スプートニク・ショック

台風が過ぎてから、ここ二日ほどは曇り空が続いています。富士山はときおり顔をみせてくれますが、雲に隠れていることのほうが多く、上空に湿気が入り込んでいることの表れです。

頂上では秋と冬の空気がちょうど入れ替わっているのでしょう。先月このブログでも初冠雪を報じましたが、もうすぐ一夜で真っ白な雪化粧をした富士山が登場するに違いありません。

ここ修善寺でも、「夏」はすっかり影をひそめ、周囲の木々もめっきり黄色くなってきました。我が家では今年の春に植えたキンモクセイが花をつけ、一昨日あたりから家の内外に芳香をふりまいています。秋を感じるひとときです。これでもう少し天気が良ければさらに秋の深まりを感じることができるのですが……

さて、今日の話題です。「スプートニク・ショック(Sputnik crisis)」ということばをご存知でしょうか。1957年の今日、10月4日に旧ソビエト連邦によって打ちあげられた世界初の人工衛星「スプートニク1号」にまつわるものです。

この衛星の打ち上げの成功は、人類史上初の快挙ではありましたが、ソビエトと同様に衛星を打ち上げ、「人類初」、「世界初」を狙っていたアメリカ合衆国にとっては宿命のライバルに負けを取った形となり、このとき国民全部が地団太踏んで悔しがりました。

スプートニク・ショックとは、このとき、アメリカ合衆国の政府や社会に走った「衝撃」や「危機感」を表す言葉であり、これをきっかけとしてその後、アメリカを中心として世界中で起こった社会現象を統合する表現として知られるようになりました。

大陸間弾道ミサイルの技術

では、この人工衛星の打ち上げ成功の何がそれほど世界を揺るがせたのでしょうか。

そもそも、ソビエトのスプートニク計画は、「宇宙開発」を行うための計画だったわけですが、実はこの計画は単に人類が地球を離れ、未知なる宇宙の探索に着手することだけを目的して企画された計画ではありませんでした。

スプートニク計画においては、全部で5回のロケット打ち上げが行われ、いずれも衛星を軌道上に乗せることに成功していますが、このロケットは、元々は「大陸間弾道ミサイル」を打ち上げるために設計・開発されたものでした。

大陸間弾道ミサイル(intercontinental ballistic missile、ICBM)とは何か? よく聞く名前ですし、いまさらそんなもん説明なんかせんでいいよ、とおっしゃるかもしれませんが、その詳しい内容を知ると、これがいかに難しい技術なのかが改めておわかりかと思います。

このミサイル、通常は、地面に掘られたミサイルサイロもしくは海中の潜水艦などから発射され、数百kmの高度まで燃料を消費しながら、ロケット噴射によって飛行しますが、その間に速度、飛行の角度等を調整して目標地点へのコースが決められます。

その後ロケットは燃焼を終えて切り離され、爆弾の搭載された弾頭だけが慣性により無誘導のまま飛行するわけですが、この無誘導飛行に入った場合には当然のことながらもう微調整はききません。

つまり、ミサイルを発射する時点で目標を確実にとらえるため、発射時の仰角や左右の振れ、発射薬量などの調整が必要であると同時に、軌道修正が可能な燃料飛行の間には極力その軌道を修正しつつ、ロケット燃料が尽きて弾頭だけになったときには自力で進路や速度を変えることはできない、ということを念頭に打ち上げられなければならないわけです。

あらかじめミサイルが飛ぶ方向や角度、距離を「予測」し、ミサイルを目標物に導く正確な「弾道」を計算した上でないとミサイルを発射することができない上、ロケットの飛行状況を把握しつつその微妙な軌道修正を地上から指示、もしくはロケット自らが修正しなければなりません。

ボールを投げ、固定されたキャッチャーミットにそのボールを納めることを想像してみてください。このボールを投げるのが人間であるとすれば、当然投げる人の力量によって、キャッチャーミットに入る場合もあれば入らない場合もあります(星飛雄馬なら、入るでしょうが)。

しかし、仮にこれをピッチングマシンが投げるとしても、そのピッチングマシンの油圧の状態やバネの力の具合、マウンドからホームに届くまでの風の影響やはたまた地面からの砂ぼこりの巻き上げなどがあり、投げられたボールは必ずしもどんぴしゃキャッチャーミットのど真ん中に入るとは限りません。

さらに、このキャッチャーミットが、ホームベースではなく、外野の一番奥に置かれたと仮定すると、ピッチングマシンから投げられるボールは水平での投擲では届かなくなり、斜め上方向に投げられたボールは山のように盛り上がった弾道を描くことになります。

その軌道修正はもはやピッチングマシンにはできず、投げられたボール自らが軌道修正しない限りはキャッチャーミットにおさまることはできないのです。

この小さなボールに推力を与える動力装置をつけ、無線誘導装置も加えることを想像してみてください。考えるだけでおそろしく高度な科学技術が必要なことは容易に想像できるはずです。

大陸間弾道ミサイル(ICBM)の場合、このピッチングマシンからキャッチャーミットまでの距離が実に8000kmから10000kmにもなり、さらにその弾道の頂点高度は1000~1500kmにもなります。

これに対して、ICBMの軌道は、全体的に見ると地球の中心を焦点とするようなグローバルなものになり、ミサイルの大きさは地球の規模に比べれば「つまようじ」のような大きさにすぎず、このため、いかに命中精度を上げたとしても、ピンポイントで目標物をとらえるのは不可能になります。

無論、計算条件をいろいろ変え、コンピュータも駆使してその弾道計算を行うのですが、このスプートニク計画が実現したころはまだ、米ソともまだ非常に原始的なコンピュータを使っていました。このため、精度が悪く、ミサイルが目標物「付近」に到達しても相手に十分な打撃を与えるとは限りません。

弾頭に乗せる爆薬を通常のものにした場合、破壊できる範囲はせいぜい2~300m、よくて500m程度でしょうから、ミサイルが落ちたところが目標物から1kmも離れてしまってはまったく相手に損害を与えることができません。

そこで、弾頭にはできるだけ強力で広範囲を破壊できる爆弾を搭載しようとして考えられたのが、「核爆弾」です。精度の悪さを爆弾の爆発力で補おう、というわけです。当初のICBMの命中精度は、平均誤差半径3km前後とむちゃくちゃ誤差が大きく、このため、ロケットに積む核爆弾もメガトン級の大威力のものが採用されました。

大威力の核弾頭は当然重くなります。当初のものは400キロトン(1キロトンは1000トン)もありました。これを搭載するロケットも推進力の強い液体燃料式にしなければならず、当然ロケットも大型化せざるを得ません。

その後、米ソともに急速に改良が進み、平均誤差半径0.1km程度のものさえ開発され、それに伴って核弾頭も小さくなり、70年代以降は200キロトン程度にまで小型軽量化されました。

こうしたICBMの開発技術は、そのころそれぞれを仮想敵国とみなしていたソビエトとアメリカの双方で急速に進みました。そして、これによってある程度の完成をみたロケット技術を両国とも宇宙開発に応用する、と発表しました。しかし、実はこれは膨大な予算がかかる核ロケット開発という軍事技術の開発から国民の目をそらすための一種のプロパガンダにすぎませんでした。

無論、宇宙開発を行うために打ち上げられるためのロケットを開発するためにも莫大な研究開発費がかかります。しかし、これによって開発される技術は、実はほとんどがICBMを打ち上げるための技術へと転用ができました。国民の目からみれば、平和利用のためのロケット開発でしたが、その実は軍用のロケット開発でもあったわけです。

スプートニクの成功

ここまで書いてくればもうおわかりでしょう。ソビエトのスプートニク一号の打ち上げ成功は、アメリカにとっては、ソビエトの大陸間弾道ミサイルの開発の成功をも意味したわけです。

人工衛星を地球の周回軌道に乗せるためには、極めて精度の高い弾道計算技術が必要です。これに成功したスプートニク1号を打ちあげたロケットは、R-7という名称ですが、これを打ちあげる前の同じ年に4回ほどの試験的な打ち上げが行われており、スプートニクの打ち上げは事実上5回目の試験飛行でした。

4回までは地上で飛行させましたが、5回目は宇宙での飛行に成功させたことの意味。これは、アメリカにとってはかなり衝撃的なことでした。なぜなら、その成功はソビエトが大陸間弾道ミサイルの技術開発を成功させたということだけでなく、さらに将来的には宇宙からアメリカにミサイルを降らせることができるのではないか、ということを危惧させるのに十分だったからです。

このころアメリカは、ソビエトのスプートニク計画に対抗して、「ヴァンガード計画」という人工衛星発射計画を立てており、ソビエトに先駆けてその第一号ロケットを打ちあげようと準備していたところでした。

しかし、ソビエトに先を越され、それでもその2ヶ月後にようやくケープカナベラルの空軍基地からアメリカ初の人工衛星を搭載した「ヴァンガードTV3」をうちあげます。ところが、これは発射2秒後に爆発炎上。その大失敗は世界中に報じられ、ソビエトの成功への賞賛とは裏腹に世界中から冷笑を浴びました。

この失敗は、それまでソビエトよりも軍事技術においても宇宙開発においてもはるかに先を進んでいると信じていたアメリカの自信を覆すことになり、軍事や宇宙開発の関係者だけでなく、アメリカの最先端の科学や技術を担っていた人々、さらにはそうした人たちを育ててきた教育界の人々に至るまでをパニックに陥れることになりました。

これが、いわゆる「スプートニク・ショック」です。

しかし、この歴史的な「大敗北」ですぐにしょげてしまわないのがこの国の良いところです。かつての太平洋戦争においても、日本による真珠湾攻撃などの緒戦での敗北は逆にアメリカ人の「負けず魂」を呼び起こすことになり、その後の戦争の経過がアメリカの一方的なものになっていったころと、このスプートニク・ショックのころのアメリカはよく似ています。

その後、危機感を感じる中で、科学教育や研究の重要性が再認識されるようになり、大きな予算と努力が割かれるとともに、アメリカの軍事・科学・教育界はそれぞれ大きく再編されるようになっていきます。

連鎖

スプートニク・ショックはアメリカ合衆国の政策提案を、大きなものから小さなものまで連鎖的に引き出す結果となりました。そしてそのほとんどは国防総省が発議したものでした。

スプートニク1号の成功からわずか2日には、イリノイ大学のアーバナ・シャンペーン校の「デジタル・コンピュータ・ラボ」である計算が行われはじめました。

その当時の最先端と言われた「ILLIACI」というコンピュータを使用して行われたもので、国防総省の依頼を受けて行われたこの計算により、打ちあげられたスプートニク1号の軌道の計算が解析されるようになりました。

翌年の1958年には、アメリカ航空宇宙局(NASA)が設立されると同時に、有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画が開始されました。

新世代の技術者を養成するため、同じ年に「国家防衛教育法」などの様々な教育計画が開始され、初等教育における「算数教育」が根本から見直されました。

集合論や十進法といったオーソドックスな数学以外にも、位取り記数法(N進法など)などのより複雑な数学的構造を早い年齢から教えるなどの「新しい数学(New Math)」という概念が導入され、よりアメリカ人の数学能力向上が図られるようになりました。

科学研究に対する支援も劇的に増加し、1959年には、連邦議会は米国科学財団に対し前年度より1億ドルも高い1億3400万ドルの歳出の割当承認を行っています。そしておよそ10年後の1968年までには、米国科学財団の年間予算はその5倍の約5億ドルにまで達しました。

軍事力での遅れを痛感した当の国防総省は、潜水艦発射型の弾道ミサイル、「ポラリスミサイル計画」を開始し、現在ではどこの会社でも取り入れるようになった「プロジェクトマネジメント」の手法を世界で初めて研究しはじめ、より現代的な計画モデルも確立されるようになりました。

例えばポラリスミサイル開発では、それまで複雑なプロジェクトが絡み合っていたものを、相互に関連した簡単な作業にまで分解し、その前後関係などの関連性を調べた上で作業の見積や管理を行う手法が生み出されました。

この手法は、PERT(Program Evaluation and Review Technique)と呼ばれ、全作業の正確な詳細と期間が不明であっても、不確実性を含んだままプロジェクトのスケジューリングが可能になっており、コストよりも時間が主要な要因となる研究開発プロジェクトに向いているといわれています。

現代では、ちょうど同じころにアメリカの化学会社である「デュポン」が開発した「クリティカルパス法」のほうが有名となり、現在では、ソフトウェア開発、研究プロジェクト、製品開発、工学、プラント保守などといった各種プロジェクトで利用されています。

いずれも現代の科学技術の進展のために大きな貢献を果たしたマネジメント手法ですが、その開発もスプートニク・ショックのたまものといえます。

こうして、アメリカの各分野でスプートニク・ショックを乗り越える改革が行われるようになり、その成果は日本だけでなく世界中の科学技術を大きく進歩させるためにも大いに役立ちました。

1960年、ジョン・F・ケネディ大統領はその年の選挙運動選のさなか、米ソの「ミサイル・ギャップ」を埋めることに触れ、1000基のミニットマン・ミサイルをはじめ当時ソ連が保有していた以上の大陸間弾道ミサイルを配備することを宣言しました。

また翌年の1961年5月25日、特別両院合同会議の席上で10年以内に人間を月に送ると発表し、それまでは単なる有人宇宙飛行計画にすぎなかった「アポロ計画」の目標を「人類初の月面着陸」に変更させました

その後、国防総省の高等研究計画局(ARPA、現在の国防高等研究計画局)は1969年、「アーパネット」と呼ばれるコンピュータ網を開発し、これが今日のインターネットのもととなったといわれています。

こうしたアメリカ国内における大きな変化は、スプートニク・ショック以降、アメリカ国民の科学に対する興味・関心を高める結果ともなり、一般人にも解りやすい内容の科学解説書のたぐいのニーズも急増するようになりました。

当時ボストン大学を辞して専業作家となったSF作家「アイザック・アシモフ」の名をご存知の方も多いと思いますが、彼の以後の著作もそれまでのSF小説から科学解説を含めたノンフィクション中心へと移行する契機となり、この影響は日本にまでおよびました。

日本はスプートニク・ショックの影響を直接受けたわけではありませんが、太平洋戦争での敗戦後、アメリカに追従する形での科学技術の発展を目指していました。このため当然のことながら、科学や工学の分野で大きな影響を受けるとともに、教育の世界でもアメリカで改革された教育論が輸入されるようになりました。

文部省では、アメリカと同様に1971年(昭和46年)に学習指導要領を改訂し、とくに理数教育においての改革を行った結果、その成果は確実に日本の技術力を高めるようになり、やがて「科学技術立国」したとまでいわれるようになりました。スプートニク・ショックは、今や世界に冠たる科学技術大国日本の礎を築く要因でもあったわけです。

スプートニク・ショックによる変化は、アメリカや日本のみならず、ヨーロッパでも起こり、その結果として開発された数々の科学技術は、世界で使われるようになり、それらの技術が今の世界を支えていると言っても過言はないでしょう。

このため、スプートニク・ショックはアメリカ人にとってはショッキングな出来事でしたが、その後の世界の科学技術発展のために大いに「貢献した」出来事として語り継がれるようになりました。

よく「失敗は成功のもと」といいますがまさにその通りであり、人間はパニック状態になると、どこからか人智を超えた力のようなものが出てくる、という話はよく聞きます。「火事場の馬鹿力」、「災い転じて福をなす」などなど、日本語の中にも似たような表現はたくさん見受けられます。

スプートニク・ショックは国家レベルでのパニックでしたが、我々個人の場合でもパニックになることはままあります。そんなときにはいつも決まって冷静になれない何等かの心理状況にあることが多く、沈着に考えることができる時間的な余裕がないからこそパニックに陥るのでしょう。

いつもパニックが起こったらどうしようか、と心配していると病気になってしまいそうなので、パニックを起こすまい、と考えるのはムダのような気がします。

しかし、パニックになったとしても、スプートニク・ショックのときのアメリカのように時間をかけてその損害を補てんしていけば元に戻れる、と少しでも考えることができたら、多少はそのパニックの状態も抑えることができるように思います。

まずい!のあとに、でもきっとなんとかなる!と一瞬でも思えたらしめたもの。きっと問題の糸口が掴めるに違いありません。そんなときは頭で考えても仕方がありません。きっとなんとかなる!と思ったそのあとに頭に閃いた行動があったら、素直にそれに従ってみましょう。

きっとそれは自分自信の考えではなく、あなたを守ってくれている守護霊さんの考えだと思います。

アメリカをスプートニク・ショックというパニックから救ったもの。それもアメリカ合衆国に古くから根付く、「アメリカン・スピリット」という魂なのかもしれません。