コタツから来年へ

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今年も残るはあと2日。

12月に入ってから天候不順が続いていましたが、ここへきてようやく大気が安定してきたらしく、ここ伊豆も4~5日前から好天が続きます。

そんな中、冬の陽を浴びながらぼんやりとコタツになど入っていると、なにやら幸せな気分になってきます。が、まだ大掃除で残っている部分があり、本当にぼーっとできるのはこのブログを仕上げた午後になりそうです。

それにつけてもこのコタツというのは便利なものです。部屋全体が温まっていなくても、火を入れれば瞬間的にそこだけが温かくなるので、寒い出先などから帰ってきてすぐに温まりたいときとか、ちょっとした昼寝をしようとうするときなどには、とりわけ重宝に感じます。

家族団らんで囲むコタツも楽しく、子供のころは姉や従兄弟たちと座卓を囲んでトランプ遊びによく興じたものです。木枯らしにコタツ、そしてミカンといえば冬の定番の風物詩であり、いかにも日本的なもののひとつといえるでしょう。

漢字では「炬燵」と書きますが、「火燵」とも書くようです。こちらのほうが古い表記でだいたい室町時代に使われていた漢字のようです。ただ、それ以前にはさらに難しい「火闥」があったようで、これは中国から輸入したての頃に使っていた漢字のようです。

江戸時代までにはこの漢字を含めて多くの漢字が「国字」、すなわち日本独自にアレンジされるようになり、「火燵」になりました。さらに江戸時代までには篝火を意味する「炬」と組み合わせて「炬燵」となっていったようです。が、具体的にいつごろからこの文字を充てるようになったのかはよくわかっていないようです。

その昔は、「内弁慶」という言葉と同様に、外では意気地がないくせに、家庭中では威張り散らす人を「炬燵弁慶」と言いました。こうしたところは、コタツにばかりもぐりこんでいて外にでようとしない、現代人にも通じることころがあります。

コタツと一体化して生活する連中のことを「かたつむり」をもじって俗に「こたつむり」と呼ぶそうで、他に、コタツにすっぽりと殆ど頭だけ出して潜り込んでしまった状態はまるで亀のようなので、こうしたコタツ族を「カメ」とも呼ぶようです。

経済的な暖房器具であることから、独身貴族にはこうしたコタツムリやカメ野郎が多いようです。かくして私も独身時代の冬にはコタツが欠かせませんでした。最近では一人用のミニコタツなどがあり、コタツは一家にひとつではなく、パソコンのように一人一台というご家庭もあるようです。

しかしその昔は、寺院や武家で「火鉢」が使われ、こちらが一人に一つでした。火鉢は客向けにも使われ、各家に多数ありましたが、コタツはやはり一家に一台であり、家庭用でした。

室町時代からすでに「火闥」の文字があったように、その発祥もどうやらこの時代のようです。最初のコタツは、囲炉裏(いろり)の上に櫓(やぐら)を組み、蒲団をかけただけの簡単なものでした。

やがて、囲炉裏を床より下げ、床と同じ高さに櫓を組んでそのうえに蒲団を置く、現代の掘り炬燵に似たものが登場しましたが、これでは足を入れた時に火傷をしてしまいます。そこで、さらに床下に下げた囲炉裏の周囲に足置きのスペースを置いて囲炉裏の周りに座れるようにする形式の「腰掛け炬燵」ができました。

江戸時代までにはこの形式が主流になり、「大炬燵」と呼ばれるような大勢が腰かけて入るコタツもあったようです。火鉢とともに冬には欠かせない暖房器具として発達していきましたが、当初は、熱源として主に木炭を使っていました。

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しかし江戸中期以降になると、コタツに使用される固形燃料として炭団(たどん)が登場します。作り方としては、炭の粉にこの時代でも手に入りやすい海藻、ジャガイモなどから取り出したデンプンなどを加えて丸めて固め、乾燥させて出来上がりです。長時間じっくり燃えるよう、場合によっては土なども混ぜることもありました。

江戸中期の商人で、塩原太助という人がおり、裸一貫から身を起こし、この木炭の粉に海藻を混ぜ固めたタドンを発明し、商業的に大成功しました。このころ、木炭を運搬する際に使用する炭俵や炭袋には、底の方に炭の粉や欠片が大量に溜まり、また、木炭製造時にも、商品の規格外の細かな欠片が大量発生していました。

一般家庭では、こうした余った炭の粉を集めて自家製の炭団を造っていたようですが、品質が一定せず、また火がつきにくく火力も弱くなりがちでした。太助はこうした余った炭の粉に目をつけ、これを手で丸めてかためて再利用できないかと思考錯誤の末生み出したのがタドンです。

火力も従来のお手製のものに比べてそれほど強いというわけではありませんでしたが、太助が作ったタドンは種火の状態で1日中でも燃焼し続けるため、火鉢や煮物調理に向いていました。また一方では、江戸期に広く普及しはじめたコタツにもまた最適な燃料となりました。

このタドンの販売によって大成功をおさめて大富豪になった太助ですが、その後も謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行ったそうです。このことから、後世には戯曲や歌舞伎などでも扱われ、その功績がうたわれるようになりました。

幕末には太助をモデルにした「塩原多助一代記」という人情噺本が出版され、これは12万部という驚異的なベストセラーになっています。

その後、明治になり、1909年(明治42年)東京・上野にイギリス人の陶芸家で、バーナード・リーチという人が、正座が苦手なために自宅に掘り炬燵を作りました。小さな掘り炬燵でしたが、足を下ろす穴よりも囲炉裏になる穴がさらに深く掘られ、これにより従来のものよりもより耐火性能を確保していました。

ただ、炭を床面よりもかなり深くに置く事になり、補充・灰掃除が大変なのと一酸化炭素中毒を起こしやすいのが欠点でした。しかし、まだまだ火事の多かった時代であり、その耐火性などを志賀直哉、里見弴(とん。菊池寛賞、読売文学賞などを受賞)が随筆で誉めたことが宣伝となり、昭和初期に日本全国へと普及しました。

これにより、それまでは腰かけ炬燵と呼んでいたものが、「掘り炬燵」と呼ばれるようになり、この名前も全国的に広まり、現在に至った、というわけです。

この深い囲炉裏である掘り炬燵での炭の使用の不便を避けるために、使われるようになったのが、「練炭」です。練炭は欧米で「ブリケット(Briquette)という泥炭を固めたものが使われていたものを改良したものです。

現在では、十数種類の石炭を混ぜ合わせて練炭用に調合された粉炭を消石灰やピッチ、ベントナイトといったつなぎを加えて成型して作られます。

明治元年に長崎に入ってきていたブリケットを見て、東京のある蒸気船問屋がこれを改良しようと思い立ちます。そして1876年(明治9年)ごろから「角型塊炭」という名称で主に家庭での煮炊きや風呂炊き用に売るようになりました。

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一方、当時の軍艦で使われる石炭からは、黒煙が盛んに出る割に火力が弱く、艦船用の燃料としては最適とはいえませんでした。そこで、1894年(明治27年)に海軍省の竹田少佐という人物が、軍艦からでる黒煙対策にとこの角型塊炭に目をつけました。

そして、山口県の大峯炭山(宇部炭鉱)でとれる無煙炭を粉末にし、これで練炭を作って軍艦に使用したところ好成績を残しました。これは“海軍の角炭”と呼ばれて重宝され、日露戦争を期に、山本権兵衛海軍大臣が高品質の角炭を需給できるよう、同じ山口県の徳山に練炭製造所を開設を命じ、ここで量産されるようになりました。

この角炭は当初、膠(ニカワ)で固められていましたが、のちに台湾産の廃糖蜜で固めるほうがより長持ちすることなどがわかり、その後もさらに改良が加えられました。

しかし、この練炭は当初主に軍用であったため、明治末までは一般で使われることは少なかったようです。その後、艦船用から業務用へとその使用先が拡大していき、明治末期までには上の角型塊炭と同じように家庭で使われるようになり、その後煙の出にくい燃料として掘コタツにも広く使われるようになりました。

このころから、さらにコタツ用に改良も進み、触媒を上に乗せ一酸化炭素や臭いを削減した掘りごたつ専用練炭コンロも作られるようになりました。また、各種石炭に消臭材などを加えて燃焼時の臭いを抑え、扱い易い「豆」状に成形した、いわゆる「豆炭」も作られるようになりました。

こうした「豆炭炬燵」は戦後、急速に普及し、1960年代にはどこの家庭でもこの形式のコタツがみられるようになりました。それまでは、熱源部分に豆炭を入れ、囲炉裏や火鉢で炭を燃やした際に出る灰をその上に乗せ、その厚さによって温度調整をしていましたが、この豆炭炬燵の普及により、ダンパーで通気量調整ができるものも登場しました。

ダンパーとは、風量を調節するための装置です。掘り炬燵で足を置く部分や豆炭を燃やす部分などの横壁に縦格子状の通風窓を設け、シャッターを開け閉めすることで可燃部分に入る風量を調整します。これにより不完全燃焼を防ぎ、一酸化炭素中毒になることを防止できるようになりました。

しかし、このころから日本家屋は建築技術が進み、さらに気密性が高くなってきました。このためさらに屋内にこもりやすい一酸化炭素を減らすために、このダンパーに触媒を付けるようなものもあらわれました。しかし、触媒部分は消耗品で、中毒死や火災を避けるため毎年の交換が必要でした。

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このように、1960年代ころまでには、タドン団や練炭、豆炭など、炭をベースにした燃料が広く使われていました。これらの燃料はその後、高度成長期に石油ストーブやプロパンガスが普及する前まで、一般家庭でのコタツなどの暖房用や調理加熱用、として広く使われ、日常的に利用されていたわけです。

とくにタドンについては、豆炭や練炭が広く使われるようになってからもその生産が衰えませんでした。山林地域の産業として重要な役割を担っていたためであり、昭和30年代頃までは全国に炭団製造工場がありました。

買値も練炭よりもかなり安く、どこの家庭にもありました。寒冷地で日常よく使うものであったことから、その昔の雪だるまといえば、目には炭団、眉毛や口は木炭というのが定番でした。

一方、現在主流となっている電気炬燵は大正後期には既に発明され、一般向けにも発売されていました。しかし、電気がまだまだ高い時代であり、家庭にはなかなか普及しませんでした。

ところが、1950年代からは日本は目ざましい経済成長を遂げるようになり、家庭には次々と電化製品が普及。高まる電力需要に応えて大規模な電源開発が始まり、このために電気は急速に安くなっていきました。

電気を熱源とした電気ゴタツを実用化商品として売り出した嚆矢は、当時北陸電力社員、のちに北日本放送社長となる、横山良一氏といわれています。1956年に発明したとされ、これによって電気ゴタツの開発が進みました。

しかし、この横山が開発した電気ゴタツは熱源がまだ床置き式でした。そこで、このニクロム線熱源を机の裏面相当の場所に設置して足を伸ばせるようにした「電気やぐらこたつ」を東芝が1957年に発売、以後この形が爆発的な人気を得るようになります。

このニクロム線式ゴタツの開発にはかなりの苦労があったようです。それは、空気は温まると上に上ってゆくため、上部にヒーターを取り付けただけでは、熱が天板のほうへ逃げていってしまうことでした。このため、試行錯誤の末、東芝の技術者たちは天板の裏に反射板を取り付けました。これはヒーター部分の奥にはりつけられたアルミ製の板です。

ニクロム線が加熱されて発生する熱は、これによって反射され、下向きに空気を暖める仕組みでした。しかし、ニクロム線を使った熱源というのは、いわば電気コンロと同じであり、一つ間違えば火事にもなりかねません。

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大きな事故はなかったようですが、メーカー側もこのことは認識しており、その後、このニクロム線式に代わって、赤外線ランプというものが開発されました。これは、赤外線の放射の割合を多くした電球で、一般の白熱電球よりもフィラメントの温度をやや低くしてあります。

普通,反射型電球と類似の構造にしてあり、下向きにのみ熱が伝わります。赤外線には熱作用があるので,塗料の焼付け乾燥,食品の加熱などに当初使われていましたが、発熱温度の調整もしやすく、すぐに主流になりました。

ただ、当初発売されていた電気炬燵は熱源部分が白いものであり、当時の多くの人が「これで本当に温まるのか?」と疑問視してなかなか購入しようとはせず、売り上げが伸びなかったそうです。

そこで東芝ほかの企業が熱源部分を赤くして温かさがきちんと伝わる様に見せたものを1960年頃に発売したところ売り上げが急速に伸びました。その後長きにわたってこの赤外線ランプ式のコタツは普及し、1980年代までにはどこの家庭でもこの形式のコタツがみられるようになりました。

今も懐かしいレモン型のこうした赤外線ランプを使った電気ゴタツをお使いの家庭もまだまだたくさんあることでしょう。

ただ、最近ではこうした赤外線ランプのコタツはほとんど見られなくなっています。その理由は「ランプ」であるだけに、直接触ることによる火傷を防ぐためのガードカバーなどを取り付ける必要があり、その分、コタツ内での嵩が増すためです。コタツの中に首まですっぽり入る人も多く、その際にはこのヒーター部分はとりわけ邪魔です。

そこで最近では、発熱体は鉄クロムまたはニクロム線などの昔ながらの素材ではあるものの、シンプルな構造で低コストの「石英管ヒーター」や、発熱体はタングステン線を花巻状にした「ハロゲンヒーター」などが主流になりました。

とくにハロゲンヒーターは、加熱温度も高く、速熱速暖性に優れており、電源を入れてから2秒ぐらいで立ち上がるのが特徴です。

最新式のものには、「コルチェヒーター」といったものもあり、これはタングステンフィラメントを不活性ガスとともに石英管に封入したヒーターです。これまでのヒータに比べて最も応答性に優れ、電源を入れてからの立ち上がりは超早く、0.1秒くらいだそうです。

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こうしたヒーターを用いた熱源装置は従来の赤外線ランプに比べてかなり薄型になりました。その昔は、冬場が終わると赤外線ランプの部分だけ外して「卓袱台(ちゃぶだい)」として使う家庭も多かったようですが、薄型になったことから最近は年から年中、この発熱体をつけっぱなしにする家庭が増えました。

このため、現在のコタツは、冬場の暖房器具としてだけではなく、それ以外の季節では蒲団をはずしてちゃぶ台、ないしは座卓代わりとして通年利用されることが多くなっています。

ちなみに、この「ちゃぶ台」という言葉については、語源がはっきりわかっていないそうです。有力なものとしては中国語でテーブル掛けを意味する卓袱(南中国音ではチャフ)から来たとするもの、同じくご飯を食べることを意味する吃飯(チャフン、ジャブン)から来たとするものなどがあるようです。

このようにコタツ蒲団をはずした場合座卓に見えるコタツを電化製品業界では「家具調炬燵」といい、家具業界では「暖卓」と呼んでいます。

一方、現在では、さまざまな安価な熱源が生産されるようになったことから、大手メーカーは電気ゴタツを生産していません。

コタツを作っているのは、中小のメーカーであり、これらのメーカーには中小の木工会社も多いようです。こうしたメーカーではコタツのやぐらは自前で作り、熱源は別のところから仕入れ、自前で作ったコタツと合わせて売ります。

かなりおしゃれなものも増え、その昔はコタツといえば畳の上に置くもの、と決まっていましたが、最近ではフローリングの上に置く、背の高いダイニングテーブル式のコタツまで広く普及するようになりました。

その昔は、こたつ蒲団の上に四角い天板の裏がラシャ張りになっており、麻雀卓として利用されたりしていましたが、最近は麻雀人口の減少と正方形のコタツの減少とともに稀になりました。家具調炬燵(暖卓)の普及により、現在のコタツの形状の主流は正方形から長方形になりつつあるようです。

このようにコタツはすっかり通年家具として定着しつつあるわけですが、その昔は当然ながら冬だけのものでした。武家では「亥の月亥の日」に炬燵や火鉢などの暖房具を出したといい、この日は「亥の子(いのこ)の日」と呼ばれていました。

旧暦10月(亥の月)の上旬の最初の亥の日のことで、太陽暦では11月半ばから後半です。また、町家では暖房器具を出すのは、第二の亥の日であり、つまり亥の子の日から12日後、11月下旬から12月初めごろから火鉢や炬燵などを使いはじめました。

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なぜ亥の子の日かといえば、亥(猪)は、摩利支天の神使であるためです。摩利支天は炎の神であり、防火の神でもあります。また亥は陰陽五行説で火を制する水にあたるため、武家は亥の月亥の日に火道具を使い始め、家の防火を祈ったわけです。町民の使い始めが遅いのは、武士より身分が低いため、彼らに憚って使用開始時を遅らせたのでしょう。

こうした風習は今でも西日本で残っており、京都の茶家などでは、今でも11月に入ると亥の子に炉開きの行事をするところが多いそうです。

この摩利支天の原語のMarīcīは、太陽や月の光線を意味し、摩利支天はまた陽炎(かげろう)を神格化したものです。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付きません。このため護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めました。

また、これらの特性から、摩利支天を信仰する武人は昔から多く、楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を収めていたといいます。毛利元就は「摩利支天の旗」も旗印として用いていたほか、山本勘助や前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられています。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されています。

さて、来年の干支はこうした摩利支天ゆかりの亥ではなく、申(猿)です。日本では古来サルは日枝神社(比叡山)の使い番とされています。

また、この日枝神社にちなんで、江戸南の伝馬町(現京橋1〜3丁目)で毎年催される山王祭・神田祭といった祭りでは、烏帽子狩衣姿で御幣を持つ猿の人形を飾った「幣猿(へいざる)の吹貫(ふきぬき)の山車」が祭礼に出されます。

吹貫というのは吹き流しのことで、要は幟(のぼり)で飾られた山車です。また、「幣猿」の「幣」は日枝神社には、戦前まで比叡の宮という別社があり、これは「幣の宮」と呼ばれていたことに由来します。氏子は年末にここの入り口で最後のお祓いを受け、午後7時ころに五十張の堤燈の灯を燈し、夜道を守護しながら神社に「おさまった」といいます。

「参拝する」という意味だと思いますが、氏子用の特別用語でしょう。このとき幣の宮からおさまるまでの眺めは素晴しく美しく、氏子たちの心に一生焼きつく程の光景であったそうで、このことから幣の宮へ渡る氏子の人々は「日枝の祭りは屁(へ)で終わった」と面白おかしく、「幣」を「屁」にもじって言い伝えました。

また、これは祭礼が二日間であっけなく終わることから「プッ」と終わるという意味もあったようです。

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一方、「幣猿」の「猿」のほうは、日枝神社が948年に日吉大社(京都比叡山の総鎮守・地主神)より分霊を移して創建された際、この日吉大社、通称「山王様」が「さる」を使者としていたことに由来します。

古来「さる」は 山の神・地主神又は神の使者として信じられていました。このため日枝神社も「さる」と深いつながりを持ち、「さる」を祀り、妊娠・安産・子育ての願いを叶えられるものとして、特に女性に縁深い神様とされているそうです。なので、来年ご出産の方はぜひ来年の初詣出には日枝神社に行ってみてください。

一方、サルはウマを守るともいわれ、厩(うまや)の守護神として古来から敬われているそうです。中国では伝承として古くから広範囲に見られ、例えば孫悟空が天界に召されたとき、最初任ぜられた天馬の厩の担当官である弼馬温(ひつぱおん)という名前はサルはウマを守るとされる伝承がインドから中国に伝来したことによるといいます。

北インド地方の古いことわざにも「ウマの病気がサルの頭上に集まる」というものがあるそうで、同様の伝承は日本に伝わり、中世の武家屋敷の馬小屋ではサルが飼育される風習があったそうです。ただ、本物のサルではなく、サルの頭蓋骨や木造をお守りに飾る例もあったようです。

こうした故事にちなんで作られた熟語の「意馬心猿(いばしんえん)」とは、人間の煩悩を猿と馬に喩えた仏語であり、「人の欲求は疾駆する馬のように止めがたく、意識は猿のようにそわそわ騒ぎ立てる」、という意味だとか。

心の中の猿と馬を制御することが大事、というふうに使う言葉だそうで、明治の有名日本画家、橋本関雪は、繋がれた馬と猿を題材にこうした教訓を示す仏画を残しているそうです。

また、仏教の戒律書「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」には、「猿猴捉月」という寓話が書かれています。これは、井戸の底に映った月を見たサルのボスが「月を救い出して世に光を取り戻してやろう」とする、という話です。

このサルのボスは手下に呼びかけ、樹の枝から数珠つなぎに下に降りていきましたが、手に届く寸前で枝が折れて全員井戸に落ちたといい、この話も月を捉えようとするサルとして禅画や水墨画の画題となっています。こちらは身の程知らずな望みを持つことで失敗することの例え話であり、「意馬心猿」と同じく、はやる自分を戒める教訓話といえます。

サルに関するほかのことわざにもあまりいい意味のものはなく、「猿の尻笑い」といえば、
自分の欠点には気づかずに、他人の欠点をあざ笑うことのたとえです。ほかにも「猿に烏帽子」とは、似つかわしくないことをするたとえで、外見だけを取り繕って、中身が伴わないことのたとえです

さて、来年の私やみなさんの一年はどんな一年になるでしょうか。「猿も木から落ちる」にならないよう、お互い、緊張感のある一年にしたいものです。

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タンカーのはなし

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今日は、ノーベル賞制定記念日です。

1895年11月27日にスウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルが、自分がダイナマイトで得た財産を「人類の平和に寄付する」という遺言状を書いたことに由来しています。

ノーベルは350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名です。その開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれました。スウェーデンのカールスコーガに設立されていた鉄工所の経営者となったノーベルは、このダイナマイトの発明によってその小さな工場を巨大な兵器メーカーへと発展させました。

ただ、ノーベルは、実質2年あまりしかこの会社の経営に携わっていません。しかし彼は資金力で経営を立て直したにとどまらず、会社を研究開発を重視する方針に転換させ、この方策はその後の発展に大きな役割を果たしました。

その研究開発に基づいて社業を伸ばしたこの会社、ボフォース社は現在でも世界的に有名な大砲・化学工業メーカーとして知られています。

ノーベルは、スウェーデンのストックホルムで、建築家で発明家の父のもとに4男として生まれました。両親はノーベルも含めて8人の子をもうけましたが、一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけでした。

ダイナマイトの発明により功を治めたのちの晩年、55歳のとき、この兄弟のうちの兄リュドビックが死去しましたが、この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり、見出しには「死の商人、死す」とありました。

さらに本文には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれており、このことからノーベルは死後の評価を気にするようになったといいます。

死の商人、という評価は、その後彼が発明したこのダイナマイトによって多くの産業が発達したことから、その呼称はそぐわない、という人もいます。しかし、現在世界各地で勃発している戦争でもこのダイナマイトを元にした爆薬が多数使われており、そう呼ばれても仕方がない面も確かにあるでしょう。

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ただ、そうして儲けた金の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとしたことはやはり、偉人として評されるだけのことはあります。彼が残した財産は税と個人への遺産分を除いた全財産の94%に登り、その額は3122万5千スウェーデン・クローナに及んだそうです。

1スウェーデン・クローナは現在日本円で15円ほど。ノーベル賞創設は1895年で、いまから120年前ですから、日本では明治28年です。日本の換算値をそのままスウェーデンに適用するのは無理がありますが、仮に明治後期の1円を現在の1万円ほどだとすると、3122万×15×1万円で、計算が間違っていなければ4683兆円ということになります。

ま、おそらくはスウェーデンのほうが日本よりもその後の物価上昇額が少なかったと考えられるのでこの計算も少々無理がありますが、それにしても天文学的にスゴイ金額であろうことは間違いありません。現在に至るまでも、毎年のように多額の賞金をノーベル賞受賞者に与えられるわけではあります。

なるほど武器や兵器を商売にするというのは儲かるものなのだな、と改めて思うわけですが、日本でも幕末に兵器商人として暗躍したトーマス・グラバーが財をなしていますし、幕末の実業家の大倉喜八郎なども武器商売で儲けた金で大倉財閥を創立し、一代を築きました。

現在ではあまり知られていない人ですが、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家で、渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立したほか、東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもあります。

新潟の貧しい農家の生まれでしたが、幕末に江戸に出て鰹節店で丁稚見習いとして奉公したあと、奉公中に貯めた金を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。しかし横浜で黒船を見たことを契機にこの乾物店を廃業し、小泉屋鉄砲店というこのころまだ珍しい兵器商に見習いに入りました。

約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習いをしたあと独立し、神田和泉橋通りに鉄砲店大倉屋を開業。しかし、店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入していました。

この当時は不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博しました。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになりました。

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その後も鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受けるなどの恩恵を受け、明治7年(1874年)の台湾出兵の陸軍御用達、明治10年(1877年)の西南戦争でも征討軍御用達、さらに日清戦争、日露戦争でも軍の御用達となるなど、急速に財をなしました。

こうした経歴や、軍閥の形成に力を注いだ大久保利通や井上馨らとの親交もあったことから「政商」、「死の商人」と揶揄される一方で、その後は武器商売をやめて多くの産業に寄与したことから、「世にもまれな商傑」「日本の近世における大偉人」などと呼ばれるなど評価は驚くほどに別れます。

ノーベル自身も生前は死の商人と呼ばれましたが、死の直前、私財をなげうってノーベル賞を創設したことから偉人として現在まで敬われています。上述のとおり、兄弟がほかに3人いましたが、弟のエミール・ノーベルはダイナマイトの発明がなされる前の実験中に爆発事故で亡くなっています。わずか21歳でした。

このほか、ノーベルには、ルードヴィヒとロベルトという二人の兄がいましたが、実はこの二人は、石油タンカーの産みの親として知られています。1876年に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社を設立しましたが、19世紀末期、この会社は世界最大級の石油会社でした。

1876年といえば、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をノーベルがダイナイナマイトと名づけ生産を開始してから5年後のことです。ノーベルが50カ国以上で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになったころであり、一躍世界の富豪の仲間入りを果たしていました。

当然、この兄たちの石油会社の設立にもその資金が投入されたのでしょうが、武器商売で成功した金で現在の文明に恩恵をもたらしたとされる石油を運搬するタンカーが開発されたというのもまた何やら胡散臭いかんじがしないでもありません。

このノーベルの二人の兄のうち、この石油タンカー開発の主な責務を担っていたのは長兄のルードヴィヒのほうであったようで、現在では初期のタンカー開発のパイオニアと目されています。彼はまず、石油缶をバラ積にした一重船殻の艀(はしけ)を船舶で牽引して運搬することを試みましたが、すぐにあきらめ、自航式のタンカーへ関心を移しました。

しかし、これには多くの問題点があり、最初の問題点は、火災を避けるために積み荷とそこから出るガスを機関室から隔離することでした。このほかにも火災予防のために、温度変化に応じて積み荷が膨張・収縮できるようにしたり、タンクに換気の方法を備えたりといったことが必要になりました。

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こうして数々の問題点をクリアーして完成した世界初の石油タンカーは、「ゾロアスター」(Zoroaster)」と名付けられました。

古代ペルシア起源とする秘教の名ですが、なんでそんなヘンな名前をつけたかといえば、おそらくはこの宗教が主に中東などで崇拝されていること、またこの宗教にちなむ聖地では「聖なる火」の祭壇の遺跡が多数存在することなどからだったでしょう。

この世界で初めての石油タンカーは、開発されたその年のうちにアゼルバイジャン共和国の首都バクーからロシア南部のアストラハンまでの最初の航海を成功裏に終わらせました。しかし、ノーベル兄弟は、タンカーの設計のどの部分も特許を取得しなかったので、その後このゾロアスターの設計は広く研究されコピーされました。

ゾロアスターは、242 ロングトンの灯油をパイプで連結された2つの鉄製タンクに入れて輸送しました。船の中央に機関室が置かれ、1つのタンクがその前方に、もう1つが後方に置かれましたが、この船は、予備浮力のために21の垂直防水区画を備えていたことがもう1つの特徴でした。

しかし、この世界初のタンカーの全長は184 フィート(56 m)、全幅は27 フィート(8.2 m)、喫水は9 フィート(2.7 m)にすぎず、現在のタンカーに比べればその大きさには雲泥の差があります。

ただ、性能や安定性、そして安全性は高く、スウェーデンからカスピ海まで、バルト海、ラドガ湖、オネガ湖、ルイビンスク、ヴォルガ・バルト水路、ヴォルガ川を経由して航海できるなど広く運用されました。

ところが、1881年にこのゾロアスターの姉妹船、ノルデンフェールドはバクーで灯油を搭載している最中に爆発しており、これは史上初のタンカー事故として記録されることになりました。船が突風に煽られて、灯油を流し込んでいたパイプが船倉から引き離されてしまい、この際漏れ出した灯油は甲板に流れこみました。

さらには機械工が灯油ランプの明かりで作業をしていた機関室に灯油が流れ込み、これにより船は爆発し、乗員の半数が死亡しました。ノーベル兄弟はこの事故後、漏れがより起こりにくい柔軟な積み込みパイプを作ることで対策をするようになりました。

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また、こうした教訓も踏まえ、その後ノーベル兄弟は、単一船殻で設計したタンカーを開発しました。これは船体がタンクの構造の一部をなすものであり、より多くの石油を積み込むことができるようになるとともに安定性が増しました。

1880年にこの最初の単一船殻タンカーである「モーゼ(Moses)」が完成し、これを含めて17隻もの同型船が建造されました。

さらに1883年に石油タンカーの設計は大きく進歩しました。ノーベルの会社で働いていたヘンリー・F・スワン (Henry F. Swan) が、設計した船は1つか2つの大きな船倉を備える代わりに、横方向の間仕切りでいくつかに分割した船倉を用いていました。これらの船倉はさらに縦方向の間仕切りで右舷側と左舷側に分割されていました。

ノーベル兄弟が採用していたそれまでの単一船殻のタンカーはかなり安定度は増していましたが、まだ自由表面効果 (free surface effect) による安定性問題を抱えていました。これは石油がタンク内で跳ね回ってしまう、という現象で、この効果によって荒れた海では船を転覆させてしまう恐れもありました。

ところがスワンが開発したこの新しい方法は、船の貯蔵スペースを小さなタンクに分割してしまうというものであり、この自由表面効果をほとんどなくすことができました。こうしてその後すべてのタンカーはこの方法で建造されるようになり、現在に至ってもタンカーのスタンダードとされる工法になりました。

その後もノーベル兄弟は、1903年にもそれまでの蒸気機関を脱し、内燃機関で航行する石油タンカーを建造するなど、タンカーの改良に励みました。この当時までには4,600 トンで1,200馬力のエンジンを備えた灯油用タンカーなども建造されるようになりました。

その後、ロシアや中東などとアジア諸国の間でタンカーが行き来するようになると、さらにタンカーの需要は増しましたが、以後のタンカーの構造はほとんど変わっていません。しかし年を追うごとに巨大化し、特にアメリカで開発されたT2 タンカーは、第二次世界大戦において重要な役割を果たしました。

載貨重量トン 16,500 トンもの容積を持つこの船は大戦中に500隻近く建造され、大戦後もこうしたタンカーは数十年にわたり商業目的で使用され、多くは国際市場で売却されました。

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第二次世界大戦後は、さらにこの巨大化は加速します。上述の第二次世界大戦期の典型的なT2型タンカーは全長532 フィート(162 m)載貨重量トン16,500 トンの容量でしたが、現代の超大型原油タンカーは、全長1,300 フィート(400 m)、載貨重量トン500,000 トンにもおよびます。

この巨大化にあたっては、中東における戦闘がスエズ運河の通航を中断させたことが大きな要素となりました。スエズ運河を通過できないため、外洋を回るようになり、燃費もかかることからできるだけ一度に大量の石油を運ぶタンカーが求められるようになったためです。

大量に売ればそれだけ儲かるわけであり、船主間の猛烈な競争もまた原因となりました。単純な経済的原則であり、石油タンカーが大きいほどより安く原油を輸送でき、伸び続ける石油需要に応えることができた、というわけです。

これまで建造された世界最大のスーパータンカーは、1979年に住友重機械工業追浜造船所で建造された「シーワイズ・ジャイアント」です。この船は載貨重量トン564,763 トンの容量があり、全長は458.45 m、喫水は24.611 mもあります。46のタンクを備え、31,541 平方メートルの甲板があり、大きすぎてイギリス海峡を通航することができませんでした。

2004年まで運用されましたが、その後老朽化のために運行早め、現在では永久繋留されて石油貯蔵用のタンカーとなっています。現在において、世界最大の稼動中のスーパータンカーはTIクラススーパータンカーと呼ばれるもので、4隻をギリシャのヘレスポント汽船会社が保有しています。

これら4隻の姉妹船はそれぞれ載貨重量トンにして441,500 トン以上の容量を持ち、全長は380.0 m、積み荷の搭載能力は3,166,353 バレル(503,409,900 リットル)に達します。

ちなみに、過去に日本で運用された石油タンカーで最大のものは、1975年に就航し、2003年に退役した日精丸で、これは全長378.85 m、船幅62.0 m吃水は28もありました。TIクラスと引けを取らない大きさですが、最近は日本も石油備蓄が進み、また不況のせいもあって、その後これほど大きなものは建造されていません。

パイプラインを除けば、今日、タンカーはもっとも安く石油を輸送する手段であり、世界中で、タンカーは年間約20億バレル(3.2×1011 リットル)を輸送し、タンカーによる輸送費用は1 ガロンあたりわずか2 セントほどだといいます。

石油産業は現在の世界の産業界を支える基幹産業でもあり、それを安価に運搬できるタンカーは先進国といわれる国ではほとんどが保有しています。現時点で、1万載貨重量トンを超える石油タンカーは世界に4,000隻以上もあるそうで、日本でも海岸沿いに行けばこうしたタンカーが見えない日はありません。

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ノーベル兄弟が開発した当時に比べれば格段に安全性が高くなったための普及でもあります。しかし、とはいえこれだけの船が航行すればそれだけに事故も多くなります。いったん事故がおきれば、積載している石油の量は膨大なものであるため、海洋汚染など、深刻な環境破壊をもたらします。

過去最悪といわれる石油タンカーによる流出事故は、1989年3月に起きたエクソン・ヴァルディーズ号原油流出事故で、アラスカ沖の暗礁に乗り上げて座礁したこのタンカーは、1080万ガロン(41,000 立方メートル)の石油を海に流出させました。

科学者や管理者、ボランティアの努力にもかかわらず、40万羽以上の海鳥と約1,000匹のラッコ、膨大な数の魚が死にました。事故現場から近いプリンス・ウィリアム湾には原油が溜まりましたが、岩の多い入り江のため、原油で汚れた岩を高圧の熱水で洗浄することに決まりました。

しかし岩に生息する微生物も吹き飛ばしてしまい生物の食物連鎖の一部が断たれたためこの一帯は不毛の地と化しました。事故から26年を経た現在でも汚染除去作業は続いており、汚染の影響から回復するためにはあと30年以上を要するかもしれない、という学者もいます。

ちなみに、事故を起こしたエクソン・ヴァルディーズは曳航されて1989年にサンディエゴに到着して船体修理が始まり、約1600tの鋼材が交換されました。そして、翌年には「シー・リバー・メディテリニアン」と改名され、修理に要した3000万ドルの請求書を残して出航しました。

この修理費を補填するため映画ウォーターワールド(1995年公開)の撮影セットとして貸し出される、ということもあったようです。

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エクソン・ヴァルディーズ号の流出事故の後、アメリカ合衆国では領海内に進入する全てのタンカーに対して2015年までに二重船殻にすることを義務付ける連邦油濁法 (Oil Pollution Act of 1990) を制定しました。欧州連合も全てのタンカーに二重船殻にすることを要求する独自の厳しい汚染対策を既に制定しています。

日本でも過去に何度か石油流出事故が起こっており、欧米諸国と同様に厳しい基準を新造船に適用しています。しかし過去に生じた事故で最大のものは、1997年(平成9年)1月2日未明、島根県隠岐島沖の日本海で発生した、ナホトカ号重油流出事故であり、これは日本国籍の船ではありませんでした。

ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」(13,157総トン)は1970年にポーランドのグダニスクで建造され、寒冷地の航海に耐えられるように、氷海仕様となっていました。が、折しも西風20メートル、波高4.5メートルの大しけのなか、機関出力が低下、操船に困難を生じ、大音響とともに船体に亀裂が入り、2番タンク付近で船体が分断しました。

同時機関室に浸水が発生し、メル・ニコブ・バレリー船長は午前3時40分に退船を決意し、31名の乗組員は荒れる日本海を数隻の筏と救命ボートに分乗して脱出しました。しかしバレリー船長は自らの意思で救助を拒み、後日、福井県内で遺体で発見されました。

当時日本海側では年末寒波が襲来し、台風並みの強風が連吹しており、このため、釜山沖でもタイ船籍の貨物船が座礁し、乗組員29名の内5名が死亡しています。

ナホトカは暖房用のC重油を約19,000キロリットル積み、12月29日上海を出港、ペトロパブロフスクへ航行中でした。その後船体は島根県近海で浸水により沈没し、分離した船首部分は漂流を始めました。

流出したのは積載されていた重油の一部、約6,240キロリットルでしたが、福井県の越前加賀海岸国定公園内の海岸に漂着したのち、続いて島根県から石川県にかけての広い範囲にも重油が漂着しました。

油が漂着した場所の多くは岩場であり、機械力を用いた回収作業が困難な箇所でした。波が荒いため、当時国で保有していた油回収船も使用不可能な状態となり、こうして、油回収に唯一有効な手段は、人力によって柄杓を用いて集める方法だけとなりました。

地元住民に加え、全国各地からの個人・企業・各種団体によるボランティアが参加して、のべ30万人近くといわれる民間有志による重油の回収作業が行われました。厳冬期の1月に事故が起こったことで、海からの冷たい風が吹き荒れる海岸での回収作業は過酷を極め、回収作業に当たっていた地元住民やボランティアのうち5名が過労などで亡くなりました。

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こうした二次被害が発生したことから、この件を契機に「ボランティア活動には危険もつきまとうこともある」という事実が世間に知られるようになり、ボランティア活動を行う者に対して「ボランティア活動保険」への加入を勧める活動が積極的に行われるようになりました。

重油の流出範囲が当時の事前予想より広範囲に及んだことや、油まみれで柄杓を使って回収に当たる、自衛隊、海上保安庁、自治体職員、ボランティアなどの姿が報道で繰り返し報じられました。このため、日本海産の海産物に対する風評被害が懸念され、行政ならびに漁業関係者側としてはその対応にも追われました。

また、この事故の際当時の自民党幹事長、森喜朗氏が「重油は山口の方に流れていけばいい」と発言したとの噂が流れました。森さんはそのうっかり発言から今でもいろいろ言われることが多い人ですが、この噂はデマだったでしょう。

が、後年、森氏が首相に就任した際、この発言を事実と思った人が、沖縄タイムスの読者投稿欄において森氏を揶揄するコメントを投稿し、これを見た多くの人が誤解した、ということもあったようです。

アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事故」をめぐる失言騒動の余波を喰らって失職しましたが、首相退任後も若いころの売春疑惑報道が持ちあがったり、引退後に就任した東京オリンピック組織委員会会長の職においても評判はかんばしくありません。

この事故に関し、日本政府は、重油の防除に伴い生じた損害賠償などの支払いを、ナホトカ号の船主などに対して東京地方裁判所へ提起しました。クレーム総額は358億円に及びましたが、その後、2002年(平成14年)に和解が成立し、船主から賠償金110億円、また、基金として151億円が支払われました。

ナホトカ号は船齢25年を超える老朽船であり、船体構造を二重化したいわゆる「ダブルハル構造」になっていませんでした。このため、その後国際海事機関(IMO)は新たに建造する積載量5000トン以上のタンカーや現存タンカーの内積載量3万トンを越えるものについてはダブルハルとするように義務付けました。

また、こうした対策をとっていないタンカーは25年で廃船とするように義務付けされよう条約が改正されました。と同時に条約改正に伴い日本国も国内法の海洋汚染防止法が改正され、寄航国による監督を強化するよう勧告するよう改められました。

ナホトカ号からの重油抜き取りは一応完了していますが、水深約2,500mの海底に沈んだ船体からは、その後も重油の流出が続いており、現在も小規模な流出があるそうです。が、自然分解可能な程度です。ただし、重油の回収および流出防止措置は深海のため不可能であり、将来に渡って船体老朽化による破損・流出が憂慮されています。

さて、数日続いた悪天候も終わり、今日は快晴、スカッ晴れで、真っ白い富士山が眼前に見えていました。明日もお天気のようです。ひさびさの好天の中、紅葉狩りに出かけることとしましょう。

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