キリスト教徒には、5月の終わりから6月のはじめにかけて、ペンテコステという祝日があります。
“Pentecostes”はラテン語で、聖霊降臨(せいれいこうりん)の意味です。イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた120人の信徒たちの上に、神からの聖霊が降ったということで、その後この出来事を記念するキリスト教の祝祭日となりました。
聖霊降臨の日は、復活祭から数えて50日後に祝われる移動祝日です。復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、これも年によって日付が変わる移動祝日で、日付は変わるものの、必ず日曜日に祝われます。
従って、聖霊降臨の日も毎年この復活祭の日によって左右され、カトリック、プロテスタントでは五月初旬から六月上旬の日曜日に行われます。ちなみに、今年はこの日は6月8日になりますが、年によって異なり5月の終わりごろに行われることもあります。
1828年の聖霊降臨日は5月25日でしたが、その翌日の5月26日、すなわち、今日と同じ日付の日に、現ドイツ・バイエルン州、ニュルンベルクのウンシュリットプラッツという場所で、一人の奇妙な少年が発見されました。
広場の片隅にたたずむ少年をみつけたのは、地元で靴屋を営むジョルゲ・アイヒマンという人物で、この少年は汚い格好で、手には何かが書かれた手紙を持っていました。どことなく普通でない様子で、何かに怯えたような様子であり、ジョルゲが不審に思って少年に話しかけると、少年はほとんど全く言葉を話せない様子でした。
まるでこのペンテコステを思わせるようなタイミングで人々の前に姿を現したこの天使のような少年は16歳ほどで、手に持っていた1通の手紙をジョルゲに手渡しました。その宛先は軍隊で、第四騎兵隊長のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉へと当てたものでした。
このためともかくもジョルゲは、この手紙に書いてあった第四騎兵隊へと少年を連れて行くことにしました。
しかし、そこでの少年の行動はまた彼らを困惑させるものでした。少年はまるで、それまで火というものを見たことがないかのようにロウソクの火に触れようとしたり、部屋の隅に置かれていた古時計を異常に怖がったりしました。
また少年には食べ物も与えられましたが、パンと水以外は一切口にすることはなく、それ以外の食べ物は食べてもすぐに吐き戻してしまいます。
さらにジョルゲがヴェッセニヒに手渡した手紙には、一層彼らを困惑させる謎めいたことが書いてありました。
そこには、この少年の両親は既に死去しているが、その母親が生前自分にこの子の養育を頼んできたこと、この子の父親は騎兵であり、彼が17になったら、ニュルンベルクの第六騎兵隊に参加させてほしいこと、少年の誕生日は1812年4月30日であることなどが記されていました。
しかし彼らがこの手紙に困惑したのは、その最後に、もし手に余るようであれば彼を殺してもらっても構わないと書かれていたことでした。一体どんな人物がこの手紙を書いたのだろうかと、彼らは首をかしげましたが、どうやら最近まで少年の世話をしていた人物によって書かれた物であることだけは間違いがなさそうでした。
この少年の扱いをどうするかについて決めかねた彼等は、少年に様々な事を尋ねてみることにしました。どこから来たのか?名前は?年齢は?お父さんは?好きな食べ物は?……しかし少年は全く彼らの言葉を解せない様子で、ただ「ワカラナイ」という言葉だけは知っていました。それはまるで、彼が誰かに教えられた、唯一の言葉であるかのようでした。
彼はおそらく「ワカラナイ」の意味さえ、分からないのではないかと思われ、そこでヴェセニヒ大尉は少年に紙と鉛筆を与えてみることにしました。もしかしたら言葉は離せなくても文字は書けるのではないかと考えたのです。
すると驚くべきことに、少年は紙とペンを受け取ると、嬉しそうな様子で、何かを書き始めました。そして、彼が書いた文字は「カスパー」と「ハウザー」でした。つなげると、カスパー・ハウザーであり、これはどうやらこの少年の名前を表しているようでした。
こうして、この不思議な少年は、カスパー・ハウザーという名前で呼ばれるようになりましたが、いかんせん、軍隊で養うわけもいかず、引き取り手もないまま、警察に引き取られることになりました。
しかし、警察もまたこの少年の扱いに手を焼きました。カスパーの特異な性質が次々と明らかになり、それらは例えば、鏡の中の自身を捕らえようとしたり、コーヒーやビールといったものに対し、異常なまでの拒否反応を示し、こうした刺激物が部屋に運び込まれただけで気分が悪くなってしまうようでした。
ワインにいたってはその匂いだけで酔ってしまうほど敏感だったといい、また嗅覚だけでなく、視力についても明らかに普通の人間とは違っており、彼は暗闇の中で完全に物を見ることができました。彼は真っ暗な中で聖書を読むことも色彩を判別することもでき、その耳も恐ろしく敏感で、隣の部屋で囁く声を聞き分ける事ができました。
さらには、触覚についても尋常ではなく、握った金属が鉄か真鍮かそれとも何か別なものであるかを区別したりでき、彼がいる部屋から遠く離れた場所にあるクモの巣に獲物がかかっている事も言い当てることができることもできるなど、何か通常の人とは違う並外れた能力を持っていることは明らかでした。
ともかく何につけてもセンシティブなこの少年を警察ももてあまし、ついには少年を犯罪者を幽閉する目的で作られた小さな塔の中に収容することにしました。
部屋には小さな窓が取り付けられていましたが、この頃までにはこの不思議な少年のことは、町中の評判になっており、その窓の下には、少年をひと目みようと、大勢の見物客が押しかけました。
カスパーは、突然窓の下に現れたこの大衆を目にし、またそのどよめきを耳にして、これらの視覚や聴覚の刺激に対しての過敏さゆえに、過剰に反応したといい、経験したことのない光と騒音によって痛みを受け苦しみました。
しかし毎日絶え間なく訪ずれるこれらの見物客にも、やがて次第に慣れ、気に留めていない風も見せるようになりましたが、窓の外には顔をださないままであり、部屋の中でもほとんど動くことはなくなりました。
ある日のこと、一人の見物客が、たまたま開いていたカスパーの部屋の窓に向かって馬のおもちゃを放り投げるという事件がおきました。カスパーはその馬の人形を見るなり、“ROSS!”と叫ぶや否や、その人形を抱きしめました。
それからはその馬のおもちゃを常時手元に置くようになり、しかしだからと言って、これが馬であると識別している様子もなく、彼は猫も犬も、四本足の動物は全て”ROSS “と呼んでいたといいます。
そしてカスパーは毎日その人形と飽きることなく遊び続け、食事の時間には必ずその人形にも餌を与える入れ込みようで、まるで人形に命が無いことを知らないかのようでした。これもまた後日明らかになったことですが、彼はどうやら生物と物の違いが分からないようでした。
こうした不思議な性癖を持つ少年の噂は人から人へと伝えられ、やがて国中の人がその存在を知るところとなりましたが、この彼の能力に興味を持ったのは一般人だけではなく、多くの学者もまた彼に注目しました。
中でもとくに彼の能力に興味を示したのは、法学者、神学者、教育学者たちで、彼らはカスパーに数多くの検査をした上で、果たして彼が言葉を話せるようになるかを試そうとしました。
その中心人物のひとりに、宗教哲学者のゲオルク・フリードリヒ・ダウマーという大学教授がおり、カスパーは彼の下で読み書きを学ぶことになりました。
ダウマー教授は、ほぼ毎日に渡って彼の元を訪れ、物心が付き始めたカスパーの教師のような存在になっていきました。当時の市長もカスパーについては特別処置を取り、熱心に彼の成長を記録し続けたといい、カスパーは彼等の好意や善意以前の好奇心にも支えられて監獄で過ごすこととなりました。
こうして彼がニュルンベルクに現れてから数ヶ月が過ぎました。この頃までには、彼はまるで別人のように成長しており、しかもその知能はその年齢の通常の人並みに達し、言葉も流暢に喋るようになっていました。
彼の学習能力は極めて高く、それはまるで、新しい言葉を次々に「覚える」というよりは遠い昔に知っていた言葉を「思い出して」いるような凄まじい吸収ぶりだったといいます。
しかも、相変わらずニュルンベルクに現れた当時の不思議な能力は健在であり、暗闇でも決して怯えることなく歩くことができ、暗い家の中を歩いている人が階段で手すりに掴まってゆっくり歩いているのを見て、笑うこともあったといいます。
なぜ暗闇でそんな風にしなければならないのか、彼には理解できない風だったといい、日没後でも遠くの家の数を数えることさえできましたが、一方では昼間にはそうした能力も全く衰え、遠くを見ることは困難なようでした。
こうした彼の性癖を長い間分析していた学者たちは、カスパーが幼いころから長期にわたり孤独な状態で地下の監獄に囚われていたのではないかと推測しました。
生まれながらにして暗い小部屋で外部との交渉を絶たれて生活することを余儀なくされた結果、人間らしさを失っていったと考えられましたが、ではいったいその幽閉場所はどこであったのだろう、と彼等は思いめぐらすのでしたが、彼の口からそれが話されることはありませんでした。
この頃には、言葉を話すこともかなり流暢になったカスパーでしたが、文字を書くこともできるようになっており、このため、ある時彼に過去に覚えていることを書き出してはどうか、と勧める人がいました。
こうして彼が書き始めた「物語」は、「まだ幼い、しかしとても覚え立てとは思えない」言葉で書かれていたといい、そこには次のような彼の生い立ちが記されていました。
まず、彼が16歳で表に出るまで暮らしていた場所は奥行き2㍍、幅1㍍ほどの狭い地下室で窓はなく、立ち上がることができないほど天井が低いものでした。また床は土のままであり、寝床代わりに干し草だけがつまれており、毎朝目を覚ますと、決まって床にパンと水が置かれていました。
しかし彼はそれが誰かの行いではなく、自然のことだと思い込んでいました。それもそのはず、その部屋にいた十数年の間、彼と外部との接触は皆無、人間としゃべることは決してありませんでした。カスパーには世間も友達もありませんでしたが、唯一玩具の馬を与えられており、その名前として彼が教えられていたのが“ROSS”のようでした。
この玩具の馬のROSSとその暗く四角い部屋だけが彼にとっての、全世界でしたが、カスパーの記述にはもうひとつ奇妙な事柄が書かれていました。それはこの生活の中で与えられる水がときたま妙に苦く感じられる事があり、その後は決まって深い眠りに落ちたといい、そして目を覚ますといつも髪の毛や爪、衣服が綺麗になっていたといったことでした。
このことは、その水には何等かの薬のようなものが入っており、それはおそらく睡眠薬であったと考えられ、彼が眠りに落ちたあと、部屋の外に連れ出し、風呂に入らせ衣服を着替えさせるなどの行為がなされていたのではないか、と推察されました。
そして、彼が16歳になったある日(無論、彼には16年という年月の感覚もありませんでしたが)、カスパーの部屋に突然ひとりの男が現れ、カスパーに2つの単語を教えたといいます。それは、「わからない」そして「軍隊」というものだったといい、これを繰り返し言えるように訓練されました。
そしてそのあと、彼は馬に乗せられ、ニュルンベルクの公園へと連れてこられ、そこでジョルゲオに拾われたのでした。
カスパー自身の話では、彼がニュルンベルクに連れてこられるまでは大体、馬で1日という距離でした。このため、カスパーが閉じ込められていた地下室はおそらく町のすぐそばなのではないかと推測されました。
この回顧録が彼自身によって記録されたころには、カスパーはニュルンベルクの町の有名人でした。その子供のような純粋さや無邪気さから、天使のような少年だと評されるようになり、様々な場所に呼ばれる身分となり、人々は彼のその秘密めいた出生を面白がりました。
彼の登場は退屈な田舎町であるニュルンベルクに、センセーショナルな話題をもたらしたことは間違いなく、このため一部の者たちは強く反対しましたが、市は税金の中から少年の生活費を捻出することに決め、さらには、彼の出生の秘密を探るために懸賞金をかけて情報を募りました。
こうして得られた手がかりを元に、市では様々な場所を探索しましたが、結局、彼がいたという地下室が発見されることはありませんでした。このころもまだカスパーは牢獄を棲みかとしていましたが、そうした場所に住まわせていることに対しては市民から非難の声があがると、市は彼を塔から出して一般市民として暮らさせることを決めました。
問題はどこに住むかですが、これには彼に言葉を教えたダウマー教授が名乗りを上げ、彼を里親としてカスパーは彼の家に住まうことになりました。こうしてダウマーの元に預けられたカスパーは、そこで人生最後の輝かしい時期を送ることになりました。
こうして、普通に衆目を浴びる生活を送るようになった彼の顔は、ニュルンベルクに初めて現れたときよりもかなり大人びていました。しかも随分と高貴な容貌に見えることもあり、このためある奇妙な噂が流れはじめました。
それは、彼の外見や容姿がドイツの名門貴族、バーデン公と驚くほど似ているというものであり、カスパーは王室の血族なのではないかという噂でした。そしてこの噂が広まるにつれ、様々な憶測が飛び交うようになっていきました。
それらの噂の中には、カスパーはもともと王の後継者であったが、何らかの理由により隔離され、地下室に幽閉されたといったものもあり、実際、こうした噂を裏付けるようにカスパーが生まれたころ、王室の子供がいなくなるという騒ぎがありました。
カスパーに教育を施した有識者のひとりなどは、カスパーが王族の末裔であるという噂を信じて疑わず、調査を進めてそうした噂を真実のものとする公文書まで書き上げたといいますが、無論、当該者であるバーデン公や王族はそのような噂を快く思うはずもありません。
彼らは公文書を出した教授に対して訴訟をちらつかせ、そうした噂をすぐにかき消そうとしましたが、この行為は逆に「バーデン大公後継者説」に火をつけることに繋がっていきました。
そんな騒ぎをよそに、カスパーはダウマーの元で幸せな日々を送っていましたが、その事件はニュルンベルクで拾われた日から17ヶ月が過ぎようとしていた1829年10月17日におこりました。
カスパーは、ダウマーの家の中で何者かに突如として襲われ、シャツをビリビリに破かれ、頭から血を流して倒れている姿で発見されました。出血はひどかったものの、何とか一命を取り留めたカスパーの話によれば、覆面をつけた男が突然現れ、ナイフか棍棒のようなもので殴られたといいます。
知らせを受けた市では、カスパーを襲ったのはその豊かな暮らしぶりに反感を持った市民ではないかと考え、彼に24時間態勢で特別警護をつけることにしました。
ちょうどこのころカスパーの人気も一段落を迎え、普通の市民と変わりない生活を送るようになっていたカスパーをひと目見たいという人も減っていました。このため、一部ではカスパーが失われはじめた自分への注目を取り戻すため、自作自演でこうした暗殺未遂劇をでっちあげたのではないかという噂が流れ始めました。
そんな事件があってしばらくしたある日、イギリスのスタンホープ卿という男がカスパーの元を訪れました。スタンホープはカスパーが王室の末裔であるという噂に注目しており、このころ落ちぶれていたスタンホープ家を建てなおすため、彼を養子に迎え入れようと考えていたのでした。
ついこの間には瀕死の事件に巻き込まれ、それがもとで根も葉もない自作自演の芝居だという噂に悩まされていたカスパーは、そんなスタンホープの思惑を知らずに、彼の社交上手な言葉にほだされてしまいます。
そしてとりあえずしばらくの間一緒に暮らしてみないかという彼の言葉に従って、彼がニュルンベルクに借りたマンションで共に過ごすことになりました。
しかし、スタンホープとカスパーは相性が悪かったようで、カスパーもまたスタンホープが与える豊かな生活の上にあぐらをかくようになったことから、徐々に利己的に、そして傲慢に振る舞うようになりました。この結果カスパーがうっとうしくなったスタンホープは、友人であるメイヤーという博士のもとに住まわせることにします。
メイヤーの家はニュルンベルクから遠く離れたアンスバッハという町にあり、そこで護衛をつきの新しい生活をするようになったカスパーでしたが、彼はそこでの生活を激しく嫌がり、ニュルンベルクでのダウマー教授との華々しい日々を思い、たびたび涙を流していたといいます。
そしてそこでの生活が数年続いたのちの1833年、クリスマスを目前にした12月14日、運命の時が訪れます。その日、カスパーはメイヤー博士のリビングルームで多量の血を流して倒れているのを護衛のヒッケルという男性に発見されました。
カスパーは右胸を刺されており、ナイフは肺と肝臓を貫いていました。カスパーは、朦朧とする意識の中で、その日、彼はある男に面白い話があるから、と公園に呼び出されたことをとぎれとぎれに話したといいます。
そして公園に向かったところ、黒づくめの男が現れ、「カスパー・ハウザーか?」と訪ね、カスパーがうなづくと男はいきなりナイフでカスパーを突き刺したということでした。
そして、公園から息も絶え絶えの状態で、リビングルームにたどり着いたのだといい、それだけを告げるとカスパーは目を閉じ意識を失いました。
その後通報を受けた警察がすぐにカスパーが刺されたという公園に向かうと、そこには、カスパーのものと思われる大量の血痕とあるメッセージが書かれた皮の財布が落ちていたといいます。その皮の表面には、「カスパー・ハウザーは自分がどんな顔で、どこから来たか、そして誰なのか知っているはずだ」と書かれていたといいます。
ところが、警察は奇妙な事実に気づきます。実はその日は雪でしたが、そこにはカスパーのものと思われる1人分の足跡しか残されていなかったのです。
このことから警察はこの事件はカスパー自身の狂言による自傷なのではないか、そして軽く刺すつもりが誤って深く刺し過ぎたのではないかと推測しましたが、結局、カスパーはそれから3日後に死亡しました。享年21歳。最後の言葉は「自分でやったんじゃない」だったといいます。
このカスパーの死に対して、バイエルン国王ルートヴィヒ1世は、殺害者の逮捕のための情報提供者に多額の報奨金をつけましたが、犯人に繋がる有力な情報は出てきませんでした。
しかし、2年余り後に、王宮庭園で刃渡り14cm全長30cmほどのダマスクス刃の(刃身が波刃になっている)諸刃の短剣が発見され、この短剣の刃とカスパーの刺し傷はぴったり一致しました。
この刃物はフランス製のシーフナイフとされ、1926年ニュルンベルクで開催された警察展示会に出品展示されました。その後アンスバッハの博物館に保管されていましたが、1945年の第2次世界大戦終戦以降行方不明になっています。
カスパーの存命中から彼の出自についてはさまざまな風評が飛び交っていたのは上述のとおりですが、カスパーに言葉を教えた取巻たちは、彼がバーデン大公家の世継であり、世継問題の事情によりその誕生以来、死産の子供と取替え、隠匿されていたものと確信していたといいます。
これに対しては、たとえ不義の子だとしても、王族の一員として育てるのであれば、当然のことながら乳母も必要であり、きちんとした保護監督者をつけ、面倒を見るための子守り、侍医なども必要だったはずであり、地下牢のような場所に幽閉する必要はなかっただろう、という反論も出ました。
一方、バーデン大公家の世継ぎとされる長子は生まれて間もなく死亡したとされていますが、これについては、この幼児の墓が実際にバーデン大公家の墓地に実在しています。しかし、乳母は出産後、この幼児のそばにずっと一緒にいたわけではなかったことが明らかになっており、また医師はその死亡を確認する以前にこの子の診察を自ら行っていませんでした。
従って、この幼児の遺体は外部から持ち込まれたとも考えることができ、実際の長子と取り替えられたのではないかという疑念は確かに存在し、この取り換えられて外で育てられた人物こそがカスパーだったのではないか、という話ももっともらしく思われました。
しかし誰がそんなことを、また何のために、そしてカスパーは本当に皇子だったのかといった事実関係については、バーデン大公家が今日に至るまでその一族に関する記録文書収蔵庫の閲覧を一切拒んできており、本当のところの事情はまったくわかりません。
ところが、1996年になって、ヨーロッパで一番講読者数が多いといわれるニュース週刊誌「デア・シュピーゲル」などが、遺伝子解析の手助けを借りて、カスパーがはいていたとされるズボンに残る血痕を分析させた結果、ズボンをはいていたとされる人物はバーデン大公国の王子ではないと判明しました。
これにより、一旦はカスパーが、バーデン大公国の王子であるという憶測は間違いだという空気が生まれました。
ところが、これより6年後の、2002年、ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学(ミュンスター大学) の法医学研究所が、カスパーのシルクハットの汗の染みと髪の毛、また残されていたカスパーの指紋などをDNA鑑定しました。
その結果、カスパーがバーデン家の生物学的な近親者であるという結論については完全肯定はできないものの、バーデン大公の妃の子孫のものと極めて近いことなどが分かりました。
加えて、1996年に鑑定されたパンツに付着していた血痕は、DNA鑑定の結果髪の毛のそれと一致せず、血痕はカスパーのものではなかったのではないのではないか、という疑いも出てきました。
しかし、カスパーの死後170年近くが経っており、この間に保管されてきた汗や髪の毛などの遺伝子解析の対象となったもの、あるいは血痕のついたパンンツなどが、本当にカスパーのものかどうかは疑問視される向きもあります。
肝心のバーデン家は未だもって立ち入り調査を阻んでおり、1812年に乳児として亡くなったという世継の王子の遺骨が埋葬されている教会墓地の暴露も拒んでいます。このため、埋葬されているのが本当にバーデン家の世継なのか、取り替えられた身分の低い子なのか証明するようなDNA鑑定はなされておらず、真相は闇の中です。
歴史的な事実だけをみると、バーデン大公カールの妃は、ステファニー・ド・ボアルネスという人であり、この人は、ナポレオン・ボナパルトの妃ジョゼフィーヌの姪にあたります。
バーデン大公家の世継カールは、このステファニーとの結婚後も、放蕩無頼の独身者のような生活も送っていたといい、このため夫婦は不仲であり、二人はほとんど同居しなかったそうです。
このため、妻の姪であるステファニーをないがしろにしていると、ナポレオンは怒っていたといい、その同情からナポレオンとこのステファニーの間に恋情が生じた、ということも考えられなくはありません。
ステファニーとナポレオンとの間に産まれたのがもし、カスパーだったと仮定すると、バーデン大公家にとっても、実の父親にとってもとんでもない厄介ごとであり、ナポレオンが失脚して後、いずこかへ匿われたのもそのためだと考えることができます。
バーデン大公家としてはナポレオンと大公妃の姦通による子供を公に出すことはできず、このためカスパーは、その幼少期を捕囚として過ごすことになったのではないか、というわけです。
実は、ニュルンベルクからおよそ35km程の距離に大公家ゆかりのピルザッハ城という城があり、これは小さな水城で、1924年に偶々発見された秘密の部屋があるそうです。
その広さや形は、カスパーが説明して見せたものと一致しており、1982年の改装工事で、瓦礫の下から玩具の馬が発見されたといいます。その特徴はカスパー・ハウザーが説明して見せたものと合っており、またここからは半ばカビの生えた衣服の一部も発見されたそうです。
だからといってこれが本当にカスパーの育った牢獄であると証明するものは他に何もなく、カビの生えた衣服のDNA鑑定もできるような代物ではなかったようです。
このカスパー・ハウザーの数奇な一生は、その後、数多くの科学者だけでなく、作家や映画監督の創造欲もかきたて、フランスで「カスパー・ハウザー」という映画が製作されたほか小説化もされています。
ニュルンベルクで発見されて以降の、社会生活への急速な適応ぶりを研究した結果から、「カスパー・ハウザー実験」という行動科学の中での実験も行われるようになり、幼い動物などの正常な経験を剥奪した上で、これが生まれながらに備わった行動様式から逸脱していくのを観察することなどに用いられているそうです。
また、医学や心理学では、「カスパー・ハウザー症候群」と呼ばれるものがあり、これは乳児期や幼児期において、長期間、人間的な接触や愛情のこもったケアや温もりのあるベッドを与えられずに成長し、加えてほとんど社会的、あるいは認知的な刺激を受けることなく成長した者に見られるものだそうです。
世界各地で、貧困などの事情により捨てられ、オオカミや猿のような野生生物に育てられた人間が示す行動がこれですが、どんな症状かといえば、カスパーが発見された当初示したような感覚鋭敏や対人恐怖といったものなどがそれのようです。
幼いころにその存在を省みられずに放置して育てられた子供にもまた、こうした症状がみられることがあるようで、日本のような文明的な国でもありえない話ではなさそうです。養育放棄や、幼児虐待よってゆがめられた性格のまま育った子供たちは、いわば現代版のカスパー・ハウザーであるといえます。
ちなみに、彼の質素な墓は、その死を迎えたアンスバッハの市営墓地で見ることができるそうです。現在の墓石は近年になって建て直されたものであり、王宮庭園内の暗殺現場では1833年12月14日に記念碑が建立され、これはアウグスト・プラーテンという通りの起点のところの小さな広場に建っています。
アンスバッハは8世紀にベネディクト派の修道院が建てられ、12世紀に町になった歴史ある古都です。アンスバッハ宮殿という1740年に立てられた立派な大宮殿があり、550室からなるこの宮殿は、現在27室が宮殿博物館として公開されているそうです。
内部はロココ様式の絢爛豪華な部屋ばかりだそうで、この当時の貴族たちの華麗な暮らしぶりがうかがえるそうです。
その宮殿に住まう人でもあったかもしれないカスパー・ハウザーを偲び、ドイツ旅行へ行かれる際にはぜひ立ち寄られてはいかがでしょうか。