黄色いレンガと銀の靴

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3日ほど前に事故を起こした、アシアナ航空については、事故原因などをめぐって連日のようにテレビなどで報道が続いています。

この事故は、韓国の仁川国際空港発、広島空港行きのアシアナ航空162便、エアバスA320型機が、広島空港へ東側から着陸する際、標準より低い高度で滑走路に接近し、滑走路手前で計器着陸用の誘導装置に接触したものです。接触後、同機は一応着陸したものの、滑走路を逸脱し、横滑りしてほぼ180度回転して芝生エリアに停止しました。

事故機は誘導装置のアンテナとの接触により左主翼が損傷しエンジンカバーが脱落した状態で、着陸直後には左側エンジンから発煙があったといいます。

乗客・乗員計81人(乗客73人、乗員8人)は全員が脱出用シューターで脱出して無事でしたが、脱出の際、乗務員による避難誘導は無く、開いたシューターを使って乗客同士が助け合って脱出したといい、この事故により、27人が軽傷を負いました。

事故原因はまだ調査中のようですが、事故時の空港周辺では霧が発生するなど大気の状態は不安定で、気象庁からも、雷と突風及び降ひょうに関する情報を数回出し注意喚起を促していたようです。

ただ、過度の低空進入になっていたことから、部分的に発生していた濃霧により操縦士が着陸直前に進入角度を確認できていなかったのではないか、という指摘もあがっており、パイロットの操縦ミスの可能性もあるようです。あわやの惨事というきわどい着陸であったことなども報じられており、今後の調査結果が注目されます。

このアシアナ航空ですが、「アシアナ」はラテン語で「アジアの」を意味する語だそうです。どこの航空会社だったっけ、と調べてみると、韓国の会社のようです。韓国国内線では、12都市14路線、国際線では22カ国67都市91路線を持っており、このうち日本への乗り入れは16都市に達しています。

日本の地方空港へ乗り入れる外国の航空会社としては、この乗り入れ地点数は最大であり、スターアライアンスメンバーに加入していて全日本空輸と株式を持ち合っていることなどから、最近この航空会社をよく使う、という日本人もかなり多くなっているようです。

とくに日本の地方から外国へ向かう旅行者がソウル・仁川国際空港を経由し外国へ向かうことが非常に多いといい、同じ韓国のライバル会社である大韓航空と比較して、長距離国際線は少なくアジア内重視の傾向が強いようです。

私は大韓航空しか乗ったことがないのですが、その評判をネットなどで調べてみると、親切丁寧で機内食が良いという意見が多いようで、機内サービスの評価は高いようです。機内マジックショーやメークアップイベント等のサービスを用意する便もあるとのことで、最先端の機内設備を通して、サービス面において他社との差別化を図っています。

ファーストスイートクラスの搭載機材には、航空業界でも例を見ない大きさの32インチ高画質個人用モニターが搭載されているほか、日本発着路線には京懐石料理を、また誕生日や結婚などのお祝いケーキなどと言った特別機内食も提供されるといいます。

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しかし、1988年の発足以来、事故が多い航空会社です。ざっと取り上げると、まずその最大の事故は1993年のものです。これは「アシアナ航空733便墜落事故」といい、ボーイング737で運行されたこのフライトでは66人が死亡しました。死亡事故としては、このほか2011年の貨物機事故があり、このときは済州島沖で乗員2人が死亡。

前者の墜落原因はパイロットの操縦ミスとされ、また貨物機のほうは、積荷に火災の原因となりうるリチウムイオン電池、塗料などが大量に搭載されていたことから、火災による墜落とされています。

さらに、2013年には、に仁川国際空港を離陸し、サンフランシスコへ向かっていたアシアナ航空のボーイング777が、サンフランシスコ国際空港への着陸に失敗、炎上しており、この事故では3人が死亡、約180人が負傷しました。アメリカの運輸省は操縦士の判断の遅れが事故の主因だとする見方を示し同社に対し50万ドルの罰金を課しました。

このほか、死亡事故ではありませんが、2009年に関西国際空港でも着陸に際し、機体後部を滑走路に接触させる事故を起こしているほか、2012年にはハワイ行きのエアバスA330が島根県上で気流に巻き込まれ乗客2人が骨折などのけがをしています。

事後調査で同機操縦室の気象レーダー電源が切られていて、運航乗務員はそれに気付いていなかったことが原因だったようです。

直近では昨年の2014年4月、仁川からサイパンへ向かっていたアシアナ航空のボーイング767が飛行中、福岡上空付近でエンジンの警告ランプが点灯し異常を通知されていたにもかかわらず、飛行を継続し目的地まで飛行していたという事件もありました。

後日、韓国の国土交通部は運航乗務員には30日の資格停止、運航航空会社には同路線の7日間の運航停止、または課徴金2,000万ウォンが課されています。

こうしてみると、非常に事故が多い印象であり、また操縦士のミスが事故につながったことが多いようで、今回の事故もまた操縦ミスだったとすると、同社の運行体制にはかなり問題があると考えざるを得ません。特段、格安航空ともいえないようでもあり、利用はしばらく控えたほうがいいのかもしれません。

このアシアナ航空の、航空会社コードの「OZ」となっています。日本航空はJAL、全日空はANAですが、なぜアシアナなのにOZなのかと思ったら、これは「オズの魔法使い」に由来してこう決めたのだとか。

なんでオズの魔法使いだったのかな~と考えたのですが、よくわかりません。おそらくは魔法使いはほうきに乗って空を飛ぶので、こうしたのではないかと思われ、単なる魔法使いとするよりも、「オズの魔法使い」としたほうがカッコいいと思ったのではないでしょうか。

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また、この話は、魔法使いが気球に乗ってどこかへ飛ばされてしまうというエンディングだったと思うので、そこにもひっかけたのかもしれません。しかし、子供のころに一度読んだような記憶があるのですが、よく話の筋を覚えていません。改めてどんなストーリーだったかな、と調べてみると、だいたい以下のようなあらすじのようです。

愛犬トトと共に、アメリカ・カンザス州にある自分の家ごと竜巻に巻き込まれてしまったドロシーは、「オズ」という魔法の国に迷い込んでしまいます。二人が落ちたのは、なんとここに住まう、「東の悪い魔女」の家の上。

この魔女は落ちてきたドロシーによって壊された家の下敷きになって死んでしまいます。ところが、彼女によってこき使われていたこの国の種族、マンチキンたちはドロシーたちに感謝をして大喜び。しかし、彼等に聞いてもカンザスに帰る道はわからず、ドロシーは途方にくれてしまいます。

泣き出すドロシーの前に現れたのが、北の良い魔女グリンダ。グリンダは、東の悪い魔女が履いていた不思議な力を持つ銀の魔法の靴をドロシーに履かせます。そして、「魔法使いならあなたをおうちに帰してくれるかもしれないわ」と言って、彼が住むエメラルドシティーへ、ドロシーを向かわせます。

その道中、ドロシーが最初に会ったのがカカシであり、彼は全身がわらでできているため、痛みも感じませんが、脳みそもありません。魔法使いのところへいったら、自分に脳みそをくれるかも知れないということで、彼女と同行することにします。

次に出会ったのはブリキのきこりで、彼はブリキでできているから心がないので、同じく魔法使いに会ったら心をくれるかもしれない、といい、自分も連れて行ってくれないかとドロシーに頼みます。

するとそこへ突然一匹のライオンが襲ってきます。しかし、少しも迫力がなく、彼曰く、
「僕はぜんぜん勇気がないんだ。百獣の王なのに怖がりだし……魔法使いに会ったら勇気をくれるかなぁ?」

……ということで、こうしてエメラルドシティーへ向かう一行は、犬のトトとドロシーを入れた4人になりました。

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こうしてその珍道中は続きますが、そんな中、今度は「西の悪い魔女」が彼等の前に立ちふさがります。彼女はドロシーが押しつぶした東の魔女の姉であり、自分の妹を殺したドロシーをことあるごとに邪魔してきます。

しかし、その妨害をもなんとかはねのけドロシー達はやっとの思いでエメラルドシティーに到着します。が、目的とする魔法使いはなかなか彼等に会ってくれず、あげくのはてには「西の魔女をやっつけたら会ってやろう」という条件まで出してきます。

悪い魔女を倒せば、魔法使いが私をカンザスへ帰してくれる、と発奮したドロシーは、3人を引き連れ、悪い魔女の城へ乗り込みます。危険な戦いの末、魔女に水をかけると、魔女は苦しみながら溶けて死んでしまいました。

こうして力を合わせて魔女をやっつけた4人の前にようやく魔法使いが姿を現します。ところが、魔法使い魔法使いと言った割には、目の前に現れたのは普通のオッサンであり、しかも彼はただの発明家で、魔法なんて使えない人間であることが発覚。

しかし、彼は、「案山子は旅の困難を切りぬけようと頭を使い、ライオンは危険に立ち向かい、ブリキの人形はドロシーの運命に涙を流した」と彼等を称え、さまざまな方法で彼等の願いは果たされます。

しかも彼は発明家だけに、気球を持っているからドロシーの帰郷も大丈夫、と請け合います。こうしてドロシには一緒に気球でテキサスへ帰れる、と喜んだのもつかの間、出発間際ふとしたことから気球は魔法使いだけを乗せて舞い上がってしまいます。

魔法で家へ帰れると思っていたドロシーはまたしても泣き出してしまいますが、そこへ北の良い魔女のグリンダがふたたび助けの手を差し伸べます。彼女の願いを叶えてくれることになり、ドロシーは仲間に別れを告げてグリンダの言うままにある方法で自宅のあるカンザスを目指します。

やがてドロシーが目を開けると、そこには育ててくれた伯父伯母をはじめ、ドロシーの住む農場で雇われているハンク、ヒッコリー、ジーク、マーヴェルが傍にいました。彼等は魔女を一緒に倒したカカシ、ブリキ男、ライオンにそっくりでしたが、彼女にとって皆がオズの国で一緒だったことを覚えていないのが不思議でしょうがないのでした……

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このオズの魔法使いという物語を創作したのは、ライマン・フランク・ボームという、アメリカ合衆国の児童文学作家です。

ボームはニューヨーク州のチッテナンゴ村という小さな村に1856年に生まれました。父はペンシルベニア州の油田で財を築いた人であったため、ボームは裕福な環境で育ち、ごく若い頃から創作に取り組んでいました。父は彼に簡易的な印刷機を買い与えており、彼と弟はそれを使って新聞を発行していたといいます。

これは広告も入った本格的なものだったそうで、数号は続いたといい、17歳になるまでに彼はさらに切手収集家のためのアマチュア誌を創刊しました。と同時に演劇にも傾倒し始め役者としての成功を夢みます。が、父のように商才はなかったのか、その後は興行的な失敗によって幾度となく破産寸前に陥るようになります。

一時期は演劇から離れ、衣料品会社で事務員などもやっていましたが、再び演劇の世界に戻り、さまざまな芸名で活動するようになります。24歳のとき、そんな彼を見かねたのか父が彼のために劇場を建ててくれました。

ボームはこの劇場で脚本家の地位に就き、役者をやってくれる仲間を集め、脚本を書くだけではなく、劇のための作曲も行い、さらには舞台で主役を演じました。ところがボームが巡業で留守にしている間にこの劇場が火事になり、建物のみならずボームの脚本の多くも焼失してしまいます。

この頃までにはボームは結婚していましたが、33歳のボームと妻はこれを契機にサウスダコタ州のアバーディーンに移り、そこで彼は「ボーム市場」という雑貨店を開きました。しかし、品物を安易にツケで手放してしまうという彼の悪癖により、店は結果的に破産に追い込まれます。

そのため今度は、この町の地方新聞の編集者の職を得ますが、この会社もじきに潰れると、彼と妻と、そして4人の息子はシカゴに移りました。ここでボームは「イヴニング・ポスト」の記者の仕事を見つけますが、彼は旅回りのセールスマンとしても働かなくてはなりませんでした。

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そんな中、41歳になった彼は初めて自作でヒットを飛ばしました。”Mother Goose in Prose”という本で、これは古文で書かれていたマザー・グースを、現代用語に直してわかりやすくした短編集でした。この本はそこそこ売れ、ようやく息を吹き返した彼が次に取り組んだのは、詩集”Father Goose, His Book”でした。

「ファーザー・グース、彼の本」というパロディ満載のナンセンス本だったこの本は大ヒットし、この年の児童書としてはベストセラーになり、さらに気をよくした彼が次に執筆したのが、「オズの素晴らしい魔法使い“The Wonderful Wizard of Oz”」でした。

この本は批評家から絶賛を浴び、商業的にも成功を修め、その後2年間に渡り児童書のベストセラーの地位に君臨し続け、その後もボームはオズの国や住人を扱った続編を13作も書いていくことになります。

この出版の2年後には、同作をミュージカル化し、これは1902年にシカゴで初演され、1911年まで成功裏にアメリカ国内を巡業が行われましたが、評判は上々でした。ミュージカル版の成功以降、原作の題名もミュージカル版に合わせて “The Wizard of Oz”(オズの魔法使い)に縮められるのが一般的になりました。

しかし、ボームはその後こうした「オズ・シリーズ」以外にはヒット作に恵まれず、ミュージカルの成功から1年後に出した、1901年の “Dot and Tot of Merryland”(陽気な国のドットとトット)などは、ボーム屈指の駄作と酷評されました。

以後も次々と新しい作品に挑みましたが、その都度もっと面白いものをという一般読者からの要求、子供たちからの手紙が相次ぎ、結局はオズ・シリーズの続編に戻る、というパターンを繰り返しました。

演劇に懸ける終生の愛情のために、彼はこのほかにも、しばしば凝ったミュージカルに対して資金を出しましたが、ことごとく失敗し、しまいには借金で首が回らなくなったボームは初期作品「オズの魔法使い」を含む作品の著作権を売却する羽目に陥りました。

その結果、初期作の低品質版が出回ることになり、ボームの名声は下落し、その後の新作までが売れなくなりました。ボームは蔵書、タイプライター、など手放せる財産を徐々に放出して行き、最後には無一物となりました。

ボームによるオズ・シリーズの最終巻「オズのグリンダ」は彼の死後の1920年に刊行されたものですが、これは別の作家によって書かれたものであり、さらにシリーズは長い間別の作家たちによって書き続けられました。

しかし、一文無しになったボームはその後も演劇界での仕事を続け、シリーズ第6作目の「オズのチクタク男(Tik-Tok Man of Oz)」はハリウッドでそれなりの成功を修めました。

これで息を吹き返した彼は、58歳のときハリウッドに移り、自作を映画化するための会社The Oz Film Manufacturing Company(オズ映画制作会社)を起業。

自ら会長、プロデューサー、脚本家をつとめましたが、この時期に彼が使ったキャストの中には無名時代のハロルド・ロイドもいました。会社は順調に推移していたようですが、そんな中、1919年5月5日、ボームは脳卒中で倒れます。そしてそのまま翌日静かに息を引き取りました。63歳の誕生日の9日前のことでした。

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末期の言葉は、うわごとのように口に出した”Now we can cross the Shifting Sands.”であったといいます。「さあ、いまこそ流砂の上をわたるぞ!」という意味であり、このときもまた何か新しい創作物を昏睡状態の頭の中で考えていたのでしょう。

ボームは、その後カリフォルニア州グレンデールにあるフォーレスト・ローン記念公園(Forest Lawn Memorial Park)に埋葬されました。

この彼の遺作であり、最大のヒット作だった「オズの魔法使い」は、児童文学であると同時に、これが発表された19世紀末のアメリカ経済に関する「寓話」とも解釈されることもあるようです。

というのも、この作品が1900年に世にでる直前の1880年から1886年にかけては、アメリカ経済は23%ものデフレーションを経験しており、当時の西部の農民達のほとんどが、東部の銀行からの借金で開拓を行っていました。しかし、デフレーションの発生は貨幣価値をおとしめ、逆に相対的に借金の価値を増大させます。

このため西部の農民は苦しみ、一方では東部の銀行が何もせずに潤うという事態が発生するところとなり、東西で貧富の格差は広がるばかりでした。このため、当時の民主党などは、不足する貨幣供給量を銀貨の自由鋳造で賄い、これによりゆるやかなインフレを起こすことが有効対策だと主張しました。これを「リフレーション政策」といいます。

急激なインフレはまた別の意味での問題を起こしますが、少しくらいのインフレならば経済も順調に動き、世の中の金の巡りがよくなる、というわけですが、これに対して従来の金本位体制を支持する立場の共和党は、真向うからこれに反対しました。

民主党は銀貨の採用、すなわち銀本位制を主張し、共和党はあくまでも金本位制にとどまることを主張したこの論争は、次の大統領選挙においても最も重要な論点となっていきました。ところが、こうした政治的な話が、実はオズの魔法使いの中に盛り込まれているのでは、とこの当時の歴史学者や経済学者は考えました。

どういうことかといえば、例えば物語最後のほうで、ドロシーは家に帰る道を見つける方法を探る中で、「黄色いレンガ」でできた道をたどる、といったシーンが出てきます。

黄色=黄金、と置き換えれば、これはこじつければドロシーが金本位制で家へ帰る道を探そうとした、という解釈もできます。しかし、結局彼女はその黄金色のレンガでできた道を辿って家に帰る方法を見つけることができませんでした。

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一方、ドロシーは、物語の最初のほうで、北の良い魔女グリンダの「銀の靴」を履かせてもらって魔法使い探しの旅に出ています。

この銀の靴の魔法については物語の進行中は明かされません。しかし、物語の最後で魔法使いが用意した気球に乗れず、途方に暮れていた際に再登場します。北の良い魔女グリンダはこのとき、ドロシーにこういいます。

「その銀の靴にはね、不思議な力がいろいろあるの。なかでも一番すごいのは、それが世界中のどこへでも三歩で運んでくれること。しかもそれはは一瞬のうちに起こるのよ。あなたはかかとを三回うちあわせて、靴にどこへでも行きたいところへ運べ、と命令すればいいだけ。」

これを聞いたドロシーは仲間に別れを告げ、教えられた方法でカンザスへ飛んでいくのですが、その途中、銀の靴が脱げてしまい、強い魔力を持つ銀の靴は、オズの国を取り囲む砂漠の中に永遠に消えてしまいます。

つまり、彼女を助けた銀の靴=銀貨の自由鋳造と置き換えれば、こうした世直し手段もまた、どこかへ行ってしまった、という解釈ができるわけです。

これが、このオズの魔法使いが、この当時のアメリカ経済に関する寓話とも解釈される、といういわれです。

こうした解釈によれば、ドロシーこそが、この当時のアメリカの「伝統的価値観」なのだそうで、これは銀本位制の推進こそが民衆を助けると主張する民主党の考え方そのものと考えることができます。

また、3人の同行者のうち、カカシは農民、ブリキマンは、工場労働者、臆病なライオンは1896年民主党大統領候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンだとされます。そしてドロシーたちを苦しめる、西の悪い魔女:第25代大統領ウィリアム・マッキンリーは共和党、また魔法使いもこの当時の議会における議長、共和党のマーク・ハナです。

極め付けは、「オズ」の意味は、金の単位オンスの略号(OZ)というわけで、「オズの魔法使い」は、「錬金術師」とも解釈できます。結局ドロシーは最後に、家に帰る道を見つけますが、この説では、それが「黄色いレンガ道」ではなかった、というところが強調されます。

黄色いレンガ道をたどる方法ではうまくいかなかった、ということで、すなわち金本位制は崩壊する、というのがこの物語の結末だ、というわけです。

しかし、実際には1896年の大統領選挙では民主党は大統領選挙に敗れ、金本位制は維持されることになりました。銀本位制は結局導入されなかったのですが、しかし、その後1898年にはアラスカで金が発見され、また、カナダや南アフリカの金の採掘量も増え、結果的に貨幣供給量は増大しました。

この結果、デフレは解消されてインフレ傾向となり、農民は借金を容易に返せるようになりました。銀の靴は、砂漠の中に消え去りましたが、ドロシーは無事にカンザスの家に戻ることができた、というわけです。

もっとも、ボームに関する伝記作家や研究者は、この物語にそうした政治的解釈ができる、という点には否定的です。また、ボーム自身は政治的に無関心な人だったといい、こうした比喩による現代風刺にも興味を持つような人ではなかったといわれており、オズの魔法使いの序文でも「ただ今日の子供を喜ばせる為に書いた」と書いています。

ちなみに、くだんの「黄色いレンガの道」に関しては、由来となった建物がボームの別荘があるミシガン州内の公園に実在するそうです。

現在の日本もこの時代のアメリカとかなり似たような状況であり、もしかしたら、銀の靴を見つける、あるいはこの黄色いレンガ道を辿れば、問題の打開の道がみつかるのかもしれません。

もっとも、その道を辿っていってもけっして金鉱には辿りつかないでしょうが……

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