真砂土の国

2014-1204一昨日、我々夫婦が育った広島の地で、大きな災害が起こりました。

二人ともよく見知った土地柄であり、とくにタエさんは、被害に会った地区のうちの「山本」という場所に住んでいたことすらあり、とても他人事ではない感じがします。亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

ところで、今回災害が起こった安佐南区は、その西方に、「武田山」という山をしょっており、地元の人達からはハイキングやトレッキング、縦走コースとして親しまれています。安佐地域のシンボル的な山として、周辺各地域の住民による保全・整備活動が活発に行われており、多数のコースがあります。

ここに銀山城(かややまじょう)という城跡があります。鎌倉時代以降、毛利氏に滅ぼされるまで、ここに安芸武田氏が居を構えていました。すぐ麓に太田川という大きな川があり、海に近い広島は、海からここまで舟運が行われていました。このため鎌倉時代初期この地には、古市、今津等の「港町」があり、ここは市場としても賑わっていました。

武田家というのは、現在の大阪にあたる河内に起こった源氏の名族のひとつで、戦国時代には戦国大名化し、武田信玄の時代には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するほどの勢力になりました。これを甲斐武田氏というのに対し、武田氏の始祖といわれる武田信義の5男、武田信光が興したとされるのが安芸武田氏です。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱、「承久の乱」の際には追討側に回り、その戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことに始まり、武田信光はこの武田山の麓に守護所を建て、安芸国の経営に乗り出しました。

が、この当時はあくまで「守護」という官職を賜ったに過ぎず、常時は京に在住であり、広島に移住して本格的に領地の整備に乗り出したのは、甲斐武田氏第10代当主・武田信武の次男、武田信宗であり、一般的にはこの人が安芸武田家の始祖とされます。

武田信宗が一番活躍したのは、南北朝時代か室町時代前期にかけての時代であり、武田山の山頂に銀山城を建てたのは、これより少し早い鎌倉時代末期といわれています。

室町期に入ってからここは、安芸国へと進出を図る周防国の戦国大名・大内氏との激闘の舞台となり、幾度と無くこの城を巡って攻防戦が繰り広げられましたが、永正14年(1517年)、山陰の尼子氏と結んだこの当時の安芸武田氏当主・武田元繁は、毛利氏とその同盟者である吉川氏を果敢に攻めました。

しかし、反撃に出た毛利元就率いる毛利軍や吉川軍と戦って元繁は討死し、これ以降安芸武田氏は弱体化に歯止めがかからなくなり、天文23年(1554年)銀山城は毛利勢によって落とされ、以後、関ヶ原の戦いまでここは毛利による支配が続きました。

その後、毛利元就の隠居城として使う予定もあったようですが、現実にそれが実行されることはなかったようです。また、後に広島城が築かれると、その重要性は低下し、毛利氏が関ヶ原の戦い後に移封されると廃城となりました。

江戸時代以降も城地が荒らされることはありませんでしたが、麓の繁栄は、現在の広島中心部に移っていき、明治、大正、昭和とこの地は長く辺境の地でした。現在のように住宅などなく、太田川沿いには田畑が広がっていましたが、それ以外の土地の多くは何も開墾されない荒れた土地ばかりでした。

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今回、被災にあった安佐南区、北区というのはそういう歴史がある土地柄です。

ところが、1970年代以降の高度成長時代になると、広島市のベッドタウンとしての需要が出てきたため、この地は急速に都市化が進みました。

1980年(昭和55年)4月1日には、広島市の政令指定都市移行と同時に安佐南区と安佐北区の二つの区が誕生し、それまで「安佐郡」に属していた沼田町、祇園町、佐東町、安古市町は、安佐南区に、また、安佐町、可部町、高陽町、旧高田郡白木町が安佐北区に編入されました。

広島市と合併した後は、住居表示実施により一部を除いて旧町名はほとんど残っていません。この合併によりとくに安佐南区の人口は肥大化し、広島市の8区の中で最多となり、唯一20万人を超えています。面積は3番目の大きさですが、2005年に旧佐伯郡湯来町が佐伯区に編入される前までは、安佐北区に次いで2番目に大きい区でした。

アストラムラインというモノレールが市内に通じており、その開通による住宅増加に伴う人口流入が大です。区内に大学、高校などが多いことから区章はペンを模しています。数多くの芸能人を輩出しており、相原勇、山根良顕(アンガールズ)、夏川純、綾瀬はるかなどがおり、他にも大物アナウンサーが何人かいます。

一方の安佐北区は、山がちな地形であるため、区の面積は広島市の8区の中で最大であり、広島市の総面積の約40%を占めます。湯来町が佐伯区に編入される前までは、市の総面積の約半分を占めていました。ここも人口の増化によって山際まで住宅が建設されており、安佐南区同様、従来から雨による地盤軟化が起こりやすいことは指摘されていました。

両区では真砂土が主体の地盤が多い、ということはテレビでも繰り返しアナウンスされています。報道では「まさど」と呼称することが多いようですが、我々は子供の頃から「まさつち」と呼んでいます。全国的にみても、中国地方ほど広く分布しているところは少なく、これは風化花崗岩が堆積した土壌です。

なお、漢字表記の「真砂土」は園芸用語であり、地盤工学では砂質土や砂岩と区別するため、論文などでは「マサ土」とカナ表記が一般的ですが、話し言葉としては「まさど」です。が、以下では、どうとでも読める、「真砂土」で表記します。

この真砂土の「原料」となる花崗岩とは、火成岩の一種です。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれます。花崗岩の英語名 granite の語源は、ラテン語で種子や穀粒を意味する granum ですが、これは数mm径の結晶が寄り集まった粗い粒子構造から命名されたものです。

構成する種々の鉱物結晶の結晶粒子は大きく、かつそれぞれの結晶の熱膨張率が異なる花崗岩は、温度差の大きい所では粒子間の結合が弱まりやすく、風化しやすいという特徴を持っています。

風化が進むと構成鉱物の粗い粒子を残したままばらばらの状態になり、非常にもろく崩れやすくなります。このようにして生じた粗い砂状の粒子が「マサ」であり、このマサが堆積した土が真砂土、ということになります。

西日本においては特にこの花崗岩の風化が進行しやすいといわれています。これは、降雨が少なく温暖な気候が続くという特徴を持つ瀬戸内海式気候のためです。風化してできた真砂土は、当然地表に近いところに堆積しますが、粒子と粒子の間がガラ空きなのでここに水分が貯まりやすく、強い雨などが降ると、一度に多量の砂が流れ出します。

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このため、これまでも花崗岩地帯の多くが砂防指定地や保安林に指定され、土砂災害対策が講じられてきました。

土木学会の調査団は、今回の災害が起こる前のつい先日の調査で、現場周辺の山間部の地盤はもろい風化した花こう岩の上を薄い表土が覆う地質であり、住宅が載っている地盤も同様で、土砂災害などの危険性が高い箇所が増えていることを警告していたといいます。

また、広島県は花崗岩が風化してもろい砂状になる真砂土の地盤が多い上に、真砂土でできた土地はやわらかいために造成がしやすく、安佐地区のように危険が多い場所にさらに危険が高い土地造成を行ったことが今回のような惨事につながったことも考えられます。

それでは、なぜ中国地方に真砂土の原料となる花崗岩が多く分布しているのでしょうか。それを理解するためには、中国地方のほぼ大部分を占める中国山地という山塊がどうやって形成されたかにまで、遡る必要があります、

そもそも、中生代以前、中国山地は存在していませんでした。中国地方のみならず、日本列島のある場所の大部分は海でした。中国山地を含む列島の形成は、約2,300万年前から約500万年前までの「後期中新世」から約500万年前から約258万年前までの「鮮新世」にかけての日本海以南地域の広域的な隆起によるものです。

ちなみに、この鮮新世期には、現代の動物相につながるものがほぼ出現しており、ヒトの祖先もこの時代にアフリカで誕生、発展しました。いわゆる猿人です。

しかし、日本にはまだ陸地といえるようなものはまだなく、太平洋東部で生まれた、比重の大きい太平洋プレートが、大陸側にある比重の小さい大陸プレートに衝突することで初期の日本列島のベースの部分の形成が始まったばかりでした。

重い太平洋プレートは、大陸プレートにぶつかって、斜め下40~50°の角度で沈み込み、この際、太平洋プレート上の海底堆積物が大陸プレートに押し付けられます。この堆積物を「付加体」といい、両方のプレートがぶつかり合う段階で、次々と古い付加体は、後からできた付加体に押されて、大陸プレートの下部へと押し込められました。

そして、地中深くなると高い圧力により変成作用を受け、変成岩となりました。中国山地でもっとも古い歴史を持つ変成岩は、「秋吉帯」と呼ばれる付加体で、現在では主に北九州地方〜山陰地方に分布しています。これらの地域にはプレートのぶつかり合いによって地中深くに押し込まれた変成岩がその後隆起したものがよくみられます。

こうした付加体は地中深くで低温高圧の変成作用を受けた後、その後のマグマの活動によって活発になった造山運動によって隆起し、いったん陸地となりましたが、その後その活動が沈静化したため逆に沈降していき、海底に沈んでしまいました。

ところが、白亜紀に入ると、アジア大陸東縁一帯、すなわち現在の日本列島付近ではマグマが上昇して造山運動が活発となり、多くの陸地が形成されはじめました。これを「佐川造山運動」といい、約1億年前に起こりました。

白亜紀というのは、約1億4500万年前から6600万年前を指し、このころは恐竜の全盛期でした。従って、現在日本各地で発掘されている恐竜は、このころ隆起したばかりの日本列島で産声をあげ、ここを闊歩するようになったものです。

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このとき、中国地方においても、地下で変成したのち隆起、沈降していた付加体が、再びマグマによって押し上げられて上昇してきました。このとき、上昇する前にマグマの熱によってさらに高温低圧の変成作用を受けた変成岩も多く、これが分布する領域を変成帯と呼び、中国地方を含み、長野県南部から九州まで続くものを「領家変成帯」といいます。

マグマの熱作用を受けてさらに変成した領家変成帯は、中国地方では主に瀬戸内海沿岸に分布しています。また、付加体の中には、長い間海底に沈んでいたために珊瑚等の死骸が大量に堆積し、分厚いカルシウム層を持った場所もあり、マグマ熱をあまり受けずに押し上げられたものが、現在の秋吉台や、北九州の平尾台のようなカルスト台地になります。

一方、上昇してきたマグマはこれらの付加体を押しのけ、直接地表に出てきたものもあります。多くは瀬戸内海沿岸に広がる領家変成帯の北側に盛り上がり、冷えると花崗岩になり、こうしたマグマ上昇は現在の中国地方のほとんどで顕著でした。

すなわち、「中国山地」の大部分はマグマが冷えてできた花崗岩によって形成されたものであり、広島市内の北部に広がる山々もこれに連なるものです。他地域ではこのほか北九州、関東北部、飛騨山脈、木曽山脈、美濃高原、近畿地方中部などでも表層に花崗岩質の地形がみられ、これらの地域においても今回のような災害が起こる可能性は大といえます。

このように単に付加体が押し上げられたもの、マグマの熱によって更なる変形を受けて隆起した付加体、また直接マグマが上昇してきた花崗岩等によって中国山地は形成されました。しかし、その大部分を占めるのは花崗岩質ということになります。

そしてやがてそこには、大陸から人間が移住してきました。このころにはまだ日本海は浅くて狭く、また中国山地の標高も低く、容易にこの地にやってくることができました。

こうした人間活動の痕跡は、中国地方では旧石器時代にさかのぼってみることができます。広島県北部に、「帝釈峡」という紅葉のきれいな渓谷があって観光地になっていますが、ここにも旧石器時代のものと考えられる遺物が多数出土しています。

縄文時代の遺跡も複数発見されており、中国地方においてはここが、人類が住み始めた最初の場所と考えられています。さらに時代が下った弥生時代にはここだけでなく、中国山地のあちこちに人が住むようになり、竪穴式住居跡や銅剣・銅鐸などの祭祀具などが発見されています。

鉄器も発見されており、古墳時代ごろ既に大陸から製鉄技術が伝来していたと考えられ、これらの鉄器は花崗岩に含まれる「磁鉄鉱」を利用して作られたと推定されています。

中国山地の花崗岩は、その地理的分布からそれぞれ山陰花崗岩、山陽花崗岩、領家花崗岩に区分されます。このうち山陰花崗岩は磁鉄鉱を多く含んでおり、これが風化して河川等による運搬過程で淘汰集積したものが「砂鉄」です。前述のとおり花崗岩は、風化・侵食の作用を受けやすいものですから、この砂鉄も中国山地の各所で普通に見られるものです。

当初、中国山地で行われていた製鉄は磁鉄鉱を含む花崗岩を砕いて原料としていましたが、平安時代ごろからは、砂鉄を集めて原料とする方式へと変わっていきました。そして、砂鉄を使用した製鉄においては、平安時代に「たたら製鉄」という方法が発明され、中世から近世まで続きました。ちなみに、たたらとは、風をおこす、「ふいご」のことです。

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このたたら製鉄に使う砂鉄は、砂鉄だけでまとまって存在しているわけではありません。川底の砂に混じっており、これをかごでさらって抽出されていました。この川砂さらいは河口付近の砂浜形成の原因となったとも言われています。

例えば、島根県東部を流れる斐伊川(ひいかわ)の河口が出雲大社付近から宍道湖へ移動したことや、鳥取県西部を流れる日野川河口付近から延々と白浜を形成する弓ヶ浜が伸びていることなどの原因の一つに、製鉄のための川砂さらいがあったとする見解があります。

またその昔は、製鉄に必要な薪炭の供給のため多くの木々が伐採されました。もう20~30年ほど前になるでしょうか、ヒバゴンという類人猿が出るといって大騒ぎになった広島県と島根県の境あたりの比婆山周辺では、とりわけ山林伐採された場所が多く、現在でも「毛無山」という山名が複数見られ、これはこの当時の木々が伐採されたときの名残です。

出雲地方は「たたら製鉄」の発祥地として最も有名ですが、ここにおける製鉄用の砂鉄もこれら比婆山付近から得られたと考えられています。当地では周辺地域に産する砂鉄を2種類に呼び分け、その性質に応じて適宜使い分けてきました。

一般的には、中国山地最高の比婆山や道後山などの山々よりも北側の山陰側で採れる山陰花崗岩由来の砂鉄は純度が高く、「真砂(まさ)砂鉄」と呼ばれましたが、一方、山陽側の山陽花崗岩はチタン鉄鉱系列であり、あまり多く砂鉄を含みません。しかし、安山岩、玄武岩などの火山岩に由来する砂鉄が多く、これは「赤目(あこめ)砂鉄」と呼ばれました。

純度は高くないかわりに加工のしやすさが特長であり、江戸時代に入り、寛永年間(1625年~1645年)には、この山陽側を主たる領土とする郷士・佐々木久盛と、その子の正信らによってこうした赤目砂鉄を産出するための「鉄山」が開発されるようになりました。

もともと、中国地方は石見国の大森銀山や出雲国の砂鉄等、鉱物資源に恵まれていましたが、この佐々木久盛らが本拠地としていた「加計(かけ)」の地も例外ではありませんでした。この加計地区は、今回土砂災害により大きな被害を出した、安佐北区内の北西部に位置する地区です。

佐々木久盛・正信親子はまず最初に、同地の寺尾という場所で銀鉱を採掘して儲け、これを資本として、加計本郷に町を作り、「隅屋」を屋号として、たたら吹きを中心とした製鉄業を始めました。これが「加計隅屋鉄山」の始まりです。以後、太田川上流に多くの精錬所を設け、広島や大阪に支店を出して、隅屋の製品の販売に努めるようになります。

江戸時代にはこの地域から鉄の生産量は全国の鉄の10%にも上り、隅屋は江戸期を通じて中国地方で最大手の製鉄商人となりました。その隅屋の経済力は広島藩だけではなく、周辺の浜田藩や津和野藩にも重視され影響力を持つようになりましたが、嘉永6年(1853年)に製鉄業が藩営となり、ここに加計隅屋鉄山の歴史も終わりを告げました。

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しかし、その藩営製鉄も、明治時代を迎え新たな製鉄技術が入ってくると廃れました。しかし、隅屋以降、200年の間に採掘した鉄山は25にも上り、現在の広島市市街地たる太田川デルタの形成は、上流で隅屋ら製鉄商人らが山を切り崩し、土砂を川に流したことが原因だと言われています。

と同時に、製鉄業は周辺の森林を伐採し、山を切り崩し、多大な環境破壊をもたらしました。しかし、加計隅屋鉄山の閉山を経て、その後はこの地の山の荒廃は次第に収まっていきました。

ところが、原子爆弾によって壊滅的な被害を受けた広島の町も、戦後の高度成長期を経て、次第に活気を取り戻し、人口も増えたことから、各地で開発が行われ、多くの山々が切り崩されるようになりました。広島では家が「山に登る」といい、市内へ行くとよくわかりますが、ここから見渡せる少し高い山の斜面にはびっしりと家が軒を連ねています。

政令指定都市に指定された昭和55年の広島市の総人口は、約99万人で100万人を切っていましたが、現在はこれよりも18万人も多い117万人であり、この人口の居住を支えるために市内の至るところで開発が行われました。が、市内中心部は砂州地盤であるため、高層化があまり進まず、このため、宅地開発は次第に山間部へ山間部へと及んで行きました。

その結果、いたるところで山が切り崩され、平地化されていきますが、今回の災害地である、安佐南区や北区はその最たる箇所でした。この北区に広島市が経営する、「安佐動物公園」という動物園があります。昭和46年(1971年)の開園で、私が子供のころには、ここは市内でも数少ないテーマパークのひとつでした。

ここへ連れて行ってもらうのが楽しみで、このためそのころのことは今でもよく覚えているのですが、広島駅からここへは直通バスが通っていました。ところが、市内の繁華街を抜けて次第に山奥に入っていくと、その周りはほとんど何もない原野ばかりで、子供心にもなんでこんな辺鄙なところに動物園なんか作ったのだろう、と思ったものです。

それが、です。テレビで見る通り、現在は一面の住宅街であり、いまやその当時の面影もありません。そこで、ふと思ったのですが、かつてこの地でさかんだった製鉄業は周辺の森林を伐採し、山を切り崩し、自然破壊をもたらしたわけですが、こうした彼の地における現在の乱開発もまた、環境破壊といえるのではないでしょうか。

こうした自然破壊の様子は宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」の題材にもなっており、実はこの「もののけ姫」の舞台は、この中国山地だといわれています。この映画をご覧になった人も多く、ストーリーはご承知の向きも多いでしょうが、あらすじを書くと、だいたいこうです。

「エミシ」とよばれる隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲おうとする「タタリ神」に矢を放ち、命を奪う事と引き換えに死の呪いをかけられます。死んだタタリ神の中からでてきたものは、鉛の塊であり、タタリ神がやってきたと考えられる西の方で「何かが起こっている」と考えたアシタカは自分の運命を見定めるため、西方の地を目指して旅立します。

西の村でアシタカはジコ坊という僧侶に出逢います。この僧侶から西の土地の話を聞いたアシタカは彼から教えられた「ししがみの森」を目指し旅を続けます。「ししがみの森」にたどり着いたアシタカは傷付いた人間たちと大きな山犬を見つけます。

この傷付いた山犬に駆け寄る少女がおり、その名をサンといい、彼女はこの地にとどまれば災いが降りかかる、「去れ」とだけ言い、山犬に乗って去ってしまいます。しかし、アシタカはあきらめず、「ししがみの森」を抜け、そこでアシタカが見たものは、山林を開拓して鉄を作るタタラの民たちとその長「エボシ御前」でした。

また、そこには森を守る山犬一族と、先ほど去っていった少女サンもその一員としてそこにいました。アシタカは彼等との交流の中でやがて自分が呪われた理由をようやく知りますが、ちょうどそのころ、森を守ろうとする「もののけ」たちの蜂起が始まり、その長である「シシ神」と人間との壮絶な戦いが始まります。

実は、アシタカの呪いの原因であるタタリ神を生み出したのは「エボシ御前」でしたが、彼女を頼りに生きているタタラの民のような人間はたくさんいました。「森と人、双方生きられる道はないのか」アシタカは葛藤しつつも、人と自然との戦いに身を投じていくのでした……

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この映画は、その当時、興行収入193億円、観客動員数1420万人を記録し、それまでの歴代の日本映画の興行収入をぶっちぎりに抜き去って第1位となりました。現在も、ジブリ作品の中では、「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」に次いで3位につけており、日本国内の興行収入歴代記録も第6位を維持しています。

物語の図式は、上のあらすじからもわかるように、森と人界の対立です。ジブリの広報によれば時代背景は鎌倉時代だということで、一説によればこの時代の日本の人口は、わずか五百万人に満たなかったといいます。

鎌倉時代における日本の山々は現代から見れば考えられないほど美しいところだったと考えられますが、戦うための刀剣だけでなく生活のための鍋釜や農具を得るためのたたら製鉄がさかんとなり、多くの森や山が焼かれました。

しかし、まだまだ数少ない日本民族は、その同胞を増やさなければ生き残っていけず、美しい自然の一部を自分たちの自由にせざるを得なかったともいえます。

このころはまだ、生きていくこと自体が悲惨の極みともいえる時代であり、京や鎌倉のような大きな町はともかく、その他の地域ではほんの小さな集落が離れ離れで点在するような状態で、その一つの村にすれば、それが滅びるということは、全世界が滅びることに等しかったといえます。

自然の脅威は今以上に恐ろしく無常のものであり、必死になってそれと戦わなければ生きていけませんでした。従って森や山を焼いて自然を破壊したといっても、500万人が生き延びるための量にすぎず、まだまだ許される範囲といえ、現在のように環境破壊と呼ばれるほどひどいのものではなかったのではないか、と考えられます。

しかし、江戸時代以降の開発は少々度が過ぎ、潰した山々から流れ出た砂によって現在の広島の市街地が形成されたということが事実だとすれば、その自然破壊ははなはだしいものといえます。その後原爆投下という憂き目に遭ったのも、もしかしたら、超自然的なものによるしっぺ返しだったのかもしれない、という気になってきます。

とはいえ、原爆だけではなく、この地では過去から何度も土砂災害が起こっています。これはニュースでも度々報道していることですが、広島では、1999年(平成11年)の6月にも「6.29豪雨災害」によって大きな被害が生じています。

活発化した梅雨前線の東上に伴い西日本から北日本の広い範囲で降雨し、各地で豪雨となったものです。しかし、時間降水量の最大値は、広島市佐伯区で81mmであり、一日を通しての降水量も同じく被害の大きかった高知県や福岡と比べても、そこまでの降水量ではありませんでした。

この時広島では、死者行方不明者32名の犠牲を出し、住宅全壊101棟、半壊68を数えましたが、被害が大きくなった原因は、やはり真砂土でした。とくに市内西部の「佐伯区」などの新興住宅地では大規模な土石流が発生し、この当時「都市型土砂災害」と呼ばれました。

多大な被害が出たこの地域では、狭い平野をギリギリまで土地開発しているため全国的に見ても急傾斜地が多い特徴がありますが、実はここには我が妻タエさんの実家もありました。この当時は彼女のご両親だけが住んでおり、彼女は直接この豪雨を経験しているわけでもありませんし、また、この実家にも幸い大きな被害はありませんでした。

が、この家から少し離れた山奥の地は激しい土砂災害に見舞われ、この地は元々急傾斜地に真砂土が堆積する土地柄だったことや、発生したのが比較的小規模な土石災害に過ぎなかったにも関わらず、急斜面だったことから土砂が滑り落ちるスピードが速く、著しい被害が出ました。

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実は、広島県西部では、これ以前にも著しい土砂災害が起こったことがあり、1967年(昭和42年)7月に起こった豪雨災害でも、100人以上の死者・行方不明者を出しています。

さらには、昭和63年7月20日から21日にかけ、6時間で246mmという猛烈な集中豪雨が広島県北西部を襲い、この当時はまだ山県郡安芸太田町、と称していた、上述の安佐北区の加計地区や、隣町の戸河内地区を中心に大規模な土石流が発生し、犠牲者14名、負傷者11名、家屋の全壊38戸など大きな被害を出ました。

この災害のあと、さまざまな調査が行われましたが、その当時既に、この安佐地区における災害現場付近の住民の土砂災害に対する危機意識の低さが指摘されるとともに、広島市などの行政の対応が遅かったことなどが報告されていました。

これに加えて1999年(平成11年)の「6.29豪雨災害」においても多大な被害を出した広島県や広島市はこれを機に、防災計画の見直しを図り、特に災害発生時の初動と、土石流危険渓流や急傾斜地崩壊危険個所の近くの住民への広報を徹底するなどの対策をとったといいます。

また、学識者や関係機関により詳細なハザードマップ作成を依頼し、各自治体はこれをもとに、細かい防災対策計画を立てていたといいます。が、今回の災害ではその成果が出た、とは言い難いところがあり、そうしたことも踏まえて、早、今回の被害の拡大は人災ではなかったか、という声も上がっているようです。

しかし、今回の災害の発生が夜間未明であったことや、急激に発生した雨雲による激しい降雨は現在の予報システムをもってしても把握はしがたく、テレビでもコメンテーターの専門家さんの多くが、今回に関しては行政ができることはあまりなかったのではないか、と言っています。私もそう思います。

避難勧告をもっと早く出していれば、という声も数多く聞かれますが、夜間であったことや激しい雷雨の中では、仮に避難勧告が出ていたとしても、安全な避難はできなかったことでしょう。それにしても、むしろその勧告を出せなかったということで、激しい自責の念を感じる人が、行政の側に出てこないか、と私は心配しています。

もし、人災の側面があるとすれば、自然の環境を破壊し、そこに居座った人間に対する自然の警告とも受け取れ、「山に家が登る」とまで言われるほどの乱開発を繰り返し続けてきた、といったことでしょう。そこに鉄槌がついに下ったと見ることもできるかもしれません。今後ともその非を改めなければ災害は続いて行くと思います。

砂防ダムの新設などは場所によっては有効ですが、多額な費用がかかり税金の無駄遣いです。また新たな環境破壊につながりかねません。住居地域の見直しや移転、規制なども含めて、抜本的な対策を講じていく必要があると思いますが、果たして今後県や市がどこまでそこの部分にどう切り込んでいくかは、今後とも見守っていきたいと思っています。

振り返ってみれば、今私たちが住んでいるこの別荘地もまた、かつては自然豊かな台地であったものを、新たに開発して人が住むようになったものです。そのための自然のしっぺ返しがないとは言い切れず、そうした可能性も考えながら、改めてこの土地に感謝の意をとなえつつ、住みつづけていく必要があります。

その土地に住まわしてもらっている、という感覚は大事だと思います。その土地土地にはすべてそれぞれの神様が宿っていてそこを守ってくれています。そのありがたみを忘れることなく、感謝の気持ちを持ってそこに住みましょう。

さて、みなさんのお宅には、どんな神様が宿っているでしょうか。

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鬼は奥

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節分です。

節分とは「季節を分ける」ことを意味し、特に「立春」である毎年2月4日ごろの前日を指します。立春というのは、旧暦で設定されていた一年二十四節気の季節ごよみの初日でもあります。つまりその前日ということは、季節上での「大晦日」を意味します。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられていますが、この節分は一年が始まる前の大みそかであり、年が明けて明るい太陽が出る前に悪さをいっぱいしておこうと、とくに鬼がワイワイ出てきます。それを追い払うための悪霊払いの行事こそが、節分の豆まきです。

「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ食べます。もしくはそれよりもう1つ多く豆を食べるとより厄除になるといいます。が、私的にはこの歳になると豆を五十数個食べるのはさすがにきついものがあります。

これから更に齢を重ねていくと、さらに増えるわけであり、それを考えると憂鬱になります。この先60、70になっていくオヤジにそれだけの豆を食わせるのは、ほとんど老人虐待です。100歳まで生きたらどうするのでしょう。

節分には、邪気除けのために柊鰯(ひいらぎいわし)などを飾るところもあります。関西では、柊鰯とはいわず、いかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいうようです。

この形態は、地方や神社などによって異なります。一般には柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿します。柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言います。鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすのだと言う人もいます。

福島県から関東一円にかけては、今でもこの風習が見られるようですが、私が育った広島や山口ではあまり一般的な風習ではないようです。ほとんど見たことがありません。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに鞘を取り去った大豆の枝である「豆柄(まめがら)」が加わるそうです。

畿内では節分にこのいわしを直接食べるそうで、これは「節分いわし」と呼ばれているようです。

このように一口に節分といっても、いろいろな風習があるわけです。

節分のルーツは、「追儺(ついな)」と呼ばれる中国の行事が日本に輸入されたものだといわれています。平安時代ごろから、宮廷の年中行事となり、最初は旧暦の大晦日に行われていたようです。追儺は、「鬼儺」とも表記されます。これは「鬼遣らい(おにやらい)」の意味であり、鬼を追い払うことです。

平安時代には、方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負う大舎人(おおとねり)という役人と、この方相氏の脇にサポーターとして侲子(しんし)と呼ばれる役人らが控え、総勢20人ほどで、大内裏の中を掛け声をかけつつ走り回ったそうです。

方相氏は袍(ほう)と呼ばれる儀礼服を着て、金色の目が4っ付いた面をつけて、右手には矛、左手に大きな楯をもち、大内裏を走り回りました。駆け回る方相氏を鬼たちから守る目的で、宮中の公卿たちが清涼殿の階(きざはし)から弓矢を射る仕儀もあったといい、また他の殿上人らが、でんでん太鼓を叩いて厄を払うという、勇壮なものだったようです。

ただ、この時代にはまだ、豆を撒くという習慣はなかったようです。

撒いたのは最初は豆ではなく、桃だったようです。追儺の発祥地である中国において桃は神仙に力を与える樹木であり、桃の実は「仙果」と呼ばれて、昔から邪気を祓い不老長寿を与える食べものとされていました。

また、桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けとなり、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないになるとされ、これらの風習が日本に伝えられました。

「古事記」には、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたことが書かれており、イザナギノミコトはその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたといいます。

つまり、日本に伝来したころには、桃を投げつけることが鬼退治に効果があると信じられていたわけです。

「桃太郎」はこの古事記の話から派生した民話であり、ご存知のとおり桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する話です。また3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事でもあります。室町時代ころには、この桃の枝には邪気を祓う力があるとして「桃の枝」信仰も生まれました。

イザナギノミコトが鬼女にぶつけた桃がいつのまにやら豆に変わったのは、桃という果物がこの当時も貴重品だったからでしょう。時代が下るにつれ、桃がもったいないので、これを炒った豆で代用し、鬼を追い払う行事となっていきました。

上で書いたような宮中行事は、やがて庶民に採り入れられるようになり、二十四節気の暦が定着するようになってからは、節分に行われるように変わっていきました。

と同時に、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺した柊鰯を、魔除けとして戸口に立てておくという風習も現れ、さらに一般家庭だけでなく寺社でも豆撒きをしたりするようになりました。

第59代天皇の宇多天皇が在位した9世紀後半(867~931年)には、鞍馬山の鬼が京に降り来て都を荒らすのを、祈祷をして鬼の穴を封じようとしたという記録が残っています。三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れた、といわれており、このころにはもう既に、大豆による豆まきは一般化していたようです。

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やがて豆などの穀物には、「生命力と魔除けの呪力が備わっている」とされ、信仰の対象にもなっていきました。豆は「魔目(豆)」とも書くことができ、これを魔物の目に投げつけて滅することは「魔滅」にも通じるということから、この時代の魔物の代表格であった「鬼」がその対象となりました。

しかし、実際には鬼は目に見えません。このため鬼の形をした作り物やお面をかぶった人物に豆をぶつけることでこれに代え、こうした行事を行うことで邪気を追い払い、一年の無病息災を願うようになっていったのです。

が、鬼は外、福は内、という例の掛け声が使われるようになったのは、ずっとあとのことで、南北朝時代のころのことだったようです。瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)という室町時代中期の臨済宗のお坊さんが書いた「臥雲日件録」の中に「散熬豆因唱鬼外福内」という表現がみられるそうです。

そのとおり、豆まきといえば掛け声は通常「鬼は外、福は内」です。しかし、地域や神社によってバリエーションがあり、鬼を祭神または神の使いとしている神社もあって、こうした神社では、「鬼は外」ではなく「鬼は内」と呼びかけるそうです。

また方避え(ほうたがえ)の寺社でも「鬼は内」というそうです。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、方忌み(かたいみ)とも言い、外出の際などや家屋の新築の場合、政治を占う場合や、戦の開始などの際に、その方角の吉凶を占う行事です。

陰陽道にでは、方位神(ほういじん)という神様が設定されていて、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられていました。方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って、季節が変わるごとに各方位を遊行します。

吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位といい、あちこち動き回るので、その都度、良い方向、悪い方向を占う必要があったのです。

占いの結果、出かけようとしていた方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにします。また、帰宅の際などにも、目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けるといったことまでやりました。

凶方位を犯すことによる災厄を避けるため、現在ではこの風習は寺院や神社で「方位除け(方除け)」の祈祷・祈願を行うだけとなり、実際に行先を変えることまでは行われなくなりました。

また、方位神を祀ってこの祈祷を専門に行うようになったのが「方避えの神社」です。方避け(ほうよけ)寺社とも呼ばれ、神社ばかりではなく寺の場合もあります。旅行に行く際には、こうした寺社にお参りして、悪方の災いを祓うわけです。

大阪の堺にある、方違神社(ほうちがいじんじゃ)はその中でも有名なもので、この地方では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として親しまれています。社地は摂津、河内、和泉の境の三国山にあって、この三令制国のいずれにも属さない地に建設されています。

いずれの国にも属さないということはつまり、方位のない地であることを意味し、このため、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきました。

現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多く、自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒くそうです。

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節分にはこの「方位」にまつわる別の行事をやるところも多いようです。

大阪などの畿内などを中心に食べる、例の「恵方巻」というヤツもそのひとつです。

恵方巻は、巻き寿司を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされていて、同日にこの巻寿司を「太巻き」「丸かぶり寿司」、「恵方巻」などと呼んで食べるイベントが各地で行われます。

「目を閉じて」食べるのが一般的のようですが、一方では「笑いながら食べる」という人もいて、さまざまです。太巻きには7種類の具材を使うとされ、この7という数字は商売繁盛や無病息災を願って七福神に因んだものとされているようです。

7つの具材の中には野菜が入っていて、キュウリは青鬼、またニンジンやおぼろ、生姜を赤鬼に見立て、これを節分と関連づけて、鬼退治をするためにこれらを食べるようになったのだという説や、太巻きを鬼の金棒に見立てて、鬼退治だとする説もあるようです。

7種の素材も決まっているわけではないようで、代表例としては、かんぴょう・キュウリ・人参・シイタケ煮・伊達巻・ウナギ・桜でんぶ(おぼろ)などのようですが、他にも焼き紅鮭、カニ風味かまぼこ、高野豆腐、大葉、三つ葉、しょうが、菜の花、漬物などなどのバリエーションがあるようです。

もともとは近畿地方だけの風習だったようですが、食品業界の陰謀で日本各地に広がっていきました。大手のコンビニエンスストアなどがこのブームに便乗したことから、全国的なイベントとなっていきました。

最近では、菓子業界までがこれに便乗し、形が恵方巻に類似する円柱状のロールケーキなどの各種商品においてもあさましい販売促進活動が見られます。

恵方巻の起源・発祥は諸説存在しますが、はっきりとわかっていません。が、前述のように節分にかこつけて食べるようになったという説のほかに、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が偶々節分の前日に海苔巻きのような物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたのがはじまりだ、といいうまことしやかな説もあるようです。

このほか江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとする説や、江戸時代末期から明治時代初期において、大阪の商人による商売繁盛の祈願事として始まったという説もあり、今日も大阪を中心としてさかんな行事であることから、これらの説が有力視されているようです。

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それにしてもなぜ、この太巻きのことを「恵方」巻きと呼ぶのでしょうか。

これは、陰陽道で、その年の福徳を司る神である「歳徳神(としとくじん」」に由来しているといわれています。古来、この神様のいらっしゃる方位を恵方(えほう、吉方、兄方)、または明の方(あきのかた)と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされてきました。

かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があり、このことを「恵方詣り」とも呼んでいました。

神社などでよく売られている暦をめくると、最初のほうのページに、美しいお姫様の格好をした女神さまが描かれていることがありますが、これが歳徳神です。

この歳徳神の由来にも諸説あり、牛頭天王のお后であるという説がひとつ。また、牛頭天王は、時代が下ると須佐之男尊(スサノオノミコト)と一体視されるようになったことから、スサノオノミコトの妃の櫛稲田姫(クシナダヒメ)とも同一の神様だとも言われています。

このクシナダヒメは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する話の中に登場してきます。ヤマタノオロチに食べられてしまう8人の娘の中で最後に生き残った娘であり、ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)という櫛に変身します。

そして櫛としてスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでスサノオとその行動を共にすることになります。

スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦いこれを退治することに成功しますが、実はスサノオはこの美しいクシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出たのでした。神さまといども、報酬がなければ行動は起こさないというわけです。

めでたくオロチを退治したスサノオはヤマタノオロチを退治した後、櫛にされたクシナダヒメを、元通り美しい娘の姿に戻し、彼女はめでたくスサノオの妻となりました。スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、宮殿を建てたといわれており、この地が現在各地に残っている「須賀」という地名です。

この地名は、北海道から九州までいたるところにあります。あなたのお宅の近くにもあるのではないでしょうか。

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この吉方にいらっしゃるという歳徳神の位置もまた、その年の十干によって毎年変わります。

甲・己の年、つまり、西暦年の末尾が、4・9の年は、東北東やや右です。2014年の今年がそれです。このほか、0・5の年、つまり来年2015年は、西南西やや右、1・6、や3・8は南南東やや右で、昨年の2013年がこれでした。このほか、2・7では、北北西やや右となっています。

従って、今日恵方巻きを食べる人は、東北東の方を向いて願い事をしながら食べましょう。

とはいえ、節分との関係も薄そうな根拠のあいまいな風習です。あまり食品業界を儲けさせるイベントに巻き込まれないようにしましょう。

だいいち、太巻き丸々一本を一気食いするなんて、むちゃくちゃです。消化にも悪いし、お年寄りなどはのどに詰まらせてしまって、窒息死してしまうかもしれません。豆をたらふく食べさせられたあとにこの太巻きを食べたらもう何も食べれなくなってしまいます。

なので私的には、豆をまくで十分だと思っています。

このほか、節分における他の風習といえば、東京の浅草、京都の花街、大阪の北新地などでは、節分の日に、舞妓さんや芸妓さん、ホステスといった女性が、通常の芸妓衣装ではない、様々な扮装をするそうです。

「節分お化け」、あるいは単にお化けと呼ばれているようで、節分の夜に普段と違う服装で、社寺参拝を行います。東京では、台東区の吉原で毎年、「よしわら節分お化け」が行われるようです。

もともとは、節分の夜に、老婆が少女の髪型を「桃割」という形にしたり、少女ではなく成人女性の場合は髪型を島田結いにしたりする風習だったようです。このため「オバケ」とは「お化髪」が語源であるという説もあります。

これが変じて、異装することが流行るようになっていったようで、服装や風体を変えるだけでなく、違う年齢や違う性を名乗るなど「普段と違う姿」をすることによって、節分の夜に跋扈するとされる鬼をやり過ごしたのだといわれています。

節分である、立春前夜は、秋や冬といった暗い季節と春や夏などの明るい季節の変わり目です。 また冒頭でも述べたとおり、旧暦では節分は年の変わり目の前日でもあり、方位神が居場所を変えるなど、古い年から新しい年へと世界の秩序が大きく改組される不安定な時季でもあります。

この様な時季には現世と異世界を隔てる秩序も流動化し、年神のような福をもたらす存在が異世界からやってくる反面、鬼などの危害をもたらす存在もやってくるとされています。

このため節分には豆まきなどの追儺(ついな)儀式が行われていますが、「節分お化け」もまた、このときにやってくる鬼を姿を変えてやりすごそうとする儀式のひとつというわけです。

異装のまま寺社へ詣でて新年の平穏を祈るのですが、やはり民間信仰に属する儀式のため、節分お化けがいつごろどのように始まったかについて詳しくはわかっていないようです。が、京都を中心として江戸時代末期から盛んに行われていたとされており、上述の吉原以外では京都の一部の地域でもこの風習が残っているといいます。

こようにの節分お化けもやはり鬼にまつわる行事であり、節分にはやはり鬼はつきものです。

この「おに」の語は「おぬ(隠)」、つまり「いない」が転じたものだといわれており、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味します。そこから人の力を超えたものの意となりました。

平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であり、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていました。「伊勢物語」には、夜中に女をつれて駆け落ちする侍が、その途中で鬼に連れの女を一口で食べられる話があり、ここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになりました。

平安以降は、戦乱や災害、飢饉などの社会不安が頻発しましたが、そうした中では、人の死は当たり前でしたが、また行方不明になる人も多く、人々はこれを異界がこの世に現出して連れ去ったのだと解釈するようになりました。人の体が消えていくのは、この世に現れた鬼の仕業だと思うようになっていったのです。

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このように鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔でしたが、一方では一寸法師や瘤取り爺さんなどの昔話にあるように福を残して去る神としての一面もあり、このため各地に鬼を祀る神社などが存在します。

一寸法師の話はだれでも知っているでしょう。が忘れている人も多いと思うので、あらすじを書き出してみましょう。

一寸法師は子供のない老夫婦が住吉神社の神様に祈った結果授かった子供でしたが、その大きさはわずか一寸(3cm)しかなく、何年たっても大きくなることはありませんでした。

ある日、一寸法師は武士になるために京へ行きたいとわがままを言い出し、おじいさんとおばあさんを困らせます。が、強引にも御椀を船に、箸を櫂にし、針を刀の代わりに、麦藁を鞘の代りに持って旅に出ます。そして京で大きな立派な家を見つけ、この家の主人を脅して働かせてもらうことにしました。

しかも、その家の娘とねんごろになり、この娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来たのを見た一寸法師はさすがにこの娘を守ろうとします。すると鬼は一口で一寸法師を飲み込んでしまいますが、一寸法師は乱暴にも鬼の腹の中を針で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまいます。

一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)になり、めでたくこの娘と結婚しました。しかも米と金銀財宝を打ち出して、大金持ちになりました。

が、その後娘は一寸法師にいじめられた鬼をかわいそうに思い、介抱してやっているうちに不倫に陥り、鬼と共謀して一寸法師を元の小人に戻して追い出してしまいました。泣く泣く育ての親の老夫婦のもとに帰りましたが、二人は自分たちを捨てた一寸法師をシカとし、その後一寸法師は小さい姿のまま、悲しく生きていくことになりました……

多少脚本に偽りがありますが、まぁだいたいこんな話です。

一方の瘤取り爺さんのほうの話はというと、あるところに、頬に大きな瘤のある隣どうしの二人の翁がおり、片方は無欲で、もう片方は欲張りでした。

ある日の晩、無欲な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露して接待したところ、鬼は翌晩も来て踊るように命じ、明日来れば返してやると翁の大きな瘤を、スポン、と傷も残さず取ってしまいました。

これを聞いた隣の欲張りな翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ、鬼の前で踊り出しますが、鬼が怖くて及び腰になり、踊りはしっちゃかめっちゃか。とうとう鬼は怒って隣の翁から取り上げた瘤を欲張り翁のあいた頬に押し付けくっつけると去ってしまった……という話。

無欲な翁は邪魔な瘤がなくなってその後幸せになりましたが、一方の重い瘤を二つもぶら下げることになった欲張り翁もまたその後、幸福な一生を送りました。

そのユニークな顔が大評判になり、あちらこちらから引っ張りだこになったあげく、鬼の前で踊ったという武勇伝が受け、時代を代表するヒーローとなり、都のたいそうな美人と結婚して幸せに一生を暮らしましたとさ……

こういう話を子供のころから繰り返し聞かされている?我々は、普通この鬼はおそろしい形相をした男の姿をしているとみんな思っています。

ところが、この鬼は、その形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは実はみんな女性の形だったといいます。

「源氏物語」にも鬼が登場しますが、その剣の巻には次のような話があります。

摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれました。

綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せました。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行きました。が、抗う綱は鬼の腕を太刀で切り落として、なんとか逃げることができました。

……という話なのですが、この話には続きがあり、この鬼は、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「息子の片腕があるだろう」と言い、それを取り出して見せようとして出してきた綱から腕をいきなり奪い取り、元の鬼の姿に戻って逃げ去る、ということになっています(こちらはホントです)。

この話からもわかるように、そもそもの昔には、鬼は女性とみなされていました。女の本質は鬼であるといわれており、戦乱の多かった昔に自分の子供を戦争で傷つけたものに対する母親の憎悪が鬼という存在に変化したものだといわれています。

最後のほう、昔話をおちゃらけて改変してしまったので、信じていただけないかもしれまんが、これもまたホントの話です。

鬼嫁、鬼婆、鬼女などなど、鬼にまつわるものはだいたいみんな女性です。そこに鬼の怖さの合理性がかいま見えてくるのです。やはり鬼はこわい。女はこわい。嫁もこわい。

なので、これを読んでいるお父さん、節分の夜に鬼の面をかぶって逃げ回るのはやめにして、今夜からは鬼役はお母さんに任せましょう。

それなら面はいらないって?それは私には肯定も否定もできません。

2014-1130336広島城にて