を横切る陸路も重要路線でしたが、船舶の高さ限界との関係から、架橋も容易でなく、可動橋案も出ましたが、やはり舟運との兼ね合いで長年却下となっていました。

渡河するためにも渡船が航路を頻繁に横切っていましたが、渡船運航は困難を極めたため、この当時全国でも類を見ない河底トンネルが計画され、1935年(昭和10年)から建設が始められました。戦時中だったため、供出された鉄材を受けてまで工事は進み、1944年(昭和19年)に竣工しました。

排ガス問題などにより、自動車の運行は1977年に閉鎖されましたが、現在も歩行者・自転車用通路としては運用されています。近くまで行ったらぜひ見学してみてください。

自動車が通行していた頃の安治側トンネル:日本建設コンサルタント協会HPより引用
https://www.jcca.or.jp/dobokuisan/japan/kinki/ajigawa.html

ただ、その延長はわずか80mほどにすぎません。これより34年も前に、その30倍以上の長さの沈埋トンネルを完成させていた、アメリカという国と戦争をした日本という国の小ささを改めて感じてしまいます。



フレデリック・スタール

Title: Prof[essor] Fred[eric]k Starr in Japan
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: [1926 Oct. 26] (date created or published later by Bain)
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller.




写真は、フレデリック・スタール (Frederick Starr,1858-1933)というアメリカ人が来日した時の写真です。日本へやってきたのは、人類学者である彼が日本の文化に興味を持ち、民俗学に関する資料を収集するためだったようです。が、そればかりではなく、多くの日本人と交流を持ち、「お札博士」として日本中に知られるようになった人物です。

ニューヨーク州オーバーン市に生まれ、1882年に地元ニューヨークのロチェスター大学で学位を得たあと、1885年にペンシルバニア州のラファイエットカレッジで地質学における博士号を取得しました。

アイオワ州のコウ大学で生物学を教えていましたが、ふたたびニューヨークに戻り、アメリカ自然史博物館(AMNH)で地質学の学芸員として働くようになると、人類学と民族学に興味を持つようになります。




ここにいた人類学者、フレデリック・ウォード・パトナムの推薦により、AMNHの動物行動学コレクションの学芸員に任命されると、1888年から翌年にかけては、国立の歴史的遺物の保存協会である、シャトーカ協会の記録係になりました。

ここで学芸員として1891年までニューヨーク北西部の人類学調査にたずさわっていましたが、同協会のウィリアム・レイニー・ハーパー会長がシカゴ大学の学長に就任した際、スタールを同大学の人類学の助教授に任命しました。

1905年~1906年にかけてはシカゴ大学のファンドを得て、アフリカのコンゴ自由国でピグミー種族など28種の民族について綿密な研究を行い、1908年からはアジアに目を向け、フィリピン諸島で、また1911年には韓国で人類学調査を行うようになりました。

スタールの日本との関係は、この少し前の1904年(明治37年)における日本訪問に始まります。おそらく彼がアジアに興味を持ち始めたのはこれ以降度重なる日本への訪問からではないかと思われます。

この明治37年というのは、日本がロシアと戦った「日露戦争」が始まった年にあたります。彼が初来日した2月9日というのは、実はその開戦の前日であり、高ぶる戦意による熱狂の中にあった日本の様子を目撃したスタールは日本人というアジア人に強い興味を持ちました。

そもそも彼が来日した目的とは、アメリカがフランスから購入したルイジアナ州の百周年の記念事業として開催されセントルイス万国博覧会の「人類学参考館」に「生きた展示品」としてアイヌを何人か連れてくることにありました。

この時代には、「人間動物園」という現在では考えられないような、非人道的な展示を行う催しがヨーロッパを中心に行われており、同様に日本にも見世物小屋において、奇形を売り物にする歴史がありました。

野蛮・未開とされた人間の文化・生態展示を行うこの催しのためにスタールは英文で書かれたアイヌ研究の論文を手に入るかぎり読破し、そこで松浦武四郎の著作を知ります。松浦武四郎は、伊能忠敬ほど有名ではありませんが、幕末から明治にかけて活躍した探検家で、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したことで知られる人物です。

これをきっかけとして、以後10年間、彼は松浦武四郎の人物にとりつかれ、1909年(明治42年)、1913年(大正2年)、1915年(大正4年)と来日をくり返します。そして1916年には松浦の生涯を綴った伝記“The Old Geographer- Matsuura Takeshiro”を出版しました。

冒頭の1926年の写真がもう何回目の訪日かは知れませんが、数多くの来日のうちの一つと考えられます。最後の16回目の来日は1933年(昭和8年)の7月であり、そのまま満州・朝鮮を訪問し、8月に東京に戻ってきた直後に体調を崩し、そのわずか3日後に他界しています。死因は気管支肺炎とされています。



死後、ベルギー・イタリアから勲章を授けられ、日本からは瑞宝章が授与されました。また、長年教鞭をとったシカゴ大学の人類学部には、スタール講座が今も残されています。

スタールの日本研究の範囲はユニークかつ幅広く、アイヌ・松浦武四郎以外では、なぞなぞ・絵解き・ひな祭り・祭社の山車・河童信仰・納札・富士講・看板・達磨・碁・将棋・寒参りなど多岐に及びます。

特に納札に関してはマニアのレベルに達し、自分の名をもじって「壽多有(スタール)」と刷られた納札(千社札)を日本各地への旅行に持ち歩き、神社仏閣に貼りまくったといいます。この行為によって彼は、日本国中で「お札博士」と呼ばれるようになり、多くの日本人に親しまれるようになりました。

彼の足跡は、東海道・四国・九州・東北などの多くの地に残され、中でも富士山には5回も登山し、木曽御岳にも登っているほか、四国八十八ヶ所巡りも2度行っています。

2回目に来日した時に帝大教授・坪井正五郎に世話してもらった駒込西片町の家を根拠地とし、日本人の骨董品コレクターの集まり「集古会」のメンバーと親しく交流しました。

これらの中には、「おもちゃ博士」と呼ばれた清水晴風、童謡「夕焼け小焼け」の作詞者で足られる、久留島武彦などが含まれています。ほかに、「我楽他宗」という関西のコレクターサークルとも接触し、蒐集品の交換に励みました。

この時代のアメリカでは最右翼に位置されるほどの親日家であり、自ら教鞭をとっていたシカゴ大学では、富士山に関する展覧会を1922年に主導するほどでした。また、1924年には、アメリカ議会に提出されていた排日移民法案を批判し、日本人のみに適用される移民法は人道と建国の精神に反すると訴えました。

同時に、日本国民に対しても檄を飛ばしました。「日本は親善のために国際社会に対して常に譲歩をしてきたが、それは誤解を生み、軽蔑を招く。排日移民法に対してなぜ日本の正当を正々堂々と主張しないのか」といった内容の激しい発言が新聞に掲載されています。

1930年代に満州事変・第一次上海事変を受けて日本へのアメリカの世論が硬化すると、一人でアメリカ南部・中西部の諸州を巡回し日本の立場を弁護して廻ったといい「筋金入りの親日家」といえるほどの日本びいきでした。

日本で亡くなったというのも、あるいは本人の意思だったかもしれません。その遺骨は、富士山麓須走口に埋葬されるとともに、ゆかりのあった静岡県北部の町、小山町には記念碑も建てられています。碑面の文字は徳富蘇峰の筆によるもので、博士の人望と交流の厚さを物語っています。

小山町HPより(http://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_spot_fuji.html)