君沢~ヴェルニー~横須賀

2015-8815

先日、ユネスコ諮問機関、イコモスによる明治日本の産業革命遺産の世界遺産への登録勧告が決定されました。

その一連の勧告遺産リストをぼんやりと見ていたら、韮山の反射炉などと共に、「恵美須ヶ鼻造船所」という遺跡があるのに気がつきました。

郷里の山口の史跡なのに知らないな~と思って、詳しく調べてみると、長州藩が洋式帆船を建造した造船所跡とのことで、2013年に国の史跡に指定されていました。松下村塾のある場所にもほど近い、萩市椿東というところにある、小さな半島の根元に造られた施設です。

この近くに、よく行くお気に入りのレストランがあり、何度がそこでは食事をしたのですが、そこから目と鼻の先にそんなものがあったとは、つゆほども気がつきませんでした。

この造船所では、ロシアの造船技術に基づいて、「丙辰丸」という帆船と、オランダの造船技術による同じく帆船の「庚申丸」が建造されました。同じ造船所内に異なる外国の造船技術が共存した唯一の西洋式造船所の遺構、ということが評価されたようです。

近代技術の導入期を知る貴重な遺産でもあり、2007年(平成19年)、経済産業省により、近代化産業遺産に認定されたのち、すぐ近くにある萩反射炉や松下村塾などと共に明治日本の産業革命遺産として登録勧告が実現しました。

ネットで実際の現状を調べてみると、石造の防波堤が現存しており、周囲は結構きれいに整備されているようです。現在でも小さな漁港がありますが、往時もこのあたり一帯は、「今浦波戸」という小湊だったようです。

この造船所の造成の背景には、アメリカ合衆国やイギリス、ロシア帝国などの西欧諸国の軍船の相次ぐ日本近海への出現があります。これらが江戸幕府や諸藩の脅威となると1853年、幕府は、安政の改革の一環として、それまで諸藩に対して大型軍艦の建造を禁止していた「大船建造禁止令」を撤回しました。

このとき、浦賀警備に当たっていた長州藩に対しても撤回がなされ、そればかりではなく、逆に大船の建造が要請されました。このとき、長州藩は、財政上の理由から消極姿勢を示しましたが、桂小五郎がやっぱ軍艦建造しておいたほうがいいよ、という意見書を藩に提出したことなどから、藩主の毛利敬親が洋式軍艦を建造することを決定。

このため、日本で初の本格的な洋式帆船である「君沢形スクーナー」を建造していた伊豆国戸田村に、萩の船大工の棟梁、「尾崎小右衛門」を派遣しました。このとき、尾崎は戸田村で「君沢型」スクーナーの建造にあたった経験のある高崎伝蔵ら連れて藩に戻り、翌1856年、彼等の協力の元に小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を開設しました。

この「君沢型」というスクーナーについては、以前、このブログでも詳しく書きました。

キミサワ
ヘダ

ロシアの提督、プチャーチンが日露和親条約の交渉のために、1854年(安政元年)に来日した際、安政東海地震が発生し、寄港していた下田一帯も大きな被害を受け、乗船していたディアナ号でも津波により大破しました。

和親条約はその後無事締結されましたが、帰るための船を失っていたため、徳川幕府に泣きつきました。幕府も西洋軍艦なるものを作り、その技術を習得できればメリットは大きいと考えたことから、お互いの思惑が一致し、建造されることになったのが、この君沢型の原型となる、「ヘダ号」でした。

伊豆国の大工の棟梁たちがこれに参加し、完成したものはディアナ号よりもかなり小型でしたが、性能はすこぶる良かったとみえて、その後同型船が都合10隻ほども量産されました。「君沢型」と呼ばれるようになったのは、この当時の戸田村が「君沢郡」に属していたことに由来します。

このヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、洋式船の建造技術を実地で習得する重要な機会となり、その後この「君沢型」の名は、日本においては、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられようになりました。

この君沢型を真似て萩の恵美須ヶ鼻で最初に作られた洋式帆船が、「丙辰丸」です。全長25m・排水量47トン、2本のマストの小型でスクーナーでしたが、一応、軍艦であるため、船首両舷に大砲1門ずつが据えられており、のちの第二次長州征討や戊辰戦争で実戦参加しています。

この完成に気をよくした長州藩は、さらにこのあと、船大工の藤井勝之進を長崎の海軍伝習所に派遣して、オランダの「コットル船」の建造技術を学ばせました。コットルというのはオランダ語で、英語では「カッター」になります。

1本マストの小型帆船のことで、軍用としては、この当時、哨戒・巡視船などに使われていましたが、武装する場合も多かったようです。この建造技術を長崎から持ち帰った藤井らが、1860年に完成させたのがこの造船所での2隻めとなる、「庚申丸」になります。

全長約43m・幅約8mと「丙辰丸」の2倍近い長さで、マストも1本多い3本で、武装は30斤砲6門を備えていました。のちに、長州藩が攘夷決行に踏み切り下関戦争が始まるとこれに参戦し、本艦からの砲弾1発をアメリカ軍艦「ワイオミング」に命中させ、アメリカ兵3人戦死・4人負傷という打撃を与えました。

また、第二次長州征討や後の戊辰戦争でも活躍し、鳥羽・伏見の戦い前に長州藩兵を輸送するなどの活動を行っています。

丙辰丸や庚申丸は無論木造船ですが、外側には敵の砲弾から身を守るための鉄板などが張られたほか、船内各所の補強には鉄も用いられました。これらの鉄は、この造船所からもほど近いところにあった、「大板山たたら製鉄所」で産出されたものが使われたということがわかっています。

日本の伝統的な製鉄法である、この大板山たたら製鉄は、その遺跡とともに、今回勧告が決まった明治日本の産業革命遺産の中に含まれています。「たたら」は「踏鞴」または、「鑪」とも書き、日本だけではなく世界各地でみられた初期の製鉄法です。

製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれていたためつけられた名称で、日本では、この方法で砂鉄・岩鉄・餅鉄を原料に和鉄や和銑が製造されました。その技術がいわゆる「玉鋼」を生み出し、これが日本刀という世界に冠たる芸術品の生産を可能にしました。

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その後蒸気船が主流となり、これにはこのたたら製鉄所で作られた鉄を用いてもよかったわけですが、長州藩はそんなもん自前で作っている暇はない、と外国製蒸気船を購入する方針に変更してしまいました。このため、この製鉄所もあまりふるわなくなり、かつ恵美須ヶ鼻に軍艦製造所での艦船建造も行われなくなったため、両者とも閉鎖されました。

しかし、これら伊豆や長州で建造された君沢型スクーナーで培われた造船技術は、その後日本各地での洋式船建造の際にも大いに使われました。伊豆では、韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)が幕府に命ぜられ、君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造し、これを「韮山形」と命名しています。

また、1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも伊豆で君沢型を建造した関係者が多く参加しています。

その一人の、「上田寅吉」は元々伊豆の船大工であり、君沢型に関わったこれら市井の大工としてはその後もっとも出世した一人です。長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、帰国後、榎本と共に函館戦争に参加しました。

明治維新後はそれまでの実績が評価され、維新政府に出仕し、横須賀造船所の初代工長に任命されて、維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮しています。

一方、君沢型建造には武士も数多く関わっており、その中でも技術的に最も優れた技術を持っていたのも伊豆人で、「肥田浜五郎(為良)」という人でした。この伊豆の肥田氏というのは、後北条氏に仕えた家柄で、のち徳川家に鞍替えし、水戸徳川家の家老や高松藩家老を勤め、このことから、家人は江戸期を通じ、幕末までかなり幕府に重用されました。

浜五郎もその一人であり、若いころは、同じく幕府方の役人、韮山代官江川英龍のところで、手代見習として働いていました。その後、英龍にも認められて江戸遊学を許され、江戸では伊東玄朴に蘭学を学んだのち、長崎へ向かい、同じく幕府機関の海軍士官養成所である、長崎海軍伝習所に入りました。

長崎海軍伝習所の第二期生にあたり、ここでは機関学を学びました。その後、江戸築地の軍艦操練所が開設されたことから、長崎海軍伝習所は閉鎖されましたが、肥田はこの新設された軍艦操練所の機関学の教授になりました。勝海舟らが、1860年に咸臨丸でアメリカへ向かったときには、多くの教え子を引き連れ、太平洋往還を成功に導きました。

勝海舟は海軍卿だったくせに、まるっきり船がダメな人で、行きも帰りもゲロゲロと船酔いしていてずっと船倉で寝ていたといい、この役立たずの勝に代わり、肥田や測量方の小野友五郎(のちの東京天文台長、茨城県笠間出身)、運用方の浜口興右衛門(幕臣、のちの横須賀造船所造船科主幹)が操船の指揮をしていたといいます。

帰国後も幕府の海軍畑を歩み続け、軍艦操練所頭取手伝出役を経て、軍艦頭取出役となり、翌年には幕府軍艦としては最初となる蒸気軍艦、上述の千代田形の蒸気機関を設計。このほかにも海路上洛する徳川家茂の御座舟「翔鶴丸」の艦長を務めるなど次々と出世し、1864年(元治元年)には軍艦頭取となりました。

幕末には、幕府海軍の顔として君臨し、幕府軍艦、「富士山丸」の艦長を務め、戊辰戦争を戦いました。維新後、静岡に戻り、新設された静岡藩の海軍学校頭となりましたが、1869年(明治2年)新政府に呼び戻されて東京に戻り、民部省に出仕しました。

しかし、その後元の海軍畑に戻り、横須賀海軍造船所の所長になりました。この時代に岩倉具視の欧州使節団の一員として欧米各国を歴訪しています。はっきりとしたことはよくわかりませんが、おそらくは語学のほうも達者だったのではないでしょうか。

帰朝後も出世街道を登りつづけ、工部大丞、海軍大丞兼主船頭と進み1875年(明治7年)にはついに海軍少将となります。晩年には、宮内省の御料局長官なども勤めましたが、明治22年(1889年)、藤枝駅で走りはじめた列車に飛び乗ろうとして転落、死去しました。

当時の列車に便所がなかったので、駅で用を足した後、無理に汽車に戻ろうとしたそうです。同年中に列車内への便所の設置が始まっていますが、この事故がこれを後押ししたといわれています。

維新前の一時期、このころまだ建設途中だった横須賀造船所のための工作機械を購入のため、オランダやフランスに派遣されました。その際、幕末から明治にかけて日本で活躍したフランス人の技師、「レオンス・ヴェルニー」からかなり助けられたようです。

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このフランソワ・レオンス・ヴェルニー(Francois Leonce Verny)という名前を知っているという神奈川県民は多いでしょう。フランスからのお雇外国人のひとりで、1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他横浜などの近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したことで知られています。

横須賀・横浜のほかにも、アジア最大の造船能力を誇る長崎造船所の建設にも携わるなど、幕末の日本にはなくてはならない人材でした。

こうしたことから、レオンス・ヴェルニーは日本の近代化と日仏友好の象徴とされており、横須賀海軍基地に隣接する海辺には、ヴェルニーの名を冠した「ヴェルニー公園」が造営され、胸像も設置されています。

同公園内にはヴェルニーの業績を紹介するパネル等が展示された「ヴェルニー記念館」もあり、横須賀製鉄所建設に大きな貢献をした彼を偲んで毎年11月中旬の土曜には「ヴェルニー・小栗祭式典」が開かれています。

「小栗」というのは、小栗忠順(ただまさ)のことで、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国したことで知られる人物です。幕府の洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などの軍備を推進した中心人物でしたが、幕末に新政府軍に捕えられ斬首されました。

幕末の動乱の中では最も評価の高かった幕臣のひとりであり、大鳥圭介、大隈重信など明治の元勲はこぞって小栗を絶賛しています。また東郷平八郎は「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と評しました。作家の司馬遼太郎さんは、小栗のことを「明治の父」とまで記しています。

幕末には、江戸幕府の財政再建や軍備の増強をフランス公使レオン・ロッシュに依頼しており、その関係もあってヴェルニーとも親交がありました。ヴェルニーとともに式典の対象となっているのはそのためのようですが、横須賀造船所、製鉄所の造営など横須賀の発展に寄与したためでもあります。

この小栗についてはまた別の機会にじっくり書いてみたいと思いますが、今日は、横須賀発展のもう一人の立役者、ヴェルニーのほうのことを少しく書いておきましょう。

1837年、フランス中部のオーブナ、というところで製紙工場を経営する父の元に生まれました。5男2女の兄弟の三男であり、就学年齢の8歳になるとこの町で神父が経営するコレージュ(日本の小6から中3に相当)に通ったあと、16歳でリヨンの名門校リセ・アンペリアルに入学。2学年次には数学で学年1位をとっており、成績はまずまずだったようです。

19歳でかねて志望していた、フランスの理工系エリート(テクノクラート)養成のための高等教育機関、エコール・ポリテクニークへ入学。トップクラス、というわけでもなく、そこそこの成績で卒業したようで、続いて海軍造船工学学校への入学を許されました。

卒業後、フランスの最西端、ブルターニュ半島の西端に位置するブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事するようになります。

これより少し前、フランスは、清輸入量超過や外国人排斥に源を発して、清国との戦争、アヘン戦争、アロー戦争を引き続き起こしており、最終的に北京条約で終結し、清の半植民地化が決定的なものとなっていました。

1860年の北京条約の締結後も清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波(ニンポー)で造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めました。このとき、その建造監督への就任の命が下ったのがブレスト造兵廠に入ったばかりのヴェルニーであり、彼はこれを受諾し、1862年に上海に向かいました。

寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設して1864年には予定の4隻の砲艦全てを竣工させるなど手柄をたてました。この功績により、翌年ヴェルニーは、レジオンドヌール勲章を受章しています。こうしたことをみると、学校の成績はたいしたことはないものの、実務には長けていた人であったことがわかります。

上述のとおり、この当時の江戸幕府は、小栗忠順などに命じて軍備の近代化を図ろうとしており、薩摩や長州が主としてイギリスに援助を求めたのに対抗して、フランスの協力による近代的な造兵廠の建設を決定しました。

そして、フランス側の担当者だった提督・バンジャマン・ジョレスにそれを伝えたところフランスはこれを快諾し、彼の命により、日本に派遣されてきたのがヴェルニーでした。フランスにすればこれを契機に幕末の動乱に介入し、あわよくば清国のように日本を植民地にしようと考えていたことは間違いないでしょう。

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それはともかく、フランス政府から日本に最新技術を伝えてやってくれと言われ、技術者として自信をつけていたヴェルニーは、意気揚々と日本にやってきまし。1865年1月に江戸に到着すると、早速、江戸近辺に依頼された造兵廠の候補地を探し始めます。

造船所や製鉄所などの建設予定地としては、波浪の影響を受けにくい入り江であること、艦船の停泊に十分な広さと深さを備えていることなどが第一条件でしたが、その結果として選ばれたのが横須賀でした。

地図を見てもらえばすぐにわかるのですが、横須賀のある三浦半島というのは、東京湾の湾口を形成する半島であり、そのすぐ前を対岸の富津との間にある狭隘な浦賀水道が通り、そこを通る船舶をその位置から直接砲撃できるというメリットがまずあります。

かつて、幕臣の江川英龍が、三浦半島に砲台を築いて防衛線とすることを幕府に提言しましたが、このとき、幕府は台場を造ることに固執したため、それを見送りました。しかし東京湾奥部の台場よりも狭隘な浦賀水道に面するこの位置に第一防衛線を敷くことの方がメリットがあることは一目瞭然であり、ヴェルニーもそこに目をつけました。

加えて三浦半島の最上部の北側に位置することから台風などの影響も受けにくく、しかも前面の水深が深いために大型の艦船が停泊しやすいという特徴があります。このため、明治後には三浦半島は国防上の要衝地とされ、横須賀には横須賀鎮守府が設置され、日本海軍の本籍地となりました。

また、太平洋戦争の末期には、アメリカ軍の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれ、現在もアメリカ海軍第7艦隊横須賀海軍施設および海上自衛隊および陸上自衛隊などの基地が置かれています。

ヴェルニーは、中国の寧波でこうした海軍施設を建設した経験から、その当時の建設資料も持参してきており、これを参考にまず、造兵廠の建設原案を作成し、見積りとともに、駐日公使のレオン・ロッシュに提出しました。

その計画書には、4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、予算は総額240万ドルと記載されていました。これは現在価値にすると、1000億円くらいであり、かなり大きな規模であることがわかります。来たる東京オリンピックの予算は全施設で4000億円ですから、その4分の1です。

しかし、国内における動乱や相次ぐ列強からの強迫におびえていた幕府はこれを飲み、幕府に交渉を命じられていた、沼津藩主、水野忠誠と越前敦賀藩主、酒井忠毗が約定書に連署して建設が正式に決まりました。これを受け、ヴェルニーは、建設に必要な物品の購入やフランス人技術者を手配するため、一旦日本を発ちフランスに一時帰国しました。

おそらくこの同時期に、前述の幕臣、肥田浜五郎もオランダ・フランスに派遣され、ヴェルニーとともに、新造船所に必要な機材の調達をともに行ったものと考えられます。しかし肥田は帰国後この横須賀造兵廠の建設には関わらず、1868年(慶応4年)に軍艦役に就任し、のちに軍艦頭(司令長官)に昇進して戊辰戦争を戦っています。

一方のヴェルニーは、1866年3月にまず、建設にあたるフランス人技術者たちの住宅の建設を行うための担当者を先に日本に派遣しました。その後、資材を調達してヴェルニー自身もマルセイユを出発し、6月に再び横浜に到着しました。

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その後、横須賀ではフランス人達が驚くほどのスピードで造成が進められ、入り江が埋め立てられ山が切り崩されました。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者に指示を出していたといわれています。

こうしてフランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が次々と建設されていきました。そんな中、ヴェルニーは、1867年3月に上海に渡り、上海領事だったモンモラン子爵の娘・マリーと4月22日に結婚式を挙げています。

ところが時代はそろそろ幕末の動乱の時期に入っていきます。1868年に戊辰戦争が勃発し、この年の3月には新政府軍が箱根まで進出してきたため、ヴェルニー達フランス人には、横浜居留地へ退去するよう指示が出ました。が、ヴェルニーは「たかが政治動乱のために、事業中断はできない」として通報艇を待機させながら横須賀にとどまりました。

ヴェルニーはフランス海軍に所属していましたが、軍人というよりは、技術者であり、どうも新政府軍と幕府軍の戦いを軽く見ていたようなきらいがあります。とまれ、結果的には建設中の施設が攻撃を受けるようなことはありませんでした。が、侵攻してきた新政府軍によって、ほとんど完成間近だった、横須賀製鉄所は接収されてしまいます。

この時点までに用した経費は予定の240万ドルに対して、150万ドル超にのぼっていました。予定通り完成させるためには、さらに80万ドル以上が必要でしたが、予算難の新政府はヴェルニーらお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討しました。しかし、結局、フランス公使・ウートレらの反対によって建設の継続が決まっています。

一方、明治新政府は、金がないないといいながらも、諸外国との貿易の拡大のためにも海運業の振興は不可欠と考えており、新たな港湾の開発などには金を惜しみませんでした。

それまでも幕府が締結した日米修好通商条約により、函館、横浜、新潟、神戸、長崎の5港が開港していましたが、明治時代を迎えると横浜や函館、小樽などの港町が急速に発展させ、兵庫津・大輪田泊の歴史を継承する神戸は、東洋最大の貿易港になりました。が、これらの港に入る外国船は口々に日本の海は灯台がないので危険だと言い張りました。

日本近海は暗礁も多い上、光達距離の短い灯明台や常夜灯の設置のみで航路標識の体系的な整備が行われていませんでした。そのため諸外国から「ダークシー」と呼ばれて恐れられていました。

このため、幕末の1866年に江戸幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ江戸条約、および1867年4月にイギリスと結んだ大坂約定で合計13の灯台を建設することが決まっていいましたが、明治維新による政権交代のため着工が遅れていました。

新政府になってからもその条約は有効であったことから、その設計・建設は明治政府が継承しましたが、新政府もまた貿易振興のために灯台は必要だと考えており、その建設は前向きでした。そしてこのとき、それを任されたのが、ヴェルニーや、リチャード・ヘンリー・ブラントンといったお雇い外国人でした。

ヴェルニーはこのとき、観音崎灯台の建設を新政府から依頼され、このため横須賀海軍工廠以外にも灯台建設に携わることになりました。こうして灯台用機械をフランスから取り寄せ、建設にとりかかったのが日本最初の洋式灯台である「観音崎灯台」です。

もっとも、ヴェルニー自身は直接手を下さず、灯台の建設はもっぱら専門家である、ルイ・フェリックス・フロランという専門家をフランスから招いて、彼に建設を命じました。観音崎灯台は、1869年(明治2年)2月11日に点灯しましたが、着工が開始された1868年(明治元年)11月1日が現在、「灯台記念日」となっています。

このほか、ヴェルニーは、東京周辺で観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わりました。各灯台はその後、関東震災で壊れるなどしてヴェルニーの携わったそのままの姿は失われました。そのうち品川灯台だけは、この当時のものが博物館明治村に移築され現存しています。

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一方の横須賀製鉄所は1871年に完成し、この年、それまで幕府施設として既にあった「横須賀造船所」の名前を踏襲してその名に改名されました。そして、この年9月に、前述の肥田浜五郎が初代の横須賀造船所長として横須賀に赴任してきました。肥田とはかつてフランスでも一緒に機材の調達を行っており、浅からぬ縁があったといえます。

こうして新造船所で、ヴェルニーが指導して肥田が造船したのが、1872年に進水した「蒼龍」です。内海専用の御召艦として建造されたもので、198トンの木造外車汽船(帆走併用)でした。この船は、維新後初の国産艦といえるものですが、ヴェルニーの指導により完成したということで、その意味では純粋に国産技術で完成されたものとはいえませんでした。

しかし、その3年後1875年に進水した、「清輝」は、設計から施工まですべて日本人技術者の手によって完成したものであり、実質、明治維新後の初めての国産軍艦といえるものです。その進水式には明治天皇も臨席し、1878年(明治11年)から翌年にかけては、日本艦船として初めてヨーロッパへ遠征した、という記念すべき艦です。

このように、ヴェルニーが手がけた横須賀造船所のスタートは上々でしたが、ちょうどこの船の建造中のころから、ヴェルニーの高給は新政府にとってネックとなりつつありました。このため、明治政府はフランス公使・サン=カンタン伯爵と交渉して解任を取り付け、1876年にヴェルニーはお雇い外国人の職を正式に解嘱されました。

しかし、それまでの功績から、解任直前の1875年12月には、海軍中将の川村純義の斡旋で明治天皇の謁見を受けたほか、翌年1月の退任の際には、浜離宮内にあった迎賓館、延遼館(解体されて現存しない)で送別の宴が催されました。このときは、内大臣、三条実美も出席し、直々にヴェルニーに書棚と花瓶が贈られました。

そして、同年2月、それまでの12年間の滞在をまとめた報告書を政府に提出したのち、3月に家族とともに横浜港からフランスへ向けて帰国しました。

フランス帰国後は、海軍造船工学学校での教授職などを模索しましたが実現せず、ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後海軍を退職し、1876年からは、サン=テティエンヌ近郊の炭鉱の所長となりました。フランスの東部の都市でフランス最初の鉄道が開業した町と知られており、鉄道敷設の目的も鉱山で採掘された鉱石を輸送するためでした。

その後、サン=テティエンヌ商工会議所の幹事を務め、鉱山学校の設立などに携わるなど地域の振興にも努めていましたが、1895年に炭鉱の仕事を辞して、故郷のオーブナに戻り、かねてここに購入していた家で、1908年5月2日、肺炎のため死去しました。満70歳没。

日仏修好通商条約から数えて国交開始150周年となる2008年には、この年発売された日仏両国の代表的な人物の記念切手「幕末シリーズ」の10人のうちの一人に選ばれました。

なお、ヴェルニーと妻の間には、日本滞在中に生まれた1男2女がありましたが、彼らがその後日本に帰ってきたという記録はありません。が、2006年にヴェルニーのひ孫の、ジョージ・ヴェルニー(George Verny)が、横須賀を訪れ、曾祖父の築いた造船所跡地などを視察しています。

このとき、ひ孫のジョージは、父の威光を知るためには、ここへ来ることがどうしても必要だった、と述べ、帰国後その業績を6人の子供たちに語って聞かせる、という談話を残して帰国しています。

横須賀のヴェルニー公園の中央には、約2000本のバラが植栽されており、いまちょうど見ごろを迎えているころのはずです。一度訪れてみてはいかかでしょうか。

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緒明菊三郎のこと

以前、このブログで三島駅前の「楽寿園」のことを話題にしましたが、その時この庭園を朝鮮王朝の李王家から買い取った、「緒明圭造(おあけけいぞう)」なる人物がいることを書きました。

この緒明圭造は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後造船王になったという「緒明菊三郎」の子孫ではないかとも書きましたが、最近これに関する記事をみつけ、どうやら緒明圭造は緒明菊三郎の娘婿だったらしい、ということが分かりました。

どういう経緯で緒明家に養子に入ったのかまでは分かりませんが、これで緒明菊三郎と緒明圭造がつながり、この当時の緒明家の系図がはっきりしました。

つまり、江戸時代に船大工だった嘉吉の息子が、菊三郎、その娘婿が圭造、そしてこの圭造の子孫は、今も三島に在住されており、現在も三島市の名士、ということのようです。

伊豆の戸田で宮大工をされている方のホームページによれば、楽寿園の東側にある「三島市民会館は」はこの緒明家の御子孫の方の土地で、これを三島市に貸しているそうで、また緒明家は静岡銀行の大株主で、かつてその頭取を勤めた方を排出されたこともあり、しかも緒明家の今の御当主のご母堂は西郷隆盛の孫娘さんということです。

これらのことから、この緒明家の「開祖」ともいうべき「緒明菊三郎」氏は、どうやらその当時の明治政府の要人と関わりの中で、大きな財を得るようになった人物であったことがうかがわれます。その人物関係の詳細はまだよく分からないことも多いのですが、とりあえず今現在で私が把握していることを以下にまとめておきたいと思います。

まず、緒明菊三郎のお父さんの嘉吉です。江戸時代に戸田の船大工で、この当時はまだ平民ですから、緒明姓は名乗っていません。これも以前このブログで紹介した戸田造船資料博物館で公開されている資料の中に、ロシアのプチャーチン提督の帰国のために造られた「ヘダ号」の建造に関わった大工7人の名前がありますが、このひとりが、この嘉吉です。

ヘダ号の造船は、この7人だけで行われたわけではなく、そのほかにも数百人単位の大工が関わりましたが、この7人は他の大工の「世話人」ということで選ばれたようで、要するに大工頭、頭領という立場だったようです。

ほかに、上田寅吉、佐山太郎兵衛、鈴木七助、渡辺金右衛門、堤藤吉、石原藤造の名前がありますが、このうち、上田寅吉がリーダー格です。

この上田寅吉はヘダ号の建造に加わったのち、江戸に「長崎海軍伝習所」が開設されると、幕府から「蒸気船製作習得」の命を受け、この伝習所に入所。さらにその後、幕末の1862年(文久2年)から5年間にわたって、榎本武揚や明治政府で重職を歴任した「肥田浜五郎」らと共に「職方」、つまり「技術担当」ということでオランダに留学しています。

オランダから帰国後は、学んできた西洋の造船術を国内で他の技術者に伝授していましたが、やがて幕末の動乱に巻き込まれます。そして榎本武揚に従って箱館戦争にまで参加しますが、維新後許されて、1870年(明治3年)から明治政府に出仕。

その後横須賀造船所(のちの横須賀海軍工廠)で造船技術者として、国産軍艦の「天城」「清輝」などの多くの明治海軍の艦船製造に従事しました。

戸田の造船郷土資料博物館前には上田寅吉を顕彰した「大工士碑」があります。また、ここから2kmほど離れた牛ヶ洞には、「造船記念碑」が立っており、碑に刻まれた顕彰の言葉のなかにも「上田寅吉」の名が記されており、戸田の人々にとっては誇るべき郷土の偉人とされているようです。

この上田寅吉と嘉吉は仲がよかったようで、「ヘダ号」の造船時には、嘉吉の息子の菊次郎を手元に置き、そのころまだ10才程度だった菊次郎に船大工としての指南をしています。

後年、こうした上田と交流のあった嘉吉は息子の菊次郎を最新の造船技術を学ばせるため、上田の元に送っていたようです。そしてそこで菊次郎は榎本武揚とも知り合ったようで、戊辰戦争で幕府が新政府軍に敗れた際、幕府軍艦である「開陽丸」に座上して大阪から江戸へ引き上げる榎本に、菊次郎も修理工として付き従っています。

しかし、「蝦夷共和国」終焉まで榎本と行動をともにした上田寅吉とは異なり、菊次郎は箱館戦争には参加していません。このころ父の嘉吉の病気が悪化していたためと伝えられています。

上田寅吉とともにヘダ号の造船のリーダーとして活躍した嘉吉ですが、ヘダ号が建造された江戸末期の時代は、大工頭とはいえ生計は大変貧しく、船大工をしても日銭しか入らないため、そのお母さんが内職をして家計を助けていたといいます。

先だっての戸田の宮大工さんのHPによれば、古着をさばいて「鼻緒」にする内職をしていたそうで、一晩中この鼻緒作りを続け、夜明けを迎えることもしばしばだったようです。

明治になると、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、1870年(明治3年)に平民も苗字を持つことが許される「平民苗字許可令」出され、1875年(明治8年)からは、平民すべてが苗字をつけるよう義務付ける法令もでました。

このとき、大工の嘉吉の家でもその苗字を何にしようかと色々と考えましたが、上述のように母が「夜明け」まで鼻緒の内職をしていたことにちなみ、「緒明」という名字にしたといいます。まるでウソのような話ですが、「緒明」という名前は全国的にみてもほとんどないことから、事実かもしれません。

こうして、嘉吉の息子であった、菊三郎もこのころから、緒明菊三郎と名乗るようになったようです。菊三郎は1845年(弘化2年)生まれですから、明治3年には25才になっていたはずです。

このころ、父親の嘉吉がどういう仕事をしていたのか不明ですが、上田寅吉とともにヘダ号造船に関わったことでもあり、おそらくは嘉吉を初めとする戸田の大工たちも横須賀に呼ばれ、上田寅吉から最新の造船技術を伝授されながら、海軍の艦船の製造に携わっていたのではないでしょうか。

このころ榎本武揚は、明治5年に新政府から許されて開拓使となった後、東京に帰任。明治7年には海軍中将となり、駐露特命全権公使としてロシアに渡って千島・樺太条約を結び帰国。翌年には海軍卿に任じられています。

こうした海軍での要職を務めるようになっていた榎本の紹介か、あるいは横須賀造船所で新しい造船技術を駆使して新造船に励んでいた上田寅吉の紹介で、菊三郎もまた横須賀、あるいは東京に出てきていたと思われます。

現在、横須賀に「緒明山」という公園がありますが、ここはその昔、緒明菊三郎が持っていた土地だそうで、横須賀にも縁が深かった菊三郎が後年財を成してから購入したものと思われます。

しかし、その父の嘉吉の収入は明治になってもまだ乏しく、このころの菊次郎はそうした父に頼ることもできず、東京で暮らし始めたころは生活も苦しかったことでしょう。

あるいは父とともに横須賀造船所で働いていたのかもしれませんが、厳しい生活の中で苦労して貯めたお金で、小さな和船とこれに乗せる蒸気エンジンを苦労して入手することに成功します。

この当時はまだ庶民にとって蒸気で走る船などというものは夢の乗り物であり、これが水の上を走る姿はさぞかし人々の耳目を集めたに違いありません。菊五郎青年の偉いところは、これをただ走らせるだけでなく、「乗船料」をとって、人を乗せれば儲かるのではないか、と考えたところです。

そして、この蒸気和船を隅田川に持って行き、これにひとり一回「一銭」で乗れるという「一銭蒸気船」なる商売を始めました。このころ隅田川に浮かぶ船のほとんどは手漕ぎや帆かけの和舟でしかなかったはずで、そんな中をポンポンと軽やかな音を立てて快走する蒸気船に人々は殺到したようです。

連日行列ができるほどの大繁盛となり、菊三郎はたいへんなお金持ちになっていきました。

このころ、榎本武揚は、かつて同じ伊豆出身の代官である江川太郎左衛門が建造したお台場のうち、4号お台場が何も使われていないので、明治政府が手放そうとしているらしいという話を耳にします。

維新後の明治政府は、このころたいへんな財政窮乏状態にあり、近代国家建設のために国内だけの資金では足りず、イギリスやフランスなどの諸外国からも借金をしまくっていました。旧幕府が保有していたもので売って金になるものは片っ端から売り払っていたようで、使いどころもなく草ぼうぼうになっていたお台場もその候補のひとつでした。

このころ海軍卿にまで上り詰めていた榎本武揚はこの話を聞き、上田寅吉に相談したところ、それなら一銭蒸気船で大儲けしている菊三郎にここを買わせ、そこで我が国初の本格的な西洋式造船所を造ろうと上田が提案しました。

こうして4号お台場に造られたのが「緒明造船所」です。しかし、このお台場を菊三郎は購入したわけではなく、明治政府からの「貸し出し」ということで格安に入手したようです。そういうことができる人物といえばやはり榎本武揚以外には考えられず、その入手にあたって裏で暗躍したに違いありません。

現在での場所は北品川の天王州アイル駅の前にある「第一ホテル」の敷地がそれだそうです。この造船所はその後昭和14年ころまで操業されましたが、太平洋戦争に突入する前に軍備増強をしたかった昭和海軍も金欠であったため、とんでもない安い金額でこの造船所を緒明家から買い取ったという話が残っています。

ちなみに、港区の東京海洋大学の構内に保管され、国の重要文化財に指定されている帆船「明治丸」は、明治政府がイギリスから購入した船ですが、この船のマストを当初の2本マストから3本マストに改造したときの責任者は緒明菊三郎という記録が残っており、改造されたのもこの緒明造船所ではないかと思われます。

榎本武揚の部下に「塚原周造」という人がいましたが、この人は、下総豊田郡(茨城県下妻市)出身で、江戸開成所、箕作塾、慶応義塾で学び、明治政府にあっては大蔵省管船課に入って、鎖国制度で遅れた日本の海事行政の整備を進め、1886年(明治19年)には逓信省管船局長となりました。

このころ、榎本武揚が箱館戦争当時の同僚で、明治後は農商務大臣になっていた荒井郁之助が、箱館(函館)で討ち死にした戦友の中島三郎助という人物の供養のために造船所の創設を提唱しました。

中島三郎助は、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた人で、その後築地の軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、浦賀にあった長川という川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設し、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行うなどの功績のあった人です。

1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁であった榎本武揚らと行動を共にして江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に加わりました。「蝦夷共和国」下では箱館奉行並、砲兵頭並を勤めましたが、箱館市中が新政府軍に占領された後、本陣五稜郭降伏2日前に二人の息子とともに戦死。享年49才でした。

この荒井郁之助の提案に榎本武揚も賛成し、榎本の部下であった塚原にも声がかかり、榎本、荒井、塚原の三人は会社設立に向け奔走しました。この結果、浦賀の豪商の臼井儀兵衛と、緒明造船所社長になっていた緒明菊三郎も参画し、五人による合資会社を設立することになりました。

後年、さらにこの会社には後の浅野セメント社長になる浅野総一郎らも参加し、1897年(明治30年)、日本で最初のドライドックを保有する浦賀船渠(ドック)株式会社(現東洋汽船)が設立されました。

こうして、菊三郎は、、自らが興した緒明造船所の経営の傍ら、浦賀船渠などの経営にも参画し、造船業を中心に多角的な事業展開を図っていきました、造船のほかにも海運業を手掛けるようになり、このほかにも銅鉱石の採掘と精錬所の経営、伊豆や関東各地での緑林や開墾なども行うようになりました。

最盛期に菊三郎の所有した汽船の総排水量は3万tにおよんだそうで、明治時代における文字通りの造船王・海運王になりました。

ところが、お台場に造った造船所は、その後、焼失してしまいます。原因は不明ですが、同じ地に再建をしようとしたところ、政府からの貸地であったことから、明治政府からその継続借地の許可が下りなかったようで、この地での再建をあきらめます。

そして、移転を繰り返したのち、1903年(明治36年)になって三重県の志摩郡鳥羽町安楽島(現鳥羽市)に造船所を移す計画を立てました。

この地は遠浅の湿地帯だったようですが、ここに流れ込む「加茂川」という川の下流の浅瀬を埋め立て、ドック、倉庫等を建設し、7~8000トン級の汽船を4~5艘を横付けにし、参宮線も延長するといった遠大な計画でした。そして、大規模な埋立工事を開始しましたが、泥の深い海に堤防を築く事はかなりの難工事だったようです。

三重県関連のホームページ「三重県案内」の中の資料には「現に工事中に属す、今や湾内の浚渫及埋立を企て大船渠数個を設け倉庫を建設し・・・資を投すること百数十万」とあり、多くの経費を投入して工事を進めていたことがわかります。

その後も工事は続けられましたが、日露戦争で所有船が買い上げられてしまい、ついに工事が完工するのを見届けることもならず、菊三郎は、明治42年に死去。65才でした。

この干拓事業は、戦後農林省により再開され、昭和39年に完成しました。昭和45年には鳥羽市に払い下げられ、この土地には、「大明東町・西町」という名前がつけられました。この町名は「緒明」にちなんだものといわれています。

以上が緒明菊三郎に関するまとめです。緒明菊三郎という人物は、歴史上それほど有名な方ではなく、あまり資料のない中でのとりまとめなので苦労しましたが、なんとか形にしてみました。

まだまだ書ききれていない部分もあることでもあり、また後日新資料などを入手したら書き改めてみたいと思います。今日のところはここまでにさせていただきます。