流刑地紀行

我が家のある町は、麓から車で5分ほど山道を登ったところにあり、標高200mほどであることから、いつも麓より涼しく、通常は2~3℃、時には4~5℃ほども気温が下がります。

このため、暑い夏でも快適に過ごすことができ、暑さが苦手な我々夫婦にとってはありがたい環境です。その麓の修善寺温泉街は観光地でもあります。伊豆で最も古い温泉と言われており、古刹もいくつかあることから、いつも観光客が絶えません。

最も人で賑わうのが曹洞宗の寺院、修禅寺です。源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後ここで殺害されたとされており、二人の墓があります。

源頼朝自身も罪人として囚われていた時期があり、その幽閉地は修善寺温泉から北西へ8kmほど離れた韮山の地にあったとされます。蛭ヶ小島という場所で、その昔は見渡す限り芦原が広がる沼地だったようです。

伊豆にはほかにもあちこちに罪人を配流した土地があり、これは平安時代に成立した「律令法」において、ここが遠流の対象地と定められたからです。重罪犯は、さらに伊豆諸島に流されましたが、伊豆半島はその入り口で比較的罪の軽い罪人がここへ追いやられました。

頼朝以前にも伊豆に流罪になった人は多数おり、能書家の橘逸勢(たちばなのはやなり)は、謀反を企てたとして流罪になりました。また、応天門への放火犯、伴善男(とものよしお)もここで亡くなっており、後白河天皇と対立した文覚上人も伊豆へ流されました。このほか、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)も伊豆を経て伊豆大島へ流されています。

このように罪人を辺境や島に送る追放刑のことを「流罪」といいます。流刑、配流ともいい、特に流刑地が島の場合には島流しとも呼ばれることもあります。都会に造られた獄舎に入れられるより、遠いところに取り残されるほうが生活は過酷です。生きていくための糧の少ない中一人だけで生きていかなければならず、苦痛がより大きい刑罰とされていました。

流罪は主として政治犯に適用されましたが、戦争・政争に敗れた貴人に対し、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合にも流罪が適用されました。

配流先で独り生涯を終えた流刑者は多数に上りますが、中にはそこで子孫を残したり、赦免されたりした例もあります。西郷隆盛は2度目に奄美大島に流されたとき、島の名家の娘・愛加那(あいがな)と結婚して一児を設け、その子菊次郎は後に京都市長になりました。

脱走を企てて成功した流刑者も多く、後醍醐天皇は元弘の乱で敵対勢力に捕らえられ隠岐の島に流されました。しかし脱出して建武の新政を打ち立て鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。その鎌倉幕府を創設した源頼朝もまた伊豆で再起して新政権を打ち立てています。

平安から鎌倉期にかけてのこの時代、流刑が宣告された受刑者には、居住地から遠隔地への強制移住と、1年間の徒罪(ずざい)が課されました。徒罪とは徒刑(ずけい)ともいい、律令法・五刑のうち、3番目に重い刑罰です。受刑者を一定期間獄に拘禁して、強制的に労役に服させる刑で今日の懲役と似た自由刑です。

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五刑のうち、最も重いのが死罪であり、次いで流罪、続いて徒罪、その次は杖罪(じょうざい)です。木製の杖をもって背中又は臀部を打つというもので、最も軽い刑が来て笞罪(ちざい)と呼ばれ、これはいわゆる鞭打ちです。

流刑対象者の中でも、特に悪質なものに対しては3年間の徒役も加えて課されました。妻妾は基本的には連座して強制的に同行させられましたが、他の家族は希望者のみが同道しました。配所への護送は季節毎に1回行われ、流刑地到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田(律令制において民衆へ一律に支給された農地)が与えられました。

現地の民として租税も課されましたが、現地民とみなされるようになったことから、原則的に恩赦等による帰国もありませんでした。もっとも、時には全ての罪人が赦免される「非常赦」が行われて帰国が許されることもありました。

同じ流罪でも、その境遇は受刑者を監視する監督官の匙加減で大きく変わります。源頼朝は縁者から仕送りを受けていたほか、本来禁じられている若干の側近まで置いてもらっており、ぎりぎり貴族の体面を保つ暮らしをしていました。

一方では、鹿ケ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流された藤原成経・平康頼、俊寛のように、かなり悲惨な生活を強いられることもありました。鹿ヶ谷の陰謀とは、平安時代の安元3(1177)年に京都で起こった、平家打倒のクーデター未遂事件です。

このころ、清盛を筆頭とする平家は全盛を誇っていましたが、これに対して後白河天皇は公家勢力を復権させて平家にとって代わろうと画策していました。これに加担する形で多くの反対勢力が京都、東山は鹿ヶ谷(現京都市左京区)に結集し、謀議が持たれました。

しかし、これをいち早く察知した清盛によって一味は捕らえられ、関係者全員およびその近親が処分されるところとなり、首謀者と目された後白河院の近臣、西光は斬罪、同側近の成親は備前国に流罪となり、後に謀殺されました。

清盛の弟の教盛の叔父、成経もこれに連座して備中国へ流されました。更に御白河院側近の俊寛が、同じく後白河院近習の平康頼とともに薩摩国にあったとされる「鬼界ヶ島」へ流されることになりました。そしてその後、平成経もまた同島への移送が決まりました。

「鬼界ヶ島」とはすなわち「鬼が棲む世界と人の住む世界の境界」という意味です。「平家物語」によると、島の様子は次の通りです。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。

美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所がある。山上からの景色は素晴らしい。南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延び、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちる。

後段の記述をみると、その恐ろしげな名前とは裏腹に、まるでパラダイスのような場所にさえ思えます。古代以降、日本の南端の地とされていましたが、それがどこにあったのかははっきりしません。ただ、以下の薩南諸島のふたつのいずれかではないかとする説が有力です。

硫黄島 –俊寛の銅像と俊寛堂がある。俊寛の死を哀しんだ島民が俊寛の墓を移したと場所に建てられたとされ、毎年盆には送り火を焚いて悼む行事も行われてきた。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。

喜界島 – 俊寛の墓と銅像がある。骨が出土しており、これは面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。しかし、喜界島には硫黄が取れる火山はおろか、高い山もなく、高い滝ができるほどの川も見られず、「平家物語」の記述とは大きく異なる。

これを見る限りでは鬼界ヶ島は硫黄島ではないか、と私には思えます。薩南諸島北部に位置する島で、人口は120人ほど、世帯数は60ほどです。薩摩硫黄島とも呼ばれますが、これは小笠原諸島に同名の島があり、日米両軍が激戦を交わしたこの島と区別するためです。

「吾妻鏡(正嘉2(1258)年)には、2人の武士がこの硫黄島に流刑にされたとする記述があり、その内の1人の祖父も硫黄島に流刑にされたと記録されています。このことから、平安時代末期から既にこの島が流刑地として使われていたことがわかります。

東西5.5km、南北4.0kmで、主峰の硫黄岳(703.7m)は常時噴煙を上げており、亜硫酸ガスによってしばしば農作物に被害が発生します。また、周辺の海は硫黄が沈殿して黄色く見えることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、これが「鬼界ヶ島」に書き換えられたとされます。

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この島に流罪となった俊寛を題材にした「平家女護島」(へいけにょごしま)という浄瑠璃があります。俊寛を題材にして近松門左衛門が人形浄瑠璃に仕立てたもので、享保4(1719)年に大坂竹本座で初演されてヒットしましたが、そのストーリーは以下のようなものです。

平家転覆を企んだ俊寛、平成経、平康頼の三人が鬼界ヶ島に流され、早三年が過ぎようとしていた。彼らの流罪には刑期がなく、死ぬまでこの島にいなければならない。食べることもままならず、時たまやって来る船に硫黄売って食いつないだり、海草を食べ暮らしていた。

あるとき、三人の一人、成経がここに住む海女で千鳥という女と結婚することを他の二人に打ち明けた。絶望的な状況の中で起こった数少ない慶事であり、これを三人は歓びあった。そして形ばかりのこととはいえ、成経と千鳥は俊寛と康頼の前で祝言の杯を交わした。

するとそこへ、大きな船が島を目指してやってくるのが見えた。何事かと皆は驚くがそれは都からの船であった。船が浜辺に着くと中から使者の妹尾太郎兼康が降りてきた。妹尾は早くから平氏に仕え、鳥羽上皇とその官女との間に生まれた高級官僚である。

妹尾は、建礼門院(平清盛の娘)が懐妊したため、彼らの流罪を恩赦にする、という清盛の赦免状を持っていた。それを読んで夢かと喜びあう三人だったが、その中にはなぜか俊寛の名前だけない。何度も内容を確認するが、やはり俊寛の名だけが見当たらない。

清盛から目をかけられていた俊寛は陰で密に平家打倒を企てていた。そのことは許されることではない、それゆえ恩赦を受けられなかったのだ、と妹尾は憎々しげに言い放つ。青ざめる俊寛。一時の喜びも突然のこの暗転によって消え去り、打ちひしがれて泣き崩れる。

だがそこへもう一人の使者である丹左衛門尉基康(たんさえもんのじょうもとやす)が船から降りてきて、俊寛にも赦免状が降りた、と伝える。俊寛にだけ恩赦が与えられないのを見兼ねた清盛の嫡男、平重盛が別途、俊寛にも赦免状を書いていたのだ。

これで皆が帰れる。そう安堵して三人が船に乗り込み、千鳥がそれに続こうとすると、それを妹尾が止める。またも憎々しげに言うには、重盛の赦免状には「三人を船に乗せる」としか書いておらず、そう書いてある以上、四人目の千鳥は乗せることはできないというのだ。

嘆きあう三人と千鳥に、妹尾の言葉がさらに追い撃ちをかける。俊寛の妻の東屋が亡くなったというのだ。しかも清盛の命により東屋を斬り捨てたのは妹尾自身だという。いつかきっと都で妻と再び暮らす、そんな夢さえも打ち砕かれた俊寛は、再度絶望に打ちひしがれる。

妻のない都に何の未練もなくなった俊寛は、自分は島に残るから代わりに千鳥を船に乗せてくれと訴える。しかし妹尾は拒絶し俊寛を罵倒する。思い詰めた俊寛は、妹尾の刀を奪って彼を斬り殺す。そしてその罪により自分は残るから千鳥を船に乗せるよう、基康に頼んだ。

こうして千鳥は乗船を許され、俊寛のみを残して船が出発する。しかしいざ船が動き出すと、俊寛は言い知れぬ孤独感にさいなまれ、半狂乱になる。手綱をたぐりよせ船を止めようとするが、無情にも船は遠ざかる。孤独への不安と絶望に叫び、船を追うが波に阻まれてしまう。

船が見えなくなるまで呼び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へ登り船を追い続ける。ついに船がみえなくなり、俊寛の絶望的な叫びとともに日は暮れていく…

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この物語は本来なら船が出ていくところで終わるはずですが、そこで終わりではなく、船が出るや一転して俊寛が取り乱すという結末になっています。俊寛の人としての弱さと未練を締めとしたところが高く評価されており、数多くの浄瑠璃や歌舞伎を生み出し、東洋のシェークスピアと称された劇作家、近松門左衛門の面目躍如の作品といわれています。

史実としての俊寛は、その後自ら命を絶っています。成経や康頼が島を去ったあと、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、その折俊寛は娘からの手紙を受け取りました。上の話では妹尾が俊寛の妻の死を語ることになっていますが、実際にはこの手紙で妻の死を知った俊寛は絶望し、食を断ってひたすら阿弥陀の名号を唱えながら37歳の生涯を終えました。

平安時代の南方方面への流刑は鬼ヶ島以外にも行われていたようで、奄美群島に位置する沖永良部島でも遠島が行われたという記録があり、おそらくここが最南端だったでしょう。

では、北端はどこだったかといえば、「外が浜」がそれであったとされます。現在の 陸奥湾西方にある津軽半島の一部を指す古来の地名で、現代の自治体としては、青森市・蓬田村、外ヶ浜町、今別町、平内町などです。これらはいずれも津軽半島の北のはずれにあたります。
地名の由来は、国土の終端を意味する「率土の浜(そっとのひん)」と考えられています。

中世には、「穢れ」の思想が強まり、「外が浜」は穢れたモノの筆頭としての鬼が棲む地と目されていました。鬼はタブーとして遠ざけられる存在であり、そんな物の怪が棲む場所へ追放されるというのは究極の流刑です。和歌においては、こうした僻地に追いやられた人々に抒情を感じるとして多くの歌人がこの辺縁の地を歌に詠みました。

「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(西行)
「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」(藤原定家)

定家の歌の「うとう」とは海鳥・ウトウのことですが、歌詠みの間では、外が浜と同じく、最果ての国の代名詞として使われていました。漢字では「善知鳥」と書き、別名「ウトウヤスカタ」とも呼ばれます。体長は40cmほどで、夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができます。アイヌ語でウトウといえば「突起」という意味があります。

長野県塩尻市にも善知鳥峠という標高889mの峠があります。北側(塩尻市側)が急で、南側(辰野市側)は緩くなっていて、その名称は以下の猟師にまつわる民話に基づいています。

ひとりの猟師が北の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴って都に売りに行った。このとき、親鳥が猟師の後を追ってきて、わが子を取り戻そうと「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けた。
親子はこれにかまわず険しい峠道に差しかかったが、このときから激しい吹雪に襲われた。

そんな中でも、親鳥はなおも「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けながら追いかけ、その声は麓の村まで響き渡った。吹雪の収まったあと、村人たちが峠に登ってみると、猟師は吹雪のなかで力尽き、わが子に覆いかぶさるように死んでおり、息子はその下で泣きじゃくっていた。

またそのすぐ脇には、死んだ親鳥の姿もあった。同じように下に雛鳥を抱えており、雛は生きて鳴き続けていた。命を賭してわが子を吹雪から守った姿を見た村人たちは、その鳥を猟師とともに手厚く弔い、のちにこの峠を「善知鳥峠」と呼ぶようになった。

室町時代にも能の演目で善知鳥にまつわるものが作られています。旅の僧侶が途中の山で亡霊に出会うという話で、亡霊はかつて猟師で善知鳥を捕獲して生計を立てていました。

ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用し、声真似をして雛鳥を捕まえていました。しかし死後、その悪どいやり方を咎められて地獄に落ち、そこで鬼と化したウトウに苦しめられるようになっていました。

猟師の亡霊は僧侶に地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆き、助けを求めながら消えていく…という話です。別バージョンもあり、その中では猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわります。猟師はその雨から逃れるため蓑笠が必要になったというオチがつきます。

実際のウトウという鳥は、その繁殖地で断崖の上の地面に穴を斜めに掘って巣にします。メスは一度に一個だけここに産卵して両親が交代で45日抱卵します。ヒナが孵化すると、今度は巣立ちまでの約50日間餌を運ぶという子煩悩な鳥です。

ウトウは水中を泳ぎまわって小魚やイカなどを捕食します。繁殖期になると親鳥はイワシやイカナゴを嘴に大量にぶらさげ、鳴き声をあげながら帰ってきます。雛はその声を聞いて出てきますが、「ヤスカタ」と鳴くかといえばそんなことはありません。親鳥は「ウウウウッブェッーッ」鳴き、雛の声はヒヨコの声をソプラノに振ったような声で鳴きます。

それにしてもなぜ、「ウトウヤスカタ」なのか調べてみたところ、これは青森市安方にある善知鳥神社の言い伝えに起因しているようです。その縁起によれば、その昔、烏頭大納言藤原安方朝臣という身分の高い人物が罪を犯し、都から流された後に、安方の浜で没しました。

すると、不思議な鳥が浜辺に降り立つようになり、雄は「ウトウ」、雌は「ヤスタカ」と鳴く事から、藤原安方にちなんでその鳥を「烏頭鳥=善知鳥」と呼ぶようになったといいます。

人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬いましたが、ある日猟師が誤って雄鳥を鉄砲で狙って殺してしまい、他の雄鳥達は急に凶暴化して田畑を荒らすようになりました。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた村人達は雄鳥を丁重にその霊を慰めるため、「うとう明神」として祀り、のちには雄鳥も祭るようになり、その後善知鳥神社と呼ばれるようになりました。

この善知鳥神社は、その昔青函連絡船の発着場があったところからほど近く青森市の中心部にあります。津軽藩の2代目藩主、津軽信枚がここに港を作り発展したため、青森の発祥の地ともいわれています。創建年ははっきりとわからないようですが、航海安全の神として知られる市杵島姫命・多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神を主祭神として祀っています。

版画家・棟方志功は、幼少期をこの神社の近くに住んでおり、よくその境内で遊んでいたそうで、この神社界隈のスケッチを好んで描いていたといいます。昭和13(1938)年に善知鳥版画巻という版画集を帝展に出品しており、これは特選となっています。

まとまったものをどこかで展示しているかどうか調べてみましたがよくわかりません。ただその一部はネットで流通しており、高い値段で取引されているようです。

皆さんもウトウとしていないで、探してみてはいかがでしょうか。

孤独なやつら

先日のブログで書いた山頭火の生涯をみると、どうしても「世捨て人」という言葉が頭に浮かんできます。

「世捨て人」は英語では、“anchorite”といい、同じく英語の類義語には“hermit” というものもあります。こちらは「隠者」と訳され、いずれも古き時代の知識人を表す言葉であって生活の在り方は似てはいますが、本来別のものです。

そもそも、こうした人々が現れたのは、中世ヨーロッパで広く普及したキリスト教のためです。この宗教は貧困に積極的な価値を与えており、とくに財貨や家郷も捨てて貧困を求めることを潔しとしました。生活苦による貧窮などではなく、自発的に質素な生活を送ることを是としたこの思想からは色々な生きざまが生み出されましたが、そのひとつが「隠者」です。

富を捨て、一般社会との関係を絶つことを「隠遁(いんとん)」といいます。本来は質素な生活の中で生の全てを神への賛美と愛に捧げるという意味の宗教用語であり、キリスト教ではその根拠を聖書に求めました。隠者達はこの中でもとくに旧約聖書に書かれた「砂漠の神学」というものを信奉し、それを学ぶために隠遁生活を送るようになりました。

その起源は、西暦250年ごろ、エジプトで生まれた大アントニオスと呼ばれる聖者だとされます。アントニオスは20歳になった頃両親と死別、その後財産を貧しい者に与えました。そして自らは砂漠に籠もり、105歳で亡くなるまで苦行生活に身を投じたといいます。

隠者を意味する“hermit”は、「人里離れた」、「そして砂漠に住むもの」という意味のラテン語が語源です。かつてのキリスト教徒の隠者は、この大アントニオスにあやかり、「隠者の庵」と呼ばれる人里から隔絶された場所に住むことに生きる意味を見出そうとしました。

その庵は文字通り砂漠の中にあり、あるいは森の中や自然の洞窟であったりしました。富を捨て、高い宗教的な信念を持つ彼らは人々の尊敬を集め、精神的な助言や答申を得るため、あるいは弟子になるため遠路はるばる訪ねてくる人も多数ありました。しかしあまりに多くの弟子をとったために、物質的な意味では孤独ではなくなってしまう隠者もいました。

物質的といえば、隠者といえども食がなければ生きてはいけません。このため初期の隠者達は蔓や小枝で籠を織り、これとパンと交換して生計を立てていたとされます。

もともとは砂漠の民でしたが、やがては町中に住まうようになる隠者も出てきました。生計を立てるためには籠編みだけでは苦しいため、やがては門番や渡し守といった仕事をするようになり、町に住みついて人目にも頻繁にふれるようになっていきました。そしてこうした隠者のことを人々は「世捨て人」と呼ぶようになっていきます。

世捨て人たちはたいてい教会の敷地の中に建てられた小さなあばら家か独居房に住んでいました。聖壇の裏に設けられており、そこに小さな窓が備えられていました。世捨て人を人目にさらすことなくミサ(典礼)に参加させ、聖餐に与らせることができるようにする仕組みです。世捨て人の助言を求める人はその窓を使って彼・彼女に相談することができました。

独居房には、もう一つの窓が通りか共同墓地に開かれており、慈悲深い街の人たちが食料その他の生活必需品を届けてくれました。彼らの生活はこれによって成り立っており、それは教会との約束、もしくは契約の上で成立する生活でした。そうした意味で、この時代の世捨て人というのは、ある種の「職業」といっていいかもしれません。




中世のヨーロッパでは、こうした隠者や世捨て人が普通に見られましたが、一方では隠遁者になるのは実は非常に難しいと考えられていました。それなりの学識が必要だからです。それだけに憧れを持つ人も多くいましたが、教養というものは一朝一夕で身に着きません。

そこで、「巡礼」というものがこのころ流行り始めました。日常的な生活空間を一時的に離れて、聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動です。より高尚な言い方をすると、「日常の俗空間から離脱し、非日常空間あるいは聖空間に入り、そこで聖なるものに接近・接触し、再びもとの日常空間・俗空間に復帰する行為」です。

一時的な世捨て人ともいえ、領主権力からも共同体からもその保護を離れ、いわば個人として社会に露出した状態です。ただ単に旅に出るだけなら高度な教養を身に着ける必要はなく、思い切って家を出れば、世捨て人と同じように他人にはばかられることなく神と対面できます。いわば世捨て人の大衆版であり、多くの人がそうした流浪の旅を夢見ました。

こうした巡礼は世界中の宗教にみられます。共通点は、宗教儀礼であるという点であり、多くの場合目的地を伴います。たとえばキリスト教やイスラム教のように一つの聖地を訪れる直線型のほか、インドや東洋で見られる複数の聖地を巡る回遊型があります。日本の四国のお遍路も巡礼のひとつであり、こちらも回遊型といえます。

ところがこうした宗教や目的地に縛られることなく旅に出て自らを開放したいという人々もおり、こうした人たちの旅は、巡礼とはいわず、「放浪」と呼びます。あてもなくさまよい歩くことであり、英語では“wandering”で 、「放浪者」は“wanderer”です。日本語では、さすらい、流浪、彷徨ということもあります。

本来、欧米では家畜を保有する遊牧民が生活のために行う行為でした。このため“nomad”(ノマド )という言葉もあり、これは牧歌的放浪を意味します。ほかに放浪を意味する言葉には“roam(ローム)”、や“vagabond(バガボンド)”、“stroll(ストロール)”、“drifter(ドリフター)”などがあり、それぞれニュアンスは異なり、微妙な使い分けをします。

例えばロームは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ストロールとは、散歩などの場合にぶらつくというような場合に使います。またドリフター、バガボンドなどはそれぞれ日本語では、漂泊者、異邦人といったふうに訳されます。

「放浪」はこれらの総称といってもいいでしょう。何のための放浪かといえば、巡礼のように何か目的があってのものではありません。目的があるとは限らず、人生の意味を求めて、といった漠然としたものもあり、特に何の意図を持たずに放浪を繰り返す場合もあります。

こうした放浪の旅をする人達の中には、そこでの体験やそこから得た印象を文学や絵画、その他の芸術に反映させて輝く人もいます。放浪を愛する文化人は古今東西後を絶ちません。
日本では西行法師がおり、俳人の松尾芭蕉や井上井月、現代では画家の下清や棋士の間宮純一などがいます。山頭火とその兄弟弟子の尾崎放哉も晩年放浪生活を送っています。




こうした放浪者に共通しているのは、周囲の人間との関わりを絶ち、できる限り「孤独」になりたがるという点です。この点、世捨て人や隠者も同じであり、修行の一環として自ら人間関係を断ち、孤独に籠もります。こうした行為は世界中でみられます。

インドでは、放浪の旅に出て瞑想の修行や苦行に励む人々がおり、僻地で一人でいる姿を現在でも目にすることができます。お釈迦様も孤独な苦行を体験し、最終的に辿り着いた境地、涅槃(ニルヴァーナ)も菩提樹の下に一人で居たときに得たとされています。日本でも山伏のような行者が修験道のため山に一人で籠って修行をします。

また「哲学」をするために孤独になる、ということもよく言われます。ドイツの哲学者マックス・シュティルナーは「孤独は、知恵の最善の乳母である」という格言を残しています。孤独状態において人間は自分の存在などについて深く考えることができるようです。

その結果、創造性、想像力などが身につくと多くの哲人は結論付けており、このような精神の働きは心理学的にみると「昇華」と呼ばれています。孤独であることから生み出され、花(華)開いた芸術作品は数多く存在します。

放浪を愛する人たちは、こうした寂寞とした心理を表現することに秀でています。孤独によって「増した愛」を濃密に描き出すことで芸術の極みを達成するのです。このため人によっては、人知を超えた高次の存在を表現することに成功する人もいます。

こうした「望んで孤独を楽しむ」という文化性は、日本や中国などの東洋よりも個人主義の傾向が強い欧米のほうが顕著なようです。例えば、イギリスでは、社交会場にて壁際で佇んでいる人にむやみに声を掛けることは、むしろマナー違反とみなされる場合があります。せっかく孤独を愛しているのに邪魔をしては悪いと判断して放っておくのです。

一方「同胞社会」の日本では、孤独は社会から孤立していることと同義に扱われる傾向が強いようです。日本と同じように孤独が「良くない状態」として見られる社会や文化は多く、孤独と見られる状態にある者には、積極的に他者が働き掛けることこそが美徳とされます。

孤独な人には悪霊が付くと信じている民族もおり、南太平洋のトロブリアンド諸島やアマゾンの先住民などがそれで、呪術的な意味合いから孤独な人に「声を掛ける」といいます。
ただ、孤独といっても、多くの状態や種類があります。孤独感には自分と他者・世界との関係で捉えたものや、自分ひとりの中で完結する孤独など様々な視点からのものがあります。

大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない、理解されていないと感じている場合、たとえ他人がその人物と交流があると思っていても、当人がそれを感じ得なければ、孤独です。その逆もありえなくはありません。自分は孤独ではないと思っていても、周囲から孤立している場合のそれは孤独といえます。

孤独な人を周囲はとかく助けてあげたくなり、すぐに声をかけがちです。しかし、暗く沈んだ気持ちの孤独者への励ましは、むしろストレスとなることもあります。特に鬱病の人に対してはついつい激励をしてしまいがちですが、医学的にはむしろ禁忌だそうです。

いわゆる「引きこもり」もそうしたうつ精神疾患の一つといえ、日本では深刻な社会問題になりつつあります。内閣府の調査では15歳~39歳の若年層では、推計で54万人強、40歳~64歳の中高年層でも推計で61万以上の引きこもりがいるといいわれています。

一般的には「長期間にわたり自宅や自室にこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと」ですが、厚生労働省は、「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」とやや具体的に定義しています。

この「さまざまな要因」というところがまさにポイントです。うつ病は一般的には精神疾患と捉えられる向きが多いのに対し、「ひきこもり」は、単純な(あるいは単一な)疾患や障害ではなく、多岐多様な原因があると考える研究者が多いようです。



こうした問題を研究する国の機関、国立精神・神経センター精神保健研究所などもそうした見解を持っています。「ひきこもり」の原因や実体は多彩であり、明確な疾患や障害として割り切ることができないケースが多いと言っています。

また、「長期化」することを特徴としてあげています。この長期化は物的側面、心理的側面からだけでなく、社会的側面などから理解すべきであり、病気として扱うよりもむしろ「精神保健福祉の対象」と考えるべきだとし、医者が扱う類のものではなく福祉の対象として考え、例えば社会福祉士のような立場の人が扱うような問題であるとしています。

このため、面接や電話相談、家庭訪問、家族やグループによる心理的教育のほか、緊急時には保健所や精神保健福祉センターに助けを求めることを推奨しています。またこれらの機関が開催するケア会議によって介入、保護、分離などの選択をします。「治療」ではなく社会全体で個人を支える福祉的な対策の方向性が示されているのです。

ひきこもりは病気ではないんだよ、みんなで考えていけば元の世界に戻れるんだよ、と本人だけでなく、周囲も理解することがその解消につながっていくというわけです。

それにしても、引きこもりというのはどういう人たちがなりやすいのでしょうか。

上の病気ではないという主張と矛盾しますが、一般的には、児童青年期に発症する精神疾患に原因があるとされています。また、引きこもりとの明確な関連性は明らかになってはいないものの、発達障害や適応障害、パーソナリティ障害、統合失調症といったよく見られる精神疾患の他、ゲーム依存症、インターネット依存症などが引き金になると考えられています。

さらに、健全な親子関係の構築に失敗した家庭では引きこもりが発生しやすいといわれています。これは、親子という上下関係の不明確な家庭で育つことにより、人間関係の構築の基礎ができず、人間不信になった状態です。

いじめがきっかけで引きこもりが発生するケースも多く、学齢期に不登校だった状態がそのまま続いてひきこもりになる人が多くいます。一方、社会人になった後に引きこもりになる人も少なくはなく、職場の人間関係の悪化や、セクハラ、リストラなどの要因から心をすり減らし引きこもりになった人も多いようです。

加えて日本では「追い出し部屋」というのがあります。これは従業員を「自己都合退職」に追い込み、「会社都合」で退職させないための部署で、ここへ配属されたことで引きこもりになる人も多いようです。日本では終身雇用のレースから外れると不利な境遇に陥ることも多く、いったん社会の枠組みから離脱してしまうと、引きこもり予備軍になりがちです。

厚生労働省の調査によれば、引きこもりになる人には男性の方が多く、全体での割合は6〜8割だといます。また、高学歴の両親がいる家庭に多い傾向にあり、さらに従来は30歳以下の若年層が多かったのに対し、最近は高齢化が進んでいることが指摘されています。

これは、高齢になってから引きこもりになるのではなく、若いころに引きこもりになったまま年齢を重ねて高齢になる人が増えているということを示しています。事実、引きこもりの平均年齢は年々高齢化しており、また当事者を養っている親も高齢化しています。

養い親が老年期に入ると、経済的・体力的に行き詰まってしまう場合があります。このため、当事者である無職の子が親の死後に衰弱死・自殺したり、親の死を届け出ずに罪に問われるケースなども報告されています。親が死去した場合、死亡届以外にも多数の手続きがあり、社会的能力の低い人間にとっては自力で解決することは難しくなります。

さらに、引きこもりの子を持つ家庭では「家の恥」だという意識からこれを隠そうとする傾向があります。当事者も家族も「自分は問題になっていない」「引きこもっているわけではない」と思いこんで相談しないため、問題が表面化しないのです。

老年退職後、友人にも会社の同僚にも誰にも問題を相談できないまま、次第に人脈を失い情報も途絶えていく人も多いようです。こうした場合、家族ごと引きこもり状態になって埋もれていき、最後には行き詰まって、心中や餓死といった悲劇が起きることさえあります。

めったに外出もせず外で見かけないので、近所からは一人暮らしだと思われていた家で、実際には引きこもりの子供がおり、親子が死んではじめてその存在が明らかになる、といったショッキングな事例もあります。

一方、こうした引きこもりについては、「甘えている」、「怠けている」、「親の育て方が悪い」、「自己責任がとれていない」、といったふうに受け取る人も多いようです。引きこもりは犯罪予備軍という誤解を持つ人すらいます。

実際、AKB48握手会傷害事件(2014)、東海道新幹線車内殺傷事件(2018)、川崎市登戸通り魔事件(2019)の犯人は引きこもりの生活状態や経験があったそうです。引きこもりが起こした事件が大々的に報道されるたびに彼らはさらに引きこもるようになっていきます。

深刻な社会問題として発展しつつある引きこもりに対しての対策を国も考えてはきているようですが、具体的な対策については、まだ試行が始まったばかりで先は見えません。



実はこうした引きこもり問題は日本だけではなく、世界的な問題にもなりつつあります。イギリスやイタリアなどでも目立ってきており、同様の現象は、韓国、台湾、香港、アメリカ合衆国、オーストラリアなど多くの国、特に先進国で普通にみられるようになってきました。

オックスフォード英語辞典には「hikikomori」の表記で収録されています。そこには“社会との接触を異常なまでに避けること”、“一般的には若い男性に多い”という説明がなされているそうです。こうした有名辞典への収録は、世界的な風潮である証拠です。

こうした世界的な引きこもり拡大を背景に、引きこもりに関する研究も進んできました。海外での最近の研究では、孤独感を感じるといった感受性は「他人を信頼できるか」といった相手の人格や感情への「期待」と関係があることが分かってきています。

有益な交友関係を築くことを「ソーシャルキャピタル」といいます。その量や質が引きこもりと関係がある、という説があり、ソーシャルキャピタルは、主観的な「幸福量」を決定する上で重要なファクターで、これが欠落した状態は幸福量が少ない状態といえます。その減少によって人によっては心身の健康を害し、やがては引きこもりになっていきます。

このほか、孤独感の感じやすさは、怒り、恐れ、喜び、悲しみといった情動系よりも、目などの社会信号を知覚する部位に関係があるようだ、とする研究成果もあります。このことは、人と目線を合わせる、といったことだけで、孤独感が和らげられる可能性を示しています。

年齢を重ねると、相方を失う人もおり、また何かと意欲が薄れて活動が鈍くなります。結果として交際範囲が縮小して人や社会とのつながりが減少し、孤独感を感じやすくなります。

残り少なくなった人生の時間的な展望の中では孤独に陥ってしまいがちですが、こうしたときこそ、積極的に外に出ていくべきです。いつもの普段着ではなく、たまにはおしゃれして外出し、すれ違う人たちと目線を合わせるだけで、孤独感は和らぐに違いありません。

秋も深まってきました。暖かくして外に出かけ、道行く人に微笑みかけてみてはいかがでしょうか。

バカボンド

最近、実家がある山口の防府天満宮の周辺がきれいに再整備された、という話を雑誌で知りました。

防府天満宮は、山口県の中南部、防府(ほうふ)市内にある神社です。菅原道真は大宰府に左遷される途中、防府の地に立ち寄ったとされ、道真の没後に「松崎天神」の名で創建されました。

道真が亡くなった翌年の904(延喜2)年がその創建年です。没地である福岡の大宰府で大宰府天満宮が創られたのが919(延喜19)年ですから、「日本最初に創建された天神様」ということになります。天神様といえば、京都の北野天満宮も有名ですが、太宰府天満宮と合わせ、この三社は日本三大天神と呼ばれています。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた門前町です。戦前は山口県下最大の都市である下関市と中国地方の拠点都市である広島市の中間点として銀行や企業の支店・営業所も多く設けられていました。

古くは「三田尻」と呼ばれ、天然の良港であったここは、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍の本拠地でした。幕末には、長州藩が幕府対策のためここに臨時の政庁を構えたこともあります。

瀬戸内海に面しているため、海岸に近い場所ではさかんに製塩が行なわれ、これを原資として町は栄えました。昭和に入り製塩業が廃れたあと、臨海部の塩田跡地には大規模工場の進出が相次ぎ、今度はこれで町が潤いました。

近年ではマツダ防府工場のほか、その他の輸送関連企業、ブリヂストン、協和発酵バイオ、東海カーボンなどの大手企業がここに工場を持っています。人口10万人ほどの町ですが、かなりの割合の人々がこれらの企業もしくは関連企業に勤めています。

山陽本線の防府駅周辺には毛利邸(毛利博物館)、国分寺(周防国分寺)などの観光スポットもあることから、年間を通じてそれなりの観光客がここを訪れます。天満宮への参拝者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録したこともあります。




神社の周辺は「松崎地区」と呼ばれており、その表参道の入り口がある道路は、少し前までは国道への抜け道として使われており、制限速度を超える通過車両が絶えませんでした。

これを懸念した防府市が、単なる自動車の通り抜け道路ではなく、歩行者が安全に街の回遊を楽しめる道路とすることを目指しました。また、イベントなどでにぎわいを創出できるような機能を付加することも検討されました。その結果新プランがまとまり工事に着手、2019年9月にこの街路は生まれ変わりました。

歩車道の境には段差がなく、全面がフラットな状態となり、縁石や柵もないこの道路は16mも幅があります。これまでは狭い歩道を行き交う車に注意しながら天満宮へ向かっていた歩行者が、こうした車の往来をまったく気にすることがなく、安心して参拝できるようになりました。

見違えるように蘇った街並みは「風致地区」としても整備され、その一角には「まちの駅 梅テラス」などの物産店なども誘致されています。

この道路の南側にはまた、並行して「山頭火の小道」という散策路が整備されています。防府の生んだ漂白の自由律俳人・種田山頭火が、生家から小学校まで通った路地裏の1キロ足らずの道です。たどりやすいように辻々には「足跡」の目印が新設され、小径沿いの民家の塀や壁には、故郷を詠んだ山頭火の句が多数掛けられています。

防府は新幹線こそ止まりませんが、3駅隣りの新山口駅で新幹線から乗換え、在来の山陽本線に乗れば15分ほどで着きます。山頭火の小道のある防府天満宮周辺へは、ここから歩いて20分ほどです。途中、上で紹介した、再整備されたばかりの松崎地区を通ります。山口における新観光スポットです。ぜひ一度訪れてみてください。

この山頭火ですが、防府駅前には銅像が立つほどこの町では有名です。無論、全国的にも有名な俳人であり、同じく自由律俳句を詠った尾崎放哉(ほうさい)とともに、新傾向派の俳人として一世を風靡しました。尾崎放哉と山頭火はともに荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)門下にあり、萩原が創刊した自由律の俳誌「層雲」で有名になりました。

師の荻原井泉水は山頭火や尾崎放哉の名に隠れてあまり知られていませんが、自由律俳句のパイオニアとして知られる人物です。二人のほかに正岡子規の高弟として知られる河東碧梧桐も、一時期その門下にありました。

山頭火というのは本名ではなく、1882(明治15)年12月3日に生を受けたときに父母からもらった名は「種田正一」といいます。山頭火の名は、29歳のときに俳人デビューしたときに初めて使った名で、これは中国に起源を発する「納音(なっちん)」という占いに発想を得たものです。

生まれ年や月・日などの組み合わせからなる30の納音の一つである「山頭火」は甲戌・乙亥(きのえいぬ・きのとい)の組み合わせになります。ただ、山頭火の生まれ年の納音は「楊柳木」であり、「山頭火」は、その字面を彼が気に入って選んだだけです。

ちなみに、納音によるある占いサイトによれば、楊柳木の人の性格は、「好奇心が旺盛で、新しい事柄を常に吸収しようとする。ただ、流れに身をまかせるため、その場の勢いに流されが。」だそうです。

また、山頭火は、「ひときわ目立つ、または異色な存在。理想が相当高く、内面はパワーに満ちていて相当な野心家。孤独を愛するナルシストで、人に支持されることで活躍の場が広がる」となっています。

どちらも当たっているような気がしますが、「孤独を愛するナルシスト」というのはとくにぴったりなかんじがします。また多くの人に支持されたことでその活躍の場を広げた、といったことも当たっています。名を変える、というのはそれなりに人生を変える効果があるのかもしれません。




この山頭火が生まれたのは、上の「山頭火の小道」の西の終点付近です。天満宮の参道入り口から西へ600mほど行ったところになります。父・竹治郎はこの地の大地主で、種田家は地域の人々からは「大種田」と尊敬され、幼いころの山頭火は多くの使用人に囲まれて成人しました。

父竹次郎は役場に勤めており、その関係から時の政友会とのつながりができました。やがて自らも政治にかかわるようになり、熱くのめりこむようになっていきました。女癖が悪く、政治と女道楽に放蕩の限りをつくしたあげく、嵩んでいった出費によってやがて屋台骨はぐらついていきました。

妻はフサといいました。こうした夫の放蕩に心を痛めるとともに義母からも「嫁のお前が悪いから」と責められ、やがてその責に耐えかねて屋敷内の古井戸に身を投げてしまいます。山頭火11才のときのことであり、のちに山頭火が放浪の生活を送るようになったのは、この母の自殺が遠因にあるといわれています。

14歳で、三年生中学の私立周陽学舎(現県立防府高校)へ入学。このころから本格的に俳句を始めました。ここを首席で卒業後、20キロ離れた山口市内にある県立山口尋常中学(現県立山口高校)の四年級へ編入。

防府から離れていたともあり、ここではあまり親しい学友もおらず、週末になると土曜日には防府と山口の間にあるトンネルを抜けて実家のある防府へ帰るのが常だったといいます。ちなみに、このトンネルは佐波山トンネルといい、山陽にある防府と県庁のある山口を結ぶために1887(明治20)年、に完成しました。

かつては佐波山洞道と呼ばれ、その長さ518mは、開通当時道路トンネルとしては日本第3の長さでした。2009年の平成21年7月中国・九州北部豪雨の際はこのトンネル周辺で鉄砲水が出て、死傷者を出したことで全国的に名を知られました。

山口尋常中学は長州藩の藩校である「山口明倫館」が前身であり、山口高校となった現在でも県下屈指の名門校として知られています。山頭火は19歳でここを卒業すると、東京へ出て私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科へ入学しました。

翌年同予科を卒業すると早稲田大学文学部文学科に入学しますが、神経衰弱のため退学。しばらく東京に留まりまっていましたが、やがて生活費も底をつき、山口へと帰郷しました。

この頃、その生家は相場取り引きに失敗して没落していました。父の竹次郎はその立て直しのために先祖代々の家屋敷を売り、これを元手に近くの大道村(防府市大道)にあった古い酒造場を買収し、「種田酒造場」として酒造業を始めました。山頭火にはほかに4人の兄妹がおり、一家でこの工場に移り住んで、父を手伝い始めました。

翌1909(明治42)年、27歳になった山頭火は、佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女サキノと結婚しました。このサキノとの間には翌年に子供ができ、健(たけし)と名付けられました。

結婚して一児を得るという慶事が続きましたが、このころ父の始めた酒造業はあまりかんばしい状態ではありませんでした。もともと勤勉な性格ではなく、所詮は親のすねかじりで育ったおぼっちゃんに地道な商売ができるわけはありません。酒造場を購入して余った金は運転資金としてストックしていましたが、それもすぐに尽きてしまいました。

一方このころ、山頭火は徐々に俳人としての才能を見せ始めていました。1911(明治44)年、29歳のとき、 防府の郷土文芸誌「青年」が創刊になると、これに定型句を寄稿しました。またこのころ初めて「山頭火」の名で外国文学の翻訳を発表しています。

それから2年後には 荻原井泉水が主宰・発行する全国誌「層雲」に、初めて彼の投稿句が掲載されました。荻原に認められた山頭火は、このころから俳号にも「山頭火」を使い始め、編集兼発行人として個人で文芸誌「郷土」を創刊。「層雲」でも頭角を現し、俳句選者の一人にまでなりました。

ところがちょうどこのころ実家の「種田酒造場」が倒産。父は家出し、ほかにいた4人の兄妹も離散してしまします。山頭火は妻子を連れて夜逃げ同然で九州に渡り、友人を頼って古書店を熊本市内に開業しますがこれも失敗。後に額縁店を始めますがこれも失敗し、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京、薄給で図書館勤務をするようになりました。

山頭火38歳。やがてこのころ住んでいた下宿に熊本にいる妻から離婚状が届きます。八方塞がりとなった山頭火は神経症を患うようになり、勤めていた図書館も退職。さらに追い打ちをかけるように翌1923(大正12年)には関東大震災に遭って焼け出されてしまいます。

途方に暮れた彼は熊本に帰り、頭を下げて元妻フサの家の居候となりました。このころ山頭火は、熊本市内で泥酔し市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こします。

一説によれば生活苦による自殺未遂だったのではないかといわれていますが、急停止により市電の中で転倒した乗客たちは怒って彼を取り囲みました。このときたまたまその市電に乗っていたのが顔見知りの新聞記者で、見かねた彼は山頭火を市内の知り合いの寺に連れていきました。

この寺は禅寺で、曹洞宗報恩寺といいました。ここの住職望月義庵師の得度を受け、翌年出家して耕畝(こうほ)と改名。同じ曹洞宗瑞の寺で熊本郊外にある泉寺内の味取(みとり)観音堂の堂守となりました。しかし堂守をやっているだけでは食べてはいけません。このため、山頭火は町へ出ては托鉢(たくはつ)を続けるようになりました。



それから1年余が経った1926(昭和元)年の春、尾崎放哉が41歳の若さで死去。山頭火はこの3歳年下の兄弟弟子の死に大きなショックを受けます。と同時に晩年放浪を続けていた放哉が作り上げた作品世界に改めて共感し、自らも旅に出ることを決心します。

法衣と笠をまとうと鉄鉢を持ち、寺を出て旅立ったのが1925(大正)15年のことで、山頭火は43歳になっていました。バガボンド(漂泊者)の誕生です。

このとき詠んだ句が、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」というものです。行乞(ぎょうこつ)とは、食べ物の施しを受ける行のことで、この貧乏旅はその後7年間も続くことになりますが、しかしその中で多くの名作が生まれていきます。

熊本を出て山頭火が最初に向かったのは宮崎、大分でした。九州山地を進む山頭火が、旅の始めの興奮を歌にしたのが次の句です。

「分け入っても分け入っても青い山」

その後、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から「層雲」に投稿を続けましたが、7年後の1932(昭和7)年、郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)でようやく長い旅に終止符を打ち、草鞋の紐を解きます。

そして小郡の地に「其中庵」という粗末な庵を設けました。このころ体調はさらに不安定で、精神面でも不安定となり、あるとき睡眠薬を多量に飲んで自殺未遂を計りました。しかし眠っている間に体が拒絶反応して薬を吐き出し、一命を取り留めました。

郷里にはその後4年ほど過ごしましたが、やがて体調も回復したことから、1936(昭和11年)、山頭火は雲水姿で再び旅に出ます。この時の旅は信州方面で、山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、やはり数々の作品を残しています。

その後も東北地方などを旅しますが、翌年には無銭飲食のうえに泥酔したことで、警察署に5日間も留置されています。

やがて再び山口に帰ったのが56歳のとき。このときかつて住んでいた其中庵は積年の風雪で朽ち果て、壁も崩れてボロボロになっていました。このため新しい庵を探し、ようやく見つけたのが、市内の湯田温泉にある竜泉寺という寺の一角でした。四畳の間にすぎないここの小さな部屋を借り、「風来居(ふうらいきょ)」と名付けて住み始めます。

しかし、やはりここにも落ち着かず、翌年の春先には今度は近畿から木曽路を旅しました。今度の旅には一つの目的があり、それは井上井月の墓への巡礼を果たすことでした。

井月は、信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた幕末の俳人です。その墓参を果たした山頭火は、「お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました」と詠んでいます。

やがて旅を終えた山頭火は、すぐには山口に帰らず、今度は四国に渡り、香川県の小豆島で放哉の墓参をしています。尾崎放哉は晩年、荻原井泉水の紹介で小豆島霊場第五十八番札所、西光寺奥の院の「南郷庵」に入庵し、ここで亡くなっていました。

この墓参のあとも結局は山口に帰らず、年の暮れに松山市に移住し終の棲家となる「一草庵」を結庵。秋も深まる10月10日の夜、ここで仲間を集めて句会を行います。

いつものように酔った彼は隣室でイビキをかいて寝ていました。このとき仲間は山頭火が酔っ払って眠りこけていると思っていましたが、このとき実は脳溢血を起こしていました。

会が終わると皆、山頭火を起こさないようにと帰りましたが、そのうちの一人が妙に胸騒ぎを感じました。しかし夜も更けていたので早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していました。推定死亡時刻は10月11日の推定4時。1940(昭和15)年)のことで、59歳になる2ヵ月前でした。

山頭火は生前から“コロリ往生”を望んでいたといいます。その通りとなり、満足であったかもしれません。辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」というもので、長年旅を続け、奔放な人生を送った山頭火は、この句を残して盛り上がる入道雲の中へと消えていきました。

彼の墓は、生地の防府市内にある護国寺にあります。上の防府天満宮から西へ1.5kmほど離れたところで、その墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られています。

山頭火が亡くなったとき、一人息子の健が満州から駆け付けたといいます。彼はその後、満州に渡り満鉄(南満州鉄道)に勤務していました。父の死を知ったのは母のフサが知らせたからでしょう。

その元妻、フサの墓もまた山頭火の隣にあります。フサが住んでいた熊本市の安国禅寺にも山頭火の分骨墓があるといい、おそらくはいずれも息子の健が建てたものでしょう。山頭火の放浪によって家族はバラバラになりましたが、その死は再び家族をひとつに結びつけたといえるでしょう。

修善寺の大患

10月も下旬になり、涼しいを通り越して寒さを感じる日も多くなってきました。

このころになるとさすがに咲く花も少なくなり、庭で目立つのは山茶花(サザンカ)やツバキぐらいのものです。ただ、紅葉が進み、なにかと華やかさのないこの季節の穴を埋めてくれています。

修善寺には「修善寺自然公園」というモミジの紅葉がきれいな公園があり、毎年この時期になると多くの観光客で賑わいます。出店(でみせ)も何軒かあって、ふだんはガランとしている駐車場もクルマで一杯になります。

公園に入り、正面にあるゆるやかな坂道を色づいたモミジを鑑賞しながら上がっていくと、登り切ったところの右側道沿いに「夏目漱石詩碑」と書かれた案内板が立っています。そのすぐ裏側に高さ3mほどもある石板が据えられており、そこには漱石が修禅寺に滞在していた折に詠んだ自筆の漢詩が彫られています。

1910(明治43)年、小説「門」を書き終えた漱石は、悩まされていた胃潰瘍の治療で麹町の長与胃腸病院に入院しました。退院後、知人に修善寺温泉での療養を勧められ、8月6日から10月11日までの2ヶ月間、修善寺温泉にある菊屋旅館に滞在しました。

ところが、8月24日に急に病状が悪化し、一時危篤に陥ってしまいます。命はとりとめ、快方に向かう9月29日、菊屋旅館の病床で書いたのがこの石板にある詩です。以下がそれになります。

仰臥人如唖 黙然看大空(ぎょうがひとあのごとく もくぜんとたいくうをみる)
大空雲不動 終日杳相同(たいくうくもうごかず しゅうじつはるかにあいおなじ)

病床にあって、私は唖(おし)のように黙って窓辺に望める大空を眺めている。大空に浮かぶ白い雲の様子は終日変わらない、という意味で、終日空と向かい合っているうちに、大自然の中に融け込んだような気分になったことを作詩したものと考えられます。

彼我が一体化することを「主客融合」といいます。本来は死んで空に還っているところを生き延びたことに感慨を覚えてこの詩を創ったのでしょう。この「修善寺の大患」で、漱石は生命の尊さを自覚すると共に、生きるということの意味を改めて考えさせられたに違いありません。



漱石はこのときのことを、のちに「思い出すことなど」の中で書いています。修善寺の大患を自ら描いた随想であり、同じ年の10月から翌年の2月まで間欠的に綴ったものが当初は「病院の春」と題して、朝日新聞に掲載されていました。

この中に登場する人物は、妻である夏目鏡子のほかに、門人である松根東洋城や坂元雪鳥、このころ勤めていた朝日新聞の渋川玄耳(げんじ)や同社主筆の池辺三山(さんざん)などがいます。ほかに、東京で漱石がかかっていた長与胃腸病院から派遣されてきた医師たちや、修善寺の町医などが出てきます。

「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などのヒット作によってこのころ既に高い名声を得ていた漱石は、それまで勤めていた大学の講師を辞め、本格的に職業作家としての道を歩み始めていました。朝日新聞に入社したのはこの大患の3年前で、日本のジャーナリストの先駆けといわれる池辺三山に乞われてのことでした。

三山は、陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された人で、漱石以外にも二葉亭四迷を入社させ、今日文豪と言われる作家の長編小説の新聞連載に尽力した人物です。「思い出すことなど」には、修善寺から帰ったあと長与病院に入院ししながら原稿を書いていた漱石に対し、三山が「余計な事だ」と叱ったといったことが書かれています。

また、同じ朝日新聞の社会部長だった渋川玄耳は、漱石の吐血の連絡を受け、部下の坂元雪鳥に指示し、漱石が治療を受けていた東京の病院から修善寺まで医師を派遣させました。8月20日には自らが漱石を見舞うために修善寺にやってきて一泊しています。

渋川は漱石が熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師だったころからの知己で、彼を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力しました。




東京で漱石の胃潰瘍を治療していたのは長与胃腸病院といい、当時は麹町区内幸町にありましたが、現在は四谷に移転しており、経営者も長与一族から変わって別な人になっているようです。当時の病院を開設したのは長与称吉という人で、漱石の主治医でもありました。

父は、初代の内務省衛生局長だった長与専斎で、「衛生」という言葉をドイツ語から翻訳して採用したのはこの人です。コレラなど伝染病の流行に対して衛生設備の充実を唱え、また衛生思想の普及に尽力したことで知られています。長崎の医学伝習所で、オランダ人医師ポンペから西洋医学を学んでおり、日本における西洋医学発展の先駆けでもあります。

息子の長与称吉もそうした医者血を引いており、東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を経て、7年間ドイツのミュンヘン大学医学部に留学していました。このころ、現地の女性に子供を産ませ、手切れ金を渡して解決したという逸話が残っていますが、その面倒を見たのが、衛生局で父の專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だったといいます。

また妻・延子は後藤象二郎の娘であり、妹・保子は総理大臣を務めた松方正義の長男・松方巌と結婚するなど、何かと政治家と関わりのある人でした。ちなみに、次女・仲子は同じく総理大臣を務めた犬養毅の息子と結婚しており、その長男の異母妹がエッセイストの安藤和津で、その夫は俳優で映画監督の奥田瑛二です。

漱石は「三四郎」「それから」に続く前期三部作の3作目にあたる「門」の執筆途中に胃潰瘍になり、この長与称吉が院長を務める長与胃腸病院に入院しました。

胃潰瘍になった原因はいろいろ取沙汰されていますが、ひとつには妻の鏡子が起こすヒステリー症状が漱石を悩ませ、神経症に追い込んだことが一因とされます。また第一高等学校と東京帝大の英語講師を勤めていたころ、一高での受け持ちの生徒のひとり、藤村操が華厳滝に入水自殺してしまったことが遠因だとする説もあります。

北海道出身の藤村が自殺現場に残した遺書「巌頭之感」は新聞各紙で報道され、大きな反響を呼びました。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出しました。

彼の死に伴い、一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」といった噂が囁かれるようになりました。こうした風評被害に苛まれて苦悩した結果、漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭で頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居しています。

さらには、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の執筆途中に、門下の森田草平が1に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こしており、その後始末に奔走したことも神経衰弱や胃病を悪化させた原因と言われています。

塩原事件とのちに呼ばれるこの事件では、雪山で二人が彷徨ううち、森田のほうが意気地を失い、「人を殺すことはできない」と言って心中に使うつもりだった明子の懐刀を谷に投げ捨ててしまったことなどから、心中未遂に終わりました。

警察に保護された森田はマスコミを避けるために漱石の家に身を隠しますが、事件の後始末を任された漱石は解決策として平塚家に弟子の結婚を申し出ました。しかし、結婚など考えていなかった明子に呆れられ、断られています。

事件の翌年、森田はこの事件を自ら綴った「煤煙」の連載により有名作家となり、明子は「青鞜」を創刊して、有名女性運動家、平塚らいてうとなりました。




漱石は1910年6月18日から7月31日まで長与胃腸病院に入院していました。修善寺で療養することになったきっかけは、その退院後、門下の松根東洋城が皇族の北白川宮の避暑に随行して修善寺に行くことになったことです。漱石は良い空気を吸えば症状も改善するだろうとこれに同行することを決めたようです。

住み慣れた土地を離れて別な環境に身を置き療養することを「転地療養」といいます。このころは富裕層の間でよく行われていました。現代でもストレス性の症候(無自覚性のものも含めて)などに対して、転地療養の効果は認められているようです。堀辰雄の小説 「風立ちぬ」で有名になった結核等の治療施設、サナトリウムも転地療養をするためのものです。

漱石に修善寺行きを勧めた松根東洋城は、本名は豊次郎で、俳号の東洋城(とうようじょう)はこれをもじったものです。漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した「ホトトギス」に加わるようになりました。

漱石とは、愛媛の尋常中学校(現松山東高等学校)時代、同校に教員として赴任していた彼から英語を学んだときからの付き合いです。卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いでいました。

京都帝国大学仏法科卒業後、宮内省に入り宮中の祭典・儀式および接待に当たる「式部官」をやっていましたが、たまたま公務で修善寺に長期逗留することになり、ちょうど漱石が退院していたことから誘いをかけたようです。

東洋城は、子規没後「ホトトギス」を継承した高浜虚子と決別し、虚子らが掲げる「客観写生」の理念とは一線を画した作風を確立しました。実践を重視した芭蕉の俳諧精神を尊み、俳諧の道は「生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」としたその理念に同調する者は多く、後世に名を残す多くの俳人を輩出し、彼らは渋柿一門と称されました。

「渋柿」の呼称は、宮内省式部官であったこのころ、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となったためで、のちに創刊主宰した俳誌「渋柿」の名もそこからきています。

東洋城は、子供のころから眉目秀麗でも知られていましたが、定まった住居をほとんど持たず、生涯独身であり、数々の女性問題がそうした生き方をとらせたといわれています。宮内省に入省したとき、伯母・初子の婚家である柳原家に寄寓しましたが、このとき、離婚して柳原家に出戻っていた柳原白蓮と親しくなりました。

柳原家は鎌倉時代からの名家で、皇室に近い一族です。東洋城の父も宇和島藩城代家老の長男、母も宇和島藩主伊達宗城の三女であって、叔母の初子が名家である柳原家に嫁いだのもその名家としてのつり合いからでしょう。白蓮とはつまり従妹同士ということになります。

「花子とアン」で有名になった柳原白蓮のことを知っている人は多いでしょう。のちに、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚しますが、その後、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちしたことで、当時のマスコミにセンセーショナルに報道されました。

柳原白蓮と同じ屋敷に住むことになった東洋城と白蓮はすぐに仲良くなり、恋人同士になりました。結婚まで誓いあいましたが、彼の母親の反対で結婚を許されず、その後は嫡男であったにもかかわらず独身を貫きました。

「花子とアン」でこのエピソードが語られることはありませんでしたが、白蓮が炭鉱王の妻になったのは、この東洋城との仲が認められなかったことも関係しているようです。社会運動家と駆け落ちし再婚した白蓮は、その後の戦争の時代と戦後を波瀾万丈で送りますが、二男・一女を得て81歳で大往生しています。

東洋城のほうは、その後も各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての「俳諧道」を説いて子弟の育成に努め、86歳で亡くなりました。墓は宇和島市の金剛山大隆寺にあります。



東洋城が修善寺に行くことになったのは、式部官というこのころの彼の職務上の理由からだと上で述べました。北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう)という皇族の避暑に随行するというのがその任務でした。

成久王は陸軍士官学校卒業後、27期生として陸軍大学校を卒業しており、この修善寺行きはその卒業間近のころでしたから、おそらく卒業旅行の意味があったのかと思われます。1895(明治28)年生まれですから、このとき15歳だったはずです。

のちの1921年(大正10年)には、軍事・社交の勉強のため、「キタ伯爵」の仮名でフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学。翌年には自動車免許も取得し、機械好きな彼は自家用車(ヴォワザン社製)を購入しました。既に結婚しており、妻房子も同伴でした。「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かったといいます。

この滞仏中に運転を覚えた成久王は、「一度、腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり、自動車運転に習熟していた東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)をドライブに誘いました。しかし、成久王の運転の腕前を怪しんだ稔彦王は「あなたの運転はまだ未熟だから気を付けたほうがいい」と忠告した上で同行を断りました。

ちなみに、この稔彦王はのちの第二次世界大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走し、大戦後は終戦処理内閣として内閣総理大臣に就任したことで知られる人物です(在職1945年8月17日-1945年10月9日)。これは初の皇族内閣でもありました。

稔彦王に断わられた成久王は、そこでドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう のち陸軍大将)に変え、同日の朝に妃の房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発しました。

出発先は、ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルで、そこに泊りがけのドライブをする予定でした。途中で鳩彦王を拾い、エヴルーで昼食をとったあと、成久王がハンドルを握り、その後ペリエ・ラ・カンパーニュという村に近づこうとするころ、前方にのろのろと走っている車をみつけました。

成久王はその前の車を追い抜こうとしましたが、その際にスピードを出し過ぎ、車は大きく横に滑って道路を飛び出し、路傍にあったアカシアの大木に激突。この事故で、運転していた成久王と助手席にいたフランス人運転手は即死し、同乗していた房子妃と鳩彦王も重傷を負いました。成久王は35歳でした。

東洋城がこの成久王に随行して修善寺に来たのはこれより20年前であり、まだ顔には幼さが残っていたはずです。無論、この国民から愛された王子がその後悲惨な死を迎えることになろうとは想像だにしていなかったでしょう。

ちなみに、成久王と房子妃の間には永久王という男子がいましたが、のちに陸軍砲兵大尉として蒙疆(モンゴル及び中国北部)へ出征し、演習中に航空事故に巻き込まれ殉職しています(享年30)。その子の北白川道久王は81歳まで生き、長寿を全うしましたが、男子に恵まれなかったため、北白川家はその後男系としては断絶しました。

漱石が修善寺で初めて喀血をしたのは8月17日で、当初その治療に当たったのは野田洪哉という修善寺の町医者です。

修善寺には野田姓が多く、確認はしていませんが、おそらくそのルーツは庄屋などの大家だったでしょう。現在でも名家として地域の尊敬を受けています。野田洪哉が院長をしていた大和堂医院は、現在も修禅寺のすぐ前を流れる桂川を隔てたすぐその先にあり、内科医として開業されています。

野田医師は、漱石が吐いたものが血であることを指摘し、帰京を勧めました。24日の危篤時には長与胃腸病院から派遣されてきた副院長の杉本東造の指示で食塩水輸液を準備し、漱石の救命に貢献しました。

一方、8月17日の漱石吐血の報を受け、長与胃腸病院が最初に送った医者は、森成麟造といい、当時まだ26歳の若い医師でした。のちに漱石が長与胃腸病院を退院したあとは、新潟県高田市(現上越市)に帰郷して開業。漱石はこのとき自宅に彼を呼んで送別会を開き、修善寺での大患時の対応を謝しています。

このとき森成医師と一緒にやってきた坂元雪鳥は、第五高等学校で夏目漱石に師事し、以後漱石の弟子格となった人で、このころ東京朝日新聞社に入社しており、漱石の容態を本社に伝える臨時記者としての役割も担っていました。8月24日の危篤時には30通以上の電報を東京に送っています。

長与胃腸病院副院長の杉本東造が修善寺にやってきたのは、漱石が危篤になった8月24日夕方でした。菊屋に着き、漱石を診察したあと「さほど悪くない」と見立てましたが、そのわずか2時間後、漱石は吐血して意識を失い、危篤となりました。

「思い出すことなど」にはこのとき30分ほど意識を失っていたと書かれており、その間にカンフル剤が16本以上打たれました。

その後一時意識はもどりましたが、再び意識を失いかけました。遠ざかる意識の中で杉本医師と森成医師がドイツ語で「駄目だろう」「ええ」などと会話していことを覚えており、そのことも書いています。漱石は大学予備門や大学のときにドイツ語を第二外国語として学んでいました。専門の英語ほどではないにせよ、その程度の会話は理解できたのでしょう。

漱石はそうした会話をうつらうつらと聞きつつ、森成と雪鳥の二人に両手を握られたまま朝を迎え、その後回復に向かいました。

長与胃腸病院としては、VIPである漱石の治療にあたっては本来、主治医である院長の長与称吉を派遣したいところでした。ところが、このころ長与称吉は腹膜炎を発症しており、それどころではありませんでした。最初に若い医師、森成麟造が送られたのも、この院長の急病に対して副院長の杉本が対応していたからだと考えられます。

杉本医師はその後、25日ごろまで修善寺に滞在していたようですが、漱石の回復を見てとると帰京し、かわりに看護婦を2人派遣しました。長与称吉院長は、そのすぐあとの9月5日に亡くなりました。

漱石はこのことを知らされておらず、9月になって森成医師から粥食を許可されて退院し、東京に戻って長与胃腸病院に挨拶に行ったとき、はじめてその事実を知らされて唖然としたようです。冒頭で紹介した詩にあったように、自分は生き残り、主治医だった長与称吉が死んでしまっていたこと対し改めて無常の意味を思ったに違いありません。

漱石の妻鏡子は、漱石が喀血した8月17日には子供の避暑先の茅ヶ崎にいて、漱石吐血のことは翌日18日に電報で知りました。電報を送ったのはおそらく東洋城でしょう。あわてて東京に子供を返してから修善寺に向かい、到着したのは19日の午後でした。

その翌日の20日には小康を得たことから、森成医師が「私は東京に帰ります」と言ったところ、鏡子は森成に強い口調で詰め寄り翻意を迫りました。今回の漱石の修善寺療養にあたっては前もって胃腸病院へわざわざ出かけていき、旅行に行かせてもいいかどうかを伺って快諾を得ていたこともあり、誤診とでも言いたい気分があったのでしょう。

森成医師に対し、「私から言えば、お医者の診察違いとでも言いたいところだのに、病人をうっちゃって帰るなどとはもってのほか」と言い放ったと伝えられています。

この鏡子夫人は広島は福山の人です。元医師で、貴族院書記官長の中根重一の長女で、漱石とは見合い結婚で結ばれ、2男5女を設けました。このうち長男の夏目純一はのちにバイオリニストとなり、その息子が漫画家でエッセイストの夏目房之介であることをご存知の人も多いでしょう。

漱石との見合いの席では、鏡子は口を覆うことをせず、歯並びの悪さを隠さずに笑ていたそうで、そうした裏表のない彼女に漱石は好感を抱いたようです。また、鏡子も漱石の穏やかな様子に魅かれたようで、父の重一が漱石のことをベタ褒めしたこともあって早々に結婚を決めました。

しかし、お嬢様育ちの鏡子は家事が不得意であり、寝坊することや、漱石に朝食を出さぬままに出勤させることもしばしばで、二人の間には口論が絶えませんでした。慣れぬ結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、神経症に追い込んだ一因とされています。

漱石が第五高等学校教授になり、二人で熊本に引っ越したころ、鏡子は初子の出産で流産しました。このとき慣れない環境もあいまってヒステリー症が激しくなり、熊本中央を流れる白川沿いにある藤崎八幡宮のすぐ裏の淵に投身自殺を図ったといいます。その後漱石はしばらくの間、就寝の際に彼女と手首に糸をつないで寝ていたそうです。

裏表がなく、ずけずけとものを言う鏡子の性格は、鏡子を含めた中根家に共通したものだったようで、そうした言動から神経症を悪化させた漱石もまた、鏡子や子供たちに対して頻繁に暴力を振るうようになりました。

周囲から漱石との離婚を暗に勧められたこともあり、このとき鏡子は、「私の事が嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私達に暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったといいます。

こうした言動からもわかるように、夫婦仲はそれほど悪くはなかったようです。漱石の死後、鏡子が子供たちの前で失言し、それを子供たちにからかわれると「お前達はそう言って、私のことを馬鹿にするけれど、お父様が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだ」と、亡夫・漱石を懐かしむことがしばしばだったといいます。

漱石が専業の小説家となったのち、彼を慕う若手の文学者やかつての教え子たちが毎週木曜に夏目家に集うようになりました。これがいわゆる「木曜会」で、会が開かれるようになると、鏡子はしばしば彼らの母親代わりとして物心両面から面倒を見たといいます。

漱石は、経済的に苦しい立場にあった門人たちに金銭面での援助をすることも多かったようで、このとき鏡子は漱石に言われたとおりにポンと、当時としてはかなりの額の金銭を渡していました。漱石夫妻が門下生に貸した金は相当の額だったようですが、そのほとんどが貸し倒れになっていたといいます。

孫の夏目房之介は、鏡子の性格には多少問題はあったものの裏表がなく、弱いものに対する慈しみの気持ちの強い、子供や孫に慕われる良き母であり良き祖母であったとその手記に記しています。

とかく、悪妻、猛妻という名で呼ばれることが多い鏡子ですが、このころはまだ男尊女卑の風潮が強く、おとなしい良妻賢母が良いとされた時代です。失言が多くおおざっぱな行動が目立つ鏡子がそのように見られてしまうというのはやむを得ない面があったと思われます。

漱石の修善寺大患の際、最初に見舞いに駆けつけた安倍能成(あべよししげ、のちの貴族院勅選議員、文部大臣、第一高等学校時代の漱石の教え子)を見て、鏡子は「あんばいよくなる」さんが来てくれたからもう大丈夫、とユーモアたっぷりに語って周囲を笑わせたといい、おおらかな一面もあったことをうかがわせます。

漱石の死後、鏡子はその後半世紀近く生き、1963(昭和38)年に85歳で没しました。死因は心臓の疾患でした。

漱石は、「明暗」執筆途中の執筆中だった1915(大正4)年12月9日、体内出血を起こし自宅で死去しました(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったといいます。

漱石が亡くなった翌日、その遺体は東京帝国大学医学部の解剖室において解剖されましたが、それを行ったのは長与胃腸病院の院長、長与称吉の弟の又郎(またお・長与専斎の三男)でした。長与又郎は、癌研究所や日本癌学会を設立し、癌の解明に努力したことで知られ、癌研究の先駆者です。

衛生に力を入れていた父の専斎の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立しましたが、自ら予言していた通りに癌となり、1941(昭和16)年に63歳で亡くなりました。死の前日に、医学への貢献により男爵の爵位が贈られています。

母校である東京帝国大学の伝染病研究所長や医学部長を経て、総長に就任したこともあり、若いころには野球部長も務めていました。

部の寮である「一誠寮」にある同寮の名を綴った書は又郎の揮毫によるもので、これを書く時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なった又郎は、これを指摘した選手たちに対し「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったといいます。

東大の六大学野球最高位は、現在でも1946年春季の2位でのままであるため、今も残されているこの書の「ノ」の部分は未だ欠けたままとなっています。

この長与又郎解剖を依頼したのは、未亡人である鏡子であったといい、生前の漱石はそれを承認していたようです。漱石の亡くなる5年前には末娘の雛子が突然死しており、解剖などの措置をとらなかったため、死因が不明のままに終わっていました。

そのことが夫妻の心にはひっかかっていたようで、日ごろから科学的思考を重んじるタイプだった漱石もまた、解剖を行うことで死因や病気の痕跡をつきとめることが重要だと考えていたようです。夫の遺体の解剖が医学の将来に役立ててもうということが本人の意思にかなうと、鏡子も判断したのでしょう。

その際に摘出された脳と胃は寄贈された脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されています。重さは1,425グラムであり、成人男性の脳は一般に1350~1500グラムだそうですから、特段重いというわけではありません。遺体は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園に葬られました。

漱石が修善寺で宿泊した菊屋本館は戦後解体され、当時の別館が現在の本館になりました。温泉街にある筥湯(はこゆ)という共同浴場の横にはこの本館跡の掲示があります。菊屋本館2階の漱石が吐血した部屋は、修善寺自然公園の隣にある「修善寺虹の郷」へ移築され、現在「夏目漱石記念館」として公開されています。

修善寺に来ることがあったら、ぜひ訪れてみてください。

隕石のはなし

10月も終わろうとしています。

少し早いかもしれませんが、このころになると今年ももう終わりだな、という気分になるのは私だけでしょうか。

今年もいろいろあったな、と思い起こす中で、最大の事件はやはり新型コロナウィルスの流行であり、それに引きずられる形での東京オリンピックの延期、7月からの一連の豪雨災害、そして8年近く続いた安倍政権の終焉といったところが主なニュースでしょうか。

全体的に重い空気の漂った感のある今年ですが、その中でも少し明るい話題はないかと探すと、山手線で約49年ぶりの新駅となる高輪ゲートウェイ駅の開設、第5世代移動通信システム(5G)がサービスを開始、ヴェネツィア国際映画祭での黒沢清監督の銀獅子賞(スパイの妻)受賞といったことがありました。

さらにもっとイイ話はないのか、と探してみたのですが、日本だけでなく世界中がコロナ渦にある中では、ちょっとくらい明るい話も、闇夜の中の豆電球くらいの効果しかなく、逆に漆黒の闇の中に飲み込まれてしまいそうです。

私的には、先の9月末に手の手術をして1週間ほど入院したのが最大の出来事でしょうか。よかったことといえば、このコロナ騒動のおかげで当初予定していた中国出張が中止になったことがあげられます。もとより気乗りがしない出張だったので、ホッしたのもつかの間、来年はまだ騒動が終息していない中での再出張が画策されているのが気になります。

暗い世相の中、年末恒例の「今年の漢字」はきっと「災」ではなかろうかと思うのですが、既に2度も選ばれている(2004年と2008年)ということで、だとすると「難」とか「凶」とかいった漢字をついつい思い浮かべてしまいます。あるいは「害」とか「渦」といったものもありかもしれません。




とはいえ、今年もまだあと2ヵ月以上あるわけですから、この間、少しはいいことがあるかもしれません。明るい話題はないかな、と探してみると、この年の末にJAXAで開発された小惑星探査機「はやぶさ2」が地球へ帰還する、ということがわかりました。

12月6日にそれが実現するようで、帰還カプセルの投下場所は初代はやぶさと同じくオーストラリア南部に位置する軍の演習地、ウーメラ試験場を予定しているようです。無事帰還すれば、耐熱容器に収納された採取物質が回収できます。

これが成功すれば、有機物や水のある小惑星を探査して生命誕生の謎を解明するという科学的成果を上げるための初の「実用機」の開発に成功したことになり、今後の日本の宇宙開発にとって計り知れない恩恵をもたらすことになるでしょう。ちなみに初号機である「はやぶさ」は小惑星往復に初めて挑んだ「実験機」と位置づけられているようです。

地球へ向けてカプセルを放出したあとのはやぶさ2の本体はその後、再度小惑星探査に投入されるそうで、およそ10年後の2031年7月に1998 KY26という小惑星を接近探査することになるようです。これは今回のはやぶさの探査目標「リュウグウ」を選ぶにあたっても候補になった天体の1つで、直径30メートル前後の非常に小さな小惑星です。



「リュウグウ」は直径が700mありました。これに対してこのような微小小惑星を観測することの意味は、それを近接観測することによって、地球史の解明だけでなくプラネタリーディフェンスに有益な情報が得られるからだといいます。

プラネタリーディフェンスとは、地球に衝突する恐れのある地球近傍天体(Near-Earth object NEO)を発見・観測し、衝突に備える試みで、スペースガード(Space Guard)ともいいます。スペースガードは各国で実施されおり、日本以外では、アメリカ、オーストラリア、フィンランド、イギリス、ドイツ、イタリアが協力して観測を行っています。

その統括的な役割を果たしているのは、イタリアのフラスカーティに本拠を置くNPO、スペースガード財団(The Spaceguard Foundation)です。1994年、木星に天体が衝突した事件を受けて地球でも起こりうるとの危機感が高まり、同年に開催された国際天文学連合の総会での提言を受けて1996年に設立されました。

地球近傍の物体の観測を統括する国際的な組織であり、同財団の下、各国にスペースガードセンターが組織されています。それぞれの国の中央天文台や宇宙開発機関から資金援助を受けて新しくスペースガードセンターを設置したり、既にある施設で観測を実施しています。

日本では、岡山県の井原市美星町に「美星スペースガードセンター」が設置されており、JAXA等からの支援を受け、NEOのほか、宇宙空間を彷徨うスペースデブリ(宇宙ゴミ)の監視も行っています。

光学式と電波式のふたつの観測装置を用いた観測が行われており、光学式の場合には、広視野角を持つ望遠鏡複数台によって、主に地球近傍へ接近する小惑星や彗星等の軌道を求める、といったことが行なわれています。

また、電波式観測装置としては、「フェーズドアレイレーダー」という軍艦の艦載用レーダーにも使われている最新式のものが備えられており、このレーダーは非常に指向性が高い(いろんな方向からの電波を受信できる)ことから、スペースデブリの位置をつきとめるのに最適です。

先代のはやぶさが地球突入した際にも、参考になる貴重なデータがこれらの観測機器で得られたそうで、今後も地球近傍に接近する小惑星や彗星の軌道を正確に把握し、将来の地球衝突を予測することになっています。10年後にはやぶさ2が観測するであろう小惑星1998 KY26のデータもそれに寄与することになるでしょう。

ただ、「美星スペースガードセンター」に設置されているレーダーでは、現在大きさ1.6メートルまでの宇宙ゴミしか補足できないそうで、それ以下の宇宙ゴミの接近についてはアメリカからの情報に依存しています。

このため、2023年度を目途に、高出力高感度のレーダー設備を新設し、特殊な信号の処理技術も採用して、従来と比べて約200倍の宇宙ゴミ探知能力を持たせることが計画されて、います。防衛省が計画している別のレーダー施設との連携も考えられており、低軌道で周回している10センチ程度の宇宙ごみの監視が可能になるといいます。

一方、大きな小惑星などの衝突については、ハワイ大学などによって10m以下の天体に対して大気圏突入よりも数日から数週間前に警告ができるようにするシステムの開発が進んでいるほか、これよりもはるかに大きなもの(100mを超えるようなもの)についても、数年から数十年前に予測できるよう各国との調整の上、システム開発が進んでいます。






ちなみに、2008年10月6日、アフリカ大陸スーダンの北東部のヌビア砂漠の大気圏に突入した、推定4メートルの天体(2008 TC 3)は、アメリカ・アリゾナ州にあるカタリナ天文台(CSS)の1.5メートル望遠鏡によって検出され、翌日地球に衝突するまで監視が続けられました。

この衝突では幸い大きな被害は出ず、合計10.5キログラム(23.1ポンド)の重さの約600個の隕石が回収されました。

一方、2013年2月15日にロシア連邦ウラル連邦管区のチェリャビンスク州付近に落下した隕石は、その通過と分裂により発生した衝撃波によっての大規模な人的被害をもたらしましたが、スペースガードの観測では事前に検出されることはありませんでした。

この隕石落下では、衝撃波で割れたガラスの破片を浴びたり、衝撃波で転ぶなどして、1491人の怪我人が発生しました。指が切断されるなどの大けがして入院した人は52人に上り、うち13人が子供でした。中には隕石に直接当たったことにより頸椎を骨折するという重傷を負った52才の女性もいました。

ロシア科学アカデミーなどの解析によれば、隕石の直径は数mから15m、質量は10トン、落下速度は秒速15km以上で、隕石が分解したのは高度30kmから50kmではないかと見られています。

幸い、この隕石による死者は報告されていませんが、隕石による広範囲への災害は、ロシア帝国時代の1908年に発生したツングースカ大爆発以来の出来事であって、これほどの負傷者を出した隕石災害は前例がありません。

ツングースカの隕石落下は、居住地から離れた場所であったことから人的被害は公的には確認されていません。しかし、遊牧民のキャンプが吹き飛ばされるなどで死傷者が出たとする伝聞が残されているほか、猟師や木こりなどの犠牲者がいた可能性もあります。

隕石が大気中で爆発したために、強烈な空振が発生し、中心地と目される場所から半径約30~50kmにわたって森林が炎上し、東京都とほぼ同じ面積の約2,150平方キロメートルの範囲の樹木がなぎ倒されました。1,000km離れた家の窓ガラスも割れ、爆発によって生じたキノコ雲は数百km離れた場所からも目撃されました。

南西へ約500km離れたイルクーツクでは衝撃による地震が観測されたといい、爆発から数夜に渡ってアジアおよびヨーロッパにおいても夜空は明るく輝き、ロンドンでは真夜中に人工灯火なしに新聞を読めるほどであったといいます。

地面の破壊規模から推定された隕石の大きさは、直系60~100m、質量約10万トンとされ、爆発地点では地球表面にはほとんど存在しない元素のイリジウムが検出されました。破壊力はTNT火薬にして5メガトンとされ、これは広島型原爆の300倍以上の威力です。



おそらく有史以来、最大のものがこの隕石だと思われますが、さらにさかのぼり、有史以前ともなると、いったいどのくらいの隕石が地球を襲ったかについては誰にもわかりません。ただ、こうした巨大な地球外天体の衝突は大量の生物の絶滅を引き起こすことから、そうした観点からの研究が進んでいます。

多細胞生物が現れて以降、地球では少なくとも5度の大量絶滅が生じていることがわかっていますが、その原因は必ずしも小天体の衝突によるものとは限りません。超大陸の形成と分裂の際に発生する大規模な火山活動による環境変化によるものと考えられている絶滅やその他のものもあって、原因や原因について立てられた仮説は一定していません。

ただ、白亜紀末にいわゆる恐竜が絶滅した際の大絶滅については、隕石や彗星などとの天体衝突が原因であるとする説が定説になりつつあります。

三畳紀後期からジュラ紀、そして白亜紀まで繁栄していた恐竜は、現生鳥類につながる種を除いて約6600万年前に突如絶滅しました。ほとんどの恐竜が絶滅したこの時期には、全ての生物種の70%が絶滅したと考えられています。

地質学的には、中生代と新生代の境目に相当する時期であり、中生代白亜紀(独: Kreide)と新生代古第三紀(英: Paleogene)の境目であることから、この大変化のあった時代はK-Pg境界またはK-P境界と呼ばれています。

K-Pg境界を境にして、ほぼ全ての恐竜、翼竜、首長竜、アンモナイトが絶滅しました。生き残ったのは、爬虫類の系統では比較的小型のカメ、ヘビ、トカゲ及びワニなどに限られました。恐竜直系の子孫である、古鳥類や小型の獣脚類も大きな打撃を受けましたが、現生鳥類につながる真鳥類は絶滅を免れて現在も存続しています。

海中ではアンモナイト類をはじめとする海生生物の約16%の科と47%の属が姿を消しました。これらの生物がいなくなった後、それらの生物が占めていたニッチは哺乳類と鳥類によって置き換わり、現在の生態系が形成されました。我々人間もその生き残った生態系の中から生まれました。




こうした恐竜を中心とする生物の大量絶滅の原因としては、「夜間も活発に活動する哺乳類の台頭によって、恐竜の卵が食べつくされた」、「あまりに巨大化した恐竜は、種としての寿命が尽きた」、「白亜紀末期に出現した被子植物に対応できなかった」等の説がありましたが、いずれも客観的な証拠が欠けていました。

1980年、アメリカカリフォルニア大学の地質学者ウォルター・アルバレスとその父でノーベル賞受賞者でもある物理学者ルイス・アルバレスおよび同大学の放射線研究所・核科学研究室の研究員2名が、K-Pg境界における大量絶滅の主原因を「隕石」とする論文を発表しました。
アルバレス父子はイタリア中部の町、グッビオに産するK-Pg境界の薄い粘土層を、彼らの研究室にしかなかった「微量元素分析器」を使って分析し、他の地層と比べ20 ~160倍に達する高濃度のイリジウムを検出しました。

イリジウムは、プラチナの精錬の副産物として得られ、年間の採掘量はプラチナの生産量に依存するがわずか4トン程度で、貴金属、レアメタル(希少金属)として扱われています。 地球の地殻中での濃度は0.001 ppmにすぎませんが、隕石には多くのイリジウムが含まれており、その濃度は0.5 ppm以上であるとされています。

デンマークに産出する同様の粘土層からも同じ結果が得られたことから、アルバレス父子はイリジウムの濃集は局地的な現象ではなく地球規模の現象の結果であると考え、彼らはその起源を隕石に求めました。

発表した論文には「巨大隕石の落下によって発生した大量の塵が地上に届く太陽光線を激減させ、陸上や海面の植物の光合成が不可能となって、食物連鎖が完全に崩壊した結果大量絶滅をもたらした」と記載されました。また衝突直後の昼間の地上の明るさは満月の夜の10%まで低下し、この状況が数か月から数年続いだだろうと推定しました。

ところが、この論文の内容を他の多くの地質学者が否定、いくつもの反論が出ました。反論のなかで最も有力だったものが、イリジウムの起源を火山活動に求めた「火山説」でした。地表では希少なイリジウムも地下深部には多く存在します。それが当時起こっていた活発な火山活動により地表に放出されたとするのが火山説です。

インドのデカン高原には、地球上でもっともな広大な火成活動の痕跡である「デカントラップ」があります。2,000メートル以上の厚さを有する洪水玄武岩の何枚もの層から成り、面積は50万平方キロメートルに及びます。「トラップ」とは階段を意味するスウェーデン語で、この地域の景観が階段状の丘を示すことに由来します。

「デカントラップ」は、6800万年前から6000万年前の間に何回かの噴火によって形成されたと考えられており、時期的にも6600万年前とされるK-Pg境界と合っています。

このため、大規模な噴火の際に放出された大量の火山ガスと粉塵が当時の地球において大規模な環境破壊をもたらしたと推測されました。K-Pg境界より規模の大きな大絶滅であったP-T境界事件の原因とも推定されており、隕石説に反対する多くの地質学者が、この巨大な洪水玄武岩の噴火説を支持しました。

一方、アルバレスたちの論文の発表の直前には、ニュージーランドのK-Pg境界層でもイリジウムの濃集が確認され、同様のイリジウム濃集層がスペイン・アメリカ各地・中部太平洋・南大西洋の海成堆積岩層からも確認されました。K-Pg境界層の厚さは、ヨーロッパでは約1cmでしたが、北アメリカのカリブ海周辺やメキシコ湾岸では厚さが1mを超えました。

北アメリカのK-Pg境界の粘土層中には、高熱で地表の岩石が融解して飛び散ったことを示すガラス質の岩石テクタイトとそれが風化してできたスフェルール、高温高圧下で変成した衝撃石英も発見されており、これらはすべて、隕石衝突時の衝撃により形成されたと考えられました。

アルバレス父子の理論を支持する研究者たちによって調査が進むにつれ、K-Pg境界層の厚さから北アメリカ近辺に落下したらしいという点と、カリブ海周辺およびメキシコ湾周辺のK-Pg境界層で津波による堆積物が多く見つかることから、やがて落下地点はこの近くにあると推定されるようになりました。

最初の論文発表からおよそ10年を経た1991年、巨大隕石による衝突クレーターと見なされる「ユカタン半島北部に存在する直径約170kmの円形の磁気異常と重力異常構造」が石油開発関連の調査で発見されました。この調査は「メキシコ石油開発公団」(ペメックス)が石油探査のために行ったもので、1970年代後半から行われていました。

調査を行っていたのは、地球物理学者のアントニオ・カマルゴとグレン・ペンフィールドの二人で、ペンフィールドは当初、このクレーターが火山噴火によるものと考えていましたが、その証拠を得ることができず、調査をあきらめていました。

しかし1990年に惑星科学者であるアラン・ラッセル・ヒルデブラントと接触し、隕石落下によって形成される岩石標本を見せられたことから、このクレーターが隕石によってできたものではないかと考えるようになりました。そこでペメックスが採取していたボーリングサンプルを再調査したところ、その形成年代がK-Pg境界と一致することを発見。

含まれる岩石成分が隕石の衝突によって周囲に飛び散ったテクタイトと一致することが判明し、「K-Pg境界で落下した巨大隕石によるクレーター」であると確認され、メキシコユカタン半島の北西端チクシュルーブにあったため、チクシュルーブ・クレーターと名付けられました。深さ15 ~25kmの規模を持つ巨大なクレーターです。

チクシュルーブの名は中心付近の地名に由来し、マヤ語で「悪魔の尻尾」という意味があります。クレーターの直径についてはその後1995年に直径約300kmという説も発表されましたが、現地での地震探査の結果、現在では「直径200km」が妥当とされています。




その後、火山由来のイリジウムが検出される場合は同時にニッケルとクロムの濃度増加を伴うことがわかり、隕石由来の地層からはこれらの不純物が検出されないことがわかりました。K-Pg境界層からはイリジウム以外の元素の濃集は確認されていないことから、これにより火山説より隕石説のほうが有力な説とされるようになりました。

2010年、12か国の地質学・古生物学・地球物理学・惑星科学などの専門家40数人からなるチームが、K-Pg境界堆積物から得られた様々なデータを元に衝突説及び火山説についてその妥当性を検討した結果、チクシュルーブ・クレーターを形成した隕石の衝突が、K-Pg境界における大量絶滅の主要因であると結論づける論文をサイエンス誌に発表しました。

2014年には日本の千葉工大がこの時期の生物大量絶滅は、隕石衝突による酸性雨と海洋酸性化が原因であるという論文を発表しました。

それまでに提案されていた絶滅機構の仮説では海洋生物の絶滅を説明することが困難でしたが、千葉工大の研究者たちは高出力レーザー光を使って、宇宙速度での岩石衝突蒸発実験を行い、その結果、衝突で放出された三酸化硫黄(発煙硫酸)が数日以内に酸性雨となって全地球的に降り注ぎ、深刻な海洋酸性化が起きていたことを明らかにしました。

さらに2015年、地球惑星科学を専門とするカリフォルニア大学バークレー校のポール・レニー教授らが精密な年代測定方法によって、その衝突時期を分析した結果、それは約6604万年前と特定され、誤差は前後3万年であることなどもわかりました。

火山説はこうして葬られるかと思われましたが、超巨大隕石が衝突したのと時期を同じくして、デカントラップから溶岩流出量が増加していることが確認され、その時期は6604万年前の前後5万年内だと特定されました。現在では、溶岩流出は隕石衝突で誘発されたものであり、この二つの事象が同時に作用して大絶滅が引き起こされたと考えられています。

宇宙から落下してくる隕石は、大気圏で表面温度が1万度近くまで熱せられます。高速の隕石は高度11000mより下の対流圏を1秒以下で通り過ぎるので、非常に大きな衝撃波を伴い、地上に衝突した直径10kmの隕石は地殻に数十kmもぐりこみながら運動エネルギーを解放して爆発します。

チクシュルーブでは、推定直径10から15kmの大きさの隕石の爆発エネルギーで衝突地点周辺の石灰岩を含む地殻が蒸発や飛散によって消失し、深さ40km、半径70~80kmのおわん型のクレーター(トランジェントクレーター)ができました。このときクレーター部分とその周辺の海水も同時に蒸発・飛散して無くなりました。

この爆発の衝撃による爆風は、北アメリカ大陸全体を襲い、マグニチュード10程度の大地震が起きました。トランジェントクレーターの底には溶解したものの蒸発・飛散せずに残った岩石が溜まり、やがて再凝結しました。大きく開いたクレーター中心部は地下深部の高温の岩石が凸状に盛り上がってきて中央部が高くなりました。

中心部の盛り上がりに対応して地下の岩盤の周辺部は低下し、地表ではトランジェントクレーターのおわん型の壁が崩落して外側に広がっていきます。これらの地殻変動によってクレーター周辺の地殻は波打ち、同心円状の構造が形成され、最初のクレーターの形状が消し去られたあと、更に大きなクレーター構造となって残りました。

浅海に空いた巨大なクレーターに向かって海水が押し寄せるため、周辺海域では巨大な引き波が起こり、勢いよく押し寄せる海水はクレーターが一杯になっても止まらず、巨大な海水の盛り上がりを作った後、押し波となって周辺へ流れ出し全世界へ広がりました。衝突地点に近い北アメリカ沿岸では300mの高さの津波となって押し寄せました。

地面に衝突して爆発した隕石は全量が飛散し、衝突地点の岩石も衝撃のエネルギーで蒸発・溶解・粉砕され、トランジェントクレーターでは、隕石質量の約2倍に相当する岩石が蒸発(ガス化)し、隕石質量の約15倍の融解した岩石と、隕石質量の約300倍に達する粉砕された岩石が飛び散りました。

蒸発した岩石には石灰岩や石膏が含まれており、これが大気中で分解して大量の二酸化炭素と二酸化硫黄が発生。融解した岩石は空中で冷えて凝固しガラス状のマイクロテクタイトになります。衝突地点から吹き上がったこうした高温の噴出物は、クレーター周辺に再び落下して森林に火事を起こさせ、大量の煤(すす)を発生させました。




衝突地点から放出された大量の塵や大規模火災による煤は空中に舞い上がり、太陽光が地上へ到達するのを妨げました。さらに隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤は、比較的大きなサイズのものは対流圏(高度約11000mまで)まで上昇したあと数か月をかけて地上に落下しました。

1000分の1mm以下の小さなサイズのものはその上の成層圏や中間圏まで上昇し、数年から10年間とどまりました。これらは太陽光線に対して不透明であるため、隕石落下の直後には地上に届く太陽光の量は通常の100万分の一以下にまで減少しました。

この極端な暗闇は対流圏に大量に噴き上げられた煤や塵が地上に落下するまで数か月続き、その期間気温が著しく低下し、光不足で植物は光合成ができなくなりました。

北アメリカのK-Pg境界に相当する地層のハスやスイレンの化石から、隕石は6月頃に落下したこと、落下直後には植物が凍結したことが分かっており、またK-Pg境界直後の海洋においても植物プランクトンの光合成が一時停止したことが判明しています。

さらに、大気中に放出された二酸化硫黄は空中で酸化し硫酸となって酸性雨として地表に落下し、一部は硫酸エアロゾルとなって空中にとどまりました。そして高温の隕石や飛散物質が空気中の窒素を酸化させて窒素酸化物を生成し酸性雨を更に悪化させました。

煤や塵と同様に、硫酸エアロゾルも地表に届く太陽光線を減少させる物質であり、これらの微粒子の影響による寒冷化はその後約10年間続いたと推定されています。こうした隕石衝突による地上の暗黒化・寒冷化は「衝突の冬」と呼ばれるようになりました。

以上のように、この巨大隕石の衝突は、衝突地点で破滅的な状況を生み出したのみならず、数か月から数年におよぶ地球全体における光合成の停止や低温を引き起こし、その結果招いた環境の激変によって、恐竜をはじめとする多くの生物種が滅びました。

チクシュルーブ・クレーターを形成した衝突エネルギーは、1.3×1024 J – 5.8×1025 J、又はTNT換算3×108~ 109メガトンと計算されていますが、この量は冷戦時代にアメリカとソ連が持っていた核弾頭すべての爆発エネルギー104メガトンの1万倍以上に相当します。

仮にもし現在、の冷戦下の核弾頭すべてが爆発したと仮定すると、著しい爆発で舞い上がった塵や大規模火災で生成された煤の影響によって地上に到達する太陽光の著しい減少が生じ、厳しい寒冷化が起こると考えられています。

北半球中緯度地方の夏至の気温は平均で10-20℃低下し、局所的には35℃ほど低下があり、オゾン層は壊滅的に破壊されて農業はほぼ全滅すると考えられていますが、忘れてはならないのは、こうした環境変化を起こす隕石がもたらすエネルギーがK-Pg境界で落下した隕石の持つエネルギーの1万分の1にすぎないということです。

もしもチクシュルーブ・クレーターを形成したのと同じ隕石が現在の地球に落ちてきたら、当然のことながら人類もまた大きなダメージを受けるでしょう。地球近傍天体(NEO)は、いつ人類に滅亡をもたらしてもおかしくない絶対的な脅威であり、歴史上の人間同士の戦争や疫病によるものをはるかに超える被害が出ることは間違いありません。

地球近傍天体の直接の衝突だけでなく、前述のロシア・チェリャビンスクの隕石の例にもみられるように、そうしたニアミスによっても大きな被害が出ると考えられています。ほかにも天の川銀河内でのガンマ線バースト発生や、破局噴火、長周期の気候変動などが考えられ、天文学的・地学的災害によって我々人類が滅亡する可能性は否定できないのです。

1933年に刊行された、フィリップ・ワイリーとエドウィン・バーマーのSF小説「地球最後の日」は、2連の放浪惑星が地球に衝突するというストーリーでした。地球衝突のコースをとるその存在に気付いた科学者たちは、唯一人類を存続させる方法として、可能な限りの人数が乗り込める大きさの宇宙ロケットを作って地球を脱出させました。

最後の人類が旅立った先は、あろうことか地球に衝突しそうな放浪惑星の一つであり、もうひとつの惑星は地球に激突し、地球とともに砕け散りました。

残った放浪惑星に辿り着いた人類の生き残りは、ここで新たな人類の歴史を作り始める、というのがこの話のオチですが、現在の地球もその環境が悪化の一途をたどりつつあり、そうした中、火星への人類移住計画も取沙汰されていて、「地球最後の日」もあながち荒唐無稽な話ともいえません。

人類を滅亡に導くのは、地球近傍天体の衝突だけとは限りません。現在世界中に蔓延しているコロナウィルスのように、ウイルスやプリオン、抗生物質耐性を持つ細菌などが大発生し、全人類に感染して死滅する、という可能性もあります。

最近の研究では、人為的に制作された病原体で人類を絶滅させることは可能とされてり、しかもそのようなものを作るための障壁は低いと科学者たちは警鐘を鳴らしています。

その一方で、そのような事態を「認識し効果的に介入」して病原体の拡散を食い止め、人類滅亡を防ぐことが出来る、ともいわれています。今回のコロナ騒動を機に、そうした認識を高め、地力をつけて来るべき人類の滅亡に備えたいものです。これからの時代を担う若い世代にはとくにそれを期待したいと思います。