ダーウィンがいた!2

2014-5026この項、「ダーウィンがいた!」から続く。

ガラパゴス諸島への旅も含めた世界一周の船旅から帰ったダーウィンでしたが、原因不明の病に苦しみ、帰国後に引き受けた地質学会の事務局長の仕事もなかなかこなせない毎日を送っていました。また航海中に思いついた「種の起源」についての研究を進めるために始めた、資料収集もままならず、悶々とした日々を過ごしていました。

このとき、ダーウィン、29歳。結婚適齢期でもあり、ちょうどこのころ、姉キャロラインとエマの兄ジョサイア3世が結婚すると自らも結婚を意識し始めました。

そして、この年の末についに、エマに正式にプロポーズ。前項でも書いたように、エマはダーウィン家と家族ぐるみの付き合いのある、叔父のジョサイア・ウェッジウッドの娘で、従妹にあたります。

しかし新居をロンドンで探している間にも病いは続き、婚約者のエマは彼に休みを取るよう訴えていたといいます。結局病状はそのままに、ロンドン中心部のガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその後「博物館」と呼ぶことになるこの新居へ引っ越しました。

そして、このころには少し病いは安定していたため、1939年に英国国教会で二人の結婚式が行われました。ダーウィン30歳。そして、その年の12月には長男ウィリアムが誕生しました。

このころ、ダーウィンは世界でも最も古い科学学会である、ロンドン王立協会の会員に選出されており、それまでにかなり進化論の基礎となる、「自然選択理論」のフレームワークを確立していました。

この研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んでいましたが、アイディアの細部を洗練させるためには、さらに調査が必要でした。そのための調査研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われ、以後およそ10年以上続きます。

33歳になったとき、その中間的な研究結果を端的にまとめるため「ペンシルスケッチ」と題した理論を書き始めましたが、さらに病状は思わしくなく、この年の7月ころには、早死にしたときに備えてこの「スケッチ」をさらに230ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んでいます。

しかし、幸いにも病気はやがて治まっていき、病状が安定するとダーウィンは、ビーグル号で収集したフジツボを解剖し分類するなど、無脊椎動物の研究を始めました。病後明けのこの研究は実に楽しいものでした。美しい構造の観察を堪能した彼は、その中でも近縁種との構造を比較しつつ、さらに思索を深めました。

この8年にわたるフジツボの研究はその後の進化論の理論の発展を大いに助けました。やがて彼はある種類のフジツボを違う環境で育てた場合、わずかに異なった体の器官ができ、これが新しい環境で十分機能することを発見します。

またいくつかの属でオスのフジツボが雌雄同体のフジツボに寄生していることを発見し、これが♂♀二性の進化に関係していることに気付きました。フジツボは固着生活を送っているため、交尾のため自由に動き回れません。オスの寄生によって♂♀への分化を促進しこの問題を解決していると考えられ、進化の過程でそう変化したと考えられました。

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44歳のとき、こうした研究成果をまとめて発表するとこれが認められ、王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、ダーウィンは生物学者としてさらに名声を高めました。翌年に再び種の理論の研究を始め、さらに子孫の特徴の違いは、「多様化された自然の経済に適応した結果生じる」、と考えることで上手く説明できると気付きます。

均衡がとれた経済というものは、需要と供給のバランスがとれています。産業別の人口構成をバランスのとれた適切な割合するということや、赤字や黒字にかたよらないバランスのとれた国の財政や貿易などを目指し、それらによって「分散多様化」された経済こそが均衡がとれた経済です。

自然界も同じであり、そのバランスをとるために、微妙に子孫の形を変え、特定の種が突出せず、均衡がとれた自然界が形成されることが望ましいわけです。ダーウィンは、こうしたことを実証するため、47歳ころから卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べはじめました。

そして、違う環境に適応するためのひとつの変異を「自然選択」と呼びました。生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化します。

1.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
2.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
3.変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)

上記の3番目に関わるのが自然選択です。一般に生物の繁殖力が生存可能数の上限を超えると、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝えるため、不利な性質を持った個体の子供は少なくなります。このように適応力に応じて「自然環境がふるい分けの役割を果たすこと」を自然選択といいます。

ダーウィンが49歳のときのこの「自然選択」の理論の構築は半分しか進んでいませんでしたが、ちょうどこのころ、ダーウィンは同じく博物学者、生物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取りました。

アルフレッド・ラッセル・ウォレスは探検家でもありました。マレー諸島を広範囲に実地探査し、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、「ウォレス線」を特定したことで有名で、このため生物地理学の父とも呼ばれます。

ダーウィンとは異なり、ウォレスはすでに種の変化を信じる博物学者として出発していました。彼は近接して生息している種同士は関連があるという進化の仮説を検証するためにアマゾン川流域を調査しましたが、この調査では、アマゾン河とその支流が地理的障壁になっていることに気付き、これを論文、の「アマゾンのサルについて」で論じました。

ウォレスは一度、直接ダーウィンに会ったことがあり、このころまでには親しい文通相手の一人となっていました。ダーウィンは彼からの情報を自分の理論の補強に用いており、このウォレスのアイデアを用いて、ダーウィンの理論構築はさらに加速していきました。

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やがてダーウィンの記述を第一部と第二部とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成が完成し、これは共同論文として1858年7月1日のロンドンリンネ学会に提出されました。

しかし、当初この発表には何の関心も世間から寄せられませんでした。学会誌として印刷され、他の雑誌でも何度か取り上げられたため手紙とレビューがいくつかありましたが、学会長は翌年の演説で昨年の発表の中には革命的な発見が何もなかったと述べました。

ダーウィンは、この論文の発表に先立ち、回答が困難と思われる課題をみつけるたびに論文を拡張したため、発表論文は「巨大な本」へと拡大していました。このため、理論の説明が難解になっていたことも理解が得られなかった理由と考えられます。

このためダーウィンはその内容を整理するため、発表後13ヶ月間にわたってこの「巨大な本」の要約に取り組みました。このころいまだ不健康に苦しんでいましたが、友人たちはそんな彼を励ましました。

とくに友人のライエルは出版社からこの論文が出版できるよう手配し、そしてついに1859年11月22日に「種の起源」が発売されますが、この年はダーウィン50歳の節目でした。この本の出版は予想外の人気を博し、その初版には1250冊以上の申し込みがありました。

もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではなく、この当時、すでに生物の進化に関する著作がいくつも発表されており、受け入れられる素地があったためです。ただ、この本は国際的な関心を引き、世界各国で議論を呼ぶようになりました。

しかし、病気で体調のすぐれないダーウィン本人は直接、議論の場に登場することはありませんでした。しかし、熱心に彼の理論に対する科学的な反応や報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と手紙を通じて意見を交換しました。

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当初ダーウィンは「人間の進化」についてはこの当時の宗教的優勢の雰囲気を察し、「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言及していませんでした。ただ、論評は当然この面にも向けられ、ダーウィンの説は「サルに由来する人間」の信条が書かれたとものだと批判されました。

とくに、ケンブリッジ大学時代の恩師セジウィッグは、道徳を破壊する物だとして彼を批判しました。それまで進化論の構築に協力していた親友のライエルですら、すぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したものの、当初はやはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させました。

「昆虫記」で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあいましたが、ここでも意見の合致には至りませんでした。ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べました。

しかし、その後強力な支持者であるトマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者の支援を受けてこの学説は次第に社会における認知度と影響力を拡大していきます。

トマス・ヘンリー・ハクスリーは軟体動物の形態学についての論文が有名な生物学者で「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、それほどチャールズ・ダーウィンの進化論を強く弁護したことで有名です。元海軍に所属し、ラトルスネーク号という海軍船の外科医のポストを得、この船の調査航海の傍ら海の無脊椎動物の研究に従事しました。

26歳の若さでロイヤル・メダルを受けたばかりか、王立協会のフェローに選ばれ、評議会議員にも選出されましたが、のちに海軍を辞め、王立鉱山学校の講師になり、次いで英国地質調査所の博物学者になりました。

ダーウィンが自然淘汰理論を発表すると、いち早く王立科学研究所のミーティングに参加し、この討論においてダーウィンの理論に賛意を表明しました。その後、ダーウィンが理論の要約として「種の起源」を出版すると、これにも大いに賛同を示し、これを大学での講義に使いました。

この講義には、様々な分野の次世代研究者が群がり、関心を引きつけ、やがてこの時代の主要な科学のテキストとなっていきました。やがてダーウィンの理論は生物学だけでなく、当時の様々な運動に取り入れられて「ダーウィニズム」という言葉が生まれ、その根幹にある「自然淘汰」の概念は世界中に広がっていきました。

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ダーウィンは、その人生の最後の22年間も病気の度重なる発作に悩まされましたが、最後まで研究を継続しました。その後、友人のハクスリーは「自然における人間の位置」として解剖学的に人類は類人猿であることを示し、また、1871年、62歳になったダーウィンも多数の証拠を提示して「ヒトは動物である」と論じました。

さらには「性選択」を主張しました。性選択とは、現代においても進化生物学における重要な理論の一つです。異性をめぐる競争を通じて起きる進化のことであり、一つの種において、ある性(ほとんどの場合は雌)の個体数や交尾の機会はもう一方の性よりも少ないというのが基本理論です。それゆえ、交尾をめぐる個体間の争いが起き、進化を促します。

ダーウィンは、クジャクの羽のような非実用的な動物の特徴をこの性選択説を説明するために利用しました。クジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えました。

そして、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考え、自然選択説とは別に「性選択説」を主張したのです。

これと同じく、ヒトの文化進化、性差、身体的・文化的な人種間の特徴をもこの性選択によって説明し、同時にヒトは一つの「種」であると強調しました。絵や図を多用した研究に拡張され、翌1872年にこれらの理論は「人と動物の感情の表現」として出版されました。

この本では人間の心理の進化と動物行動との連続性が論じられるという専門性の高いものでしたが、写真を利用した初期の本の一冊でわかりやすく人気があり、これを知ったダーウィンは自分の意見が広く世間一般に受け入れられたことに深く感動したといいます。

1880年、ダーウィン70歳の時、兄エラズマスが闘病生活の末、没すると、彼を慕っていたダーウィン一家は悲しみ、「頭が良く、慈愛に満ちた兄だった」と述べましたが、年をとったダーウィンもまた次第に疲れやすくなっていました。が、研究の手を止めることはなく、息子のフランシスと娘たち、使用人がこれを手伝いました。

彼の進化に関する実験と観察は、ツタ植物の運動、食虫植物、植物の自家受粉と他家受粉の影響、同種の花の多型、植物の運動能力と多岐に及び、72歳のとき最後に出した本では若い頃の関心に立ち戻り、ミミズが土壌形成に果たす役割を論じました。

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晩年の楽しみはエマのピアノと小説の朗読で、特に古典よりも流行の小説を好んだといいますが、1882年明けから心臓に痛みを覚えるようになり体がいっそう不自由になりました。そして、4月19日、ロンドン南東部、ダウン村の自宅で、生物学において大きな足跡を残したこの学者は亡くなりました。享年73歳。

ダーウィンは当時の多くの人と同じように、必ずしも男女平等主義者ではなく、女性は能力が劣るとも考えていたようです。しかしいわゆる「差別主義者」ではなく、他の生物と同様に、人種間の生物学的な差異は非常に小さく、異なる人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していました。いかにも彼らしい論理です。

ビーグル号での航海中にも、ここに乗船していた奴隷に関して艦長のフィッツロイと衝突することがしばしばだったといい、これは奴隷制度に対する意見の相違からでした。

ダーウィンは、フィッツロイが「奴隷たちは、現在の状態に満足しており、だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前だからそう言っただけで、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買いました。

また、ビーグル号がブラジルに寄港したときにも、この地で多くの奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、この虐待を二度と見ることが心底うれしかったらしく、この国は二度と訪れることはないだろうと書き残しています。

帰国後には、さらに奴隷解放運動を支援する行動にも乗り出し、「人種のランク付け」に反対し、被支配国の奴隷たちを虐待することに反対しました。

ダーウィンの主張した人種間の生物学的な差異は基本的にはない、という考え方は、こうした人種差別反対運動にも寄与しましたが、自由放任主義で弱肉強食の資本主義、戦争、植民地主義と帝国主義などに反対する人々もまたこうした考え方を利用し、自分たちのイデオロギーを構築するために、ダーウィンの説を役立てました。

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しかし、一方では、ダーウィニズムという用語は自由市場の発展に関する「適者生存」と言う概念に使われることもあり、「強い者が生き延びたのではない。変化に適応したものが生き延びたのだ」「恐竜が滅びたのは改革を怠った怠け者だったから」といったふうに使われることもあり、必ずしも良い影響ばかりを世に与えたわけではありませんでした。

ところで、ダーウィンが亡くなったとき、誰もが彼はその晩年を過ごし、愛してやまなかったダウン村のセントメアリー教会に葬られると誰もが考えていました。

が、同僚たちは彼の死を科学の優位性を一般の人々に印象づける好機と見なし、極力大々的に行おうと計画しました。このため、ハクスリーなどの友人たちや王立協会会長らは家族を説得し、報道機関に記事を書き、教会と王室、議会に働きかけました。

その結果、ダーウィンの葬儀は同年4月26日に国葬として執り行われた上、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。ウェストミンスター寺院は歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されており、彼の墓の隣にも、天文学者のジョン・ハーシェルと物理学者アイザック・ニュートンが眠っています。

現在では墓地としては既に満杯状態ですが、国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)に隣接しているいわば国立墓地で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。英国国教会の教会でもあり、ダーウィン自身もかつて聖職者を目指したこともあり、その墓所としてはふさわしい場所といえるかもしれません。

典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をしましたが、そのうち約200人が聖職者であり、彼自身も生前、決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではありませんでした。

若いころのダーウィンは聖書の無誤性を疑いませんでした。英国国教会系の学校に通い、聖職者になるためにケンブリッジで神学を学んだことは、前回の項で述べたとおりです。「自然のデザイン」は神の存在の証明であるという自然神学を確信し、神が究極的な法則の決定者であると考えていました。

ところが、ビーグル号航海の間に、その信念に疑いを持ち始めました。例えば、なぜ深海プランクトンは誰もそれらを目にすることがないのに創造されたのか?イモムシをマヒさせ、生きたまま子どもに食べさせる寄生バチのような存在が慈悲深いはずの自然神学といったいどのように調和するのか?といった疑念が次々と沸いてきました。

極め付けは、42歳のとき、もっとも愛した長女アニーが献身的な介護の甲斐無く亡くなったことで、この時ダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信しました。彼女の死はキリスト教信仰にピリオドを打つ選択を彼に与えたのでした。

ただ、晩年のダーウィンは、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れ続けていたといいます。しかし、60代になると一変し、このころ親族に向けて書かれた「自伝」においては、ダーウィンは宗教と信仰を痛烈に批判するまでになっています。

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が、最晩年に70歳で書いた書簡では、自分は神の存在を否定する無神論者ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べています。不可知論というのは、事物の本質は認識することができない、とし、人が経験することを越えることを問題として扱うことを拒否しようとする立場であり、本質的な存在については認識不可能だとする論理です。

宗教的には「神は「いる」とも、「いない」とも言えない」とする中立的不可知論な立場をとり、人間は有限な存在で知力が限られていて、世界自体が何であるか知ることができない、と考えます。人間の知識というのは、印象と観念に限られて、それらを越えたことは知識の対象にならない、というわけです。

ダーウィンの死後しばらくして、イギリス北部エディンバラにもほど近い、ノースフィールドの福音伝道者、ムーディ何某という人物が創設した学校で若者たちの集会があり、ここで「ホープ夫人」なる人物が講演したという記録が残っています。

この夫人は、死の床にあるダーウィンを自分は見舞ったと主張し、この時彼は地元の日曜学校の生徒たちに後日讃美歌を歌ってくれるよう頼み、同時にこのとき「進化論なんか発表しなければ良かったと、どれほど思っていることか」と告白したと語りました。

夫人によれば、このとき彼はさらに言葉を続け、「自分は至福の神々しい予期を熱心に味わっている状態であって、イエス・キリストと御救いのことを人々に語りたいから」聴衆を集めてほしいと夫人に依頼したといいます。

そして、ムーディ牧師の激励のもとで、ホープ夫人のこの話は1915年に出版され、この中には、ダーウィンが最後の死の床で信仰を取り戻したと書かれていました。

しかし、ダーウィンの最期の日々をともに送った娘ヘンリエッタは、そのような人は見舞いに来ていないし会ったこともないと述べており、彼の最期の言葉は妻に向けられたものだと語っています。そして、それは「お前がずっとよい妻だったと覚えていなさい」だったといいます。

不可知論者だったダーウィンは、あの世において、神が存在するか否か、もう既に知っていることでしょう。

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ダーウィンがいた!

2014-5352かなり涼しくなってきましたが、標高約200mの場所にある我が家ではさらに気温が低く感じられます。

植物も同じとみえ、麓ではほぼ消滅してしまった柏葉アジサイが今もって咲いており、またサルスベリなどの花木も、もう8月の終わりだというのに、今がまっさかり、といったかんじです。

このサルスベリは、ミソハギ科の落葉中高木で、花は紅の濃淡色または白色と言いうものが多いようですが、最近は紫色や青っぽいものまで見かけられます。我が家に咲いているのは、白とピンクが混じりあった不思議な色の花で、これは品種改良の成果なのでしょう。

漢字として「百日紅」があてられますが、これはこうした可憐な花を夏の間中、咲かせることに由来しています。花が美しいばかりでなく、耐病性もあり、必要以上に大きくならないため、一般家庭もさることながら公園などに植えられることが多く、サルスベリだけを集めた庭園というのもよく見かけます。

幹の肥大成長に伴って古い樹皮が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮が表面に出て更新されていきます。「さるすべり」の読みは、このなめらかな表皮のために、猿が登ろうとしても、滑ってしまうためにつけられたようで、実際、「猿滑」と表記することもあるようです。もっともこのくらいの表面なら、サルは苦も無く登ってしまうでしょうが。

この「サル」の顔つきは、ヒトに比べると額が狭く、顎が前に突き出ています。このため、そういう顔つきの人は、よくサル面といわれます。豊臣秀吉のあだ名がサルであったことは有名ですが、最近ではタカ&トシの、トシさんのサル面が愛嬌があると人気です。

サルといえば、チャールズ・ダーウィンの進化論は、このサルが人類の先祖であったことを証明しました。が、この理論の発表当初は、世間から総反発を喰らいました。このため、ダーウィンの顔にサルの胴体をつなげた似顔絵が描かれたこともあります。しかし、彼自身も顎が突き出ており、顔がしわくちゃで、どちらかといえばサル面だったようです。

ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を種の変化の調査へと導きました。そして1838年に自然選択説を思いつき、そのアイディアは親しい友人の博物学者と議論された結果、1859年に著書「種の起源」として発表され、以後自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論は確立されました。

ダーウィンは、1809年2月12日にイングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーにて、裕福な医師で投資家だった父ロバート・ダーウィンと母スザンナ・ウェッジウッドの間に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれました。

父方の祖父は高名な医師・博物学者であり、母方の祖父は陶芸家・企業家でした。この祖父同士は仲が良く、このためダーウィン家とウェッジウッド家は家族ぐるみで交流を行うほど親密でした。このため、両家と数組の婚姻が結ばれてさらに近しい姻戚関係となりましたが、ダーウィンの両親の結婚もそのひとつでした。

また、実業家であった母のスザンナの弟で、ダーウィンの叔父にあたるジョサイア2世は、同じく実業家である父とウマがあったようで、このためダーウィンとも生涯において何かと関わりが続きました。

父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はありませんでしたが、園芸が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていました。このため、子供のころから博物学的趣味を好み、小さなころから植物・貝殻・鉱物の収集を行っていました。

ダーウィンが8歳のとき、母のスザンナが亡くなり、このためキャロラインら3人の姉が母親代わりをつとめました。父のロバートは思いやり深い人でしたが、妻の死によって厳格さを増し、子供たちには厳しく接することもあったといいます。

一方では、この父を含めダーウィンの一族の男性は自由思想家で非宗教的傾向が強かったといいます。ただ、父ロバートは保守的なイギリス国民でもあり、国教である英国国教を受け入れ、しきたりに従って子どもたちに英国国教会で洗礼を受けさせました。従って、ダーウィンもまた長じるまでは敬虔なクリスチャンでした。

ダーウィンが育った、シュルーズベリーという町は、イギリス中西部に位置し、中心部の大きな通りに、中世から変わらない歴史的なマーケットタウンが配置されており、15世紀から16世紀の木造建築を含め、660以上もの歴史的な建物が残っています。

このシュルーズベリーを含むイギリス南部のイングランドとウェールズ地方では、その人口の大部分は農業と牧畜に従事し、都市に住む者はごく少数でした。このため、農民は礼拝後に教会の敷地内で開催された非公式の市場で自らの農産物を販売するようになり、これを「マーケットタウン」と呼びました。

現在もシュルーズベリーの中心部の大きな通りには、中世から変わらない歴史的なマーケットタウンが配置されており、ここはイギリスの典型的な田舎町といった風情です。また、毎年恒例のシュルーズベリーフラワーショーは、英国で最大かつ最古の園芸イベントの一つで、ここに毎年10万人もの人々が集まります。

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ダーウィンは、そんな田舎町にある寄宿舎校で7歳から学んだ後、16歳(1825年)の時に親元を離れ、イギリス北部スコットランドのエディンバラ大学で父の家業を助けるために医学と地質学を学び始めました。

しかしこのエディンバラ大学では、麻酔がまだ導入されていない時代の外科手術を学ぶことになり、もともと血を見るのが苦手だったダーウィンはこれが苦手で、またそのアカデミックな内容の退屈な講義になじめず、まったくここでの勉学には身が入りませんでした。

このため、昔から好きだった博物学への興味のほうが先行し、さらには昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、ついには学位を取らずに18歳で大学を去ることになりました。

エディンバラ大学を中退した彼に父のロバートは失望しますが、考えを改め、今度は彼を牧師とするためにケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせようとしました。これも彼の本意ではありませんでしたが、牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考えてひそかに喜び、父の提案を受け入れます。

そして、このケンブリッジ大学でも必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒しました。しかし、この当時のダーウィンの頭の中には、人がサルから進化したというようなアイデアはまったくなく、全ての生物は神が天地創造の時点でデザインしたとする「デザイン説」に納得し、これを信じていました。

しかしその一方で、自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述したジョン・ハーシェルの新進理論を学び、アレキサンダー・フンボルトの科学的探検旅行といった本を読み、博物学の基礎をも学びました。

さらには、これら博物学の先人たちの「燃える熱意」に刺激され、熱帯でその実践を学ぶために卒業のあと同輩たちとアフリカ大陸北西岸にあるカナリア諸島のテネリフェへ島へ博物学調査を目的として旅行を敢行しました。

またこれに先だち、地層の形成や化石生物の存在を天変地異的な現象で説明しようとするウェールズでの地層調査などにも参加しました。

地上の世界は神の創造行為である天変地異によって生じたことを証明するための調査であり、こうした調査に参加すること自体、このころダーウィンはまだ科学よりも宗教のほうへ重心を置いていたことがわかります。ただ、こうした基礎調査への参加は、のちにビーグル号で博物学者としての任務を果たすためのよきリハーサルになりました。

なお、このケンブリッジに入学した年の夏にはジョサイア2世やその娘、つまり彼にとっては従妹である、エマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在しており、これは彼にとって最初で最後のヨーロッパ大陸滞在でした。そして、このエマこそ、ダーウィンの将来の妻になる人でした。

1831年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師の紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになりました。ビーグル号は、イギリス海軍の10門の砲を搭載した帆船であり、ビーグル号の名は、野兎狩りに使われる猟犬ビーグルに由来します。

もともとは軍艦でしたが、老朽化のため予備艦となっていたものを改装して測量艦として使われるようになり、ダーウィンらが乗船した航海の前には、南米大陸最南端に位置するティエラ・デル・フエゴ諸島などの水路調査を行っていました。

測量艦としての任務は、イギリスが世界中に植民地を持とうとしていたこの時代にあって、未知の島嶼やその周辺における航路の開拓が主なものでしたが、同時にダーウィンのような博物学者を乗船させて大英帝国の威信にかけた博物学調査も目的のひとつでした。

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ダーウィンのこのビーグル号への乗船にしかし、父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対しました。

ただ、叔父のジョサイア2世の取りなしでなんとか参加が認められ、こうしてダーウィンを乗せたビーグル号は1831年12月にイギリス南西部の軍港、プリマスを出航しました。
このビーグル号による航海は、結果として足かけ5年にもおよぶ世界一周旅行になります。

そしてこの航海でダーウィンは、のちの世で高く評価されることになる進化論を思いつくことになるわけですが、弱冠22歳のこの若き博物学者はこのときはまだ、そんなことはつゆとも考えておらず、ただ、前途に広がる洋々とした海原のかなたに彼を待っている数々の生物たちに思いを馳せ、その出会いに対する期待だけに胸を膨らませていました。

ビーグル号が南米に向かう途中には、大西洋の北、アフリカの西沖合いカーボヴェルデ島に寄港し、そのあと南米東岸を南下してリオデジャネイロに立ち寄りましたが、ここでビーグル号の正式な艦の博物学者だった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながらダーウィンがその後任を務めることになりました。

1834年6月にはマゼラン海峡を通過し、7月に南米西岸のバルパライソに寄港。ここでダーウィンは病に倒れ、1月ほど療養を余儀なくされましたが、思えばこのとき、のちに彼を一生苦しませることになる病因を得たのかもしれません。が、彼が罹患した病気が何であったのかについては必ずしも明らかになっていません。

バルパライソを発ったビーグル号がここから更に北上し、ダーウィンがのちに進化論へとつながる多数の生物と出会うことになる赤道直下のガラパゴス諸島に到着したのは1835年9月15日のことです。一行は、これより約一ヶ月、10月20日までここに滞在しました。

このガラパゴス諸島は、東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島で、「ガラパゴス」は、「ゾウガメの島」という、スペイン語です。1832年にエクアドルが領有を宣言すると、次々と各国の入植が開始され、イギリスも総督府をここに置いて、主にこの地に囚人を送り、流刑地としていました。

赤道直下のエクアドル本土より西約900キロメートルにあり、大小多くの島と岩礁から構成され、現在、ガラパゴスの123の島にはすべて名前が付けられています。が、この当時は無論、島々に名前などありません。これらは、1535年、スペイン人の宣教師たちが、侵略で得たインカ帝国内の領地へ伝道に向かう航海の途中、偶然に発見されたものです。

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ガラパゴス諸島は発見時には無人島であったようですが、ダーウィンらがここを訪れる前後ごろからスペイン船の金などの積載物を狙う海賊の隠れ家として利用されるようになり、海賊たちは食料のヤギを島に放しました。

このため、ヤギの大繁殖が起こり、捕鯨船の乗組員によるゾウガメの捕食などもあり、1832年にエクアドルがここの領有を宣言すると、次々と入植者も増え、さらに環境破壊が進行しました。そして時代を経て現在に至るまでには、航空路や横断道路が建設され、欧米を中心に観光客が訪れて、環境破壊も深刻になりました。

世界遺産にも登録された現在では国立公園管理事務所の設置、観光客に対するナチュラリストガイド制度などの厳重な自然保護対策が講じられており、観光客は、足元を洗ってからでないと上陸させないほどの保護体制を取っています。が、未だ大航海時代に持ち込まれたヤギの繁殖は問題になっているようです。

ガラパゴス諸島は赤道直下にあって陸地から切り離されて孤立した存在であり、こうした島々で生息する生物は飛来したか海を渡って漂着したものの子孫に限られます。その多くは南アメリカ大陸に出自があるとされます。またほ乳類と両生類を欠くなど、生物相にははっきりしたゆがみがあります。

その代わりに生存する種群には「適応放散」が著しく、これは、生物の進化に見られる現象のひとつで、単一の祖先から多様な形質の子孫が出現することを指します。特にゾウガメがこの島の名の由来になったように、大型のは虫類がとくに多く、種々の動物相の中でも突出しています。

このため、最近では、こうした孤島であるがゆえに偏った生物相を持つ島嶼になぞらえ、さまざまな事象を「○○のガラパゴス」と呼びます。

ガラケーもそのひとつであり、これはガラパゴス携帯の略で、いわゆるスマートフォンが登場する前の「普通の携帯電話」のことを意味です。ただ、ガラケーのことをスマホを使えない人が使う「遅れた携帯」という意味だと思っている人がいますが、これは違います。

日本の携帯が世界から隔離されたような環境で独自の進化をとげており、ワンセグ・着うた・着メロ・電子マネー・お財布携帯・アプリ・ゲームなど、日本では当たり前のような機能も、実は海外ではほとんど普及していない機能です。このため、ガラケーと呼ばれて肩身が狭い思いをしていますが、実は世界標準ではない特殊な電話であるだけです。

日本では琉球列島や小笠原諸島が「日本のガラパゴス」と呼ばれますが、琉球列島はかつて大陸や日本列島と陸続きで、そこから侵入した生物相が元になっている点、海洋島へ漂着した生物を起源とするガラパゴスのそれとは性格が異なります。したがって、その意味では小笠原だけは、こう呼ぶ方が理にかなっていると言えます。

最近の調査ではウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの共存関係が崩れだし、ウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの交尾によって生まれた子供は、両方の遺伝子を持ち、ガラパゴスリクイグアナにはない鋭い爪が生えているそうです。

これをハイブリッドイグアナと呼びます。が、両方の遺伝子を持つという特殊生物であるためか繁殖力はありません。また最近はエルニーニョ現象の影響からか、体長が25%も短いイグアナが発見されたりしており、ガラパゴスの生態系が破壊されつつあるのではないかと問題視されています。

ガラパゴス諸島は地質学的にはおよそ500万年歴史があると考えられています。が、ダーウィンは当初そう古いものとは考えておらず、ここに生息するゾウガメたちは海賊が食料代わりに連れてきたものだと考えていました。

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ところが、この地に長く住むガラパゴス総督から諸島のあちこちに多数の変種がいることを教えられ、ダーウィンはそこで初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づきました。

一般に、ダーウィンはガラパゴス諸島で「ダーウィンフィンチ」と呼ばれることになる鳥類の多様性から進化論のヒントを得たと言われています。

が、彼の足跡を調べた研究者によれば、彼はガラパゴス諸島に滞在した時にはこうしたゾウガメやイグアナのほか、鳥類でもツグミのような種に強い興味を持っていたといい、こちらから最初にヒントを得たというのが事実のようです。

しかしまだこれらの種の進化や分化に気がついていなかったため、彼の興味は博物学的な関心から生物の多様性をそのまま記載するだけでした。このため、フィンチなどの鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、どこで採取したかの記録も残しておらず、鳥類標本については、後に帰国してから同船仲間のコレクションを利用せざるを得ませんでした。

前述のように、彼が進化論の糸口を発見したのは、ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について様々な示唆を受けることができたためでした。が、このことについて深く考察し始めるころには既に一行は諸島の調査予定を終えつつあり、その考えに基づいた十分な資料を持ち帰ることができず、のちにダーウィンはこのことをひどく後悔しています。

なお、この時、ダーウィンがガラパゴス諸島からイギリスまで持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは175歳まで生き、2006年に心臓発作のため他界しています。

やがて調査を終えた一向は、1835年12月に南下してニュージーランドへ寄港し、さらにオーストラリアのシドニーへ到着しました。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後、南アのケープタウンへ到着。北上して大西洋に浮かぶイギリス領の火山島、セントヘレナ島にも立ち寄り、ダーウィンはここでナポレオンの墓所を散策しています。

その後、大西洋中央部のアゾレス諸島を経て1836年10月2日にプリマスにもほど近い、ファルマス港に帰着しました。航海は当初3年の予定でしたが、ほぼ5年が経過していました。

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後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残しています。

一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほどこの大陸のものに似ていることでした。

つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相が微妙に違うものの近縁にあることに気づき、それぞれの種が独立して創られた不変の存在であるとは考えられないと感じるようになったのです。また、この5年にわたるビーグル号での航海中、ダーウィンは、スコットランド出身の地質学者で、友人であるチャールズ・ライエルの「地質学原理」を読んでいました。

そこには地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化することなどが書かれていましたが、ダーウィンは同様に動植物にもわずかな変化があり、その変化は長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に適応しうるのではないかという、現在では当たり前になっている理論を考えはじめました。

ライエルの「地質学原理」はこの分野では古典とされ、近代的地質学の基礎です。彼はこの本の中で「斉一説」を提唱しており、これは自然界において、過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろう、と想定する考え方です。

「現在は過去を解く鍵」という表現で知られる近代地質学の基礎となった地球観であり、この当時はあたりまえのように信じられていた天変地異説に対立する説として登場しており、のちのダーウィンの自然淘汰説の着想にも大きな影響を与えました。ビーグル号に乗船する前には、彼自身もこの天変地異説を信じていたことは上でも述べたとおりです。

帰国したとき、それでもダーウィンはまだ27歳でした。ビーグル号で得られたコレクションを整理し航海記を書き直すため、ケンブリッジに移り、さらに1837年3月により仕事をしやすいロンドンに移住し、世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案したチャールズ・バベッジのような数学者とも付き合い始めます。

このころからダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めます。7月中旬に始まる「Bノート」では変化について新しい考えを記しており、この中で既に「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てています。そして生命を一つの「進化樹」から分岐する系統だと見なし始めました。

「一つの動物が他の動物よりも高等だとするのは不合理である」と考え、さまざまな種の変化に関する研究を始めました。が、それを系統立てて説明するためには膨大な資料が必要となり、やがてその研究の泥沼に入り込んでいきました。

このころイギリス地質学会はダーウィンを事務局長に推薦しており、一度は辞退しましたが、結局これを引き受けました。しかし、ダーウィンは、ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでおり、と同時にこのころ、胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しみ、嘔吐、激しい吹き出物、動悸、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなっていました。

この病気の原因は当時もわからず、ダーウィンも様々な治療を試みたようですが、治癒しませんでした。現在、彼がかかった病気は、心の病ではなかったか、という説以外にもシャーガス病という、寄生虫が原因の感染症であった可能性が取沙汰されているようです。

中南米に生息する「サシガメ」というカメムシの一種をベクター(媒介)とする病気で、ヒト以外にも、イヌ、ネコ、サルなど150種以上の哺乳類への感染が確認されています。サシガメは吸血性の昆虫であり、刺された人が痒みなどを感じて自分で掻いて皮膚を傷つけた時、その傷口からこの虫の糞に含まれる病原体が体内に侵入します。

ただ、すぐには発病せず、一般に30年ほどの潜伏期間があるといわれ、ほとんどの場合、当人は感染にまったく気付きません。子供時代に罹患した後、数十年たって大人になって突然発症することもあり、リンパ節、肝臓、脾臓の腫脹、筋肉痛、心筋炎などを起こし、時には、心肥大(心臓破裂)、脳脊髄炎、心臓障害など致死症状を発する可能性もあります。

日本でもシャーガス病陽性者が見つかっているそうで、中南米諸国出身の人または母親が中南米諸国出身の人や、中南米諸国に通算4週間以上滞在した人は、罹患の可能性を否定できないので、予防的措置を講じるため、献血時に申告するよう日本赤十字社は呼びかけています。

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シャーガス病の陽性とされた人が、日本で献血を行っていた例もあり、その血液を輸血された患者の追跡調査を行った結果、調査対象となった5人全員が陰性だったそうですが、このほかでは輸血によりシャーガス病に感染した事例は日本では報告されていません。

が、日本以外では輸血でも感染した例があり、また母子感染も確認されているため、献血された血液の検査や、フィルターによる濾過や冷凍などで原虫を除去する必要があります。

現在治療薬も開発されているようですが、感染直後しか効果がなく、副作用が大きいため、慢性患者に対しては、もっぱら対症療法を行っているそうです。対策としてはサシガメに刺されないようにすることはもちろん、稀にサシガメから果物にシャーガス原虫が付着することがあるため、この病の流行地では生のジュースを飲むのを控えた方がいいそうです。

日本は経済成長によって南米から日系人を含む少なくない人数の出稼ぎ労働者を受け入れており、その人数と南米人のシャーガス病発症率から計算すると、現在日本には数千名程度のシャーガス病感染者がいる可能性があり、また当人たちはほぼ全員まだそれに気づいていないと考えられるそうです。

この病気の存在が南米からの日系人や労働者への差別につながっては困りますが、日本人の間でも蔓延する可能性は否定できず、今後の監視は重要です。

日系人などが、日本で突然、心臓発作を起こしたとされるケースでも、実は、日本の医師にシャーガス病の知識が無いためそう判断されただけで、実はシャーガス病で亡くなっている事例が多数含まれているのではないか、ともいわれているそうです。

純粋な日本人の患者数は、さらに少ないと考えられます。しかし、輸血によって罹患する可能性もあり、ヒト以外の哺乳類も感染することが確認されていることなども合わせて考えると、将来的に大流行する可能性がないわけではなく、不気味な存在です。

ダーウィンを襲った病気もその可能性があり、この病はその後の彼の研究に大きく影響するところとなり、ビーグル号からの帰国後の学者人生の前途には暗雲が立ち込め初めていました。(「ダーウィンがいた!2」へ)

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