Title: [Mushroom cloud with ships below during Operation Crossroads nuclear weapons test on Bikini Atoll]
Date Created/Published: [1946 July]
Medium: 1 photographic print.
Reproduction Number: LC-DIG-ds-02944 (digital file from original item)
写真は、1946年にビキニ環礁で行われた核実験を撮影したものです。使用された爆弾は、21キロトン級原子爆弾とされ、広島型、長崎型とほぼ同サイズです。
ビキニ環礁(Bikini Atoll)は、南太平洋のマーシャル諸島共和国に属する環礁で、位置的にはオーストラリアの北東約4,000kmにあります。ビキニ島とも呼ばれ、第二次世界大戦前の日本の海図にはピキンニ島と記述されていました。アメリカ軍による核実験で有名になり、その派生で、のちには水着のビキニという言葉も生まれました。
実験が行われた礁湖の面積は594.1平方キロメートルで、これは半径約13kmの円形ほどの大きさです。実験は、1946年から1958年にかけて行われ、その実験の数は奇しくもマーシャル諸島共和国に属する島の数、23と同じでした。
当実験が行われたことで、ビキニ環礁は、世界遺産にも登録されています。2010年、第34回世界遺産委員会において、ユネスコの世界遺産リストに登録され、マーシャル諸島共和国初の世界遺産となりました。
1946年、アメリカ合衆国は、当時信託統治領であったこのビキニ環礁を核実験場に選びました。選んだ理由は無論、他の大陸から遠く離れた場所にあり、核の影響が及びにくいからと考えたためですが、ここには先住民が住んでいました。
170人ほどの住人がいましたが、核実験を行うということで、強制的に近くのロンゲリック環礁という別の島に強制移住させられました。しかしこの新しい住処は漁業資源にも乏しく、移住させられた住民たちはその後、飢餓に直面したといいます。
ビキニ環礁で行われた最初の核実験は、1946年7月1日と7月25日の2回であり、それぞれ21キロトン級原子爆弾を用い、エイブル 実験(Able)とベーカー実験(Baker)と呼ばれました。
7月1日のエイブル実験では、核爆弾がB-29スーパーフォートレスの「ビッグ・スティンク」によって高度158mから投下され、7月25日のベーカー実験では、艦船群の中心に停泊した上陸用舟艇LSM-60から吊り下げられ、水深27mの海中で核爆弾が爆発しました。
3番目としてチャーリー実験(Charlie)が予定されていましたが、ベーカー実験において生じた放射能が予想よりも激しかったため中止されました。
なお、エイブル(Able)、ベイカー(Baker)、チャーリー(Charlie)は、米軍が使っていた識別暗号によるA、B、Cを示しています。また、実験全体は、「クロスロード作戦」と命名されました。「交差点」の意味ですが、こちらについては、どうしてこういう名前にしたのかは不明です。
この実験は、1945年のニューメキシコ州アラモゴードでの核実験および、同年、広島、長崎で実施された実弾投下に続く、史上4番目と5番目の核爆発であり、その目的は、海上の艦艇や部隊など海上戦力への被害を計測することでした。
大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾の実験であり、主要標的艦はアメリカ海軍の戦艦「ネバダ」、「アーカンソー」、「ニューヨーク」、「ペンシルベニア」、空母「サラトガ」などのほか、第二次世界大戦で接収した日本海軍の戦艦「長門」、ドイツ海軍の重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」などの接収艦も標的となりました。
そのほか、駆逐艦、潜水艦、上陸用輸送船・艦艇・舟艇なども含め、大小合わせておよそ100隻に上る艦艇が標的としてビキニ諸島に集められました。また、核爆発現象を研究するための技術的な実験も行われ、生きている実験用動物も使用されたといいます。
この実験のために、第一統合任務部隊(Joint Task Force 1)が編成され、隊員の宿舎や実験施設として150隻以上の実験支援艦艇が利用されました。動員された人員は42,000人(このうち37,000以上は海軍の人員)にも上りました。
この他の人員は、エニウェトクやクェゼリンなどの近くの環礁に滞在し、実験前のビキニ環礁もまた、リクリエーション用途や計測所として用いられていました。
しかし、当然のことながら、最初の実験の前に全ての人員はビキニ環礁と標的艦隊から退避しました。彼らは実験支援艦隊に乗り、ビキニ環礁から東に少なくとも18.5km以上離れた安全地帯で待機していました。
上述のとおり、二回目のベーカー実験は、ビキニ環礁付近に激し汚染をもたらしました。大部分の艦で予定されていた影響確認検査が行われなくなるほどであり、このため、標的艦隊の除染作業が一週間後の8月1日から実施されました。
この除染作業は、放射線検知器を装備した作業員が艦船の外面を海水で洗浄する、というものでした。しかし、汚染が激しいため、作業員が標的艦に乗艦できる時間は数分しかとれず、除染作業はなかなかはかどりませんでした。このため、時が経過するにつれ、作業員自身が軽度の放射能を帯びた海水によって汚染されるようになっていきました。
そこで、ビキニ環礁での作業を中止し、汚染されていないクェゼリン環礁へ残存標的艦を移動させるという決断が8月10日までになされ、この移動は9月までに終了しました。ここでの主作業は無論、汚染除去でしたが、このほかにも標的艦に搭載されていた弾薬を抜き取りが行われました。クェゼリンでの作業は結局、翌年の1947年まで続きました。
その後、各艦艇のダメージを調べるなどの検査が行われましたが、検査にあたり、参加人員の放射線被曝量は0.1レントゲン/日(1ミリシーベルト/日)以下に抑えられました。実験当時、0.1レントゲン/日は健康に影響を及ぼすことのなく、長期にわたる被爆に耐えられる量であると考えられていたからです。
現在、人体に影響のない程度の被爆量は、1年あたり0.1レントゲン(1ミリシーベルト)とされていますから、この当時の作業員は、一日で一年分に匹敵するほどの被爆をしていたことになります。
0.1レントゲン/日を超える値を示した作業員は、1日または数日の間安全な場所に退避させ、作業を休ませる等の対策をとったといいますが、現在ならそれでも不十分であるとして、作業は中止させられていたでしょう。
しかも、こうした被爆量の測定が行われたのは、主に被爆リスクの高い場所で作業する者だけであり、その人員は全体のわずか15パーセントにすぎませんでした。この基準に基づき、放射線被曝のおそれがない、とされた人員は約6,600人もいたとされます。
ちなみに、本実験を通して記録された最大放射線蓄積量は放射線監視モニターが示した3.72レントゲン(37.2ミリシーベルト)であったといい、これはX線CTスキャンによる撮像1回分の線量7~20ミリシーベルトの2~5倍以上の値になります。
その後、被爆した艦艇の中から、12隻の艦艇と2隻の潜水艦が選ばれ、放射能の検査のためアメリカとハワイに曳航されました。この12隻の標的艦の汚染は大変軽微であったので、乗組員が乗艦して直接操船し、アメリカまで航行することができました。
残りの標的艦は1946年から1948年の間にビキニ環礁、クェゼリン環礁、ハワイ諸島近海のいずれかで撃沈処分とされました。
その後ビキニ環礁では、1954年から4度の水爆実験が実施されました。1954年3月1日のキャッスル作戦では、広島型原子爆弾約1,000個分の爆発力の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成されました。
このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上の漁船が、死の灰を浴びて被曝し、無線長だった久保山愛吉さんがこの半年後の9月23日に死亡したほか、他の21名の船員が、「放射能症」を発症した、とされました。この第五福竜丸の被爆は、その後日本国内で反核運動が萌芽するきっかけとなりました。
この水爆実験ではまた、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになり、今日に至るまで原島民は島に戻れていません。ビキニ島の半分の面積しかない、キリ島に避難・移住を余儀なくされた400人の住民は、現在も食糧難にあえいでおり、米政府から生活保障費を受け取っています。
放射能の影響が薄れ、ビキニ島に人が居住できるようになるのは、早くても2052年頃と推定されています。
ちなみに、水着の「ビキニ」の由来は、1946年7月1日の原爆実験(クロスロード作戦)の直後の1946年7月5日に、フランスのファッションデザイナー、ルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える「破壊的威力」を原爆にたとえ、「ビキニ」と命名してこの水着を発表したためです。
今日、多くの魅惑的な女性がこの水着を着用して世の男性を悩ませていますが、その同じ名前のサンゴ礁でかつて、多くの関係者が放射能に悩まされ、今日もなお、その影響を引きずっていることをどれほどの女性たちが知っているでしょうか。