妖しい光の候

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7月になり、伊豆では、あちこちに出ていたホタルもほとんど見られなくなりました。

しかし、東北地方などではまだまだこれからが見ごろ、というところも多いようで、7月下旬までは楽しめるようです。長野県では、志賀高原など高地では10月から11月になっても見られるといいます。

この本州以南の各地でみられるホタルですが、一般には「ゲンジボタル」を指すことが多いようです。

オスは川の上空を飛び回りながら、メスは川辺の草の上などに止まって発光します。発光のパターンは西日本と東日本で違い、西日本のほうが発光のテンポが速いそうです。西日本の蛍は「2秒に1回」、 東日本の蛍は「4秒に1回」発光します。

このテンポの違いは、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断するフォッサマグナが境となっているそうです。が、現段階では、このような発光周期の差がなぜ生じたかはっきりしていないといいます。東と西を分けるこの大地溝帯が、生物の生育にどんな影響を与えているというのでしょうか。

「ゲンジ」は言うまでもなく「源氏」から来ています。とくに、平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた「源頼政」の思いが夜空に高く飛び舞う蛍にたとえられたといいます。

頼政は、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り、公卿に列しました。しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒を呼びかけました。。

ところが、その計画が露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされます。そして、そのまま平家の追討を受け、宇治平等院の戦いに敗れ自害しました。

以後、敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって平家と戦うという話が広まり、「源氏蛍」として生まれ変わったとして全国に喧伝され、全てのホタルの代表であるかのように言われるようになりました。

が、実際にはホタルには遥かに多様な種があります。国内では約40種が知られており、熱帯に区分される南西諸島により多くの種がありますが、本土が主な分布域です。

この中に、ヘイケボタルというのもいます。こちらはとくに由来となった武将などがいるわけではありません。その命名は、ゲンジボタルより小型であるため弱い印象があるためでしょうか。源氏に駆逐され、滅亡した平家になぞらえたものと思われます。

とはいえ、生物的には、かなり逞しい存在です。環境の悪化に弱いゲンジボタルに比べ、汚れた水域にも生息することができます。時には干上がる水田のような環境でも生息できるのは、鰓呼吸だけではなく空気呼吸を併用しているからです。成虫の出現期間は長く、5月から6月には終わってしまうゲンジボタルに比べて9月頃まで発光が見られます。生存期間が長いということは、それだけ強い生物だということです。

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ゲンジボタルにせよ、ヘイケボタルにせよ、これら発光するホタルの成虫は、ほぼ全種が腹部の後方の一定の体節に発光器を持ちます。ホタルの発光物質はルシフェリンと呼ばれ、ルシフェラーゼという酵素とアデノシン三リン酸(ATP)がはたらくことで発光します。

ルシフェラーゼとはホタルなどの生物発光において、発光物質が光を放つ化学反応を触媒する作用を持つ酵素です。発光酵素 とも呼ばれます。一方、ATPは、生物の体の中でエネルギーの放出・貯蔵などの重要な役目を果たしている物質です。

ホタルの発光はこの二つの物質の化学反応によるもので、ルシフェリン – ルシフェラーゼ反応と呼ばれます。化学的エネルギーを光エネルギーに変換する化学反応の過程で、光が発生するもので、生物発光は英語ではバイオルミネセンス(Bioluminescence)と言います。

ホタルに限らず、こうした生物の発光は電気などによる光源と比較すると効率が非常に高く、熱をほとんど出しません。このため「冷光」、“冷たい発光”とも言われます。

省エネで知られる、LED 照明は消費電力効率が飛躍的に向上し、70% 以上もあり、このため省エネルギーのみならず、発熱も抑えられています。明るくても比較的熱くない、熱効率の良い照明器具としてもてはやされていますが、それでも生物発光より多くの熱を出します。

これに対してホタルの光は、放射する光の20%以下しか熱放射を起こしません。エネルギー変換効率が非常に高いため、発する熱は極めて小さく、それでいて光への変換も可能としていることは注目に値します。どんなに光っても、ホタルが熱くならないのは、この高効率な生体機能のためです。

明るさの点では、電気を利用するLEDランプなどに比べれば遥かに劣りますが、暗黒条件下でのこうした発光は、微弱な光であっても、生きるための手段としては必要十分な明るさをもたらします。

ホタルが発光する能力を獲得したのは「敵をおどかすため」という説や「食べるとまずいことを警告する警戒色である」という説があります。幼虫は、親以上に捕食者に食べられやすいため、卵の段階からもう既に発光が始まります。

一方、成虫の発光は、おもに交尾の相手を探すための交信に発光を用いられており、明らかに種族保存のための行為です。光を放つリズムやその際の飛び方などに種ごとの特徴があるのは、雌に気に入られるために、発光方法そのものに工夫が凝らされてきた結果といわれています。

ホタルだけでなく、こうした生物発光を行う生物が光るのは、夜に限られることが多く、このことから、こうした生物は「概日リズム(circadian rhythm)」を持っている、とされます。約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在しており、一般的に体内時計とも言います。

もっとも体内時計といっても、メカニカルな時計とは異なり、生物の体内で形成されるものですから、正確とはいえず、光や温度、食事など外界からの刺激によって微妙に修正されるのが常です。光や温度は天候に左右され、かなり誤差が出ますから、このあたり、人間の「腹時計」のほうがむしろ正確かもしれません。

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このように自らの体を光らせる能力を持っているのは、無論、ホタルだけではありません。ホタルはその成虫が交尾のために光るのに対し、ホタル以外の生物の発光は、餌を呼び寄せるために使われることが多いようです。チョウチンアンコウなどの深海魚は、獲物を誘うルアーとしてこれを使います。魚の頭部に背鰭から変形し、釣竿よろしく伸びた突起の先が発光し、これを揺らすことで、小魚や甲殻類を攻撃範囲内に引きつけます。

また、水深1,000mより深い海に生息する深海魚、ダルマザメは、体全体が発光しますが、下腹部の一部のみを暗いままに残してあり、大型の捕食魚に対し、小さな魚の影に見せかけているといいます。それらが「小さな魚」を捕食しようと近寄ってきたとき、ダルマザメに体の一部分を食べられるといいます。

自身の影で大型の獲物をおびき寄せる、珍しいタイプの海洋生物で、自分の体長に匹敵する15~30cmのイカを丸ごと食べることもあり、さらに自分よりはるかに大きなイルカやイルカの一種であるゴンドウなどすら襲うといいます。

プランクトンのなかには、鞭毛を光らせるものもあります。鞭毛とは、毛状の細胞小器官で、本来は、遊泳に必要な推進力を生み出す事が主な役目です。「渦鞭毛藻類」という単細胞藻類は、2本あるこの鞭毛を発光させます。水流により捕食者(多くは自分より大きなプランクトン)を感知したとき発光します。

これにより、自分より数十倍も大きい捕食者を引きつけ、天敵である捕食者どうしが共食いするように仕向け、その間に自分は逃げおおせる、というわけです。

同様にある種のイカでは、発光する化学物質や、発光バクテリアを含む液を、普通のイカの墨のように吐き出すことで、敵を撃退します。発光する煙幕によって、捕食者を混乱させ。その混乱に乗じて安全に逃げおおせます。

このほか海中では、ミジンコによく似た「貝虫」などが発光生物として知られています。長距離の伝達にはフェロモンを使用しますが、短距離においては発光によってお相手を惹きつけているといわれています。

生物発光を、人間と同じように照明に使うものもいます。海棲生物のほとんどの発光色は青か緑ですが、深海魚の「ワニトカゲギス」などは、赤い光を放ちます。赤色光は海水中で速やかに吸収され深海にはまったく届かないため、ほとんどの深海生物の眼は赤色を認識する能力をもちません。

これに対してワニトカゲギスは赤色光を放出するとともに、自身で赤い光を認識することもできます。このため、獲物や他の捕食者に気づかれることなく周囲を探索することが可能になります。

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このように生物発光はそれを用いる生物それぞれの事情で用いられ、その多くは科学的にメカニズムが証明されています。

同様に、その昔は妖怪や物の怪の仕業ではないか、といわれていたものが、近年になって、ほぼ原因が特定され、科学的にほぼ証明された自然現象である、といわれるようになったものもあります。

そのひとつに、「不知火」があります。

九州に伝わる「怪火」の一種で、夏の日の風の弱い新月の夜などに見られると言い、代表的な発生場所は八代海や有明海などの九州沿岸です。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数が増えていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

その距離は4〜8キロメートルにも及ぶこともあり、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認しやすいといい、また不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くとされます。こうしたことから、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

古くは、「日本書紀」「肥前国風土記」「肥後国風土記」などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述があります。

江戸時代までは妖怪の仕業ではないかと言われていましたが、大正時代に入ると、不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、その結果、蜃気楼の一種でないか、といわれるようになりました。

昭和時代に入ってからの研究では、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。こうした現象はとくに八代海のような遠浅の地形でしか起こらないことなども確認されました。

戦争中の1943年、広島高等工業学校、通称「広島高工」の教授、宮西道可は、「不知火の研究」という論文を発表しています。

これによれば、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔(旧暦の8月1日、 新暦では8月25~9月23頃)の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚も手伝い、怪火に見える、としました。

また、戦後になって熊本大学教育学部の山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である、と発表しました。そして、「その光源は民家等の灯りや漁火などであり、条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こりうる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である。」と論じました。

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このように近代になって蜃気楼の一種と認識されるようになった不知火ですが、無論、幻ではなく、現在でも見ることができるようです。干満の差がある海岸で起こる現象とされ、これまで目撃情報の多かった八代海やこれよりも北にある有明海以外でも類似の現象を見ることができるといいます。

旧暦8月1日前後(新暦では8月下旬)の風の弱い新月の夜に発生しやすいとされます。とはいえ必ず見ることができる現象ではなく、見ることができたら運が良い、といった頻度のようです。現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことなどで、見ることが難しくなったようです。

熊本県宇城の不知火町では、旧暦の8月1日(昨年は9月12日)に「海の火まつり」毎年のように開催されています。地元・竜燈太鼓の演奏、松明行列、総おどり、海上花火大会とともに「不知火」観望会なども開催されますから、運がよければ花火と不知火の両方を楽しむことができるかもしれません。

一方、日本ではこの不知火以外に、やはり何等かの物理化学現象ではないか、といわれているものの、いまだに原因が特定されていないものもあります、

そのひとつが狐火(きつねび)です。

沖縄県以外の日本全域に伝わる怪火で、ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火(りんか)とも呼ばれます。

火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいようです。

十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するのが目撃されたこともあるそうです。

火のなす行列の長さは一里(約4キロメートル)あるいは約500~600メートル)にもわたるといい、火の色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいいます。

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東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされます。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。このことから榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなりました。

この木は明治時代に枯死しましたが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停(現在の「ほりぶん」前の交差点)の近傍に残っており、一帯は以前には榎町と呼ばれてもいました。地元では地域おこしの一環として、1993年より毎年大晦日の晩に、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています

正岡子規は「狐火のちろつく晩や野辺送(のべおくり)」とうたっており、野辺送りは野焼きのことで、冬の季語です。これにより、この王子狐の行列の時期は冬とされることが推定されるわけですが、他の狐火は一般的には夏の暑い時期や秋に出没する例が多いようです。

その原因ですが、古くは元禄時代の本草書「本朝食鑑」に、キツネが地中の朽ちた木を取って火を作るという記述があります。また同書には、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の「訓蒙天地弁」、江戸後期の随筆家・三好想山による「想山著聞奇集」にも同じく、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すとの記述があります。

さらに長野県の奇談集「信州百物語」によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとあります。

これらの歴史的記述をもととに、哲学館(現:東洋大学)を設立した井上円了は、1916年(大正5年)、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説を提唱しました。

土中に埋まった動物の骨や死骸は、バクテリアによって分解され、土壌の有機成分となる際にリン化合物を発生させることが知られています。リンは発火点が60度とかなり低温であり、空気中で室温でも徐々に酸化されて自然発火し、熱および青白い光を発します。

このため、土の中に大量の骨があれば、確かに狐火に見えるかもしれません。しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、それほど多くの骨が広範囲に散らばっているとは考えにくく、またリンの弱々しい光が、はたして「火」のように見えるかはなはだ疑問です。

井上円了は、哲学者として著名な人物でしたが、迷信を打破する立場から妖怪を研究し、近代的な妖怪研究の創始者としても知られています。当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。

晩年には、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えを持つに至り、数々の研究成果から、「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれました。しかし、上のとおり、リンの光を狐火の原因とするなど少々こじつけがましい研究成果も多かったようで、発表した研究の中には科学的な根拠に乏しいものもあったようです。

このほか、1931年(昭和6年)には、生物学者の神田左京が、狐火の正体は、朽木に付着している菌糸、キノコの根が光を発しているのではないか、という内容の論文を発表しています。たしかに、日本には、関東以西の太平洋側地域に「ヤコウタケ」という光るキノコがあり、ほかにも「ツキヨタケ」といった発光キノコがあります。

しかし、こちらもかなり大量になければ狐火には見えないはずであり、また、林間にうっそうとした繁みの中で発光したものが、遠くから見えるはずはなく、こちらも説としてはかなり厳しいものがあります。

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ちなみに、この神田左京という人は、1874年(明治7年)に長崎県で生まれています。東京で英語教師をしていましたが33歳で渡米、生物学を勉強し博士号を取得して41歳で帰国。ここまで輝かしい経歴ですが、以後は「権威が嫌い」という理由で定職にも就かずホタルの研究に没頭したことで知られています。「わたしはホタルと心中する」と妻帯もしませんでしたが、業績は海外にまでとどろき、英国学会からは「ぜひ会員に」、皇室からさえ「進講を」と誘われるほどでした。

彼を理解する少数の篤志家による援助のみで暮らしを立て、赤貧洗うがごとき生活でしたが、ホタル研究に邁進した結果、「源氏ボタルの発光間隔は日本の東と西では違っている」ことを発見する、という業績をあげました。1935年(昭和10年)に自費出版した「ホタル」を出しますが、その後まもなくの1939年、65歳で没しています。

まさに「ホタルと心中」したかのような人生ですが、あちらの世では光輝いているでしょうか。

人間がともした火を狐火と見間違ったとする説もあります。先日、このブログでも紹介した「虫送り」という行事は、戦前まではさかんに行われており、これは、稲を病虫害から守るために、田植えが終わった季節に松明をともして田んぼの畦道を歩きまわる というものでした。

稲作地方の風物詩であり、遠くの町から見れば狐の嫁入りそっくりに映ったはずであり、こうしたことから、1977年には、日本民俗学会会員で「怪火研究家」の角田義氏が、狐火の正体は虫送りなど人の手による灯火の行列が、光の異常屈折によって現れる現象だと説明しました。山間部から平野部にかけての扇状地などでは、光の異常屈折が起こりやすく、虫送りの松明の火が狐火に見えたのだ、という説はなるほど納得がいくものではあります。

戦後の近年では虫送りの行事はかなり減っており、と同時に狐火もあまり見られなくなっているようなので、時期的にもあっているような気がします。

しかし、ほかにも天然の石油の発火ではないか、とする説もあり、結論が出たわけではあありません。球電現象などをその正体とする説もあって、現在なお正体不明の部分が多いようです。

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この球電(ball lightning)現象ですが、空中を発光体が浮遊する自然現象、あるいはその発光体とされるものです。目撃例の多くは、赤から黄色の暖色系の光を放つものが多いとされていますが、白色や青色、色の変化するものなどもあるとのことです。また、中には灰色や黒色の光が吸収されていると思われ、金属光沢のような色や、黒色のものもあります。

2014年の7月30日、中国南部の湖南省の養豚場で「球電」の爆発が発生、女性が負傷し170匹以上の豚が死ぬという事故がおこりました。怪我をした農夫の妻は、「それは大きな火の玉のように見え、突然爆発し、二股に分かれていった」と証言しています。10分ほど目が眩んで何も見えなくなったといい、彼女の左目は黒くなり足は出血していたそうです。

この養豚場の事件に先立つ2年前の2012年7月にも、中国中北部、海抜 1,600mにある蘭州で球電現象が目撃されています。西北師範大学の研究者は、この青海高原という場所で、分光器を設置して雷を観測していたところ、偶然にもカメラで球電現象を撮影することに成功しています。

一般的には、雷放電が激しく起きているとき発生することが多いといわれ、多くの場合には豪雨の際に現れます。大きさは10~30cmくらいのものが多く、中には1mを超えるものも存在します。数秒から数分間地表付近を動きまわって消失するといいますが、移動中の金属体を追いかける、送電線などの細い金属を蒸発させる、などの現象も確認されているといいます。

一説によれば、一つの球電が爆発した際に放出されるエネルギーは10キロ分のダイナマイトに相当し、焦げ跡や硫黄臭・オゾン臭を残すことが多いといいます。

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すさまじいエネルギーであり、この球電によって、死亡事故も起きています。

1753年7月、ロシアに在住していたドイツ人物理学者のゲオルグ・ウィルヘルム・リッヒマンはサンクトペテルブルグで針がねを用いた電気の誘導実験を行っている最中、突如発生した球電と接触し、感電死したと言われています。

彼は、自分の業績を後世に伝えるため銅像を作ろうと、たまたま彫刻師を自宅に招いていました。その直前に、あるシンポジウムに参加していた折には、外で雷鳴が轟いていたといいますが、それを退出して、自宅に彫刻家を招き、実験を行っていたようです。そのとき、突然球電が現れ、彼の額を貫きました。靴はズタズタとなり、服の部分は焦げていたといい、球電が貫通した彼の額には赤い点が残っていたといいます。

同席した彫刻家によれば、「小さな砲弾が炸裂したようだった」といい、入ってきた球電の威力は部屋のドア・フレームを叩き破り、ヒンジごと吹き飛ばすほどだったといいます。

リッヒマンはは、ロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーの会員であり、電気学、大気電気学、熱量測定などの先駆的な研究に取り組んだことで知られています。電気の専門家であった彼が、よりによって電気実験の最中に球電現象で死ぬことになるとは皮肉なことです。

1987年には、日本でも目撃されており、しかも撮影された写真が残っています。長野県黒姫で日本の学生が偶然屋外で撮影したとされる写真で、球電を収めた数少ない貴重な写真として世界的に知られています。

このほか、2004年の夏頃、福岡県久留米市上空で青系列の球電が目撃されており、当時同地で雷雨による大規模停電が発生していたといいます。

球電は非常にまれな現象で、正体については諸説ありますが、どうやら雷に伴うことが多いらしいとうこと以外発生条件がつかめていません。

自然発生したプラズマのかたまりという説が有力ですが、科学者たちの多くは、「球電」と呼ばれている目撃例のすべてが同じ原理で説明できる現象ではなく、同じような見え方をするさまざまな現象が「球電」という言葉でひとくくりにされている、と考えているようです。従って、前述の狐火もまた、球電現象のひとつなのかもしれません。

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さて、長くなってきたのでそろそろやめようと思いますが、最後に、科学的にはまったく証明されていないものの、実際に起こったとされる不思議な現象をひとつだけ。

青森県の下北半島の突端に、尻屋埼灯台という灯台があります。「日本の灯台の父」と称されるイギリスの土木技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、1876年(明治9年)に完成した白亜の灯台で、二重のレンガ壁による複層構造の美しい灯台です。

現在も運用されており、日本の灯台50選に選ばれています。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は美しい景勝地となっています。

この灯台、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に米軍からの射撃を受け、このとき、村尾常人という標識技手が殉職しました(享年42歳)。灯台は8月10日までの間に計14回も襲撃されましたが、ブラントンによって設計された堅牢な躯体は残りました。しかし、運用不能になり、この日から灯台の灯りは消えました。

ところが、翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が突如として光を放つようになり、その目撃が相次ぎました。

5月に灯台職員らが目撃したのが最初で、航行する漁船からも幾度か目撃情報が寄せられたため、当時の台長代理がこれを「灯台の怪火について」という異例の公文書にして横浜の灯台局に報告する騒ぎになりました。

同年8月に霧信号舎(霧や吹雪などで視界が悪いときに船舶に対し音で信号所の概位・方向を知らせる)の屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えたといい、以来、人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊がおこした仕業なのではないかと噂しました。

その後修復され、銃撃の跡が今でも残る33メートルの塔は、いまも完成当時の優美な姿を保っていますが、今はもう、ここに村尾標識技手の幽霊が出る、という噂はないようです。

比叡山、高野山と並ぶ日本3大霊場のひとつ、イタコの口寄せで知られる恐山(おそれざん)はここからすぐのところにあります。死者あるいは祖霊と生きている者との交感の際の仲介者として良く知られるイタコですが、ここで呼び寄せをしたら、あるいは村尾技師に会えるかもしれません。

自分が勤務した灯台において、死後も、何故あかりを灯し続けたかったのか、その気持ちをぜひとも聞いてみたいものです。

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ノーベル賞と妾

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今日明日は、「寒露」と呼ばれる季節のようです。

「露が冷気によって凍りそうになるころ」ということで、雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギなどが鳴き始めるころだとされます。

このあと、さらに月末ころには「霜降」となり、紅葉が始まるとともに木枯らしが吹きはじめます。

毎年、この時期になるとノーベル賞の各賞が発表になります。そして今年は、昨日、一昨日と二人の日本人が受賞し、歓喜の声で列島が揺れています。

このあと、今日にはノーベル化学賞の発表があり、何人かの日本人候補の受賞が取沙汰されているようです。さらにはノーベル文学賞の候補、村上春樹さんの受賞もあるのではないかと噂されており、そのいずれかでまた受賞が実現すれば、トリプルでの受賞となり、本邦初となります。あるいは、4人とも同年受賞という快挙もありうるかも。

それにしてもこれまでいったい何人の日本人が受賞しているのかな、と改めて調べてみると、今回の受賞を含めて過去に25人もの受賞者がおり、この数は非欧米諸国の中で最も多いそうです。

自然科学系に限れば22人となり、この数は、欧米もすべて含めたすべての順位では、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに次いで5位であり(2014年まで)、アメリカの250人、イギリスの78人は別格としても、フランスの31人に迫る勢いです。

ちなみに、人文文化系の3人は、文学賞の川端康内と大江健三郎、平和賞の佐藤栄作になります。日本がこれまで受賞したことのないのは、ノーベル経済学賞だけです。

なぜ、日本人はいつも経済学賞を受賞できないかについて調べてみたところ、賞に値する人は日本にも何人もいるものの、たまたま受賞のタイミングがこれまでなかっただけで、いつ日本に来ても不思議ではないという見方があるようです。その一方で、日本のこれまでの経済学者は、欧米の学者の追随者や解説者が多いからだという意見もあります。

今日の世界が直面している根源的な経済現象に対し、独創的な分析や解決法を理論的に提示し得ていないからではないか、ということがいわれているようですが、なるほど借金の額は世界一だし、長びいている不況から抜け出せないのも、アイデアに優れた経済学者がいないからなのかもしれません。

一方の、科学部門で日本人が実際に受賞したのは、第二次世界大戦終結後の湯川秀樹が初めてであり、敗戦直後の日本国民に大いに自信を与えました。以後、毎年とはいいませんが、自然科学部門では数年に一回の受賞を繰り返すようになり、21世紀に入ってからはほとんど毎年のように誰かが受賞するといったペースとなり、現在に至っています。

これほどまでに受賞のラッシュが起こっている理由としては、それはやはり科学技術に対する長年の投資効果が最近になってようやく出てきたからだろう、というのがもっぱらの見方のようです。

また、ノーベル賞受賞の基準としては、ノーベル委員会は、最低20~30年以上の累積的な業績を見るそうで、日本の場合、ようやくその基準に合致してきたということがあるようです。お隣の韓国では金大中氏が2000年に平和賞を受賞した以外、科学部門では受賞がありません。

これは、科学技術開発の歴史はあまりにも短い、ということがいわれているようです。韓国の場合、1966年の韓国科学技術研究所(KIST)の設立からわずか50年足らずということもあり、国の研究開発事業費規模の面でも80年代初頭まで100億ウォン(約10億円)水準にとどまっていたそうです。

基礎研究ではなく、産業化のために取り急ぎ目先の技術に関する開発研究だけが急がれていたことなども、ノーベル賞受賞者を輩出できていない理由のようです。

これは中国や台湾も同じであり、台湾は3人の科学部門の受賞者、中国は一人だけです。中国は他に2人の受賞者がいますが、このうち一人は、体制側の文学者、莫言(モー・イエン・文学賞受賞)であり、もう一人は、反体制派の活動家、劉暁波(リュウ・シャオボー・平和賞)氏です。

劉氏に至っては、2010年に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり、現在も遼寧省錦州市の錦州監獄で服役中です。

ノーベル平和賞の選考で劉が候補となった時点で、中国政府はノルウェーのノーベル賞委員会に対して「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道されていました。

このように、平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがわりと多く、このため、その度に受賞者の国の政府から反発を受けています。ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキーもしかり、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフもしかりです。

かつて中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世の受賞に、中国が反発したということもありました。また、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチーも政府によって弾劾されています。

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ま、それはともかく、こうした文系部門を除いた自然科学分野においては、日本は既にノーベル賞自体の提唱国、スウェーデンの受賞者数を抜き去っており(2014年時点、スウェーデンは自然科学部門で16人)、ほかにスイスやオランダ、イタリアやオーストリアといった先進国よりも多くの受賞者を出しています。

これからも科学技術の国、として胸を張って世界に名乗っていけるでしょうし、他国もそうした優れた人材を多数輩出している我が国の技術力を認め、尊重してくれるに違いありません。私もかつては技術者の端くれでしたから、大変名誉なことに思います。

ところで、昨日、ニュートリノに質量があることを突き止めたことでノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章さんは、東大大学院時代、2002年に同じく物理学賞を受賞した小柴昌俊さんの研究室の一員でした。

その後、加速器実験に興味を持ち、卒研にいそしみながら、ニュートリノ施設「カミオカンデ」の開発に携わり、カミオカンデでは建設作業に汗を流し、現場でケーブルの敷設などを行っていたそうです。

修士論文もカミオカンデの装置がテーマだったそうで、1998年、スーパーカミオカンデでニュートリノ振動を確認し、ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した戸塚洋二さんは、ともに小柴博士の弟子でした。梶田さんの兄弟子ともいえる存在で、同じくスーパーカミオカンデの完成に尽力した人です。

梶田さんとともに、有力なノーベル賞候補と目されていましたが、2008年に直腸ガンのため亡くなりました(66歳没)。師匠の小柴さんは、その戸塚さんの告別式での弔辞で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と発言しており、ノーベル賞受賞のノミネートを期待されながら亡くなったその早い死去を惜しみました。

しかし、今回、もう一人の愛弟子、梶田さんがノーベル物理学賞を受賞したことで、戸塚の果たせなかった夢を実現させる形となりました。生前受賞できなかったことは、ご本人もさぞかし残念だったことでしょうが、あちらの世界でさぞかし喜んでおられることでしょう。

それにしても、このように亡くなった人にはノーベル賞は与えられないのかな、と調べてみました。

そうしたところ、やはりノーベル賞は「本人が生存中」が受賞条件なのだそうです。かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、実際、そうしたケースもあったようです。1931年の文学賞、1961年平和賞の2例があります。

しかし1973年からは、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要がある、とされました。が、さらにその後、ノミネートされていれば、発表があった時点で死亡していても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されませんでした。

また、2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明しました。しかし、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになりました。

とはいえ、今回の受賞に先立ち、7年も前に亡くなっている戸塚さんの場合では、亡くなった当時にはノミネートもなく、残念ながらこの規定により、受賞は認められません。

各国の軍隊などでは死後にその階級が特進する、といったことがあり、また、日本の勲章も死後に授与されることもあるようですから、このように長年の研究に身を捧げて亡くなった研究者に対して何等かの救済措置はないのかな、と思ったりもします。

ノーベル賞では、現段階ではそうした仕組みはないようですが、賞を与える理由についても長年の間に少しずつ変わってきているようなので、将来的にはそうしたことも考慮に入れられるようになるのかもしれません。

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しかし一方では、このように日本人が受賞を逃す要因として、研究者側にも問題がないとはいえないようです。

ノーベル委員会が一次選考で受賞候補者を探す際、その候補者がいる国の研究者や過去の受賞者に、推薦状を出してくれるように依頼をするのだそうですが、それに対する返信率が、日本の場合は他国と比べて非常に低いのだといいます。それだけ、日本人の場合はノミネートに対して無頓着だ、という現実があるということのようです。

こうしたことがあまりにも多いので、いつだかノーベル委員会委員が来日した際、日本の科学技術審議会にこの点について苦言を呈したそうです。日本の研究者は、せっかく世界最先端の研究をやっているのだから、もう少しその研究内容をアピールする、ということを覚える必要があるのかもしれません。

が、これについては、かつての日本人研究者は英語などの外国語が苦手であった、ということなども関係しているのかもしれません。日本も一応、英語は義務教育で教えられてはいますが、外国のように日常的にこれを使って生活する、というレベルにはまだありません。

ところが、最近の日本人の受賞者の中には自分の専門を深めるために諸外国へ出かけて行って研鑽する人が多く、このため英語を初めとする外国語に堪能な方も多いようです。最近、急に受賞率が高くなってきている理由のひとつには、このように日本人研究者の国際化がより進んでいる、ということも関係しているのかもしれません。

これに対して、昔の研究者はいかにも外国語が苦手、という人が多くいました。かつて、1970年に北海道大学理学部の化学第二学科助教授だった、大澤映二さんという人がいました。

彼は、それまで存在が確認されていなかった、フラーレン (fullerene C60) という、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の同素体の存在を理論的に予言したものの、英語論文にせず邦文でのみ発表しました。そのため、1996年のノーベル賞を逃したといわれています。

この顛末は、この当時のイギリスの科学雑誌「ネイチャー」にも掲載されたといい、こうした日本人の英語下手は、かなり有名な話のようです。また、世界初のビタミンB1単離に成功した鈴木梅太郎も、ドイツ語への翻訳で「世界初」が誤って記されなかったため注目されず、1929年のノーベル賞を逃したといわれています。

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ただ、これよりさらに以前のノーベル賞候補者と言われるような優秀な日本人の多くは、語学にも堪能な人が数多くいました。

たとえば、1915年に世界初の人工癌発生に成功した、日本の病理学者、山極勝三郎は、28才でドイツに留学しており、このため非常にドイツ語に堪能でした。

帰国後に東京帝大医学部教授に就任。病理解剖学を専攻し、特に癌研究では日本の第一人者でした。ウサギの耳にコールタールを塗布し続け、人工癌の発生に成功し、ノーベル賞候補といわれました。が、1926年のノーベル賞は癌・寄生虫起源説のヨハネス・フィビゲルに授与されました。

ノーベル賞委員会では、当初、共同受賞、という意見もあったようですが、フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、「発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、当初の意見を変更し、フィビゲルの単独受賞を決めました。

選考委員の一人、フォルケ・ヘンシェンは、その後1966年に来日し、東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱した者です。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べたそうです。

このときの会見でヘンシェンはまた、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々となされていたことも明かしたといいます。

すなわち、この当時には、語学力云々よりも、日本人に対する偏見のようなものが多少なりともあったことがノーベル賞の受賞を阻む原因であった、ということなどが推察されます。

日本人としての初受賞は、1949年(昭和24年)の湯川秀樹博士ですが、その後23年もの間受賞がもたらされなかったのも、かつてはこうした偏見があり、それがぬぐえなかった、ということが実際にあったことなのかもしれません。

湯川博士は、戦前から既にその受賞理由である、中間子の存在の予言をしていましたが、そんな中の1935年(昭和10年)、すでに日中戦争中であった当時に、物理学の国際会議の最高峰、ソルベー会議に招かれ、このときにアインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つに至り、国際的に評価されたことが受賞原因になったともいわれています。

湯川博士の次にノーベル賞を受賞したのは、1965年の朝永振一郎博士(量子電気力学分野での基礎的研究で受賞)ですが、朝永博士もまた、ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学ぶなどの国際派でした。

湯川博士や朝永博士以降もぽつぽつと受賞者は出ていますが、あいかわらず日本人の国際化は進んでいなかったとも思われ、かつそうした内気な性格が国際的な偏見を解消するために支障となっていた、ということは確かにあるかもしれません。

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しかし、実は日本人としては、湯川博士以前にもノーベル賞の候補者が出たことがあります。

第1回のノーベル賞がそれで、既に北里柴三郎や野口英世などが候補としてエントリーされていました。しかし、受賞には至らず、野口に至っては、3度もノミネートされたのに、結局受賞を逃しました。

最初と2二度目に候補とされた時は、当時最大の成果とされた梅毒スピロヘータの純粋培養の追試に誰も成功せず、業績に疑問が持たれた事が影響したようです。また、エクアドルでの黄熱病研究が認められたのは3度目に候補とされた時ですが、この時も過去の研究との不一致から疑問が持たれた、とされています。

そして、同じくノーベル賞候補といわれた北里もまた、共同研究者であったベーリングが受賞し他のにもかかわらず、受賞を逸しました。

北里は、1890年(明治23年)に血清療法をジフテリア(ジフテリア菌によって起こる上気道の粘膜感染症)に応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。

これにより、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里の名前が挙がりましたが(15名の内の1人)、結果は抗毒素という研究内容を主導していた彼ではなく、共同研究者のベーリングのみが受賞しました。

北里が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や、選考に当たったカロリンスカ研究所が、北里は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイデアはベーリング単独で創出したと見なしたためでした。

賞創設直後の選考であり、のちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなども要因としてあげられています。が、このほかにも、北里に対する人種差別があったのではないかといわれており、野口英世が同じく受賞を逸した最大の理由は東洋人への差別意識であったのではないか、と取沙汰されています。

この北里柴三郎も野口英世も、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物です。野口英世に至っては、2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっているほどです。

実は二人は懇意の間柄であり、野口は北里研究所に研究員として勤務したことがあり、柴三郎とは形式上師弟関係です。

ともに幕末から明治初めの激動の時期に生まれており(北里は1853年(嘉永5年)、野口は1876年(明治9年))、明治人の気質を多分に持った人です。医学界の巨匠とも言える2人ですが、共通点があり、意外なことにそれは「女好き」という点です。

野口は、会津若松で書生をやっていた若いころ、洗礼を受けたキリスト教会で出会った6歳年下の女学生、山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送っていますが、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受けています。

また、渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となりました。さすがにアメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚したあとはその素行は直ったようですが、若いころは女遊びが大好きでした。

清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった際、国際防疫班に選ばれましたが、このとき用意された支度金96円(現在価値で40万円ほど)はすべて放蕩、すなわち花街での女遊びで使い果たしてしまっています。

一方、「日本の細菌学の父」として知られ、現在の東京大学医科学研究所や、北里大学北里研究所病院の創立者でもある北里も、実は大の女好きだったといわれています。新橋の近江屋とん子こと小川かつという、22歳の芸者を大金で身請けしており、当時は飯倉四ツ辻といわれていた、現在の港区飯倉に家を借りて住まわせ、ここに足しげく通っていました。

その後麻布町二番地丹羽五郎の旧宅を3千円(現・約1200万円)も払って購入して妾宅としており、下女まで雇って養っていたそうです。

もっとも、明治の初めのころまでは妾は法的にも認められていました。1870年(明治3年)に制定された法律では、妻と妾は同等の二等親と定められており、妻と妾が同等の権利をもった、ということではありませんが、「妾」の存在が公認されていました。

当時は、貧しい親が借金と引き換えに、娘を「芸妓・酌婦・娼妓」として「売る」という行為は合法でした。売られた彼女たちは、借金を返すためには売春をしなければならず、契約書には「借金返済のため、雇い主からの指示があれば、醜業を嫌がらずにします」という条項がありました。

こうした契約が法的にも認められていたわけですが、この法律はその後、1880年(明治13年)の改正でこの「妾」に関する条項が消えたため、その後認められなくなりました。

が、それ以前に入籍した妾は「すべて以前の通り取り扱う」とされて認められており、妾が全廃されるのは、1898年(明治31年)に戸籍法によって戸籍面からも完全に妾の字が消えてからです 。

しかし、法律が全廃されてからも明治から大正ころまでには、まだ妾を持っていてもまぁいいじゃないか、という雰囲気がありました。

妾を持つというのは、政治家や高級官僚のほか、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主などでしたが、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人でもあり、お殿様のような存在でもあったので、「まあまぁ、許される行為」とみなされていたようです。

高い地位にあるとされるような人は、むしろ堂々と妾を持つ、という雰囲気すらあったようであり、妾を持つことが成功のステータスというところもあったでしょう。研究者として成功し、かなりの財をなしていた北里もそうした一人でした。

しかし、その一方で日清戦争や日露戦争後の不況で苦しむ人々にとっては、女遊びや妾といった行為を好意的に見ようはずもなく、陰では彼等を成り上がり者として嫌い、蔑んだ目で見ていました。

上述の北里の妾に関する情報も、ジャーナリストの先駆けといわれる、黒岩涙香による「万朝報(よろずちょうほう)」という新聞におけるゴシップ記事によって庶民にもたらされたものです。毎号、こうした上流階級のスキャンダルが報じられるたびに同誌はバカ売れしたといいます。

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北里がその後この妾をどうしたのか、二人の間に子を設けたかどうか、といった情報をネットで探してみましたが、出てきませんでした。

北里と野口という医学界の巨匠がこうしたスキャンダルによってノーベル賞を逸したか、といったことも調べてみましたが、そんな話もないようです。

が、2015年の現在においては、賞を与えるにあたっての素行調査もあるでしょうし、過去において女性スキャンダルあるような人達をノーベル賞候補にあげる、といったことはとんでもないことなのかもしれません。

しかし、だからといって彼等の業績が揺るぐものではありません。

北里は、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)の創立者であり、また初代所長並びに北里大学の学祖でもあります。先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した、大村智さんは、北里の創立した北里大学の教授を長く勤め、ここでその受賞の要因となる研究の基礎を仕上げました。創設者の北里柴三郎の恩恵を受けた一人といえるでしょう。

また、福沢諭吉とも親交の深かった北里は、その晩年には、福沢との長年の恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となっています。

さらに明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらでしたが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会を誕生させました。

しかし、1931年満78歳で脳溢血により没。1931年には、勲一等旭日大綬章を受けています。しかし、その功績の割には、野口ほど人気がないのはなぜでしょうか。あるいは、比較的裕福な家に生まれ育った上、厳格な人だったようなので、野口英世ほどの人間味が感じられないからかもしれません。

一方の野口英世はわずか51歳の若さで亡くなっていますが、その若いころの奔放なエピソードなども語り継がれ、貧しかった家庭から努力して偉人になった人、として敬われています。渡米して、海外で実績を上げた、という点では、最近のノーベル賞受賞者のような国際派の先駆けともいえます。

北里柴三郎もまた、ドイツベルリン大学へ留学してコッホに師事し業績をあげており、国際的にも認知度の高い人でした。現在のように日本人が海外へ積極的に出かけて行って実績を作る、という雰囲気を作ったのは、もしかしたらこの二人の功績なのかもしれません。

なので、今後もし、日本版のノーベル賞ができたとしたら、この二人はぜひともその受賞者に推薦したいところです。

女好き、という欠点があったとしても……ですが、その点、日本人が世界にも認めてもらえるようになったこの時代には、日本ルールとして認めてもらってもいいのかもしれません。日本ノーベル賞候補者は、二人まで妾を持つことが許される、あるいは持つことを受賞条件とする……とか。

……さて。

このあとさらなるノーベル賞の発表も控えているようですが、日本人の受賞はあるでしょうか。期待したいところです。

が、私としてはもっと気になるのは、今晩の広島×中日のセリーグ最終戦。広島は果たしてクライマックスシリーズに進出できるでしょうか?

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