以前、このブログで三島駅前の「楽寿園」のことを話題にしましたが、その時この庭園を朝鮮王朝の李王家から買い取った、「緒明圭造(おあけけいぞう)」なる人物がいることを書きました。
この緒明圭造は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後造船王になったという「緒明菊三郎」の子孫ではないかとも書きましたが、最近これに関する記事をみつけ、どうやら緒明圭造は緒明菊三郎の娘婿だったらしい、ということが分かりました。
どういう経緯で緒明家に養子に入ったのかまでは分かりませんが、これで緒明菊三郎と緒明圭造がつながり、この当時の緒明家の系図がはっきりしました。
つまり、江戸時代に船大工だった嘉吉の息子が、菊三郎、その娘婿が圭造、そしてこの圭造の子孫は、今も三島に在住されており、現在も三島市の名士、ということのようです。
伊豆の戸田で宮大工をされている方のホームページによれば、楽寿園の東側にある「三島市民会館は」はこの緒明家の御子孫の方の土地で、これを三島市に貸しているそうで、また緒明家は静岡銀行の大株主で、かつてその頭取を勤めた方を排出されたこともあり、しかも緒明家の今の御当主のご母堂は西郷隆盛の孫娘さんということです。
これらのことから、この緒明家の「開祖」ともいうべき「緒明菊三郎」氏は、どうやらその当時の明治政府の要人と関わりの中で、大きな財を得るようになった人物であったことがうかがわれます。その人物関係の詳細はまだよく分からないことも多いのですが、とりあえず今現在で私が把握していることを以下にまとめておきたいと思います。
まず、緒明菊三郎のお父さんの嘉吉です。江戸時代に戸田の船大工で、この当時はまだ平民ですから、緒明姓は名乗っていません。これも以前このブログで紹介した戸田造船資料博物館で公開されている資料の中に、ロシアのプチャーチン提督の帰国のために造られた「ヘダ号」の建造に関わった大工7人の名前がありますが、このひとりが、この嘉吉です。
ヘダ号の造船は、この7人だけで行われたわけではなく、そのほかにも数百人単位の大工が関わりましたが、この7人は他の大工の「世話人」ということで選ばれたようで、要するに大工頭、頭領という立場だったようです。
ほかに、上田寅吉、佐山太郎兵衛、鈴木七助、渡辺金右衛門、堤藤吉、石原藤造の名前がありますが、このうち、上田寅吉がリーダー格です。
この上田寅吉はヘダ号の建造に加わったのち、江戸に「長崎海軍伝習所」が開設されると、幕府から「蒸気船製作習得」の命を受け、この伝習所に入所。さらにその後、幕末の1862年(文久2年)から5年間にわたって、榎本武揚や明治政府で重職を歴任した「肥田浜五郎」らと共に「職方」、つまり「技術担当」ということでオランダに留学しています。
オランダから帰国後は、学んできた西洋の造船術を国内で他の技術者に伝授していましたが、やがて幕末の動乱に巻き込まれます。そして榎本武揚に従って箱館戦争にまで参加しますが、維新後許されて、1870年(明治3年)から明治政府に出仕。
その後横須賀造船所(のちの横須賀海軍工廠)で造船技術者として、国産軍艦の「天城」「清輝」などの多くの明治海軍の艦船製造に従事しました。
戸田の造船郷土資料博物館前には上田寅吉を顕彰した「大工士碑」があります。また、ここから2kmほど離れた牛ヶ洞には、「造船記念碑」が立っており、碑に刻まれた顕彰の言葉のなかにも「上田寅吉」の名が記されており、戸田の人々にとっては誇るべき郷土の偉人とされているようです。
この上田寅吉と嘉吉は仲がよかったようで、「ヘダ号」の造船時には、嘉吉の息子の菊次郎を手元に置き、そのころまだ10才程度だった菊次郎に船大工としての指南をしています。
後年、こうした上田と交流のあった嘉吉は息子の菊次郎を最新の造船技術を学ばせるため、上田の元に送っていたようです。そしてそこで菊次郎は榎本武揚とも知り合ったようで、戊辰戦争で幕府が新政府軍に敗れた際、幕府軍艦である「開陽丸」に座上して大阪から江戸へ引き上げる榎本に、菊次郎も修理工として付き従っています。
しかし、「蝦夷共和国」終焉まで榎本と行動をともにした上田寅吉とは異なり、菊次郎は箱館戦争には参加していません。このころ父の嘉吉の病気が悪化していたためと伝えられています。
上田寅吉とともにヘダ号の造船のリーダーとして活躍した嘉吉ですが、ヘダ号が建造された江戸末期の時代は、大工頭とはいえ生計は大変貧しく、船大工をしても日銭しか入らないため、そのお母さんが内職をして家計を助けていたといいます。
先だっての戸田の宮大工さんのHPによれば、古着をさばいて「鼻緒」にする内職をしていたそうで、一晩中この鼻緒作りを続け、夜明けを迎えることもしばしばだったようです。
明治になると、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、1870年(明治3年)に平民も苗字を持つことが許される「平民苗字許可令」出され、1875年(明治8年)からは、平民すべてが苗字をつけるよう義務付ける法令もでました。
このとき、大工の嘉吉の家でもその苗字を何にしようかと色々と考えましたが、上述のように母が「夜明け」まで鼻緒の内職をしていたことにちなみ、「緒明」という名字にしたといいます。まるでウソのような話ですが、「緒明」という名前は全国的にみてもほとんどないことから、事実かもしれません。
こうして、嘉吉の息子であった、菊三郎もこのころから、緒明菊三郎と名乗るようになったようです。菊三郎は1845年(弘化2年)生まれですから、明治3年には25才になっていたはずです。
このころ、父親の嘉吉がどういう仕事をしていたのか不明ですが、上田寅吉とともにヘダ号造船に関わったことでもあり、おそらくは嘉吉を初めとする戸田の大工たちも横須賀に呼ばれ、上田寅吉から最新の造船技術を伝授されながら、海軍の艦船の製造に携わっていたのではないでしょうか。
このころ榎本武揚は、明治5年に新政府から許されて開拓使となった後、東京に帰任。明治7年には海軍中将となり、駐露特命全権公使としてロシアに渡って千島・樺太条約を結び帰国。翌年には海軍卿に任じられています。
こうした海軍での要職を務めるようになっていた榎本の紹介か、あるいは横須賀造船所で新しい造船技術を駆使して新造船に励んでいた上田寅吉の紹介で、菊三郎もまた横須賀、あるいは東京に出てきていたと思われます。
現在、横須賀に「緒明山」という公園がありますが、ここはその昔、緒明菊三郎が持っていた土地だそうで、横須賀にも縁が深かった菊三郎が後年財を成してから購入したものと思われます。
しかし、その父の嘉吉の収入は明治になってもまだ乏しく、このころの菊次郎はそうした父に頼ることもできず、東京で暮らし始めたころは生活も苦しかったことでしょう。
あるいは父とともに横須賀造船所で働いていたのかもしれませんが、厳しい生活の中で苦労して貯めたお金で、小さな和船とこれに乗せる蒸気エンジンを苦労して入手することに成功します。
この当時はまだ庶民にとって蒸気で走る船などというものは夢の乗り物であり、これが水の上を走る姿はさぞかし人々の耳目を集めたに違いありません。菊五郎青年の偉いところは、これをただ走らせるだけでなく、「乗船料」をとって、人を乗せれば儲かるのではないか、と考えたところです。
そして、この蒸気和船を隅田川に持って行き、これにひとり一回「一銭」で乗れるという「一銭蒸気船」なる商売を始めました。このころ隅田川に浮かぶ船のほとんどは手漕ぎや帆かけの和舟でしかなかったはずで、そんな中をポンポンと軽やかな音を立てて快走する蒸気船に人々は殺到したようです。
連日行列ができるほどの大繁盛となり、菊三郎はたいへんなお金持ちになっていきました。
このころ、榎本武揚は、かつて同じ伊豆出身の代官である江川太郎左衛門が建造したお台場のうち、4号お台場が何も使われていないので、明治政府が手放そうとしているらしいという話を耳にします。
維新後の明治政府は、このころたいへんな財政窮乏状態にあり、近代国家建設のために国内だけの資金では足りず、イギリスやフランスなどの諸外国からも借金をしまくっていました。旧幕府が保有していたもので売って金になるものは片っ端から売り払っていたようで、使いどころもなく草ぼうぼうになっていたお台場もその候補のひとつでした。
このころ海軍卿にまで上り詰めていた榎本武揚はこの話を聞き、上田寅吉に相談したところ、それなら一銭蒸気船で大儲けしている菊三郎にここを買わせ、そこで我が国初の本格的な西洋式造船所を造ろうと上田が提案しました。
こうして4号お台場に造られたのが「緒明造船所」です。しかし、このお台場を菊三郎は購入したわけではなく、明治政府からの「貸し出し」ということで格安に入手したようです。そういうことができる人物といえばやはり榎本武揚以外には考えられず、その入手にあたって裏で暗躍したに違いありません。
現在での場所は北品川の天王州アイル駅の前にある「第一ホテル」の敷地がそれだそうです。この造船所はその後昭和14年ころまで操業されましたが、太平洋戦争に突入する前に軍備増強をしたかった昭和海軍も金欠であったため、とんでもない安い金額でこの造船所を緒明家から買い取ったという話が残っています。
ちなみに、港区の東京海洋大学の構内に保管され、国の重要文化財に指定されている帆船「明治丸」は、明治政府がイギリスから購入した船ですが、この船のマストを当初の2本マストから3本マストに改造したときの責任者は緒明菊三郎という記録が残っており、改造されたのもこの緒明造船所ではないかと思われます。
榎本武揚の部下に「塚原周造」という人がいましたが、この人は、下総豊田郡(茨城県下妻市)出身で、江戸開成所、箕作塾、慶応義塾で学び、明治政府にあっては大蔵省管船課に入って、鎖国制度で遅れた日本の海事行政の整備を進め、1886年(明治19年)には逓信省管船局長となりました。
このころ、榎本武揚が箱館戦争当時の同僚で、明治後は農商務大臣になっていた荒井郁之助が、箱館(函館)で討ち死にした戦友の中島三郎助という人物の供養のために造船所の創設を提唱しました。
中島三郎助は、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた人で、その後築地の軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、浦賀にあった長川という川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設し、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行うなどの功績のあった人です。
1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁であった榎本武揚らと行動を共にして江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に加わりました。「蝦夷共和国」下では箱館奉行並、砲兵頭並を勤めましたが、箱館市中が新政府軍に占領された後、本陣五稜郭降伏2日前に二人の息子とともに戦死。享年49才でした。
この荒井郁之助の提案に榎本武揚も賛成し、榎本の部下であった塚原にも声がかかり、榎本、荒井、塚原の三人は会社設立に向け奔走しました。この結果、浦賀の豪商の臼井儀兵衛と、緒明造船所社長になっていた緒明菊三郎も参画し、五人による合資会社を設立することになりました。
後年、さらにこの会社には後の浅野セメント社長になる浅野総一郎らも参加し、1897年(明治30年)、日本で最初のドライドックを保有する浦賀船渠(ドック)株式会社(現東洋汽船)が設立されました。
こうして、菊三郎は、、自らが興した緒明造船所の経営の傍ら、浦賀船渠などの経営にも参画し、造船業を中心に多角的な事業展開を図っていきました、造船のほかにも海運業を手掛けるようになり、このほかにも銅鉱石の採掘と精錬所の経営、伊豆や関東各地での緑林や開墾なども行うようになりました。
最盛期に菊三郎の所有した汽船の総排水量は3万tにおよんだそうで、明治時代における文字通りの造船王・海運王になりました。
ところが、お台場に造った造船所は、その後、焼失してしまいます。原因は不明ですが、同じ地に再建をしようとしたところ、政府からの貸地であったことから、明治政府からその継続借地の許可が下りなかったようで、この地での再建をあきらめます。
そして、移転を繰り返したのち、1903年(明治36年)になって三重県の志摩郡鳥羽町安楽島(現鳥羽市)に造船所を移す計画を立てました。
この地は遠浅の湿地帯だったようですが、ここに流れ込む「加茂川」という川の下流の浅瀬を埋め立て、ドック、倉庫等を建設し、7~8000トン級の汽船を4~5艘を横付けにし、参宮線も延長するといった遠大な計画でした。そして、大規模な埋立工事を開始しましたが、泥の深い海に堤防を築く事はかなりの難工事だったようです。
三重県関連のホームページ「三重県案内」の中の資料には「現に工事中に属す、今や湾内の浚渫及埋立を企て大船渠数個を設け倉庫を建設し・・・資を投すること百数十万」とあり、多くの経費を投入して工事を進めていたことがわかります。
その後も工事は続けられましたが、日露戦争で所有船が買い上げられてしまい、ついに工事が完工するのを見届けることもならず、菊三郎は、明治42年に死去。65才でした。
この干拓事業は、戦後農林省により再開され、昭和39年に完成しました。昭和45年には鳥羽市に払い下げられ、この土地には、「大明東町・西町」という名前がつけられました。この町名は「緒明」にちなんだものといわれています。
以上が緒明菊三郎に関するまとめです。緒明菊三郎という人物は、歴史上それほど有名な方ではなく、あまり資料のない中でのとりまとめなので苦労しましたが、なんとか形にしてみました。
まだまだ書ききれていない部分もあることでもあり、また後日新資料などを入手したら書き改めてみたいと思います。今日のところはここまでにさせていただきます。