この項、「ダーウィンがいた!」から続く。
ガラパゴス諸島への旅も含めた世界一周の船旅から帰ったダーウィンでしたが、原因不明の病に苦しみ、帰国後に引き受けた地質学会の事務局長の仕事もなかなかこなせない毎日を送っていました。また航海中に思いついた「種の起源」についての研究を進めるために始めた、資料収集もままならず、悶々とした日々を過ごしていました。
このとき、ダーウィン、29歳。結婚適齢期でもあり、ちょうどこのころ、姉キャロラインとエマの兄ジョサイア3世が結婚すると自らも結婚を意識し始めました。
そして、この年の末についに、エマに正式にプロポーズ。前項でも書いたように、エマはダーウィン家と家族ぐるみの付き合いのある、叔父のジョサイア・ウェッジウッドの娘で、従妹にあたります。
しかし新居をロンドンで探している間にも病いは続き、婚約者のエマは彼に休みを取るよう訴えていたといいます。結局病状はそのままに、ロンドン中心部のガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその後「博物館」と呼ぶことになるこの新居へ引っ越しました。
そして、このころには少し病いは安定していたため、1939年に英国国教会で二人の結婚式が行われました。ダーウィン30歳。そして、その年の12月には長男ウィリアムが誕生しました。
このころ、ダーウィンは世界でも最も古い科学学会である、ロンドン王立協会の会員に選出されており、それまでにかなり進化論の基礎となる、「自然選択理論」のフレームワークを確立していました。
この研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んでいましたが、アイディアの細部を洗練させるためには、さらに調査が必要でした。そのための調査研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われ、以後およそ10年以上続きます。
33歳になったとき、その中間的な研究結果を端的にまとめるため「ペンシルスケッチ」と題した理論を書き始めましたが、さらに病状は思わしくなく、この年の7月ころには、早死にしたときに備えてこの「スケッチ」をさらに230ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んでいます。
しかし、幸いにも病気はやがて治まっていき、病状が安定するとダーウィンは、ビーグル号で収集したフジツボを解剖し分類するなど、無脊椎動物の研究を始めました。病後明けのこの研究は実に楽しいものでした。美しい構造の観察を堪能した彼は、その中でも近縁種との構造を比較しつつ、さらに思索を深めました。
この8年にわたるフジツボの研究はその後の進化論の理論の発展を大いに助けました。やがて彼はある種類のフジツボを違う環境で育てた場合、わずかに異なった体の器官ができ、これが新しい環境で十分機能することを発見します。
またいくつかの属でオスのフジツボが雌雄同体のフジツボに寄生していることを発見し、これが♂♀二性の進化に関係していることに気付きました。フジツボは固着生活を送っているため、交尾のため自由に動き回れません。オスの寄生によって♂♀への分化を促進しこの問題を解決していると考えられ、進化の過程でそう変化したと考えられました。
44歳のとき、こうした研究成果をまとめて発表するとこれが認められ、王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、ダーウィンは生物学者としてさらに名声を高めました。翌年に再び種の理論の研究を始め、さらに子孫の特徴の違いは、「多様化された自然の経済に適応した結果生じる」、と考えることで上手く説明できると気付きます。
均衡がとれた経済というものは、需要と供給のバランスがとれています。産業別の人口構成をバランスのとれた適切な割合するということや、赤字や黒字にかたよらないバランスのとれた国の財政や貿易などを目指し、それらによって「分散多様化」された経済こそが均衡がとれた経済です。
自然界も同じであり、そのバランスをとるために、微妙に子孫の形を変え、特定の種が突出せず、均衡がとれた自然界が形成されることが望ましいわけです。ダーウィンは、こうしたことを実証するため、47歳ころから卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べはじめました。
そして、違う環境に適応するためのひとつの変異を「自然選択」と呼びました。生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化します。
1.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
2.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
3.変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)
上記の3番目に関わるのが自然選択です。一般に生物の繁殖力が生存可能数の上限を超えると、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝えるため、不利な性質を持った個体の子供は少なくなります。このように適応力に応じて「自然環境がふるい分けの役割を果たすこと」を自然選択といいます。
ダーウィンが49歳のときのこの「自然選択」の理論の構築は半分しか進んでいませんでしたが、ちょうどこのころ、ダーウィンは同じく博物学者、生物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取りました。
アルフレッド・ラッセル・ウォレスは探検家でもありました。マレー諸島を広範囲に実地探査し、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、「ウォレス線」を特定したことで有名で、このため生物地理学の父とも呼ばれます。
ダーウィンとは異なり、ウォレスはすでに種の変化を信じる博物学者として出発していました。彼は近接して生息している種同士は関連があるという進化の仮説を検証するためにアマゾン川流域を調査しましたが、この調査では、アマゾン河とその支流が地理的障壁になっていることに気付き、これを論文、の「アマゾンのサルについて」で論じました。
ウォレスは一度、直接ダーウィンに会ったことがあり、このころまでには親しい文通相手の一人となっていました。ダーウィンは彼からの情報を自分の理論の補強に用いており、このウォレスのアイデアを用いて、ダーウィンの理論構築はさらに加速していきました。
やがてダーウィンの記述を第一部と第二部とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成が完成し、これは共同論文として1858年7月1日のロンドンリンネ学会に提出されました。
しかし、当初この発表には何の関心も世間から寄せられませんでした。学会誌として印刷され、他の雑誌でも何度か取り上げられたため手紙とレビューがいくつかありましたが、学会長は翌年の演説で昨年の発表の中には革命的な発見が何もなかったと述べました。
ダーウィンは、この論文の発表に先立ち、回答が困難と思われる課題をみつけるたびに論文を拡張したため、発表論文は「巨大な本」へと拡大していました。このため、理論の説明が難解になっていたことも理解が得られなかった理由と考えられます。
このためダーウィンはその内容を整理するため、発表後13ヶ月間にわたってこの「巨大な本」の要約に取り組みました。このころいまだ不健康に苦しんでいましたが、友人たちはそんな彼を励ましました。
とくに友人のライエルは出版社からこの論文が出版できるよう手配し、そしてついに1859年11月22日に「種の起源」が発売されますが、この年はダーウィン50歳の節目でした。この本の出版は予想外の人気を博し、その初版には1250冊以上の申し込みがありました。
もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではなく、この当時、すでに生物の進化に関する著作がいくつも発表されており、受け入れられる素地があったためです。ただ、この本は国際的な関心を引き、世界各国で議論を呼ぶようになりました。
しかし、病気で体調のすぐれないダーウィン本人は直接、議論の場に登場することはありませんでした。しかし、熱心に彼の理論に対する科学的な反応や報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と手紙を通じて意見を交換しました。
当初ダーウィンは「人間の進化」についてはこの当時の宗教的優勢の雰囲気を察し、「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言及していませんでした。ただ、論評は当然この面にも向けられ、ダーウィンの説は「サルに由来する人間」の信条が書かれたとものだと批判されました。
とくに、ケンブリッジ大学時代の恩師セジウィッグは、道徳を破壊する物だとして彼を批判しました。それまで進化論の構築に協力していた親友のライエルですら、すぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したものの、当初はやはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させました。
「昆虫記」で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあいましたが、ここでも意見の合致には至りませんでした。ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べました。
しかし、その後強力な支持者であるトマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者の支援を受けてこの学説は次第に社会における認知度と影響力を拡大していきます。
トマス・ヘンリー・ハクスリーは軟体動物の形態学についての論文が有名な生物学者で「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、それほどチャールズ・ダーウィンの進化論を強く弁護したことで有名です。元海軍に所属し、ラトルスネーク号という海軍船の外科医のポストを得、この船の調査航海の傍ら海の無脊椎動物の研究に従事しました。
26歳の若さでロイヤル・メダルを受けたばかりか、王立協会のフェローに選ばれ、評議会議員にも選出されましたが、のちに海軍を辞め、王立鉱山学校の講師になり、次いで英国地質調査所の博物学者になりました。
ダーウィンが自然淘汰理論を発表すると、いち早く王立科学研究所のミーティングに参加し、この討論においてダーウィンの理論に賛意を表明しました。その後、ダーウィンが理論の要約として「種の起源」を出版すると、これにも大いに賛同を示し、これを大学での講義に使いました。
この講義には、様々な分野の次世代研究者が群がり、関心を引きつけ、やがてこの時代の主要な科学のテキストとなっていきました。やがてダーウィンの理論は生物学だけでなく、当時の様々な運動に取り入れられて「ダーウィニズム」という言葉が生まれ、その根幹にある「自然淘汰」の概念は世界中に広がっていきました。
ダーウィンは、その人生の最後の22年間も病気の度重なる発作に悩まされましたが、最後まで研究を継続しました。その後、友人のハクスリーは「自然における人間の位置」として解剖学的に人類は類人猿であることを示し、また、1871年、62歳になったダーウィンも多数の証拠を提示して「ヒトは動物である」と論じました。
さらには「性選択」を主張しました。性選択とは、現代においても進化生物学における重要な理論の一つです。異性をめぐる競争を通じて起きる進化のことであり、一つの種において、ある性(ほとんどの場合は雌)の個体数や交尾の機会はもう一方の性よりも少ないというのが基本理論です。それゆえ、交尾をめぐる個体間の争いが起き、進化を促します。
ダーウィンは、クジャクの羽のような非実用的な動物の特徴をこの性選択説を説明するために利用しました。クジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えました。
そして、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考え、自然選択説とは別に「性選択説」を主張したのです。
これと同じく、ヒトの文化進化、性差、身体的・文化的な人種間の特徴をもこの性選択によって説明し、同時にヒトは一つの「種」であると強調しました。絵や図を多用した研究に拡張され、翌1872年にこれらの理論は「人と動物の感情の表現」として出版されました。
この本では人間の心理の進化と動物行動との連続性が論じられるという専門性の高いものでしたが、写真を利用した初期の本の一冊でわかりやすく人気があり、これを知ったダーウィンは自分の意見が広く世間一般に受け入れられたことに深く感動したといいます。
1880年、ダーウィン70歳の時、兄エラズマスが闘病生活の末、没すると、彼を慕っていたダーウィン一家は悲しみ、「頭が良く、慈愛に満ちた兄だった」と述べましたが、年をとったダーウィンもまた次第に疲れやすくなっていました。が、研究の手を止めることはなく、息子のフランシスと娘たち、使用人がこれを手伝いました。
彼の進化に関する実験と観察は、ツタ植物の運動、食虫植物、植物の自家受粉と他家受粉の影響、同種の花の多型、植物の運動能力と多岐に及び、72歳のとき最後に出した本では若い頃の関心に立ち戻り、ミミズが土壌形成に果たす役割を論じました。
晩年の楽しみはエマのピアノと小説の朗読で、特に古典よりも流行の小説を好んだといいますが、1882年明けから心臓に痛みを覚えるようになり体がいっそう不自由になりました。そして、4月19日、ロンドン南東部、ダウン村の自宅で、生物学において大きな足跡を残したこの学者は亡くなりました。享年73歳。
ダーウィンは当時の多くの人と同じように、必ずしも男女平等主義者ではなく、女性は能力が劣るとも考えていたようです。しかしいわゆる「差別主義者」ではなく、他の生物と同様に、人種間の生物学的な差異は非常に小さく、異なる人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していました。いかにも彼らしい論理です。
ビーグル号での航海中にも、ここに乗船していた奴隷に関して艦長のフィッツロイと衝突することがしばしばだったといい、これは奴隷制度に対する意見の相違からでした。
ダーウィンは、フィッツロイが「奴隷たちは、現在の状態に満足しており、だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前だからそう言っただけで、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買いました。
また、ビーグル号がブラジルに寄港したときにも、この地で多くの奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、この虐待を二度と見ることが心底うれしかったらしく、この国は二度と訪れることはないだろうと書き残しています。
帰国後には、さらに奴隷解放運動を支援する行動にも乗り出し、「人種のランク付け」に反対し、被支配国の奴隷たちを虐待することに反対しました。
ダーウィンの主張した人種間の生物学的な差異は基本的にはない、という考え方は、こうした人種差別反対運動にも寄与しましたが、自由放任主義で弱肉強食の資本主義、戦争、植民地主義と帝国主義などに反対する人々もまたこうした考え方を利用し、自分たちのイデオロギーを構築するために、ダーウィンの説を役立てました。
しかし、一方では、ダーウィニズムという用語は自由市場の発展に関する「適者生存」と言う概念に使われることもあり、「強い者が生き延びたのではない。変化に適応したものが生き延びたのだ」「恐竜が滅びたのは改革を怠った怠け者だったから」といったふうに使われることもあり、必ずしも良い影響ばかりを世に与えたわけではありませんでした。
ところで、ダーウィンが亡くなったとき、誰もが彼はその晩年を過ごし、愛してやまなかったダウン村のセントメアリー教会に葬られると誰もが考えていました。
が、同僚たちは彼の死を科学の優位性を一般の人々に印象づける好機と見なし、極力大々的に行おうと計画しました。このため、ハクスリーなどの友人たちや王立協会会長らは家族を説得し、報道機関に記事を書き、教会と王室、議会に働きかけました。
その結果、ダーウィンの葬儀は同年4月26日に国葬として執り行われた上、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。ウェストミンスター寺院は歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されており、彼の墓の隣にも、天文学者のジョン・ハーシェルと物理学者アイザック・ニュートンが眠っています。
現在では墓地としては既に満杯状態ですが、国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)に隣接しているいわば国立墓地で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。英国国教会の教会でもあり、ダーウィン自身もかつて聖職者を目指したこともあり、その墓所としてはふさわしい場所といえるかもしれません。
典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をしましたが、そのうち約200人が聖職者であり、彼自身も生前、決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではありませんでした。
若いころのダーウィンは聖書の無誤性を疑いませんでした。英国国教会系の学校に通い、聖職者になるためにケンブリッジで神学を学んだことは、前回の項で述べたとおりです。「自然のデザイン」は神の存在の証明であるという自然神学を確信し、神が究極的な法則の決定者であると考えていました。
ところが、ビーグル号航海の間に、その信念に疑いを持ち始めました。例えば、なぜ深海プランクトンは誰もそれらを目にすることがないのに創造されたのか?イモムシをマヒさせ、生きたまま子どもに食べさせる寄生バチのような存在が慈悲深いはずの自然神学といったいどのように調和するのか?といった疑念が次々と沸いてきました。
極め付けは、42歳のとき、もっとも愛した長女アニーが献身的な介護の甲斐無く亡くなったことで、この時ダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信しました。彼女の死はキリスト教信仰にピリオドを打つ選択を彼に与えたのでした。
ただ、晩年のダーウィンは、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れ続けていたといいます。しかし、60代になると一変し、このころ親族に向けて書かれた「自伝」においては、ダーウィンは宗教と信仰を痛烈に批判するまでになっています。
が、最晩年に70歳で書いた書簡では、自分は神の存在を否定する無神論者ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べています。不可知論というのは、事物の本質は認識することができない、とし、人が経験することを越えることを問題として扱うことを拒否しようとする立場であり、本質的な存在については認識不可能だとする論理です。
宗教的には「神は「いる」とも、「いない」とも言えない」とする中立的不可知論な立場をとり、人間は有限な存在で知力が限られていて、世界自体が何であるか知ることができない、と考えます。人間の知識というのは、印象と観念に限られて、それらを越えたことは知識の対象にならない、というわけです。
ダーウィンの死後しばらくして、イギリス北部エディンバラにもほど近い、ノースフィールドの福音伝道者、ムーディ何某という人物が創設した学校で若者たちの集会があり、ここで「ホープ夫人」なる人物が講演したという記録が残っています。
この夫人は、死の床にあるダーウィンを自分は見舞ったと主張し、この時彼は地元の日曜学校の生徒たちに後日讃美歌を歌ってくれるよう頼み、同時にこのとき「進化論なんか発表しなければ良かったと、どれほど思っていることか」と告白したと語りました。
夫人によれば、このとき彼はさらに言葉を続け、「自分は至福の神々しい予期を熱心に味わっている状態であって、イエス・キリストと御救いのことを人々に語りたいから」聴衆を集めてほしいと夫人に依頼したといいます。
そして、ムーディ牧師の激励のもとで、ホープ夫人のこの話は1915年に出版され、この中には、ダーウィンが最後の死の床で信仰を取り戻したと書かれていました。
しかし、ダーウィンの最期の日々をともに送った娘ヘンリエッタは、そのような人は見舞いに来ていないし会ったこともないと述べており、彼の最期の言葉は妻に向けられたものだと語っています。そして、それは「お前がずっとよい妻だったと覚えていなさい」だったといいます。
不可知論者だったダーウィンは、あの世において、神が存在するか否か、もう既に知っていることでしょう。