ウシとヘリコプターの町 ~アマリロ

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この写真の撮影地は、テキサス州北西部と、オリジナルのキャプションには書かれていました。

“Oxen once used as work animals on the farms”とも書かれており、このことからかつては使役牛として使われたものの、かなり老いさらばえたため、この農場でその余生を送っているのでしょう。夫婦なのでしょうか。背後に立つ人物の表情は読み取れませんが、優しい目で二匹を見守っているようにも見えます。

テキサス州北西部ということなのですが、これはおそらく、アメリカ合衆国南部のテキサス州北端部のポッター郡にあるアマリロ(amarillo)という町のどこかではないかと思われます。付近はパンハンドル(Panhandle)と呼ばれる地区に当たり、地図を見るとわかるのですが、真四角の領地境界でオクラホマ州の中に深く入り込んでいます。

Panhandleとは、フライパンの柄状の細長い形に由来するアメリカ英語です。その中心地がこのアマリロであり、郡庁所在地です。同郡で人口最大の都市で、2010年現在の人口は約19万人ほどです。

Potter_County_Texas

しかし写真が撮影された1930年代はまだまだ人口が少なかったでしょう。1887年に鉄道建設とともに町が形成され、肉牛の積み出し地となり、その後、天然ガスと石油の発見により発達した町です。

フォートワース・アンド・デンバーシティ鉄道という、テキサス州のフォートワースから延びる鉄道を州北西部に延伸させるにあたって建設された街で、1887年に州北西部の主要な交易拠点として建設が開始されました。

鉄道交通や貨物輸送の便があることから、町は郡庁所在地に選ばれた後、肉牛取引の中心地として急速に発展していき、1890年代終わり頃には、アマリロは世界有数の肉牛出荷地へと発展し、人口が激増しました。

1900年代に入ると、市の周辺で小麦をはじめとした穀物の生産が増え、それに伴って製粉、飼料生産の中心地になりました。やがて1918年には天然ガスが、3年後の1921年には原油が発見され、石油・ガス産業が発展していきました。

鉄道交通の整備も進んでいき、フォートワース・アンド・デンバーシティ鉄道に続いて、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道やシカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道がアマリロへの路線を持つようになりました。

これらの鉄道3社はその後長く、20世紀のほとんどに渡ってアマリロに旅客や貨物の駅を多数構え、修理施設を置くなど、市内および周辺の主要な雇用主でした。

Amarillo_Texas_Downtown_19121912年のアマリロの市街地。

アマリロはテキサス州北西部、ニューメキシコ州東部、およびオクラホマ州極西部の経済の中心地でもあります。畜産は市の主産業で、アメリカ合衆国内の牛肉の生産量のおよそ1/4がアマリロで生産されているといいます。

また近年においては、酪農農家がカリフォルニア州からアマリロおよびその周辺へと移ってきています。特に酪農の中心となっているのはアマリロから南西へ50kmほど行ったところにある、ハーフォード市(Hereford)で、ここでの酪農の勃興によって、郡全体の乳製品の生産量が急増してきています。

近隣に豊富な油田やガス田を有するため、石油化学産業も発達しています。アマリロの町はかつてはヘリウム産業で知られ、大きなヘリウム工場があったようですが、1990年代後半に連邦政府がここを民営化してからは生産量が激減しました。

しかしその後1999年には、ベル・ヘリコプター社がヘリコプター組立工場を設置し、操業を始めており、これはアマリロの町の東側にある、リック・ハズバンド国際空港の近くにあります。

ベル・ヘリコプターは、世界的にも有名なヘリコプター製造会社です。ベトナム戦争に大量に投入された「UH-1イロコイス」などで有名であり、この機体は世界各国で使用され、日本では富士重工業によりライセンス生産もされていました。

また、ボーイングの工場もあり、ここでは、日本でも沖縄の在日米軍基地への導入をめぐって物議がかもしだされた、オスプレイの最終組立も行われており、こうしたヘリコプター産業がさかんであることから、アマリロは、Rotor City, USA(アメリカのローターの街)と呼ばれています。

このほか、アマリロでは、製缶・製粉・亜鉛精錬・合成ゴムなどの工業も発展しているなど、なぜこんな山奥の場所で、と思うかもしれませんが、このアマリロだけでなく、テキサスは意外にも工業やサービス業などがさかんな都市が多いのが特徴です。州全体のそれらの生産額はアメリカでも常にトップを争っています。

州総生産は、優に1兆2000億ドルを超えており、アメリカ合衆国の州では第2位であり、世界の国と比較するとこの額は第11位のカナダや第12位のインドに匹敵しています。

Amarillo_Texas_Downtown

 アマリロの中心街

元々は農業及び牧畜業が主要産業でしたが、1901年に同州南部、右隣のルイジアナ州にほど近い、ボーモント市郊外の「スピンドルトップ」という場所で油田が発見されて以来、エネルギー産業の比重が急激に高まり、以後、テキサス州はエネルギー産業とともに歩んできました。

こうしたことから従来、州の産業はCotton、Cattle、Crude のいわゆる「3C」に代表されるといわれてきました。Cottonは綿、Cattleは蓄牛、Crudeは原油です。

80年代以降は、エネルギー産業に加えハイテク産業も成長するなどサンベルトの一大中心州として急速な発展を遂げてきています。メキシコ湾岸には油田が多く、またアマリロのようなかなり内陸部に位置するようなところにまで油田があるなど石油資源が豊富であるため、エクソンモービルやヴァレロなどの有名石油会社もテキサスに居を構えています。

アマリロの産業もまた、この石油によって支えられてきましたが、第二次世界大戦時にこの町に空軍基地が開設されたことで更に発展し、爆弾や弾薬を生産する軍需工場も設立されました。これらの軍需施設は戦後一旦は閉鎖されましたが、世界が東西冷戦構造に入ると、1950年には核兵器を生産するために再び操業を開始しました。

その翌年には空軍基地も拡張して再開され、1950年から1960年にかけては軍人やその家族がアマリロに大量移住したことによって人口が7万人程度から、一気に倍の14万人まで増加しました。

しかし1968年に空軍基地が閉鎖されると市の人口は減少に向かい、一時は13万人を割り込みました。

が、1970年代に入ると、今度は、アリゾナ州フェニックス市に本社を置く、銅精錬大手のASARCO社や、ネブラスカ州に本社を構える精肉大手のIBP社、ガラス繊維世界最大手のオーウェンス・コーニング社といった大企業がアマリロに工場を構えるようになりました。

1980年代に入ると、アマリロの市域は隣接する郡にも広がり、またアマリロと並ぶ州北西部の主要都市であるラボックに通ずる州間高速道路I-27も開通しました。こうした新しい産業や交通の発達に支えられて、アマリロ市は基地閉鎖以降の不況から脱却し、他のテキサス州のサンベルトの都市同様、急速な発展を遂げています。

ちなみに、サンベルトというのは、アメリカ最南部にある諸州においてはもとくにメキシコ湾沿いの地域のことで、これらの地域では最近の数十年で、サービス産業、製造基地、ハイテク産業、金融部門でのブームが見られるようになりました。

テキサス州のヒューストンや隣のルイジアナ州のニューオーリンズなどメキシコ湾岸では石油化学工業が発達し、原油の積出港であるヒューストン港や南ルイジアナ港は全米有数の貿易港に数えられるようになっています。

Amarillo_Tx_-_Brick_Streets1910年に市内に敷設されたレンガ製の道路

アマリロもまた、そのサンベルトの帯の中に入ると考えられていますが、こうした工業の発達以前からここでさかんな畜産業は、やはりこの町の伝統産業といえます。

カウボーイ文化に象徴される放牧業は今も盛んであり、アマリロにはカウボーイやテキサスの文化を伝えるイベントや施設がります。9月第3週の間、市内にあるアマリロ・シビックセンターではトライ・ステート・フェア・アンド・ロデオ(Tri-State Fair & Rodeo)という、ロデオが売りのイベントも開催されます。

同市に本部を置く現役牧場カウボーイ協会(Working Ranch Cowboys Association)の後援の下に行われるにロデオ世界選手権であり、1921年から続いているという伝統あるイベントです。この催しにはテキサス・オクラホマ・ニューメキシコの3州から多数の参加者が集うといい、アメリカでも最大規模のカウボーイイベントです。

なお、アマリロでは、牛ばかりではなく、競走馬の育成もさかんです。アマリロ・シビックセンターには、隣接してアマリロ・ナショナル・センターという2000年に建設された大きなイベント会場があり、ここでは乗馬コンテストが行われます。

また、アマリロにはアメリカン・クォーター・ホース協会(AQHA)が本部を置いており、この協会は競走馬の種の保存、改良、および記録保持に尽力している世界的にも有名な国際的な機関であり、競走馬の博物館もあります。

合衆国の州の中で最大の農場数と最高の農場面積を持っているアマリロは、アメリカの畜産の中心地でもあります。家畜生産量でも国内で最大級であり、同州における農業においては、牛が最も収益を上げる生産物です。

毎週火曜日には歴史あるアマリロ家畜取引所が肉牛のオークションが行われます。州間高速道路I-40沿いにはビッグ・テキサン・ステーキ・ラーンチ(The Big Texan Steak Ranch)と言うステーキレストランがあるそうです。

モーテルも有するこのレストランは1960年に国道66号線沿いに建てられ、「1時間以内に食べきると無料」という約2kg(72オンス)の「テキサス・サイズ」のステーキで創業以来有名です。

地元の人による牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどの人気は高く、あちこちにこれらを食する店があるようです。牛肉が好きな人はぜひ訪れてみてはどうでしょうか。

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ビッグ・テキサン・ステーキ・ラーンチ

ノーム ~命のリレー

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写真は、セイウチです。

写真が撮られたのはアラスカ州のノームで、こうした北極圏の沿岸地帯および氷縁部に生息します。かつてはカナダ北部の沿岸や近海でも生息していましたが、18~19世紀における肉と皮を目当てとした乱獲で、この地域の個体群は絶滅しています。

従って北欧や、アラスカやベーリング海などその他の北極圏が現在における主たる生息域のようです。

どういうシチュエーションで撮影されたのかはよくわかりませんが、なにやら水槽のようなものの中から居並ぶ顔を出していることから、何等かの飼育場のような場所なのかもしれません。あるいは、何等かの理由で保護されたものかもしれません。

成体はもっと大きいことから子供のセイウチのようであり、牙を並べて顔を突きだし、餌をねだっているのでしょうか、なかなかユーモラスです。

大人のセイウチは、体長270~360 cm、体重500~1,200 kgであり、同じく3mを越えるため、もっと度迫力のはずです。1,000kg内外のトドとよく間違われますが、トドはアシカ科、セイウチはセイウチ科の動物であり、違う種類です。一番の違いは写真にもあるようにセイウチには牙がありますが、トドにはありません。

雌雄共に上顎の犬歯(牙)が発達したもので、オスは100cmにも達します。この牙はオス同士の闘争に用いられますが、ほかにも外敵に対する武器、海底で獲物を掘り起こす、陸に上がる際に支えにする等の用途に使われます。またこの牙は生涯を通じて伸び続けます。

皮膚には体毛が無いものの、厚い脂肪で覆われ寒冷地での生活に適応しています。口の周りには堅い髭が密集しており、この髭は海底で獲物を探す際に役立ちます。

越冬のために南下するなどの習性はなく、冬季でもポリニヤで生息します。聞き慣れない言葉ですが、ポリニヤとは、氷で囲まれた海水域です。海峡などの地形や季節風などの影響で、北極海であっても冬でも凍らない場所であり、地形の影響で形成されるポリニヤは、毎年、同時期に同じ場所に発生します。

このため、セイウチだけでなく、南に移住しないその他の海獣類、例えばイッカクやシロイルカなどもここで冬を越します。また、それらの動物を餌として狙うホッキョクグマなどもポリニヤに集まります。

ご存知のとおり、アラスカといえばエスキモーと呼ばれる先住民族が住んでいます。しかし、最近では「エスキモー」という言葉を使わない傾向にあります。

これは、東カナダに住むクリー族の言葉で、本来は「かんじきの網を編む」という意味ですが、白人によって「生肉を食べる者」を意味する語と誤って解釈されたことから、「エスキモー」という呼称はしばしば彼等を侮蔑的に呼ぶとき使用されてきました。

カナダでは1970年代ごろから「エスキモー」を差別用語と位置付け、彼ら自身の言葉で「人々」を意味する「イヌイット」が代わりに使用されるようになりました。最近ではこれが主流となり、カナダ以外の国でもこう呼ぶことが多くなっています。

先住民運動の高まりの中で、これまで他者から「エスキモー」と呼ばれてきた集団が自らを指す呼称が必要となり、現地においても自らを「イヌイット」と呼ぶ人が増えるようになってきています。

しかし、シベリアとアラスカにおいては「エスキモー」は公的な用語として使われており、使用を避けるべき差別用語とはされていないそうで、また、本人達が「エスキモー」と自称している場合は置き換えないマスコミも多いといいます。なので、ここでもエスキモーで通したいと思います。

Eskimo_Family_NGM-v31-p564エスキモーの家族 1907年ころ

彼等の食ベものは、狩猟によって得た生肉が中心である、ということは広く知られているところです。獲物は海では、アザラシ・クジラ等のほか上述のセイウチ、また陸での狩猟ではカリブー(トナカイ)などを捕獲します。

エスキモー達の暮らす地域では新鮮な野菜類がほとんど手に入らないため、海獣類の肉や内臓を生で食べるのは洗浄や加熱によって壊れてしまうビタミンを効率よく摂取することが必要になります。

また、太陽光線の弱い北極圏では、北欧に住む白人種などは肌の色が白いために太陽光をく皮下に取り込むことでビタミンDを作り出しやすいのに対し、黄色人種であるエスキモーの黄色い皮膚は太陽光線の皮下取り込み量が少なくなりがちなのだそうです。

そのあたりの理屈はよくわかりませんが、一般に日本人を含む有色人種の肌は、白人の肌よりもビタミンDの生合成力が弱いそうで、そのためにもエスキモーは狩猟した動物の生肉や内臓を食べる必要性があるわけです。

極寒の地で生き延びるための知恵というわけですが、ただ最近ではアメリカの食文化が流入しており、伝統的な食文化が失われつつあるようです。この結果、伝統的な食事(生肉)や料理法(加熱をあまりしない)から得られていたビタミン類などの栄養成分が不足してしまうなどの問題が起きているといいます。

このため、現在では医師や栄養士のアドバイスにより不足するビタミン類をサプリメントから得ている人も多いとのことで彼等の食生活はかなり変わりつつあるようです。

このほかかつては雪や氷で造ったイグルー等に居住し、カヤックやイヌぞりによる移動生活を送るのが一般的なエスキモーの生活だったものが最近は定住して都市部に住む者が増えてきており、生活形態全般も変化しつつあります。

現在でも昔ながらの伝統的な生活を営む者もいるようですが、地球温暖化が進んだ現在では、氷上を移動すると氷が割れる恐れがあります。このため、猟師たちはアザラシやシロイルカなどから、内陸部のカリブーに狙いを変えるようにもなっているといい、現在のエスキモー社会は、海岸から離れた場所に形成されることも多いといいます。

さて、冒頭の写真が撮影されたノームですが、Google map で探してみてもすぐには出てこないほどの小さな町です。アラスカ州は、ベーリング海を挟んでそのすぐ向こうはロシアという位置関係ですが、この海峡でももっともロシアに近い、スワード半島(Seward Peninsula)の南端付近に位置します。

半島の名は、1867年にロシアからアラスカを購入した当時の国務長官ウィリアム・スワードの名にちなみます。アラスカはもともとロシア領でしたが、同国がクリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のためアメリカ合衆国に720万ドルで売却したものです。

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これは現在の日本円に換算すると500億円ほどであり、これだけ広大な土地にしてはかなり格安といえます。しかし、それでもこの当時のアメリカ国民からは「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されました。

ただ、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが主に旧ソ連に対する国防上重要な拠点であることが分かるようになり、現在では高く評価されています。

その資源のうち最初に見つかったのは金です。1896年のカナダのユーコン準州でのゴールドラッシュに刺激を受け、当時のアメリカ領アラスカ地区でも金鉱探しが熱を帯びました。1898年には、このノームでも金鉱が発見され、スワード半島でもゴールドラッシュが起こり、あちこちにできた町は爆発的に成長しいくつかの鉄道も建設されました。

このノームの人口もこのとき爆発的に増え、現在の人口が3500人ほどなのに対し、一時期には2万人にも達していました。

もともとは、前史時代からイヌピアト族という原住民が住んでいた場所で、金の発見以前のノームにはこの部族が造った小さな集落があるだけでしたが、1898年の夏、「3人の幸運なスウェーデン人」がここで金を発見しました。

実はこれはノルウェー人の間違いで、しかもいずれもアメリカ合衆国に帰化していましたが、この報せはその次の冬の間にアメリカ中にとどろき、翌年の1899年までにノームの人口は1万人となり、この地域は「ノーム鉱業地区」としてアラスカ地区政府からも指定されるに至ります。

Nome_19001900年頃のノーム

ちなみに、アラスカ州が州に昇格するのは、1912年に準州に昇格したのちの、1959年であり、さらにこのアラスカ地区の前にはアラスカ県と呼ばれていました。県であった時代は自治政府が存在しておらず、合衆国陸軍、合衆国財務省、合衆国海軍と様々な組織が同県を管轄下に置いていました。

しかし、1884年にアラスカ地区となった時点で、アラスカは初めて独自の政府を持ちました。この当時同地区においてはまだ大きな金鉱は見つかっておらず、このため金の採鉱を行って一山当てようと、カナダから多くの採鉱希望者が山を越えてこの地を目指してきていましたが、これによりアラスカの金鉱はアメリカ人にしか開発できなくなりました。

さらに1899年のこの年、ノームの海岸に沿って数十マイルに渉り砂浜で金が見つかり、人々の殺到はさらに加速しました。1900年の春だけで、シアトルやサンフランシスコの港から蒸気船で数千の人々がノームにやってくるようになり、この年、砂浜や木のない海岸にできたテント村はロドニー岬からノーム岬まで30マイル (48 km)にも及んだといいます。

1900年から1909年の間、ノームの推計人口は2万人にも達し、アラスカ準州に昇格したときも州内で最大の人口を抱えていました。また、ちょうどこのころから、合衆国政府はアラスカの軍事的な意味を意識せざるを得なくなります。

1917年にロシアで革命が起き、ロシア帝国を倒したソビエト連邦が樹立されるとベーリング海峡を隔ててすぐのこの国との緊張感が一気に高まるようになっためです。

このため、陸軍がこの地域を取り締まるようになり、厳しい冬のために毎年秋に住いを持たないか、住まいを借りる金を持たない者達を追い出していきました。

このころまでには、金の採掘量もかなり減っていたため、遅れてこの地に入って来た者の多くは当初の発見者達を羨み、同じ土地を含む鉱業権を申告して当初の権利を「横領」しようとしました。

裁判沙汰になることも多かったものの、この地域の連邦判事は当初の権利を有効と裁定しました。ところが、権利横領者の中にはワシントンD.C.の政治家の影響力を使ってその権利を無効にさせるような輩もいました。

ノースダコタ州から来た共和党の高官の一人などは、従順な取り巻きをノーム地域の連邦判事に指名することに成功し、彼が有利に裁定した裁判で勝ちえた鉱業権を使ってノームでも最も豊かな金鉱山を搾取しました。

この厚かましい試みは、その後ノームの有志によって暴露され、二人は裁かれましたが、この話は“The Spoilers”のタイトル小説化され、5回も映画化されました。そのひとつ、1942年に公開された映画にはジョン・ウェインやマレーネ・ディートリッヒなどが出演しています。

ノームの町は、ゴールドラッシュのために急造されたこともあり、都市としての災害抑止機能はほとんどなく、1900年に最初の火事が起こったあと、立て続けに火災が発生しました。とくに1905年と1934年は大火といわれるほど規模が大きいものでした。

そんな中の、1925年冬、突如ジフテリアがノーム地域のイヌイットに流行しました。ジフテリアというのは、ジフテリア菌を病原体とするジフテリア毒素によって起こる上気道の粘膜感染症で、喉の激しい痛み、犬がほえるような咳、筋力低下、激しい嘔吐などを引き起こします。

腎臓、脳、眼の結膜・中耳などがおかされることもあり、保菌者の咳などによって飛沫感染します。治療開始の遅れは回復の遅れや重篤な状態への移行につながるため、確定診断を待たず早期にワクチンの接種が必要になります。

以前の1918と1919年にスワード半島で流行したスペイン風邪では、アラスカ州全体のエスキモー人口8パーセントが罹患し、ノームでも約50パーセントがこれにかかりました。州全体では1000人以上が亡くなっており、これは、大多数のこれらアラスカ先住民が、先進国からもたらされたこの病気に全く抵抗がなかったためでした。

このジフテリアの流行でもこのとき既に子供を含む3人の住民が死亡していましたが、折悪しく州全体に激しいブリザードが吹き荒れ、アンカレッジからの飛行機では救命のための血清が届けられませんでした。また、氷雪に覆われた大地を車も踏破することはできません。

このため、血清を運ぶ為に急遽、犬橇チームのリレーが編成されることとなり、こうして、1月27日から始まった犬橇リレーのために20組、100匹以上の犬が徴用されました。

アンカレッジからはできるだけ直線になる距離が選ばれましたが、それでも総延長は674マイル(1085km)に達し、この中には標高1500mの山岳地帯も含まれていました。

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犬たちが走破したルート

中でも一番長い距離を走ったのは、トーゴ(Togo)と呼ばれたオスのシベリアンハスキーがリーダーを務める犬橇隊で、このトーゴという名は、日露戦争で活躍した日本帝国海軍の東郷平八郎にちなんだものです。

トーゴは幼いころから橇犬として頭角を現し、はじめてリーダーとして橇を引いた日には75マイル(120km)を踏破するなど、早くから天才犬と目されていました。このリレーにおいても、3日間を通じて170マイル(274キロ)を走り切りましたが、この間の気温はおよそ-34℃で、風の強さを加味した体感温度は-65℃に及ぶと推定されました。

トーゴが率いる犬橇チームは、初日に84マイル(134キロ)を走行しましたが、6時間仮眠を取っただけで午前2時には出発し、この時の夜間気温は-40℃まで低下し、しかも風速65マイル/ hの(毎時105キロ)もありました。

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トーゴ

トーゴらの奮闘の後も次から次へとリレーがつながれて行きましたが、結局このリレーを通して少なくとも6頭以上の犬が死亡し、こうした尊い犠牲を払いながらも、血清は2月2日の正午までにはノームに届けられ、多くの人々の命が救われました。

この命のリレーは、その後マスコミに取り上げられて報道されるところとなり、“Great Race of Mercy”「偉大な慈悲のレース」と呼ばれて感動を呼び、多くのアメリカ市民の共感を得ました。

このリレーで最後の犬橇チームの先導犬は、「バルトー」という名前でしたが、その後このバルトーの彫像がニューヨーク市セントラル・パークの動物園近くに立てられたほどです。また、トーゴもその後剥製にされ、アイディタロッドの橇犬博物館で保存展示されているほか、その骨格はイェール大学のピーボディ博物館に納められています。

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バルトーの銅像

1973年には、この血清リレーを記念した、全長1,049マイル (1,600 km)以上にわたる 犬橇レースも開催され、ノームはこのときもその終点となりました。このレースは「イディタロッド・トレイル犬橇レース」と呼ばれ、その後も毎年のように開催されています。

その後ノームのゴールドラッシュは終焉を迎え、人口はどんどんと減っていきました。しかし、第二次世界大戦の間には滑走路が建設され、軍隊も駐屯していました。

戦後は市の北にある丘には、対ソ連用の遠距離早期警戒システムの補助施設なども建設されましたが、冷戦が終了したあとの現在では軍の駐留もなく、こうした施設ももはや使われてはいません。

終戦の年の1945年および1974年には、この地を激しい嵐が襲い、ゴールドラッシュ時代の建築は大半が破壊される、ということもあり、往時の街並みはほとんど残っていないようです。

しかし、小学校から高校までの教育機関も整えられ空港も擁し、道路網もそれなりに整備されるなど、残された人々が居留するには十分の環境が今も残っているようです。海港もあり、定期船や巡航船が運行されており、決して陸の孤島というわけではありません。

住民のほぼ半数がエスキモーであり、残りを白人と混血が占めますが、住民のほぼ全員がクリスチャンです。漁業生産などがあるためか、その生活レベルもアメリカ国内の他の地域と比べても特段貧しい、というほどではないようです。

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現在のノーム

ちなみに、このノームよりさらに北の、アラスカ州のほぼ北端に、バローという町がありますが、かつてここに純粋な日本人が住みつき、そこで一生を終えています。

「フランク・安田」といい、1868年に宮城県石巻市に生まれた人ですが、子供のころに両親を亡くしたことから、船積みで働くようになり、太平洋を横断もし、22歳の時にアメリカのカリフォルニア州に渡ったのが縁で、アラスカに永住するようになりました。

この物語は、新田次郎の小説、「アラスカ物語」に詳しく、非常に面白いのですが、今日はもう長きに渡って綴ってきましたので、これ以上はやめておきます。

この安田という人は、ノームのイヌイットとも親交があったといい、彼自身も金鉱を探して放浪していた時期もあったそうです。ご興味があれば、新田さんの小説も読んでみてください。映画化もされており、安田を演じたのは北大路欣也さんでした。ビデオショップでレンタルできると思います。

U.S.S.ローリーと米西戦争

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写真は、アメリカ海軍の巡洋艦、「U.S.S.ローリー」の乗員が、エジプトのカイロ郊外にあるスフィンクスの前で記念写真を撮影している様子です。

ローリーは1889年にバージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍工廠で起工し、1892年に進水し、1894年に就航した防護巡洋艦です。排水量3,200トン、全長305ft(約93m)で、最大速19ノットを誇り、兵装は6インチ砲1門、5インチ砲10門、6ポンド砲8門、1ポンド砲4門などのほかに、18インチ魚雷発射管4門を備えていました。乗員は、士官、兵員合わせて312名でした。

防護巡洋艦というのは、装甲艦や戦艦、装甲巡洋艦といった重装備の艦が舷側に分厚い鋼鉄の装甲を張って防御としていたのに対し、舷側にはあまり厚い装甲を貼らず、ボイラーなどの主機室の上だけを装甲し、舷側防御は石炭庫などの厚みによって代用させる比較的軽防御の巡洋艦をいいます。

装甲が少ないと、当然防御力は劣りますが、高速で航行することができます。たとえ砲撃されても足が速ければ逃げ切ることができ、ボイラーさえ破壊されなければ、戦闘能力を維持したままでいられます。

また、装甲を少なくすることで、経済的なメリットも生まれます。例えば、大型の装甲巡洋艦 1 隻の費用で小型高速の防護巡洋艦 3 隻が建造できるといわれました。このため、各国が競ってこのタイプの艦船を装備するようになりましたが、やがて実戦においてこの防御力の不足がやはり致命傷になることが明らかになるにつれ、廃れていきました。

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その後の時代では、タービンや水管式ボイラーの発達、石油燃料の一般化などによって機関の高出力化が図られ、石炭が不要になりました。このため、石炭庫による舷側の防御というのは事実上できなくなり、舷側にやや厚めの装甲を施した軍艦が防護巡洋艦に代わって登場しました。これが、軽巡洋艦といわれるものです。

が、この時代はまだ石炭を焚いて船を走らせるのが主流であり、ローリーも同じでしたがなんといっても高速であったため、その性能を生かし、主として哨戒業務などにあたりました。進水後は、主に西大西洋での作戦活動に従事し、ニューイングランドからフロリダ海峡までの範囲を巡航する役割を担っていました。

1897年、ローリーは東に向けて出航し、エーゲ海のスマーナ(現在のイズミル)にあるヨーロピアン・ステーションに到着後、モロッコへの親善巡航に参加するなどの活動を行い、12月までレヴァント沖で活動していました。

このレヴァントというのは、現在イスラム国が暗躍しているシリアやその隣のイスラエル一帯を示し、このイスラエルのすぐ西側にはエジプトがある、という位置関係です。

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冒頭の写真は、1894~1901年ごろ、と推定されていますが、ローリーのその後の経歴を見ると、このようにアフリカ近辺で活動していたのは、この1897年の年と、2年後の1899年だけです。

しかし、このときには、フィリピンのマニラ沖で行われたスペインとの海戦のあとに、本国に帰るためにスエズ運河を通っただけです。香港からここを通ってニューヨークまでわずか20日で足早に帰っており、写真のようなのんびりとした記念撮影を行うようないとまはなかったはずです。

従って、写真は、レヴァント沖で活動していた1897年のいずれかの時期かと思われます。ここで何をしていたかですが、この1897年いう年には、スイスのバーゼルで、「シオニスト会議」というものが開催されています。

ユダヤ人代表による国際会議であり、失われた祖国イスラエルを取り戻す、といういわゆる「シオニズム運動」を起こしたテオドール・ヘルツルのイニシアティヴの下に開かれたものです。この会議の結果、「パレスチナにユダヤ人のための、国際法によって守られたふるさとを作る」という結論が出されました。

こうした動きに対し、これに反発する国も多く、とくに東欧諸国やロシアがそれでした。これらの国ではユダヤ人が虐殺されるという事件が繰り返し発生しており、ローリーの役割はいざイスラエル国内で何等かの暴動が起こるような事態になれば、ここに居留する自国民保護のために動くことなどだったでしょう。

この当時、東ヨーロッパから2万5千人から3万5千人のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住しており、その中にはその後アメリカへ渡って米国籍を得た人も多数いました。この地にはその親族などもなお多数いたはずです。

ユダヤ人の多いアメリカではそうしたこともあり、その後の建国に賛同したわけで、以後も何かとイスラエルに対して寛容です。

しかし、結局はそうした暴動のようなものも起きず、この間、ローリーの乗組員はレヴァント沖で無為な日々を過ごしていたことでしょう。おそらくは、そうした乗組員の慰安にと、カイロまでの旅行が企画され、その際に冒頭のような写真が撮影された、と考えれば納得はいきます。

ラクダに乗った6人のうち、二人はセーラー服を着ており、残りの4人は制服を着ていますがおそらくはこの艦の幹部士官でしょう。手前の座ったラクダに乗っているのは、ガイドでしょうか。トルコ人のように見えます。

おそらくは、エジプトの地中海に面した最大の町、アレキサンドリアからカイロまでは鉄道を利用したでしょう。このころのエジプトはイギリス領であり、既に1858年にはアレキサンドリアからカイロまで鉄道が敷設されており、またカイロ~スエズ間にも鉄道がありました。

ちなみに、あまり知られていないことですが、エジプトの鉄道網は、世界で2番目に古く、アフリカ及び中東では最も古い歴史を持ちます。最初の路線は、1854年に開通しており、現在のエジプト国内の鉄道の長さは総延長5000km以上に及び、これをエジプト国鉄 (ENR) が運営しています。

カイロからアレキサンドリアまでは直線距離でおよそ150kmほどですから、おそらくはこの鉄道を使って数時間でカイロまで行けたでしょう。写真の人物たちはラクダに乗っていますが、その道中をラクダで旅したわけではありません。駅でラクダに乗り換え、ここまで来たと推定されます。

おそらくは、船員たちの労苦をねぎらうため、何回かにわけて旅行が企画されたと考えられ、その度にこのような記念写真の撮影が繰り返されたでしょう。が、現存するものは少なく、そう考えると貴重な写真です。

その後のローリーですが、このレヴァント沖での哨戒任務のあと、米西戦争に参加しています。1897年末にスエズ運河を通過してアジアの拠点に向かうべく船を走らせ、翌年の2月には香港に到着し、ジョージ・デューイ提督率いる太平洋艦隊に加わりました。

この米西戦争というのは、この年1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争です。このころ、それまでの世界的な強国としてのスペイン帝国の地位は低下しており、太平洋、アフリカおよび西インド諸島でのほんの少数の散在した植民地しか持っていませんした。

その多くも、独立のための運動を繰り広げており、そんな中スペインは反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、主権の回復を図っていました。しかし、キューバ島などはこの国を独立に導こうとする人々の反乱によって支配され、カリブ海におけるスペインの立場はかなり弱いものになっていました。

このキューバでの紛争において、アメリカの新聞各社は、スペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激しました。その結果アメリカによるキューバへの介入を求める勢力の増大を招きました。

早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えていましたが、実際キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易はアメリカとの間のものでした。

こうした背景から、多くの財界人が、スペインとの戦いは、アメリカ国内の産業や流通を刺激し、さらに利益を拡大できるだろうと考えており、彼等はついには政府にスペインとの開戦を強く要求するに至ります。

そんな中、1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン(USS Maine)が爆発、沈没し266名の乗員を失うという事故が発生しました。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものがありませんでしたが、ニューヨークの新聞2紙を始めとし米国のメディアが、この爆発はスペインが敷設した機雷によるものだと報じました。

これによって、世論は一気に沸騰し、巷ではスペイン打倒!の声が高まる中、ウィリアム・マッキンリー大統領は4月11日、キューバ内戦の終了を目的として米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。これを受け議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認しました。

こうして、4月20日付を持ってアメリカはスペインに宣戦布告し、両国は戦闘態勢に入りました。こうした一連の動きは、このころ地中海にあったローリーにも当然伝えられており、引き続いて起こるであろうスペインとの開戦に備え、急きょアジアへの派遣が決まったわけです。

この米西戦争は、キューバを含むカリブ海一帯での戦闘が主でしたが、スペインは西太平洋のフィリピンやグアム島にも植民地を抱えており、両国が戦闘状態に入った以上は、ここでのアメリカとの戦闘は避けて通ることができなかったわけです。

なお、この戦争は海戦がその主なものでしたが、キューバ本島における陸上戦も行われ、キューバの東隣のプエルトリコなどでも激しい戦闘が繰り広げられました。

フィリピンでの最初の戦闘は5月1日の海戦でした。ローリーが所属するジョージ・デューイ提督麾下のアメリカ太平洋艦隊は香港を出て、マニラ湾でスペインのパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃しました。

後に、「マニラ湾海戦」と呼ばれるこの海戦では、アメリカ軍は、ローリーを含む防護巡洋艦4隻、砲艦3隻、計7隻という陣容であり、隻数ではスペイン艦隊と同じでした。しかし、スペイン艦隊の艦艇はアメリカ艦隊と比較して小型で装甲が無く、また艦砲の口径や射程も劣っており、また2番目に大きな巡洋艦は木造でした。

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香港を出たアメリカ艦隊は4月30日に夕方にはマニラ近海に達しましたが、このとき沿岸からはスペインの陸軍から砲撃が加えられました。しかし、ほとんど命中が無く、これはスペイン艦隊の砲手の錬度が低かったためと、アメリカ軍が射程内から遠ざかるよう艦隊運動をしたからでした

翌5月1日早朝には、アメリカ艦隊とスペイン艦隊がついに曹禺。砲撃船が始まりましたが、米艦隊は香港で十分な砲弾の補給ができず、その数に不安がありました。このため、スペイン艦隊からの砲撃を受けても暫くは反撃せず、これに接近するための艦隊運動を続けていました。

やがて艦隊司令長官のデューイ代将は旗艦オリンピアの艦長グリッドレイ大佐に「グリッドレイ、準備でき次第、撃ってよし」“You may fire when ready, Gridley”と伝えました。これは、You may fire when you are ready とされるべきところですが、より簡潔に出されたこの指令は後にアメリカ国内では名文句とされるようになったそうです。

この合図によって、オリンピアが砲弾を発射したのに次いで、米国の各艦船の砲が一斉に火を噴きました。米艦隊は、5000ヤードから2000ヤードまで相手との距離を縮めるという行動を5回ほど繰り返し、近づくたびに、激しい砲撃をスペイン艦隊に浴びせかけました。

この砲撃の初めの段階では、アメリカの艦隊の砲撃の多くは、スペイン艦隊の旗艦クリスティーナに向けられました。この結果、クリスティーナの艦上はたちまち炎上し、400のクルーのうち、200人以上が犠牲者となりました。なんとか沈没は免れ、岸に戻ることができましたが、その後の戦闘への参加が不可能なことは明らかでした。

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米海軍側のオリンピアの乗組員のその後の談話によれば、スペイン艦隊のうち少なくとも3隻が同様に炎上し、乗員の負傷により戦闘能力は無いに等しいほど無力化されました。砲撃開始後6時間ほどで、ほとんどの決着はつき、スペイン海軍の艦船の多くは撃沈、または炎上して戦闘能力を失いました。

またその他の艦船もアメリカによる鹵獲を恐れ、自沈したため、スペイン艦隊はほぼ全滅しました。また、スペイン陸軍は、ルソン島マニラ湾の入り口に浮かぶコレヒドール島を拠点としていましたが、ここにも米軍が上陸して制圧されるに至り、その他の島々も攻略された結果、アメリカ海軍はフィリピン諸島付近の制海権を完全に把握しました。

なお、この約2か月後に、カリブ海で繰り広げられたサンチャゴ・デ・キューバ海戦でも、アメリカ軍はスペイン艦隊を攻撃し、その多くが沈没、座礁、降伏などで全滅しました。

これによって米軍は、キューバ周辺のスペインに管理されていた海峡や水路をも自由に行き来できるようになり、これはスペイン陸軍の再補給を妨げ米軍が相当兵力を安全に上陸させることを可能にしました。

結果、スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失うとともに、陸上での戦闘継続も不可能となり、交戦状態は8月12日に停止しました。その後、和平条約がパリで結ばれ、アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得しました。

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キューバにおける陸上戦

また、キューバを保護国として事実上の支配下に置き、以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していきました。南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つようになり、太平洋だけでなく、大西洋においてもその覇権が及ぶようになりました。

以後、スペインは植民地を失ったために国力が低下するとともに新興国家・アメリカにあっけなく敗れたことから欧州での国際的地位も発言力も同時に失いました。ルネサンスから始まったポルトガル・スペインの帝国主義が破綻し、世界の主権が産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間でもありました。

ローリーは、その後マニラに帰還し、スペイン軍が8月半ばに降伏するまで同地に留まりましたが、さらに帰国命令が出ると、本国へ向かいました。スエズ、ジブラルタル を経て大西洋を渡り、翌年の1899年4月15日にニューヨーク港に凱旋。翌日には港内の多くの艦船から祝福を受けるともに、市からは栄誉賞が贈られました。

その後ローリーは、アジア艦隊に復帰し、フィリピン海域の哨戒任務などにあたっていましたが、1907年にはいったん退役が決まりました。

しかし、艦齢はまだ10数年と比較的新しかったことから、1911年には太平洋区戦隊に復帰し、その後主にアメリカ本国沿岸の哨戒任務にあたりました。が、メキシコやグアテマラなどのカリブ海方面に出かけることもありました。

1914年には第一次世界大戦が勃発しましたが、その終盤の1917年には、ローリーもこの戦争に参加し、大西洋艦隊の一員としてアフリカ方面に向かいました。主に西アフリカで活動し、軍需品をリベリアに届けるなど貨物船としての役割が主でしたが、周辺海域をパトロールする任務なども担いました。

戦後は再び本国に戻り、東海岸の哨戒にあたる「アメリカン·パトロール支隊」などに所属、フロリダ州近海やカロライナ東沖、メキシコ湾、カリブ海などで任務を継続しました。

が、このころまでには、艦齢も30年にも達し、さすがに老朽化が進んでいたことから、1919年、ついに退役が決まりました。そして同年5月フィラデルフィアの会社に売却され、解体されました。

米西戦争において、マニラ湾海戦に参加した艦船の多くもこの時期に同様な運命を辿りましたが、この海戦で旗艦を勤めたオリンピアは1922年に退役したあと、雑役船として使われました。しかし、ローリーほかの艦船とは異なり、これは保存されることになりました。米西戦争唯一の生き残りであり、その歴史的価値が評価されたためです。

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現在はペンシルベニア州フィラデルフィアのインディペンデンス・シーポート・ミュージアムで、現存する唯一の米西戦争を経験した艦として公開されています。海軍予備役訓練部隊の学生はオリンピアを定期的にメンテナンスしているということです。

以下が、同ミュージアムのHPです。ご興味のある方はのぞいてみてください(但し、英文)。

インディペンデンス・シーポート・ミュージアム

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ルイス・ウェインの生涯

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ルイス・ウェイン(Louis Wain)は、猫を対象とした作品で知られるイギリスの有名画家です。

日本ではあまり知られていないようですが、かわいらしくも緻密に描かれたルイスの猫のイラストはとても革新的で、その当時もさることながら現在でも老若男女問わずロンドンを中心に、ヨーロッパじゅうに愛されています。

児童書から経済紙まであらゆる媒体の挿絵を担当し、非常に多くの作品を残しましたが、晩年には統合失調症、その昔は精神病といわれた病気を患い、79歳で亡くなったときも精神病院にいました。

ルイス・ウェインは1860年8月5日にロンドンのクラーケンウェルというところで生まれました。現在では、ロンドン中心部のトレンディスポットであり、クラーケンウェルはロンドンを代表する食通の街として世界にその名を轟かせている町です。

お腹がすくとロンドンの人々はみんなここのミシュラン星付きレストランに行き、夜は老舗パブ、夜通し営業のバーに寄り五臓六腑を満たして帰るといいます。

つまり生粋のロンドンっ子であり、その洗練された街中で育ったウェインは、学校を抜け出しこの美しいロンドンの街中を歩き回ることが多かったといいます。

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6人兄妹の長兄であり、彼以外の5人は皆女の子で、彼女らは皆未婚のまま共に生活し生涯を終えました。ウェインが13歳のときに妹の一人が精神病を患い療養所へと送られており、ウェインもまたその晩年に同じ病気を罹っていることから、親などからそうした遺伝的な素質を得ていたのでしょう。

子供のころから絵画が好きだったようで、そのため学校もウエスト・ロンドン美術学校を選び、ここを卒業したのちは、短期間教師として働いていました。このころは一人暮らしをしていた十分に満たされていたようですが、20歳の時に父が死去し、彼が母と妹の生活費を稼がなくてはならなくなりました。

このため、ルイスは教師の職を辞め、フリーの画家となることにしました。現在の日本では考えられないことですが、この当時のイギリスでは教師では食っていけず、むしろ画家のほうが身入りが良いという状況だったようです。

ロンドンは、パリには及びませんが、その昔から芸術の都としての側面があり、現在でも大英博物館をはじめとして数多くの美術館があり、その多くが入場料が無料です。それだけ画家という職業が認められている証拠でしょう。

こうして画家で食べていく決心をしたウェインですが、しかしいきなり描いた絵を売って収入を得るのは難しいため、各種の雑誌社から販売されている雑誌のイラストを描いて報酬を得るようになります。

イラストレイテッド・スポーティング&ドラマティック・ニュースやイラストレイテッド・ロンドン・ニュースといった雑誌は、今はもうありませんが、ニュースをイラストレーション入りで報じることに主眼を置いたイギリスの週刊新聞であり、この当時は一世を風靡したものです。

これらの雑誌の挿絵を描き賃金を受け取っていたウェインは、1880年代を通しての美しい英国の風景や家屋、敷地の詳細な絵などと多数描いていますが、このほかにも家畜の絵などの動物画も多数描いており、ある時点においては犬の肖像画を描いて生活していこうとも考えていたといいます。

こうしてなんとか妹たちを食べさせていたウェインですが、23歳になったとき、ひとつの転機が訪れます。妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと恋に落ち、結婚することになったのです。彼女はウェインよりも10歳年長でしがが、これは当時のイギリスではやや問題視されることでした。

これはこの当時明治時代であった日本でも同じであったかもしれませんが、この当時の風習としては姉さん女房というのは一般的ではなく、ジェントルマンは養うべき女性として自分よりも若い年齢の人を選ぶというのが通例でした。

しかし、二人はこうした社会風習に抗って結ばれ、北ロンドンのハムステッドで生活を始めました。ところが、妻のエミリーはすぐにガンに冒され、二人の結婚生活はわずか3年で終わりを告げます。

この出来事は彼には衝撃であったであろうことは想像に難くありませんが、のちに統合失調症を発症する素因は既にこのころから創られていたかもしれません。

病気を発症し、日々苦しんでいたエミリーは、このころ二人が飼っていたピーターという猫を非常にかわいがっており、少しでも妻の気晴らしになるかと考えたウェインは、このピーターに眼鏡を着けさせ読書をしているかのようなポーズをとらせ、これをスケッチしたりしていたといいます。

後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っており、このころからウェインの作品といえば「ネコ」といったふうに画風が変わっていきました。

妻のエミリーが亡くなった年の1886年には、擬人化されたこうした猫を描いた彼の初期の作品がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載されており、「猫達のクリスマス」と題されたこの作品には150もの猫が描かれていました。

お辞儀をする猫、ゲームをする猫、他の猫の前で演説をする猫などなどの姿を描写していますが、この頃彼が描いた猫は皆4つ足で服も着ておらず、後の時代のウェインの作品を特徴づける人間らしさは見られません。

しかし、さらに作品が洗練化されてくると、ウェインの描く猫たちは後ろ足で立って歩くようになり、大口を開けて笑い、豊かな表情を有して当時の流行の服装を着こなすようになっていきました。

この当時の彼の作品には、楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞などなどと擬人化されたネコたちのユーモラスな姿が描かれています。

冒頭の写真(絵)もまたそのひとつであり、ネコたちが衣装(寝間着)まとっており、画面いっぱいにネコたち広がって生き生きと描かれています。

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 ウェインの作品の特徴である擬人化された猫の絵(初期のころのもの)

このような動物の擬人化は、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間にしばしば見られ、この時代の流行でした。こうしたイラストだけでなく、当時のグリーティング・カードなどにもしばしば用いられ、戯画として人を風刺する際にも多用されました。

こうした作品をウェインは非常に多数この時代に描いており、多作な画家として知られています。以後30年間で残した作品は数百にも上ると見られますが、それらの中には100あまりの児童書の挿絵のほか、新聞、専門誌、雑誌に掲載された実に様々なものがあります。

これらの作品は人気を呼び、ロンドンっ子のみならず、イギリス全土、ひいてはヨーロッパ全体でも愛され、1901年から1915年には”ルイス・ウェイン年鑑”なる書籍が発売されていたほどです。

それらの作品においてウェインは、自らの作品もまた流行ではないか、と言われる中で、時代の流行に追いすがろうとする人間社会を、風刺や皮肉をちりばめて描いていました。その作風はユーモアをもちながら実にシニカルですが、かつ具体性があり、誰もがその描写力の的確さを評価しています。

この当時ウェインは次のように述べています。

「レストランなどにスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間臭さを残したまま描く。こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ。」

努力せずしてその画風を身に着けたのか、家族を養い、妻を亡くすという逆境の中で辛酸をなめつつ到達した技法であったのかどうかはわかりませんが、こうした作風は同時代のどんな他の画家とも違った独特なものであり、それだけにまた後世の評価も高いものになっています。

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こうした絶頂期のウェインは動物に関係したチャリティー活動へも参加しています。根っからの動物好きだったとみえ、口のきけない我が友連盟評議会、、猫保護協会、反生体解剖協会などなどに次から次へと加入しており、「全国猫クラブ」においては議長として活躍していいました。

現在の日本でもそうですが、ネコが苦手な「猫嫌い」は当然世の中に存在します。ウェインはそうした猫への軽蔑観を取り除く手助けができると感じていたようで、その作品の中で生き生きと描かれるネコを通じて、人々に愛着を持ってもらおうとしたようです。

こうした活動も評判を呼び、彼が描いたものは次から次へと売れましたが、にも関わらず、ウェインは常に金銭に困っていました。元々経済的な感覚に乏しい性格だったらしく、気性は穏やかでだまされやすかったためであり、作品は売れたものの安く買いたたかることも多かったようです。

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著作権などの権利関係の交渉についても、取引相手に任せっきりで権利を相手に取られても気にしないようなところがあったようで、こうした割の悪い契約を押し付けられることも常でした。

しかし、次第に内外での評判は更に高くなり、1907年、47歳のときには、ニューヨークへ講演旅行が実現し、この旅行においても彼の作品は高い評価を受けました。

しかしこの旅先でも金銭感覚の欠如が露呈し、後先を見ないで土産物を買いこんだといい、このためにせっかく得た講演料や画代も使い果たし、懐具合は旅行前よりさらに悪化してしまいました。

この時期を境としてウェインの人気にもかげりが見え始めるようになり、50を過ぎるころからはこれと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していきました。周囲の人々から「チャーミングだがちょっと変わった人」と評価されることが多かったウェインですが、だんだんと「かなり変わった人」に変わっていきました。

次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていき、話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていきます。しまいにはどうみてもおかしな行動が多くなり、言葉を発しても何を言っているのかわからなくなっていきました。

例えば、ウェインはこのころ「映画のスクリーンのちらつきが脳から電気を奪ってしまう」などと主張しており、夜には通りを彷徨い歩き、家具の配置を何度も変更し、部屋にこもっては支離滅裂な文章を書き連ねました。

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背景に抽象的な幾何学模様の描かれた作品。病気の悪化を反映しているとする者が多い

60歳越えるころからは、はたから見てその行為がおかしいだけでなく、ウェイン自身も妄想に苦しむようになっていたようで、やがて優しい兄であった彼は、妹たちに暴力も振るうようになっていき、その性格も疑い深く敵意に満ちた性格へと変貌していきました。

こうしてウェインが64歳になったとき、彼の言動や暴力に耐えきれなくなった姉妹はついに、彼を入院させることを決めます。このころ彼の家族は依然貧困から抜け出せないでおり、彼は貧困者向けの病院である、スプリングフィールド精神病院という病院に収容されました。

この病院の中でもさらに最下層の人々が収容される病棟に入っていたといいますが、この有名画家が入院されたという噂は1年もたたないうちに世間に広まりました。ウェインが病院に隔離されていることが人々に知られるようになると、著名な作家などが彼の「救出」を叫ぶようになります。

小説家で、ジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」とも呼ばれたハーバート・ジョージ・ウェルズ(H.G.ウェルズ)などが中心となって政府への働きかけがなされるようになり、その結果当時の首相の介入により、彼の治療環境が改善されることが決まりました。

ウェインは、この病院の汚い病棟から、より清潔な王立ベスレム病院へと移され、続いて北ロンドン・ハートフォードシャーのナプスバリー病院へと転院されました。

ハートフォードシャは、高級住宅街で知られ、デビッド・ベッカムをはじめ各界の著名人が邸宅を構える土地としも有名です。この病院も当然最高級のクラスであり、患者たちのために心地よい環境が用意されていました。この時ウェインはすでに70歳になっていました。

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 王立ベスレム病院における作品。

この病院の庭には、数匹の猫が飼育されており、ウェインは死去するまでの9年間をこの施設で過ごしました。その美しい環境とネコとのふれあいの中で、彼は本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していったといい、このころから減っていた画家活動も増えてきました。

以前のように作品数は多くはありませんでしたが、気が向けば以前のように猫の絵に取りかかりました。しかし、その作品は往年のものとはかなり変わっており、原色を多用した色使い、背景には花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されることが多くなっていました。

彼が病を発症してからこの頃に至るまでの表現法の異なる5つの作品を以下に示しますが、これらは現在でも精神病学の教科書において、統合失調症が悪化するにしたがっての作風の変化として紹介されることが多いといいます。

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ただ、これらの作品には、その作成時期がはっきりしないものが含まれているといい、本当に精神の病の進行に適合しているかどうかについては、議論が絶えないようです。

こうしたウェインが晩年に描いた絵が病気の影響を受けたものなのか、彼自身の意図的なものなのかについては結論が出ておらず、精神病の影響などみじんも感じられない芸術作品だと評価する人もいるようです。

ただ、これらの絵が正気で書かれたものなのかそうでないかはともかく、こうした晩年の画風の変化は、最晩年に暮らした病院の明るい環境と、そこにいたネコたちとの交流の中で生まれことだけは間違いはないでしょう。

その真実を自ら公表するすべもなく、1939年、ルイス・ウェインはこの病院で79歳の人生の幕を閉じました。その最後は穏やかだったと伝えられています。

上述のH・G・ウェルズはウェインについて、「彼は自身の猫をつくりあげた。猫のスタイル、社会、世界そのものを創造した。ルイス・ウェインが描く猫とは違うイギリスの猫などは、イギリスの文化とはいえず、恥じてしかるべきである」とまで記しています。

猫好きの人々にすれば、その愛らしい姿を崇高な作品に仕上げてくれるこうした作家がもういないことを悲しむべきでしょう。が、いずれはまたこの世に生まれ変わって、これとはまた違った画風で我々を楽しませてくれるに違いありません。

その再来を期待しましょう。

ベツレヘムへの道~黄昏

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ベツレヘムは、イスラエルの首都エルサレムから南へ10キロほどのところにあり、現在この街はパレスチナ自治政府が治めています。ヨルダン川西岸地区中央に位置し、人口約25000人の都市です。

ご存知のとおり、現在もその周辺は紛争が絶えないため、日本人観光客はもとより、日本人以外の人々もなかなか観光に訪れるのは勇気のいる場所です。

が、意外なことに観光はベツレヘムの最も主要な産業で、地域経済の発展に重要な役割を果たしています。労働者の20%はこの産業に従事し、ベツレヘムには毎年200万人以上の人が訪れるといいます。都市の財源の65%近くが観光によるものであり、政府の財源として見ても11%にもなります。

そこまで観光地として人気がある最大の理由は、この地がイエス・キリストの生誕地とされるためです。聖誕教会はベツレヘムの主要な観光名所でありキリスト教巡礼者を引き寄せています。都市の中心部、メンジャー広場にあり、聖なる洞窟(the Holy Crypt)と呼ばれるイエスが降誕したとされる洞窟の上にこの教会は建てられています。

Church of the Nativity聖誕教会

ベツレヘムにはおよそ30のホテルがあるそうで、この教会近くのジャシル・パレスは1910年に建てられベツレヘムで最も古いホテルだといいます。イスラエルとパレスチナ間の紛争のため2000年に閉鎖しましたが、2005年にジャシル・パレス・インターコンチネンタル・ベツレヘムとして再オープンしているそうです。

ところが、隣接するイスラエル政府は、このベツレヘムとの間に「分離壁」を建設し始めています。パレスチナ人による自爆テロ防止のためと説明していますが、この壁の建設により、ベツレヘムの北郊にある霊廟、ラケル廟へのアクセスがベツレヘム側からはできなくなってしまいました。

このラケル廟というのは、旧約聖書に登場する女性でヤコブの妻であるラケルの墓であるとされ、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとっての聖なる場所として知られており、イエス・キリストの生誕地と引けを取らないほどの一大観光地です。

イスラエル軍はイスラエルからラケル廟へ向かう者を守るため、ベツレヘムからラケル廟へ至る主要道を遮る形で壁を建造しましたが、これにより聖書にもあるイスラエル側からの古くからの巡教ルートが切断されるところとなりました。

このため、イスラエル側からラケル廟へ訪れる者の数が増加しているのに対し、パレスチナ側からは直に行けなくなりました。

この分離壁により観光客が減ったために、ほとんどの住民がかろうじて生計を立てている状態になっており、分離壁そのものがパレスチナ人の生活を分断して大きな影響を与えています。このことから、分離壁の建設は国際的に不当な差別であると非難されていて、国際連合総会でも建設に対する非難決議がなされている状況です。

このベツレヘムは、旧約聖書にも登場する予言者のダビデの町とされ、新約聖書ではイエスの生誕地とされているキリスト教の中でも最重要拠点であるわけですが、と同時にイスラム教徒によって統治された時代も長く、これがこの地の紛争を引き起こしているわけです。

1967年の第三次中東戦争では一度イスラエルに占領されていますが、1995年、イスラエルはパレスチナ人による暫定自治を認めたため、パレスチナ自治政府は都市と軍を支配下に治めるようになりました。

しかし、その後もイスラエル側とは紛争が絶えず、2000年から2005年に第2次インティファーダという紛争が起こり、このときベツレヘムのインフラと観光業はかなり被害を被りました。この戦闘の際にパレスチナ過激派が多数退避していた聖誕教会をイスラエル国防軍は包囲しましたが、この包囲は39日間続き、何人かの過激派が死亡しました。

最終的にはパレスチナ側が過激派13名を国外追放することでこの紛争は決着して現在に至っていますが、イスラエルの首相は右派急先鋒のネタニヤフ首相であって強硬姿勢を崩しておらず、今なお両国間にはきな臭い空気が漂い続けています。

Bethlehem_Overlooking現在のベツレヘム

ベツレヘムは、パレスチナ自治区ベツレヘム県の政庁所在地であり、現在の経済も主に観光で成り立っています。ベツレヘムではイスラム教徒であるムスリムが多数派ですが、パレスチナにおける最大級のキリスト教コミュニティーも存在します。

このため、クリスマスのピーク時には聖誕教会への巡礼者が大勢押し寄せてこれが観光収入になっているほか、およそ30件のホテルと300軒の手工芸品工房などに観光客がお金を落としていきます。

みやげ物の販売はベツレヘムにとって大きな産業であり、特にクリスマスシーズンになると、大通りには店が立ち並び、手工芸品やスパイス、宝飾品、バクラヴァなどのお菓子を販売しています。オリーブの木彫物は、ベツレヘムを訪れた旅行者に一番人気の商品だそうで、ほかにも真珠を使った装飾品もあり、こちらもオリーブ細工同様人気があります。

しかし上述のとおり、ユダヤ教にとっても重要な聖地である、ラケル廟への道はイスラエルが建設した壁によって隔てられための影響は大きく、観光以外の収入源への模索が始まっています。

ベツレヘムでは、石や大理石を加工したものや織物、家具、調度品などが伝統的に作られており、これらは土産物としても販売されていますが、現在も産業の中心です。ほかにも
塗料やプラスチック、合成ゴム、医薬品、レンガ、タイルなどの建設資材を生産しており、日本も含めた海外への輸出が期待されています。

食品では、パスタや菓子類を中心とした食料品なども生産しているほか、「クレミザンワイン」というものが、クレミザン修道院の修道士の手によって醸造されています。1885年に生産が始まったという歴史のあるもので、2007年のこのワイン生産量は年間およそ700,000リットルにも及ぶといいます。

こんな暑いところでブドウ?と思われるかもしれませんが、ベツレヘムは地中海性気候に属しており、夏は暑く乾燥していますが、逆に冬は寒い地域です。12月中旬から3月中旬は日本と同様に冬ですが、最も寒い1月には気温は1°Cまで下がります。

が、5月から9月までは暖かく、8月は最も暑い月で30°C以上となります。とはいえ、湿気の多い日本に比べればずっと過ごしやすいはずです。年平均700ミリメートルの雨量があり、そのうち70%は11月から1月にかけてだそうで、この降雨によりブドウも育てられるわけです。

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ベツレヘム1898年

冒頭の写真は、1920~1933年頃の撮影と推定されています。1920年から1948年までベツレヘムはイギリス委任統治領であり、この写真もおそらくここに入植していたイギリス人が撮影したものでしょう。

ラクダに乗ったモスリムとおぼしき男が険しい山道をとぼとぼとベツレヘムへと向かっていますが、夕暮れ時なのでしょうか、左にはラクダの長い脚の影が地面に落ちています。

ラクダは「砂漠の舟」とも呼ばれ、古くからほかの使役動物では越えることのできない乾燥地域を越える場合にはほぼ唯一の輸送手段となっていました。特に利用されていたのは砂漠の多いアラブ世界であり、20世紀後半に自動車が普及するまで重要な移動手段でした。

砂漠を越えることはほかの使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによってはじめて砂漠を横断する通商路が使用可能となり、やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってラクダも東方へと生息域をひろげていきました。

シルクロードの3つの道のうち、最も距離が短くよく利用されたオアシス・ルートは、ラクダの利用があって初めて開拓しえたルートだそうで、シルクロードを越えるキャラバンは何十頭ものラクダによって構成され、大航海時代までの間は東西交易の主力となっていました。

現代においてはほとんどが自動車にとってかわられたものの、アフリカなどでは現在でも主要な交通手段として使われています。砂漠地帯で長時間行動できるため、古くから駱駝騎兵として軍事利用され、現代でも軍隊やゲリラの騎馬隊がラクダを使用することがあるそうです。

現代ではインドと南アフリカの2か国が純軍事的にラクダ部隊を保有しており、2007年には、ダルフール紛争の国連平和維持活動に対し、インド政府がラクダ部隊を派遣すると報道されたといいます。

が、現在のベツレヘムではどうかといえば、おそらくはラクダの飼育数はかなり少ないでしょう。飼われていたとしても、交通手段としてではなく、ラクダの肉は食用とされ、また乳用としても利用されることからこちらの利用のほうが多いと思われます。

ラクダはヒツジやヤギに比べて授乳期間が長い(約13か月)上に乳生産量も一日5リットル以上と非常に多かったため、砂漠地帯の遊牧民の主食とされてきました。ラクダ乳は主にそのまま飲用されますが、発酵させてヨーグルトとすることもおこなわれています。

ただ、ラクダ乳はウシやヒツジ、ヤギの乳と脂肪の構造が異なり、脂肪を分離することがやや困難なため、この地域ではバターやチーズといった乳製品は主にヒツジやヤギから作られています。ただ、ラクダ乳からバターやチーズを作ることも歩留まりが悪いとはいえ不可能ではなく、その希少性ゆえに高級品として高く評価されているようです。

近年、栄養価の高いラクダ乳は見直される傾向にあり、ヨーグルトやアイスクリームなどのラクダミルク製品を製造する会社も設立されているといい、アラブ首長国連邦のドバイでもラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズやラクダミルクチョコレートをはじめとする製品の世界各地への売り込みを図っているそうです。

なお、ラクダの肉は食用とされますが、ラクダの乳に比べると二義的な利用となるようです。若いラクダの肉は美味とされることもあるが、年老いて繁殖や乳生産のできなくなったラクダが食肉用に回されることが多く、これは味が悪いために評価は高くないようです。

が、最近めきめきと力とつけてきた中国では、駱駝の瘤は駝峰(トゥオフォン)と呼ばれ、八珍の一つとして珍重される食材だそうです。繊維はあるものの脂肪の塊なので、味付けが重要な食材であり味が付きにくいという欠点があるといいますが、今も人気の食材のようです。

イスラエルとの紛争により、その永存さえ危ぶまれているベツレヘムですが、こうしたラクダを利用した産業の育成により、中国などの勃興国への売り込みを図るとともに、ワインの輸出をはじめとするその他の産業にも力を入れて、ぜひ世界にも我ここにあり、といわれるような町として復興していただきたい、と願う次第です。

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