Title: Most beautiful child in Europe.
Date Created/Published: 26 August 1920 [date received]
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写真は、かつて“ヨーロッパで最も美しい子供”といわれたルーマニアのお姫様、イレアナ妃です。
母マリアは、イギリスのエディンバラ公(ヴィクトリア女王の次男)とその妃であるロシア皇女の間にできた子で、ルーマニア王太子フェルディナンド(ルーマニア王カロル1世の甥)と結婚。イレアナはその三女として1909年1月5日ブカレストで誕生しました。
ところが、母のマリアは、父フェルディナンドと不仲でした。二人の間にはイレアナのほか、兄のカロルや姉のエリサベタがいましたが、その後に生まれたほかの兄弟たちの父親は、マリアの愛人ではないかと噂されていたようです。
兄のカルロは、1930年に即位し、カルロ2世と呼ばれるようになり、その後およそ10年に渡って国内を統治しました。しかし、独裁ともいえる政治を行ったため、次第に国民の信を失っていきます。
その後ヨーロッパ情勢は、ドイツを中心に様変わりし、ルーマニアも、外国支配を受け入れざるを得ない状態になっていきます。ドイツだけでなく、ソビエト、ハンガリー、ブルガリア、イタリアから降伏の圧力を受ける中、カルロ2世は親独派の将軍イオン・アントネスクによって裏をかかれ、失脚。
ポルトガルへ向けて亡命する際、ルーマニアを発つカロルが乗った列車には、王家の財宝が乗せられたとされています。
カルロは2世はまた、女癖が悪く愛人に溺れていたといわれ、数多の女性遍歴は、現在のルーマニア王家にも暗い影を落としているといわれます。
しかし、妹のイレアナは幼いころから国民に愛され、長じてからもその親しみやすい人柄が広く支持され、醜聞にまみれた長兄カロルよりもはるかに高い人気を得ていました。そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策します。
1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。それを契機に、兄カロルは、イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じますが、彼女を擁護する重臣たちにも助けられ、2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、そこで6子を生みました。
第二次世界大戦でルーマニアは、日独伊三国と同じく枢軸国側で参戦。夫アントンはドイツ空軍に所属しますが、このころからイレアナは福祉活動に力を入れるようになります。居城をルーマニア傷病兵の病院として使用させ、自らも看護をすることもあったといいます。
1944年、戦況は悪化し、ドイツをはじめとする枢軸国、そしてルーマニアは連合国やソビエトに追い詰められていきます。イレアナは子供たちと、ルーマニア南部のブラショヴ県南部の山中に位置する古城、ブラン城へ移り住みました。
夫アントンもブラン城へ合流しましたが、一家は赤軍の監視下に置かれるようになりました。それでも、イレアナは城外のブラン村に新たに病院を建設し、ここで傷病兵を受け入れる活動を続けました。
しかし、やがて戦況はさらに悪化していきます。そうした中、ルーマニア王制はついに崩壊。共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われました。
イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカに移住。マサチューセッツ州に居をかまえ、ルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え続けました。
2冊の本を執筆するなど精力的に活動しましたが、この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人のステファン・ニコラ・イサレスクと再婚しますが、さらに1965年に離婚。
その後は新たな夫を持つことはなく、フランスに移り住み、フランス北東部のビュシーにある修道院に入りました。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、その後も福祉活動を続け、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米しました。
1981年に引退するまで、アメリカ国内で精力的に活動しましたが、1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問しました。
ルーマニアでは、彼女が帰国する直前まで、悪名高いニコラエ・チャウシェスクによる独裁政権が続いていましたが、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めました。
そして、イレアナの帰国直前の1989年、チャウシェスクの独裁政権は、ついにルーマニア革命によって打倒され、民主化されていました。
彼女が帰国したルーマニアは、かつて彼女が住んでいたころの栄光を取り戻しつつあり、その時代の移り変わりを彼女は目の当たりにしたことでしょう。
翌1991年1月、彼女は80歳の誕生日の夕方に秋に腰を痛めて入院。その2年後に82歳で亡くなりました。