島根の宝

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今日は、元総理の、竹下登さんの命日だそうです。

2000年(平成12年)の6月19日に、76歳で亡くなりました。

リクルート事件で総理の座を追われたあとも、政界のドンとして長らく君臨していましたが、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなりました。

その後も容態は次第に悪化し、4月に竹下が創立した経世会を継承する小渕派の領袖でもあった、小渕恵三首相が倒れたとの一報を聞いたこともあり、自らも政界を引退することを決意します。そして2000年(平成12年)5月、記者会見が開かれ、病床で録音した竹下の引退宣言の肉声テープを、小渕派の最高幹部たちが公表しました。

この引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったといいます。そして、第42回総選挙期間中の6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌で亡くなりました。発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去でした。葬儀は、6月21日に築地本願寺で密葬で行われました。

昭和から平成になったときの首相であることは有名で、昭和最後の大物と言われました。奇しくも大正から昭和になったときの首相、若槻禮次郎もまた島根県出身者でした。

総理在任中のおもな施策としては、なんといっても、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入したことでしょう。また、日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議による輸入自由化も彼の代で実現したことでした。

この消費税については、現在においてもその可否を巡って論争が続いていますが、その当時も大きな争点でした。1988年(昭和63年)、この消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって、竹下は国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込みました。

しかし彼は、「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語りました。実際現在においても、竹下内閣の最大の功績は大平、中曽根両内閣が実現できなかった消費税導入を実現したことだ、という人も多いようです。

さらに竹下総理の施策として良くも悪くも歴史に残ることになったのは、全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給する「ふるさと創生事業」です。

1億円を受け取った各自治体は、地域の活性化などを目的に観光整備などへ積極的に投資し、経済の活性化を促進しましたが、一方では無計画に箱物やモニュメントの建設・製作に費やしたりと、無駄遣いの典型としてよく揶揄されました。バブル経済の中で行われた事業であり、税金のバラ撒きとして、後世の評判もあまり高くありません。

ちなみに、竹下を輩出した島根県における、ふるさと創生事業は、彼の生地でもある、飯石郡掛合町の道の駅、「掛合の里」でした。ほかに、益田市は雪舟筆「益田兼堯像」を購入。合わせて益田市立「雪舟の郷記念館」の開館にも使われました。

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竹下登は1924年(大正13年)2月26日、この島根県飯石郡掛合村に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれました。掛合村はその後町になり、現在、平成の大合併により現在、「雲南市」となっています。竹下家は300年つづいた旧家で、江戸時代には大地主であった、「田部家」の傘下で庄屋を務めた家柄です。

その関係から、慶応2年(1866年)酒造りの権利である「酒座」を同家から譲り受けました。そして、幕末の1866年から代々造り酒の醸造元を営むようになりました。この酒屋は「かけや酒蔵」といいましたが、現在では名前を「竹下本店」と変え、現在も続いています。この当時、登は竹下家12代当主でした。

田部家は「日本三大山林王」とも呼ばれ、往時の財力は、島根を支配するとまで称されていました。ここに仕える戦前の竹下家は「田部家の“中番頭”」クラスではあったものの、掛合地区では圧倒的な権勢を誇っていました。

戦後の農地解放で、竹下家が手放した農地と山林は、「掛合町誌」によれば合計約五百六十九反(十七万七百坪)に上っており、これは、掛合地区で3番目に多く農地と山林を手放した地主でした。

祖父・儀造は島根県人竹下荘太郎の三男にして明治10年(1877年)に生れたのち、このかけや酒蔵を継ぎました。長じてからは掛合村の戸長をも勤めるとともに、明治22年(1889年)から大正14年(1925年)まで掛合村の村会議員でもあり、戦前は島根県の多額納税者でした。

儀造には男子がなかったことから、出雲市今市町出身の印刷工場経営主、武永貞一の弟である、登の父の勇造が竹下家の養子に入りました。儀造の跡を継いで、掛合村の名誉村長を務めるとともに、昭和17年(1942年)には島根県議会議員となりました。

しかし、戦争に協力的であったとして戦後公職追放になり、戦後の農地解放で竹下家はかなりダメージを受けました。が、それなりの財力は維持しており、田部家の援助もあって、戦後も勇造は掛合町の教育委員長を17年にわたって務めるなど、地元の名士として君臨し続けました。

そして登が、1924年(大正13年)2月26日に生まれました。早稲田大学商学部を卒業すると、郷里・島根に帰り地元掛合中学校の代用教員をしていましたが、かたわら、青年団活動に身を投じるようになり、35歳のとき、田部家第23代当主の長右衛門の強い支援を得て政界へ進出。

島根県議会議員2期を経て、島根県全県区から第28回衆議院議員総選挙に34歳で立候補し、1958年(昭和33年)に初当選。同じく初当選を飾った金丸信、安倍晋太郎とは終生深い信頼関係を築きました。

その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選し、1964年(昭和39年)に佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代を担うニューリーダーとして次第に頭角をあらわすようになります。

1971年(昭和46年)、就任当時歴代最年少となる47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣。田中内閣でもふたたび内閣官房長官となります。その後も三木内閣で建設大臣、第2次大平内閣で大蔵大臣を歴任しました。

派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗をひるがえすかたちで、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。その後田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)、「経世会」(竹下派)として正式に独立。

この年の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁となり、第74代内閣総理大臣に就任しました。首相としては初の地方議会議員出身者であり、同時に初の自民党生え抜きの総理の誕生でした。

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総理となったあとも、引き続き田部家と関係を保ちつつ地元への影響力を持ち、祖父から三代に続く地域における認知度の高さもあって、島根県は「竹下王国」とまで比喩されるようになりました。

激しい党内抗争を間近で見てきた経験から、政権発足にあたって「総主流派体制」を標榜、総裁選を争った安倍を幹事長、宮澤を副総理・蔵相に起用するなど各派閥から比較的均等に人材を起用しました。加えて自派の強固な支えもあって盤石な政権基盤を持っており、竹下政権は長期政権になるとの見方が一般的でした。

しかし、消費税導入では支持率を落としながらも何とか乗り切ったものの、1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件が予想外の広がりを見せ、政治不信が高まりました。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年(平成元年)4月26日に自殺しています。

こうした状況のなか内閣支持率調査で3.9%という数字も現われ、他の調査でも7%程度の数字まで落ち込むまでに至ります。財界からも日産自動車会長の石原俊氏らが公然と竹下の退陣をせまり、ついに1989年(平成元年)6月3日に内閣総辞職に追い込まれました。

首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する」といいつつも、政界に強い影響力を持ち、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与しました。

しかし、その後1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。佐川からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなりました。

竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などをおこない、小渕を強引なかたちで後継会長にすえました。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂状態となり、この派閥は翌年自民党から離脱し、新生党となりました。

1993年(平成5年)7月の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。

村山内閣誕生に竹下も深く関与したことからふたたび隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させました。しかしこのころから体調を崩すことも多くなり、上述のとおり、それから6年後に亡くなりました。

その後の自民党の没落、民主党の躍進と凋落、そして現在の安倍政権の活躍(暴走?)に至るまでの経緯はみなさんのご記憶にも新しいでしょうから割愛します。

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リクルート事件の件があるので何かと黒いイメージがあるのですが、意外に面白い人だったようです。現民主党衆議院議員の辻元清美氏は、これまでで一番おもしろいと思った政治家は誰かと問われ、真っ先に竹下の名前をあげています。

佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作ったそうです。「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」というのをよく宴席で歌っていたそうで、これがその後田中政権になったときは、佐藤の部分が「今じゃ角さんで列島の改造だ」になったといいます。

戦争真っただ中の昭和19年4月に早稲田大学商学部に入学していますが、宮澤喜一が竹下に対して「(戦争中でもあり、)あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」などと言ったのに対して反応し、温厚な竹下も「あれは許せないよ」とその後かなり長く怒っていたといいます。

もっとも、その話を聞いた竹下の子分で、のちに初代内閣安全保障室長となる佐々淳行が、「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」と尋ねたところ、竹下は「それがね、無試験だったんだよ」と答えたそうです。

総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったといいます。ジャーナリストの後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めたとき、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃできないのか」とたずねたともいいます。

国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、「言語明瞭・意味不明」な竹下語を駆使し、野党に言質をあたえることがありませんでした。「気配り・目配り・金配りで総理になった」といわれる人間関係の達人であり、与野党・財界・官界に幅広い人脈を持ち、どこにも敵をつくらない人物でした。

絶対に人の悪口をいわないことで有名でした。リクルート事件もあって首相在任中は週刊誌を中心に金権政治批判を受けていましたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめたそうです。

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他人を絶対怒らないことでも有名でした。これについては例外があり、それは一度だけ妻に向かってどなり散らかしたことでした。

竹下は、早稲田大学商学部に入学直前の3月、素封家の娘・竹内政江と最初の結婚(学生結婚)をしましたが、第二次世界大戦で軍隊に入ると同時に、陸軍特別操縦見習士官の第四期生に志願し、飛行第244戦隊に在隊していました。

この時、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵しました。軍人の職場に何しに来たのか、といったことだったようで、自分に厳しい性格ゆえのことだったでしょうか。しかしこのときあることを相談に来ていた政江はショックを受け、島根に帰った後自殺してしまいました。そして、このことがトラウマとなり、竹下は以後他人を叱れなくなったのだといいます。

この妻の死には、父・勇造が関係しているようです。彼はこのころ、島根県議会議員となり、忙しい日々を送っていましたが、その中で最初の妻、唯子を失っています。その寂しさからか、何かと政江に“干渉”したといいます。

竹下後援会の「きさらぎ会」の元幹部によれば、「勇造さんは、敗戦を意識して自暴自棄になっていたのかもしれないが、その執拗な“干渉”は、毎夜のように政江さんを悩ましていました」と語っています。これにより、政江は、ノイローゼ状態となり、睡眠薬を手放せなくなっていたともいます。

上述のとおり、竹下家は江戸時代から続く、酒造元であり、勇造はそこに婿養子として入り11代目になったわけですが、竹下家関係者は勇造について「勇造さんは、いまでいう“逆玉”ですわ。家つきの娘と結婚して、気楽な生活を楽しんでました。家業の酒造りは、奥さんと番頭さんにまかせっきりでした。」と述べています。

詳しいことはよくわかりませんが、家業は妻と番頭に任せ、外では議員として日本が戦争に勝つためには何かしなければ、ともがいていたのでしょう。しかし、それができるのも妻の内助の功があってのことであり、彼女の死をもってそれを悟り、悔いたのかもしれません。

よほどこの妻の死がこたえたのでしょう。息子の嫁の政江に何かと干渉したのは、何か亡き妻への償いを、の気持ちもあったのかもしれません。が、逆にそれが災いしました。

父の勇造はその後再婚しましたが、登もまた再婚しました。しかし、男子には恵まれず、三女に恵まれたものの、いずれも政治家とは結婚していません。

ただ、次女のまる子が、福岡県出身の政治家秘書で、新聞記者である内藤武宣と結婚しました。そして、生まれたのが、内藤大湖こと、タレントのDAIGOになります。また、長女の栄子は、「影木栄貴」として、漫画家、イラストレーターとして活躍しています。

なお、内藤武宣氏は現在もう77歳であり、政界進出はないでしょう。従って、DAIGOが政治家にでもならない限りは、竹下の直系の子孫で政治家になるものはいません。ただし、登の異母弟(勇造の後妻、恕子の子)の、竹下亘(わたる)は、NHK記者から登の秘書となり、登の引退後、地盤を継ぎ政治家となりました。

衆議院議員を6期務め、復興大臣(第3・4代)のほか、環境大臣政務官、財務副大臣、自由民主党組織運動本部本部長などを歴任しています。ただ、子供さんはいらっしゃらないので、やはり期待すべきはDAIGO君ということになるでしょうか。

竹下登に関するエピソードはこれくらいにしましょう。

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ところで、竹下登の出身地、島根と言えば、最近松江城が国宝になり、話題になりました。江戸時代には堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石で入封し、松江城を築きました。松江藩はその後京極氏を経て、徳川家康嫡男の流れを汲む結城松平氏の松平直政が入国し、幕末に至っています。

豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領する毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現安来市)を政庁として出雲一国を経営していました。

関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移されました。これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国にいた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩が立藩しました。

ところが、忠氏は27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲きました。吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて築城したのが、松江城です。

城の完成とともに城下町の建設をも行いました。慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立しました。が、吉晴はこれを見届けるとすぐに、死去しました。一説によれば築城にあたり、人柱を使った祟りだともいわれています。

天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちました。そこで、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間からの声があがりました。このため、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされました。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたといいます。

こうして石垣は見事にでき上がり城も無事落成しましたが、直後に城主の吉晴子が急死し、その後を継いだ忠晴にも子供ができず、改易となりました。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置されたといいます。

その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残っています。また、「城が揺れる」とのうわさも流れ、その後しばらくは、城下では盆踊りをしなかったと伝えられています。

さらに人柱の話としては、別の話もあります。天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘れといいました。すると槍の刺さった髑髏が出てきました。虚無僧はこれを祈祷し平癒を得ようとしましたが、まだ危ういところがある、といい、しかも「祈祷では無理だ」といいます。

人々が、どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう」といいます。人々は困惑しますが、結局は言われたとおり虚無僧に人柱になってもらい、工事を再開させることができた、といいます。

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いずれにしても、その結果なのか、堀尾吉晴は、城の完成後に急死し、忠晴は男子に恵まれなかったため、彼の死とともに掘尾家は無嗣改易となります。そして堀尾の家は滅びましたが、一族が築いた松江は以後も山陰の政治経済の中心として栄えることとなりました。

堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭国小浜藩より京極忠高が入部しました。京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになります。しかしこれも祟りなのか、わずか3年後忠高も死去しました。しかも子がおらず、死に臨み甥の高和を養子に立てましたが認められず、再び改易となりました。

翌寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6千石で信濃国松本藩より転封しました。以後、出雲一国は越前松平家の領するところとなります。また松平家はこのころまでに公儀御料となっていた隠岐1万4千石も預かることになりました。こうして、ようやく祟りはなくなったかに見え、その後松江藩は幕末まで平穏に続いていきます。

しかし当初、藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず、入部当初から苦しい状況が続きました。このため松平家は、早くから専売制を敷き、木蝋・朝鮮人参・木綿そして鉄の生産を統制しました。特にこの地は古くから砂鉄から鉄を生産することが盛んであり、その後たたら製鉄が主要産業になっていきました。

その後出た7代・松平治郷(はるさと)は特に有名な藩主です。先代・宗衍の代より藩政改革に着手していた家老・朝日丹波を引き続き起用して財政再建を推進した結果、寛政年間(1789~1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになりました。

治郷は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった茶道に傾倒して「不昧流」を創設しました。また茶道との絡みで、松江の町はこの頃より京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所となりました。茶や和菓子のみに留まらず、松江及び出雲地方では今日でも治郷が好んだ庭園や工芸品などが「不昧公好み」と呼ばれ、一つの銘柄と化しているほどです。

幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買いました。しかし結局は新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備につきました。松江藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により松江県となり、その後島根県に編入されました。

藩はなくなりましたが、松江城は残りました。しかし、1871年(明治4年)、廃藩置県により、廃城の命が出ます。このため、1873年(明治6年)、天守以外の建造物は、4円から5円(当時の価格)で払い下げられすべて撤去されました。

天守も180円で売却されることとなりましたが、出雲郡の豪農が同額の金を国に納めることを申し出たため、買い戻され保存されることになります。こうして、1889年(明治22年)、当時の島根県知事、籠手田安定によって「松江城天守閣景観維持会」が組織されました。

1934年(昭和9年)、国の史跡に指定され、翌1935年(昭和10年)には、天守が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。が、戦後の1950年(昭和25年)に新たに施行された文化財保護法施行では重要文化財に格下げになりました。1955年(昭和30年)まで、天守の解体修理が行われましたが、その費用は当時約5300万円でした。

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この松江城は、松江市街の北部に位置します。南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城です。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもあります。城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)です。

全国に創建時の姿を残している天守はわずか12。そのうちの一つである松江城の天守は、1階の床面積が姫路城に次ぐ2番目の規模で、高さは姫路城、松本城に次ぎ3番目です。

私も何度か訪れたことがあります。美しい佇まいの城です。千鳥が羽を広げたように見える見事な三角屋根の破風を持つことから「千鳥城」とも呼ばれます。その構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲み、二の丸の南には一段低く三の丸が配されています。

天守の意匠は下見板張りで桃山文化様式です。石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われています。人柱が埋められたとされるくだんの石垣です。この上に立つ本丸の高さは、地上より約30メートル(天守台上は22.4メートル)あります。

外観は4重ですが、内部は地下の穴倉を含む5階であり、天守の南にも地下1階を持つ平屋の付櫓が付いています。地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例です。2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落しが8箇所あることを特徴としています。

最上階の天守閣は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けています。その上に載る鯱(しゃちほこ)は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直された物で、旧鯱は保管展示されています。

創建者の堀尾吉晴が5年の歳月をかけて松江城を築いたのは、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利してから間もなくのことです。戦乱が収まったとはいえない時期だったため、城の随所に軍事的工夫が見られます。そのひとつが、3階に設けられた屋根に通じる扉です。

敵を足止めするため、隠し部屋があるかのように見せかけたのではないかとの推測もありますが、実際のところの用途は不明です。

このほかの外溝としては、本丸一ノ門や三の丸と二の丸を結ぶ廊下門、二の丸下段の北惣門橋などが復元されており、行ってみないとわかりにくいことではありますが、天守だけでなく、城全体が再建・保全されているだけに見どころ満載のようです。

2009年に設立された「松江城を国宝にする市民の会」は、国宝化を求める約12万8000人分の署名を文化庁に提出するなどの活動を続けてきていました。今回国法に指定された理由は、四重五階のその荘重雄大な天守が近世城郭最盛期を代表する建築であると考えられること、および2階分の通し柱を用いた特徴的で優れた構造を持っていることなどでした。

しかし、なんといっても今回国宝指定の答申の決め手となったのは、築城年を記した「祈祷(きとう)札」の発見でした。2012年、天守からすぐ南の松江神社において、松江市史編纂事業の基礎調査を行っていた市職員らが偶然これを発見。

この祈祷札は、完成時に地鎮のため張られたもので、1937年以降所在不明となっていましたが、松江市はこれに懸賞金500万円をかけて捜しており、ついに発見したものです。しかし、札が見つかった松江神社は懸賞金の受け取りを辞退しています。

慶長16年(1611年)の完成年が墨書されており、この年の正月に松江城で祈祷がなされたことがわかり、つまり少なくともこの年には松江城が完成していたことが明らかになり、その歴史400年以上に及ぶことがわかりました。

さらに天守を調査した結果、地階の2本の通し柱に札を釘で打ち付けた跡が見つかり、札のあった正確な設置場所も判明しました。まちづくり文化財課は「登閣者に築城時の松江城の姿を見てもらいたい」と話していますが、お札自体は、文字が消えている部分が多く、市は赤外線調査で明らかになったこの文面を復元するかどうか、検討中です。

しかし市は既に、6月定例市議会に提出する一般会計補正予算案に、大きさ70~80cmのレプリカの制作費約135万円を盛り込みました。無論、観光の目玉にするためです。さらに松江市では大手門復元に向けて懸賞金を掛けて図面や古写真などの史料を探しているといいます。

城跡は現在、松江城山公園として利用されています。日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれています。天守は山陰地方の現存例としては唯一であり、ここからは宍道湖を眺望できます。この他、遊覧船で堀を周回し観光する「堀川めぐり」があります。

3箇所から乗船でき、2つのコースがあり、3.7kmを約50分間で遊覧します。さらに、松江城を中心に周辺を回る5コースがあります。ぜひ松江を訪れてこれに乗船し、その美しい城の姿を満喫していただきたいと思います。

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