流れに乗る

カレンダーをめくる。

帰国して2回目になる。

今年もあと残る3ヵ月。

長きに渡った大陸滞在に比べて、改めてその短さを思う。

行く前と比べて、自らの変化に驚いたりもしている。

肉体もさることながら、環境の変化にもだ。

体重は二桁減り、境遇も変わった。

ただ、いまのところ、生活自体は以前と変わらない。

しかし、それも来年以降、変えていこうとしている。

自分の意思でそれをやろうとしていることが不思議でしかたがない。

いつのまにそんなに強くなったのだろうか。

いやいや強くなったのではない。

今、そういう流れに乗ったのだと思う。

人生にはいろんな流れがある。

急流もあれば、よどみもあるし、滝になって落ちることもある。

今は早瀬にあって、やや強い追い風を受けながら下っている感がある。

木の葉のような、というほどか弱くもないし、筏といえるほどしっかりもしていない。

さながら少しくたびれた流木、といったところか。

これから行きつく先には、さほど強い流れはない気がする。

澄んで清い流れを想像するが、もしかしたら広い海原へ出るのかもしれない。

いずれにせよ、ゆったりと流れていく。

流れに体を任せて、陽を浴びながらの旅は心地よいに違いない。

そこでどんな出会いがあるだろうか楽しみでもある。

必ずしも人とは限らない。

美しい風景であったり、貴重な体験であったりもする。

そんないいことばかりがこれから起こる。

そう信じて、しばらくはゆったりと流れる時間を味わうことにしよう。




綺麗になりたい

出国を前にして、なにかと落ち着かないが、これまでも日々似たようなものだった。

毎日がふわふわとしてとりとめがない。

今回の出張は長かっただけに、この現状が普通の日常になっている。

もともとは非日常であるのに、それがあたりまえになっているのが不思議である。

一方、散々苦労したくせに、もうここでの生活が終わるのか、とどこかで思っている自分がいて、笑ってしまう。

つくづく人間は環境に感化されやすい動物なのだな、と感じる。

それにつけても、今回の滞在は長く、かつ束縛が多かった。

仮にこの生活をあともう一月続けてくれと頼まれても、断固として拒否するだろう。

時間的な拘束もさることながら、自由行動も許されない、食事だって与えられたものしか食べることができない。

そのなかにおいて、インターネットが自由に使え、電話もできる、というのはありがたかった。

情報というものが、日々の生活の中でいかに大きなウエイトをしめているのかを、改めて実感した。

もしもそういうものがなかったら、ここは間違いなく牢獄と化していただろう。

とはいえ、その情報すらも一部は制限されているわけである。

日本語でのテレビやラジオの視聴はほぼできず、また携帯の利用も課金による制限がある。

帰国すれば、それらを浴びるほどに享受できる。

もっともそうした情報の氾濫が、動物としての人間本来の機能を損なう原因になっているのだが。

とまれ、情報にせよ、その他の環境条件にせよ、封印されていたものが、あとわずかで解禁されることになる。

そのとき、自分にどういった変化が起きるのかが、興味深い。

無論、うれしい、という感情がまず沸いてくるのだろうが、それ以外にどういう精神状態になるのかをよく観察してみたいと思う。

虚脱感に襲われたり、無気力になったりするのではなかろうか。

あまりのうれしさに、ハイになるということもあるかもしれない。

そのとき何をしでかすことだろう。爆買いや夜更かしに走るのではないか。

肉体的にも変化があるかもしれない。

暴飲暴食で、体重も増えるかもしれないが、自由に動けるようになることで逆に減るかもしれない。

体重は渡航前に比べて、9キロ減った。

ジョギングにも適した体である。

自由行動ができないために我慢していたが、帰ったら、野山を駆け巡ることになるだろう。

運動不足になりがちな中で、日々のトレーニングは欠かさなかったが、今後はさらに体力をアップさせる。

精神的にも自由になって、より安定させる。

秋以降、仕事も変わるだろうし、その中で新しい自分をみつけていけるに違いない。

そうした自分の変化が楽しみである。

大きくなって戻っておいで。

かなり前に流行ったそんなフレーズが頭に思い浮かぶ。

大きくならなくてもいいし、少しだけでいい。

これまでの自分よりも、綺麗になっていたい。




風待ち

帰国がもう目前に迫ってきた。

その中で、手足を伸ばさず、亀のようにじっとしている。

いずれ訪れるであろう解放の喜びだけを心の支えにして耐えている。

待つというのは辛いものである。

大過はない。

そのなかで、ただ時間が過ぎていくのを眺めているだけというのは辛抱が要る。

これが忙しければもっと時間の流れは速いのだが。

では、残る時間が寝る間もないほど忙しかったらどうなのだろう、と想像してみる。

残務に追われて、あくせくする自分の姿を思い浮かべてみると、ぞっとする。

そう考えると、待つだけとはいえ、安寧な時間が与えられていることをむしろ感謝しなければ、という気になってくる。

そのゆとりのある時間を使って、好きな書き物もできる。

次の住処のこともいろいろ調べられるし、これからの生きざまについてさまざまな思索も重ねられる。

ああ幸せだな、というほどの至福感はないとはいえ、ある意味贅沢な時間ともいえる。

おそらく、これからの人生でも、そうそうこういったことはないだろう。そう考えるとなおさらありがたみを感じる。

他方、これまでの人生でも、こういうことが何度かあった。

フロリダやハワイへ渡る前の時間、最初の会社を辞めて次を模索していたころ、移住先がきまらず悶々としていたひと昔前、などなど。

それぞれのシチュエーションがあって、状況も違うのだが、いずれも次のステップを踏む前の足踏みの段階だったといえる。

物は言いようで、風待ち、という表現もできる。

次に吹いてくる風の強さや方向を予想しながら、ひたすら待つ。

溜めおかれたそれが一気に吹き始めたときに満杯に膨らんだ帆を想像する。

港から出た船は、大海原に向かって順調に滑り出していく。

その先には嵐が待ち受けているかもしれないが、あるいはパラダイスがそこにあるのかもしれない。

いずれにせよ、解き放れた矢はそれが落ちるまで飛んでいく。

落ちた先にあるものが何であるかは、いまはわからない。

あるいはまたそこで風待ちになるのかもしれないが、その繰り返しが人生というものなのだろう。

たとえ風はなくとも、その無風の状態をできるだけ、楽しむ。

そういうゆとりのある心を持ちたいと願う。

いずれは、まったく次の風が期待できない日もくる。

そのときがこの長い旅路の終わりである。




素敵な時間の過ごし方

一日一日と残る時間が減っていく中で、気持ちがざわついている。

特段、焦る必要もないのだが、妙に落ち着かない。

ふと、子供のころに、徒競走のスタートラインに立っていた時のことを思い出した。

小学校のころの運動会のときのことだ。

どきどきしながら、号砲が鳴り響くのを待つ。

時間にすればほんのわずかなものなのだが、その一瞬が一生続くのではないかと思えるほどに長かった。

今の状況に似ているような気がする。

スタートを切るときに出るアドレナリンは、興奮を掻き立てる。

帰国後に確実に変わっていくだろう運命に身構え、神経も過敏になっているのだろう。

一方、走り出したあと、ゴールに向かうまでの時間は長いとはいえない。

足裏で地面を掴む感覚、コーナーで遠心力を感じての焦り、最後の直線で白いテープを目視したときの興奮。

感じるのはそれくらいで、気が付けばあっと言う間に白線を駆け抜けている。

そしてレースを終えたあとになって、スタートダッシュが甘かった、足が前に出ていなかった、手が振れていなかった、と後悔の念が次々とわいてくる。

ほとんどは、勝負に負けたあとの記憶だ。

そう、徒競走で一番になったことは、一度もない。

これまでの人生と似ている。

しかし、障害物競争は得意だった。

いかに途中にある障害物を乗り越えるかをあらかじめ計算し、その通りやることで、何度か一番になった。

つまり、肉体派ではなく、頭脳派だった。

もともと子供のころから身体能力は高くはなかった。

運動はきらいではなかったが、小学校高学年になるころから肥満になり、何かと避ける傾向にあった。

しかし歩くことは好きで、小学校では2キロ半、中学校では3キロの道のりを歩いて学校に通った。

高校では自転車通学が認められていたが、4キロの道のりを歩いていくことも多かった。

なぜだっただろう、と思い返すに、歩きながら考え事をするのが好きだったし、日々変わりゆく風景を味わいたいという気分があったのだと思う。

あのころは、そうした時間が楽しみで仕方がなかった。

高じて、山登りが好きになったし、20代からはマラソンもやるようになった。

就職してからの余暇は貴重なものだ。できるだけその時間を楽しみたい、という理由で始めたような気がする。

休みの日、家の中にいてぼーっとしているよりも、外に出て体を動かす、自然に触れてその息吹を感じる。

それだけでより豊かな時間が持てる。今あらためてそうした時間の大切さを思う。

ほとんど隔離状態の今では、それも思うようにならない。

しかし、もう少しで本来の自分の姿に戻ることができる。

日本に帰ったら、改めてそうした豊かな時間を取り戻したいと思う。

とはいえ、こうしている間も、次々と時間は流れてゆく。

一生もまた一瞬のことである。

だから、こんなところで、と思わないで、何か自分のためになることをみつけよう。

できるだけ今を大切に。

いつも素敵な時間を過ごしている、そんなふうになりたいものだ。




執着していたものを手放す

執着していたものを手放す。

すると、ぐっと気持ちが楽になる。

欲しかったものを買うのをあきらめる。

食べたいものは食材リストからはずす。

やる予定だった仕事はもうやらないことに決める。

先延ばしではなく、そうやって断ち切ることで心にゆとりができる。

若いころには、それでもそれをやりたい、欲しい、と思う気持ちが強く、どうしても手放せないことも多かった。

一方では、手を付けて初めてその困難さに直面し、結局あきらめるということも多々あった。

それはそれでよい経験になったし、そのことの連続が今の私を創っていると言ってもいい。

今思えば、執着そのものが生きる糧になっていた、といえるかもしれない。

欲しいものがあるときは、がむしゃらに仕事をして金を貯めてはそれを買った。

やりたいことがあれば、ともかくチャレンジし、結果はともあれ、その経過に満足した。

では今、これからはどうだろうか、と考える。

いま、定年を前にして、欲しいものがどれだけあるだろう。

いくつか思い浮かぶものはあるが、若いころに比べれば煩悩はずいぶんと少なくなったな、と感じる。

もともと物欲はさほど強いほうではないが、それでも若いころにはこまごましたものを欲しがっていた。

いまでは、そうしたことがほとんどなくなり、モノよりもむしろ、心理的な満足を求める気持ちのほうが強くなっているようだ。

たとえば静かな環境で過ごしたい、時間に縛られずにずっとぼーっとしていたい、といったことだ。

モノとはいえないが、旅行をしたい、風光明媚なところに住みたい、といった願望はむしろ強くなっている気がする。

年齢とともに、環境や風物に敏感になり、よりそれを求めるようになってきた、ということなのかもしれない。

そうした夢を断ち切ろう、という気持ちはなくて、つまりはまだまだ執着は残っているということになる。

しかし、それもまたあえて諦めるとしたら、あと残る人生で何をすべきなのだろうか。

茫漠とした砂漠や荒野、山中で修行をしている僧侶のような生活を思い浮かべる。

人生最後の時間をそうやって過ごすのも悪くないかもしれない。

しかし一方では、執着するものがなくなったら終わりだ、という声がささやく。

人生では常に目標を置き、それに向かって一心不乱に働き続けるのが是だというふうに思ってきた。

それによって得るものは大きく、魂も成長する、そう信じてきた。

ただ、今はそれが本当に真実なのかどうか、わからなくなってきている。

シャカや多くの高僧は、すべての執着を断ち切って悟りを開いた。

そうした生き方に共感する反面、物事に執着しそこから活力を得て生きてこそ人生だというふうにも思う。

いまは、それについての結論が出せない状況といえる。

が、これだけははっきりしている。

執着心は間違いなく薄くなりつつある。

これからはさらにそれが薄くなるのではないか。

なくなった先に悟りがあってもなくてもいい。

終着点は同じ、死である

そして、残った執着は、来生に持ち越されるのだろう。

それもまた輪廻の宿命か。

ならば、当面は数少ない欲望を捨てずに生きていこうか。

そんなことを考える日々である。

帰国が近づいてきた。

それまでに結論は出そうもない。