伊豆と伊予

今日はクリスマスイブで、今年もあと残すところ1週間になりました。

昨年の今頃はどんなだったかな~と思い返しているのですが、まだまだ引越し後一年にも満たず、家の中もまだ混とんとしていて、正月をじっくり迎えるような心の余裕もあまりなかったように思います。

が、今はもう家の中も片付き、今年の大掃除もおおまかなところは終え、年賀状の印刷も済ませて、あとまだ少々やり残したことはあるものの、なんとか今年一年を静かに振り返る時間ぐらいはできそう、といった感じになっています。

この年末年始には、山口に在住の母がこちらで過ごしたいというのでこちらに来ますし、千葉にいる息子君も帰ってくるというので、昨年末のように二人(プラス・ネコ一匹)の静かなお正月ではなく、少しく賑やかなお正月になりそうです。

ただ、今年、もう80歳を超えるこの母は、少々左足が悪く、階段などの上がり降りが不便なので、一緒に連れ出して、あちこち歩かせるわけにはいかないのが残念です。これは特に怪我をしたとかいうわけではないのですが、若いころに勤めていた会社での長時間の立ち仕事がたたったのではないかと思われます。

なので、長距離を歩くようなところや、長い階段があるようなところはタブーであり、来年のお正月の初詣も、三島神社のような長い参道があるところはやめにしようかなと思っています。

こうしたことを、先日行った修禅寺駅前の散髪屋さんとお話をしていたところ、この散髪屋さんの一家が毎年初詣に行くのは、近くの「広瀬神社」だと教えてくれました。

この広瀬神社というのは、駿豆線で修善寺から二駅の「田京」という駅の南側に鎮座する神社で、延喜式神名帳では、「従一位」とある名社であり、その昔は、この地方一の大社として崇めたてられていました。

主祭神は、溝杙姫命(みぞくいひめ)であり、これは玉櫛媛(たまくしひめ)ともいい、事代主(ことしろぬし)という神様との間に産まれた子供の一人は、神武天皇の后になったと言い伝えられています。

社名の起こりは地名に基づくと思われ、その昔、河川が山間から急に平野に出たり、河川に支流が合流したりして川瀬が急に広くなったところを「広瀬」と呼んだことから、この場所もその当時はそうした場所であったようです。

古くはこの一帯は、狩野川の河水が社域のすぐ傍を流れるような場所だったといい、社域はさながら河水のなかに島のように浮んでいたそうで、伊豆国の主要なる河川であるこの狩野川の広い瀬に臨んで、古人がその河神を祀るために創建したようです。

干ばつのときにも水が枯れず雨天に氾濫を起こさず、順調なる水の供給を希い、年々の農作の豊穣を祈ったのがその起原だと考えられますが、社伝には、この神社はその昔伊豆最南端の下田の白浜からこの地に移ったと書いてあるそうです。

さらに、この地からさらに北部の三島市に遷祀したのが、現在の三島大社だと言われており、本当だとすると、三島大社よりもさらに歴史のある古刹ということになります。

その創建年月は、天平5年(733年)とも伝えられており、往古のその社殿は金銀をちりばめた壮大なものだったとか。禰宜が36人、供僧も6坊もいたそうで、この当時は社域も現在よりもずっと大きかったようです。

が、天正18年(1589年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、兵火により社殿、宝物源頼朝、北条時政等の社領寄進状も焼失し、かなりの所領を失いました。

しかしその後、伊豆国全州の勧進を以って再興され、次いで江戸時代になってからも修営がおこなわれました。江戸時代には、「福沢大明神」と呼ばれていたようで、その後「深沢明神」と改称されて呼ばれるようになり、明治6年の記録でも「深沢神社」となっています。

しかし、明治新政府による神仏分離と廃仏毀釈に伴い、明治28年に、現社号「広瀬神社」になりましたが、これはもともとこの呼称で呼ばれていたものに復称したということになります。

このように、色々調べてみると、かなり由緒正しい神社であり、しかも三島大社よりも創建が古いと聞いて驚いています。

今年の正月の初詣には三島大社に夫婦してお参りしたのですが、すぐ近くにこうした古式ゆかしい神社があるなら、母を連れて行くのもここがいいかな、と思うようになりました。

現在の広瀬神社は、こじんまりとした社殿を持ち、また小公園ほどの社域しかなく、参道もそれほど長くないため、足の悪い母を連れていくにはちょうど良いに違いありません。

我々が住む別荘地のすぐ麓の修禅寺温泉街にも日枝神社という古い神社があるのですが、ここへも参拝するとして、来年のお正月の初詣はこうした近隣の神社で済ますことにしたいと思います。

ところで、この広瀬神社は、この地へ来る前に下田の白浜にあったと書きましたが、その前には、三宅島にあったという説もあるようで、さらに調べてみるとこの三宅島にあったという神社は、天平年間(729~749年ころ)に、伊予国から遷祀されたという記録も残っているようです。

この伊予の国、すなわち現在の愛媛県でこの当時一番大きかった神社というのは、「大三島」という島にある「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」であり、分祀されたのもこの神社からだと思われます。

大三島というのは、広島県中央部の竹原市と愛媛県の今治市のちょうど中間あたりの海に浮かぶ島で、この「大山祇神社」というのは、先の三島市にある三島大社とともに全国にある「三島神社」の総本社として崇拝されている大神社です。

主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝えられ、「三島神社」と呼称される神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで全国に広がります。

従って、かつて三宅島にあったとされる広瀬神社もまた、瀬戸内海から太平洋側を通ってこの地に分祀されたものと考えることができ、これが事実だとすると、愛媛県の大三島と三宅島、下田市、広瀬神社のある伊豆の国市は「三島」というキーワードでつながっていることになります。

おそらく、現在三島にある三島大社もまた、広瀬神社と呼ばれていたものがここへ移されるとき、このゆかりで「三島」大社と呼ばれるようになったのではないか、と私は考えているのですが、これを裏付ける資料を探してみたところ、そうしたものはとくにみあたりません。

なので、これはあくまで私の推測にすぎませんが、それにしても、私にとってはとくに奇縁だなと思うのは、実は私が生まれたのが愛媛県だからです。

生まれ故郷である愛媛から遷祀された神社が回りまわって現在住むこの伊豆の地にあるというのは、なにやら不思議なかんじがします。

ただ、私は、愛媛県内でも南予と呼ばれる大洲市生まれであり、この「大山祇神社」のある大三島ともそれほど遠くはないものの、3才になるかならないかのころに、父の仕事の関係で山口県に移っていますから、この大洲時代の記憶はまったくといってありません。

にもかかわらず、生まれたところのすぐ近くにある場所から移ってきた神社が現在住む場所からすぐの場所にあると聞くと、妙に郷愁じみたものが沸いてくるのが不思議です。

愛媛は、育った場所でこそありませんが、広島や山口に近く、松山などへは頻繁にフェリーも出ていて、子供のころからよく旅行で出かけたりしていたので、まんざら知らない土地でもありません。その昔、伊予三島市と呼ばれていた現在の四国中央市には、父方の祖父夫婦が住んでいたこともあり、この東予地方にも遊びに行ったことがあります。

……と書いて、この伊予三島市もまた「三島」であることに今気が付きました。三島神社の総本社である大山祇神社もまた、「大三島」に存在し、広瀬神社が移転した三島大社のある地もまた三島市内であり、どうやら今日のキーワードは、「三島」のようです。

この大山祇神社には、残念ながら長じてからも行ったことがありません。なので、どんな場所かは想像するしかないのですが、瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5m)西麓という風光明媚な場所に鎮座し、写真を見る限りはかなり壮大な神社のようです。

このあたりは、温暖な場所であり、みかんの産地として有名ですが、尾道~今治間を結ぶ近年本四連絡架橋として「しまなみ街道」がこの島を通っており、アクセスもしやすいようです。

広瀬神社にもゆかりの神社ということで、こちらについても少し調べてみたところ、ここはどうやら古来から、山の神・海の神・戦いの神として崇拝を集めていた神社のようです。

歴代の朝廷や武将から尊崇を集め、源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集中して保存してあるといいます。

このほか、社殿・武具等の文化財として国宝8件を保有し、国の重要文化財に至っては76件をも有し、昭和天皇の海洋生物研究のための御採取船「葉山丸」を永久保存するために建設された「大三島海事博物館」などが大山祇神社に併設されているそうです。

ただ、昭和天皇=太平洋戦争といった関連の海事資料が提供されている、というわけではないようです。が、この大山祇神社そのものがもともと戦いの神様ということで、初代総理大臣の伊藤博文や、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの多くが参拝のためにこの地を訪れています。

近年になっても、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝があるといい、さながら軍事における「メッカ」とも言うべき場所として崇められているようです。

江戸時代以前の戦国時代・安土桃山時代には、このあたりには瀬戸内最大規模の「河野水軍」と呼ばれる武士集団があり、かの有名な村上水軍も形式的にはこの河野氏の配下である河野水軍に属していたそうです。

が、村上水軍のほうは、独自での活動も活発であり、必ずしも従属関係にはなかったようです。

村上水軍の勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれました。彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されており、伊予国に本拠を持つ河野水軍と異なり、どちらかといえば畿内にその近親者が多かったようです。

とまれ、村上水軍も河野水軍も、伊予の水軍のほとんどが大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであったといい、大山祇神社を中心としてこの地の海賊たちは結束を固めていたことは想像に難くありません。

この河野水軍の一派に、大祝(おおほうり)氏という一族がありました。伊予河野氏の一門であり、やはり大三島を拠点としていたようです。大祝氏は代々神職として大山祇神社を勤めており、このため戦場に立つことはあまり多くなかったようですが、それでも戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していました。

ちょうどこのころは、戦国時代であり、周防(現山口県)の大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大しているなか、河野氏や大祝氏の勢力下である瀬戸内海でもその勢力は拡大の一途を辿っていました。

とくに大内家16代当主の大内義隆が家督を継いだころには、大内家は周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となっており、大内家は全盛期を迎えていました。

当然、瀬戸内海を牛耳っていた河野氏とも争うようになり、大内義隆は、1534年(天文3年)、伊予にも侵攻してきましたが、このときは、大祝氏の「大祝安舎(やすいえ)」が陣代として出陣し、この大内軍を撃退しました。

この大祝安舎は、大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうりやすもち)の長男であり、安用にはこのほか安房(やすふさ)という弟と、鶴(つる)という妹がいました。

この鶴姫は、長じてからは伊予きっての美しさだと評判になるほどの美人だったそうですが、その一方では男顔負けの武勇でも知られていました。

1541年(天文10年)にも、大内氏配下の水軍の将・白井房胤らが侵攻すると、このころ神職となった兄・安舎に代わって安房が陣代となりました。安房は主家である河野氏や来島水軍とも連合してこれを迎撃、大内軍を撤退させることはできたものの、このとき無念の討死を遂げてしまいます。

大内氏のこの地への執着は大きく、その後も同年10月に再び伊予へ侵攻してきました。このとき、亡き兄の安房に代わって陣代として出陣したのが、ほかならぬこの若干16歳の鶴姫であったといいます。

そして、この戦においても、彼女の指揮により河野水軍連合は大内氏を打ち破り、水軍の将・小原隆言を見事に討ち取りました。

実は、鶴姫は、このころ同じ河野衆で、越智安成という若者と恋中にありました。二人は、将来を誓い合っていたといいますが、越智家は大祝氏の配下にある家柄であり、安成にとっては鶴姫は主筋の娘という関係でした。

二人は幼馴染であったようで、同じく水軍の家に生まれたこともあり、子供のころから揃って文武に励み、鶴姫が長じてから安成はその右腕として仕えていたようです。

二年後の1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、配下の陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣。再び大三島を攻略して、瀬戸内海の覇権の確立を目論もうとします。

このとき派遣されてきた大内水軍は、前回・前々回の規模を大きく上回るものであり、河野氏と大祝氏などその一門は全力でこれを迎え撃ちますが、その矢先、安成が討死してしまいます。

右腕であり、恋人でもあった越智安成を失った鶴姫は、怒りと悲しみから復讐を誓い、残存の兵力を集結させて最後の反撃を行います。この戦いは夜戦だったと思われ、不意を突かれた大内軍は壊走し、からくも鶴姫らは勝利を収めることができました。

しかし鶴姫は、この戦が終わったあとで失った兄や恋人のことを想い、18歳で入水自殺してしまいました。

この話は「鶴姫伝説」として現在まで伝えられて残っているのですが、あまりにもよくできた話なので、ウソ話かな~と思ったら、ちゃんと鶴姫が残した辞世の句というのがあるそうで、それは、

「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」

というのだそうです。

鶴姫が着用したとされる胴丸も大山祇神社に保存されており、一般公開されていて見ることができるそうです。これは、「紺糸裾素懸威胴丸」といい、胸部が大きく膨らんでいて、逆に腰部が細くくびれていることから、現存している中では唯一の女性用の胴丸と確認されているといいます。

1959年に重要文化財に指定されており、本当に鶴姫が使用したかどうかの記録は残っていないものの、歴史作家の三島安精という人が、自著「つる姫さま(海と女と鎧)」において、これを鶴姫が使用したと推定したことから、彼女着用のものと言われるようになったようです。

郷土史家の喜連川豪規(きれがわひでき)という人も、「鎧が生んだお姫さま」という随筆を残しており、このお話を元に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」が、2011年6月8日放送でこの鶴姫伝説を紹介しています。

500年以上も前のお話なので、真実かどうかはわかりませんが、現在でも大三島では鶴姫のこの一生を題材にした「鶴姫祭り」を毎年開催しているとのことです。大三島の高台の城跡近くには、地元の人が「おつるさん」と呼んでいる小さな祠があるとのことで、もしかしたら、これは本当に鶴姫のお墓なのかもしれません。

ちなみに、この鶴姫の話は、「鶴姫伝奇」として、日本テレビが1993年に「時代劇スペシャル」として製作、放映されており、このときの鶴姫役は、後藤久美子さんだったそうです。

その後大祝家の一族がどのような末路を辿っていったかはわかりませんが、大祝家が仕えていた河野家は、大内氏の魔の手から逃れ、戦国時代をなんとか生き抜こうとしています。

しかし、永禄11年(1568年)に河野家を継いだ「河野道直」の時代には、河野氏はすでに衰退しきっており、家中は、近隣の大名で敵対する大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した者たちの乱に苦しんでいたようです。

この河野通直という武将は、若年で頭領になりましたが、人徳厚く、多くの美談を持つ人物で知られています。反乱を繰り返していた家臣の一人に大野直之という人物がいましたが、通直に成敗されて降伏後その人柄に心従し、その後改心して、忠実な部下になったということです。

その後、豊臣秀吉による四国攻めが始まると、若き頭領を頂く河野家内では小田原評定の如く進退意見がまとまらず、一同は湯築城内(愛媛県松山市道後町の県立道後公園内にある河野氏の城跡)に篭城します。しかし、秀吉配下の、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏。

この際、河野通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したといい、この逸話は、湯築城跡の石碑に刻まれて残されているそうです。

このとき通直は命こそ助けられましたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した名家である河野氏は滅亡してしまいました。

かつて河野水軍と行動を共にすることの多かった村上水軍もまた、その後水軍としての役割を終えていきました。

来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされましたが、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となりました。

1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、これら村上水軍の家々は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされるようになります。

因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地としましたが、平穏な江戸時代にあっては水軍として使われることはありませんでした。

能島村上氏もまた毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となりました。豊臣の家臣となった来島村上氏はその後、江戸期には豊後国の玖珠郡に転封され、「森藩」となりましたが、こちらはこれによって完全に海から遠ざけられ、水軍として組織されることは二度とありませんでした。

こうして、水軍というものは時代の中から忘れ去られていきましたが、この村上水軍を吸収した長州藩は、その後明治維新における立役者となり、その後創設された帝国海軍でも長州人は登用されやすく、そうした中にこうした村上水軍の流れを汲む者も少なからずいたようです。

また、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った連合艦隊の参謀、秋山真之はこの伊予の国の松山出身であり、バルチック艦隊を打ち破るための戦法の多くをこの村上水軍が残した戦術書から仕入れたといわれています。

こうした優れた戦法を編み出したかつての水軍の武将たちが崇めた、大三島の大山祇神社は、今も政治や軍事の第一人者たちのメッカであり続けており、現在も多くの関係者の参拝が絶えません。

そしてこの大山祇神社の系譜につながる、広瀬神社にお参りする日も、あと一週間ほどのちになりました。

残る一週間にはまだまだやること満載ですが、それをスッキリ終えて、気持ちよく新年を迎えたいもの。

来年は、午年ということなので、広瀬神社へ行ったらお馬さんのように疾走できるようお願いしたいと思います。間違っても「失踪」にならないよう、心して新しい一年を過ごしたいと思うのですが、そう「ウマ」くいくでしょうか。

皆さんはもう初詣の行先は決まりましたか? もしかしたら、あなたの行く先もまた大山祇神社つながりかもしれません。ぜひ一度調べてみてください。

ケイリン


先週末の土曜日のこと、修善寺から10kmほど北東に行った山奥にある、「サイクルスポーツセンター」へ行ってきました。

私はかつてここへ二回行ったことがあります。一度目は、日本橋で勤めていた会社の社員旅行でのことであり、20年ほど前のこと。二度目はそれから数年後のことで、このときは先妻と一人息子との家族旅行でのことでした。

昔のことを思い出して少しセンチになるのも嫌だな、とは思ったものの、その後ここがどんなふうに変わっているかを知りたく、またタエさんは一度も行ったことがないわけだし、まぁ行ってみるか、ということになりました。

あまり気乗りのしない再訪問だったわけですが、後を押したのは、この日がこのサイクルスポーツセンターで一年に一回、入場料がタダになる日だったということ。

もともと高い入場料ではないのですが(800円)、それでもラーメン一杯食えるじゃないか(しかもチャーシューメンクラスが)、という意地汚さも手伝い、重い腰を上げることにしたのです。

サイクルスポーツセンターは、伊豆市の旧中伊豆町に位置する施設で、開設は1965年6月といいますから、開園からもうかれこれ半世紀にもなります。競技用自転車に関する調査研究等を通じ、サイクルスポーツの普及を促進する、ということをお題目にした競輪関連の財団が建設したらしい。

現在も、入園料や施設の利用料などの収入のほか、JKA(旧日本自転車振興会)などの競輪運営団体の寄付金や補助などで維持補修費や運営費がまかなわれています。

もともとは、自転車競技を行うことを目的にした施設だったため、場内にはロード競技用5kmサーキット・トラックレース用400mピスト(走路)・MTB(マウンテンバイク)コースなどがあり、有料で一般開放しています。東京から近いこともあり、現在でもここでレース気分を味わうマニアも多いようです。

ただしピストなどの競走路を一般利用者が利用する際には基礎脚力検査が行われるそうで、基準を満たさない未熟者は落車などの危険が生じるため、利用が認められないこともあるとか。

日本の競輪界では、ここに隣接している日本競輪学校の卒業生も多いとのことで、こうした素人さんに使わせる場合でも審査基準があるとは、さすが名だたる日本競輪界のメッカだなぁと感心至極。

現在でも、現役の競輪選手などが走行訓練を行うこともあるそうですが、我々が行ったこの日も現役選手をゲストに招いたアマチュアの大会が行われていたようです。訪問時間が遅く、それらのレースは終了したあとであり、見ることはできませんでしたが……

また、ロード用コースは自転車による一般的なレースだけでなく、自動車・オートバイなどの試乗会会場として使われることもあり、「カーグラフィックTV」というBS朝日のテレビ番組などでは、撮影にも使われるということです。

もっとも、こうしたマニア向けの施設ばかりでなく、ファミリー向けの施設もあり、3~4m上の軌道上を走るサイクルアトラクション、変わり種自転車、水上自転車などなどの各種の遊具施設もあって、これらのはこの施設の方針として、基本的には「人力で動かす」ものばかりです。

しかし、サイクルコースターという子供向けのジェットコースターやメリーゴーランド、迷路といった遊園地施設も併設してあって、小さな子供でも楽しめるようになっており、我々が行ったこの日も、利用者のほぼ9割は家族連れでした。

施設内にはこのほかにも、レストハウス、体育館、多目的ホール、 流水プール、キャンプ場、パターゴルフ場、宿泊施設などがあり、さらには温泉入浴施設(露天風呂あり)まであって、「一日中楽しめる」が謳い文句になっています。

しかし、いかんせん古い! 遊具施設は20年前に私が来たときのものとほぼ変わっておらず、また建物群もかなり老朽化しています。

入場してすぐのところにあるメインエリアには、5kmサーキットを見下ろす、これはなんと呼ぶのでしょうか、展望デッキ?観戦デッキのような鉄骨で作られたかなり大規模な構造物があるのですが、これがもうボロボロに錆びていて、あちこちに鉄骨から剥離した錆びた部材が落ちています。

さすがに施設管理者も危ないと思っているのか、一応立ち入り禁止のロープが張られているのですが、全く近づけないわけでもなく、近寄ったところへ上から錆びた鉄骨が……なんて事故が起きなければいいが……と余計な心配までしてしまいました。

このサイクルスポーツセンター、実は当初、サーキットとして計画されていたそうで、その後紆余曲折を経て、日本競輪学校と同所の敷地となったという経緯があるそうです。同じ県内では、駿東郡小山町に「富士スピードウェイ」が1966年に開設しており、もしこちらが先行していなければ、伊豆にサーキットができていた可能性もあるわけです。

結局のところ、サーキット計画は見送られ、そのかわりに「競輪のメッカ」とすることで決着したようで、このため競輪の競技コースに加え、競輪選手を養成する「日本競輪学校」が建設されました。

ちなみに、私の広島の高校時代の同級生の一人(タエさんの同級生でもある)が、母校を卒業後にこの競輪学校に入ってその後プロデビューしており、一時は1000万円プレーヤーとして活躍しています。

その彼が卒業した学校のすぐ近くに居を構えるようになるとは想像だにしませんでしたが、何かとご縁を感じてしまいます。

自転車関係者の間で「修善寺」といえば、この日本サイクルスポーツセンターか日本競輪学校のどちらかを指す代名詞となっているほど有名な場所なのだそうで、また別の意味で誇らしく思えたりするから不思議です……

しかし、施設全体は半世紀も経っているせいもあり老朽化は否めず、遊園地としての利用者もあまり多くないようです。また最近では日本のあちこちで競輪場の閉鎖が続いており、競馬や競艇といったギャンブルに押され、近年の競輪そのものも衰退傾向にあるようです。

しかし、最近はダイエットや健康志向がもてはやされる中、サイクリング・ブームなのだそうです。サイクリングロードとの連携を企業活動や観光に利用する場合も増えており、日本中のあちこちに立派なサイクリングロードが作られるようになりました。

「サイクリング」の名を冠して行われるイベントも増えており、初心者からベテランの愛好家まで多様な参加者が集まるレースも頻繁に行われるようになっています。

そのほとんどが総走行距離50キロメートルを下回り、ヨーロッパで行われているもののような長距離レースではありませんが、初心者でも参加しやすいため、こうしたレースは都市部でも行われています。

例えば首都圏最大の大会である「東京シティサイクリング」はエクステンションを含めて35キロメートルのコースであり、手軽さも受けていつも参加希望者が募集数を大幅に上回ると聞いています。

こうしたサイクリングブームの背景には、「ケイリン」がオリンピック競技として正式採用されたことも無関係ではないでしょう。

「ケイリン」とは、言うまでもなく日本発祥の公営競技である「競輪」を元に作られた競技です。が、それと区別するため「ケイリン」と表記されるようになりました。

現在では国際自転車競技連合(UCI) によって”KEIRIN”の名で正式種目と認定されており、オリンピックだけでなく、このほかの世界選手権や国際大会でも競技が行われています。

2000年に行われたシドニーオリンピックから正式採用されました。

1996年のアトランタオリンピックにおいて、自転車競技もプロ・アマオープン化されることに伴い、日本車連はオリンピックにおいても、ケイリンの採用を打診。しかし、既にアトランタでの実施種目は決まっていたため、この大会では採用されませんでした。

が、既に1980年より世界自転車選手権のほうでは採用されていたため、その後も世界各国へ技術指導等を含め、ケイリンの普及活動を行ったことなどを日本オリンピック委員会(JOC)を通じ、国際オリンピック委員会(IOC)にPR。

その結果、1996年のIOC総会において、ケイリンは正式種目として、4年後のシドニーオリンピックでの採用が決まり、ケイリンは日本生まれの五輪種目としては柔道(1964年の東京オリンピックより正式採用)に続いて史上2例目となりました。

シドニーでの初代優勝者はフランスのフロリアン・ルソーであり、日本からはメダリストは出ませんでしたが、2008年の北京オリンピックでは永井清史が日本人初となる銅メダルを獲得しています。

さらに、2009年12月に行われたIOC理事会においては、オリンピック男女平等種目数の方針が確認され、これに基づき、UCI(国際自転車競技連合)が「ケイリン女子」を提案して了承を受けたことから、2012年のロンドンオリンピックでも正式種目として採用することが承認されました。

残念ながら、ロンドンオリンピックには、日本の女子ケイリン選手の養成は間に合わず、日本はエントリーさえしませんでしたが、このオリンピックでの正式種目への採用をきっかけに、日本でも「ガールズケイリン」が復活することになりました。

「復活」と書いたのは、1949年から1964年まで女性の競輪選手による競走として「女子競輪」が存在したためです。人気面の低落から廃止となりましたが、その後幾度となく復活の話が持ち上がるたびに議論されていました。

しかし、2008年からで各地の競輪場に日本の女性自転車競技選手を集結させてケイリンのエキシビションとして実施させていたところに、オリンピックでの正式種目になったとの発表があり、このことが追い風となって、女性自転車競技選手の育成を目的する「ガールズケイリン」として正式に復活させることになったのです。

2010年5月には女子第1回生となる日本競輪学校入学者(定員35名)を募集し、2012年3月に卒業。同年7月に平塚競輪場で48年ぶりの女性競輪が開催されました。

以後も毎年の募集が行われて、選手の養成が行われ、以来、日本各地の競輪場で女子競輪選手が活躍するようになりました。復活する女子競輪の愛称は公募されたものの、結局はエキシビジョンで行われたレースと同称の「GIRL’S KEIRIN(ガールズケイリン)」とすることも発表され、ファンからはこの名で親しまれつつあります。

日本のケイリン技術は世界に冠たるものであり、おそらくは、2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、このガールズケイリン選手の中から、ケイリン種目としては日本初の女性メダリストが出るに違いありません。期待しましょう。

このように純粋なスポーツ競技としてのケイリンは、ギャンブル競技としての競輪そのものは衰退傾向にあるものの、最近のサイクリングブームとも相まって、むしろその裾野を広げようとしています。

老朽化しつつある、修善寺のサイクルスポーツセンターのもその新しい流れがやってきており、我々がここを訪れたときにも、目新しい大きな自転車競技場ができていました。

「伊豆ベロドローム」は、この日本サイクルスポーツセンター内に、日本初の木製走路競技場として建設されたケイリン競技場です。

現在日本の各地にある自転車競技場(競輪場)の走路はほとんどがアスファルト仕様ですが、2000年のシドニーオリンピック以降、トラックレースの国際大会は概ね、室内競技場、1周 250メートル、木製仕様の走路、で行われることが常となっています。

この観点を踏まえ、当場の開設が検討されることになったわけであり、昭和46年の発足以来、日本の自転車の中心ともいえ、自転車競技の発展に寄与してきたサイクルスポーツセンターに、今後のわが国の自転車競技の振興に資することを期待して建設が行われることになりました。

この日本初となる屋内型板張り250mトラック「伊豆ベロドローム」は、財団法人JKAの後押しを受け、公営競輪競技からの利益金を用いた競輪補助事業として2009年から建設が始まり、3年を経て2011年10月に完成しました。

ベロドローム(Velodrome)はラテン語で自転車競技場を意味します。走路が木製仕様の自転車競技場は、日本では西宮競輪場(1949年〜1965年)以来となりますが、常設および室内の木製走路の自転車競技場としては、無論、日本初です。

走路にはシベリア松を使用。北京オリンピックでトラックレースの会場となった老山自転車館を設計したドイツ人のラルフ・シューマンが設計を担当したそうです。

周長250m 木製走路は前述のとおり、最大カントはなんと45度もあるそうです。観客席数 常設1800席、仮設1200席。長軸方向119m、短軸方向93m、高さ27mという規模は、室内競技場としては国内で最大規模です。

日本自転車競技連盟はかねて、トラックレースのみならず、ロードレース、マウンテンバイクレース、BMXについても1箇所で強化できる拠点作りに着手しており、ここサイクルスポーツセンターには長年のその下地があり、ここに建設すれば相乗効果が狙える、と考えたようです。

22011年9月には、かつて世界選手権の「スプリント」で10連覇(1977~1986年)を達成した中野浩一らを招いての竣工式が行われ、同年10月1日に開場。同年同月14日〜16日まで開催された全日本自転車競技選手権大会のトラックレースが杮(こけら)落しの開催となりました。

以後、かつての競輪ブームの再来を思わせるような数々の熱血レースがここで行われてきており、我々が訪れたこの日も大きな大会があったようです。やがてここで活躍した選手の中から、オリンピックで活躍する選手が出てくるに違いありません。

また、2020年にもし東京オリンピックが実現するようであれば、ここがその競技場のひとつとして採用されるのはほぼ間違いないのではないでしょうか。東京からの距離は多少あるとはいえ、これだけの競技場は関東地方にはおそらくないでしょうから。

ところで、ケイリンの競技というのはどんなふうに行われるのか興味があったので調べてみました。

オリンピック競技種目としての「ケイリン」は、主に6名以上の選手で争われますが、基本的なルールは競輪の「先頭固定競走」とほぼ同じだそうです。選手とは別に先頭誘導員が1人いて、電動アシスト自転車、またはデルニー(モペッド)を使い、決められた周回を先頭で空気抵抗を減らしながら走ります。

モペッドというのは、ペダル付きのオートバイで、エンジンや電気モーターなどの原動機だけで走行することも、ペダルをこいで人力だけで走行することも可能な車両です。その昔、大正や昭和の初めには原動機付きの足こぎ自転車があったようですから、あれと同じようなものと考えればよいでしょう。

先頭誘導員がいるのは、一番前にいる選手が風の抵抗を受けて不利になるのを避けるためです。ギャンブル営競技としての競輪では、誘導員は自力で自転車を動かしますが、国際競技のケイリンではこれを動力としたのは、この誘導員の力量によって競技結果が左右されることを憂慮したためでしょう。

そしてレースが始まってしばらくすると、誘導員が審判の合図により先頭を外れ、圏内線の中へ退避します。このあたりから本格的に競走が始まり、各々1着でゴールできると思った位置からダッシュをかけ、しのぎあいが始まります。

各組2人から4人が先着トーナメント方式で勝ち上がる形式であり、また敗者復活戦もあります。その勝者は準々決勝あたりで合流することから、大逆転もあり、このあたりの勝敗の行方は混とんとすることも多く、非常に面白いといいます。

選手同士の連携はギャンブル競技の競輪とは異なりそれほど重視されません。このため、競輪とは異なる戦術・技術を必要とする場合も多く、日本のトップ競輪選手といえども国際大会のケイリンにおいて強さを発揮できるとは限りません。

事実、先般の北京オリンピックで日本は「ケイリン」競技で銅メダル、またその前のアテネオリンピックでは「チームスプリント」で銀メダルと、4年に1度のオリンピックでは2大会連続でメダルは獲得したものの、世界との差は広がったままであるのが実態です。

これについては、いろんなことがいわれているようですが、1996年以降、オリンピック及び世界選手権が行われる競技場が、屋内型板張り250mトラックが主流となってきたことがそのひとつの理由と考えられています。

1993年に吉岡稔真選手がケイリン種目で獲得した銅メダルを最後に世界選手権においては表彰台に上がる日本人選手が出ておらず、このことはほぼ年代的にも符合しています。

日本における自転車競技場は、その大半が従来の競輪場で行われており、これらの競技場の周長は400mを中心に、333.3m、500mの3種類、表面はアスファルト製の走路であり、いわゆる現在の世界標準である屋内型板張り250mトラックはありません。

従って、海外遠征を行わない限り、本番と同じ環境、つまりは屋内型板張り250mトラックでの練習・訓練が出来ない中で戦っているわけです。

これは、他国と比べて明らかなハンディ・キャップであり、この状況が続く限りはこれ以上の競技力の向上を望むのは困難であることは明らかです。

伊豆ベロドロームは、こうした背景から作られた、いわば明日の日本の「ケイリン」界をしょって立つホープ選手養成のための重要な練習場というわけです。

ところでオリンピックといえば、その開催と同時に行われるのがパラリンピックです。実は、我々がここを訪れたとき、その日のレースは終わっていたのですが、時期リオデジャネイロパラリンピックへ出場予定の選手の「壮行会」と称するイベントが行われていました。

我々が場内を見学していたところ、ちょうどその出場選手の一人らしい方が、デモンストレーション走行を始められました。みると、なんとその方は左の足がなく、義足もされておらず、全くの片足(右足だけ)で、自転車を漕いでおられたのです!

この方とは別にもう一人ハンディキャップの方がいたのですが、こちらは左足に義足をはめておられました。その方が先導する形で、このベロドドーム内の周回コースを一周されたのですが、さすがに片足だけに、最後のほうはかなり失速し、しんどそうでした。

しかし、ゴールするやいなや、会場にいた十数人の観客からは暖かい拍手が贈られ、これに対して先導者の方からは大きな声で「ありがとうございました」の声が返ってきました。

思いがけなく出くわしたワンシーンだったのですが、思いがけない感動に、あとで家に帰ったあとも妙にこのシーンが脳裏に焼き付いて離れません。

伊豆ベロドロームは、健常者のメダリスト養成場としてだけではなく、こうしたハンディキャップを持った人達の修練の場でもあるわけです……

さて、今日も今日とて長くなりそうなので、この辺にしましょう。本当はギャンブル競技としての「競輪」のほうについても書きたかったのですが、これはまた後日にしましょう。

日本列島は、昨日中四国・九州地方が梅雨入りしたということで、早晩この伊豆の梅雨入りも免れません。少しでも陽があるうちに、と今日はコタツ布団と下敷きカーペットの洗濯をしました。

皆さんも冬物の洗濯を急ぎましょう。じめじめむしむしの日々はもうすぐそこにまで来ています。