タイタニックの人々

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今日は、103年前にイギリスの豪華客船「タイタニック」が沈没した日です。

当時世界でも最大級の客船が起こした事件であり、多数の犠牲者を出したことで史上最悪の海難事故といわれ、また処女航海でもあったことから、一層センセーショナルな受け止め方をされ、今日に至っています。

このブログでも再三とりあげ、もう新しく書くネタもないな、というくらいなのですが、史実を調べていくといまさらのように色々と知らなかったことも出てきたりして、ついつい深入りしてしまいます。

なぜそれほどまでに惹きつけられるのかについて考えてみたのですが、ひとつには、船の沈没という異常事態において、限られた短い時間の間にこれに対処しようとする人それぞれの生き様のようなものが浮き彫りにされること。

そこで取った行動は後世の人には様々に受け止められ、批判にもつながるようなものもある一方で、賞賛されるような英雄的な行為もあったわけですが、それぞれがそれまで生きてきた中で培った判断基準に基づく行動をとったわけであり、良かれ悪しかれ、そこにはその人の人生が凝縮されているように感じます。

あるいは、何かをしようと思ったものの、何もできなかったという人も多かったと思われ、生死を分ける瞬間にどういった時間がどの程度与えられたかによって、その人のそれまで生きてきた価値のようなものが神様に試されたような気もするわけです。

さらに、豪華客船だけにその当時一流と言われた人々が乗船していた一方で、船底に近い三等船客室には、アメリカに移民することで新たな道を切り開こうとしていた貧しい人々もおり、そうした身分の差を超えていかに人間的な行動をとったか、とれなかったか、なぜとらなかったのか、といった時代背景的なところにも興味がわきます。

ジェームズ・キャメロン監督が製作した映画、「タイタニック」はそうしたこの当時の身分差を超えた恋愛を中心とし、生死の境の場でその時代の人々がどう生きようとしたか、あるいはどう死んでいこうとしたかを見事に描き切った、ということでその当時高い評価を得ました。

私もその昔この映画をみて本当に感動したのですが、今日改めてそうした生死の狭間にあった人々がどう行動したかについて、少し整理してみようかと思います。とはいえ、膨大な人々がいる中でのことであり、どういった人を取り上げるかについてはそれこそ私自身の「判断基準」によって選別ささせていただくことにしましょう。




まず、やはりこの船を沈没に追いやった最大の責任者ということで、船長のエドワード・スミスをみてみましょう。

この人は、イングランド中部のハンリーというところで、陶芸家の父の元に生まれたという経歴を持ち、それほど上流階級の生まれというわけではありません。13歳の時に既にリバプールで船舶の仕事に就いており、その後船舶関係の仕事で研鑽を重ね、30歳でタイタニックを保有するホワイト・スターライン社に入社しました。

入社時してすぐに四等航海士となり、その後、会社のオーストラリア航路やニューヨーク航路に勤務し、瞬く間に昇進を重ねていき、37歳で蒸気船リパブリックの船長となると同時に英国海軍予備役大尉となりました。これは、戦争の際には英国海軍の一員として活動することを求められうることを意味していました。

40代からはより大型船の船長を務めるようになり、45歳から9年間はブルーリボン賞を受賞したこともある高速客船、「マジェスティック」の船長を務めました。この間、イギリスとオランダ系ボーア人が南アフリカの植民地化を争った第二次ボーア戦争が始まると、スミスはマジェスティックとともに徴用され、南アフリカへの軍隊の輸送にあたりました。

この時の南アフリカの植民地、ケープへの2回の航海では何も事件が発生せず、スミスはこの輸送で1903年にエドワード7世から「Transport Medal」を授かっており、ここでスミスは「安全な船長」という評価を受けることとなりました。

しかし、3回の座礁、3回の船内火災と、決して無事故ではなかったといい、このころからもう既にどうも船長としての資質の何かを欠いていたフシがあります。

スミスは、やがてその先任順位が上がるにつれて、乗客や乗組員から穏やかで華麗だという評価を得るようになっていきましたが、54歳になったころにはホワイト・スターライン社の他の全ての船長から報告を受ける立場の先任船長の立場となりました。

乗客の中には大西洋を横断する際にはスミスの船を選ぶ者もでるほどになり、また、イギリスの上流階級から、自分たちの乗る船の船長をスミスにしてくれという要求などもあり、「大富豪たちの船長」として知られるようになりました。

先任船長となって以来、新しい船が出来上がった際の処女航海で舵を取ることは決まった仕事となり、当時世界最大であったホワイト・スター社の客船バルチックや大型客船アドリアティックの処女航海を担当しましたが、特段事故は発生しませんでした。

アドリアティックの船長時代、スミスは予備艦隊から永年勤続表彰を受けるとともに、中佐に昇進しています。ますます評価は高まっており、世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げていきました。

そこで、ふたたびこの当時世界最大の船の最初の船長のお役目が回ってきます。それがタイタニックとともに姉妹船として建造された「オリンピック級」の客船「オリンピック」でしたが、そのリバプールからニューヨークに向けての処女航海においても初代船長としの役割を担いました。

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この任務はほぼ無事終了しました。しかし、この航海では、ニューヨーク港に接岸する際、12隻のタグボートのうち1隻をオリンピックの船体に衝突させてしまっており、これは右舷スクリューが発生させた後流によってこの船が翻弄されたためでした。また、その3カ月後にオリンピックはさらに大きな事故を起こしました。

イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、このときホークは船首を破損し、この衝突でオリンピックの防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がりました。オリンピックは自力でサウサンプトン港に戻ることができましたが、海軍側はこの事故がオリンピックが巨大であったことによる吸引力が原因だと主張しました。

この事件の最中、スミスはブリッジにおり、その一部始終を指示する立場でした。このとき姉妹船のタイタニックはまだ建造中でしたが、オリンピックのこの事故により、タイタニックに取付ける予定だったプロペラシャフトの一つをオリンピックに使うことになり、このためタイタニックの完成を遅らせざるをえなくなりました。

このため、タイタニックの処女航海は予定より20日ほど延期となりましたが、こうしたトラブルにも関わらず、タイタニックがサウサンプトンから処女航海に発つ際に、スミスは再び船長として徴用されました。

このときスミスは既に62歳になっていましたが、出航当日もスミスは外套に山高帽という普段の服装で自宅からタクシーでサウサンプトン港に向かい、午前7時にタイタニックに乗り込みました。

しかし、その12時の出発の際にもその先を案ずるようなちょっとした事件がありました。この港に係船されていたシティ・オブ・ニューヨークという客船が、タイタニックが通過する際のスクリューの水流に巻き込まれ、係留具が外れてタイタニックに向かってしまったのです。

このときはスミスの迅速な指示により間一髪で衝突は回避されましたが、こうした似たようなことを再三繰り返してきたことをみると、エドワード・スミスという人は、やはりどこか船長としてどこか抜けていたのではないか、と想像してしまいます。

自身の操船の技術そのものは優れていたかもしれませんが、部下に安全に船を運航を指示する、あるいはそういう組織を育て上げるといった能力に欠けていたようにも思われます。管理技術者として人の上にたつための何かが足りなかったのではないかと思わざるを得ません。

サウサンプトン港出航の直前にはこんなこともありました。このとき前任の航海士が後任の航海士と入れ替わるという人事異動があり、異動となった前任の二等航海士が、双眼鏡をキャビンにしまったことを後任の航海士に引き継がないまま下船してしまいました。

このため、この二等航海士用の双眼鏡はその所在を知らないまま出向するところとなりました。双眼鏡による監視は二等航海士による専任作業であり、このため、タイタニックはその後の航海においてその進路における周辺の監視を双眼鏡を使わずに肉眼で行うしか方法がなくなります。

些細なことかもしれませんが、そうした人事に伴う大切な備品の引き継ぎなどについても組織としてきちんとした管理が行われていれば、そうしたことはおこらなかったはずであり、そうした管理面でも最高責任者としての船長スミスの力量が問われていたわけです。

この双眼鏡がなかったということは、その後の事故の直接的な要因とはいえないにせよ、その後の沈没原因の究明にあたっては疑義の対象となりました。

タイタニックは、出国直後から、たびたびその航路における流氷群の危険性が、無線通信で警告されていました。この危険性はスミス船長も認識しており、航路を通常より少なくとも18㎞南寄りに変更していたようです。

問題の海域である北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りは、多数の氷山を肉眼で発見していましたが、タイタニック号が問題の氷山に遭遇したころは海面には靄が漂っていました。

このときの当直見張員フレデリック・フリートという人物でしたが、上述のとおり、二等航海士から手渡されるはずの双眼鏡はなく、遠望はできない状態でした。

こうした靄があるような状態では双眼鏡は役に立たなかった可能性もあるわけですが、いずれにせよタイタニックのような大きな船の航海において、その目ともなりうる道具を備えていなかったという点は、当然、非難されるべき点でしょう。

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とはいえ、夜でもあり双眼鏡があっても視界はまり効く状態ではありません。月のない星月夜でもあったため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れでした。

1912年4月14日23時40分、タイタニックは北大西洋で氷山に衝突します。船は2時間40分後の15日零時20分ごろに沈没し、約1,500人が命を落としましたが、スミス船長もまた亡くなった者の一人でした。

この氷山への衝突から沈没までの船長としての対応については、素早い救援要請を行い、脱出、救命のための指示などについても比較的迅速でした。が、一方では、1等船客を優先して避難させたことについては後年、大きな批判の声が上がりました。

沈没が差し迫ったタイタニックでは、スミス船長の指示により、左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮しましたが、彼等は1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行ったものの、それより下層の船客にはほとんど避難誘導を行いませんでした。

また脱出するためのボートが不足していた点についても被害者が増えた大きな原因です。これは会社側の責任ともいえますが、船を運航する安全管理者として、事前に会社に対して船長であるスミスから何も主張がなかった点も非難されてしかるべきでしょう。

さらに沈没までの時間の推定についても読みが浅かったといったことが指摘されているようであり、「不沈船」とも称されたこの大型客船の安全性に対しての驕りがあったことに対しては疑いようもなく、現在なら、生きていれば当然のようにその責任が問われたでしょう。

しかし、従来の慣例通り船と運命をともにしており、この点、昨年韓国で起きたフェリー事故の船長や、これ以前におきたギリシャの客船の船長のように自分だけ脱出するといった卑怯な行為は見られず、多少なりともその汚名をすすぐことができたのでは、という見方もあります。

タイタニックが沈んだ際、スミスがどのように亡くなったのかについては諸説があるようです。数人の生存者たちは、救命胴衣を身に付け海中にいるスミスを目撃したと証言している方で、オープンブリッジに浸水が及ぶ中、操舵室にいるスミスを見たという証言もあります。

また、沈没の10分前にあたる午前2時13分にスミスがブリッジに入っていったと証言している人もおり、最上階のデッキプロムナードまで戻ったスミスが、その直後に窓が割れて船内の大階段に向けて吸い込まれていくのを見たという証言もあります。

その死の瞬間がどうであれ、このときスミス船長はそれまでの人生をどう思ったでしょうか。その人生最大の失敗をしてしまったことについて、悔いるには十分な時間があったと思われますが、何を思いその瞬間を迎えたでしょうか。

エリート船長としての栄華とともに、その中で犯してきた数々の失敗を思い出し、それを悔いつつ迎えた死であったのかもしれません。

スミス船長以外にも自らの意思で船上に残り殉職した乗員も多く、沈没までの時間をいかに過ごしていたのだろう、自分だったらどうしただろう、などとついつい考えてしまいます。

一方では船員の多くは、乗客たちを脱出されるのに忙しく、皆それぞれが自分が与えられた立場においてその職責を十分に果たせたかどうかも考える余裕もなく、海の中へ消えていったと思われます。

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この事故で亡くなった乗客側においても数々のドラマがありました。船と運命を共にした人の中には、スピリチュアリズムの開拓者であり、沈没を予言していたといわれるジャーナリストのウィリアム・トーマス・ステッドなどもおり、この人物については以前のこのブログ、憑いてますか?でもその生涯について書きました。

このほか、ブルックリン橋を完成させたことで知られる土木技術者・ワシントン・ローブリングの甥のワシントン・オーガストス・ローブリング二世とか、ドイツ出身のアメリカの実業家で後に百貨店のメイシーズを買収して世界的な百貨店に育て上げ、アメリカ下院議員も務めたイジドー・ストラウスといった人もこの事故で亡くなっています。

また、一等船客の女性で、他の女性に救命艇の座席を譲って船と運命を共にしたエディス・エヴァンズといった女性もいます。

独り身で旅をしていたエヴァンズには、付き添いの男性がおらず、エヴァンズと同じく1等船客で戦史研究家として知られ、後に生還を果たしたアーチボルト・グレーシー大佐という軍人がいました。彼は、エヴァンズと船内で語らっていたとき、彼女が数年前ロンドンで「水に気をつけるように」と占い師に言われたと語っていたことを証言しています。

二人はともに他の人々を思い遣ることができるタイプの人達であり、事故発生後も他人の避難を優先し、最後に乗る予定だった救命ボートも、降下の準備ができていたものの、エヴァンズとブラウンの両方を乗せる余裕はなく、どちらか一人しか乗船できませんでした。

このとき、エヴァンズは渋るブラウンに何度も「家でお子さんたちが待っているのだから、先にお行きなさい」と勧めたといい、この救命ボートはグレーシー大佐だけを乗せ、エヴァンズを船上に残したまま離船しました。

そのほかにも沈没の最後まで聖書を朗読し続けた神父、甲板上で音楽を奏で、最後の瞬間まで乗客の不安を和らげようと尽力したバンドの面々、船底に近い三等客室から必死で脱出の努力を続けた船客などなど、生と死の狭間でが繰り広げられたであろうドラマの数々を想像するにつけ、心が痛みます。

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このタイタニックには、日本人も乗船しており、これは細野正文という、明治期の鉄道官僚でした。ミュージシャンの細野晴臣は孫にあたります。

細野氏は、1912年、第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の帰路の際、タイタニック号に日本人ではただ1人乗船していたのですが、タイタニック号の沈没ののち、「他人を押しのけて救命ボートに乗ったとの白人男性の「証言」を元にしたとされる誤報が流れました。

この話はすぐに日本国内でも広まり、新聞や教科書で社会的に大きな批判を集めることとなりましたが、ご本人は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えました。弁解しなかった理由は武士道精神と考えられています。

しかし死後の1981年になって彼が救助直後に残した事故の手記が発見され、映画「タイタニック」が公開された1997年に手記等の調査から人違いであることが確認されて正式に名誉回復がなされました。

このほか、この当時生後19ヶ月だったイギリス生まれの男の子は、両親や兄姉たちとともにタイタニック号に乗船して、事故に遭い彼を含む一家全員が死亡しました。その後、長い間「身元不明児」(The unknown child)と呼ばれていましたが、その身元が判明したのは、事故から1世紀近く経過した2007年になってからでした。

映画「タイタニック」ではこうした実在の人物だけでなく、主人公のジャック・ドーソン こと、レオナルド・ディカプリオやローズ・デウィット・ブケイター こと、ケイト・ウィンスレットなどの架空の人物が多数登場しました。

無論、そうした史実はないわけですが、映画の最後のほうでは、この「ローズ」という人物が事故後にアメリカに渡り、有名女優になった、といった描かれ方がされています。

キャメロン監督はとくに言及していませんが、私はこの「ローズ」というのは、生存者のひとりである、「ドロシー・ギブソン」という人物がモデルであったのではないかと思っています。

ニュージャージー州ホーボーケン生まれの彼女の家は貧しく、17歳くらいから歌手やダンサーとしてさまざまな劇場やボードヴィルの舞台に立つようになりました。20歳のころにはモデルの仕事を始めましたが、同じ年にメンフィス生まれの薬剤師と結婚しました。

結婚後もモデルなどの仕事を続けていましたが、その後徐々に人気が出始め、彼女の姿を描いたイラストは、さまざまなポスターや絵葉書、本の挿絵に使われるようになりました。更に「コスモポリタン」「レディース・ホーム・ジャーナル」といった著名な雑誌や新聞のカバーイラストなどにも採用されるようになり、その名は広く知られるようになりました。

その後この夫との仲は冷え切り別居に至りますが、22歳ころからは映画界入りし、パリを拠点とするエクレール・スタジオの主役級女優として雇用されました。まもなく、ここでもその自然で繊細な演技が賞賛を受けるようになり、とりわけ短編映画ではコメディエンヌとしての魅力を発揮して、映画スターの一人と認められるようになりました。

1912年、当時22歳のドロシーは母ポーリン(当時45歳)とともに、6週間の休暇をイタリアで過ごし、休暇の終わった後、ニューヨークで新たな映画シリーズの撮影に入る予定でした。2人はシェルブール港からタイタニック号に1等船客として乗船し、そしてこの事故に遭遇しました。

事故当時、ドロシーと母は、同じく1等船客だった乗客と一緒にラウンジでトランプ遊びを楽しんでいたといい、彼等とともに7番救命ボートに乗り込んで脱出し、生還を果たしました。この事故の後、ドロシーは自ら脚本を執筆して、事故発生から1ヵ月後に公開された映画“Saved from the Titanic”に主演しました。

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この映画はアメリカのみならずイギリスやフランスなどでも大成功を収め、この成功によって、ドロシーは一躍ドル箱スターの座に着きました。しかし、その人気絶頂の中映画スターとしての一線を早々に退き、声楽家としてのキャリアを模索するようになります。

その後、声楽家としてもそこそこ成功し、ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスなどでも活躍しました。が、イーストマン・コダック社の大株主でユニバーサル・ピクチャーズの共同創立者でもある、映画界の大立者ジュール・ブリュラトゥールとの不倫などが発覚するなど何かと私生活では波乱が続きました。

前夫とは離婚し、二人はその後結婚しましたが、すぐにまた離婚。38歳のころ、一人身になったドロシーは、パリに移住しました。第2次世界大戦中にはナチスのパリ占領にもかかわらずレジスタンスとして活動すべく残留しました。が、2度にわたって敵性外国人として逮捕され、一度は収容所から脱走を果たしています。

しかし、2度の逮捕や脱走などは、ドロシーの健康を大きく損ない、57歳のときパリのホテル・リッツに滞在中、心臓発作を起こして死去しました。タイタニックの事故から31年後のことでした。

遺体はパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーにある墓地に埋葬されています。映画「タイタニック」の主人公とは少し異なる一生でしたが、これはこれで十分に映画にもなるような、ちょっとした物語として本にでもなりそうな、そんな人生でした。

映画「タイタニック」では、「ローズ」ことこのドロシーと「ジャック」ことディカプリオ様との恋物語が中心として印象的に描かれているわけですが、もうひとり、この映画で印象的に描かれていた人物で、実在の人物がいます。

映画のほうでも、そのまま実名で登場しており、この人は、「マーガレット・ブラウン 」といいます。

劇中、新興成金で、上流階級である他の一等船客からは成り上がり者として見下されているものの、貧乏人であるジャックが上流階級のパーティに出席する際に、彼女は息子の礼服を貸し出したり食事のマナーを耳打ちしたりしてジャックを陰から支える、という役柄で登場しました。

演技派女優であるキャシー・ベイツがこれを演じ、なかなかの見せ場を作りました。タイタニック沈没の時に救命ボート上で救助のため引き返すのを主張した乗客は彼女だけだったという設定でしたが、実際にもこの話にかなり近い行動をとっていたようです。

事故後、“The Unsinkable Molly Brown” とアメリカ国内で呼ばれるようになり、これは邦訳で「不沈のモリー・ブラウン」とされています。が、ここでのUnsinkableは、不沈の船といわれたタイタニックへの掛け言葉であり、「鉄の女」というほどの意味です。その後の人生でも不屈の精神により数々の慈善事業を成し遂げたため、こう呼ばれたわけです。

映画でもそう描かれたように、タイタニック号沈没事故の際、生存者捜索のため救命ボート6号を戻し、女性生存者の代表者格として有名になりました。その前半生は貧しかったものの、ある幸運から後半生ではこれを跳ね返すようなアメリカンドリームを体現してみせたことで、この当時のアメリカ国内ではかなり英雄視された人です。

ミズーリ州ハンニバルで、アイルランド移民の父母との間に生まれたマーガレットは、18歳のときコロラド州のリードヴィルという田舎町に姉妹とともに移り住み、デパートメントに職を得ました。金持ちと結婚する、というのが願望でしたが、実際に結婚したのはジェイムズ・ジョゼフ・ブラウンという、しがない鉱山技師でした。

しかし、夫のジェイムズは、進取に富んだ気性で、独力で勉強をし、自らの鉱山技術に磨きをかけました。その努力は実を結び、あるとき、ジェイムズの開発した技術が、堅固な原鉱に割れ目を入れるのに役立つことが証明されます。

彼が勤める鉱山会社の雇用主もこれを認め、自らが経営する鉱山でその技術を役立てるべく、資本金から12,500株をジェイムズに譲渡することを決め、理事の席を提供しました。

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こうして鉱山からの利益で次第にジェイムズ一家は豊になっていき、その中でマーガレットは、女性の権利獲得に情熱を燃やすようになり、国立アメリカ女性参政権協会のコロラド支部の設立を助けるようになりました。

しかし、貧しい家庭に育った中でもクリスチャンとして親に厳しく育てられたマーガレットは、富裕層にありがちな高慢さなどはみじんほどもなく、夫の鉱山の鉱夫の家族を援助するスープ・キッチンで働くなどの庶民派であり続けました。

27歳のとき、一家は大都市であるデンバーに引越しますが、これによりさらに社会福祉の好機を得るところとなり、マーガレットはデンバー女性クラブの創立メンバーとなり、成人教育と慈善を通して、女性の生活の改善・解放を叫ぶ運動などにも身を投じるようになりました。

34歳のころには、ニューヨーク州のカーネギー研究所へ寄付をするなど科学研究の発展にも寄与するようになり、このころまでには社交界の女性の美々しい衣装にも順応し、芸術活動などにも没頭するようになりました。

勉強家だったようで、フランス語、ドイツ語、ロシア語にも堪能になり、42歳では、ついにアメリカ合衆国上院にも立候補しました。しかし選挙には落ち、また結婚生活23年目にして、夫とも非公式なら別居合意に達し、別々の道を歩むことになりました。が、離婚はせず、生涯を通じて互いを気遣ったといいます。

この合意によりマーガレットは示談金を手にし、現在博物館にもなっているデンバーの自宅も所有し続け、また旅行や慈善活動を続けるための費用を、月に700ドル受け取ることができました。そうした豊富な資金を惜しげもなく慈善活動に投じ、この資金によりデンバーの「無原罪聖母大聖堂」を1911年に完成しています。

さらには貧しい子供たちを助け、アメリカ合衆国初めての少年裁判所の設立に努め、近代的な少年裁判所のシステムの基礎確立を支えました。また、このころから、フランスでも人権運動などにも参加するようになっていたようです。

その関係で訪れたフランスから一旦アメリカへ帰国しようと乗船したのがタイタニックでした。マーガレットはフランスのシェルブールから、SS ノマディックという客船によってサウサンプトンまで行き、ここで旅客船タイタニックの一等船客となりました。

彼女はこのとき45歳でしたが、氷山に衝突して沈没寸前のタイタニックからの脱出の際にも博愛精神を発揮し、他の乗客が先に救命艇に乗り込むのを助け、自らの乗船は最後まで固辞していたといいます。

しかし、最終的には救命艇6号に乗って船を離れることを承諾します。離船後、この救命艇を指揮していたのはロバート・ヒッチェンズという操舵員でしたが、マーガレットなどの乗員が水に落ちて叫んでいる人々を救うために返すように促しても、彼はボートで沖へ出るのをやめようとしませんでした。

「戻っても無駄です」の一点張りを繰り返す彼に業を煮やしたマーガレットは、「乗員たちに暖を取らせるためです。オールを私たちに渡しなさい。」と、漕ぎ手を水夫たちから乗員たちに代えるよう要求しました。しかしそれでも尻込みする彼をみていたマーガレットは、ついに彼を無視して自らオールを奪い取り、乗客たちに渡し始めました。

彼はこれを見て驚き、抗議の言葉で彼女を口汚くののしり始めました。これに対して彼女は、「そこにじっとしていなさい。さもなければ海中に彼を放り投げるわよ」とやり返しました。これを見ていた他の乗客もようやく彼女に賛同を示すようになり、口々に、そうだ、静かにしていろ、と言い、水夫からオールを奪い、自らが手に手にこれを持ち始めました。

それでも彼が文句を言ったのに対してマーガレットは、”Don’t you know you’re talking to a lady?” と静かに言い放ったといいます。直訳すれば、「あなたは、女性と話しているということを知りませんか?」ですが、これは、「それがレディに対する礼儀なの?」というふうに意訳できると思います。

日本語ではその雰囲気が伝わりにくいものの、これはある種凄みの利いた恫喝です。

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後年、こうしたやりとりが新聞で発表されるようになったときには、さらにこれに脚色が加えられ、彼女をさらに英雄に祭り上げるような書き方にされていったと考えられますが、いずれにせよ、こうして彼女は豪華客船の沈没という悲劇的な事故におけるヒロインとして人々に印象付けられるようになりました。

マーガレットはその後、カルパチア号に救助された際も、女性乗客の間でリーダーシップを発揮したといい、その後の慈善活動において、その評判は非常に役立ちました。彼女が勝ち取ろうとしていた労働者と女性の権利や、子どもの教育の推進において、彼女の名声がモノをいったわけです。

タイタニックの沈没から10年後の1922年には、夫のジェイムズが亡くなりました。このときマーガレットは、「彼ほど高潔で、心の広い、すばらしい男性はいなかった」と語っています。夫婦の間には2人の娘がいましたが、33歳と35歳になっていたこの子らとは、夫の財産の継承をめぐって5年間争うことになりました。

二人は非常に浪費癖があったといい、彼女にすれば忸怩(じくじ)たる思いがあったでしょう。しかしこの裁判の結果は彼女にとって不利なものとなり、マーガレットは現金と証券とでたったの20,000ドルだけしか受け取ることができませんでした。

が、ほかに100,000ドルの信託財産の利子が彼女の名で用意されました。これは現在の日本円の価値に換算して3億円あまりです。

とはいえ、富豪といわれた往時に比べればこの額はあまりにも少なく、残りの多くの額は2人の子供が受け取ることになりました。マーガレットはこれ以降亡くなるまで、この2人に会うことはなかったといいます。

その後、マーガレットは、第一次世界大戦で荒廃していたヨーロッパにおけるアメリカ人支援などの活動に参加するために再度フランスに渡りました。フランス人やアメリカ人兵士の傷病者を助ける運動を続けていましたが、アメリカでの慈善活動を含め、そうした一連の活動が認められ、フランスのレジオンドヌール勲章が授けられました。

人生最後の数年間は、女優業にも取り組んでいたといい、最後の最後まで活動的な女性でした。1932年、タイタニックの沈没からちょうど20年を経たこの年、睡眠中の発作により死去。65歳でした。その遺体は、ニューヨーク州ウェストベリーのホリールード墓地に埋葬されています。

その死は世界大恐慌の間のことであり、先に裁判で父親から財産の贈与を受け取っていた2人の娘は、さらに浪費を繰り返していたのか貧窮しており、彼等はマーガレットの財産をたった6,000ドルで売却したといいます。

マーガレットはその生前、夫のジェイムズ・ブラウンと結婚したときのことを述懐してこう語っていたそうです。

「お金持ちと結婚したかったけれど、私はジェイムズを愛しました。私は父を楽にさせてやりたかったし、疲れて年老いた父にしてやりたかったことをかなえてくれる男性が現れるまでは、ずっと独身でいようと決心していました。」

「ジムは私たちと同じくらい貧乏だったし、チャンスに恵まれた人生を送っていたわけではありません。私はその頃、激しく葛藤していました。私はジェイムズを愛していたけれど、彼は貧しかったのです。」

「最終的に私は、富で自分を惹きつける男性とではなく、貧しくても愛する男性と過ごすほうが幸せだという考えに至りました。だから私はジェイムズ・ブラウンと結婚したのです。」

けっして損得を考えて行った結婚ではなかったでしょうが、その結婚とその後のタイタニックの事故をきっかけに英雄視されるようになっっていったその一生を彼女がけっして計画していたものではなかったことが、これからもわかります。

人の一生というものほど摩訶不思議なものはない。いつにもましてそう思う次第です。

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