源兵衛川

今年も、もうあと残り二か月になりました。去年のいまごろは何をしていたかな、とブログを読み返してみると、ちょうどこの家の購入の手続きなどが完了し、リフォームのための打ち合わせに伊豆へ来ていたころのようです。

あのころはまだ家の内外ともにボロボロで、とくに庭は草が生え放題、荒れ放題で、ホントに庭として使えるんかしらん、と危ぶんだものですが、人間やればできるもんですね~。自分で言うのもなんですが、それはもう立派な立派な庭になりました。

先日まではこの秋二回目のキンモクセイの花が咲き、芳香が庭だけでなく家中に行きわたっていましたが、その花も終わり、今はモミジの葉が赤くなるのを待つばかりといったところです。

その後リフォームも完了し、最近は伊豆のあちこちに出かける余裕まで出てきましたが、あれほど雑然としていた家の内外がここまできれいになるとは、昨年のいまごろは想像もできませんでした。

今はもうあと残り少ない今年の締めくくりとして、この家に移ってきてから初めての大掃除をし、庭のフェンスのペンキ塗りをすることくらいでしょうか。ともかく、ここ数年では一番落ち着いた年末が迎えられそうです。

ところで最近、「今日は何の日?」といったサイトをちら見したりして、今日のブログのテーマなどをさがすこともよくあります。今日も、11月1日は何の日かな?と思っていつも見るサイトを見てビックリ! す、すごい。○○記念日のオンパレードではないですか。ざっとあげると、以下のような記念日になっているようです。

計量記念日(改正計量法が施行記念)
万聖節(別名、総聖人の日。キリスト教で、諸聖人と殉教者を記念する日)
灯台記念日(日本初の洋式灯台、観音崎灯台の設置日)
自衛隊記念日(自衛隊法が施行されたことを記念して制定)
炉開き(冬になって炉や炬燵など暖房器具を使い始める日。「炬燵開き」とも言う)
犬の日(「ワン・ワン・ワン」の犬の鳴き声から)
川の恵みの日(三重県多気町の会社が制定。「111」が「川」の字に似ていることから)
点字記念日(明治23年に日本語用の点字が決められた日)
生命保険の日(生命保険協会が制定。「生命保険の月」の1日目の日。)
紅茶の日(大黒屋光太夫がロシアのエカテリーナ2世から紅茶を寄贈された日)
全国すしの日(全国すし商連が制定。新米が出回り、海山の幸がおいしくなる時期)
本格焼酎の日(作曲家の中山大三郎氏らが設立した世界本格焼酎連盟が制定)
泡盛の日(沖縄県酒造組合連合会が制定。11月は泡盛製造の最盛期のため)
玄米茶の日(全国穀類工業協同組合が制定)

なぜこんなに記念日が多いのか不明ですが、やはり夏が終わって涼しくなって人の動きも活発になり、年末までの時間も少なくなることから、できることは11月にやっておこう、でもどうせなら、その一番最初の日をスタートの日にしよう、ということなのでしょうか。

食べ物の記念日が多いのは食欲の秋ということなのかも。それにしても焼酎とか泡盛ってこの時期が一番おいしいんですね。すしもそうみたいです。炬燵に入り、熱い焼酎、または玄米茶を飲みながらおいしい寿司を食べ、そばにいる愛犬を愛でる。そういう日なのでしょう。

さて、昨日、三島の楽寿園のことを書きましたが、今日はその途中から少し話題にした「源兵衛川」について書いていきましょう。

この源兵衛川ですが、昨日も書いたとおり、楽寿園にある小浜池に湧き出る富士山の伏流水を水源とし、ここから1.5kmほど南にある、中郷温水池(なかごうおんすいち)という池まで流れる灌漑用水路です。

中郷温水池は、湧き水を稲作用水として利用するために水を温める人工池で、昭和28年に国、県の事業として建設されましたが、近年再整備され、周囲に植栽が施された気持ちの良い散策コースとなっています。南端は逆さ富士が美しく映る絶好の撮影ポイントとして知られており、私も今度その撮影にチャレンジしてみたいと思います。

この中郷温水池そのものは湧水池ではないようですが、三島界隈には、小浜池のような湧水池のほか、柿田川湧水群という有名な遊水池や丸池(清水町)などの湧水池がたくさんあり、これらの湧水を農業用水として使うため、縦横に灌漑用水路が造られてきました。

源兵衛川もそのひとつで、流路の一部が人工的に作られた川です。室町時代に久保町(現在の三島市中央町)に「寺尾源兵衛」という豪族がいて、このあたりの11カ村の耕地を灌漑するため、小浜池から湧き出る水を引き用水路を造りました。

この寺尾源兵衛さんを祖先とする方が今も三島市にすんでいらっしゃるそうで、その方は、三島大社と源兵衛川のちょうど間にある中央町というところでお菓子屋さんを営んでいらっしゃるということが、三島市のHPに書かれていました。

おそらくは三島広小路駅から三島大社までの商店街の一角にそのお店があるのだと思いますが、先日我々が訪れたときにはそれとは気が付きませんでした。

この三島広小路駅界隈は、こうした歴史のあるお店がたくさんあって、三島広小路から三島大社までの道はその昔「鎌倉古道」とも呼ばれた街道筋であり、現在この道はショッピング街路としてきれいに整備されており、お買い物がてらお散歩するのもとても楽しい場所です。三島大社や楽寿園に行く機会があれば、ぜひこの商店街も散策してみてください。

さて、水源を小浜池とする源兵衛川ですが、その下流の鎌倉街道と交わるあたりに広瀬橋という橋があり、このあたりまでを広瀬川と言う人もいるそうです。かつてこの川沿いに三島を代表する料亭があり、水が豊富なため、舟で料理を運んだという優雅な話も残っていて、その昔はかなりきれいな川だったようです。

ところが、小浜池から湧き出ていた豊富な水量が、昭和30年代中ごろから上流域での企業の水の汲み上げなどが原因として減少するようになり、これに合わせて三島周辺でも多くの工場などができたことから、これらの工場排水とゴミの投棄などにより、源兵衛川の汚染もひどくなりました。

こうした汚染は長い間放置され、源兵衛川はまるでドブ川さながらのようになっていましたが、1990年(平成2年)に、この川の流域が農林水産省の「農業水利施設高度利用事業」として開発されることが決定されたことから、源兵衛川にも「源兵衛川親水公園事業」としての手が加えられることになりました。

この事業の実施には、14億3千万円もの事業費が投入され、三島駅の北側(楽寿園の北側)にある「東レ株式会社」の三島工場もこの公園事業に協力することになり、小浜池からの湧水に加えて工場からの排水をきれいに浄化した水を流し、昔のような流量豊かで美しい水辺環境を取り戻すことに成功しました。

この源兵衛川の整備にあたっては、それに先立つこと7年ほど前の1983年、危機感を抱いた市民が「三島ゆうすい会」というサークルを発足させ、この活動が先述の農林水産省の「農業水利施設高度利用事業」へと結びつきました。

こうした町興しのために地域住民が立ち上がって行う環境整備のことを、「グランドワーク」と呼ぶことがあります。

もともとは、イギリスで1980年代からはじまった活動で、住民、企業、行政の三者が協力して、地域の環境を改善していこうというものです。行政と市民が協力し、これに企業が加わって地域社会を活性化することを目的としており、ただ単に環境を改善させるだけでなく、地域の経済的な面での隆盛もめざすことが多いのが特徴です。

日本ではこの源兵衛川のケースが初めてのグラウンドワークと言われています。1992年に「農業水利施設高度利用事業」の実施が着手されると同時に、もともとあった三島ゆうすい会を主軸に市内8つの市民団体が結束して「グランドワーク三島」を立ち上げました。

グランドワーク三島が手がけたプロジェクトは、源兵衛川の再生だけでなく、絶滅した水中花・三島梅花藻の復活、歴史的な井戸の復元、ホタルの里づくり、境川・清住緑地での原生林と湿地の復元、学校でのビオトープづくり、住民主導の公園などなどもあり、全部で30以上ものプロジェクトが企画されました。

そして、その具体的な実施のために1999年にはNPOまで創設し、このNPOは現在では20の市民団体が参加するネットワーク型組織に成長しています。

このNPOでは源兵衛川の再生にあたっては、1年半をかけてそのコンセプトを練り、50回以上も議論して水の都再生の行動計画を作ったといいます。また、グランドデザイン、建築、土木、造園などの専門家からなる設計者集団と、日本ビオトープ協会のメンバーや大学教授、トンボの研究家などの専門家からなる生態系アドバイザー集団のふたつの専門家集団を設立しました。

これらふたつの専門家集団をアドバイザー兼リーダー格とし、流域内の13町内会、2万人の住民が参加してこのプロジェクトに取り組むことになりました。

ところが、事前アンケートでは地域住民の98%が賛成だったのに、いざ事業が実施段階になると、例えば遊歩道が自宅前に通るとなるとプライバシーの侵害を危惧する住民などが現れ、遊歩道を右か左にするかで調整が難航するなどの問題が続出しました。

しかし、こうした問題をNPOと地域住民が話し合いながら、事業はひとつひとつ進展していきました。そして整備が進むにつれ、地域住民の意識も次第に変わっていきました。

遊歩道を嫌い、高い塀を設置することを主張していた住民などは、いざ遊歩道が完成するとその塀を取り去り、自宅前に草花を植えるようになりました。ひとつ環境が改善されたことで、さらにその環境を向上させようというふうに住民の姿勢が変わっていったのです。

源兵衛川の整備事業においては、景観を優先するために、住民宅や遊歩道と川の間に堤防や背の高い柵などは設けてありません。住民自らが「自分たちの手で整備した環境」という自覚があるので、万一の溢水などの事故の場合でも自己責任の範囲であるから我慢できるという考えが浸透しているのです。

こうした住民にアドバイスを行った設計家集団の一人の方は、「倒れて水を飲み、少々の怪我をするのが自然」と住民に語ったそうで、こうしたアドバイスを受け住民たちは少々の危険は意に介さなくなったといいます。

こうして、街中にありながら限りなく自然に近いような環境が整備され、水辺がきれいになった結果、源兵衛川では、蛍やカワセミが生息するようになりました。我々二人がちょうどこの川の遊歩道を歩いているときも、一羽のカワセミが下流から上流まで飛び去っていきました。こんな街中でカワセミを見るというのは初めての体験です。

この自然豊かな河川整備にあたっては、自然保護のために人を入れないようにすべきである、と知事に直訴する大学教授がいたそうです。しかし、グランドワーク三島の面々は、単なるビオトープではなく、人々が集う「ビオガーデン」をめざすべきだと考え、こうした意見を退けました。

「自然の生命力は強い。たとえ子どもたちが沢蟹を取ってしまってもすぐに戻ってくる。」と考えたそうで、生態系アドバイザー集団の方々がわざわざ調査を行い、人が入ることで自然が損なわれないことを確認し、その上で遊歩道を拡張していったといいます。

しかし、豊かな環境は取り戻せても、地域社会をとりまく行政や企業なども取り込まなければ、グラウンドワークの目標である、「地域活性化」と「経済的な成長」の両立はありえません。

このため、グランドワーク三島では、右手にスコップ、左手に缶ビール」というキャッチフレーズを合言葉に、まず自分たちで川に入ってゴミをすくい、どのような川にしたいか議論したそうです。

企業や行政に対して発言するためには、自己責任を取りながらまず考えるのが前提である、と考えたためです。そして、源兵衛川の汚染は、地域住民のみならず企業にも社会的責任(CSR、corporate social responsibility)があることを訴え続けた結果、これら周辺の企業の中から「東レ」のように、住民が川を清掃することを条件に工場の冷却水を供給することに同意するような企業が現れてきたのです。

一方、主たる「行政」である三島市は当初、環境改善には意欲的ではなかったそうです。そこで、グラウンドワーク三島では、行政の資金を当てにしないことにし、例えば水のみ場の設置では、そのモデルを自らの設計家集団がデザインしました。

そしてその水場の設置費用80万円のうち、30万をグランドワーク三島が出し、30万を他団体、20万を企業から調達し、管理は自らで行うことにしました。

こうした活動をみた三島市では、ようやくグランドワークの活動を認めてくれるようになり、その後の水飲み場の設置などについては、市が負担することになったといいます。

グランドワーク三島の活動には、静岡県のお役人も関与しているそうです。県の「NPO推進室長」が参加しており、こうした協力により行政情報はもちろんのこと、議会や市長の情報も入ってきたといい、グラウンドワークを推進する住民らにとって、これほど頼もしい存在はありません。

NPO法人としてのグラウンドワーク三島の会長さんは、三島駅前に9ヘクタールもの土地を所有する資産家だそうで、他にも地元の名士や顔役約70名が名を連ねているそうです。

よくありがちな住民だけで形成された社会団体ではなく、そこには行政や地元の有力者も参加しており、これに設計者集団や生態系アドバイザー集団といった専門家が加わり、民力・行政力・財力・知力のよっつの力が結集した結果、駅前を流れるドブ川をホタルやカワセミが飛び交う自然の川に変えるというマジックが実現したわけです。

この四つの中でも、川に最も身近な存在が沿川の地域住民です。プロジェクトの進行にあたっての集会などで、これらの住民たちはまず、「自分たちの役割は何か」徹底的に議論したそうです。

例えばゴミ捨て場になった空き地を「鎧坂ミニ公園」に整備した例では、まず誰がどのような目的で使うのかを議論し、アンケートを数十回も実施し、見学会やワークショップも重ねた上で専門家に絵も描いてもらったといいます。

その結果、デザインと管理の仕組みが住民の役割だという理解が浸透し、これもよくありがちな、できあがった施設の管理は「放りっぱなし」ということもなく、完成後も住民の管理によりその美しさが保たれ続けているといいます。

住民を巻き込むために、「ワンデイチャレンジ」や「ワンナイトチャレンジ」といったしくみも活用されたそうです。

例えばひとつの公園を造るという、「ワンデイチャレンジ」では、半日を使ってみんなで集中して作業をし、その作業が終わったあと、みんなで酒を飲むのです。皆で取り組む意義を、身をもって知ってもらい、かつそれが出来上がった喜びを皆で分かち合うためです。

昼間忙しい人のためには、「ワンナイトチャレンジ」を行い、夜9時頃から夜中まで集中してみんなで工事を行い、そのあとまたみんなでお酒を飲んだといいます。

住民の中には文句を言うだけの人もいたそうですが、その人たちをいかに引っ張り出すかをみなが算段すること自体がまた、ひとつの「川」を中心としたコミュニティの活性化にもつながっていくわけです。

グランドワーク三島は現在、「バイオトイレ」などの環境コミュニティビジネスにも参入しているそうです。

タンクに杉チップが入っており、これがし尿を水と二酸化炭素に分解、この水を洗浄水に再利用します。なかなか利用が進まない杉山の間伐材を有効利用し、これを切り出して乾燥させ、チップ状にして利用します。トイレ一つで150本の杉が必要になるということで、現在、2ヘクタールもの杉山を借りる計画でいるとか。

しかもその杉の木のチップ化の作業は障害者のある人たちに手伝ってもらう予定だそうで、いずれカンボジアのアンコールワットへの輸出することも計画中といいます。

ここまでくると、もう単なる河川環境整備ではなく、ひとつの「一大事業」であり、その事業に官財民と有識者すべてが関わっているという点が素晴らしいと思います。

今、国会では与野党が自分たちの利益のみを追い求めているかのような乱戦が繰り広げられていますが、いろんな異なる分野の人間がそれぞれの持ち味を生かし、それを持ち寄ってひとつの事業を成功したこの源兵衛川の実例を参考にすれば、彼らもまた一大連携を図る道筋がみえてくるのではないでしょうか。

長年公共事業に関わってきた私ですが、久々に良い事例を見たと感心しています。

実際、源兵衛川は、かつての失われた川を市民参加型のまちづくりで取り戻した優良事例として高い評価を受けています。

2004年の「土木学会デザイン賞」では最優秀賞を、2005年には「手づくりふるさと郷土賞」(地域整備部門)や都市景観大賞の「美しいまちなみ大賞」を受賞。

さらに2006年にも「優秀観光地づくり賞」で金賞に選ばれているほか、平成の名水百選、水と緑の文化を育む水の郷百選、疎水百選などに選ばれており、数ある賞や選抜の栄誉を総なめといったかんじです。

「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す(とうりいわざれども、したおのずからけいをなす)」ということわざがあります。

桃やすももは何も言わないけれども、花の美しさに惹かれて多くの人が集まってくるから、こうした木の下には自然と道ができるという意味です。

源兵衛川にも美しい富士山からの湧水が流れており、この水の美しさにひかれて多くの人が集まり、美しい自然豊かな川と道ができました。

あなたの住む町にも汚れた自然があったら、もう一度見直してみてください。きっと再生できそうなもとのままに近い部分が残っているのではないでしょうか。そしてそこに集まってくる人を少しずつ増やしていけば、そこからその自然を再生する筋道も見えてくるかもしれません。

楽寿園


きのう、三島にちょっとした用事があったため、そのついでにと、タエさんと二人で三島駅のすぐ南側にある、「楽寿園」にはじめて行ってきました。

この楽寿園、すぐ近くには三島大社もあり、江戸時代までは、愛染院といわれたお寺や(現在は廃寺)、浅間神社、広瀬神社、といった古い神社のある社寺域だったそうですが、1890年(明治23年)に皇族の「小松宮家」の「彰仁親王」の住居が造営され、その庭とともに広大な邸宅となりました。

彰仁親王ってどのくらいエライひとだったのかな?と調べてみたところ、「伏見宮」の「邦家親王」という皇族の第八子だそうで、この邦家親王のさらにお父さんの「貞敬親王」という人が、江戸時代に皇位継承候補として名が挙がったことがあるそうです。

なので、「伏見宮家」とは、その中からは天皇が出てもおかしくないお家柄で、この「彰仁親王」も幕末の1858年(安政5年)に、仁孝天皇の猶子(後見人的な養子)となり、京都の「仁和寺」の門跡にも就任したことから、1867年(慶応3年)から、「仁和寺宮」「嘉彰(よしあきら)親王」と名乗るようになりました。

明治維新後は、軍事総裁などに任じられ、戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執ったほか、明治7年に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、同10年の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たるなど、皇族ながらも軍人としての前半生を送っています。

1881年(明治14年)には、こうした軍人としての功労が顕彰され、家格を「世襲親王家」に改められ、その翌年の明治15年に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」その名も「彰仁」に改称しました。

この人物は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範したそうで、1890年(明治23年)には、自ら陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順にまで出征。そして、1898年(明治31年)に元帥府に列せられ「元帥」の称号を賜っています。

「皇室外交家」として国際親善にも力を入れていたようで、明治19年にはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪。また、1902年(明治35年)には、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席しています。

このほか、社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務めたそうで、現在の皇族の方々が行っているような「公務」のことごとくを任じ、このため「公務の原型を作った人」として歴史に名を刻まれるようになりました。

しかし、この小松宮彰仁親王も1911年(明治44年)に没(享年57才)。このため親王の別邸として整備されたこの邸宅は、1910年(明治43年)に行われた日韓併合から、王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けるようになった、韓国の王世子(皇位継承第一順位の皇太子)である「李垠(りぎん)」という人のものとなりました。

李垠は、李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に生まれ、大韓帝国第二代皇帝の「純宗」が即位のときに大韓帝国皇太子となりました。

幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校で学び、その後も陸軍士官学校で教育を受けており、こうした経歴は清朝におけるラストエンペラーこと、愛新覚羅溥儀とどこか似ています。

持ち主がこの李垠に変わったことで、この別邸も「昌徳宮」と呼ばれるようになりましたが、1927年(昭和2年)に、伊豆出身の資産家の緒明圭造(おあけけいぞう)という人へ売却。

この緒明圭造という人物がどういう人物だったのかよくわかりませんが、伊豆の戸田に同じ緒明性で「緒明菊三郎」という人がおり、おそらくはその人の子孫だと思われます。

この緒明菊三郎という人は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後各江戸に出て隅田川で一銭蒸気船を始めて財を成し、東京の第4台場で「緒明造船所」を造り、日清戦争、日露戦争の頃には日本の造船王、海運王にまで成った人です。

李垠による昌徳宮の売却の理由はよくわかりませんが、李家はこの広大な敷地と別邸を維持していくだけの十分な資金援助を日本政府から得ていなかったのではないかと思われるフシがあります。

このため生活費に窮し、昌徳宮まで売ろうと思いましたがなかなか売れないので、とうとう切り売りしようとしたところ、緒明圭造がこの話を聞き、東海の名園が無くなるのは勿体無いということで、昭和2年当時、三島町の年間予算が30万円の時代に当時の金額、百万円を出し、これを買い入れたということです。

この李垠という人は、これに先立つ1920年(大正9年)に、日本の皇族の梨本宮家の第一女子、方子(まさこ)という人と結婚しています。その婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家によって暗殺されそうになっており(李王世子暗殺未遂事件)、こうしたきな臭いご時世において、昌徳宮のようなオープンな場所は適当ではないと判断したのが別の理由だったかもしれません。

ちなみに、この夫婦には結婚の翌年に「晋」という名前の男子が誕生しており、1922年(大正11年)、夫妻は、この子を連れて朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨みましたが、帰国直前にこの晋は急逝しています。

晋の死は急性消化不良と診断されていますがその一方で、日本軍部による毒殺説が流布されています。日本人の血が流れる子が李王朝側で利用されるのを恐れたとか、いろいろ説はあるようですが、詳細は歴史の謎の奥のままです。

方子妃はその後も、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫の李垠を支えましたが、そのまま第二次世界大戦に突入。やがて日本の敗戦による朝鮮領有権喪失と日本国憲法施行に伴い、李垠・方子夫妻は王公族の身分と日本国籍を喪失して一在日韓国人となりました。

その後、邸宅・資産などを売却しながら、細々と生活を送っていましたが、戦後の大韓民国の初代大統領「李承晩」は、二人が戦時中から日本軍属の肩入れをしてきたことをとりあげて韓国への帰国を拒否。このため祖国に帰ることもままならず、そんな中、李垠は1960年(昭和35年)に脳梗塞で倒れます。

李承晩退陣後の1963年(昭和38年)、朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たすことができ、二人の生活費は韓国政府から支出されるようになり、ようやく夫婦に安堵の生活がもたらされるようになりました。しかし、その生活も長く続かず、李垠は1970年(昭和45年)に死去(享年73)。

その後、韓国に帰化した方子夫人は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組むようになりました。

趣味でもあった七宝焼の特技を生かし「ソウル七宝研究所」を設立して、自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設や知的障害養護学校を設立。

戦後は元日本人皇族である方子夫人に対して、韓国の人々からは厳しい目が注がれていたようですが、やがて、こうした方子夫人の貢献が韓国国内でも好意的に受け止められるようになり、1981年(昭和56年)には韓国政府が「牡丹勲章」を授与。韓国人「李方子」としてようやくそしてその功績が認められました。

その後方子夫人は、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、終戦の混乱の中にあってさまざまの事情を抱えた日本人妻たちの集まりとして、「在韓日本人婦人会」を設立し、これを「芙蓉会」と命名してその初代名誉会長を勤めました

また、韓国の知的障害を持つ子供のための福祉活動や病気治療のために度々来日し、その際、昭和天皇や香淳皇后を始めとする皇族にも面談して日韓両国の友好を訴えたりしていますが、その際、かつての皇室内の親族とも会う機会を持ったといいます。

1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列し、後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈されたそうです。

このような激動の時代を生きた「韓国人夫妻」のもと住居であった昌徳宮は、1952年(昭和27年)に三島市によって購入され、同年7月から「楽寿園」に名前を変え、市立公園として一般公開されるようになります。

1954年(昭和29年)には小浜池(こはまがいけ)と周囲の自然林・植生を含む庭園が国の天然記念物および名勝に指定され、さらに内部の整備が進められ、現代に至るまで三島市民の憩いの場であるとともに、観光名所としても名をあげ、市外からも多くの人が訪れるようになりました。

楽寿園は、そもそも富士山が約1万4000年前に噴火した際に流出した三島溶岩の上に造られ、もとから富士山の雪解け水が豊富な場所に造られました。この三島溶岩流の跡は園内各地に露頭していて、あちこちに「縄状溶岩の跡」とかいろんな溶岩の地質学的な名称やその説明看板が出ています。

小浜池は、敷地内の一番南側にあり、ここからは富士山からの湧水がこんこんと湧き出ています。この池を起点として、蓮沼川と源兵衛川という川がその南側に広がる三島市街域を流下っていますが、池の水位は季節によって変化し、降水量の多い夏期に増加、冬季に減少します。

この小浜池は、かつては三島湧水群を代表する水量を誇ったといいますが、昭和37年頃から湧水の枯渇が続いており、私たちが行ったときにも、池の一番中央部分にはほとんど水が貯まっていませんでした。工業用水の汲み揚げとの関係が指摘されています。しかし、雨量の多いときなどには結構貯まることもあるそうで、今年も9月頃にはかなり上のほうまで水位が上がったということです。

小浜池そのものはあらかた干上がってしまっていますが、一定量の湧水はまだまだ湧きだし続けていて、園内にはあちこちに浅い沼ができあがっていて、その周囲には緑陰ができ、水鳥や昆虫たちが集まるオアシスになっています。沼からあふれた水は南側へ溢れ出し、これが源兵衛川や蓮沼川といった市内を流れる清流の源泉となっています。

小浜池には、これを借景にして、旧昌徳宮だったころの京都風の高床式数寄屋造りの建物がしつらえられていますが、我々は時間の関係もあって、内部には立ち入りませんでした。かつてはそこから満々と水をたたえた小浜池が見えたでしょうが、今は溶岩流の名残の岩ばかりの池底になっていたためでもあります。

庭園と共に小さな遊園地と動物園が併設されていて、小さな子供さんをつれたご家族が大勢ではありませんでしたが、ちらほらといらっしゃっていました。

かつてはゾウやキリンなどの大型動物も飼育されていたこともあったそうですが、今はこうした大きなものはおらず、一番大きなもので、アルパカやラマ、ロバぐらいでしょうか。ほかに猿やミーアキャットといった小動物もたくさん飼育されています。

しかし一番の人気者は、レッサーパンダでしょう。一匹だけのようですが、愛くるしい顔で愛想を振りまき、こそこそと足早に歩き回る姿は、まさに歩くぬいぐるみです。このほかにもウサギやハムスターなどの小動物とのふれあいコーナーなどもあり、小さな子供さん連れで訪れ、ひととの憩いを得るにはなかなか良い場所だと思います。

我々はこのあと、この小浜池から流れ出す源兵衛川沿いの散策や、古くから三島を代表する商店街であった三島広小路などを散策しましたが、今日はもう紙面の関係からこれくらいにして、その詳細はまた別の機会に記したいと思います。

源兵衛川はかつてはドブ川とまで言われた川だったそうですが、町ぐるみの再生によって清流を取り戻し、いまや柿田川湧水群とともに三島市の「顔」とまで言われるようになった名勝地です。きれいな写真も撮れましたのでまたアップしましょう。

そうそう、そういえば楽寿園や源兵衛川では、カワセミも見かけました。しっかりとその姿を見せてはくれませんでしたが、青く光り輝く羽根をはばたかせながら、水辺を飛んで緑の藪の中に消えていった様子はやはり森の妖精といった風情でした。

青い鳥をみたら幸せになるといいます。そんな昨日の今日ですから、きっといいことがあるに違いありません。今日これから起こるラッキーを期待しつつ、今日の項はこれくらいにしたいと思います。