頼母のこと


昨日話題として取り上げた、西郷頼母については、少々書き足りないことがあったので、今日それについて少し補足したいと思います。

多くの人が、この「西郷」という苗字が、あの薩摩藩の西郷隆盛と何等かの関係があるのではないか、と思うでしょうが、その推察は「当たり」です。

武家として名を残した西郷氏の中では、室町時代の九州北部で勢力を振るった肥前(現熊本県)の伊佐早(後の諫早)の西郷氏が歴史の古い名族として知られています。この肥前西郷氏は、同じく肥前での有力武将、菊池氏の一族であり、江戸時代以降には、その一族を称する家の中から多数の著名な人物を輩出しました。

例えば、三河の国人領主から徳川家康に仕えて大名にもなった三河西郷氏がそれであり、会津における西郷頼母の西郷家は、この分家になります。頼母ら幕府軍と敵対する官軍の総大将になった西郷隆盛は、元は薩摩藩の下級藩士であり、この隆盛の西郷家もまた、肥前西郷氏から古い時代に分かれてできたものです。

従って幕末の世にあって奇しくも西郷頼母と西郷隆盛は、官軍と幕府軍という敵対関係にはあったものの、そのルーツをたどれば、同じ一族であるということになります。

実はこの二人、幕末の慶応の時代にすでに知り合いだったという記録があり、実際、隆盛と頼母がやりとりした手紙が残っているということです。

どの程度親しかったのかについては不明ですが、頼母が明治8年(1875年)に、福島県の東白河郡にある都都古別神社(つつこわけじんじゃ)の宮司となったころ、西南戦争が勃発し、この際、頼母は西郷隆盛と交遊があったとして、謀反の罪を着せられかけています。

結局は、はっきりとした証拠もなく罪は免れましたが、このことがきっかけで宮司を解任されています。その後、頼母は今度は日光東照宮の宮司の職に就きますが、明治13年(1880年)にはこれを辞して自由民権運動に加わり、政治活動に身を投じています。

政治活動に加わったという事実から、隆盛と共同での謀反論はあながち根拠がないともいえませんが、逆に考えればこうしたあらぬ疑いをかける新政府への反感から、民権運動へ身を投じるようになっていったのかもしれません。

……と、書きだしてはみたものの、話が前後して、わけがわからなくなりそうなので、ここでもう一度、西郷頼母という人物の経歴をみていきたいと思います。

その生まれは、1830年(文政13年)であり、明治36年(1903年)に73才で亡くなっています。前述のとおり、その生家は菊池氏族の流れを持つ西郷氏であり、三河西郷家の分家が会津に定着してできた家系になります。

三河西郷家は、もともとは室町時代に仁木氏の守護代を務めた名家でしたが、やがて勢力を拡大させる松平家に臣従し、その後、徳川政権下で御三家や有力譜代の家臣として存続し続けます。徳川家康に仕えて大名も輩出しており、会津藩の藩祖である保科家同様、徳川家譜代の名家ともいえます。

このため、家紋も会津藩の祖である保科家と並んで、九曜紋を許されており、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄となり、西郷頼母の代では9代目となっていました。

明治維新後、頼母は苗字を西郷から保科へと変えていますが、これも西郷家が旧藩主であった保科家と同等の格式を持っていたという証拠です。

なぜ保科を名乗るようになったのかはよくわかりませんが、おそらく旧藩主の松平容保から、保科の名を名乗るようにと許されたのではないかと思われます。

もともとは西郷家は保科家と縁戚関係もあり、保科家の「分家」の扱いになっていたようです。しかし、幕末までは保科家のほうがランクは同格とはいえ、藩主の血筋の名前を名乗るのははばかられたのでしょう。

しかし、明治になってからはそうした遠慮も必要なくなり、頼母に更に一ランク上の藩祖の名を与えることで、幕末からの動乱の中で会津藩を支え続けた頼母をねぎらい、恩賞としたのではないかと考えられます。

さて、会津藩の家老職になって以降、明治までのその足跡は昨日書いたとおりですが、少しだけ振り返りましょう。

1860年(万延元年)、30才で家督と家老職を継いで以降、藩主・松平容保に仕えますが、容保が幕府ら京都守護職就任を要請された際に、これを辞退するよう進言したために、容保の怒りを買い、蟄居を命じられます。

その後、明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許され、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていましたが、新政府側からの容保親子の斬首要求に態度を一変。

一転、白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃しましたが、新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥。若松城に帰参した頼母は、容保に再び恭順を勧めますが、会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。

意見の折り合わぬ頼母は、他の藩主から命を狙われるまでになり、やむなく長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することになりますが、この際、母や妻子など一族21人が自邸で自刃しています。

会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなります。この間、明治3年(1870年)、40才で頼母は保科に改姓し、保科頼母となっています。

そして明治5年(1872年)に赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となったというのが、昨日まで書いたストーリーでした。

その後、謹申学舎塾で塾長を二年ほど勤めた頼母は、明治8年(1875年)、45才で前述の都都古別神社(現福島県東白川郡棚倉町)の宮司となりますが、西郷隆盛との交遊を疑われ、宮司を解任されてしまいます。

このためやむなく頼母は、同じ福島県内の、伊達郡霊山町にある霊山神社に再び宮司として奉職し、ようやく生活は落ち着きを見せます。

ところが、明治12年(1879年)には、会津を共に脱出して長年苦楽を共にしていた長男の吉十郎が22歳で病没してしまいます。

先妻や一族のほとんどを会津戦争で失っていた頼母にとって、最愛の息子の死による悲嘆がどれほどのものだったでしょう。想像するだけで心が痛みます。

しかし、同年、会津藩士で妹の夫、つまり義理の甥の志田貞二郎の三男として若松に生まれ、3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移り住んでいた志田四郎を養子とします。

実は頼母は、西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門という、「御式内」と呼ばれる柔術と陰陽道を学んでおり、その達人だったとも言われています。

後年、明治31年(1898年)に霊山神社を訪ねた武田惣角という会津出身の武術家に、「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と指導し、これに薫陶された武田惣角は、その後、達人とまでいわれたその剣術の修行をやめ、大東流合気柔術の修行に専念するようになったといいます。

この大東流合気柔術というのは、柔道と合気道の合いの子のような武術のようで、現在も武田惣角の大東流合気柔術を継承する会派や武術教室が全国に多数あるそうですが、柔道における講道館、合気道における合気会のような広く認められる中心的な組織はないそうです。

その大東流合気柔術の祖ともいえる人物に伝授したほどですから、頼母の柔術の腕前はかなりすごかったのでしょう。養子とした16才の志田四郎、改め西郷四郎にも丹念にその義技術を伝え、その結果、四郎は成人した後、柔道家として大成することになります。

1882年(明治15年)といいますから、頼母の養子となってすぐのこのころにはもう頼母によって柔術の基礎を学び終えていたのでしょう、四郎は単身上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校(新宿区原町)に入学。

ここに通いながら、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍します。そして1883年(明治16年)には初段を取得。

1886年(明治19年)に行われた警視庁武術大会では、講道館柔道は柔術諸派に圧勝しますが、このとき四朗は有力候補といわれた戸塚派揚心流の好地圓太郎に勝ち、大いに講道館の名を高めました。

この試合は両流派のホープと目されていた二人の試合であったことから、一般からも高い注目を集めており、この試合に勝ったことで、四朗の名は一躍日本中にとどろくようになります。そして、これがあの小説や映画で名高い「姿三四郎」の誕生の瞬間でした。

講道館柔道は、この戦いで勝利したことにより、その後警察の正課科目として採用されるようになり、これが現在の柔道大国日本の発展の起点となりました。

四郎は、1889年(明治22年)、23才のとき、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となりましたが、この洋行にかねてより反対する意見を持っており、嘉納が洋行中の1890年(明治23年)、「支那渡航意見書」を残し講道館を出奔。

その後、東アジア共同体を主唱する、いわゆる「大陸運動」に身を投じるなどの共産活動をめざすようになり、1902年(明治35年)からは、長崎で「東洋日の出新聞」の編集長を務めています。その傍ら、この地で柔道、弓道を指導し、また「長崎游泳協会」の創設にも関わり、同協会の監督として日本泳法の確立に尽力しました。

しかし、1922年(大正11年)、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。56才でした。没後、講道館からは六段を追贈されたといいます。

さて、頼母のほうの話に戻りましょう。四郎を養子に迎えた翌年の明治13年(1880年)には、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となり、このとき頼母は容保に請われて同神社の禰宜となります。

しかし、7年ほど務めあげたあと、明治20年(1887年)、57才でその職を辞し、突然、大同団結運動に加わるようになります。

大同団結運動というのは、帝国議会開設(第1回衆議院議員総選挙)に備えた自由民権運動各派による統一運動のことであり、このころ、自由民権運動は政府の弾圧によって衰微しており、その運動の中心であった自由党は解党、立憲改進党も休止状態にありました。

この前年の1886年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用などの大幅な譲歩が含まれていました。

これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされるようになります。こうした中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、言論の自由や地租軽減、対等な立場による条約改正などを訴える「三大事件建白」と呼ばれる建白書を提出しました。

これがいわゆる「三大事件建白運動」であり、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治を打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、旧自由党・立憲改進党の主だった人々に一致団結を呼びかけはじめたのが「大同団結運動」です。

それまで日光の禰宜として神事を奉職していた頼母が、それまでの静かな生活を捨てて政治活動に身を投じようと決心したその理由はよくわかりません。

しかし、1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる自由民権運動は、それ以降に徐々に混迷を深めていく薩長藩閥政府による政治に対する不信の表れであり、頼母のように新政府によって虐げられてきた旧会津藩などの幕臣にとっては、その憤懣をぶつけるためには、格好の起爆剤であったはずです。

憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの数々の要求を掲げた大同団結運動の始まりとともに頼母もまた、会津と東京を拠点としてこうした政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていました。

しかし、結局大同団結運動は対立する諸派の意見が折り合わずに瓦解。頼母もまたこれを機会に政治運動から身を引き、郷里の会津若松に戻りました。

その後は、かつて宮司を務めた福島県伊達郡の霊山神社に戻って再び神職を務めるようになり、ここで明治22年(1889年)から明治32年(1899年)の10年間を過ごします。

その後再び若松に戻り、明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で死去。享年74歳でした。墓所は最初の妻、千重子の墓とともに、会津若松市内にある善龍寺というお寺にあるといいます。

伊豆へ一緒に伴ったという「きみ」という女性のその後について調べてみたのですが、よくわかりません。記録にもあまり出てこない人物なので、後妻というよりは側女のような存在だったのかもしれません。また、格式を重んじる会津に帰った頼母にはあまり表に出てきてほしくない存在だったのかもしれません。

主君の松平容保は、幕府瓦解後、鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居しますが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられ、自らもれから間もなく蟄居を許され、前述のとおり、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となりました。

頼母同様、晩年こうした神社での神職に自らを奉じたのは、会津戦争で亡くなった多くの死者を弔うためでもあったといわれています。

容保は、その後正三位まで叙任し、明治26年(1893年)に東京・目黒の自宅にて肺炎のために死去。享年59才。死の前日には明治天皇から牛乳を賜ったといい、八月十八日の政変での働きを孝明天皇から認められ際に賜った、宸翰と御製を小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったといいます。

そして、会津戦争については周囲に何も語ることはなかったといいます。

これより更に10年長生きした頼母もまた、晩年にはあまり多くを語らなかったようですが、「栖雲記(せいうんき)」という自叙伝を残しており、この中には会津戦争で自決した子女たちの死に際の様子なども記載されています。

また、一人息子の吉十郎が22才で亡くなったときの心情も述べており、「ただ一人残った子を失った心中は、じつに切ないものであった」と書いています。

また、かつて箱館戦争においては、頼母は「山田家」という会津の家を継いだ弟の山田直節とともに政府軍に捕縛されますが、弟の直節は古河藩に幽閉された後に国家転覆の反逆を企てたとの疑いによって牢獄に繋がれ、そこで獄死しています。

頼母自身も弟に連座して逮捕されるところだったようですが、救う人があったために助かったと記されています。栖雲記にはこれが誰であったかは記されていませんが、この頼母を救った人物こそが、西郷隆盛だったともいわれています。

そして、この栖雲記には、長かった人生を述懐するような言葉が最後に記されています。

昔わが栖にし雲と尋れば涙の名残なりけり

昔住んでいた場所はどこだろうと探してみたが、涙の名残のごとく消えてしまっている、というような意味でしょうか。

会津、伊豆、日光と、各地を渡り歩いたあとの自分の足跡を探してみたけれども、結局は何も残っていない、といっているようで、何やら人生の空しさを感じさせるようなことばです。

会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるとの好意的評価が多い中、そうした他人のための人生はやはり自分のものではなかったと、最後に悟ったのかもしれません。

しかし、そうした悟りのようなものを最後の一瞬に感じることができたとすれば、その一生はけっして無駄ではなかったでしょう。

現在、会津若松市の東山町というところに、かつての会津の武家屋敷群が約7000坪もの広大な敷地の上に復元されているということです。家老だった西郷頼母のおよそ280坪の邸宅を中心として、旧陣屋など会津の歴史的建造物が軒を連ねているそうで、かつての会津の生活を再現した歴史館もあるそうです。

いつの日か、我々もここを訪れ、頼母の墓参もして、その一生をもう一度彼の地で振り返ってみたいと思います。ではいつ行くか。

……今日というわけにはいきそうもありませんが、年内中には行ってみたいものです。

松崎にて


昨日のこと、終日お天気がよさそうだということで、西伊豆の松崎町に行ってきました。

松崎を訪れるのはこれが3回目ぐらいになるのですが、訪れた、といっても、いつも通過しただけのことであり、そのうちの一回だけは町内の喫茶店でお茶をしたものの、既に夕方近かったため町内見物はせずに終わってしまいました。

松崎は、伊豆の中でも下田と並んで歴史的なスポットが多いことは知ってはいるのですが、どちらかといえば地味なものが多く、名所もあちこちに分散しているため、気にはなってはいたものの、なかなか訪れるきっかけもありませんでした。

ところが、急にここを訪れる気になったのは、伊豆各地の桜の開花状況を調べていたところ、この町を流れる「那賀川」という川堤のサクラがきれいだ、という有力情報を得たからでした。

それによれば、この那賀川沿いには、河口から上流5~6kmくらいのところまで延々と桜並木が続いており、いまちょうどこれが満開を迎えているとのこと。以前から、下田方面から松崎を通る際、この桜並木があるのには気が付いていたのですが、改めてそういう情報サイトをみてそのことを思い出したのです。

それにしても、那賀川、というのは河津桜に比べるとほとんど知られていないのではないでしょうか。だいたい、「なか川」といえば、字は違いますが、那須を源流とし、主に茨城県内を流れ那珂川のほうが有名なので、伊豆の那賀川?といわれてもピンとこない人も多いと思います。

しかし、色々調べてみると、伊豆の中でも伊豆高原の桜と沼津香貫山の桜と並び称されるほどここの桜は有名なようで、ただ、場所が西伊豆の最南端ということでアクセスが非常に悪く、あまり知られていないがために、関東方面からも行く人が少ないためだとわかりました。

これはきっと穴場に違いない、と伊豆のあちこちでサクラが満開の便りが届くようになった昨日、今日はどうやら一日天気がよさそうだ、ということで出かけることを決めたのでした。

お昼少し前から出て現地に到着したのは一時過ぎでした。実は松崎にはタエさんがお目当てにしていたイタリア料理店があり、このお店の食事も楽しみにしていたのですが、ここを訪れたところたまたま満席で入れませんでした。仕方なく、松崎町内の別のパスタ屋さんで軽く食事を済ませて、いざ目的地の那賀川へ。

国道136号から那珂川河口手前を左折して上流へ遡っていくと、もうその入口付近から既に川沿いに見事の桜が咲いています。

さらに上流へ進むにつれ、この桜並木はだんだんと密度を増していき、3kmほど行ったところに、桜祭りの臨時の駐車場が作られていたので、ここにクルマを止めました。うれしいことに終日無料です。

平日ということもあり、駐車場も一杯というほどではなく、難なく止めることができましたが、辺鄙なところにあるとはいえ、土日などの週末にはきっとそれなりの車であふれかえっていることでしょう。

早速クルマから下りて川沿い、川の右岸側に整備されている桜1200本の「花道」を散策し始めましたが、人や出店とその熱気でごった返していた河津町のサクラ祭りとはうって違って、観光客もまばらで、タエさんと二人でかなり離れて歩いていても、はぐれる、などということは考えられないほどでした。

なんでこんなに見事なのに人が少ないだろう、と拍子抜けするほどであり、改めて思うにそれはやはりここ松崎町が辺境の町ということにほかなりません(松崎の方、ゴメンナサイ)。

しかし、結論からいうと、ここのサクラは河津桜に匹敵するほどスゴイ!といえます。何よりも川沿いにびっしりと植えられた桜の木々が比較的若い、といっても背丈が小さいという意味ではなく、老齢化していないという意味で、おそらくは樹齢30~40年のいわば成熟した桜並木であるためでしょう。木々に勢いがあります。

これでもかこれでもか、というほど枝々にたわわに花がついていて、背後の薄い消し炭で描いたようななだらかな山々にポツポツと芽生えた薄緑にこのピンクの桜の花が生えて、これまた美しいといったらありません。

桜の木の下には、菜の花もあちこちに咲いており、この甘やかな臭いもあたりに充満しており、さらに、さらさらと流れる那珂川の水の流れも清らかで、視覚と嗅覚、そして聴覚の三つでここ松崎の春をしっかりと堪能できました。

ただ、惜しむらくは好天という天気予報だったのにもかかわらず、この日は少し花曇り気味であり、このため晴れ上がった青い空のスカイブルーとうすピンク色のサクラの取り合わせというのが写真に収められなかったのが少々残念。

しかし、これを補ってあまりある別のものもありました。それは、この那珂川の右岸側に広がる休耕田を利用した、お花畑です。およそ5万㎡と、とてつもなく広い田んぼが、那珂川の右岸側には広がっており、ここに町内のボランティアの方々が植えた花々が、色とりどりに咲き誇っています。

3月中旬から咲き始めるということでしたが、我々が訪れたときには、アフリカキンセンカ、姫金魚草、マシロヒナギクなどがほぼ満開状態で、このあと4月に入り、ゴールデンウイークにかけても、矢車草やひなげし(ポピー)などが次々と咲き続けていくのだとか。

こうした栽培種外にも普通のレンゲ畑なども広がっていて、遠目にみると本当に色とりどりの絨毯を敷き詰めたようであり、さらにこれらの花々のはるか向こうに連なる淡いピンク色のサクラ並木との組み合わせもまた、素晴らしいものでした。

これら花の競演に酔いしれていたのは、だいたい2時間くらいでしょうか。さすがに少々疲れたので、クルマに戻り、お茶など飲んで一服したあと、それでもまだ4時前だったので、今度はこの更に上流にあるという大沢温泉に行ってみることに。

この大沢温泉沿いに流れる那珂川の支川、「池代川」沿いにも樹齢50年余の桜並木があり、ここのサクラも美しいらしいということをタエさんがネットで調べていたのです。そのすぐそばにある道の駅、「花の三聖苑伊豆松崎」にクルマを止めて、早速散策に。

この池代川は、那珂川に比べれば上流にあるため小ぶりで、川幅も10mあるかないかでしょうか。しかし、逆に川幅が狭い分、その両側に枝を広げる桜同士がより近く、折りしも天候も急によくなって陽射しも出てきたため、逆光の中に生えるこれら山あいの生い茂った桜の枝々に咲き誇る花のこれまた美しいこと美しいこと……

思わず酔いしれてしまった……というと言い過ぎかもしれませんが、久々に日本の原風景らしい美しい桜を見た、というかんじで、本当に感動しました。その素晴らしさは私の下手な文章ではこれ以上どうにも表現がしようがないので、これはもう、みなさんもぜひ行っていただくしかありません。「池代川の桜」、覚えておいていつか行ってみてください。

ところで、この川沿いのすぐ右岸側には、なにやら古式ゆかしい大きな建物があるので、何かなと思って看板をみると、「大沢温泉ホテル」と書いてあります。

そういえば、先ほど車を止めた「道の駅 花の三聖苑」敷地内には、「大沢学舎」という古い建物があり、これはその昔、松崎の「三聖人」の一人である「依田佐二平(さださじべい)」が私財を投じて開校した公立小学校を移築したものだということでした。

明治6年に建築され、その後別の場所に移築されて使用されていたものを、平成5年にできたこの道の駅に移され、開校当初の姿に復元されたとのこと。中に入ると、この依田佐二平が自宅の敷地内に興したという大きな製糸工場の写真が掲げられていたのですが、先ほどの大沢温泉ホテルは、どうやらこの工場の名残のようです。

今朝になってそのことを調べてみると、依田家の先祖は、もともと信州・小県郡依田の庄にあって武田信玄とその子、勝頼に仕えていた重臣で、武田家の滅亡後、一族がこの地に落ちのびたといいます。

そして、その後商家として栄えるようになります。依田家の生業は幕府への年貢米の上納や、背後にひかえた天城山の山林開発・薪炭生産であり、ここで伐採した木材は屋敷の前を流れる那賀川を利用し、松崎湊まで運び更に江戸や上方にまで回漕したといいます。

回漕には自らの持ち船である八百石の「金比羅丸」を使用したという記録も残っており、江戸時代末期までには松崎、いや伊豆でも一二を争うほどの豪商となりました。

明治初頭にこの依田佐二平の代になってからは、群馬県の富岡製糸工場に習って製糸産業を振興したところこれが成功し、依田家は更に発展するとともに、これによってその当時の松崎は日本三大製糸の町とまで言われるほどになりました。

現在の当主は14代目に当たり、宿の母屋と土蔵は330年前、元禄時代の建物で国の登録有形文化財に指定されているとのことで、そういう文化財でありながら、ホテルとしても使われているようで、知る人ぞ知るホテルのようです。

ネットで調べてみると、なかなか「いい商売」をされているようで、部屋は全部で25室、その内の3室は江戸時代の建築だとのこと。かつての当主が住んでいた棟を離れとしたり、赤漆・黒漆が塗られた贅を尽くし部屋などで、これらが登録有形文化財に指定されているみたいです。

宿泊料金は2人1室1人18000円~35000円の範囲、離れは別としてだいたい2万円前後といいますから、まあちょっと贅沢をしたいときに泊まるホテルといったところでしょう。

しかし、300年の歴史ものあるこの重厚な雰囲気にはなかなか惹かれるものがあり、今回は桜見物のみの目的できましたが、今度余裕があれば、夏場のホタル狩りついでにでもぜひ宿泊してみたいものです。

ところで、前述の松崎の「三聖人」ですが、次の三人のことで、いずれも幕末から明治期にかけて活躍した人々です。

幕末松崎の漢学者 土屋三余(つちやさんよ)

1815年(文化12年)伊豆国那賀郡中村、現在の松崎町那賀の名門土屋家に生まれる。江戸で漢学を学び帰郷、「三余塾」を開く。「三余」とは、「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と彼が子弟に説いたことによる。門下生に逸材も多く、依田佐二平、依田勉三などの数多くの郷土の偉人を育てた。

郷土発展の功労者 依田佐二平(よださじへい)

1846年(弘化3年)松崎町大沢の「依田家」の長男として生まれる。三余塾で学んだのち、江戸に出て西洋の学問を学ぶ。1964年(元治元年)に帰郷して「大沢塾」を設立、教育事業に乗り出す。養蚕業の近代化における功績は大きく、産業振興、海運振興、さらには弟の依田勉三ら弟たちを北海道開拓に送り出し、困難な開拓事業に取り組んだ。

北海道開拓の先駆者 依田勉三(よだべんぞう)

1853年(嘉永6年)依田家の三男として生まれる。兄佐二平とともに三余塾で学び、幼少から開拓精神に目覚め、その後十勝開拓のため「晩成社」を設立。明治16年開拓団27名とともに北海道へ渡るが、開拓は干ばつ、長雨、害虫などの天災に見舞われ、難渋をきわめた。苦節四十余年、事業は地元に根付くも、企業家としては実りのないままに、大正14年72才で没。

この三聖人のうちの依田佐二平という人は、下田にペリーの黒船が来航し幕府に開国をせまるという歴史的大事件によって、大きな衝撃を受けたといいます。松崎でもその激動の余波は大きく、そのころ依田家十一代の当主となっていた佐二平は、地元のリーダーの一人として松崎も変わらなければ時代に取り残されるという危機感を持ったようです。

そして、地方のリーダーとして目覚めた彼は、殖産復興に励むようになり、当時、欧米諸国への輸出品として注目された生糸を地域の産業基盤にすることを思いつきます。このため、官営だった上州(現群馬県)の富岡製糸工場に6人の子女を派遣し、彼女達が2年間の技術習得を終えて帰郷すると、明治8年、松崎に製糸工場を建設しました。

静岡県下初めての製糸工場であり、その翌年の明治9年には工場を大沢の自邸内に移し、3階建ての大蚕室を設けます。私たちが、三聖園に移築された大沢学舎でみた、大沢温泉ホテルの前身の建物の写真がこれになります。

この製糸事業への情熱は海外各地で評価され、やがて「松崎シルク」の名を世界にひろめるまでになり、明治末期には米国アラスカ太平洋万国博覧会では金牌を受賞、イギリス・ロンドン日英博覧会でも金牌、イタリア万国博覧会で名誉賞状を授与されるなど、数々の栄誉を受けるほどになりました。

国内においても、富岡(群馬県)、室山(三重県)と共に、「日本の三大製糸」とうたわれるまでになり、さらには沼津~松崎~下田~横浜間を運航する海運会社を設立し、銀行経営まで行うなど、当時の中央財閥の地方版ともいえるほどの権力を手中にしていきます。

一方政界においても、静岡県賀茂・那賀郡長を務め、その後、県議会の副議長に選任されると、明治23年には、第一回帝国議会の衆議院議員に立候補し、見事当選。文字通り、伊豆地方の政経のトップに上り詰めました。

しかし、この依田佐二平さんの偉いところは、そうした伊豆政財界の重要人物となっていく過程において、自分が受けた恩恵を地元の人々と共有しようとしたところです。伊豆の新時代を切り開くためには、自分ひとりの力ではこれを成し遂げることは困難と考え、このため新しい教育を地元の人達にも与えるべく、多くの教育事業を起こしています。

そもそも依田佐二平は、成功する前から地元の青年の教育に熱心であり、明治維新直前の1864年(元治元年)には、大沢にあった自邸内に塾をひらき村民への新しい時代へ対応するための啓蒙運動をはじめます。これが、三聖園に現在移築されている「大沢学舎」こと、「大沢塾」です。

大沢塾では地元の識者を招いて、主として儒学を教えていたようですが、やがてそして維新が起こり、文明開化の波が着実に伊豆にも押し寄せてくるようになった、明治5年(1872年)、佐二平は、かつての大沢塾をさらにグレードアップした学校、「謹申学舎」を設立します。

この謹申学舎は、現在の松崎町の中心部のやや北側にある「江奈」という地にある「船寄神社」に隣接する高台にあったようです。もともとこの場所には掛川藩の江奈陣屋がありましたが、地元の有力者であった佐二平らによって買い取られたようです。

そして、この謹申学舎に塾長として招かれたのが、以前、このブログでも紹介したことのある、旧会津藩家老の「西郷頼母」でした。

今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」で藩主松平容保の近臣を務める重鎮として描かれ、役者の西田敏行さんが演じており、この番組を見ている人は、あああの人か、と分かると思います。

西郷家は、会津藩においては藩主の家系に列するほどの名家であり、歴代の当主は会津藩の要職を務めてきましたが、この頼母もまた幕末にあって、数ある家老をとりまとめる筆頭家老職を務めていました。

藩主の松平容保が幕府によって京都守護職に任ぜられようとしたとき、会津藩が政局に巻き込まれることを恐れた頼母は、その辞退を進言。これが容保の怒りを買い、その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さなかったため、ついには家老職まで解任された上に、蟄居させられます。

明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母ですが、その後の会津戦争でも、藩主容保に官軍への恭順を勧め、これが新政府への徹底抗戦を主張していた多くの会津藩士の怒りを買います。

やむなく頼母も白河口の総督として、新政府軍を迎撃しますが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて敗退。やがて新政府軍に城下への侵入を許すようになった会津藩では、恭順と徹底抗戦の意見が藩を二分しますが、頼母はやはり恭順を主張。

結局徹底抗戦派が大勢となり、強硬派と意見の折り合わぬ頼母は好戦派から命すら狙われるようになったため、やむなく長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することになります。このとき、会津に残った母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自邸で自刃しており、白虎隊の全滅と合わせて会津戦争における悲劇として今も語り継がれることになりました。

このとき、頼母の妻、千重子(享年34)の詠んだ「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」の歌は有名です。

この頼母親子の脱出は、頼母に好意的な同僚の手引きによって実現したと言われており、脱出の道中では藩主・容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で暗殺者が送られたという話もあるようです。

しかし、頼母の人望を知る刺客たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいわれており、こうしたことからも、忠に篤く仁徳のあった人物像がうかがわれます。

そして会津から落ち延びた頼母ですが、以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦いぬきます。しかし、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩(現群馬県館林市)に預け置きとなります。

その後、維新後解放された後、頼母は自由になります。そして西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母と名乗りはじめます。このころにどういう生活をしていたのか色々調べてみたのですが、そのあたりの詳細は「敗軍の将」であるがゆえか、あまり詳しい情報が得られませんでした。

その後、依田佐二平に誘われて、謹申学舎の塾長になるわけですが、この佐二平との関係についてもいろいろ調べてみてもよくわかりません。佐二平は17才の時江戸に出て、三年間儒学などを学んでいるようですので、この時の知己を通じて西郷頼母のことを知ったのかもしれません。

依田家は、滅亡した武田家の末裔が伊豆に流れ着き、戦国の世を経て江戸時代あたりから地元の有力な名家となっていった経緯を持っています。

この点、新政府軍との戦いに敗れてのち流浪を強いられた頼母ら会津人と似ており、拠るべき旧家や妻子までをも失いつつも、旧会津藩士としての威厳を失わない西郷の噂をどこからか佐二平が聞きこんだのかもしれません。

そしてその境遇に共感を持つとともに、実際に会って話をしてみたところ、その人物の大きさに驚き、この人なら伊豆のわが新学舎の塾長にふさわしいとすっかり惚れ込み、スカウトすることになった、というところではないでしょうか。

頼母は会津藩の藩主容保の実家、保科家の名跡をも継ぐ身分でもあり、筆頭家老までも勤めあげた人物ですから、若いころから名家の子息として幅広い教育を受け、深い教養を持っていたことはまちがいないでしょう。

更には幕末の動乱の時期においても藩主を正すことができるほどの時勢を見る目を持ち、その後の函館戦争を生き抜いた胆力をも考えると、敗軍の将とはいえ、およそこの時代においては最高の知識人であり先導者でもあって、その能力を教育の世界において発揮させようとした佐二平の目にも狂いはなかったといえます。

江奈へ来たとき頼母は、子息の吉十郎と後妻とみられる「きみ」という女性を伴っていたと伝えられており、頼母自身もここで新しい人生を歩みだし、松崎の暖かな気候の中でこれからの時代を担う子供たちを教えつつ、ようやく自分の才能を生かす場に恵まれ、落ち着いた生活を送れるようになっていたことでしょう。

頼母は、塾長でありながら、謹申学舎では自ら漢学を教えていたようです。およそ二年間その任にあたり、この間、松崎の多くの青年たちに漢字のみならず、外国語、算学などを学ばせたといいます。

言ってはなんですが、松崎のような奥伊豆の辺境の地に、維新の後いち早く各地より有能な人材を集め教育復興をなしたことはたいへん注目しなければならないことだと思います。

その意味では、頼母自身も非常に才に恵まれた人であり、これに貢献したことはもちろんですが、この依田佐二平という人も、商売や政治、そして教育の世界におけるその才覚の神髄は、人を見る目がある、ということだったかもしれません。

松崎町には、このほかにも、すぐ近くの「岩科(いわしな)」という場所に岩科学校という学校が、明治13年に作られており、その創設にあたっては佐二平や頼母らを初めとする地域の人々の教育への情熱と理想が強く反映されたといいます。

総工費の4割余りを住民の寄付でまかなわれたといいますから、これだけでも佐二平らの地元の熱がうかがわれ、なまこ壁をいかした社寺風建築様式とバルコニーなど洋風を取り入れたこのモダンな建物は、伊豆地区最古の小学校でもあり、1975年(昭和50年)には国の重要文化財にも指定されています。

正面玄関に掲げられてある「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣、三条実美の書だそうで、日本では甲府の睦沢学校(明治8年)、松本の開智学校(明治9年)に次ぐ古いものとして知られています。

実は私たちもまだ訪れたことがないのですが、内部は博物館として整備されているということなので今度ぜひ訪問し、その結果をまたこのブログでも書いてみたいと思います。

頼母のその後のことや、会津藩における前半生のことなどもまた今度話題にしてみたいと思います。今日は書けなかった松崎の三聖人のことも。

さて、外をみると、今朝まで降っていた小雨が止んでいます。明日の予定はまだはっきりと決めていないのですが、少し陽射しにも恵まれるようなら、桜がすべて散ってしまう前にどこかへ出かけてみようかな、とも思ったりしています。

みなさんの町の桜はどうでしょう。もう散ってしまったところもあるかもしれませんが、この週末まではなんとかなるのではないでしょうか。仕事や勉強もさることながら、この時期の桜は見逃せません。家を出て、桜吹雪を浴びましょう。