ノーベル賞と妾

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今日明日は、「寒露」と呼ばれる季節のようです。

「露が冷気によって凍りそうになるころ」ということで、雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギなどが鳴き始めるころだとされます。

このあと、さらに月末ころには「霜降」となり、紅葉が始まるとともに木枯らしが吹きはじめます。

毎年、この時期になるとノーベル賞の各賞が発表になります。そして今年は、昨日、一昨日と二人の日本人が受賞し、歓喜の声で列島が揺れています。

このあと、今日にはノーベル化学賞の発表があり、何人かの日本人候補の受賞が取沙汰されているようです。さらにはノーベル文学賞の候補、村上春樹さんの受賞もあるのではないかと噂されており、そのいずれかでまた受賞が実現すれば、トリプルでの受賞となり、本邦初となります。あるいは、4人とも同年受賞という快挙もありうるかも。

それにしてもこれまでいったい何人の日本人が受賞しているのかな、と改めて調べてみると、今回の受賞を含めて過去に25人もの受賞者がおり、この数は非欧米諸国の中で最も多いそうです。

自然科学系に限れば22人となり、この数は、欧米もすべて含めたすべての順位では、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに次いで5位であり(2014年まで)、アメリカの250人、イギリスの78人は別格としても、フランスの31人に迫る勢いです。

ちなみに、人文文化系の3人は、文学賞の川端康内と大江健三郎、平和賞の佐藤栄作になります。日本がこれまで受賞したことのないのは、ノーベル経済学賞だけです。

なぜ、日本人はいつも経済学賞を受賞できないかについて調べてみたところ、賞に値する人は日本にも何人もいるものの、たまたま受賞のタイミングがこれまでなかっただけで、いつ日本に来ても不思議ではないという見方があるようです。その一方で、日本のこれまでの経済学者は、欧米の学者の追随者や解説者が多いからだという意見もあります。

今日の世界が直面している根源的な経済現象に対し、独創的な分析や解決法を理論的に提示し得ていないからではないか、ということがいわれているようですが、なるほど借金の額は世界一だし、長びいている不況から抜け出せないのも、アイデアに優れた経済学者がいないからなのかもしれません。

一方の、科学部門で日本人が実際に受賞したのは、第二次世界大戦終結後の湯川秀樹が初めてであり、敗戦直後の日本国民に大いに自信を与えました。以後、毎年とはいいませんが、自然科学部門では数年に一回の受賞を繰り返すようになり、21世紀に入ってからはほとんど毎年のように誰かが受賞するといったペースとなり、現在に至っています。

これほどまでに受賞のラッシュが起こっている理由としては、それはやはり科学技術に対する長年の投資効果が最近になってようやく出てきたからだろう、というのがもっぱらの見方のようです。

また、ノーベル賞受賞の基準としては、ノーベル委員会は、最低20~30年以上の累積的な業績を見るそうで、日本の場合、ようやくその基準に合致してきたということがあるようです。お隣の韓国では金大中氏が2000年に平和賞を受賞した以外、科学部門では受賞がありません。

これは、科学技術開発の歴史はあまりにも短い、ということがいわれているようです。韓国の場合、1966年の韓国科学技術研究所(KIST)の設立からわずか50年足らずということもあり、国の研究開発事業費規模の面でも80年代初頭まで100億ウォン(約10億円)水準にとどまっていたそうです。

基礎研究ではなく、産業化のために取り急ぎ目先の技術に関する開発研究だけが急がれていたことなども、ノーベル賞受賞者を輩出できていない理由のようです。

これは中国や台湾も同じであり、台湾は3人の科学部門の受賞者、中国は一人だけです。中国は他に2人の受賞者がいますが、このうち一人は、体制側の文学者、莫言(モー・イエン・文学賞受賞)であり、もう一人は、反体制派の活動家、劉暁波(リュウ・シャオボー・平和賞)氏です。

劉氏に至っては、2010年に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり、現在も遼寧省錦州市の錦州監獄で服役中です。

ノーベル平和賞の選考で劉が候補となった時点で、中国政府はノルウェーのノーベル賞委員会に対して「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道されていました。

このように、平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがわりと多く、このため、その度に受賞者の国の政府から反発を受けています。ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキーもしかり、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフもしかりです。

かつて中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世の受賞に、中国が反発したということもありました。また、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチーも政府によって弾劾されています。

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ま、それはともかく、こうした文系部門を除いた自然科学分野においては、日本は既にノーベル賞自体の提唱国、スウェーデンの受賞者数を抜き去っており(2014年時点、スウェーデンは自然科学部門で16人)、ほかにスイスやオランダ、イタリアやオーストリアといった先進国よりも多くの受賞者を出しています。

これからも科学技術の国、として胸を張って世界に名乗っていけるでしょうし、他国もそうした優れた人材を多数輩出している我が国の技術力を認め、尊重してくれるに違いありません。私もかつては技術者の端くれでしたから、大変名誉なことに思います。

ところで、昨日、ニュートリノに質量があることを突き止めたことでノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章さんは、東大大学院時代、2002年に同じく物理学賞を受賞した小柴昌俊さんの研究室の一員でした。

その後、加速器実験に興味を持ち、卒研にいそしみながら、ニュートリノ施設「カミオカンデ」の開発に携わり、カミオカンデでは建設作業に汗を流し、現場でケーブルの敷設などを行っていたそうです。

修士論文もカミオカンデの装置がテーマだったそうで、1998年、スーパーカミオカンデでニュートリノ振動を確認し、ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した戸塚洋二さんは、ともに小柴博士の弟子でした。梶田さんの兄弟子ともいえる存在で、同じくスーパーカミオカンデの完成に尽力した人です。

梶田さんとともに、有力なノーベル賞候補と目されていましたが、2008年に直腸ガンのため亡くなりました(66歳没)。師匠の小柴さんは、その戸塚さんの告別式での弔辞で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と発言しており、ノーベル賞受賞のノミネートを期待されながら亡くなったその早い死去を惜しみました。

しかし、今回、もう一人の愛弟子、梶田さんがノーベル物理学賞を受賞したことで、戸塚の果たせなかった夢を実現させる形となりました。生前受賞できなかったことは、ご本人もさぞかし残念だったことでしょうが、あちらの世界でさぞかし喜んでおられることでしょう。

それにしても、このように亡くなった人にはノーベル賞は与えられないのかな、と調べてみました。

そうしたところ、やはりノーベル賞は「本人が生存中」が受賞条件なのだそうです。かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、実際、そうしたケースもあったようです。1931年の文学賞、1961年平和賞の2例があります。

しかし1973年からは、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要がある、とされました。が、さらにその後、ノミネートされていれば、発表があった時点で死亡していても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されませんでした。

また、2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明しました。しかし、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになりました。

とはいえ、今回の受賞に先立ち、7年も前に亡くなっている戸塚さんの場合では、亡くなった当時にはノミネートもなく、残念ながらこの規定により、受賞は認められません。

各国の軍隊などでは死後にその階級が特進する、といったことがあり、また、日本の勲章も死後に授与されることもあるようですから、このように長年の研究に身を捧げて亡くなった研究者に対して何等かの救済措置はないのかな、と思ったりもします。

ノーベル賞では、現段階ではそうした仕組みはないようですが、賞を与える理由についても長年の間に少しずつ変わってきているようなので、将来的にはそうしたことも考慮に入れられるようになるのかもしれません。

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しかし一方では、このように日本人が受賞を逃す要因として、研究者側にも問題がないとはいえないようです。

ノーベル委員会が一次選考で受賞候補者を探す際、その候補者がいる国の研究者や過去の受賞者に、推薦状を出してくれるように依頼をするのだそうですが、それに対する返信率が、日本の場合は他国と比べて非常に低いのだといいます。それだけ、日本人の場合はノミネートに対して無頓着だ、という現実があるということのようです。

こうしたことがあまりにも多いので、いつだかノーベル委員会委員が来日した際、日本の科学技術審議会にこの点について苦言を呈したそうです。日本の研究者は、せっかく世界最先端の研究をやっているのだから、もう少しその研究内容をアピールする、ということを覚える必要があるのかもしれません。

が、これについては、かつての日本人研究者は英語などの外国語が苦手であった、ということなども関係しているのかもしれません。日本も一応、英語は義務教育で教えられてはいますが、外国のように日常的にこれを使って生活する、というレベルにはまだありません。

ところが、最近の日本人の受賞者の中には自分の専門を深めるために諸外国へ出かけて行って研鑽する人が多く、このため英語を初めとする外国語に堪能な方も多いようです。最近、急に受賞率が高くなってきている理由のひとつには、このように日本人研究者の国際化がより進んでいる、ということも関係しているのかもしれません。

これに対して、昔の研究者はいかにも外国語が苦手、という人が多くいました。かつて、1970年に北海道大学理学部の化学第二学科助教授だった、大澤映二さんという人がいました。

彼は、それまで存在が確認されていなかった、フラーレン (fullerene C60) という、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の同素体の存在を理論的に予言したものの、英語論文にせず邦文でのみ発表しました。そのため、1996年のノーベル賞を逃したといわれています。

この顛末は、この当時のイギリスの科学雑誌「ネイチャー」にも掲載されたといい、こうした日本人の英語下手は、かなり有名な話のようです。また、世界初のビタミンB1単離に成功した鈴木梅太郎も、ドイツ語への翻訳で「世界初」が誤って記されなかったため注目されず、1929年のノーベル賞を逃したといわれています。

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ただ、これよりさらに以前のノーベル賞候補者と言われるような優秀な日本人の多くは、語学にも堪能な人が数多くいました。

たとえば、1915年に世界初の人工癌発生に成功した、日本の病理学者、山極勝三郎は、28才でドイツに留学しており、このため非常にドイツ語に堪能でした。

帰国後に東京帝大医学部教授に就任。病理解剖学を専攻し、特に癌研究では日本の第一人者でした。ウサギの耳にコールタールを塗布し続け、人工癌の発生に成功し、ノーベル賞候補といわれました。が、1926年のノーベル賞は癌・寄生虫起源説のヨハネス・フィビゲルに授与されました。

ノーベル賞委員会では、当初、共同受賞、という意見もあったようですが、フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、「発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、当初の意見を変更し、フィビゲルの単独受賞を決めました。

選考委員の一人、フォルケ・ヘンシェンは、その後1966年に来日し、東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱した者です。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べたそうです。

このときの会見でヘンシェンはまた、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々となされていたことも明かしたといいます。

すなわち、この当時には、語学力云々よりも、日本人に対する偏見のようなものが多少なりともあったことがノーベル賞の受賞を阻む原因であった、ということなどが推察されます。

日本人としての初受賞は、1949年(昭和24年)の湯川秀樹博士ですが、その後23年もの間受賞がもたらされなかったのも、かつてはこうした偏見があり、それがぬぐえなかった、ということが実際にあったことなのかもしれません。

湯川博士は、戦前から既にその受賞理由である、中間子の存在の予言をしていましたが、そんな中の1935年(昭和10年)、すでに日中戦争中であった当時に、物理学の国際会議の最高峰、ソルベー会議に招かれ、このときにアインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つに至り、国際的に評価されたことが受賞原因になったともいわれています。

湯川博士の次にノーベル賞を受賞したのは、1965年の朝永振一郎博士(量子電気力学分野での基礎的研究で受賞)ですが、朝永博士もまた、ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学ぶなどの国際派でした。

湯川博士や朝永博士以降もぽつぽつと受賞者は出ていますが、あいかわらず日本人の国際化は進んでいなかったとも思われ、かつそうした内気な性格が国際的な偏見を解消するために支障となっていた、ということは確かにあるかもしれません。

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しかし、実は日本人としては、湯川博士以前にもノーベル賞の候補者が出たことがあります。

第1回のノーベル賞がそれで、既に北里柴三郎や野口英世などが候補としてエントリーされていました。しかし、受賞には至らず、野口に至っては、3度もノミネートされたのに、結局受賞を逃しました。

最初と2二度目に候補とされた時は、当時最大の成果とされた梅毒スピロヘータの純粋培養の追試に誰も成功せず、業績に疑問が持たれた事が影響したようです。また、エクアドルでの黄熱病研究が認められたのは3度目に候補とされた時ですが、この時も過去の研究との不一致から疑問が持たれた、とされています。

そして、同じくノーベル賞候補といわれた北里もまた、共同研究者であったベーリングが受賞し他のにもかかわらず、受賞を逸しました。

北里は、1890年(明治23年)に血清療法をジフテリア(ジフテリア菌によって起こる上気道の粘膜感染症)に応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。

これにより、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里の名前が挙がりましたが(15名の内の1人)、結果は抗毒素という研究内容を主導していた彼ではなく、共同研究者のベーリングのみが受賞しました。

北里が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や、選考に当たったカロリンスカ研究所が、北里は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイデアはベーリング単独で創出したと見なしたためでした。

賞創設直後の選考であり、のちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなども要因としてあげられています。が、このほかにも、北里に対する人種差別があったのではないかといわれており、野口英世が同じく受賞を逸した最大の理由は東洋人への差別意識であったのではないか、と取沙汰されています。

この北里柴三郎も野口英世も、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物です。野口英世に至っては、2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっているほどです。

実は二人は懇意の間柄であり、野口は北里研究所に研究員として勤務したことがあり、柴三郎とは形式上師弟関係です。

ともに幕末から明治初めの激動の時期に生まれており(北里は1853年(嘉永5年)、野口は1876年(明治9年))、明治人の気質を多分に持った人です。医学界の巨匠とも言える2人ですが、共通点があり、意外なことにそれは「女好き」という点です。

野口は、会津若松で書生をやっていた若いころ、洗礼を受けたキリスト教会で出会った6歳年下の女学生、山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送っていますが、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受けています。

また、渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となりました。さすがにアメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚したあとはその素行は直ったようですが、若いころは女遊びが大好きでした。

清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった際、国際防疫班に選ばれましたが、このとき用意された支度金96円(現在価値で40万円ほど)はすべて放蕩、すなわち花街での女遊びで使い果たしてしまっています。

一方、「日本の細菌学の父」として知られ、現在の東京大学医科学研究所や、北里大学北里研究所病院の創立者でもある北里も、実は大の女好きだったといわれています。新橋の近江屋とん子こと小川かつという、22歳の芸者を大金で身請けしており、当時は飯倉四ツ辻といわれていた、現在の港区飯倉に家を借りて住まわせ、ここに足しげく通っていました。

その後麻布町二番地丹羽五郎の旧宅を3千円(現・約1200万円)も払って購入して妾宅としており、下女まで雇って養っていたそうです。

もっとも、明治の初めのころまでは妾は法的にも認められていました。1870年(明治3年)に制定された法律では、妻と妾は同等の二等親と定められており、妻と妾が同等の権利をもった、ということではありませんが、「妾」の存在が公認されていました。

当時は、貧しい親が借金と引き換えに、娘を「芸妓・酌婦・娼妓」として「売る」という行為は合法でした。売られた彼女たちは、借金を返すためには売春をしなければならず、契約書には「借金返済のため、雇い主からの指示があれば、醜業を嫌がらずにします」という条項がありました。

こうした契約が法的にも認められていたわけですが、この法律はその後、1880年(明治13年)の改正でこの「妾」に関する条項が消えたため、その後認められなくなりました。

が、それ以前に入籍した妾は「すべて以前の通り取り扱う」とされて認められており、妾が全廃されるのは、1898年(明治31年)に戸籍法によって戸籍面からも完全に妾の字が消えてからです 。

しかし、法律が全廃されてからも明治から大正ころまでには、まだ妾を持っていてもまぁいいじゃないか、という雰囲気がありました。

妾を持つというのは、政治家や高級官僚のほか、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主などでしたが、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人でもあり、お殿様のような存在でもあったので、「まあまぁ、許される行為」とみなされていたようです。

高い地位にあるとされるような人は、むしろ堂々と妾を持つ、という雰囲気すらあったようであり、妾を持つことが成功のステータスというところもあったでしょう。研究者として成功し、かなりの財をなしていた北里もそうした一人でした。

しかし、その一方で日清戦争や日露戦争後の不況で苦しむ人々にとっては、女遊びや妾といった行為を好意的に見ようはずもなく、陰では彼等を成り上がり者として嫌い、蔑んだ目で見ていました。

上述の北里の妾に関する情報も、ジャーナリストの先駆けといわれる、黒岩涙香による「万朝報(よろずちょうほう)」という新聞におけるゴシップ記事によって庶民にもたらされたものです。毎号、こうした上流階級のスキャンダルが報じられるたびに同誌はバカ売れしたといいます。

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北里がその後この妾をどうしたのか、二人の間に子を設けたかどうか、といった情報をネットで探してみましたが、出てきませんでした。

北里と野口という医学界の巨匠がこうしたスキャンダルによってノーベル賞を逸したか、といったことも調べてみましたが、そんな話もないようです。

が、2015年の現在においては、賞を与えるにあたっての素行調査もあるでしょうし、過去において女性スキャンダルあるような人達をノーベル賞候補にあげる、といったことはとんでもないことなのかもしれません。

しかし、だからといって彼等の業績が揺るぐものではありません。

北里は、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)の創立者であり、また初代所長並びに北里大学の学祖でもあります。先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した、大村智さんは、北里の創立した北里大学の教授を長く勤め、ここでその受賞の要因となる研究の基礎を仕上げました。創設者の北里柴三郎の恩恵を受けた一人といえるでしょう。

また、福沢諭吉とも親交の深かった北里は、その晩年には、福沢との長年の恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となっています。

さらに明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらでしたが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会を誕生させました。

しかし、1931年満78歳で脳溢血により没。1931年には、勲一等旭日大綬章を受けています。しかし、その功績の割には、野口ほど人気がないのはなぜでしょうか。あるいは、比較的裕福な家に生まれ育った上、厳格な人だったようなので、野口英世ほどの人間味が感じられないからかもしれません。

一方の野口英世はわずか51歳の若さで亡くなっていますが、その若いころの奔放なエピソードなども語り継がれ、貧しかった家庭から努力して偉人になった人、として敬われています。渡米して、海外で実績を上げた、という点では、最近のノーベル賞受賞者のような国際派の先駆けともいえます。

北里柴三郎もまた、ドイツベルリン大学へ留学してコッホに師事し業績をあげており、国際的にも認知度の高い人でした。現在のように日本人が海外へ積極的に出かけて行って実績を作る、という雰囲気を作ったのは、もしかしたらこの二人の功績なのかもしれません。

なので、今後もし、日本版のノーベル賞ができたとしたら、この二人はぜひともその受賞者に推薦したいところです。

女好き、という欠点があったとしても……ですが、その点、日本人が世界にも認めてもらえるようになったこの時代には、日本ルールとして認めてもらってもいいのかもしれません。日本ノーベル賞候補者は、二人まで妾を持つことが許される、あるいは持つことを受賞条件とする……とか。

……さて。

このあとさらなるノーベル賞の発表も控えているようですが、日本人の受賞はあるでしょうか。期待したいところです。

が、私としてはもっと気になるのは、今晩の広島×中日のセリーグ最終戦。広島は果たしてクライマックスシリーズに進出できるでしょうか?

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陽射しを浴びて


12月の日々が一日、また一日と過ぎていきます。

この時期の日本は広く太平洋高気圧に恵まれ、青く晴れ渡った空の下、ぽかぽかとした陽射しに恵まれて、なんとなく幸せな気分になります。

自然の太陽光や風や自然に触れてリラックスすることを目的として日向ぼっこをする人も多いと思います。例えばテラスやバルコニー、縁側などの陽のよく当たる場所に腰かけて、庭木を見たり、音楽を聴いたり、軽食を楽しむのは、秋から冬にかけてのこの時期のとびっきりの贅沢という気もします。

医学的にみてもひなたぼっこは意味があるようです。日光を浴びることで紫外線の働きで血中のコレステロールがビタミンDに変わります。ビタミンDは骨や歯の形成に不可欠であり、欠乏すると「くる病」などの障害をもたらします。

ビタミンD不足は日照量が少ない地域の風土病といえ、欧州人が白い肌をもつに至った原因です。このため、ヨーロッパでは日光浴が推奨され、習慣となっています。

動物にもひなたぼっこを好むものが多いようです。例えば鳩は冬場に集団で固まってひなたぼっこする傾向があり、またカメやワニも甲羅干しをします。

こうした爬虫類は変温動物であるためにひなたぼっこをしないで体温が下がると動けなくなってしまうためです。また、水中より体力を温存出来るのでえさが多くなる時間帯まで陸上で待つことや、カメの場合、甲羅についた寄生虫やカビや細菌を死滅させることも目的としているようです。

一方、多くの哺乳類や鳥類では、毛皮や羽根が紫外線の皮膚への到達を妨げています。ただし、皮膚から毛皮や羽根に皮脂を分泌し毛繕いすることによって口からビタミンDを摂取していることはよく知られています。

猫もまた、皮膚から毛皮や羽根に皮脂を分泌し毛づくろいすることによって口からビタミンDを摂取しているとの説があります。我が家のテンちゃんを見ていると、晴れた日には陽射しを浴びながら、まぁなんともきれいに体の隅から隅までていねいに舐めています。

この猫の目の色も日光に影響されてその色が決まってきたそうです。

ネコの虹彩は、目の大きさの中でかなり大きな割合を占めており、人間でいう「白目」(球結膜)は通常見られません。ネコの眼の色、といった場合、普通は虹彩の色を指します。この虹彩の色は、色の濃淡などの違いがあるものの、おおむね、カッパー(銅)、ヘーゼル(薄茶)、緑、青4種類に分けられます。

青い眼は白猫とシャム系のネコに多いようです。白猫の場合はオッドアイと言われ、高い割合で聴覚障害を持っているそうです。左右の眼の色が違う場合も多く、この場合、青い眼の側の耳に聴覚障害を抱えることがあるといいます。

一方が黄色で、もう一方が黄味のない淡銀灰色、あるいは淡青色というオッドアイの白ニャんは、日本では「金目銀目」と呼ばれ、縁起が良いものとして珍重されてきました。

これらの眼の色の違いは、虹彩におけるメラニン色素の量で決まり、色素が多い順にカッパー、ヘーゼル、緑、青となるようです。人間など他の哺乳類の眼もこの傾向は同様だといいます。メラニンの少ない欧米人は青や緑色の目をしています。

この色素の量の違いは、元々生息していた地域の日光量の違いに由来すると言われ、日光量が多い地域では色素が多くなります。が、長い間の交雑の結果、現在では地域による違いはほとんどなくなっています。ただ、シャムネコの青い眼は北アジア由来と言われ、熱帯のタイが原産らしく、それが現在まで受け継がれている稀なケースです。

生まれて間もない仔猫の場合、品種に関わらず、虹彩に色素が沈着していない場合が多く、青目に見えることが多いものですが、これは「キトゥン・ブルー(Kitten Blue)」といい、その意味は「仔猫の青」です。生後7週間くらいから虹彩に色素がつき始め、徐々に本来の眼の色になっていきます。

ちなみにウチのテンチャンは、子供のころから薄い緑色の目をしています。目が青かったような記憶はありません。が、気が付かなかっただけかも。今、脇のイスの上で気持ちよさそうに日向ぼっこをしていますが、そのつぶらな目を閉じて気持ちよさそうです。

このように、太陽光は動物とっては身体の成長や代謝に必要な物質の合成を行うとともに、身体的な特徴を形作る上で大切なものです。また、植物にとってもそれ以上に光合成の上などでも非常に重要な意味を持ちます。

しかし、太陽光を浴びるのは紫外線を照射されるので夏場はやめておいたほうが良いということもよくいわれます。ただ、夏場に日光を浴びて汗をかくことで、新陳代謝や体温調節といった機能を活発にさせるという良い面もあるようです。前述のようにビタミンDの生成といった重要な意味もあります。

日焼けしないようにうまく太陽光を浴びるには、午前10時から午後3時の日光で、週に2回程度、時間も5分から30分の間だけ浴びるようにします。この程度なら日焼け止めクリームは必要ないそうで、顔、手足、背中への日光浴で十分な量のビタミンDが体内で生合成され、紫外線の影響は少ないそうです。

さらには、日光を受ける事は、体内時計の調整を行う働きもあり、リラックス以上に体内機能の保持に必要な面もあります。自律神経の失調症などでも、適度な日光浴が勧められており、病院での不眠症治療では戸外活動で定期的に日光浴を勧められる場合もあるようです。

適度な日光浴は健康維持の上で有効であり、精神衛生上も好ましい影響も見られるため、健康法の中にも適度な日光浴を勧める専門家も多いとのことです。

とはいえ、冬の間は雪に閉ざされてしまう日本海側ではそういうわけにもいかず、また梅雨時には太陽光が不足がちです。こうしたことから、人工的に日光浴をするための方法も開発され、最近は日焼けサロンなどのように特別な紫外線照射装置によって発生した人工日光を浴びる施設も存在します。

こと緯度の高い地域では長い冬の期間という気候条件の関係もあり、北欧などでは極めて積極的に日光浴を行う文化・習慣・風俗も見られるほか、日焼けマシンの売り上げなども上々のようです。

しかし、機械によるものだけでなく、太陽光も含めて過度の日照を受けることはやはり危険です。体温の過剰な上昇から熱中症を引き起こし、また日焼けも度を過ぎれば熱傷となり皮膚炎を引き起こすほか、紫外線の過剰照射は皮膚ガンを引き起こし、そこまで行かなくてもシミや皺など肌の加齢に伴う劣化と同様のトラブルを招きます。

紫外線は破壊力が強く人体の細胞を破壊したり変質させたりするためであり、これを避けるためには上述のように時間を決めて急激な日焼けを避ける事や、日差しの強い日は日光浴を避けることなどが肝要です。

直射日光を目に受けると、視力が低下する場合もあるといいます。特に目の色素が少ない青い目の白人などは、日本の5月頃の日差しでも目を傷める場合もあるそうです。このため、サングラスなどで目を保護する必要があり、これが欧米人がサングラスをよくしている理由です。

日本人でも夏場には直射日光を避けるためにはサングラスをすることには意味があります。子供たちが我慢くらべで太陽を凝視したりすることなどもあろうかと思いますが、危険ですから絶対にやらせないようにしましょう。

さて、この太陽光は地球における生物の営みや自然に多大な影響を与えてきており、とくに人類は、太陽の恵みとも言われる日の光の恩恵を享受してきました。

太陽光の発生のメカニズムはこうです。まず、太陽中心部における水素の核融合により、ガンマ線が発生します。ガンマ線は、1500万Kという高温のために固定されずに飛び交っている電子や陽子により直進を阻害されます。直進を阻害されたガンマ線は、近くのガスに吸収され、このときガス雲からはエックス線が放出されます。

このエックス線もまた、ガスへの吸収と放出を繰り返しながら太陽中心部から表面に向かい、そして太陽外縁部に到達した頃には、周波数が下がり可視光線や赤外線、紫外線となります。そして太陽の外側部からは可視光線とともに赤外線、紫外線などが太陽光として放射されるのです。

太陽光が太陽から放たれて地上に到達するまでの時間は、およそ8分17~19秒だそうで、これは太陽と地球の半径、光速から計算できるそうです。

地球に到達した太陽光線の1時間あたりの総エネルギー量は20世紀後半の世界の1年間で消費されるエネルギーに匹敵するほど膨大なもので、そのエネルギーの地上での内訳は、地上で熱に変わってしまうエネルギーが約45%、海中に蓄えられるエネルギーが20数%であり、その大半を占めます。

このほか風や波を動かす原動力へ変わるエネルギーは0.2%程度と少なく、さらには光合成に使われるエネルギーは0.02%程度にすぎません。これ以外の30%ほどは、地球に届いても宇宙へ反射してしまうそうで、可視光や赤外線などの電磁波として宇宙へ再放射されていきます。

こうした太陽光からもたらされ変換された熱エネルギーは、気象現象の駆動力として働き、地球上のさまざまな場所に雨や風をもたらすことに寄与しています。また、植物や植物プランクトンは光合成によって必要な酸素やエネルギーを産生し、この青い地球の維持に努めています。

上で書いたように動物もまたその様々な恩恵を受け、太陽光を浴びることによって直接的に体温維持を行っているものもいます。また、日射量の変化つまり昼夜の移り変わりは、生物の活動に多大な影響を与えています。

とくに人間は太陽光によって地上に到達したエネルギーを活用しており、直接的、間接的を問わずその生活には欠かせないものです。古代における利用法としては、物を乾かす、干す、濡れた衣類を乾かす事や、土器を乾かして作る、乾かして殺菌する、食物を干してつくる乾物への利用などでした。

また、太陽光は長い間農耕と牧畜に寄与してきており、穀物を乾かすためにも使われてきました。人類は、その初期のころに太陽光を使って火を起ことを発見し、これは現在におけるオリンピックの聖火の点火にも受け継がれています。

人類における数々の発明にも寄与してきました。日時計は、太陽の傾きを太陽光を利用して時刻として利用したものであり、これが現在我々が使っている時間という観念を生み出しました。鏡もまた、身体を映し出すだけでなく、太陽光を採光することで合図、伝言目的で使用され、これが色々な信号に変わっていきました。

さらには、カメラやレンズ、望遠鏡、顕微鏡など光学機械を産みだしたのも太陽光であり、近代において忘れてはならないのが「発電」への寄与です。

最近クリーンなエネルギーとして見直されてきている、太陽光発電・太陽熱発電は、太陽光のエネルギーを、太陽電池やタービンを用いて電力に変えるものです。

古くから使われてきた水力発電もまた、河川の流れは太陽光によって温められた雨雲が降らせた雨によってもたらされと考えれば太陽からの恩恵を受けたものです。太陽光が暖めた空気の流れである風によって羽根を動かして発電する風力発電もまたしかりです。

現段階では実用化にはまだ遠いようですが、波力発電もまた海面の上下は太陽によって引き起こされた風に煽られた波のうねりを利用しています。海流発電もまた、太陽に温められた海水の循環を利用しているわけです。ちなみに、潮力発電だけは太陽ではなく月の引力を利用しているので太陽光とは無関係です。

近年着目されているのが、バイオマス発電です。植物は、太陽光のエネルギーを用いて光合成を行い成長しますが、この植物由来の生産物である穀物や木材などを利用した発電法です。

旧来の薪や炭などの利用に加え、バイオマスエタノール、バイオディーゼルなど各種のバイオマス燃料の利用も拡大しています。バイオマスエタノールとは、サトウキビやトウモロコシなどのバイオマスを発酵させ、蒸留して生産されるエタノールを指します。

また、バイオディーゼルとは、バイオディーゼルフューエルの略で、植物・生物由来の油から作られるディーゼルエンジン用燃料(BDF、Bio Diesel Fuel)の総称です。

ディーゼルエンジンは、元々は落花生油を燃料とし、圧縮熱で燃料に点火するエンジンとして19世紀末に発明されたものであり、バイオディーゼルを燃料として使用することを想定していたということは意外と知られていません。

しかし落花生の生産は天候に左右され供給が不安定であったこと、当時ルーマニアなどで油田が発見され軽油や重油などの鉱物油が本格的に入手できるようになったことなどから、ディーゼルエンジンの燃料はバイオディーゼルから化石燃料へシフトしていきました。

近年、地球温暖化対策として再びこのバイオディーゼル燃料が注目されています。

原料としては、菜種油、パーム油、オリーブ油、ひまわり油、大豆油、コメ油、ヘンプ・オイル(大麻油)などの植物油に加え、魚油や豚脂、牛脂などの獣脂及び廃食用油(いわゆる天ぷら油等)など、様々な油脂がバイオディーゼル燃料の原料となりえます。

欧州では菜種油、中国ではオウレンボク等、北米及び中南米では大豆油、東南アジアではアブラヤシやココヤシ、ナンヨウアブラギリから得られる油が利用されており、軽油に混合しない状態での性状を欧州規格として規定しています。

日本においては、従前、バイオディーゼル燃料についての規格が存在していませんでしたが、近年これを一般自動車用の燃料として使用する動きがあることから、欧州規格を参考としつつ規格化が検討され、BDF混合軽油を一般のディーゼル車に用いる場合の法律が改正され平成19年から施行されています(揮発油等の品質の確保等に関する法律施行規則)。

しかし、バイオディーゼルは、確かに化石燃料に代わるものとして着目はされてはいますが、これを純度100%か、または軽油と一定割合で混合して使用すると、低温では粘度が高くなり、特に冬季にバイオディーゼル100%で使用すると、燃料経路内で固まってしまうなどの問題があります。

このほか、原料となる油脂はそれぞれ性状が異なり、菜種油、ひまわり油などは酸化しやすいなどの性状があります。このほか廃食用油は様々な油脂が含まれうるものであることから、小規模での製造では製品の品質が極めて不安定なものになりやすく、品質を安定させるためには一定程度大規模なプラントで製造を行う必要があります。

このため、上記法律ではこうして精製販売される混合軽油について満たすべき基準が設けられており、軽油販売業者はこの基準を満たさないものを自動車の燃料用として消費者に販売してはならないことになっています。

また、バイオディーゼル燃料を軽油等と混和して販売したり、自動車の使用者自らがバイオディーゼル燃料を購入又は製造して軽油等と混和して使用する場合、「軽油引取税」の課税対象となります。

しかし、そんなものにまで税金をかけていたのでは、化石燃料に代わる植物由来の燃料の普及を妨げてしまいます。

現行の日本の税法に抵触することなく、非課税でバイオディーゼル燃料を自動車に使用するためには、軽油等を混和させずに100%バイオディーゼル燃料でエンジンを作動させる必要があります。

ただこの場合、軽油とバイオディーゼル燃料の両方を使用可能な車両では、燃料タンクを分離させ、エンジンへの配管途中で弁による切り替えを可能として、燃料の混合を防止させなければなりません。

そんな七面倒くさいことをすれば自動車製造のコスト高になるというわけで、日本の自動車メーカーがこれを後押ししないのはこのためです。

せっかくいい燃料があるのに、冬場にBDFを使った自動車の故障による渋滞が増えることを恐れるお役人が課した制限が、自動車メーカーにその開発にあたっての二の足を踏ませているのは馬鹿げています。

さらに法律を改正してこうしたバイオ燃料には一切税金がかからなくするとともに、化学メーカーには安定したバイオ燃料を開発できるよう政府資金援助を与え、さらには冬でもスタックしない優れた植物燃料車の開発を自動車メーカーにさせるべきだと私は思います。

一方では、気候変動枠組条約に基づき地球温暖化防止のため策定された京都議定書では、生物・植物由来となる燃料については二酸化炭素の排出量が計上されないこととなっています。

すなわち、化石燃料を燃焼させることは、それに含まれる炭素を二酸化炭素として大気中に新たに追加させることになりますが、バイオディーゼルはその原料となる動植物、とくに植物が光合成により大気中の二酸化炭素を吸収していることから、これらから作られる燃料を燃焼させても元来大気内に存在した以上の二酸化炭素を発生させることはありません。

こうした考え方を「カーボンニュートラル」といい、これによれば、バイオディーゼル燃料は太陽光や風力などと同じく、再生可能エネルギーに位置づけられることになります。

が、通商産業省などは、原料として日本が大量に輸入することになるパーム椰子の原産国であるマレーシアやインドネシアにおいて、ヤシ畑開発のために森林破壊が進行してしまい、引いてはこれが環境破壊を進行させてしまう、と言っているようです。

確かに、ブラジルなどではより収益率の高いバイオ燃料生産のためオレンジ生産などが転換され、それによる果実、穀物の供給不足、高騰が起こっており、食料を燃料として消費する事に対する疑念、批判も起こっているのは確かです。

しかし、そこはなんとか解決するのが世界最先端の環境技術を持っているといわれる日本の技術力と外交力です。新たな環境破壊を起こさないような別の植物資源の開発によるバイオ燃料生産の推進と、よりクリーンな自動車の創造を両立させてみせることによって、日本の底力を世界にみせていくべきでしょう。

ただ、こうした規制はあるものの、近年バイオディーゼルの利用は拡大しつつあります。京都市など一部の自治体では既に、車両改造や定期的なメンテナンスを行うなどの対策を講じた上で、ゴミ収集車や市営バスなどの燃料としてバイオディーゼル燃料を使用しています。

ほかにも愛知県東栄町で、町内で発生した廃食用油から作ったバイオディーゼルを2004年から公用車に使用しており、各地でバイオディーゼル燃料を使った路線バスが運用されています。近江鉄道バスや、京都市交通局の京都市営バス、東京都交通局の都営バスなどがそれです。ほかにも北海道、大阪、山梨、山口などでも事例があるようです。

さて、日本はこの太陽光の利用を世界に先駆けて宇宙開発にも向けています。日本の宇宙開発機関JAXAが、2010年7月に小型ソーラー電力セイル実証機「IKAROS」において、史上初の「太陽帆航行」を成功させたというニュースはご存知の方も多いでしょう。

太陽帆はソーラー帆、ソーラーセイルとも呼ばれ、薄膜鏡を巨大な帆として、太陽などの恒星から発せられる光やイオンなどを反射することで宇宙船の推力に変える器具のことです。これを主な推進装置として用いる宇宙機は太陽帆船、宇宙ヨットなどと呼ばれます。

化学ロケットや電気推進と比べ発生する推力は小さいものの、燃料を消費せずに加速が得られるという利点があります。将来的には惑星間などの超長距離の移動が容易になると期待されており、また、将来的な構想として、出発地から照射された強力なレーザーを帆に当てて推進力とする宇宙船も考案されています。

その原理は、太陽からの「太陽風」なるものによって推進しているといった報道がなされ、太陽から何やら風のようなものが吹いていると誤解している人も多いようです。が、この説明は正確には正しくなく、実は光子の反射によって生じる反作用によるものです。

光の粒子が太陽帆を形成する薄膜に当たり反射すると、宇宙空間では薄膜には光の入射方向と逆向きの力が発生します。この力は、セイルの面積と光圧力に比例します。船舶で使用される帆とは異なり、宇宙空間では流体力学的に発する揚力は発生しないため、帆に発する力は帆に反射する光の圧力のみとなります。

空気のある地球ではこうした作用反作用は風を引き起こす要因となりますが、大きな物理粒子がなくほぼ真空の宇宙空間では太陽光からの光粒子の力は、セイルでの反射によって単に宇宙船を動かす力に置き換わるのです。宇宙船を動かす力としては非常に微小ではありますが、受けた光をほぼ100%推進力に利用できるので非常に効率の良い方法といえます。

しかも、最初はほんの少しのスピードしか出なくても、宇宙空間にはその進行を妨げる空気がないので、宇宙船は太陽光を受けてどんどん加速していきます。これを「光子加速」といいます。加速をさらにどんどん増やしていけば、理論的には最後には光の速度と同じ速度で宇宙を旅することができます。

従って、遠い将来には惑星間の宇宙旅行や太陽系外への宇宙への飛行などにも使えるようになるのではないかといわれています。

ただ、実際に宇宙船の推力源として太陽帆を利用するためには、極めて軽量かつ極めて広い面積を保持できる薄膜鏡が必要であり、長らくは夢物語に過ぎませんでした。

初期にはアルミニウムの薄膜などが太陽帆の素材として候補になっていましたが、あまりにも強度が不足しており、特に巨大な帆を宇宙空間で広げる際に帆を壊さずに広げる技術の開発が難しかったようです。

しかし21世紀になって炭素繊維など素材の研究開発が進み、太陽帆に使用可能な薄膜の生成に実現性が帯びてきました。

JAXAは、2004年には太陽帆実現を目的とした、直径10m、厚さ7.5μmのポリイミドフィルム製の大型薄膜の宇宙空間での展開実験に成功しました。また、太陽光圧の力だけでの推進・姿勢制御は難しいので、セイルに薄膜太陽電池をつけ、イオンエンジンとソーラーセイルの併用する「ソーラー電力セイル」を開発しました。

こうして完成した「IKAROS(イカロス)」の帆は一辺約14mの正方形で、厚さ7.5μmのポリイミド樹脂膜にアルミを蒸着したもので、これに約200m2の10%に薄膜太陽電池が貼られています。

直径1.6m、長さ1m、重さ300kgの本体を中心にX字形に畳んでおき、打ち上げ後、船体を一時的に高速回転させ、帆を遠心力で展開させ、その後ゆっくり回転させて帆の形を維持させるというものです。

このイカロスは、2010年5月21日、JH-IIAロケット17号機により、金星探査機「あかつき」との相乗りで打ち上げられました。6月3日からセイルの展開を開始し、10日に地球からの距離約770万kmにおいて、セイルの展張、及びセイルに配置されている薄膜太陽電池からの発電を確認しました。

7月初頭からは光子加速実証フェーズへと移行し、7月9日、ついにイカロスが光子加速を行っていることを確認。12月8日には、以下ロスは金星から80800kmの地点を通過し、金星スイングバイを成功させています。スイングバイとは、天体の万有引力を利用して宇宙機の運動方向を変更する技術で、宇宙船を増速あるいは減速することができます。

ソーラーセイルによる光子加速を実証し、ソーラーセイルで他の惑星まで飛行したのは、いずれも世界初の快挙でした。

現在までに当初予定していたミッションはすべて完了しており、イカロスは2012年の11月22日に、発生電力低下による搭載機器シャットダウン状態のいわゆる「冬眠状態」に陥り、その後の復旧のめどもたたないことから、翌2013年3月28日にプロジェクトチームの解散が発表されました。

ただ、JAXAでは今後も飛行中光子加速やセイル運用、薄型太陽電池の実証・研究が行っていくようです。

ソーラーセイルは、SF作家のアーサー・C・クラークや、小松左京の作品などにも登場しました。そのころには、まだまだ夢の世界の話とおもっていたら、ここへきてその夢が実現した格好です。海と帆船の伝統が長かった欧米のSF作品にも過去、太陽帆船が多く登場していますが、誰もがその実現は遠い先のことだと思っていたでしょう。

このほか、太陽からの光は数百万の陽子や電子を含んでおり、陽子や電子などの荷電粒子が、磁場を磁力線に垂直に通過して移動することがわかっており(電磁誘導、フレミングの法則)、これを利用したマグネティックセイル (magnetic sail) というものも技術的には開発可能だといわれているようです。

マグセイル (magsail)、磁気帆や磁気セイルとも呼ばれ、この宇宙船は質量に対する推力の効率的な運用がソーラーセイルよりもさらに高いため、未来の宇宙船としてもより魅力的な推進技術だと考えられているそうです。

将来的にはこうした装置を使い、太陽光を浴びて、我々も悠々と宇宙旅行をする、そんな時代が来るかもしれません。

それまで私は生きているでしょうか。生きてはいないかもしれませんが、もし死んでいたら、「幽霊粒子」になって、宇宙を旅していたいものです。