ノーム ~命のリレー

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写真は、セイウチです。

写真が撮られたのはアラスカ州のノームで、こうした北極圏の沿岸地帯および氷縁部に生息します。かつてはカナダ北部の沿岸や近海でも生息していましたが、18~19世紀における肉と皮を目当てとした乱獲で、この地域の個体群は絶滅しています。

従って北欧や、アラスカやベーリング海などその他の北極圏が現在における主たる生息域のようです。

どういうシチュエーションで撮影されたのかはよくわかりませんが、なにやら水槽のようなものの中から居並ぶ顔を出していることから、何等かの飼育場のような場所なのかもしれません。あるいは、何等かの理由で保護されたものかもしれません。

成体はもっと大きいことから子供のセイウチのようであり、牙を並べて顔を突きだし、餌をねだっているのでしょうか、なかなかユーモラスです。

大人のセイウチは、体長270~360 cm、体重500~1,200 kgであり、同じく3mを越えるため、もっと度迫力のはずです。1,000kg内外のトドとよく間違われますが、トドはアシカ科、セイウチはセイウチ科の動物であり、違う種類です。一番の違いは写真にもあるようにセイウチには牙がありますが、トドにはありません。

雌雄共に上顎の犬歯(牙)が発達したもので、オスは100cmにも達します。この牙はオス同士の闘争に用いられますが、ほかにも外敵に対する武器、海底で獲物を掘り起こす、陸に上がる際に支えにする等の用途に使われます。またこの牙は生涯を通じて伸び続けます。

皮膚には体毛が無いものの、厚い脂肪で覆われ寒冷地での生活に適応しています。口の周りには堅い髭が密集しており、この髭は海底で獲物を探す際に役立ちます。

越冬のために南下するなどの習性はなく、冬季でもポリニヤで生息します。聞き慣れない言葉ですが、ポリニヤとは、氷で囲まれた海水域です。海峡などの地形や季節風などの影響で、北極海であっても冬でも凍らない場所であり、地形の影響で形成されるポリニヤは、毎年、同時期に同じ場所に発生します。

このため、セイウチだけでなく、南に移住しないその他の海獣類、例えばイッカクやシロイルカなどもここで冬を越します。また、それらの動物を餌として狙うホッキョクグマなどもポリニヤに集まります。

ご存知のとおり、アラスカといえばエスキモーと呼ばれる先住民族が住んでいます。しかし、最近では「エスキモー」という言葉を使わない傾向にあります。

これは、東カナダに住むクリー族の言葉で、本来は「かんじきの網を編む」という意味ですが、白人によって「生肉を食べる者」を意味する語と誤って解釈されたことから、「エスキモー」という呼称はしばしば彼等を侮蔑的に呼ぶとき使用されてきました。

カナダでは1970年代ごろから「エスキモー」を差別用語と位置付け、彼ら自身の言葉で「人々」を意味する「イヌイット」が代わりに使用されるようになりました。最近ではこれが主流となり、カナダ以外の国でもこう呼ぶことが多くなっています。

先住民運動の高まりの中で、これまで他者から「エスキモー」と呼ばれてきた集団が自らを指す呼称が必要となり、現地においても自らを「イヌイット」と呼ぶ人が増えるようになってきています。

しかし、シベリアとアラスカにおいては「エスキモー」は公的な用語として使われており、使用を避けるべき差別用語とはされていないそうで、また、本人達が「エスキモー」と自称している場合は置き換えないマスコミも多いといいます。なので、ここでもエスキモーで通したいと思います。

Eskimo_Family_NGM-v31-p564エスキモーの家族 1907年ころ

彼等の食ベものは、狩猟によって得た生肉が中心である、ということは広く知られているところです。獲物は海では、アザラシ・クジラ等のほか上述のセイウチ、また陸での狩猟ではカリブー(トナカイ)などを捕獲します。

エスキモー達の暮らす地域では新鮮な野菜類がほとんど手に入らないため、海獣類の肉や内臓を生で食べるのは洗浄や加熱によって壊れてしまうビタミンを効率よく摂取することが必要になります。

また、太陽光線の弱い北極圏では、北欧に住む白人種などは肌の色が白いために太陽光をく皮下に取り込むことでビタミンDを作り出しやすいのに対し、黄色人種であるエスキモーの黄色い皮膚は太陽光線の皮下取り込み量が少なくなりがちなのだそうです。

そのあたりの理屈はよくわかりませんが、一般に日本人を含む有色人種の肌は、白人の肌よりもビタミンDの生合成力が弱いそうで、そのためにもエスキモーは狩猟した動物の生肉や内臓を食べる必要性があるわけです。

極寒の地で生き延びるための知恵というわけですが、ただ最近ではアメリカの食文化が流入しており、伝統的な食文化が失われつつあるようです。この結果、伝統的な食事(生肉)や料理法(加熱をあまりしない)から得られていたビタミン類などの栄養成分が不足してしまうなどの問題が起きているといいます。

このため、現在では医師や栄養士のアドバイスにより不足するビタミン類をサプリメントから得ている人も多いとのことで彼等の食生活はかなり変わりつつあるようです。

このほかかつては雪や氷で造ったイグルー等に居住し、カヤックやイヌぞりによる移動生活を送るのが一般的なエスキモーの生活だったものが最近は定住して都市部に住む者が増えてきており、生活形態全般も変化しつつあります。

現在でも昔ながらの伝統的な生活を営む者もいるようですが、地球温暖化が進んだ現在では、氷上を移動すると氷が割れる恐れがあります。このため、猟師たちはアザラシやシロイルカなどから、内陸部のカリブーに狙いを変えるようにもなっているといい、現在のエスキモー社会は、海岸から離れた場所に形成されることも多いといいます。

さて、冒頭の写真が撮影されたノームですが、Google map で探してみてもすぐには出てこないほどの小さな町です。アラスカ州は、ベーリング海を挟んでそのすぐ向こうはロシアという位置関係ですが、この海峡でももっともロシアに近い、スワード半島(Seward Peninsula)の南端付近に位置します。

半島の名は、1867年にロシアからアラスカを購入した当時の国務長官ウィリアム・スワードの名にちなみます。アラスカはもともとロシア領でしたが、同国がクリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のためアメリカ合衆国に720万ドルで売却したものです。

nomeSeward_peninsula

これは現在の日本円に換算すると500億円ほどであり、これだけ広大な土地にしてはかなり格安といえます。しかし、それでもこの当時のアメリカ国民からは「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されました。

ただ、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが主に旧ソ連に対する国防上重要な拠点であることが分かるようになり、現在では高く評価されています。

その資源のうち最初に見つかったのは金です。1896年のカナダのユーコン準州でのゴールドラッシュに刺激を受け、当時のアメリカ領アラスカ地区でも金鉱探しが熱を帯びました。1898年には、このノームでも金鉱が発見され、スワード半島でもゴールドラッシュが起こり、あちこちにできた町は爆発的に成長しいくつかの鉄道も建設されました。

このノームの人口もこのとき爆発的に増え、現在の人口が3500人ほどなのに対し、一時期には2万人にも達していました。

もともとは、前史時代からイヌピアト族という原住民が住んでいた場所で、金の発見以前のノームにはこの部族が造った小さな集落があるだけでしたが、1898年の夏、「3人の幸運なスウェーデン人」がここで金を発見しました。

実はこれはノルウェー人の間違いで、しかもいずれもアメリカ合衆国に帰化していましたが、この報せはその次の冬の間にアメリカ中にとどろき、翌年の1899年までにノームの人口は1万人となり、この地域は「ノーム鉱業地区」としてアラスカ地区政府からも指定されるに至ります。

Nome_19001900年頃のノーム

ちなみに、アラスカ州が州に昇格するのは、1912年に準州に昇格したのちの、1959年であり、さらにこのアラスカ地区の前にはアラスカ県と呼ばれていました。県であった時代は自治政府が存在しておらず、合衆国陸軍、合衆国財務省、合衆国海軍と様々な組織が同県を管轄下に置いていました。

しかし、1884年にアラスカ地区となった時点で、アラスカは初めて独自の政府を持ちました。この当時同地区においてはまだ大きな金鉱は見つかっておらず、このため金の採鉱を行って一山当てようと、カナダから多くの採鉱希望者が山を越えてこの地を目指してきていましたが、これによりアラスカの金鉱はアメリカ人にしか開発できなくなりました。

さらに1899年のこの年、ノームの海岸に沿って数十マイルに渉り砂浜で金が見つかり、人々の殺到はさらに加速しました。1900年の春だけで、シアトルやサンフランシスコの港から蒸気船で数千の人々がノームにやってくるようになり、この年、砂浜や木のない海岸にできたテント村はロドニー岬からノーム岬まで30マイル (48 km)にも及んだといいます。

1900年から1909年の間、ノームの推計人口は2万人にも達し、アラスカ準州に昇格したときも州内で最大の人口を抱えていました。また、ちょうどこのころから、合衆国政府はアラスカの軍事的な意味を意識せざるを得なくなります。

1917年にロシアで革命が起き、ロシア帝国を倒したソビエト連邦が樹立されるとベーリング海峡を隔ててすぐのこの国との緊張感が一気に高まるようになっためです。

このため、陸軍がこの地域を取り締まるようになり、厳しい冬のために毎年秋に住いを持たないか、住まいを借りる金を持たない者達を追い出していきました。

このころまでには、金の採掘量もかなり減っていたため、遅れてこの地に入って来た者の多くは当初の発見者達を羨み、同じ土地を含む鉱業権を申告して当初の権利を「横領」しようとしました。

裁判沙汰になることも多かったものの、この地域の連邦判事は当初の権利を有効と裁定しました。ところが、権利横領者の中にはワシントンD.C.の政治家の影響力を使ってその権利を無効にさせるような輩もいました。

ノースダコタ州から来た共和党の高官の一人などは、従順な取り巻きをノーム地域の連邦判事に指名することに成功し、彼が有利に裁定した裁判で勝ちえた鉱業権を使ってノームでも最も豊かな金鉱山を搾取しました。

この厚かましい試みは、その後ノームの有志によって暴露され、二人は裁かれましたが、この話は“The Spoilers”のタイトル小説化され、5回も映画化されました。そのひとつ、1942年に公開された映画にはジョン・ウェインやマレーネ・ディートリッヒなどが出演しています。

ノームの町は、ゴールドラッシュのために急造されたこともあり、都市としての災害抑止機能はほとんどなく、1900年に最初の火事が起こったあと、立て続けに火災が発生しました。とくに1905年と1934年は大火といわれるほど規模が大きいものでした。

そんな中の、1925年冬、突如ジフテリアがノーム地域のイヌイットに流行しました。ジフテリアというのは、ジフテリア菌を病原体とするジフテリア毒素によって起こる上気道の粘膜感染症で、喉の激しい痛み、犬がほえるような咳、筋力低下、激しい嘔吐などを引き起こします。

腎臓、脳、眼の結膜・中耳などがおかされることもあり、保菌者の咳などによって飛沫感染します。治療開始の遅れは回復の遅れや重篤な状態への移行につながるため、確定診断を待たず早期にワクチンの接種が必要になります。

以前の1918と1919年にスワード半島で流行したスペイン風邪では、アラスカ州全体のエスキモー人口8パーセントが罹患し、ノームでも約50パーセントがこれにかかりました。州全体では1000人以上が亡くなっており、これは、大多数のこれらアラスカ先住民が、先進国からもたらされたこの病気に全く抵抗がなかったためでした。

このジフテリアの流行でもこのとき既に子供を含む3人の住民が死亡していましたが、折悪しく州全体に激しいブリザードが吹き荒れ、アンカレッジからの飛行機では救命のための血清が届けられませんでした。また、氷雪に覆われた大地を車も踏破することはできません。

このため、血清を運ぶ為に急遽、犬橇チームのリレーが編成されることとなり、こうして、1月27日から始まった犬橇リレーのために20組、100匹以上の犬が徴用されました。

アンカレッジからはできるだけ直線になる距離が選ばれましたが、それでも総延長は674マイル(1085km)に達し、この中には標高1500mの山岳地帯も含まれていました。

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犬たちが走破したルート

中でも一番長い距離を走ったのは、トーゴ(Togo)と呼ばれたオスのシベリアンハスキーがリーダーを務める犬橇隊で、このトーゴという名は、日露戦争で活躍した日本帝国海軍の東郷平八郎にちなんだものです。

トーゴは幼いころから橇犬として頭角を現し、はじめてリーダーとして橇を引いた日には75マイル(120km)を踏破するなど、早くから天才犬と目されていました。このリレーにおいても、3日間を通じて170マイル(274キロ)を走り切りましたが、この間の気温はおよそ-34℃で、風の強さを加味した体感温度は-65℃に及ぶと推定されました。

トーゴが率いる犬橇チームは、初日に84マイル(134キロ)を走行しましたが、6時間仮眠を取っただけで午前2時には出発し、この時の夜間気温は-40℃まで低下し、しかも風速65マイル/ hの(毎時105キロ)もありました。

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トーゴ

トーゴらの奮闘の後も次から次へとリレーがつながれて行きましたが、結局このリレーを通して少なくとも6頭以上の犬が死亡し、こうした尊い犠牲を払いながらも、血清は2月2日の正午までにはノームに届けられ、多くの人々の命が救われました。

この命のリレーは、その後マスコミに取り上げられて報道されるところとなり、“Great Race of Mercy”「偉大な慈悲のレース」と呼ばれて感動を呼び、多くのアメリカ市民の共感を得ました。

このリレーで最後の犬橇チームの先導犬は、「バルトー」という名前でしたが、その後このバルトーの彫像がニューヨーク市セントラル・パークの動物園近くに立てられたほどです。また、トーゴもその後剥製にされ、アイディタロッドの橇犬博物館で保存展示されているほか、その骨格はイェール大学のピーボディ博物館に納められています。

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バルトーの銅像

1973年には、この血清リレーを記念した、全長1,049マイル (1,600 km)以上にわたる 犬橇レースも開催され、ノームはこのときもその終点となりました。このレースは「イディタロッド・トレイル犬橇レース」と呼ばれ、その後も毎年のように開催されています。

その後ノームのゴールドラッシュは終焉を迎え、人口はどんどんと減っていきました。しかし、第二次世界大戦の間には滑走路が建設され、軍隊も駐屯していました。

戦後は市の北にある丘には、対ソ連用の遠距離早期警戒システムの補助施設なども建設されましたが、冷戦が終了したあとの現在では軍の駐留もなく、こうした施設ももはや使われてはいません。

終戦の年の1945年および1974年には、この地を激しい嵐が襲い、ゴールドラッシュ時代の建築は大半が破壊される、ということもあり、往時の街並みはほとんど残っていないようです。

しかし、小学校から高校までの教育機関も整えられ空港も擁し、道路網もそれなりに整備されるなど、残された人々が居留するには十分の環境が今も残っているようです。海港もあり、定期船や巡航船が運行されており、決して陸の孤島というわけではありません。

住民のほぼ半数がエスキモーであり、残りを白人と混血が占めますが、住民のほぼ全員がクリスチャンです。漁業生産などがあるためか、その生活レベルもアメリカ国内の他の地域と比べても特段貧しい、というほどではないようです。

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現在のノーム

ちなみに、このノームよりさらに北の、アラスカ州のほぼ北端に、バローという町がありますが、かつてここに純粋な日本人が住みつき、そこで一生を終えています。

「フランク・安田」といい、1868年に宮城県石巻市に生まれた人ですが、子供のころに両親を亡くしたことから、船積みで働くようになり、太平洋を横断もし、22歳の時にアメリカのカリフォルニア州に渡ったのが縁で、アラスカに永住するようになりました。

この物語は、新田次郎の小説、「アラスカ物語」に詳しく、非常に面白いのですが、今日はもう長きに渡って綴ってきましたので、これ以上はやめておきます。

この安田という人は、ノームのイヌイットとも親交があったといい、彼自身も金鉱を探して放浪していた時期もあったそうです。ご興味があれば、新田さんの小説も読んでみてください。映画化もされており、安田を演じたのは北大路欣也さんでした。ビデオショップでレンタルできると思います。