芙蓉の人その後 ~富士山

2014-0864最近、毎週土曜日の夜9時から、NHKで「芙蓉の人」を放送していて、山岳物の好きな私は、これを毎回欠かさず見ています。

しかも、原作の作者はこれも私が愛してやまない、新田次郎さんであり、初版は1970年に出されました。主人公は「野中千代子」といい、これが「芙蓉の人」です。「芙蓉」は富士山のことでもあるわけですが、それにしても、なぜ富士のことを「芙蓉」と呼ぶのでしょうか。

調べてみると、はっきりしたことはわかりませんが、芙蓉には「美人」の意味もあるようで、このため、「美しい峰」と言う意味で使うようになったという説、また、芙蓉の花のあのぎざぎざした花弁が、富士山頂のギザギザに似ている、という説などがあるようです。

新田さんは、その著作に「白い花が好きだ」という随筆もあり、自らの作品に白い花の名を与えたかった、という意向はあったでしょう。白い芙蓉の花の清楚な姿はなるほど富士山にもよく映えます。

富士山に日本人女性として初めて登ったのは、江戸時代の「高山たつ」という人です。この人の場合は信仰のためでしたが、気象観測という実務のために登ったのは、野中千代子が初めてのことであり、気象技術者でもあった新田さんは敬意をこめて富士の雅称である芙蓉の名を彼女に贈ったのでしょう。

この野中千代子という人は、実際、残っている写真をみるとなるほど花に例えても良いほど、結構な美人さんです。結婚前は福岡藩の「喜多流」という能楽師の娘さんだったようで、同じく福岡の人で親戚でもある「野中到」と結婚し、夫婦で冬季の富士気象観測を成功させるという快挙を成し遂げました。

この物語はこの二人の夫婦愛と、気象観測に情熱を傾ける夫、野中到の人生を描いたノンフィクションであり、新田さんの原作が発行されてから3年のちの、1973年にはじめてNHK放送でテレビ化されました。ただ、今回の放送は全6回ありますが、このときは全2回でした。

主演の野中到は、長門裕之、千代子は八千草薫で、その後も民放のテレビ東京で1977~1978年まで放送されていますが、この時の野中到は、中村嘉葎雄、千代子は五大路子でした。
その後、NHKは1982年にも「少年ドラマシリーズ」としてこの話を放送していますが、このときは、一回きりの短編だったようです。野中到は滝田栄、千代子は藤真利子です。

NHKとしてのドラマ化は、これ以来、なんと32年ぶりということになりますが、その背景としては、昨年富士山が世界遺産登録されたこともあって話題性も高いことや、最近は朝ドラなどの短編は好調なものの、長編についてはドラマ離れの傾向が強いので、ここらでヒット作を飛ばして、足がかりを作りたいといったこともあったでしょう。

そのNHKの意気込みにも答え、私もテレビで放送される新田作品としては久々でもあるので、結構リキを入れてみているのですが、主人公の千代子を奥深い縁起で定評の松下奈緒さんが演じ、また野中到を熱血物で定評のある佐藤隆太さんが好演していて、なかなかよく出来ていると思います。

が、ストーリーは単純なため、そこを演出やら役者さんの演技力でカバーしているようなところがあり、まだ完結しているわけではありませんが、クライマックスに向けてどの程度盛り上がりを持たせてくるかが成功か否かの分岐点といったところでしょうか。

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ところで、この芙蓉の人の原作者の新田次郎さんは、これを書いたあとわずか10年後の1980年に67歳という若さで亡くなっています。1956年に「強力伝」で第34回直木賞を受賞して以降、主に山岳モノで人気作家となり、晩年は歴史小説などにも力を入れていました。が、私はどちらかといえば晩年の作風よりも、若いころの作品のほうが好きです。

実はもと気象庁の職員であり、1932年に現在の気象庁にあたる中央気象台に入庁し、当初は富士山観測所に配属されていました。その後東京に戻って技術職員としてのキャリアを積んでいましたが、太平洋戦争のさなか、1943年には満州国観象台に転勤となり、ここで高層気象課長を勤めました。

1945年に終戦。しかしそのままの帰国はかなわず、新京で中国共産党軍に拉致されて抑留生活を送ることになりました。しかし、翌年には帰国がかない、中央気象台に復職。気象庁生え抜きの技術者として活躍しつつ、1963年ころからは気象庁観測部の高層気象観測課長・測器課長として、富士山気象レーダー建設責任者となりました。

このレーダーは、1959年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置が必要と考えられたことにより建設が決まったもので、新田さんたちの努力が実り、1965年に無事完成しました。

このとき、新田さんはこのレーダーの建設に関連して数々の新技術をも開発しましたが、そのひとつには無線によるロボット雨量観測計などもあり、これによって運輸大臣賞を受賞しています。

この当時においては、気象測量機器開発およびこれを使った観測の第一人者といえ、また完成した富士山山気象レーダーの運用技術もまたこの当時世界最高度のものであったため、そのノウハウの教示の要望が内外からも高く、新田さんは国際連合の気象学会でもこれを発表するなどの公務に明け暮れました。

こうした富士山レーダーとの関わりを基にして書かれた作品が、小説「富士山頂」であり、この作品は1967年に映画化もなされました。「芙蓉の人」はこの3年後に書かれたものです。

新田さんと同じく気象学者であり、富士山観測に関しては先人である野中到のことについては、かねがね気にはなっていたようで、長年この人の伝記を書こう書こうとネタを貯めこんでいたといいます。

この物語の主人公である、野中到と千代子夫人の話は、奇しくもちょうど一年前にもこのブログでその名も「芙蓉の人」、として書いています。二番煎じということになりますが、このときは野中到の晩年のことなどについてはあまり触れていないので、あらためてもう少し書き足してみたいと思います。

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野中到は、現在、これもNHK製作の大河ドラマ、「軍師官兵衛」で有名になった福岡の黒田藩の藩士・野中勝良の息子として筑前国(現福岡県)に生まれました。祖父は黒田家に仕えていた200石取りの武士で、槍術の達人だったといい、父は、明治維新後に役人となり、東京控訴院判事などを勤めていました。

この父の姉の糸子がのちの妻である千代子の実母であり、つまり二人はいとこ同士ということになります。役人の子として厳格な家庭で育てられたようですが、長じてからは気象観測に興味を持つようになります。

この当時気象予報はまだ黎明期であり、現在のような数値予報は行われておらず、機械による地道な観測が主であり、観測ポイントも少なかったこともあって、天気予報は当たらないのが当たり前といわれた時代でした。

また高地測候所は信州にしかなく、野中は、気象の勉強を進めるにつれ、天気予報が当たらないのは、高層気象観測所が少ないからだ、と考えるようになりました。そして天気は高い空から変わってくる、富士山のような高い山に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる、と確信します。

しかし、時代は日清戦争から日露戦争へ、またその後の軍拡へと突き進む時代であって国費は乏しく、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ません。このため、まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能であると、野中は考えました。

こうして自費で富士山観測所の設立することを思い立った野中は、思い切って当時入学していた大学予備門(現・東京大学)を中退し、その建設方法の模索を始めました。1894年ごろからその準備登山を始め、翌年1895年(明治28年)初頭には、厳寒期の登頂に成功し、富士山頂での越冬が可能であることを確信。

私財を投じて測候用の小屋を建設するための資材を集め始めましたが、資金不足のために当初予定していたほどの観測所はできず、結局6坪(およそ20平方m)ほどの「小屋」になってしまいました。

しかも、明治維新以降、信者だけでなく一般登山者も増えたため、山小屋へ荷物を運ぶ人手は忙しく、このため、観測小屋を建設するための資材を運ぶ強力を思うように集めることができません。しかし、地元御殿場で定宿としていた旅籠の主人などの援助なども得てなんとか強力を集めることができ、8月までにはようやく「野中観測所」が完成しました。

この観測所は、富士山頂の中でも一番高い場所である剣ヶ峰に建設されました。風を避けるところが少ない山頂において数少ない崖状の地形がある場所であり、観測所はそこにへばりつくように建てられました。ここに野中は冬季を超すための大量の資材を背負った強力とともに入り、9月初旬から観測を始めました。

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無論、強力は返し、一人だけの観測が始まったわけですが、毎定時に気温や風速、気圧を始め多くの観測記録を残す必要があるため、寝る時間は無論、料理をする時間も僅かしかなく徐々に衰弱していきました。実はこのことを東京に残した妻の千代子は予見しており、夫を助けるため、わざわざ実家のある福岡に帰って登山の練習などの準備をしていました。

夫が保有する気象学のなども勉強し、気象観測の方法まで勉強しており、夫を助けるために富士山に共に登るという決意は固いものでした。二人には一人娘がおり、もしものことがあってはと周囲は反対しましたが、その子を福岡の実家に預けてまでして、千代子は夫を追いかけて富士に登ります。

しかし、季節は既に10月半ばでした。連日マイナス20度以下という厳しい寒さによって、千代子は風邪をこじらせ扁桃腺が腫れて呼吸ができなくなるという事態が発生します。このとき、なんと到は、真っ赤に焼いたノミで千代子の扁桃腺を切り、膿を出して助け、この荒療治が功を奏し千代子は元気になりました。

とはいえ、極寒の山上での生活は更に厳しく、二人とも高山病と栄養失調で歩行不能になり、また越年を待たず、12月にはほとんどの観測機器が壊れるという事態に至ります。そんな中、二人を心配し、冬富士に危険を冒して訪れたのが、野中の弟の野中清でした。

清によって夫妻の体調不良の状況はすぐに麓に伝えられ、やがて野中夫妻を応援していた中央気象台の技師らが救援にかけつけます。野中は頑として観測を続けると言い張りますが、諭され、説得されてようやく下山に合意しました。

こうして冬季を通して富士観測を行うという野中到の試みは道半ばで途絶えましたが、野中夫妻のこの決死の行為と思いは、この時代の人々に大いに共感されました。評判をよび、小説や劇になりましたが、野中自身は越冬断念により十分な結果が得られなかったことをいつまでも恥じていたといいます。

このためもあり、野中は1899年(明治32年)には本格的な観測所の建設を目指し、「富士観象会」という民間団体をつくり、富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけました。また、富士山頂における気象観測の有効性を訴えるべく、その後も絶えず登山し観測を続け、中央気象台へもそのデータを提供し続けました。

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こうした野中の熱意に動かされ、明治34年(1901年には、宮家の山階宮菊麿王が、茨城県の筑波山に「山階宮気象観測所」を設立しました。ここの初代の所長となったのが、気象台の大分測候所の技師であった、佐藤順一でした。

佐藤順一は、野中と同じく福岡県の出身で、父佐藤善六は柳川藩の立花氏につかえ、同藩の剣道指南役でした。大分県尋常中学校卒業後、東京に出て私立東京物理学(現在の東京理科大学)に入学、卒業後大分測候所の技手として採用されました。

その後は、気象学者として知られるようになり、これが山階宮の目に留まったものです。この山階宮菊麿王は、海軍に入り、海軍大佐まで進んだ人でしたが、気象学研究にも打ち込み、筑波山のこの気象観測所も建設費用は自弁でした。

山階宮菊麿王は16歳の時にドイツに留学、キールの海軍兵学校に入学し、卒業後、海軍少尉に任官しましたが、引き続いて海軍大学に入り、卒業後の明治27年日清戦争のすぐ前に帰国しました。留学先のキールは軍港でしたが、すぐ近くにウィルヘルムスハーフェンという商港がありました。

ここには海洋気象台があり、休みのたびにここを訪れていた山階宮父は気象台長にかわいがられ、しばしば通ううちに気象観測の手ほどきを受け、これが一生の興味となりました。そして帰国後すぐに始めたのが、高層気象観測であり、そのために建設したのが筑波山の「山階宮気象観測所」だったというわけです。

この佐藤順一は、その後筑波山の所長をやめ、大正9年に中央気象台技師に任ぜられました。さらに、北樺太のアレキサンド・フスクでの観測を命ぜられてこの大役を全うし、大正15年(1926)にはそれらの功績を認められて大日本気象学会の幹事になっています。

このころ、富士山頂における越冬観測は、明治28年(1895)の野中到の観測以来、不可能とされるようになっていました。野中の富士山頂での観測は冬季ではあったとはいえ、9月から12月までであり、さらに極寒が続く、1~2月の冬季観測はことさら困難と考えられていました。

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ところが、佐藤は、昭和2年(1927年)、日本で初めて創設された自動車学校として知られ、五反田にあった「東京自動車学校」の鈴木靖二校長という知己を得ました。実はこの鈴木靖二は、山階宮菊麻呂殿下の運転手をしていたことがあり、山階宮が36歳の若さで逝去してからは実業家に転じ、東京自動車学校を設立していたのです。

佐藤はこの鈴木の寄付を得て、富士山頂の東安河原に観測小屋「佐藤小屋」を完成させました。そして、昭和2年(1927)の12月、若い技手3人をつれて冬季富士登山を試みました。しかし、この時は暴風雪のため失敗したため、昭和5年(1930)1月には、梶房吉という強力をひとり連れて富士山頂に向かいました。

途中八合目では滑落し、手と足に怪我をしましたが、強力の房吉に助けられて山頂にたどりつき、そこで冬季観測をはじめました。この登山においては脚気や凍傷になやまされはしたものの、予定通り1ヵ月の観測をすませ、2月に下山しました。が、この下山のときにも吹雪にあい、両足に凍傷を負っています。

しかし、この当時気象台を管轄していた文部省への報告にはこのことにはふれず、装具さえ十分ならば、59才の自分でも平地と全く同様に観測するこができるとだけ報告したといいます。これによって、野中到の観測以来、危険とされていた越冬観測が不可能であるというのは迷信だという雰囲気が生まれました。

こうして中央気象台が富士山頂に正式な観測所をスタートさせたのは昭和7年(1932年)のことでした。ただこのときにはまだ「臨時気象観測所」であり、まだ未知の領域ということでもあり、一年限りの予算で試験的観測という位置づけでした。

が、幸いにもこれは成功し、昭和11年(1936年)には常設の「中央気象台富士山頂観測所」が剣ヶ峯に完成しています。以後、平成16年(2004年)に無人化されるまでは、富士山頂における有人観測は継続され続け、その後の日本全土の気象予報の精度アップに大きく貢献しました。

佐藤順一による民間初となるこの厳冬期における富士山測候所の成功は、それ以前に気象学に情熱を傾け続けてきた野中到や山階宮菊麻呂王の努力のたまものともいえます。

ちなみに佐藤順一は、その後中央気象台の技師として復帰し、昭和16年にはすでに70才になっていたのにもかかわらず統計課の雨量掛長に命ぜられています。その後図書課という閑職に移り、一時再び統計課に勤務されたこともあったようです。しかし、昭和24年(1949)に退職したときは再び調査部図書課に戻りそこの事務員をしていました。

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退職後は気象学会の事務に専念し、役所に出られなくなってから後は杉並区高円寺の自宅で悠々自適の生活を送っており、昭和41年にはそれまでの気象学における貢献によって、日本気象学会の最初の名誉会員となるとともに勲四等に叙せられ、旭日小綬章が授けられています。

その4年後の昭和45年(1970)脳軟化症により亡くなりました。享年97才の大往生でした。

この佐藤順一を富士に誘ったともいえる先人の野中到のほうですが、彼はその後も、富士での観測記録を含む著書「富士案内」などを観測するなど、引き続き富士山に関わり続けました。が、その一環で、1905年(明治38年)、経営危機にあった御殿場馬車鉄道を買収し、「野中御殿場馬車軌道」として個人で運営を始めました。

野中がこの会社を始めたのは、かつての富士山での観測所の建設にあたり、麓の御殿場の人々の手厚い援助を受けたことの恩返し手の意味があったと思われ、また当時強力として、気象台の富士山観測のための資材や食料運搬にあたっていた人々のための便宜を図る意味もあったと思われます。

更には年々増加する富士登山者の足としての鉄道馬車の将来性を見越していたのでしょう。この御殿場馬車軌道は、山中湖側から籠坂峠を越えて須走に至るルートと、御殿場市内から須走に至るルートがあったようで、御殿場駅前から、その北西に位置し富士登山口の一つとなっていた須走村に至るまでの工程がこの馬車鉄道によってかなり短縮されました。

全盛期には客車32両、貨車24両を有し、年間7万人近い人を運んだ時期もあったようですが、その後、バスやトラックが普及したため馬車鉄道は衰退。1928年(昭和3年)に全線が休止し、1929年(昭和4年)に会社は解散、御殿場馬車鉄道は消滅しました。

最愛の妻、千代子が死去した1923年(大正12年)にはそれでもまだ年間4万人ほどの利用客がありましたが、千代子の死とともに、野中到の事業も縮小していった恰好となります。野中はその後、30年あまりを東京で生き、1955年(昭和30年)に亡くなりました。88歳であり、53歳と早くして亡くなった千代子と比べればかなりの長寿でした。

御殿場馬車鉄道の事業を辞めて以降、何をしていたのかは何を調べても出てこず、よくわかりません。が、少なくとも気象関係の仕事はしていなかったようです。最晩年は神奈川県の逗子市に住んでいたようで、この逗子市の海岸付近にある浪子不動堂の上の高台に住んでいたことなどが確認できました。

その近くに、披露山公園というのがあり、その眺望の良さからも逗子市民をはじめ多くの人々に愛され親しまれています。ここからは西に江の島を望み、相模湾そして天気が良ければ雄大な富士山が一望できるそうで、野中はここから富士山を望みながら、往時のことを思い出しつつ余生を送っていたのでしょう

野中到の墓所は東京文京区の「護国寺」にありますが、ここには千代子が先に埋葬されており、二人は仲良く同じ墓に眠っています。この護国寺には富士浅間神社を祀る富士山があるので有名だそうで、小高い土を持った程度ですが、ここに登ると富士山登頂と同じ意味があるそうです。

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野中到が最初に始め、新田次郎がレーダー建設によってその後の本格運用の端緒を開いた富士山の気象観測もまた、その後縮小されていきました。

まず平成11年(1999年)に富士山レーダーによる観測が廃止され、その後平成16年(2004年)10月1日から無人化されました。しかし、レーダー撤去後も観測建屋は残り、平成20年(2008年)10月1日にこれを富士山特別地域気象観測所と名称を変更。

現在は、研究者の組織である「富士山高所科学研究会」が中心となって設立したNPO法人「富士山測候所を活用する会」が、夏季期間に測候所の庁舎施設を借用し、様々な研究活動を行っています。が、無論、かつてのような有人による通年観測は行っていません。

この観測所での観測では、昭和41年(1966年)9月25日、台風26号がすぐ西を通過した際、最大瞬間風速の日本記録の91.0m/sを観測するなどの希少なデータなども多数得られました。

しかし、気象衛星の発達や、長野レーダー・静岡レーダーの設置などにより、富士山でのレーダー観測が必要性を失ったことが大きく、また観測装置が発達したことにより、現地での人手による観測の必要性は失われました。

この有人観測中、とくに問題になることが多かったのは測候所運用の鍵ともいえる電源の問題だったそうで、旧陸軍が設置した電線の劣化に端を発し、老朽化し続けるその他の施設のメインテナンスは大変だったらしく、このほか観測員の排泄物の処理などにまつわる環境汚染なども問題視されていたようです。

また、富士登山をしてくる一般登山者の遭難の可能性がある場合、観測員がその対応に追われるといったこともあったようです。とくに冬季の富士に禁止されているにも関わらず登頂してきて、観測所に宿泊を頼む輩もいたようで、その際当惑したことなどを新田さんが何かの随筆で書いていたように記憶しています。

ちなみに、1966年3月5日に起こった英国海外航空機空中分解事故は、富士山御殿場市上空で起き、乱気流に遭遇した同機は空中分解後、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下し、乗客乗員124名全員が犠牲になりました。その瞬間を、この富士山測候所職員が目撃していたそうで、その後墜落原因を明らかにするためにその目撃談が役立ったといいます。

ちなみにちょうどこの年に、新田さんは気象庁観測部測器課長を最後に依願退職しており、このため彼自身はこの事故を目にしてはいません。あるいは何かの折に書こうとこの事故に関するネタを集めていたかもしれませんが、私が知る限りはこれにまつわる随筆などもないようです。

この英国海外航空事故は、この年1966年に5連続で起こった航空機事故の3番目の事故であり、この年は丙午の年だったということも印象深いのですが、このことについては、また別の機会に書くことにしましょう。

今年も富士登山の季節が終わろうとしています。今宵も延々と山頂へと続く灯りが夜通し見えることと思いますが、ここ数日の寒気によってかなり富士山頂も寒かろうと思われます。無事下山されることを祈ります。

さて、みなさんは今年、富士山の初登頂を果たせたでしょうか。

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