詐欺師考

日々、繰り広げられる冬スポーツの激動に目を奪われ、ここのところ、ブログを書く手が止まっています。

それにしても、2月も下旬。今年も既に2ヶ月近くが過ぎていることに唖然としていますが、改めて時の速さを思います。

年齢とともに時間の流れが速くなるということは、よく言われることです。

ジャネーの法則というのがあるそうで、これは、記憶される年月の長さは、年少者にはより長く、年長者はより短くなるという現象を心理学的に説明したものなのだとか。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するといい、この法則に従えば、たとえば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ですが、5歳の人間にとっては5分の1になります。

これを言い換えると、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たるということになり、さらに5歳の子の1日は50歳の大人の10日に当たることになります。

なにやら騙されたような気分になるこの計算ですが、そういわれると、単純にこの齢になると時間が早くなるのはそのためか~ と納得してしまうから不思議です。

もっともそんなわけはなく、50歳の人間も5歳の人間も過ごしている時間は同じなわけですが、こうした説明をされるとそう思ってしまうところが「心理学的」なわけで、こういう論理に騙される人間というのはいかにも単純な生き物だな、つくづく思います。




そう考えてくると、詐欺師というのも、そういう人間の心理学的な盲点をついて、人を騙す輩であり、人間の単純さを逆手にとった職業です。

詐欺とは、人をあざむき、だまして錯誤に陥れることです。その専門家たる詐欺師とは、詐欺を巧みに行う者のことをいい、ある役割を演じて他人にその人格、職業を信じ込ませ、心理的な駆け引きにより金品を騙し取ります。

ときに信頼関係や信仰心を操り、恐怖心を与え、権威をひけらかせて被害者を精神的にがんじがらめにします。相手を洗脳することによって疑う余地を与えないため、被害者によっては詐欺にあったのも知らず、被害にあったことすら認識出来ない場合さえあります。

この詐欺師と似たものに、ペテン師というのもあります。こちらは口先やもっともらしい理屈を使い、損得の価値観を操って被害者に利益があるように錯誤させ、金品を騙し取る者です。また、いかさま師というのもあり、こちらは仕掛けやカラクリのある道具を使う詐欺師を指しますが、詐欺師やペテン師と違い道具や技術で金品を騙し取るのが特徴です。

とはいえ、言葉は違えどもペテン師もいかさま師も詐欺師には違いなく、信頼関係など心理的な刷り込みを行うことで人を騙す職業であり、その大目的は人様の金品を奪う泥棒です。

騙される側にすれば、あの人が絶対そんなことをするわけはない、と信じたいという気持ちが強いため、なかなか表ざたにはならなかったりします。人によっては財産を盗まれてもまだ、詐欺師を信じていたりします。また、信仰心や恋愛感情から洗脳された場合、被害者に深い心の傷を残すという二次的被害を与える場合もあり、実にたちの悪い犯罪です。

ひとくちに詐欺といってもいろいろなパターンのものがあります。警察関係の隠語では、結婚詐欺のことを赤詐欺といい、融資詐欺、小切手詐欺、保険金詐欺、取り込み詐欺等主に会社をカモとする詐欺のことを青詐欺といいます。

また、他の詐欺師をカモとする詐欺師もいて、これは黒詐欺といい、さらに振り込め詐欺、チケット詐欺、オークション詐欺等主に個人をカモとする詐欺のことを白鷺というそうです。

これを役者が演じるドラマになぞらえると、さしずめ、赤詐欺がメロドラマで、青詐欺は法廷モノ、白詐欺は刑事もの、といったところでしょうか。詐欺師が詐欺師を騙すという究極の詐欺師、黒詐欺は、おそらく超常現象もの・怪奇現象ものということになるのかもしれません。




考えてみれば、詐欺師と役者というのは同じ資質を持っているのかもしれません。役者=俳優の定義を調べてみると、「ある人物に扮して、台詞・身振り・表情などでその人物を演じる人」とあり、なるほど詐欺師もその通りです。

ただ、役者は、物語や人物などを形象化し、演じて見せるだけであり、演劇は「芸術」です。詐欺師のように、人から金品をだまし取る、といった卑しい行為でないことは明らかなのですが、俳優の「優」には「芝居を職業とする人」という意味があるといい、この定義はそのまま詐欺師にも適用できます。

また、役者さんのなかには、いわゆる「悪役」というのもあって、こうした人たちが演じる詐欺師は、まるで本物に見えたりもします。

もっともこの世にゴマンといる役者さんや俳優さんの名誉のために書いておくと、その職業目的はあくまで人を騙すことではなく、人を楽しませることにほかなりません。あくまで善を前提とした職業であり、詐欺師のような悪ではないわけです。

この詐欺師という職業のルーツを探っていくと、その原点は旧約聖書の「創世記」に書かれている、アダムとイヴの物語の中にあるようです。

神様が男(アダム)を創造したとき、エデンの園の外には野の木も草も生えていませんでした。このため、次に創造したのはアダムの体の一部を使って作った植物でした。やがてエデンの園にはあらゆる種類の木が育つようになりますが、それらの木は全て食用に適した実をならせました。

エデンの園の中央には、やはり実のなる命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木がありましたが、神様はエデンの園に生る全ての樹の実は食べても良いが、この知識の樹の実だけは、食べてはいけないと禁じていました。その後、女(エバ)が創造されますが、神様はエバにも同じく、知識の実ははこの時は食べてはいけないとは命令します。

これがいわゆる「禁断の果実」です。転じて、後世では、それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることなどを指すようになりました。これを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象になるわけで、人間の欲深さの深いことをあらわしたものです。

そこに人間を神に背かせようとする蛇が現れます。蛇はエバに近付き、言葉巧みに善悪の知識の木の実を食べるよう唆した結果、エバはついにその実を食べてしまいます。しかもそのあと、アダムにもそれを勧めました。

こうして、実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆うようになりました。

一方、神様に気付かれないよう、匍匐(ほふく)前進でエバに近づいた蛇は、このとき神の呪いを受け、以後、腹這いの生物となります。また、禁断の実を食べたエバ=女性は、このあと、妊娠と出産の苦痛が増すようになりました。

また、同じく禁断の実を食べたアダムも神様の罰を受けることとなり、額に汗して働かなければ食料を手に出来なくなりました。神様はさらに彼らが命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放します。

こうして、以後彼らの子孫である人間たちは、死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなったわけです。

このエバを騙した蛇こそが、人類史上初めての詐欺師、というわけなのですが、実はこの蛇とは、サタンの化身であったとされます。

悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきたこの蛇は、長い間餌を食べなくても生きている生命力、脱皮をすること、四肢のない体型と頭部の形状が陰茎を連想させることなどにより、古くから「生と死の象徴」とされてきました。

ニョロニョロと動いたりトグロを巻いている様子が「気持ち悪い」という印象を与えやすく、嫌悪の対象になることが多いこの蛇は、どういうふうにエバを騙したのでしょう。

そこまでは、旧約聖書に書かれていないようですが、「おうおうねーちゃん、これ食ったら美人になるで~」とかなんとか、うまいことを言ったに違いありません。

人類をはじめて騙した詐欺師は、蛇だったのです。



だからというわけではないでしょうが、蛇が嫌いな人というのは実に多いものです。1960年代に5歳から12歳の子どもを対象として行われた「怖いと思うもの」を尋ねる調査では、467人のうち約50パーセントの子どもが動物を上げ、その中で最も多かった回答はヘビ類だったそうです。

また、霊長類全般にヘビへの忌避行動が見られるといい、サルも蛇をいやがるといいます。人間も、2歳くらいまでは大蛇も恐れませんが、3歳くらいから警戒を見せるようになり、4歳児以上になると恐怖を示すようになるそうです。ヒトの蛇嫌いというのは、まさに本能であり、その原点は、太古の時代に蛇の詐欺に遭ったからに相違ありません。

この蛇、蛇の生殺し、蛇足、といったふうに、ことわざや慣用句でもあまり良い表現で使われることもありません。苦手(ニガテ)というのも実は蛇から来ているそうで、これは、手を出すだけでマムシを硬直させ、素手で容易に捕まえる稀な才能を持つ手を「ニガテ」と呼んでいたことからきています。

蛇ににらまれた蛙、というふうのもあって、人を恫喝して黙らせる、騙すといった演技も詐欺師が良く使う手であり、冷静に状況を判断して密かに近づき、確実に目的を達する、といった詐欺師の手口は、まさに蛇の行動そのものです。




詐欺師であった蛇は、エバを騙し、アダムを陥れましたが、その本質はサタンであり、悪の起源に基づきます。これに対して、役者は、人類が本能的に持っている模倣への興味、すなわち単純に人や事象を上手に真似たい、という欲求に基づいて成立した職業です。

いわゆる「演劇」の正確な起源は分かっていないようですが、古代の宗教的祭祀が発展したものではないかと考えられているようです。古代ギリシアにおいて行われていた「悲劇」は、神を称える祭儀としての側面を持っていたといいます。

また呪術や宗教的儀式には、人の行為の再現や、自然現象の模倣といったものが重要な要素として含まれていることも多く、ようするに何かを「真似たい」とする人の心理から発生したものにほかなりません。

この演劇というものは、舞台や撮影といった装置が必要なだけに、きわめて多人数の人々が携わることによって成立しています。ところが、俳優ひとりが欠ける、つまり「穴をあける」だけでも舞台や撮影が成立しなくなってしまいます。このため、俳優という仕事は、病気や個人的な都合で安易に休むことができません。

とくに舞台は、観客と生身の俳優が一緒にいる「場」があってはじめて成立するものであり、観客は、例えば早くからチケットを購入し、楽しみに思いつつ、さまざまな困難がある生活の中でスケジュールを調整した上で劇場に足を運びます。役者はそれを裏切るわけにはいきません。

また休演などという事態を引き起こすと、他の俳優にも迷惑をかけ、また観客にチケット代の払い戻しをしなければならなくなり、興行主が莫大な損失を被ることになります。従って、一般に俳優は、風邪などでよほどの高熱が出ても、あるいは少々の骨折などしても出演しなければなりません。

こうした緊張感を持って舞台に立つ、という面は詐欺師も同じかもしれません。もし失敗すれば警察につかまるし、騙す相手が裏世界の人間であれば、場合によっては命を失うこともありうるわけです。

これは想像ですが、おそらく一流の役者さん、一流の詐欺師というものは、それなりの緊張感を持ち、命懸けでそれをやっているに違いなく、それであるからこそ本物のように思わせることができるのでしょう。そう考えると、やはり詐欺師と役者は同じ土台に立っているとしか思えません。

そうした一流の演技者のひとり、大杉漣さんが亡くなりました。詐欺師のみならず、様々な役柄を演じ、「300の顔を持つ男」「カメレオン」などの異名を得たこの名優の死因は、急性心不全だったとか。

66歳という若さだったようですが、ご冥福をお祈りしたいと思います。



十年目

気がつけば2月も中旬になり、バレンタインデーはもうすぐそこです。

実はこの日、我々夫婦の入籍記念日でもあります。しかも今年は記念すべき10周年ということで、長い結婚生活のひとつの節目でもあるわけです。

とはいえ、このあと続く25周年目の銀婚式までには程遠く、50年目の金婚式はまだ40年も先であり、はたしてその時二人はこの世にいるのでしょうか。

この結婚記念日の起源は、神聖ローマ帝国時代に遡るそうで、結婚25周年を祝い、皇帝が妻に銀でできた冠を贈り、50周年では金冠を贈ったことにちなみます。

その後、発展した商業主義によりほかの記念日の品も追加されるようになり、最初のうちは廉価で柔らかく日常的な物から始まり、徐々に高価で硬い貴重品へと変わる、というシステムは20世紀になって確立されたようです。

ところが、元々、「夫婦」としての絆より「家」の絆を重視した日本では、結婚記念日を祝うという習慣はありませんでした。

江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にし、1898年(明治31年)には民法により「家制度」制定されました。しかし、1947年(昭和22年)にはこの民法が大規模に改正され、親族・相続の定義が根本的に変更されたのに伴い、廃止されています。

以後、西洋化が加速し、家同士の結婚という縛りがさらに薄れてきた現代では、西洋並みに夫婦としての絆が重視されるようになりました。結婚記念日に何かを贈り合うという家庭も増えてきたようで、かくいうわが家でも最初は何かをお互いにあげていましたが、最近は記念日にちなんだ品を夫婦で買いに行く、といった形におちついています。

で、今度の結婚記念日としては何かな、とあらためて調べてみたところ、アルミ婚式、もしくは錫婚式だそうで、やはり昨年の陶器婚式よりは少し高級になったな、といったかんじ。

さらに、アルミ婚式、錫婚式の意味を調べてみると、「美しさと柔らかさを兼ね備えて」ということのようで、別に錫やアルミそのものに限定する必要もないようです。ヤカンや寸胴(ずんどう)などの食器のほか、錫・アルミ製のアクセサリーなどもありとのことで、このほかアルミを使用した日用品は数多く、非常に生活に身近な金属です。

金属の中では軽量であるために利用しやすく、また、軟らかくて展性も高いなど加工しやすい性質を持っています。さらに表面にできる酸化皮膜のためにイオン化傾向が大きい割には耐食性もあることから、一円硬貨やアルミ箔、缶(アルミ缶)、鍋、に用いられます。

工業用製品としても、外構/エクステリア、建築物の外壁、道路標識、ガソリンエンジンのシリンダーブロック、自転車のフレームやリム、パソコンや家電製品の筐体など、様々な用途に使用されています。




ただし大抵はアルミニウム合金としての利用であり、1円硬貨のようなアルミニウム100%のものはむしろ稀な存在です。アルミ系合金の筆頭としてはジュラルミンが挙げられます。アルミニウムと銅、マグネシウムなどによる合金になります。

1903年にドイツで確立された合金手法です。このころ薬莢の材料として従来は銅と亜鉛の合金の黄銅を用いていましたが、「もっと軽いアルミニウムを銅と混ぜたらよいのではないか」という発想から、4%の銅を混ぜたアルミニウム合金を作ったところ、軽量でありながら破断に強い合金が得られました。

ジュラルミンとはこれが開発された地名のデュレンとアルミニウムの合成語です。第一次世界大戦の前夜というタイミングでもあり、この頃始まったモノコック成形に最適で、高い耐破断性を持ち、超軽量であることから、航空機材料などに用いられました。

1910年代、ツェッペリン飛行船やユンカースの輸送機への導入を機に、現在に至るまで航空機用資材として広く用いられるようになりましたが、金属疲労に弱く、腐食もしやすいという欠点を持つため、航空機などでは十分な点検体制を取ることが求められています。

今日、このアルミニウムとジュラルミンは世界の工業を支える最も重要な資材として定着しています。

ジュラルミンを含み、現在、日本のアルミニウム用途で最も大きい用途は輸送用機械の製造だそうです。2014年のデータでは、なんと40.1%を占めます。次いでアルミサッシなどの建築用途が12.9%、アルミ缶やアルミ箔などの容器包装用途が10.6%を占め、この3分野が主なアルミニウムの用途であるといえます。

鉄道車両としては、新幹線電車をはじめとして特急型電車や通勤型電車などでアルミ車体の採用例が多いようです。押し出し材を使って長大な部材を一体成型し、さらに連続溶接組立する低コスト化量産法が確立され、同一断面を保った16~25mに及ぶ車体を持つ鉄道車両では生産性の面でメリットが大きいためです。

新幹線では、1982年(昭和57年)に開業した東北新幹線・上越新幹線の初代営業用車両からアルミが用いられました。耐雪装備による重量増加を抑えるためアルミニウムが用いられて軽量化が図られたのがきっかけです。



国鉄民営化後に開発された新幹線車両は、その後アルミニウム車体が一般化、さらにアルミ材の加工手法の発達により、製作費のコストダウンとさらなる軽量化の両立が図られました。この結果、国鉄時代に開発された初期新幹線車両より著しく軽量化されるに至ります。

世界初の210 km/h運転を達成したこの新幹線の成功はまた、欧米各国にも影響を及ぼしました。鉄道先進国を自負していたフランスは、1967年5月28日よりパリ – トゥールーズ間の列車「ル・キャピトール」を欧州において初めて一部区間で200 km/hで運転し、その後も複数の列車を200 km/hで運行するようになります。

その後も1981年に本格的な超高速列車TGVを開発し、営業最高速度260 km/hというスピード世界一を達成し、新幹線の記録を凌駕しました。

さらにドイツも高速列車の開発に参入し、2003年に開業した中国・上海浦東国際空港へのアクセス用に建設された上海トランスラピッドの最高速度は430 km/hに達しました。ただし、現時点では、浮上式鉄道を除くとフランスTGVの高速試験車V150編成が記録した574.8 km/hが最高速度です。

これに対して、日本の非浮上式鉄道の最高記録はJR東海の300Xによって達成された443 km/hで世界第3位であり、さらに高速な車体の開発も模索されています。

一方では、こうした非浮上式の鉄道である新幹線がこれ以上のスピードで営業運転を行うのは無理と考えられています。とくに東海道新幹線は建設時期が古く、カーブなどの線路状況が200 km/h台の設計になっています。

より新しい山陽新幹線・東北新幹線などもフランスやドイツなどと比較すると山岳区間が多く、路線の起伏やカーブの設計などにおいて高速化を妨げる点が多いようです。特に東北市感染は上越新幹線共々寒冷地の耐寒・耐雪装備が不可欠であり、重量的に不利といわれます。

また沿線に住宅地が多いため、騒音への対策も必要となるなど、300 km/h以上の運転には解決すべき課題が多いようです。

JR東日本は2004年から360 km/h走行を前提とした試験車両を開発し、さらに2009年からはこれをベースとして320 km/hでの走行を前提にした車両を製造しました。そして、新青森延伸後の2011年3月5日に300 km/hで営業を開始し、2013年3月16日より320 km/hでの営業運転を開始しています。

さらにJR東海は東海道新幹線の一部区間で、営業時の最高速度を270 km/hから330 km/hに引き上げることを検討しています。330 km/h走行は京都 – 米原間の直線が長い一部区間を対象に「のぞみ」の始発や終発に限った運行を想定。最先端の車両であるN700系を使い、前方に待機列車がなく、性能を存分に発揮できる時間帯に導入されます。

しかし、どうあがいても非浮上式では400 km/h以上の地上走行は無理と考えられており、将来的にはやはりリニア新幹線に期待がかかっています。

現在、2027年に予定している中央新幹線(品川駅 – 名古屋駅)開業の際の営業用仕様としては、L0系が開発されています。L0系(エルゼロけい)の「L」はLinear(リニア)を、「0」は0系新幹線のような第1世代の車両を意味します。

最近のニュースで、大手ゼネコンによる談合が問題になっている通り、既にこの車両を走らせる路線も建設中であり、既に2013年(平成25年)8月29日に、山梨リニア実験線の全区間42.8kmが完成しています。

2015年4月14日には、この路線を使って試験走行を行い、2003年に記録した2876kmの24時間走行記録を更新したのに続き、4月21日には世界最高速度603 km/hを達成しました。



この記録を達成した実験線は、2020年東京オリンピック開催前に、山梨県駅まで延伸した上で、起点の実験センター ~ 山梨県駅間で乗降できるようにする検討がされているといいます。

現在、冬季オリンピックが開催されていますが、その2020年までもうあと2年と迫ってきました。そしそのさらに7年後にはリニア新幹線が開通するというのは、何か夢のようでもあります。

実はこの2027年には、あの「あべのハルカス」を90メートルも超える、高さ日本一を更新するビルが東京駅前に完成予定だといいます。三菱地所は2015年に、「朝日生命大手町ビル」を含む東京駅日本橋口前の常盤橋地区を再開発し、この高層ビルなど計4棟のビルを建設すると発表しています。

計画によると、事務所、店舗、駐車場を含む複合ビルのB棟は、地上61階・地下5階、高さ約390メートル、延べ床面積が約49万平方メートルと大規模になるといいます。同ビルの建設は、2023年から開始する予定だそうです。

リニア新幹線が完成し、この日本一のビルが出来上がる2027年まであとわずか9年。我々の結婚記念日はそのとき19年目を迎えますが、その翌年にはさらに記念すべき20周年を迎えます。

改めて結婚記念日を調べてみると、磁器婚式、陶器婚式だとか。その心は、「年代と共に値打ちが増す磁器のような夫婦」だそうです。

はたしてその通り値打ちが上がるかどうかは、これからの心がけしだい。仮に値打ちがあがらないにせよ、せめて価値が下がらないよう、頑張りたいものです。

そのためには、さらにお互い、自己啓発・自己開発もかかせないでしょう。20年目の陶器婚式を目指して、今から陶芸家を目指すのもいいかもしれません。



軍神

明治2年(1869年)6月、大村益次郎は、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜りました。

また、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部となるとともに、軍務官副知事に就任し、軍制改革の中心を担うことになりました。軍務官とは、新政府の軍事防衛を司った機関で、長である知事には小松宮彰仁親王が就任しました。

6月21日から25日にかけての軍務会議では、大久保ら、旧薩摩藩幹部とともに、旧征討軍の処理と新たな軍隊の建設方法について話し合われましたが、ここで両者の考え方を巡ってちょっとした論争が起こりました。

新しい軍の制定について、益次郎は、特定の藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図るべきだと述べましたが、大久保らは薩長土の藩兵を主体にし、旧来の藩兵を中心にした中央軍隊を編成すべきだと主張しました。

益次郎は、兵の招集にあたり、諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵、といった順番で実施し、最後には兵学校設置による職業軍人の育成を図りたいと考えており、次いで、大阪における軍基地や兵器工場の建設、鎮台の整備などハード面での整備を進めて強い軍隊の骨格を形成する、といった青写真を頭に描いていました

中でも特に、軍を構成する兵の招集が重要と考え、「徴兵令」の制定が必要と考えていましたが、これに対して、大久保は戊辰戦争における激しい士族の抵抗を例にあげ、徴兵を実施すれば、かえって士族の反発を招くと意見しました。また、岩倉具視らも、農民の武装はそのまま一揆につながるとして、彼が提唱する徴兵制には慎重な態度をとりました。

一方、この軍務会議のもうひとつの議論、旧征討軍の処理というのは、主として京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いのことで、これについては、三兵が「御召」 として東下して天皇直属の御親兵となることが決定され、これがのちの「近衛」となりました。

これにより、薩長土の藩兵を主体に中央軍隊を形成すべきとする大久保らの意見の一部が通った形になりました。続いて棚上げになっていた益次郎の提唱する徴兵制について再度話し合いがもたれましたが、大久保らは繰り返し「藩兵論」を主張し、益次郎ら主張する「徴兵制(農兵論)」と激しく衝突しました。

しかし会議の結果、この兵制問題は後日改めて議論することとされ、その他の益次郎の建軍プランも、当面凍結されることが決定されました。

益次郎と大久保のこの論争は、二人の間に深い溝を築きました。その後「参議」に就任した大久保は、文字通り権力の中枢に座り、版籍奉還、廃藩置県などの重要案件を実施に移して明治政府の中央集権体制確立を行いましたが、人事についても強い発言力を持ち、対立していた益次郎の更迭にも言及するようになります。

その噂を聞き、憤懣やるかたない益次郎はほどなく辞表を提出しましたが、軍事に関してはこの当時の政府内では益次郎を抜きんでる者はありませんでした。このため、このころ名を桂小五郎から木戸孝允と名を改めていた木戸は、益次郎を呼び出して慰留するとともに改めて支持を約束しました。

木戸は維新後、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われて重用され、ただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となっていました。

その権限を利用して、それまでの「軍務官」を改組して「兵部省」を設置することを決めており、このとき軍務官副知事だった益次郎に、引き続き、現在の「次官」に相当する兵部大輔(ひょうぶたいふ)への就任を要請しました。

兵部卿もまた、軍務官知事だった小松宮彰仁親王がエスカレートして就任することが決まっていましたが、名目上の存在であり、実務は次官である大輔が執り行いますから、これは事実上軍のトップへの就任要請でした。




大久保はその後の明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると、「富国強兵」をスローガンとして殖産興業政策を推進します。その一環として学制や地租改正も推進しましたが、加えて、あれほど反対していた徴兵令を実施しています。

その翌年には、佐賀の乱、3年後には萩の乱、4年後には西南戦争が勃発しており、幕末に活躍したこれら雄藩における不平武士の鎮撫にあたっては、この徴兵令によって全国から集められた兵が活躍しました。

このとき、もし大久保が主張していた「藩兵論」に基いて組成された中央政府軍がこれらの各反乱に当たっていれば、「同郷」どうしが戦うことになり、その平定は困難を極めたと想像されます。彼自らがその誤りに気づいて徴兵制を導入したと考えれば、益次郎の先見性が正しかったことがこれで証明されたといえます。

しかし、その徴兵令が実施されたころにはもう益次郎はこの世にいません。とまれ、旧薩摩勢との軋轢があったとはいえ、こうして木戸の助力によって兵部大輔に就任した益次郎は、誰にも邪魔されることなく近代日本の軍制建設を牽引していきます。

その手始めには、戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞(たいじょう;兵部大輔、兵部少輔に続くNo.3)に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任しました。山田は松下村塾における、最年少の14歳で入門で、かつ松陰の最後の門下生です。

顔の広い山田は旧長州藩を中心とし、各藩諸隊から約100名を選出しましたが、早くもこの年の9月からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練が開始されました。この操練所は京都市左京区にある聖護院(しょうごいん)付近にあったもので、京都御所の東側およそ1kmのところに位置しますが、現在は跡形もないようです。

ちなみに、No.2の兵部少輔はかつて長州藩において益次郎の上司だった前原一誠です。後年、益次郎の死後、その跡を継いで兵部大輔に就任しますが、その7年後の明治9年(1876年)、不平士族を集めて萩の乱を引き起こしました。しかし、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処されました(満42歳没)。

新軍の幹部を選定し、兵制の骨格を整えた益次郎が次に行ったのは、課題としていたハード面であり、彼はとくに大阪に軍の基地、兵学校や武器工場を置くことに執着していました。

大阪に着眼したのは、当時、東北の動向を心配する関係者に対して彼が「奥羽はいま十年や二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である」と答えたように、西郷らを中心とする薩摩藩の動向が気になっていたためと言われています。

すでに西南戦争を予想していたわけであり、このため、軍務官の時代に既に大阪城近くに設置されていた大阪出張所に加え、9月にはここに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする軍隊の構築を始めました。

このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定しました。このように益次郎が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、上の通り、東北平定後の西南雄藩の動向を警戒してのことですが、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由もありました。

このように着々と畿内に軍施設が構築されていた明治2年(1869年)8月、益次郎はその進捗状況の視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張しました。ところが、このころの京都では不穏な噂が流れていました。

薩摩藩の海江田信義がかつての遺恨を晴らすため、不平士族たちを使って益次郎を襲うよう煽動している、といった巷談です。事実、維新政府が矢継ぎ早に出す武士階級を否定するような令に反発するものは多く、とくに士族を含めた国民に公然とした帯刀を禁ずる「廃刀令」が出されるという噂が流れると、猛反発が起こりました。

この海江田信義というのは、若い頃から西郷や大久保と行動を共にし、長じてからは彼らのボディーガードのように常につき従っていた人物です。血の気が多く、島津久光に付き従って横浜に来たときに発生した生麦事件では、久光の行列を遮って斬られ瀕死となっていたイギリス人・チャールス・リチャードソンに止めを刺したことで知られます。



戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となり、江戸城明け渡しには新政府軍代表として西郷を補佐し、勝海舟らと交渉するなど活躍しており、新政府においても弾正台・支所長官という、いわば地方警察の長のような役職に任じられていました。

ただ、弾正台というのは、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に設立された省庁であり、いわば厄介者を集めた巣窟でした。

不平武士を多く採用したため、新政府の改革政策に反対することもしばしばで、他の官庁とも対立していましたが、監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さいものでした。

このため、主流派から外されて集められた弾正台の尊攘派は、彼らの政敵たる府藩県・各省の幹部の非違を糾する程度で満足せざるを得ませんでした。しかし、やり玉にあげたからといって彼らを一掃できるわけではなく、多くは罰金で済ませられました。

満足しない彼等はこの時期、夜中に出回り、自分たちの主張を妨げる新政府の要人を殺傷することで憂さを晴らしていたといわれており、その裏幕の首領こそが海江田である、というのも巷の定説でした。

そんなヤクザ集団の親玉になっていた海江田はもともと大雑把で、緻密な益次郎とは性格もさることながら意見が合わず、宇都宮の政府軍の庄内転戦、江戸城内の宝物の処理、上野戦争における対彰義隊作戦などをめぐってことごとく対立し、周囲の人間に「殺してやりたい」などと漏らすなど、益次郎を憎悪していたといいます。

木戸孝允らは、こうした海江田などの不平分子によるテロの危険性を憂慮し、益次郎の京阪出張に反対しました。木戸と同郷の槙村正直(のち男爵)に送った書簡では「海江田のごとき、表裏の事申し来り候につき」、と名指しで危険人物として注意するよう益次郎に促していました。

が、彼はそうした制止を振り切るように中山道から京へ向かいました。8月13日に京に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ、20日に下阪。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分しました。

9月3日、京へ帰り、翌4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上の旅館の二階において、博習堂の門人でこのころ長州藩大隊指令になっていた静間彦太郎、益次郎の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと酒を酌み交わしながら会食中でした。このとき、もうひとり、益次郎の身の回りの世話をする若党の山田善次郎が、脇で控えていました。

夕方6時ごろ、といわれています。二人の男が訪ねてきて名刺を差し出し、「大村殿に面会したい」と旅館の取次の者に告げたため、これに応じて山田が階下に降りてきました。彼は「今晩は差支えがあるので、明日、兵部省へお越しください」と伝えましたが、相手は「いやぜひ今晩ご面談願いたい」と言い張るので、やむなく引き返しました。

山田が二階へ上がり、奥に入ろうとしたところ、後から二名の者がのぼってきてヅカヅカと奥に踏み入れ、いきなり彼に斬りつけ、さらに賊の一人が「国賊、大村を討ち果たす」と叫びながら益次郎に向かって斬りかりました。このとき、山田は負傷しながらも、身を挺して主人を守ろうと素手で防いだため、益次郎は致命傷を免れました。

その場に居合わせた安達は、刺客を大村から引き離そうとしたのか「賊だ!」と叫びながら、窓から加茂川の河原へとび降り、静間もこれに続きました。二人の襲撃者がそのあとを追って飛び降りたので、益次郎はそれ以上の難を逃れ、這って浴室まで行き、ここでしばらく風呂の中に隠れていました。

一方、鴨川の河原に飛び降りた二人は、前もって待ち構えていた刺客によってメッタ斬りにされ、命を落としました。安達幸之助は、顔立ちが益次郎によく似ていたと言われ、彼と面識のあった刺客の一人、神代直人は、倒れている安達の顔を見て「大村を討ち取った」と叫んだと伝えられます。




河原で待ち受けていたことからわかるように、のちの調べでは、このとき刺客は三手にわかれていたことがわかっており、この襲撃は計画的なものでした。事件後直ちに、各所に使者が走り、京都府大参事(現在の副知事)の二人、河田景与(かげとも・鳥取藩出身)、槙村正直(長州藩)も現場に駆けつけました。

騒ぎを知って駆けつけた人々の気配を察した益次郎は、風呂蓋をあけておそるおそる自力で出てきたといい、このとき、「皆さん、ご心配で有難うございました。しばらくサザエの真似をしておりました」と言ったといい、意外に沈着で元気そうなその様子に、一同、ほっと胸をなでおろしました。

このとき、「私は医者ですから」とも言ったといい、このあと「命に別状がないことは自分でもわかります」とでも続けたかったのでしょうが二の句はなく、そのまま意識を失いました。この時点では命の危険があるとは、おそらく医者でもあった大村自身も思ってもみなかったのではないでしょうか。

しかし、その傷は軽傷どころではなく、前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、右膝関節などが切り込まれ、とりわけ右膝の傷は、動脈から骨に達するほど深手でした。河原に飛び降りた、静間と安達は死亡。若党の山田善次郎はこのときまだ息がありましたが、翌日の明け方に息を引き取りました。

襲ったのは、元長州藩士の団伸二郎と神代直人、久保田藩士の金輪五郎ら8人とも12~13人だったとも言われているようですが、員数には諸説あります。

兇徒が所持していた「斬奸状」には、益次郎が推進した兵制における急進的な変革に対する強い反感をほのめかす内容がありました。首領格の神代直人あたりが書いたらしく、彼は益次郎の出身の鋳銭司村にもほど近い周防国吉敷郡大道出身で、剣技は巧みだったようです。

神代は、高杉晋作らとともに積極的に尊王攘夷運動を推進していた、同郷の大楽源太郎という男に師事していました。結果、師匠以上に狂信的な攘夷論者となり、次第に開国派になっていった高杉の暗殺を計画するようになりますが、果たせませんでした。高杉が亡きあとは、その意志を継いだ者として益次郎に目をつけていたようです。

益次郎襲撃後はしばらく豊後姫島に潜伏していましたが、師である大楽源太郎が政府から嫌疑をかけられている事を知ると周防へ戻り、捕吏が来る前に自害したとも捕縛されて斬首されたと伝えられています。残る襲撃犯もほとんどが逮捕されたようですが、そのうちの主要メンバーである6名が、年内に処刑されました。

ちなみに、この益次郎の遭難時、若年だったころ彼に師事していた西園寺公望もこの宴席に呼ばれていたようです。しかし「どうせ行っても湯豆腐に決まっている」ので、たまたま出会した知人に祇園に誘われたのを幸いそちらへ流れ、遭難を免れたと、という話も残っています。

西園寺はその後、「最後の元老」として昭和まで生き続け、大正天皇、昭和天皇を輔弼(ほひつ)を務め、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えましたから、もしこの時遭難していれば、益次郎の死以上にその後の国政の運営に影響を与えたでしょう。

主犯格とされた神代直人は、ふだんから海江田信義と親しくしていたといい、彼が弾正台・支所長官に就任したのち、神代ら浪人達とつきあいがあった事は、後年の海江田自身の談話録にも記録されています。それにしても弾正台といえば今の京都府警のような存在であり、その長官が、政府要人の暗殺に寄与していたとすれば、現在なら大スキャンダルです。

海江田は、その後の神代直人以外の犯人の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣され、刑の執行直前でこれを差し止めています。さらには益次郎の政策を非難し、暗殺は彼らの自業自得であると主張、あまつさえ暗殺犯の減刑までも主張するに至ると、さすがに東京の新政府内部で問題視されるようになりました。

「粟田口止刑事件」として告発された海江田は、その後政府の取調べを受けた結果、謹慎処分となりましたが、巷ではこれらのことから、海江田が神代らを扇動してかねてから憎悪していた大村を殺した、というのが事実のように流布されました。

海江田自身は、嫌疑を心配する大久保への返事に、大村の来京の事実を知らず、その風聞は自身を罪に落すものであると否定したといいます。が、この事件が原因でその後長州出身者の反発を受けるようになり、華族制度施行の際にも伯爵になれず子爵にとどまったともいわれています。

とはいえ、晩年の明治24年には枢密顧問官にまで上り詰め、明治28年、勲一等瑞宝章。明治35年(1902年)、勲一等旭日大綬章のあと、明治39年(1906年)に75歳で死去。贈正二位。墓所は青山霊園。




この事件で、益次郎は一命をとりとめましたが、その後の経過は思わしくなく、3日後の7日までに京都の山口藩邸へ移送されて治療を受けますが、その後、傷口から菌が入り敗血症になったことが明らかになりました。

9月20日、オランダ人軍医ボードウィンや、緒方洪庵の次男で明治天皇の侍医となっていた緒方惟準らの治療を受け、ボードウィンらが設立の準備をしていた大阪陸軍病院(または大阪仮病院、後の大阪大学医学部付属病院)に転院することが決まりました。

10日後の10月1日、益次郎は、のち総理大臣の寺内正毅、同じくのちの陸軍大将・児玉源太郎ら、郷里の弟子らの手によって担架で運ばれ、京都から大阪へ到着すると、現吹田市内の鈴木町代官屋敷跡付近でまだ建設中だった大阪陸軍病院に入院します。

ここで、かねてより親交のあったシーボルトの娘で産科医の楠本イネやその娘の高子らの看護を受けますが、病状は好転せず、ついにはボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることになります。しかし、凶行を受けてからかなりの時間が経っているのに加え、手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、さらに処置が大幅に遅れました。

当時の兵部省宛の報告文に「切断の義は暫時も機会遅れ候」とあるように既に手遅れとなっており、10月27日手術を受けましたが、4日後の11月1日は敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去しました。襲撃後ほぼ2ヶ月を持ちこたえたことになります。享年46。

このとき、益次郎は自己の死を予感していたようで、手帳には次のような詩歌が残されていました。

今さらに何をかいはん 代々を経て 君のめぐみに報ふ身なれば
君のためすつる生命は 惜しからで ただおもはるる国の行く末

自歌ではなく、文久3年に切腹して果てた、同郷の重役、長井雅楽の辞世の詩です。

保守派であった長井は、坂下門外の変のあと、長州内でも松陰ら尊王攘夷派が勢力を増したために求心力を失い、暴走する攘夷派の責任を取らされるような形で切腹させられて果てましたが、彼が立案した「航海遠略策」は内外に高く評価されていました。積極的に広く世界に通商航海して国力を養成した上で諸外国と対抗していこうとする策です。

実直な現実主義者であった長井の思想行動は、あくまで幕藩体制を維持するという縛りからは逃れることはできませんでしたが、当時の状況を冷静に認識し、航海遠略策のような現実的な方針政策を打ち出せたことなどを益次郎は評価していたのかもしれません。またその潔い死は、何か彼の心の琴線にかかるものがあったのでしょう。

益次郎はまた、その臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」とその後帝国陸軍創設に寄与した元広島藩士、船越衛に後事を託していた、という話は有名です。

また、「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ」と遺言していたといい、師の洪庵を死すまで尊敬していたことがうかがわれます。



益次郎死去の報を受けた木戸は、11月12日の日記で「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と書いており、また12月3日付の槙村正直宛の書簡でも「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」と、その無念さを述べています。

11月13日、従三位を贈位し、益次郎に金300両を賜る宣旨が下されました。遺骸は妻・琴子によって郷里にもたらされ、11月20日に葬儀が営まれました。墓所は山口市鋳銭司に設けられましたが、その後、遺骨の一部が靖国神社に持ち込まれ、合祀されています。

益次郎が、死の直前に周囲に語った軍制構想はその後山田顕義ら彼の弟子と目されていた人物によってまとめられ、11月18日に「兵部省軍務ノ大綱」として太政官に提出されています。

また、益次郎の「農兵論」は、同じく山田らによって、その後に「徴兵規則」として実行に移されました。さらに兵部省が設立された後、明治6年(1873年)1月10日に「国民皆兵」を謳った「徴兵令」が政敵だった大久保利通によって制定されるに至ります。以後、この日が毎年徴兵による新兵の入営日となりました。

陸軍は初年度、各県から計3272人の徴員を要請しましたが、地方県で400名、東京で100名程度が応募したにすぎなかったといわれています。

しかし、兵部省はさらにその後全国を6個の軍管区(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に分け、それぞれに置かれた鎮台で募集をかけた結果、合わせて平時兵力約3万人を擁するに至ります。

このころ国民の大多数が農民であり、農作業よりも楽であり、毎日白米六合が食べられ、毎晩風呂にも入れて、布団で寝られる(当時の農民はまだ藁で寝るのが一般的だった)、といった軍隊は楽園でした。さらに、休日もあり、給料も安定して支払われることから、明治時代には「軍隊に行くとなまけ者になる」という評判すらあったといいます

とはいえ、これらの兵員は、西南戦争をはじめ、その後立て続けに起こった反乱士族の鎮圧の際、益次郎が期待したとおりの働きをしました。

その後も新政府は富国強兵を国策に掲げ、日本軍の「国民軍」としての体裁を整えていきました。とくに陸軍は鎮台を廃止し師団制に移行。海外において外国軍隊との戦争を行いうる軍制に移行するに至ります。

陸海軍共に初期の仮想敵国はロシアでしたが、日露戦争後は陸軍はロシア革命後のソビエト連邦を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なして軍備をすすめました。日露戦争前後からは小火器を筆頭に次第に国産化がすすみ、明治期末から大正期にはアジアの軍事大国として列強の一員となりました。

しかしながら、他の列強各国より劣る基礎工業力や、陸海軍ともに拙劣な運用やドクトリンにより、大東亜戦争(太平洋戦争)期には緒戦の一時期を除き欧米を凌駕することはできませんでした。

ミッドウェー海戦・ガダルカナル島の戦い以降反攻に転じたアメリカ軍に対して、キスカ島撤退作戦など撤退が成功した例を除き、劣勢な各地の陸海軍部隊は壊滅していき、結果、敗戦となり、益次郎が創設した日本軍は解体されました。

その益次郎がまだ生きていたころの明治2年(1869年)6月、彼は戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、「東京招魂社」の建立を献策しています。この案は、明治天皇の勅許を受けて実施に移され、明治2年7月29日(8月6日)に、戊辰の戦没者3,588柱の合祀鎮祭が行われ、ここに「東京招魂社」が創建されました。

その後、軍当局は、これを正規な神社へ改めよう朝廷へ圧力をかけ、社名の変更とともに「別格官幣社」として従来の神社とは異なる列格の新たな設置を要請します。明治天皇はこれを了承し、1879年(明治12年)にそれまでの東京招魂社の名を「靖國神社」へと改めました。




2018年現在、その「御神体」して祀られている者は、幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航(所謂「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者です。少し前のデータですが、2004年(平成16年)10月17日現在でその柱数は計246万6532柱にも及びます。

これらの中には、大村益次郎をはじめ、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、などの新政府軍側の戦没者が維新殉難者として合祀されています。

禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らもまた、朝廷(天皇)を守護したとして祀られているほか、長州藩はこの禁門の変では賊軍とされていますが、戦死(実際は自害)した久坂玄瑞などは合祀されています。この他に、当時の段階でも国際法違反である外国領事館・外国人襲撃者も祀られています。

しかしこれに対して、戊辰戦争での旧幕府軍の兵士や、奥羽越列藩同盟の兵士、新選組や彰義隊などの旧幕臣の戦死者は祀られていません。また、明治維新の功労者であっても、その後に叛乱を起こし、あるいは叛乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていません。

このように、靖国神社には、太平洋戦争以前の戦役で没した人々については祀られていたり、祀られなかったりと、つじつまのあわない不合理な状態を抱えたまま、現在に至っています。また、「戦犯」とされるかつての指導者たちも合祀されていることから、「侵略の象徴」として諸外国から批判を浴びています。

戦後、戦前の陸海軍から名を変えた自衛隊の隊員が公務で殉職した場合には靖国神社へは合祀されなくなりました。本来は、「戦没者」を祀る神社として作られたこの神社に祀ることは、自衛隊が「軍隊」とみなされるからです。

れっきとした軍人である彼らが、益次郎が望んだ戦没者の追悼場である靖国神社に祀られていないことについて、当の本人はあの世でどう思っていることでしょう。旧幕府軍の戦没者についてもしかり。自分が献策して戦争で没した者のために建てられたこの神社が、はたしてその目的を果たしている、と考えているでしょうか。

かつて東京招魂社と呼ばれた靖国神社の参道のど真ん中には、建立場所決定直後に暗殺された大村益次郎の銅像が今も立っています。1893年(明治26年)に造られた日本初の西洋式銅像であり、戦時中の金属供出によって多くの銅像が失われた中でも、この像だけは残りました。

戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したものといわれます。「軍神」といわれた彼が追っている目線の先には、戦いのあとに死した者たちすべての人々の姿があるように思えます(この項終わり)。



明治元年

慶応4年の年明けに始まった戊辰戦争は、2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃したことによって始まった、とされます。

ここでいわずもがなですが、「戊辰(ぼしん・つちのえたつ)」の意味を簡単に説明しておくと、これは60通りある、干支のひとつです。干支は月や年を表すために中国で使われるようになったものです。

なぜこのような呼称が使われるようになったかについては諸説あるようですが、一番単純な理由としては、「あの年」といったときにどの年だかわからなくなるので、戊辰の年だよ、といえば、どの年だか特定しやすくなるためです。

10種類からなる十干と、12種類から干支の組み合わせ(積)は120となります。が、最小公倍数は60になります。戊辰と辰戊は同じのため、一つとみなすわけです。

十干は、甲・乙・丙・丁…と始まりますから、その後ろに子・丑・寅・卯・辰・巳…で始まる十二支をつけると、順番に甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰…となります。こうした周期性を昔の人は覚えていて、あの年だよあの年、どの年だよ、といった議論になったときに、○○の年、といえば意志疎通がしやすくなる、というわけです。

この干支の5番目にあたる戊辰の年は、年号で表わすと慶応4年(1868年)となりますが、維新によって元号が改められたため、同年9月8日(現10月23日)をもって「明治」に改元、同年1月1日(現1月25日)に遡って明治元年となりました。




徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した慶長8年(1603年)から265年間続いた江戸時代はこれで終わりをつげ、明治の時代が始まりました。

しかし、その新しい時代の幕開けには、日本人同士が戦い、多くの血を流した戊辰戦争という市民戦争がありました。このうち、最初の一週間ほど畿内で行われた戦闘を「鳥羽・伏見の戦い」といいますが、これが特別視されるのは、戦闘の間に数多くの政変がおこり、めまぐるしい駆け引きが旧幕府勢力と新政府の間に交わされたからにほかなりません。

京都南部を中心に各地で繰り広げられたこの戦いによる犠牲者数は、新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれており、短期間にしてはかなり多い数です。これは、両軍ともに最新式の銃や大砲などを保有していたためですが、旧幕府軍の犠牲者が新政府軍のそれの2倍にも及ぶのは、新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことを意味します。

こうした近代兵器をもって戦われた我が国初の戦争の始まりは、上述のとおり、海上で始まったとされますが、地上では、慶応4年1月3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触したことに始まります。

御所をめざし、街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過しました。しかし、業を煮やした旧幕府軍が午後5時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告。

薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥りました。この時、歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず、奇襲を受けた形になった旧幕府軍の先鋒は潰走しますが、後方を進行していた桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始しました。

日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍は再三攻勢を仕掛けますが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却。

一方、伏見でも昼間から通行を巡って問答が繰り返されていましたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれました。旧幕府軍は旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣しました。

奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けると、高台に布陣していた薩摩藩砲兵等がこれに銃砲撃を加えます。旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返しますが、午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し、奉行所は激しい爆発を繰り返しながら炎上しました。

新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入。こらえきれずに旧幕府軍は現在の伏見区南部、淀駅付近まで逃げ落ちました。



この時の京都周辺の新政府軍の兵力は5,000名(主力は薩摩藩兵)。対して旧幕府軍は15,000名を擁していました。この緒戦では、旧幕府軍は総指揮官の逃亡などで混乱し、旧狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれました。

翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、新政府軍の反撃を受けて指揮官の相次ぐ戦死などで形勢不利となり、後退。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わったため、旧幕府軍は敗走しました。

この日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、いわゆる「錦の御旗」が与えられます。これにより、新政府軍は「官軍」となり、錦旗を見た幕府軍が戦意を喪失するなど、その後の戦況にも大きな影響を与えました。

5日、伏見方面の旧幕府軍は、現在の宇治市にもほど近い、淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃しますが敗退し、淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとします。しかし、淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒みました。

入城を拒絶された旧幕府軍は、さらに大阪方面の男山・橋本方面へ撤退を余儀なくされ、これを追う官軍に追撃されて多数の負傷者・戦死者を出しました。この戦闘には新選組が参加しており、その隊士の3分の1がここで戦死したといわれています。

6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣しました。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張りまし。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にありました。

ところが、対岸の大山崎や高浜台場を守備していた津藩が、突然旧幕府軍へ砲撃を加えました。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れ、こうしておよそ4日に渡って行われた鳥羽伏見の戦いはあっけなく終わりました。

このとき、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説きましたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却しました。

総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還しました。このとき、会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれています。

長輝にしてみれば、よもや総大将が逃亡するとは思いもしなかったでしょう。しかし、残った旧幕府軍を見捨てるわけにはいかず、陣営に残ることとなりましたが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになります。

7日、朝廷において慶喜追討令が出され、ここに旧幕府は朝敵とされました。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となりました。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順。諸外国の列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失いました。

さて、この戊辰戦争における大村益次郎の動向ですが、長州藩では、鳥羽・伏見勃発後の1月14日、毛利元徳(敬親の養子、のちの最後の長州藩主)が京へ進撃し、17日に益次郎はこれに随行する形で軍制掛本役に復帰しました。先に主戦派から左遷されていた益次郎ですが、この戦いの勃発により、改めて時代の表に姿を現した格好です。

22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着。その際、益次郎は新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られます。22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢となり、いきなり朝臣となりました。

左遷により事務に追いやれていた四十男が、いきなりメジャーレビューを果たしたようなもので、このあたり、面白いというか時代に翻弄されているというか、この人物の運がここで大きく転回しました。

一方、このころ鳥羽伏見の戦いを放り出して江戸へ逃げ帰った徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示しました。

片や、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻りました。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示しますが、新政府の権威は認めませんでした。このため、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もせず、その一方で、庄内藩と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めました。

旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から、この会津藩等を頼り東北地方へ逃れました。一方の新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍しました。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとしました。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めましたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗します。近藤勇は偽名を使って潜伏しましたが、のち新政府に捕縛され処刑されました。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に対して、朝霧に紛れて三方からの奇襲攻撃をしかけました。幕府軍は応戦し、熊谷一帯で市街戦が起こりましたが、最終的には幕府軍の敗北で決着がつきました。この戦いは、戊辰戦争の東日本における最初の戦いとされます。




このころ、明治新政府御用となった益次郎は、京・伏見の兵学寮におり、これらの戦いには関与していません。ここで各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを始めようとしていました。

3月に入ってからは、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、天保山(現大阪市港区にあった砲台)での海軍閲兵、さらに4月に入ってからは大阪城内で陸軍調練観閲式を指揮するなど、軍指揮官としてめまぐるしい毎日を過ごすようになりました。

4月4日には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなりましたが、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的でした。

このころ益次郎は、岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べています。その意見を受け入れる形で、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられ、4月下旬には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任することになりました。

この役職からもわかるように、このころの益次郎は既に長州藩の重役ではなく、明治新政府の軍事責任者であり、来る時代の軍務を司るリーダーとしての地位を確約されていたことがわかります。

このころ江戸では、旧幕府残党が各所に立て籠もり、不穏な動きを示しましたが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化していました。これに対し、新政府はこの益次郎の手腕を活かして混乱を収めようとします。

そこで彼はまず、新政府の総裁に任命されていた有栖川宮熾仁親王が組織した大総督府の再編成に着手しました。大総督府には、戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分の裁量権などが与えられていましたが、江戸市街の鎮撫を行う軍隊的な機能はほとんど整備されていませんでした。

このため、旧幕府が持っていた目黒の火薬庫製造所を大幅に拡充するとともに、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、江戸城から改名して東京城となった皇居の警護のために、のちの近衛師団の元となる「御親兵」を創設するなど、矢継ぎ早に手を打っていきました。

ちなみに薩長土から徴集された藩士を中心に組成されたこの御親兵がのちの帝国陸軍の原型といわれています。



5月1日には江戸市中の治安維持の権限を旧幕臣の勝海舟から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、江戸市中の全警察権を収めるに至ります。

しかし、このころ、旧幕府残党が上野寛永寺に立て籠もり、不穏な動きを示し始めました。いわゆる「上野戦争」と呼ばれるこの討伐戦は、徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎ら旧幕臣によって結成された彰義隊に対するものでした。

勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊をどうにか懐柔しようとし、解散も促しましたが、東征軍(明治新政府軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がると、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返はじめました。

勝との江戸城会談で幕府恭順派である勝と仲良くなっていた西郷隆盛は、勝の手前、なかなか彰義隊の討伐を言い出せませんでした。このため、対応が手ぬるいとの批判を受けるに至り、大総督府は西郷を司令官から解任し、益次郎を新司令官に任命。彼は海江田信義ら慎重派を制して武力による殲滅を宣言しました。

1868年7月4日(慶応4年5月15日)未明、益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を敢行。午前中は屈強な彰義隊の抵抗に会い撃退されますが、午後から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王台(西郷隆盛銅像付近)に着弾し始め、彰義隊を撃破、一日で争乱は終了しました。

この戦闘中、益次郎は江戸城内にいました。戦闘が午後を過ぎても終わらず、官軍の指揮官たちは夜戦になるのを心配していましたが、アームストロング砲による砲撃が開始されたと聞くと、彼は柱に寄りかかり、懐中時計を見ながら平然と言い放ったといいます。

「ああもうこんな時間ですか。大丈夫です。別にそれほど心配するに及ばない。夕方には必ず戦の始末もつきましょう。もうすこしお待ちなさい。」

やがて江戸城の櫓から上野の山に火の手が上がるのを見て「皆さん、片が付きました」と告げたといい、ほどなく戦勝を告げる伝令が到着すると、一同皆が驚いたといいます。

また彰義隊残党の敗走路も彼の予測通りであったといい、先の四境戦争でも見せたような彼の優れた戦況分析能力がまたここでも実証されました。

その後上野では、渋沢成一郎が率いる振武軍が彰義隊の援護に赴きましたが、行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却しました。また、天野は市中に潜んで再起を図りましたが、密告で捕われ、のち獄中生活五か月余で病没。この争乱で寛永寺は壊滅的打撃を受けましたが、戦死者も多く、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。

この彰義隊殲滅作戦を実施するには50万両もの大金が必要だったといわれます。その調達のために、益次郎は米国より購入予定だった軍艦ストンウォールジャクソン号の準備資金25万両を交渉役の大隈重信から分捕り、更に新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて何とか50万両を揃えました。

この戦闘は、それまで長州外の世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものとなりました。新政府からの評価も高く、上奏から従四位下に昇叙され、このころ準備されていた「鎮台」の中央組織、「鎮台府」の会計掛にも任命されました。つまり新政府軍の財布をそっくり手渡され、自由にやれ、と言われたことになります。

まだ戦闘が継続中の10月2日には、軍功として益次郎は朝廷から300両を与えられました。同日の、妻・琴への益次郎の手紙には「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示しています。

その後益次郎はこの額をはるかに上回る禄を賜るようになり、名実ともに新日本軍の総指揮者へと上り詰めていくことになります。

上野戦争で逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦しました。以後、戊辰戦争の舞台は、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続くことになります。益次郎はこうした関東以北での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を執り続けました。

前線から矢のように来る応援部隊や武器補充の督促を、彼独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下することもありました。戦争は官軍優位のまま続き、これが終結したのは、明治2年(1869年5月18日(6月27日))、函館五稜郭で土方歳三が戦死し、榎本武揚らが新政府軍に降伏した時だったとされます。




なお、白河(現福島・栃木県境付近)方面の作戦を巡って益次郎は、西郷隆盛率いる薩摩勢と激しく対立しています。

白河周辺に大軍を駐屯させ、南下して官軍を襲撃しようとしていた旧幕府軍・奥羽越列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが官軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して、それぞれの国許へと退却しました。

一方、このころ仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していたため、官軍総司令官の益次郎は、この仙台藩の攻撃を優先することで戦闘をより有利に導けると主張していました。

ところが、薩摩藩の現地の司令官・伊地知正治や、土佐藩の板垣退助が強硬に会津進攻策を進言したため、こちらが通り、会津戦争が行われることになりました。会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城し、新政府軍と激しい戦いが繰り広げられましたが、この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生しました。

益次郎の策通りに、仙台藩攻撃を行っていれば、この戊辰戦争の中でも最も激烈だったといわれる戦闘は回避できたと思われますが、このときの薩摩藩のリーダー、西郷の周囲の取り巻きの益次郎に対する著しい反発が、その後の彼の暗殺に関係したのではないか、とする説もあります。

益次郎はその後、新政府軍の最高司令官として新しい日本軍を創設するために奔走することになりますが、その間途中でこの世を去ることになります。戊辰戦争が帰結したとされる函館戦争の終了から、わずか5ヶ月後のことでした。

戊辰前夜

四境戦争が終息してほぼ2ヶ月後の年の暮れ(1866年(慶応2年)12月)、益次郎は軍政用掛に加えて海軍用掛を兼務することになりました。

それまでは軍の組織作りを担うポストを担っていたわけですが、大島口や芸州口での幕府との戦いにおいて、海軍の重要さを改めて思い知らされた長州藩は、今度は彼に海軍の拡充を任せようと考えたわけです。

表向きは海軍頭取・前原彦太郎の補佐をする、という立場になりました。のちに、不平士族を集めて「萩の乱」を引き起こすことになるこの男は、のちに、前原一誠という名で知られるようになります。

郡吏だった父、佐世彦七の長男として生まれました。しかし、佐世家は低級武士だったこともあり、父の希望もあって戦国武将・米原綱寛(尼子十勇士の一人)の流れを汲む前原家の養子となってこれを継ぎました。

功山寺の挙兵においては、高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、奇兵隊支隊の干城隊の頭取、第二次長州征伐では小倉口の参謀心得なるなど、長州藩におけるそれまでのおよそほとんどの倒幕活動に参加した猛者であり、頭取に迎えられたのは、藩としてもその活躍に答えたからにほかなりません。

前原は、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門した経歴を持ちますが、松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに益次郎が軍学を教えていた萩の西洋学問所・博習堂でも学んでいます。ということはつまり、学問上は益次郎の弟子ということになります。

しかし、海軍頭取という役職は海軍用掛よりも上です。元は師である益次郎が弟子の「補佐」というあたり、このこころの彼の微妙な立場が伺われます。藩士になったばかりの益次郎の気苦労が目に見えるようです。




それは役職だけのことではありません。年齢をみても、益次郎が海事用掛に任命されたとき42歳、これに対して前原一誠は32歳で、ちょうど10歳年下です。同じく益次郎を見出した桂小五郎はこのとき33歳、高杉晋作にいたっては、このとき益次郎よりも17歳も年下の弱冠27歳でした。

維新後、益次郎は、兵部省兵部大輔として士族による軍制から徴兵制度による国民兵制への移行を実現し、日本帝国陸軍建設における重要人物とみなされるようになりますが、彼が暗殺されたとき、その後継者となった山縣有朋もまた、このときはわずか28歳でした。

山縣は短期間ではありますが松陰門下生であったため、後の長州派閥の領袖の一人となることができ、維新後は陸軍・官僚の大御所として崇められるようになり、総理大臣にまで上り詰めました。

また同じく松下村塾に最年少14歳で入門、最後の門下生となった山田顕義もこのころ22歳でした。山田は益次郎が襲われたあと、その病床で日本近代軍制の創設について指示を受け、山縣とともに継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力しました。ただ、山縣ほどは出世せず、晩年枢密顧問官に就任するも最盛期には司法大臣にとどまりました。

ちなみに毛利敬親候は1819年生まれで、1824年生まれの益次郎より、わずかに年上ですが、この藩主以外で益次郎よりも年上の人材というのはほとんど誰もいませんでした。正義派のリーダー、周布政之助が生きていいればこのとき43歳で益次郎とほぼ同年ですが、惜しいことに第一次長州征伐のときに自害しています。

さらに吉田松陰が生きていれば36歳、松陰の次妹の寿と結婚して関係の深かった楫取素彦もこのとき37歳と、いずれも年下であり、その他正義派のリーダーたちは、蛤御門の変ほかの争乱でほとんどが姿を消しています。つまり、総じて益次郎の周囲には同年齢の逸材というものがありませんでした。

そうした周囲の若い朋輩 たちの中でも率先して益次郎を「先生」と呼んで敬い、藩の中枢の重要人部に育てあげていったのが年下ながら藩の最高指揮者であった桂小五郎であり、彼なくしては彼のその後のキャリアは形成できなかったであろうと考えられます。

また、益次郎という人材を認めていたという点では、高杉晋作もそうでした。萩の博習堂で彼に出会った高杉は、一瞥しただけで大村益次郎がタダ者でないことをすぐに理解しました。そして、すぐに教えを請うと同時に、仲間の指導を頼みました。

しかし、高杉と益次郎が接したのはその後わずか5年ほどにすぎません。四境戦争後、高杉は肺結核を発症し、下関市で療養していましたが、この益次郎の海軍用掛任官後のおよそ4ヶ月後の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去しています。満27歳という若さでした。

下関戦争にも参加した土佐の中岡慎太郎をして 「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西(またらくさい)の一奇才」と言わしめたほど、兵略において才能のあったこの高杉の死によって、軍事面において益次郎を抜きんでる者は誰ももいなくなりました。

それにしても、士分に取り立てられたとはいえ、元は村医者にすぎず、制度上は自分たちよりも格下の身分の者が軍制を仕切ることについては、冷たい雰囲気があったでしょう。四境戦争でも功があった彼を称える向きもあったでしょうが、出自を理由に敬遠したい気分はこの当時の長州藩指導部には当然あったものと推定されます。

こうしたこともあり、四境戦争後に、長州と盟約を結んだ薩摩から正式に討幕の誘いがきたとき、これを反対する益次郎の意見を聞く者は少数派でした。



このころ、薩摩藩では、西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀らが実権を握り、討幕と勤皇の更なる推進を目指しつつありました。彼らはそれまでの長州に対する態度を改め、手の裏を返したようにその名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局を牽制し、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようとしていました。

列侯会議とはこの時期の雄藩の藩主を集め、幕府とともに政治を動かしていこうとする策です。しかし、薩摩藩がその中でもとくに切り札と考えた「四侯会議」は、15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されてしまいます。

「四侯」とは、朝廷や幕府に大きな影響力を持つ大名経験者4名で、薩摩藩からは島津久光(藩主忠義の父)、その他は、越前藩主・松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、でした。

この会議は薩摩藩の主導のもとに実際成立しましたが、そもそも朝廷や幕府の正式な機関ではありません。それに準ずるものとして扱われました。が、薩摩藩はこの会議の成立を機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようとしました。無論、その中核に自藩が座ることを目論んでいたわけです。

慶応3年(1867年)5月、京都の越前藩邸において将軍慶喜が議長を務めるような形で会議が開催されましたが、冒頭にまず何を優先して議論するかで紛糾し、さらに途中で山内容堂が病気を理由に退席するなど、会議の体をなさず、ほとんど何の結論も得られないまま9日目の最終日を迎えました。

結局、最後の夜になって徹夜で議論した結果、慶喜が主張する通りの長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定しました。長州におもねる結論ですが、慶喜はこれをもって、長州との共存を模索する方向に舵を取ろうとしていました。

薩摩藩としては、この結論が四候の協議の上に導かれた、という形を望んでいました。しかし、結果としては、慶喜が主導した朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議のおぜん立てをした薩摩側の敗北を意味しました。

こうして薩摩藩は、将軍慶喜の関与を前提とした諸侯会議路線では国政を牛耳ることができないことを悟り、その後長州藩とともに武力倒幕路線に急速に傾斜していくことになります。

武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は、慶応3年(1867年)8月14日に長州藩の直目付(藩主直属の側近・官房長官のような役割)だった柏村数馬に武力政変計画を打ち明けます。これを藩候が家老以下の幹部に下問した結果、長州藩内では討幕か否かの激しい議論が沸き起こりました。

このとき益次郎は、これまでの蛤御門の変や下関戦争の失敗から、急速に薩摩に接近するのは危険だという意見を持ち、四境戦争も終わって間もなくその痛手が癒えない現在は、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えました。




しかし、同年9月には、大久保が直接長州を来訪し、幹部らに討幕を説得したことで藩内の世論は急速に出兵論に傾きました。この結果、9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会して、出兵協定である「三藩盟約」を結ぶに至りました。

この結果、慎重論を唱えていた益次郎は左遷されます。10月27日、益次郎は軍政用掛の「助役」に据えられて軍制改革の中枢から外され、出兵の実務に専念する任務に就くよう命じられました。

後年、益次郎は「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった」このときのことを述懐し、時局を見抜けなかった無知を反省する弁を残しています。結果的にこの出兵がその後の維新を天回させる大きなきっかけとなったからです。

のち、「その才知、鬼の如し」と言わしめたこの天才ですら、時代の大きな流れを読めなかったということでしょう。さらに、これからわずか2年後に、似たような用兵論争の末、自らの命を失うことになることも、この時の益次郎には予測できませんでした。

このような状況の中、さらに時の政局は激しく揺れ動きます。

坂本龍馬から「大政奉還論」を聞いて感銘を受けた土佐藩重役、後藤象二郎は、坂本の「船中八策」にも影響され結果、山内容堂(前土佐藩主)にこれを上奏し、その結果、藩論とすることの同意を得ました。

大政奉還とは、幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものです。つまり現在の議会国家の礎となる論です。

これに先立つ6月22日には、薩土盟約が締結されていましたが、この大政奉還論を土佐から打ち明けられた薩摩藩の小松帯刀らもこれに同意します。大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想でしたが、薩摩藩がこれに同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれます。

10月3日、土佐藩は、この大政奉還・建白書を藩主・山内豊範を通じて単独で将軍・徳川慶喜に提出。13日、慶喜は上洛中の40藩重臣を京都・二条城に招集し大政奉還を諮問。こうして慶応3年10月14日(1867年11月9日)ついに「大政奉還上表」を朝廷に提出するに至ります。

朝廷の上層部はこれに困惑しましたが、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定。慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立しました。

慶喜にすれば、逆にこの大政奉還は討幕派の機先を制するものであり、受けてしまえば、討幕の名目を奪うことができる、と考えました。このころの朝廷にはまだ政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家のほうが優勢でした。

徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば、実質的に政権を握り続けられると考えており、その見通しの通り、朝廷からは上表の勅許にあわせて、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任されました。

この委任は、国是決定のための諸侯会同召集まで、という条件付でしたが、将軍職も暫時従来通りとされました。つまり実質的には慶喜による政権掌握が続くことになったわけです。

しかしその裏では着々と討幕のたくらみが進行していました。大政奉還上表が提出された同日14日、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡されました。この密勅には天皇による日付や裁可の記入がないなど、詔書の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものでしたが、見た目には本物に見えました。

こうした偽装が行われた背景には、大政奉還が行われた時点においては、岩倉ら倒幕派公家の準備がまだできていなかったことがあります。岩倉本人も朝廷内の主導権を掌握していないばかりか、三条実美ら親長州の急進派公家は、文久3年八月十八日の政変以来、京から追放されたままでした。

一方、前年12月の孝明天皇崩御を受け、1月9日に践祚した明治天皇は満15歳と若年であったため、親幕府派である関白・二条斉敬(徳川慶喜の従兄)が摂政に就任するなど、幕府側は朝廷内に厳然たる勢力を持っていました(注:「摂政」は幼い天皇に代わって政務を執り行う、対して「関白」は天皇成人後のアドバイザー的なポジション)。

つまりこの時期の朝廷は親幕府派の上級公家によってなお主催されていたのであり、大政奉還がなされても、このような朝廷の下に開かれる新政府(公武合体政府)は慶喜主導になることが目に見えていました。

このため、薩長や岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝廷内の親幕府派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止ししようと考えます。幕府の息のかかった人材は一人残らず排除し、その上で体制を刷新し、朝廷の実権を掌握しようとしたわけです。

先の討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側が、依然強い勢力を保つ慶喜に対抗する非常手段として画策したものであり、密勅の実行により、幕府は朝敵となり、自動的にそれらの人材は排除されることになる予定でした。

しかし、慶喜の速やかな行動により、大政奉還がすんなりと朝廷に受け入れられたことで、討幕派はその矛先をかわされた格好になりました。このため、密勅を受けた討幕の実行は、いったん延期となりました。

同盟を約していた薩摩・長州・芸州の3藩もひるんでしまい、再び出兵計画を練り直すことになります。しかし一方では、薩土密約が成立していたこともあり、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んでさらに政治的に幕府を追い込んでいこうとする新たな動きが加速します。転がり始めた石はとまらない、といったところです。

12月7日、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、江戸幕府を廃絶するたくらみへの協力を求め、ある提案をしました。これがいわゆる「王政復古」に関する謀議でしたが、これに各藩ともに賛同し、この結果、のちにこの5藩の軍事力を背景とした歴史に残る政変が成立することになります。

大久保らはこの政変の実施にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていましたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出ませんでした。

12月8日、夕方から翌朝にかけて、摂政・二条斉敬が主催して、諸侯が集まった朝議(諸侯会議)では、先の四侯会議で決定された唯一の事案、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京の許可が決議されました。

諸侯の中には、先の5藩が加わっており、討幕派有利の議論の流れの中で、さらに岩倉ら罰則を受けていた公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められました。無論、幕府にとっては痛い決議であり、朝廷内に討幕派の太い楔が撃ち込まれることになりました。

さらにその翌日の9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が突如として御所の九門を封鎖します。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限され、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止されました。




そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが足早に参内して「王政復古の大号令」を発令。新体制の樹立を決定し、新たに置かれる三職の人事を定めました。まるで一陣の嵐のように発せられたこの「王政復古の大号令」の内容は以下のとおりです。

将軍職辞職を勅許(先の10月24日に徳川慶喜が既に申し出)。
京都守護職・京都所司代の廃止。
幕府の廃止。
摂政・関白の廃止。
新たに総裁・議定・参与の三職をおく。

この宣言は、14日には諸大名に、また16日には全国の庶民に向かって布告されました。五摂家を頂点とした公家社会の門流支配を解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであり、従来からの摂政・関白以下の朝廷機構の政治権力はこれにより完全に葬られることになりました。

またこの勅許は、徳川慶喜(一橋徳川家当主)の将軍辞職を促すものであり、京都守護職・京都所司代の廃止は、これを担っていた松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の失脚を意味しています。それまで時代を主導していた一会桑体制は崩壊の憂き目を見るところとなり、慶喜の新体制への参入はほぼ絶望的となりました。

しかし、慶喜は大号令が発せられた翌日の10日、自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言します。征夷大将軍が廃止されても、この「上様」が江戸幕府の機構を生かしてそのまま全国支配を継続する、と意欲を示したものです。

こうした急速な政局の変化と薩長らの強硬な動きに対し、在京の諸藩代表の間では動揺が広がると同時に反発が生まれました。中でも薩長と同盟を組んだはずの土佐藩ら公議政体派が逆に幕府を擁護するという、ちぐはぐな動きを見せるとともに、12日には肥後藩・筑前藩・阿波藩などの代表が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求する動きを見せました。

実は、6月に締結された薩土盟約は、わずか3か月で解消されていました。解消の理由は色々取り沙汰されていますが、両者が共同で作成しようとしていた当初の大政奉還の建白書の草案の中に、薩摩藩が主張する慶喜の将軍職辞任(ないし将軍職の廃止)が欠落していたことなどがあげられています。

しかし、土佐藩の実力者、元藩主の山内容堂の優柔不断が、実はその原因ではなかったか、といわれています。容堂は幕府の存続に寛容であったといわれており、藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとしたその態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されていました。

そこで13日には岩倉や西郷は妥協案を出します。「辞官納地(官位の返上と領地の放棄)」に慶喜が応じれば、慶喜を議定に任命するとともに「前内大臣」としての待遇を認めるとする提案を幕府に出しました。しかし、慶喜は当然のようにこれを拒否。

慶喜はさらに16日、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまで巻き返しました。

これを受けて、12月22日(1868年1月16日)に朝廷は、慶喜寄りの告諭を出します。その内容は事実上、徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認したと言えるもので、王政復古の大号令はさすがに取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められたものに他なりませんでした。

さらには先に出されていた討幕の密勅も取り消され、その討幕挙兵中止命令と工作中止の命は江戸の薩摩邸にも届きました。しかし、薩摩藩の息のかかった攘夷討幕派浪人の暴走は止めることはできず、既に動き出していた彼らは江戸市中で重なる騒乱行動を起こしはじめました。

この攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸は公然と匿っていたため、ついに12月25日になって庄内藩(会津藩とともに、のちの奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つ)による江戸薩摩藩邸の焼討、といった事件も起きました。3日後の28日にこの報が大坂に届くと、慶喜の周囲ではさらに薩摩討伐を望む声が高まります。

慶応4年(1868年)元日、慶喜は「討薩」の意を発し、「慶喜公上京の御先供」という名目で、事実上京都封鎖を目的とした出兵を許可しました。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは、薩摩藩が進軍していた伏見市街へ進みます。

ここで、鳥羽を、三重県の鳥羽と勘違いしている人が多いと思いますが違います。鳥羽とは、現在の京都府京都市伏見区にある鳥羽町付近であり、また伏見は京都南に広がる伏見市一帯のことです。合わせて鳥羽・伏見と慣例で呼ばれることが多いようですが、伏見のほうが行政区としては大きく、どちらかといえば、「伏見の戦い」の方が正しいでしょう。

3日(1月27日)、朝廷では緊急会議が召集されました。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張しますが、松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾しましたが、議長の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決しました。

こうして、いわゆる「戊辰戦争」の前哨戦となる「鳥羽・伏見の戦い」が勃発しました。この戦いで薩長側が掲げた錦の御旗に動揺した幕府軍は大敗したばかりでなく「朝敵」としての汚名を受ける事になり、窮地にあった新政府を巻き返させる結果となりますが、その経過についてはまた次回書きたいと思います。