佳木斯にて 2

月末になると給料日が気になる。

けっして豊かとはいえない今の生活の中では最も頼るべき財源である。

会社を辞めて、老後を過ごすためにはできるだけ貯金もしておきたいから、どうしてもそれに期待を寄せる。

「サラリーマン」ということばが思わず頭に浮かんでくる。

あまりいい響きのことばではない。

「会社員」という別のことばもあるが、どちらも抵抗がある。

そう呼ばれることに、金で雇われている、という卑しさをどこか感じるからだろう。

組織の構成員、歯車の一つであるということは全体の中での個の埋没である。

それにしてもにサラリーマンというのはいただけない。

まるで何かの動物のようではないか。

これに対して「自営業」という用語もあるが、こちらも好きではない。

他人に媚びずに頑張っている感はあるものの、社会から少し距離を置いたか弱い存在という印象がある。

似たような用語に「フリー」というのがあるが、まだこちらのほうがいい。

フリーのライター、フリーのアナウンサーと聞けば、個の確立に成功したひとたち、というかんじがする。

ただ、同じフリーでも「フリーター」となると、少し意味合いが変わってきて、こちらは急にステータスが低くなる。

フリーのアルバイト、という意味であるが、ほかにパートとか、派遣社員というのもあって、いわゆるプロパーではない人たちだ。

いずれも定職につかない、つけない人々というカテゴリーに入れられている。

階級社会が生んだ差別用語と受け止めることもできるが、こうしてみると、いかに職業による仕分けが多いかがわかる。

そのなかにおいて、現在の私はまぎれもなく会社員なのであるわけだが、別に偉いわけではない。

他のひとと同じ立場の枠内にはめ込まれているだけで、パートやフリーの人々と同様の人間である。

そもそもそんな色分けは必要ないではないか、と思うわけだが、学歴や資格、社会保障などの面からそう設定されてしまう。

能力も無論関係ある。それらの違いによって受け取る賃金は歴然として違ってくるが、現代社会では必要とされている差別化といえる。


これが、遠い星や未開の土地ならばそんな区別は必要ないのだろうが、残念ながらここは日本という地球の中でももっとも社会制度の発達した先進国のひとつである。

かくして、それぞれが好むと好まざるにもかかわらず、そのレッテルに甘んじながら暮らしている。

ときに「けなげ」というにふさわしい生き方もある。

私自身、かつてはフリーや自営業も経験し、悲哀を感じながら生活していた時代があった。

現在の身分である会社員においても、賃金格差は当然あり、けっして裕福ではない。

しかしお金の問題だけではない。

過去に人生においては、どう呼ばれようとそういったカテゴリーの中の一人として見られるのは何かいやだな、と感じていた。







おそらくは私だけではないだろう。

本当は会社員なんかでいたくないのに、そう呼ばれる。

あるいは、自分は派遣社員のつもりはないのに、会社が認めてくれないためにそう呼ばれる場合もあるだろう。

親と同居しているだけで、「プータロー」とみなされることもある。

何もせずに人に頼って生きているろくでなし、というレッテルを張られがちであるが、わずかな時間を生かしてフリーターとして真面目に働き、一生懸命生きている人も多いはずだ。

あるいは働きたくても不況のために職がなく、やむをえずにそうした環境下にある人だっている。

それなのに、現代の日本においては、そうした呼称の中にくくってしまうことで、何かその人のことがわかったように思ってしまう風潮がある。

まるでその名称が、その人の生き方を表している、とでも言いたげである。

何か間違っていないか。

私と同じような気分の人が多い証拠に、最近では自分だけで考えた、自分だけの肩書を持つひとも多いと聞く。

「作家」を自称すれば、誰でもそうなれるし、自然を愛する人はエコロジスト、音楽好きはミュージシャンである。

まさか、愛猫家や愛妻家を名刺の肩書に使うひとはいないだろうが、自分が納得するだけならば、それもありではないだろうか。

属するとされる組織を離れ、社会通念における身分を忘れて、自分自身のアイデンティティーをそうした肩書で主張する。

「個」の主張であって、それこそがその人を表す正しい呼び方であるような気がする。

私自身は、今の組織を抜け出したあかつきには、また写真家に戻り、さらにそれにフリーのライターの肩書を加えようと思っている。

少々気恥しい気もするが、フリーという冠詞はいま自分が最もそうありたいと考えているアイデンティティーに近い。

早晩、名実ともにそれが実現する日がやってくるだろう。

最後のご奉公もあとわずかだ。

それにつけても給料日が待ち遠しい。

なげかわしい限りである。

佳木斯にて 

日本ではゴールデンウィークが終わり、沖縄は梅雨にはいったそうな。

ついこのあいだまでは、身近に起こっていることとして感じることができたのに、遠く離れたこの地ではなにか他人事のように思えます。

今の自分の関心事は何か、といえば、休みの今日何をしようかとか、来週の仕事のだんどりはどうかなどといった、身の回りのことばかりです。

いかにその環境にばかり左右されて生きているか、ということを改めて考えさせられてしまいます。

ここでの生活を終え、ふたたび伊豆へ戻ったら、またそこでの環境に染まるに違いありません。

同じことの繰り返しで何の成長もないな、と思ってしまうと、何か悲しくなってきます。

ここ最近、もっと違う人生があるのではないだろうか、そんなことをよく思います。

無論、修善寺での家内と猫一匹との生活は楽しいものであり、なににも代えがたいものです。

仕事のことを抜きにすれば、こんなにも恵まれた暮らしはこれまでにはなかったものといえるでしょう。

だがしかし、─これは家内ともよく話すことではあるのですが─ ここは終の棲家ではないよな、と感じています。

景色はすばらしいし、生活環境も悪くはない。水も食べ物もおいしいし、気候だっていい。

こんな住みやすいところはそうそうないはずなのですが、人生最後に住むところではないよな、とついつい思ってしまうのです。

なぜだろう、と考えていったときに、思い当たるのは、ここは我々にとってのふるさとではないから、ということ。

家内にとっては広島、私にとっては山口であって、幼少年時代を過ごし慣れ親しんだ環境といえばやはり、中国地方というくくりになります。

(不思議に思うのは、実はふたりとも広島生まれではなく、彼女が松江生まれ、私が大洲生まれで、それぞれがそこを出て広島で出会ったということですが)

気候や風土といったものを静岡と比べて、彼の地のほうが格段優れているというわけでもありません。

ただ、やはり育った環境というものは、そこへの回帰心を呼び起こすものらしく、時に無性に彼の地に帰りたくなります。

そこには何か魂を揺り動かすものがあるようです。







サケや渡り鳥と同じかもしれません。成長するために別の地で暮らしますが、やはりふるさとの地に帰っていきます。

生まれ故郷というものはどんな生物にとっても特別なものであるようです。

その理由はよくわかりませんが、本能という言葉がよく使われるから、きっとそうしたものなのでしょう。

帰巣本能というものがあり、生まれた場所や過去の場所に戻ろうとする行動が多くの動物にみられるそうな。

ヒトの場合は、動物にはない「感情」が、この帰巣本能に影響を与えるようです。

このため、ふるさとを恋しく思う気持ち、懐かしい気持ちが自然と生まれ、故郷に向かう意欲になるといいます。

では何を目指して帰っていくのでしょう。

海や山であったり、空気や臭い、街並みといったものかもしれません。

単独でこれ、とは言い表せないものであり、おそらくはそうした総合的なものなのでしょう。

方言や習慣、モノの考え方、暮らしぶり、といった人間的な要素も関係しているかもしれません。

今住んでいる静岡と比べて、いちいち意識はしていないものの、やはりどこかで、ふるさととは違うよな、と感じているようです。

さらに、なぜそこに帰りたいのか、というこころの中を探ってみました。

すると、居心地がいいから、という答えが浮かんできました。

理屈ではなく、そこにいること自体で落ち着くというか、不安感が消えるというのか、幸せ、というのとも少し違うのですが、安心感があるのです。

つまりはその風土が、既に自分の一部になっている、ということなのでしょう。

それを失っている状態が今であって、それを取り戻したいという思いがどこかにあるに違いありません。

そう、ふるさととは自分の体の一部なのです。

それを取り戻し、元あった自分に立ち返るには、そこへ行くしかありません。

ただ、ふるさとがない、という人もいるでしょう。

生まれた時からあちこちを転々として落ち着いたところがないという人もいて、そういう人はかわいそうだ、という話をよく聞きます。

ただ、これは少し違うと思います。

そういうひとたちは、たしかに体の中にそうして巣くう風土がなかったり、思い入れが小さかったりするかもしれません。

しかしだからといって不幸なわけではなく、いろんな場所に故郷があるわけで、うらやましい、という考え方もできます。

むしろ我々のほうが、一つの場所に縛られていて、かわいそう、と同情されるべきなのかもしれません。

ただ、それでもいい、強く帰りたいと思う場所があるなら、それこそその本能に従えばいいではないか、とも思います。

ストレスの多い社会に生きて一生を終えるより、自分がいちばん居心地が良いと思える場所で死ねるというのは幸せなことです。

魂が生まれ、健全に育った土地には、その魂をはぐくむ良い条件があったに違いありません。

そこへ帰ってそれがどんなものであるかを、再確認せよ、とハイアーセルフがささやいているようです。

中国に来てから2ヵ月が経ちました。

魂の原点を見つめ直すときが近づいている。そんな気がする今日この頃です。

満州のこと ─佳木斯にて─

先月末より、大連からここ佳木斯(ジャムス)へ移動してきており、ちょうど一週間ほどが経ちました。

こちらは、コロナ禍にあって、あいもかわらず厳しい規制が敷かれており、強制隔離によりまだホテルの外へ出ることはできません。

それにしても、佳木斯?聞いたことがないな、という方も多いと思います。

場所的には中国のほぼ北端、ロシア国境にもかなり近い町になります。緯度的には樺太の真ん中あたり、といったところです。

日本がこの地を統治していたころの「満州」に含まれます。

日本では、いまだにこの呼び方をする人が多いようですが、現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは禁じられており、かわりに「中国東北部」が使われています。遼寧省・吉林省・黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部がこれに該当します。

「満州」という言葉を、中国政府が嫌がるのは、かつて、この地に日本が傀儡政権を樹立して、内外にこの名で呼ばしめたためです。侵略者日本が使っていた国名を、新たな国家となったこの国で使いたくない、使わせたくない、というわけです。気持ちはわかります。

ただ、現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われており、ここに多数住む住民の民族名も「満族」です。しかし、「満洲族」とか「満州人」と呼ぶことはタブーです。

この満州という場所が、どこからどこを指していたのかがわかる、という人は意外と少ないのではないでしょうか。





おおざっぱにいえば、これはおおむね、「万里の長城」から北、ということになります。言わずと知れた世界遺産で、北京の北方に東西に連なる遺構です。

南では、鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接しています。また、北方は、ロシアとの国境までがその範疇ですが、ここにはロシア名でスタノヴォイ山脈という山塊があって、ここには人はほとんど住んでいません。

この山脈を源流としてアムール川が東へ流れ、太平洋に注いでいます。これ以北がほぼロシアです。そのやや南側に松花江という大河が東西にながれており、その中流域にあるのが佳木斯であって、旧満州における中都市でした。

この満州の歴史を語ると、長い話になります。しかし、筆者の独断でばっさりと要約してみましょう。

そもそもこの地に住む満州民族というのは、北方民族や、モンゴル系、朝鮮系の民族で構成される民族で、これらが混血して形成されたものです。これを「女真族」という一族が統一してできた国が、「金」です。12~13世紀のことですから、日本では平安時代の後期にあたります。

この金を滅ぼして、新たな国を創ったのが、ヌルハチこと、チンギス・ハーンであり、金を継承したことから、時代区分としてのこの国は「後金」と呼ばれます。ヌルハチには子供がおらず、このため配下の有力将軍の中から後継者として選ばれたのが、ホンタイジです。

ホンタイジは、従来あった領土に加え、新たに南モンゴルと、これより南にある明の領土のうち、山海関以北(万里の長城から北側)を征服し、新たな国を打ち立てました。そして、自らが皇帝となり、この国を「清」と呼ぶようになりました。

この清は、その後、万里の長城よりもさらに南にあった、明をも征服し、現在における中国のほぼ全域に相当する広大な国家を成立させることになります。



清朝では、その前身である満州を特別扱いしました。ここに自分たちの源流がある、と考えていたからです。このため、後金時代の皇居である瀋陽故宮のある奉天(現在の瀋陽)を首都と定め、ここに中央省庁である奉天府を置いて統治を始めました。

この奉天府は、のちに東三省総督と名を改め、その支配地としたのが、東三省(奉天・吉林及び黒竜江の3省)であり、これは、現在の「中国東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)」とほぼ一致します。

以後、清は、少数の満洲人(満州民族)が圧倒的に多い漢人を始めとする多民族と広大な領土を支配する国家となり、繫栄を極めます。対外的には、1689年にロシアと条約(ネルチンスク条約)を締結し、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められました。

しかし、近代の19世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が何度も起きるようになります。ロシア人は、シベリアで枯渇しつつある毛皮を求めて、この地に南下・侵入するようになり、村落を焼いたり捕虜をとったりして植民地化の動きを見せ始めました。

このため、これを追い出そうとしますが、その後もロシアの進出は止まらず、一方では王朝末期で弱体化した清朝はこれを食い止める力を失っていきました。

こうして1860年までには、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなります。

ただ、このころから清朝はそれまでの政策を転換して、ここに漢族の移住を認め、彼らが得意とする農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させるようになりました。

その結果、1860年の東三省の人口が320~370万人ほどだったのに対し、1908年には1700万単位にまで人口が増えました。さらにその後の1931年の満洲事変ころには3,000万人、1945年の満洲国崩壊前には熱河省も含めて4500万人まで増加しました。

この間、日本との間では、日清戦争が起こり、これに勝った日本は、清から遼東半島他の領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)の割譲を受けます。この遼東半島は三国干渉によって清への返還を余儀なくされますが、続いて1904年から勃発した日露戦争も日本の勝利に終わり、租借権を得るかたちでここを取り戻しました。

また、ロシアからは、彼らが保有していた満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする各種権益の譲渡を受けるところとなりました。これによって、満州への日本の投資は著しく増えると同時に、日本人の移民の数も増えていきました。

日本やロシア、欧州列強の干渉を受け続けて弱体化した清朝は、その後、反政府主義者たちの蜂起によって、1911年の辛亥革命で倒されます。



翌年、アジア発の民主国家として、中華民国が成立しますが、北を制する袁世凱と南から北上してこれを滅せんと欲する孫文との対立から、二分され、と同時に各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、国情は乱れに乱れます。

満洲でも、このころ張作霖が率いる軍閥が台頭するようになり、大部分がその支配下となっていましたが、これに接近したのが日本の関東軍でした。日本(関東軍)は、のちに張作霖を排し、満州国を設立することになりますが、そのための布陣がこのころから既にできつつありました。

一方、このころロシアでもロシア革命に次いで、政府系白軍と共産党赤軍が相乱れて戦うロシア内戦が勃発します。日本はこの混乱に乗じて、シベリア出兵を行い、この地を制覇して傀儡政権を樹立しようとしました。その結果、一時はかなりの地域を占領しました。

しかし、共産党率いる赤軍パルチザンによる激しい反撃に遭い、この計画は頓挫します。遠く離れた酷寒の地であるシベリアへは、派兵もさることながら兵站補給もままならなくなり、ついに1922年にシベリアから正式に撤退、占領は解除されました。

一方、ロシアではようやく内戦が終了し、内戦に勝利した共産党ビエト政権は、次第に力を盛り返してきました。その結果、再び満州に進出しようとしはじめます。

このころ満洲を実効支配していた張学良(張作霖の息子)は、これを迎え撃ちますが、これにソビエトは打ち勝って北満洲を占領、ここに敷設されていた東清鉄道などの権益などを確保することに成功します。

しかし、この頃ドイツとの戦いを前にしていたソビエトはその戦費捻出のためにやがて経済的に行き詰り、その権益を日本に金銭で譲渡するに至ります。

こうした中、日本は柳条湖事件を契機に、満洲全域を侵攻、占領し、1932年に満洲国を建国しました。元首として清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を迎え、満洲国は、独立国家といいながら、事実上日本の支配下に置かれました。

日本は、この地において鉄道や重工業開発を通じて多大な産業投資を行い、また荒野だった場所には工場を建設して開発していきました。また農業においても、品種改良などで不毛の地を豊穣の大地に変えていきました。



かつて満洲は、馬賊や軍閥がわがもの顔で闊歩する物騒な土地柄でしたが、関東軍の進駐によって治安も良くなり、交通が開け、貨幣も統一された結果、経済的に豊かになっていきました。電話線など通信網も張り巡らせられるようになり、奥地にも病院や工場が建設され、また小中学校も建てられて進学率も大幅に向上しました。

農業が順調であったことから、南部の中国民国側から豊かさを求めて多くの移民(多くは漢民族)が流入した結果、人口も爆発的に増えました。

しかし、1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊します。ソ連は満洲を占領して中華民国への返還を遅らせましたが、その後、中国共産党が国共内戦に勝利したため撤退し、満洲は中華人民共和国の領土となり、現在に至っています。

以上が、満州と呼ばれていた時代のこの地域の略歴です。長い歴史をざっくりまとめたものですが、結構、戦乱・争乱あいつぐ、波乱の地であったことがおわかりでしょう。

満州はその後、共産党と国民党軍が入り乱れて争う一時期がありましたが、共産党が勝利して今の国になったあとは、現在に至るまでいたって平和です。

現在の満州 ─中国ではそう呼びませんが─ において、遼寧省・吉林省・黒竜江省の東北三省合わせての総人口は約1億874万人です。これは中国の総人口の約8%にあたります。

この地域の住民は、中国の他の地域とは違い、とりわけ「東北人」としての意識が強いといわれます。

遼寧、吉林、黒竜江、各省の住民であるということ以上に、東北人としての誇りのような感情を持っているようです。これは、この地がそもそも清という国の発祥の地であり、その国を創った優秀な満族の末裔だという自負があるためでしょう。

そうした懐古的な気分と、この地に代々伝わる風俗習慣、そしてこの地域特有の言語が「自分たちは東北人だ」という意識を生み出していると思われます。この地方の方言を北方方言といいます。とくに、東北三省の中心地、ハルビン人が話す言葉が最も標準的な北方方言といわれているようです。

優れた資質を持つ満族の末裔である、現在の彼らもまた優秀です。

文化教育施設、教育普及率と進学率は、国内でも高水準にあり、とくに遼寧省の高等教育の普及率は中国で最高です。ハルビン市、長春市、瀋陽市、大連市には、数多くの科学研究機構があり、このうち、光学機械、冶金、軍需産業のレベルはかなり高いといいます。

1949年10月1日、現在の中華人民共和国が建国されたとき、日本が占領していた旧満州もまた、その統治下にはいりました。以後、改革開放が始まるまでは、戦乱の影響もあって中国経済はかなり低迷しましたが、その中にあって満州は、中国随一の工業地帯として同国の経済を支えたといいます。

ただこれは、満族が優秀だったからというよりも、むしろ、それ以前の満州国であった時代に、日本が導入した数多くの工業インフラがここにあったからにほかなりません。

そして、満州国時代、その礎を築いたのは、満鉄こと、南満州鉄道であった、とはよく言われることです。

この半官半民の国策会社は、そもそも、日露戦争で勝った日本が、ロシアから獲得した「東清鉄道」をもとに設立されものです。

同社はこれをベースに、満洲国内の隅々まで鉄道網を敷くとともに、航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えて、役場、ホテル、図書館、学校などの数々の箱モノ的インフラストラクチャーの整備を行いました。

日露戦争中に、参謀本部次長だった児玉源太郎が、政府に対して献策した「満洲経営梗概」には、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあります。

鉄道会社の「仮面」をかぶりながら「百般の施設」とつくることで日本の植民地の経営を完成させよ、という内容であり、満鉄はそれを具体化していくための組織でした。

その結果、満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、数多くの事業を併合した巨大企業に成長しました。

最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンとなり、鉄道総延長は1万キロ、社員数は40万人に達したほか、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配に大きく貢献しました。

満鉄線の各駅一帯には、広大な附属地があり、ここでは満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄自身がこれらの行政まで行っていました。首都の新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地でした。

都市在住の日本人の多くは、この満鉄附属地に住み、日本企業も附属地を拠点として治外法権などの特権を享受し続けました。ただ、行き過ぎた特権の蔓延が、満洲国の自立を阻害するまでになったため、1937年には、満鉄附属地の行政権を満洲国へ帰属させました。しかし形だけのことであり、満鉄の権威はその後も揺るぎのないものでした。

満鉄は、その本来の姿である、鉄道会社としても高い技術を持っていました。新京〜大連・旅順間がその本線でしたが、ここからさらに各地に支線を延ばしており、これらの間に「超特急」とも呼ばれるような高速列車を走らせていました。

「パシナ形」と呼ばれる流線形の蒸気機関車を牽引車として、これと専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」には、当時の日本としては最高の鉄道技術が投入されました。これは世界的に見てもかなり高いレベルにあったといわれています。

満鉄はまた、航空会社も経営していました。1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたそれは、「満洲航空」といいました。

ある特定の国を代表し、対外的にも一番知名度が高い航空会社や船舶会社を指して、「フラッグ・キャリア」といいますが、満州航空は、まさに満州国のそれでした。現在の日本でいえば、日本航空がそれにあたるでしょうか(最近あまり元気がないようではありますが)。

満州航空は、新京飛行場を拠点に満洲国内と、朝鮮半島、日本を結ぶ定期路線を運航しており、満洲国内の主都市を結んでいたほか、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航する国際航空会社でもありました(国際線は結局成功しなかったようですが)。

満洲航空はまた、単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客輸送以外にも、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行っていました。

これらの多岐にわたる業務に携わるため、数多くの航空機を保有していましたが、これらの中には、自社の工場で開発、製造を行なったMT-1といった航空機もありました。

三菱 MC-20という飛行機も保有しており、これは三菱重工業が開発・製造したもので、当時の日本における国産輸送機の代表的機種です。九七式重爆撃機一型(キ21-I)をベースに改造して輸送機として開発され、当時の日本の輸送機中でも特に優れた性能を持っていたことで知られています。

輸送用として以外にも、旅客機としてほかのいろいろなバリエーションのものが作られましたが、それらを合わせて通算507機が製造されました。この製造数は当時の日本の輸送機のなかでは最多です。

旅客機としての乗客数はわずか11名にすぎませんでしたが、三菱はその技術を戦後も継承し、YS-11の開発につなげ、現在もMRJなどの国産航空機の開発においてそのノウハウが生かされています。

M-20

満州航空は、1945年8月の終戦と満洲国の滅亡に伴い消滅し、現在その痕跡はほとんど何も残っていません。満鉄が残した遺構もあまり残ってはいませんが、学校やホテルなどの一部の建築物は、今も満州各所に残っており、多くが修復されながら現在も使われています。

たとえば、満鉄大連本社は、現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所として使われているほか、同じく大連にある、旧ヤマトホテル(複数)は、大連賓館や遼寧賓館の名で営業を続けています。鉄道では、満鉄各線で運行されていた車両の一部が、ボロボロながらも現在も現地で稼働しているそうです。

私もこのコロナ騒ぎがなければ、帰国前にでもそうした遺構を見学したいところなのですが、隔離されていては、いかんとも仕方がありません。また、解放されても、なかなか自由にこの国のあちこちを見て回るというわけにはいかないようです。

この佳木斯にもいくつかそうした施設が残っているようです。ここにいる間にもし、可能性があれば、そうしたものを見聞し、またご報告したいと思います。

ここでの隔離期間もあと2週間弱となりました。早く外へ出て、旧満州国の澄んだ空気を思いきり吸い込みたいところですが、まずは体調を崩さないことです。私ももう若くはありません。

とくに体重増加が心配です。隔離生活は人をブロイラーにしてしまいがちです。太りすぎないよう、ダイエットしつつ、次のブログを書くのに備えたいと思います。

大連にて

3月中ばから中国へ来ています。

この1月以降、ブログへ書き込みができなかったのは、その準備のために忙殺されていたためです。ここへきてようやく落ち着いてきたので、これから中国通信、ということで折につけ、このブログも更新していこうと思います。

今、私がいるところは、大連というところです。最終目的地は、さらに北の黒竜江省にある佳木斯(ジャムス)という町なのですが、ここに滞在しているのはそこへ入るための隔離期間を過ごすためです。

現在、中国では再び全国的にコロナの猛威が振るおうとしており、政府当局は外国人の入国を極端に制限しています。私たちも本来ならば、入国はできないのですが、今回の仕事が中国政府の息のかかった事業ということで、許されてここにいるわけです。

大連に来るのは初めてです。なのであちこち見て回りたいところなのですが、なにぶんホテルに缶詰めになっているため、市内を歩き回るわけにもいきません。これまでのわずかな見聞は、空港からホテルまでのバスの中からのものだけです。

約30分ほどのショートトリップでしたが、それでもこの町の雰囲気をなんとなく掴むことができました。

3年ほど前にも中国へ来たことがあり、そのときの滞在地も佳木斯でした。この町についてはかなり詳しくあちこちを見ることができました。

それとこの大連を比べると、街路や行きかう人の様子についてはかなり違うなという印象を受けます。

いろいろあるのですが、ひとつには道行く人々の立ち姿がごくごく自然だということ。佳木斯の人々もそれなりに清潔感があったのですが、全体的にちょっとちぐはぐだな、という印象をよく受けたものです。

着ているもののせいでしょうか。どこかその身なりに統一感がなく、とくに若者や若年層を中心に派手な服装をしている人も多かったように思います。佳木斯の町は継ぎ足しで開発された経緯があって雑然とした街並みを持っており、人々もそれに合わせているような感じさえします。

では大連はどうかというと、みんなごく自然の立ち振る舞いをしており、何と言いうか落ち着いた感じがあります。この町の歴史の長いことと関係があるのでしょうか。少なくともどぎついファッションや派手な衣装はまったく見られませんでした。

もし夜の大連を出歩くことができたならまた印象も違ってくるのかもしれませんが、少なくとも昼間のこの町を見る限りでは、ごく普通の人々があたりまえの生活を背伸びせずに送っているな、という感じを受けました。

無論、短い時間の間の私の先入観が入った穿った観察です。町の様子によってその見え方が違う、という一例と捉えていただければよろしいかと思います。

そう、つまりは町の雰囲気が全然違うのです。大連は、中国において日本が最も早くから統治していた町です。空港を出たとたん、町の雰囲気がなんとなく日本に似ているなと感じたのはおそらくそのためで、ホテルに至るまでのおよそ15kmの道のりの間ずっとそういう感じを受けていました。

宿に入ったあと地図を調べてみると、町の北にある大連周水子国際空港から、今私がいるホテルまでのルートは、ほぼ町の中心街を通っており、この町の代表的な街並みだということがわかりました。また、現在私がいる場所は、大連駅から西へ5kmの場所であり、町の中心のようです。

何分、隔離されているのでこれ以上の町の雰囲気を伝えることができないのが残念ですが、幸い、私の部屋は見通しがよく、下の写真はホテルから北東の大連の町を見渡したものです。




高層住宅街が多いなとお気づきでしょうが、これはここだけでなく、大連郊外でも同じです。飛行機で空港に降り立つ前に見た際も、郊外の丘や谷にびっしりとアパートや高層住宅が立ち並んでいました。

なるほど、日本の十倍以上の人口を持つ国の大都市はこれほどのものか、と至極感心したものです。3年前に中国に来たときは、北京空港に降り立ったのですが、北京の町もここと同じようなもので、やはり高層住宅街が立ち並んでいました。

ただ、大連が北京と違うのは、ここが港湾都市だということです。

大連は、日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス条約の締結によって、日本の租借地になりました。このとき、中国語の古地名「大連湾」からとった「大連」を都市名として採用しましたが、これはそれまでのロシア名のダルニーと発音が似たものを採用したともいわれています。

これはロシア語で 「遠い」を意味しています。この当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクです。彼らからすれば、この間にあるシベリアを遥かに超えて、気の遠くなるほど遠く離れたこの町をそう表現したのでしょう。

大連湾は、中国東北部にあります。緯度は北朝鮮の平壌とほぼ同じで、Ω型の大連湾を囲むように背後にあるのが遼東半島です。そしてその西端付近にあるのが大連です。平壌から西へわずか350kmほどという位置関係です。

この地域は、戦前の日本にとっては朝鮮半島と同様に裏庭のような存在でした。直線的には福岡~青森間よりも近く、快速船でならば2日ほどもあればたどり着けます。今回我々が利用した航空機では、わずか2時間半で到着しました

その南側には黄海が広がっており、これは広義には東シナ海の一部です。黄海の北西側には、遼東半島と山東半島があって、この二つの半島に囲まれる形でさらに西側に膠州湾があります。

大連は、遼東半島南東の海岸線沿いに発展した町です。陸域では、北、西、南の三方を山で囲まれていて、湾の入口には大小3つの島があり天然の防波堤になっています。かつ深い水深を有する天然の良港です。

1月から3月のはじめごろまでは一部の浅い場所が結氷しますが、基本的に不凍港です。
真冬でも凍結しない港はこの緯度では貴重であり、日清戦争後、三国干渉でこの地を清から租借したロシアは、巨額の資金を投入して鉄道を建設し、港の整備を行いました。

三国干渉というのは、日清戦争後に締結された下関条約により日本が勝ち得た遼東半島の領有を独仏露の三国がクレームを入れて阻止したものです。

この三国は中国大陸への進出への強い野望を持っていましたが、お互いにけん制しあって遠慮をしていました。そこへ戦争に勝った日本が出てきて、目のまえにあった人参をかっさろうとしたわけです。当然強い反発を感じ、強引にこれを妨害する行動を起こしました。そしてそれに成功します。

その見返りとして、ロシアは清国から満洲北部の鉄道敷設権を得ることを許されました。
その中でロシアは、軟弱地盤のために建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、バイカル湖東のチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る最短路線の鉄道の敷設を特に優先することにしました。

そして、1896年(明治29年)に「中国東方鉄道株式会社」という鉄道会社を設立しました。清国側の名称は「大清東省鉄路」であり、通称として「東清鉄道」と呼ばれました。表向きは露清合弁の鉄道でしたが、ロシアの発言権が強く、清国は経営に直接関与できませんでした。

翌年にはルートが選定され、中国人労働者(苦力)が大量に投入されて工事が進められた結果、シベリア鉄道と直結する東西路線が完成します。と同時にその東端から満州全土に支線を敷設し、ほぼ満州全土をカバーする鉄道網が完成しました。

この満州内に敷き終わった鉄道、東清鉄道は、日露戦争後、日本がその所有権を得、名前を「南満州鉄道」と変えて運営を始めました。いわゆる、「満鉄」です。

続いてロシアは、三国干渉で租借権を得た大連の開発に着手しました。ロシアが統治していた時代の大連は、鉄道の建設が終わったばかりで港は整備中、町の整備も港を中心に一部の建築物ができた程度で、人口は4万人ほどでした。

日露戦争で日本が勝利してここを接収してのちは、日本政府がさらにここに手を加えました。大連を中国大陸における拠点とすべく、ここを貿易都市として発展させようとしたのです。

このため、遼東半島全体に関東都督府という行政機関を敷き、また南満州鉄道に鉄道だけでなく市街地のインフラの整備も行わせるとともに、港湾施設の拡張にも力を入れました。

またロシアがその基盤を作った町づくりを踏襲し、西洋風の建築物が立ち並ぶ街路の形成しました。さらに市電を建設し、1920年代には現在の大連駅とその駅前一帯が整備され、中心市街がほぼ現在の形になりました。

その街並みは当時の日本のそれをまねており、これが最初にこの町に来た時に私日本と似ている、という感じたゆえんでしょう。




その後大連はさらに発展を遂げ、1940年代の大連の人口は60万人を超え、日本政府が目指したとおり、アジア有数の貿易港となりました。この当時の日本人居住者は約20万人で、日本人は支配層と見られていました。

その後日本は戦争に負け、大連は再びロシアが占拠するところとなりましたが、1951年に返還され、この年に遼東半島先端にある旅順市を合併して、旅大と改称しました。しかし、1981年に元の大連に名前を戻して現在に至っています。1990年代の改革開放経済のもと、中国東北部の中でも特に目覚しい経済的発展を遂げており、日本との交流もさかんです。

現在の大連の人口は約600万人ほどで、その中でも日本人の常駐人口は5000人ほどといわれています。日系企業も多く見られ、日本語を話せる中国人の方も多いというのが大連の特徴です。

こうしてこれを書いているホテルの部屋のテレビでも、NHK(NHKプレミアム)が放映されており、町へ繰り出せば、日本食にありつくのも難しくないとのことです。残念ながら私にそれはできませんが、毎日三食部屋に運ばれてくる食事には日本食も多く、昨夜はなんと鰻丼(!)が出ました。

話は戻りますが、かつての遼東半島への干渉からもわかるように、ロシアはその領土獲得に関してきわめて貪欲な民族です。ヨーロッパでもっとも文明開化が遅れた国でありながら、最も侵略的な国のひとつであり、長年、東欧を中心とした近隣諸国の領土を脅かし、実際それを自国領土に取り込んできました。

その矛先はさらに東へとむけられ、シベリア、モンゴル、満州北方へと進み、ついにその東端はオホーツク海に達しました。

これを辿って南下をすればそこは清国、朝鮮であり、その先には日本があります。三国干渉におけるその強引ともいえる主張を見ただけでも、その侵略的な意図は明らかでした。かくして、この当時、朝鮮半島の権益を巡る日清戦争に勝利した日本にとって、最大の仮想敵国はロシアになりました。

こうしてみると、現在のロシアとウクライナの関係がややこれに似ているような気がしないでもありません。無論、地理的な要素も異なりますし、ウクライナと日本ではロシアとのそれまでの歴史的関係がまるで違うわけで、一概に比較の対象にはなりえません。

しかし、武力を背景にした他国への侵略という一点においては、120年前に起こった日露の戦いと様相が似ている気がします。かつての両者の戦いも、そもそもはロシアが一方的に中国の国土の領有に執着し、これに日本が危機感を覚えたことに始まりました。

実は、ウクライナはロシアのルーツともいえる国であり、その成り立ちはロシアそのものといっても過言ではありません。ですから他国を侵略しているというよりは、日本の戊辰戦争のような同胞同士の内戦に近いものといえると思います。

その中において、ウクライナは善戦している、という報がしばしば入ってきます。ロシアの軍事力は強大で形勢が逆転するということはあり得ませんが、もしかしたら軍事的には敗れても、国際世論の支持を得て、政治的にはウクライナが勝利するのかもしれません。

戊辰戦争では圧倒的な戦力を誇った幕府軍が明治政府軍に敗れました。同じようなどんでん返しが起こるのではないか、そんな期待も少し持ちながらこの戦争の行方を見ていこうと思っています。

私の中国の旅はまだまだ続きます。今の予定では夏ごろまでこの地にとどまる予定です。しかしはたしてそれまでにこの戦争は終わるでしょうか。

このブログの続きも、次、いつになるかわかりません。が、折につけ、またこうした思い付きを書いてみたいと思います。

日本ではそろそろ桜が咲く季節ですね。今年はそれが見れないのが残念です。

義時と江間


今、住んでいる修善寺から北へ車で20分ほど走ったところに、「江間」という郷があります。

現在は伊豆の国市に属していますが、その昔は三島などを主とする君沢郡の一部でした。地名の由来はよくわかりませんが、「江」は海や湖が陸地に入り込んだ地形を示す言葉であることから、昔この地は海だったと推察されます。

縄文時代前期には、海面の高さが現在より数m~数10m高い時代があったそうです。全国的に陸地奥部まで海水が浸入しており、その原因は地球全体の温暖化に伴い極地の氷が溶けたことなどのようです。こうした海水面上昇のことを「海進」といいます。

伊豆においても、この海進によって三島や沼津の平野部の大半は海底となり、これより南の長泉町、清水町、伊豆の国市、伊豆市などの低地部でも海水が浸入し、山や台地など標高が高い部分だけが残る複雑な地形が形成されました。

その後、海水面はいったん現在くらいの高さまで戻ったようですが、平安時代ころに再び海進があり、縄文時代ほどではないにせよまた海水面が高くなりました。こちらは平安海進と呼ばれています。

このころ、―平安時代ですが― おそらく江間においても、縄文時代の浅海が残っていたか、あるいは入り込んできた海水が完全には引かずに、湿地帯のような様相を示していたに違いありません。またそこには入江があちこちに存在していたと想像されます。

ここに住んでいた住人は、その海の恩恵を受けながら暮らしていたことでしょう。浅瀬の海は魚介類の採集には最適であり、またすぐ近くには狩野川という大きな川が流れていますから、そこから水を引けば、農耕にも適した土地になります。

こうした豊かな自然を背景にそれなりの文化を築いていたと考えられ、事実、北江間と呼ばれる地域には、古墳が残っています。これは「大師山古墳群」といい、一般には「北江間横穴群」と呼ばれています。

現在の江間にはかつて海だった面影はなく、見渡す限りの田園地帯です。その合間にイチゴ作りのビニールハウスが点在していて、「江間いちご」は久能山の石垣いちごと並んで静岡いちごの代表的ブランドです。

かつてはそこに海水が入り込んで入り江を形成していたと考えられるわけですが、その辺縁は小高い丘に囲まれていて、その中に大師山と呼ばれる丘陵があります。その一角の南斜面に掘られた横穴が北江間横穴群です。







等高線に沿う形で10基ほどのものがあり、これらは平安時代より前の7世紀から8世紀にかけて作られたと考えられています。これすなわち飛鳥時代から奈良時代に相当し、この時代に造られた家形の石棺もいくつか残っています。そのひとつで「若舎人(わかとねり)」と銘が入ったものは、国の重要文化財にもなっています。

この江間のさらに南側には、「北条」と呼ばれる字があります。ここは鎌倉幕府の執権を代々勤めた在地豪族、北条氏が治めていた場所といわれています。

北条家の家紋は、「三つ鱗(ミツウロコ)」と呼ばれ、三つの三角形を重ねたものです。初代執権の北条時政が江の島に参籠した際、弁財天が現われ、非道を行なえば家が滅びると告げたのち、蛇に変化して海中に消えたという伝説が残っています。

そのとき残した3枚の鱗がこの北条家の家紋の所以です。時政がこの鱗を扇に載せ、竜に向かっておしいただく図を、幕末に活躍した浮世絵師、月岡芳年が残しています。

こうした大蛇伝説を持つ氏族は、大和大神氏(おおみわうじ)を先祖に持つ一族ではないかという説があります。これは奈良県の桜井市三輪にある「大神神社」を奉斎した一族で、その始祖は大友大人命(おおともうしのみこと)という神話の世界の人物です。

「日本書紀」では大三輪大友主 (おおみわのおおともぬし)の名で登場し、大神神社のある地「三輪」はここからきています。大和大神氏が「大神氏」というその名を朝廷から授かる前に名乗っていたのも「三輪氏」です。三輪の3と三鱗の3は相通じるものがあります。

さらにこの大和大神氏の先祖は、海人族(かいじんぞく)だったのではないかという説があります。これは弥生文化前期に力を持っていた民族で、航海、漁労など海上において活動し、4世紀以降は海上輸送で財をなした集団です。

だとすれば、大和大神氏の中でもとくに航海技術に優れた者たちが、奈良の地を離れてはるばる海を渡り、伊豆に辿りついて、土着したということも考えられます。

その一部が江間の地に落ち着き、のちに北条を名乗るようになったのかもしれません。今も残る横穴群は、北条氏の先祖でもある大和大神氏がその親族が亡くなる度にその亡骸を埋葬したものと考えることもできます。

江間の地には、かつて北条氏の一族がここを治めていた痕跡がいくつか残っています。江間を東西に走る「いちご街道」と韮山伊豆長岡修善寺線との交差点付近にある石徳髙神社(豆塚神社)もそのひとつで、北条氏が大明神として崇敬していた神様をここに祀ったものだと伝えられています。







ただ、江間の地は、遠く山並みが見えるあたりまですべからく田畑が広がるという土地柄であり、まとまった集落は少なくまた豆塚神社以外には神社仏閣もほとんどありません。

鎌倉幕府を率いた執権北条氏の根拠地とするにはあまりにもさみしい場所であることから、これ以外の場所が中心地だったと考えるのが妥当です。

江間の東側すぐには、狩野川が流れており、これを挟んで対岸には守山という小高い山を中心にした郷があります。江間の南に位置する北条の地もどちらかといえば閑散としており、この守山のほうが賑やかなことから、おそらく北条氏の先祖は北条に土着したのち、すぐ対岸にあるこちらへ本拠地を移したと考えられます。

守山の頂上にはかつて砦があっとされ、またその麓には、初代執権の北条時政の館であったとされる遺構も見つかっているほか、願成就院や真珠院、守山八幡宮といった北条氏にまつわる寺社が固まって存在します。また、室町時代に鎌倉公方として下向した足利政知がここに館を構えたとされる「堀越御所」の跡地もここにあります。

江間の地はそうした場所から少し離れています。その昔は湿地帯もしくは海であって、住居を構えるには適しておらず、所領としても小さなものだったでしょう。このことから、ここは北条氏の本家ではなく分家筋にあたる豪族が治めていたと考えられます。

その名も江間家という部族だったようで、のちに鎌倉幕府の第二代執権となる武将もまた若いころは江間四郎あるいは江間小四郎と称していました。

その名も北条義時といいます。もうおわかりでしょうが、義時といえば、今年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の主人公です。

のちに北条姓を名乗ることになりますが、そもそもは江間家の初代だったという説もあり、その屋敷は、江間と北条の地のちょうど境あたりにありました。現在ここは、江間公園という広場になっており、かつてここから大陸由来の陶器などが発掘されたそうです。

それでは、簡単にこの江間小四郎こと北条義時の生涯を振り返ってみましょう。

上述のとおり、義時は元は江間姓を名乗っていました。二男として生まれたためであり、跡取りではなく、北条家の分家としてこの姓を名乗るようになりました。源氏将軍が断絶したあとは父、時政の執権職を継ぎ、当時の社会の実質的な指導者となりました。

姉は源頼朝の妻である北条政子であり、父時政は頼朝の舅ということになります。頼朝は平家を壇ノ浦で滅ぼしてからは京の天皇家とは一線を画し、鎌倉に将軍をヘッドとする武家組織、幕府を開きました。

しかし、頼朝は早死にし、その異母弟の義経、範頼も生前の頼朝に疎まれて謀殺されました。さらに頼朝は政子との間に二人の男児を設けましたが、そのうちの長子である頼家もまた頼朝の将軍職を継いだのちに暗殺されています。







頼家は独裁色が強い将軍だったようで、第2代鎌倉殿となったものの、御家人たちの反感を買っていたようです。そこで彼を押さえるために作られたのが、御家人十三人による合議制です。これが今年の大河ドラマのタイトル「鎌倉殿の十三人」の由来です。

頼家の独裁を阻止するため、上がってきた訴訟などは、時政や義時を含めた宿老13人が合議によって取り計らいました。直接頼家へ取り次がせないようにすることで、平等化が図られそれまで不遇をかこっていた御家人たちも救済されるようになりました。

しかしこれによって頼家は孤立します。その後もなんとか独裁を続けようとしますが、十三人とこれをとりまとめる北条氏との対立は深まるばかりで、やがて修善寺に幽閉されたのち暗殺されてしまいます。

北条家は、頼家の代に乱れた政治を正すべく、弟の源実朝を第3代将軍に指名しました。ただ、このときまだ十二歳と若かったため、これを補佐する者として、北条時政が初代執権の地位に就きました。実質上、鎌倉幕府の実権を握る代表者です。

しかし、時政もまた独断で物事を動かそうとするタイプであり、また情に流されやすい性格でした。後妻の牧の方を溺愛したことから政治がおろそかになり、そのことで何かと一族の面々と対立するようになります。なかでも正義感の強い、息子の義時との関係がぎくしゃくするようになります。

やがては紛争を起こすことになりますが、そのきっかけは妻の牧の方の娘婿と前妻の娘婿の嫡子との間で起こった言い争いです。この前妻の娘婿は、畠山重忠といい、義時の親友でした。後妻の牧の方を擁護する時政は、重忠を謀反の罪で殺害しました。

さらに、時政は実朝を暗殺して牧の方の娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策します。しかし、これに義時は猛烈に反発し、姉・政子と協力してこれを未然に防ぎ、また時政を訴追してついには伊豆国への追放に成功します。

父の時政の執権職を継いで第2代執権となった義時ですが、彼もまた独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていきます。ただ人望のあった彼は北条家御家人うまくまとめ、強固な武士団を組織することに成功します。

そして、彼らともに幕府創設以来の重鎮や有力武士を次々と滅ぼし、幕府の最も枢要な職を独占するようになりました。こうして義時は、時政に代わる幕府指導者としての地位を固めます。

一方このころ、第3代将軍、鎌倉殿となっていた実朝は、鶴岡八幡宮で、「父の仇」として彼を狙う、頼家の子で僧侶の公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいます。しかし、唯一残った源氏の正統である公暁自身もその直後に討ち取られてしまいました。



こうして源家は直系の一族全員が死に絶えてしまい、将軍職を継ぐものがいなくなってしまいました。このため、執権北条家は、頼朝の遠い縁戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れることにします。

もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはありませんでした。このため、政子が尼将軍として頼経の後見となり、空白となっていた鎌倉殿の地位を代行します。また、義時が執権としてこれを補佐して実務面を補うことで実権を握るようになりました。

こうして北条家執権による支配体制はさらに強化されましたが、一歩下がって国家レベルでみるとその体制も盤石とはいえませんでした。西には朝廷という大きな権力団体があり、次第に彼らとの争いが激しくなってきたからです。

とくにこの頃の朝廷の実質上のトップ、後鳥羽上皇とは激しく争うところとなり、朝廷と鎌倉幕府はどんどんと対立を深めていきました。先の将軍後継者問題を巡っては最終的に藤原頼経が選ばれたわけですが、そこに至るまでにはやはり激しいい攻防がありました。

第3代将軍である実朝が暗殺されたころ、幕府は子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇の親王(子供)を将軍として東下させることを朝廷に要請しました。しかし、後鳥羽上皇はこれを拒否しました。

自分の息子が将軍になるのですから本来喜ぶべきところですが、幕府の言いなりになっていては朝廷が実権を握れないと考えたからです。反発する後鳥羽上皇は部下を鎌倉に送り、自分の所有する荘園の地頭の撤廃などを条件とするならこれを認める、と返事をしました。

元々後鳥羽上皇は鎌倉幕府から財政的な支援を受けていたわけではありません。その主要な財源は畿内各所にある膨大な荘園群でした。

ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになったため荘園領主である後鳥羽上皇の収入は激減しました。将軍職を誰に継がせるか、といった後継者問題における対立もさることながら、これが後鳥羽上皇は反幕府色を強めていった主な要因といえます。

地頭の撤廃は幕府の根幹をも揺るがす大問題です。義時はそんなことは許可できない、としてこの朝廷から要請を断固拒否しました。と同時に、これ以上朝廷と寄り添っていくことはできないと判断し、以後、身内から将軍を出そうと決めました。頼朝の遠戚である藤原頼経を新将軍に据えたのはそのためです。

こうして将軍職の後継として天皇家の血を入れるという、朝廷と幕府が和睦するための唯一の機会を失った両者は、その後対立関係をさらに深めていきます。と同時に日本は幕府と朝廷という対立する二つの勢力による二元政治の状態になっていきました。

後鳥羽上皇は、自らが天皇であった時代に長子の土御門にその座を譲って院政を敷き、実質的な朝廷の最高権力者になった人です。以後、一貫して鎌倉幕府に対して強硬な路線を採ってきましたが、土御門天皇が穏和な性格であったため退位を迫り、第三皇子である順徳を天皇に据えるなどしてさらに体制を固めました。

一方、対する鎌倉幕府は、新たな将軍が決まったとはいえ、それまでに相次いた将軍の死によって多分に混乱していました。朝廷との闘いのための体制づくりはまだまだ十分なものとはいえず、東国を中心とした諸国に守護、地頭を設置したものの内紛は絶えず、また箱根以西の西国の支配も充分ではありません。

対する朝廷は畿内を中心として強い軍事力を持っていました。後鳥羽上皇は武芸にも通じており、それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を図ってきました。後鳥羽上皇はまた多芸多才な人であり、新古今和歌集を自ら撰するなど文化面でも優れた才能を発揮した人で、そのためもあって西国の武士たちの尊敬を集めていました。

このため、もし朝廷との戦端が開かれたとしたら、多くの武士が朝廷に味方すると考えられ、幕府側が勝利する目途はまったく立っていないという状態でした。京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態といえ、政権を引き継いだ義時は生涯最大の難局に直面する事になります。

朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、ついに後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めました。時の天皇、順徳天皇も討幕に積極的であったために巷では討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となっていきました。



こうした中、幕府内では、朝廷に先制攻撃を仕掛けるか、それとも箱根あたりで敵の軍勢が来るのを待って持久戦に持ち込むかについての合議が持たれました。しかし、なかなか結論は出ず、時間ばかりが過ぎていきました。

このころ、幕府には大江広元という古老がいました。はじめは朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府や公文所の別当を務め、幕府創設に貢献しました。源家が滅亡し北条執権が幕府の主体となってのちも、政子や義時と協調して幕政に参与しており、このころ積極的侵攻を唱えていた政子に同調していました。

広元は朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞し、待っていてはダメだ、いっそ京へ駆けのぼろうと主張します。迷っていた義時も朝廷の内情に詳しい大江がそういうならとこれに賛成し、こうしてようやく上洛が決定されました。

かくして幕府と朝廷の戦端が開かれました。承久の乱と呼ばれるこの戦乱では、後鳥羽上皇はまず、義時追討の宣旨を全国に発布し、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命を出しました。鎌倉幕府のおひざ元の関東の守護達にも密使が出されました。

これに義時は即座に反応します。その詔を持った密使たちを、先手を打って次々と暗殺していったのです。こうして内部からの造反を防いだ義時は軍をまとめ、嫡男・泰時を総大将として、東海道、東山道、北陸道と3派に分けて軍勢を京都へ送り出しました。

総勢19万にまで膨れ上がった軍勢は各地で連戦連勝を続け、最終的には木曽川、宇治川における京都防衛線を突破して京都を制圧します。義時追討の宣旨発布からわずか一ヶ月後のことであり、幕府軍の完勝でした。

この勝利により、畿内において幕府に敵対する朝廷勢力は駆逐されました。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。鎌倉においても、かつて京方についていた旧将軍独裁時代の勢力が一掃されました。

こうして義時の主導する鎌倉政権は、公家政権に対して絶対的支配の地位を持つようになり、朝幕関係は完全に逆転しました。と同時に執権義時の幕府内での最高権力者たる地位も確定しました。京と鎌倉を制した義時の執権政治は、全国的政権としての新たな段階に進む事になります。

しかし、そのわずか2年後に義時は62歳で急死します。死因は脚気といわれていますが、あまりにも急な死であったことから様々な憶測を呼びました。

偉大な幕府指導者として御家人から崇められてきた人物だけに暗殺によるものではなく、後妻の伊賀の方のやきもちで毒殺されたとか、些細なことで恨みを持った近習の小侍に刺し殺されたといった風聞が飛び交いました。



しかし義時の死後も、北条家の執権体制は順調に続いていきました。朝廷から摂家将軍を推戴して迎えるという習慣がその後定着し、将軍の地位は単に形式的なものになりました。政務決裁は事実上のトップである執権がこれを行い、その補佐として合議機関である評定衆を置くなどの集団指導体制が確立されました。

ただ、形式的であっても御家人の主君は将軍であり、北条氏は御家人の第一人者に過ぎません。将軍家とは公称できない立場上、うっぷんを抱え続けた北条家は、以後、自らを得宗(とくそう)家と呼ぶようになりました。

「得宗」とは、実質上の初代執権ともいえる義時の別称、戒名、追号など色々な説がありますが、いずれにせよ将軍に相当する尊称としてこう呼ばせるようになったもののようです。のちの戦国時代に天皇にはなれない豊臣秀吉が自らを摂政関白と称するようになったのと似ているかもしれません。

実際、北条一門の惣領に過ぎないこの得宗家に将軍家さながらにすべての権力が集中していくところとなり、やがて得宗家こそが北条一門の最上位に位置づけられるようになります。そして幕府の公的地位である執権よりもさらに上、と目されるようにもなっていきました。

やがて得宗家の総領は将軍をサポートする執権職を遂行するだけでなく、御内人と呼ばれる直属の親衛隊まで持つようにもなりました。

公文所という文書管理のみならず指揮・命令・政務・財政・徴収・訴訟などを行う実務機関を持ち、さらに諸国の守護職、朝廷を監視する六波羅探題も設置し、幕府の要職の過半を占めるなどの強大な権力を持つようになりました。これはかつて平清盛率いる平家一族が行った時代の治世とよく似ています。

では、本来その得宗家の初代とされるべきだった時政は、その後どうなったのでしょうか。

時政は、畠山重忠謀殺や将軍実朝の暗殺未遂といった事件で晩節を汚したためか、子孫からも疎まれています。得宗家初代を義時として祭祀から外されるなどの仕打ちを受けており、まるで存在しなかったように扱われました。東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げたにもかかわらず、です。

伊豆へ追放されたのちは、義時の死よりも9年早い建保3年(1215年)に腫物のために死去しています。意外に長生きで、享年77でした。

一方、早世した父・義時を継いで第3代得宗家当主になった泰時は、父以上に人格的に優れ、武家や公家の双方からの厚い人望を集めました。

のちには北条家の中興の祖としてあがめられるなど、当時の鎌倉武士の質実剛健な理想を体現化した人物として知られるようになります。「御成敗式目」を制定したのも泰時であり、これは日本における最初の武家法典とされるものです。



北条得宗家の執権政治はその後もさらに充実したものとして発展し、その後第14代執権・北条高時の代まで100余年続きました。しかし最後は、御家人筆頭の足利尊氏らの反乱によって終焉を迎えます。

後醍醐天皇の命により立ち上がった反乱軍が鎌倉に押し寄せ、東勝寺で行われた決戦では北条一族のほとんどが討死、また直後に自害して北条氏はほぼ滅亡しました。

「ほぼ」と書いたのはその後、北条家による執権の世襲は16代の守時のときまで続いたためです。ただ、第15代の貞顕(さだあき)が執権の座に就いたのはわずか10日間にすぎず、また16代の守時も1ヶ月足らずの在職にすぎませんでした。

最後の執権守時は鎌倉中心部で反幕府軍と激戦を繰り広げ、一昼夜の間に65合も斬りあったとされます。しかし、衆寡敵せず、最後は深沢という場所で自刃しました。これは現在の東海道線大船駅に近いところです。享年38。

以後、後醍醐天皇による建武の新政が施かれ、鎌倉時代から続いていた公武の政治体制・法制度が刷新されて人材の淘汰が図られるようになります。しかし、かつては協力者だった足利尊氏が再び反乱を起こして政権は崩壊、尊氏らによる室町幕府が成立します。

やがてその室町幕府も倒されることになるわけで、かくして時代は繰り返される、ということになります。平家の勃興と滅亡、鎌倉幕府の隆盛と消滅、そして室町幕府の終焉と戦国時代の到来というのは、現在に至るまでそれぞれワンセットで語られることの多い歴史物語です。

ただ、北条得宗家はこれで消滅したわけではありませんでした。最後の執権であった守時には妹がおり、これは登子という名でした。この人は足利尊氏の正室として迎えられ、鎌倉幕府滅亡後も生き残りました。従って、尊氏との間に産まれた足利義詮および基氏以降の代々の足利将軍家の家人には北条家の血が流れている、ということになります。

その後も足利の血は耐えることなく、江戸時代まで続きました。赤穂浪士の討ち入りで有名になった吉良氏はこの足利氏の直系です。

北条家を幕府のトップにまで押し上げた功労者、義時の墓は、現在の伊豆の国市北条にあります。その名も北條寺という寺の境内にあり、地元では白い曼殊沙華がたくさん咲くお寺さんとして知られています。

義時の墓は息子の泰時が建てたものと伝えられています。妻とされる阿波局の墓も義時の隣にありますが、この人物についてはよくわかっていません。大河ドラマのほうでもまだ誰が演じるかは発表されていないようです。

すぐ近くを流れる狩野川を挟んで対岸の守山の願成就院には時政の墓もあります。すぐ傍の狩野川の土手沿い、こちらには赤い曼殊沙華が咲き乱れてきれいです。

遠方にいてこのブログを読んでいる方は、大河ドラマがクライマックスを迎えるであろう秋ごろにここを訪れてみてはいかがでしょうか。紅白の曼殊沙華の両方を愛でることができる土地柄というのは他にそれほど多くありませんから。