西南戦争のこと

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昨日の彼岸の中日を境に、秋が深まっていく感じがします。

暑さ寒さも彼岸までといいますが、一夜明けた今朝のこの山の上はかなり気温が下がり、20度を切りました。

彼岸明けは、26日なので、お墓参りにまだこれから行くという人も多いでしょう。我が家では先祖代々の墓は金沢にあるので、さすがにお参りには行けません。こちらで手を合わせただけで、済まさせていただきます。

かの西南戦争では、このお彼岸の時期に終結しました。現在に至るまで、「最後の内戦」とされるこの戦争では、官軍の死者は6,403人、西郷軍の死者は6,765人にも及んでおり、その英霊たちの供養もまた、このお彼岸の時期に各地でなされていることでしょう。

明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、西南の役とも呼ばれるこの戦争について語ると長くなります。なので、ここでその詳細を書くつもりはありません。

が、その始まりと終わりの部分についてだけ、ざっと整理してみましょう。

この戦争は一言で言えば、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。1877年(明治10年)の下旬に熊本城で始まった戦いは、熊本県内だけに収まらず、その後、宮崎県・大分県へとその激戦地を移しながら、鹿児島県で終わりを告げました。

事の発端は、明治政6年の政変で下野した西郷が、1874年(明治7年)に、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設したことです。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することでしたが、同時に外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していました。

このため、この学校では外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させるなど、積極的に西欧文化を取り入れていました。が、やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していきました。

一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月に廃刀令、同年8月にも「金禄公債証書発行条例」を発布しました。これは、秩禄処分(ちつろくしょぶん)ともいわれるもので、旧来の「禄」つまり、江戸幕府の賃金体制を全廃する、というものでした。

この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせました。これが契機となり、同年10月に熊本県での「神風連の乱」や福岡県の「秋月の乱」、さらに山口県では「萩の乱」が起こりました。

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下野後、現在も指宿市にある鰻池湖畔の鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、心を揺り動かされます。西郷の真意は明治政府に自分の主義主張を認めさせるために何が何でも武力で押し通す、といった好戦的なものではなかったと言われています。

しかし、自分が育て上げた私学校の卒業生や維新に至るまでに西郷を慕い、側近となっていた面々に担ぎ上げられた、とするのが定説です。

一方では、この決起は、この当時日本へ触手を伸ばそうとしてきていた、ロシアのための防御・外征を意味していたという説があり、自らが育てた軍でもって中央政府にも対ロシア戦への奮起を促したかったのだ、ともいわれているようです。

また、西郷は、1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって提唱された、武力をもって朝鮮を開国しようとするいわゆる「征韓論」にも熱心でした。

しかし、西郷ら不平不満士族を中心とするこうした「強兵」重視路線は、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた格好となり、それに対する不満や反発が彼等の中に生まれました。西郷自信の心中にも同様の不満が全く無かったとはいえないでしょう。

とはいえ、「人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである」といったことを信条にするほど、国家の安泰ということを望んでいた人です。どうしてこうした暴挙に出たかについては、その真意はいまもって謎とされ、多くの学者や研究者の間で議論があるようです。

とまれ、そうした西郷が本当に築きたかった国家がどういうものであるかを理解することなく、鹿児島においては、私学校党による県政の掌握が進み、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする雰囲気も蔓延していきました。

こうした動きを見ていた、中央政府の面々のうち、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派はとくにこの鹿児島の動きに敏感でした。そして木戸は「鹿児島県政改革案」を提案するに至り、1876年(明治9年)に、薩摩藩出身の内務卿、大久保利通に対して、これを受諾させました。

こうして、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされることになりましたが、この改革案は、この時の鹿児島権令(県令)、大山綱良の猛反発を受けました。この当時、明治新政府では廃藩置県後に旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるということとしていました。

ところが、大山は薩摩出身であり、同国人が鹿児島県令になるのは、この廃藩置県の原則に反する特例措置でした。大山は、西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けるようになりました。

県令を拝したあとは、鹿児島県は新政府に租税を納めようとしなくなり、私学校党を県官吏に取り立てるなどしたため、鹿児島はあたかも独立国家の様相を呈するようになりました。この大山の暴発に加え、上述の萩の乱ほかの地方の乱の発生により、結局、木戸が提案した「鹿児島県政改革案」はその大部分が実行不可能となりました。

ちなみに、大山はその後鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供するなど官軍に敵対する動きを見せましたが、西郷軍の敗北後は、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首されています。享年53。

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しかし、実際に実行された対鹿児島策もありました。その1つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視である川路利良が「中原尚雄」以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことです。これに対し、私学校徒達は中原などの大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していました。

また、新政府は、このころ、赤龍丸を持つ三菱会社に命じて、薩摩藩が一朝に緩急ある時のために藩士からの醵出金を集めて備蓄していた兵器・弾薬を大阪に運び出そうとしました。鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬がそれで、この中には当時の陸軍が主力装備としていた最新鋭のスナイドル銃などが含まれていました。

やがて彼等は警視庁帰藩組の内偵を行った結果、彼等の帰郷が西郷暗殺を目的としている、という事実を掴みます。私学校幹部らは善後策を話し合いますが、当の本人の西郷は、このときはまだ戦をするつもりなどは全くなく、大隅半島の南部の根占(ねじめ)で猟をしていました。

しかし、この暗殺計画の事実とともに、政府による弾薬掠奪事件の顛末を、私学校幹部が派遣した使者から聞いた西郷は、「ちょしもたー(しまった)」との言葉を発し、暗殺計画の噂で沸騰する私学校徒に対処するため鹿児島へ帰りました。

帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼっていました。血気に逸る私学校党は、ついに中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問がおこなわれた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」がとられました。

この話を聞いた多くの私学校徒は激昂して暴発状態となりました。根占から帰った西郷は幹部たちを従え、私学校本校に入り、ここに私学校幹部及び分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われました。

この会議においては、武装蜂起と政府との対話の両論が出ましたが、このほかにも諸策百出して紛糾しました。が、座長格の私学校幹部、篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、また長年西郷につき従ってきた側近中の側近、桐野利秋が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得ました。

また、どのルートで東征に向かうかについては、数案が出されましたが、結局「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用されました。

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こうして、一番~五番大隊からなるおよそ14000名の部隊が編成され、2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による閲兵式が行われました。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発しましたが、これがその後、8ヵ月に及ぶ西南の役の始まりでした。

これに対して政府側は、西郷軍が熊本城下に着かないうちにすでに天皇から征討の詔を得ており、西郷軍の邀撃(ようげき)に動き出していました。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を得たのが2月19日でした。

西郷軍が動き出してわずか4日目のことであり、彼らが熊本城を包囲する2日前でした。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかります。熊本城は熊本鎮台司令長官で、元土佐藩士、谷干城(たてき)の指揮の下、4000人の籠城で西郷軍の攻撃に耐え、ついに撃退に成功しました。

なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったといいます。しかし、熊本城はこのとき、原因不明の出火で大小天守などの建物を焼失しました。が、現在国宝になっている天守などの多くが焼け残りました。

薩軍はその後、九州各地で政府軍と戦いましたが、上述のように最新式の銃はなく、装備の劣った小銃と少ない大砲で堅城に立て籠もる政府軍と戦うという、無謀この上もない作戦を採用せざるを得なくなりました。これに対して、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する政府鎮台側は圧倒的に有利でした。

また剽悍な士の多くが、熊本城ほかのこうした攻城戦で消耗していきました。しかし、全般的に戦いはこう着状況が続き、4月になり春となっても終結せず、さらに7月、8月と夏になっても各地で激戦が続きました。ただ、兵力と武器の双方の不足に悩む西郷軍は次第に本拠である鹿児島に追い詰められていきました。

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9月1日、西郷らは鹿児島入りすると、私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は、錦江湾西部(桜島の対岸)にある城山を中心に布陣しました。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなりました。

この城山というのは、鹿児島城下の高台にあり、現在公園になっており、私も行ったことがあります。その展望台からは、桜島をはじめ錦江湾と鹿児島市街地を一望できます。その北端に洞窟があり、ここに西郷らは立て籠もりました。

しかし、3日には官軍が形勢を逆転して城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐し、6日までには城山包囲態勢を完成させました。その後、両軍の間には目立った交戦はなくにらみ合う形で20日ほどが過ぎました。

が、23日になって、海軍の総司令官の中将、川村純義からの降伏を勧める書状が届けられました。しかし、西郷はこれを無視し、また、陸軍総司令官の山縣有朋からの自決を勧める書状にも西郷は返事をしませんでした。

こうして、9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まりました。このとき西郷とその側近の将士40余名は籠もっていた洞窟の前に整列し、ここから岩崎谷と呼ばれる谷を下って、500mほど東へ離れた地に進撃しました。

この進撃に際しては、側近たちの多くが弾丸に倒れ、傷ついた者は自刃しました。最後に西郷らがいたのは、島津家の家臣と思われる、「島津応吉久能」という人物の邸宅だったようです。調べてみましたが、どんな人物かどんな邸宅だったかはよくわかりません。が、敵の弾を避けるだけの構えのある、豪壮な邸宅だったと推察されます。

この島津邸の門前で西郷も股と腹に被弾しました。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた側近の別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼しました。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯しました。

その後別府晋介もその場で切腹しました。西郷の切腹を見守っていた桐野利秋ほかの側近たちも敵陣に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死しました。そして、午前9時頃、すべての銃声は止みました。

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この西南戦争は、士族の特権確保という初期の目的を達成出来なかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、無産階級(プロレタリアート)を増加させました。

しかし、その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となりました。結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになりましたが、貧富の格差は拡大しました。

また、官僚制が確立し、内務省主導の政治体制が始まりました。士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させるとともに、士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着しました。

西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まり、西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになりました。結果、太平洋戦争による敗戦まで続く軍国主義へと日本は邁進していくことになります。

ところで、冒頭で述べたとおり、この戦争では、両軍合わせて13,000人以上の死者が出るとともに、それ以上の多数の負傷者が出ましたが、これを救護するためには、この当時発足したばかりの日本赤十字社の前身である「博愛社」が活躍しました。

西南戦争で政府軍と薩軍が激戦を交わす最中の5月に創立されたばかりであり、この当時の標章は日の丸の下に赤線一本でした。現在のようにレッドクロスになるのは、ジュネーブ条約に加入した明治20年からになります。このときはまだ、未加入であったため、赤い十字と類似の記号を用いることを避けて暫定的標章を使うことにしたようです。

標章案としては、赤ではなく別の色のクロスにする、という案もあったようですが、その検討の過程で、キリスト教を嫌っていた三条実美太政大臣の「耶蘇のしるしじゃ」の一言で一本線になったと伝承されています。

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また、この博愛社の活動とは別に、熊本の医師・「鳩野宗巴(はとのそうは)が敵味方なく治療を行いました。この鳩野宗巴というのは、初代から10代まで、世襲によって代々同じ名を受け継いで活動していた医師の家系で、この西南戦争で活躍したのは第8代の鳩野宗巴です。

初代の宗巴は、寛永18年(1641年)、肥後長崎に生まれました。先祖は姓を中島といい、長州毛利家に仕えた武士でしたが、家督相続の処理に不平を抱き長州を離れ、浪人として肥前長崎で生活するようになり、そのなかで初代の宗巴が生まれました。

この初代宗巴は、幼いころから出島のオランダ館に出入りしていたといい、ここで海外の事情、特に西洋の医学が大いに進んでいることを知りました。「解体新書」よりも約100年早い、まだ鎖国中の万治年間(1658~1660年)に、密かにオランダ船に紛れ込んでオランダに渡り、5年間医学などを学んで帰国しました。

このとき、密航の犯跡をくらますために出島にとどまり、オランダ人の医師、カスパル、アルマンスの二人のもとでさらに研鑽を重ねました。この間、肥後細川藩主の飼い鳩を治療したことから、「鳩の医者」の称号がつき、君命によって姓を「鳩野」に改めたと伝えられています。その後、大阪に移り開業し名をなし、細川侯から厚遇を受けました。

第二代宗巴のとき、肥後に移り、以来代々「宗巴」を襲名し、中でも7代宗巴は豊後竹田にて華岡門下の十哲といわれた植村文建の門に入り、華岡流外科を学びました。

熊本では広大な医院(活人堂)や病室(養生軒)、医師養成の家塾(亦楽舎・えきらくしゃ)を建てて、診療を行いました。また多くの弟子を持ち、彼等の医師として育てるための教育にも力を尽くしました。

西南戦争に関わった8代宗巴は1844年(天保15年)、熊本城下で生まれ、19歳でこの世襲制の鳩野家の家督を継ぎました。25歳のとき、藩命で上野戦争に参加し、熊本一番隊医長として、横浜の軍事病院で薩長土3藩の負傷兵300人の治療を担当しました。このときの功績により宗巴は熊本藩より白銀3枚賞与を受けています。

34歳のとき、西南戦争に巻き込まれました。熊本城での戦闘が勃発した際、熊本士族の薩軍幹部より、病院を設けて治療に従事しろ、との強要を受けたのがことの発端です。

このとき宗巴は「あなた方の負傷者は実にお気の毒だが、官軍の負傷者にも手が届かずいる者が多いので、あなた方だけの治療をするわけにはいかない。また、軍人だけでなく、戦争の余波で負傷した普通人も少なくない。医は仁術であるので、官薩民隔たりなく負傷者の治療をしろ、というのなら応じましょう」と答え、薩軍側もこれを承服したといいます。

宗巴はさっそく同僚の藩医とともに、仮病院を開いて治療にあたりましたが、傷者はたちまち200人に及んだため、急きょ近隣の学校、寺院や民家41戸を借り上げて病室としました。

この医療活動は皆自費で行われといい、近隣の婦人達が競って看護に協力し、初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われました。こうした活動は、5月27日に熊本で設立された博愛社よりも、94日早い2月23日だったため、日本の組織的赤十字活動は宗巴によって始められたともいわれています。

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戦後もその慈善活動は継続され、明治25年には、熊本貧児寮(現・社会福祉法人大江学園の前身)が設立されると、宗巴は進んで施設医(内科外科)となり、その後20年に渡って報酬を受けずに働き続けました。また、先祖から受け継いでいた鳩野の家塾、亦楽舎も、明治14年の医療制度改革によって私塾廃止のやむなきに至るまで継続しました。

後輩の医師の養成にも力を尽くし、亦楽舎では天保10年に創立されてから明治14年に廃止されるまでの43年の間に、総数156名の医生が学びました。明治に流行した数え歌のなかで、「医者の名所は鳩野」と唄われるほどであり、九州日日新聞でも慈善家としての鳩野宗巴の記事が掲載されるなど、慈善事業家としての宗巴の名声は高いものでした。

この8代宗巴は、医業のほかにも、質屋を営業し、貧民のために無利息受出しをしていたそうで、公益のために義援金を投じることも少なくなかったといいます。往診で出されたお菓子を包んで帰り道で貧しい家庭の子供に与える、といったことも日常的にしていたようです。

また、日清戦争の後に行われた招魂祭では、軍人と共に戦死した馬も、等しく君国のために倒れたのだからと、独力で近隣の寺の境内に馬の碑を建立したそうです。

しかし、60歳ごろから中風症を煩い、1917年(大正6年)3月に74歳で没しました。墓は熊本市横手町の妙永寺にあります。

8代宗巴を継いだ、9代の宗巴も父の業を継いで活躍しましたが、昭和20年に67歳で没しました。墓は熊本市高麗門妙永寺にあります。

また、8代宗巴の二男、長世は大正12年に分家して、熊本市内の辛島町に鳩野医院を開業しましたが、昭和44年に没しました。本家9代宗巴の後は、その長世の子、長光が昭和21年の10代宗巴を継いで医業に励みましたが、こちらは昭和40年に没しました。

鳩野家はこの10代宗巴を最後に医系としては絶えることになります。

歴代の宗巴のうち、西南戦争を機に最も活躍したとされる8代宗巴は、1977年、熊本県近代文化功労者として表彰されています。

遺訓は、次のとおりです。

「世は名利に馳せ、医も亦これを学ぶ傾向あるは、はなはだ患うべし」
「医は素より仁恤をもって天職とする。故にかりそめにも其の天職を忘却するが如きはもっての外の癖事なり。」

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戦後日本のパラダイムシフト

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明日15日は終戦記念日です。

日本政府は、海外で戦争に従事した引揚者に対して、給付金の対象となる期間を定める関係から、昭和42年(1967年)より8月15日を「終戦日」としており、1965年(昭和40年)からは政府主催で毎年この日に「全国戦没者追悼式」を行うようになりました。

ただし、これより以前にも散発的に追悼式典は行われており、一番最初の追悼式典は1952年(昭和27年)5月2日に、新宿御苑で政府主催で昭和天皇・香淳皇后の臨席のもとで行われています。また、1959年(昭和34年)3月28日には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、その竣工式と併せて厚生省の主催で実施2回目の式典が行われました。

その後、閣議決定で毎年追悼式典が行われることが決まり、1963年(昭和38年)には8月15日に初めて式典が行われました。この第3回式典の会場は、日比谷公会堂でした。また、翌年の1964年(昭和39年)8月15日には今度は靖国神社で第4回式典が開催されました。

現在のように日本武道館で行われるようになったのは、翌1965年(昭和40年)8月15日の第5回式典からであり、以後、毎年この日に武道館で式典が行われています。追悼の対象は二次大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人です。

毎年、この式典の式場正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれ、これがテレビで放映されるのが印象的です。一般にもこの日が、終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・NPO等による平和集会が開かれます。

しかし、日本において第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))が「終結した」とされる日については8月15日以外にも諸説あり、主なものは以下のとおりです。

1945年(昭和20年)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
1945年(昭和20年)8月15日:玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表された日。
1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。
1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日(ただし、連合国による条約“締結日”は、1951年9月8日)。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれています。

また、国内新聞各社はかつて、東京湾東部(中の瀬水道中央部、千葉県寄りの海域)に停泊する米戦艦、ミズーリ号の甲板上でポツダム宣言受諾の調印式が行われた9月2日を、「降伏の日」や「降伏記念日」、「敗戦記念日」と呼んでいました。

しかし、上述のとおり昭和42年(1967年)に「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」が定められてからは、法律的には8月15日を「終戦日」と呼ぶようになりました。

以後、小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史分野)の多くも、「終戦の日」を8月14日か8月15日と記すようになり、9月2日については単にミズーリ号上での降伏文書調印式に触れるだけで、「降伏記念日」には言及しないことも多くなりました。

またサンフランシスコ講和条約については、締結日の1951年9月8日について言及している教科書が多いものの、実際の日本での発効日、1952年4月28日については、記載されることが少なくなっています。

ところが、高等学校日本史教科書の多くは、9月2日を「終戦の日」として記載するものが多くなっており、その一方で、8月14日は「ポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日」、8月15日は「戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日」とより具体的に記されています。が、この日は「終戦の日」とは記していない場合が多いようです。

これはおそらく、小中学生には終戦の日の議論は難しすぎるので、お盆期間でもある8月15日を終戦の日として印象付けたほうがより理解が深まる、と考えたからだと思われ、一方、高校では、戦争終結日に対して、より突っ込んだ議論をさせたい、あるいは戦争についてより深い理解ができる年齢に達している、と考えたためではないかと思われます。

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このように、一口に終戦の日、といっても解釈はまちまちです。が、最大公約数的には、1952年のサンフランシスコ平和条約が発効した日、4月28日が戦争に対して一応の区切りがついた日と考えることができるでしょう。日本が国際社会に復帰した日でもあり、すなわち「日本の主権回復の日」であるわけです。

戦争の相手国であった「連合国各国」と日本国との平和条約が発効した日でもあり、この日を境にGHQの占領も終わりました。その正式名称もGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP) であり、これは、「“連合国”最高司令官総司令部」と日本語訳されます。

しかし、「連合国」とはいえ、複数の国が駐留していたわけではなく、連合国軍の1国にすぎないアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官 (SCAP)として就任し、その総司令部が東京に設置されていました。

4月28日以降、便宜上このGHQとしてのアメリカ軍部隊は去り、日本とアメリカの間で締結された「安全保障条約」に基づき「在日米軍」に衣替えしました。つまり、そうした意味では、この日以降日本の「戦後」が始まったといえます。

それでは、この年1952年(昭和27年)の4月以降、日本にはどんなことが起こったでしょうか。

「血のメーデー事件」は、この年の5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、学生を中心としたデモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件です。この事件は全学連と左翼系青年団体員らの一部左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られており、この学生運動では戦後初の死者を出しため、「血の」と称されました。

GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(皇居前広場)の開放」を決議していました。

この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向いました。

その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込みました。これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じました。

乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めました。

応援の予備隊が到着して警察側の総数は約2,500名となりましたが、一方のデモ隊も数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなります。警察部隊は催涙弾を使用しましたが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めました。

この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石しました。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させました。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となりました。

その結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及びました。

この事件では、デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴され、うち16名が暴力行為等の有罪判決を受けました。

さらにこのあとの5月9日には、警官隊、早大の警官パトロール抗議集会に突入して学生ら100人以上負傷した「早大事件」が起こっており、この血のメーデー事件の余波と考えられています。

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年表をみると、この1952年にはこの後も、5月26日に高田事件(愛知県名古屋市瑞穂区)、5月30日・大梶南事件(宮城県仙台市の大梶南地区)、6月5日・万来町事件(山口県宇部市)、6月24日・吹田事件(大阪府吹田市・豊中市)、同日・枚方事件(大阪府枚方市)、7月6日・大須事件(に愛知県名古屋市中区大須)と次々に事件が起こっています。

実はこれらはすべて在日コリアンがらみの争乱事件です。

この背景には、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発したことがあります。この戦争では、当初戦況はソビエト連邦が支援する北朝鮮が優位でしたが、韓国軍とそれを支援するアメリカ軍やイギリス軍などを中心とした国連軍による仁川上陸作戦で戦局が一変し、逆に韓国優位となり、韓国軍と国連軍の一部は鴨緑江に到達しました。

ところが、今度は急遽参戦した中国人民志願軍によって38度線に押し戻され、一進一退の膠着状態が続くようになりました。当時の日本は、連合国軍の占領下にあり、朝鮮戦争に国連軍の1国として参戦していたアメリカ軍は日本を兵站基地として朝鮮半島への軍事作戦を展開していました。

またアメリカ政府は、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の日本での訓練を要請しました。首相の吉田茂は「これに協力することはきわめて当然」と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始しました。

こうした動きに対して、北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で反米・反戦運動を起こすようになりました。但し、その後次々と起った事件の首謀者がすべてが朝鮮人というわけではなく、また必ずしも北朝鮮支持者というわけでもありませんが、こうして次々と争乱が起こった背景には朝鮮戦争への日本の間接的な参加がありました。

また、この当時、武装闘争路線を掲げていた日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調しており、この二者がこうした争乱においてタッグを組むことも多くありました。

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これら一連の事件の中でも最大規模だったのが、「吹田事件」です。この舞台となった大阪大学豊中キャンパス周辺にはアメリカ軍の刀根山キャンプがあり、アメリカ軍兵士が駐留していていました。また吹田市では国鉄吹田操車場から連日、国連軍への支援物資を乗せた貨物列車が編成されていました。

1952年6月24日夕方、阪大豊中キャンパスで「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催され、学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加しました。

集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などのアピールが採択され、集会終了後、国連軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場までデモを行うことになりました。

このデモ隊は、翌25日未明から西国街道経由で箕面へ向かい、吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、服部駅から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動しましたが、このうちの山越部隊が、途中にあった笹川良一宅に「ファシスト打倒」と称して投石したり、国鉄労働組合の中野新太郎邸の障子を破ったりしました。

一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入りました、最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要しました。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになり、電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、午前5時ごろ山越部隊との合流を果たしました。

合流後、デモ隊は南下し摂津市千里丘の須佐之男命神社に到着。神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていましたが、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、暴力で警備線を突破しました。

デモ隊はさらに暴徒化し、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負いました。また午前7時ごろ茨木市警察の軽装甲機動車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げ、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負いました。

この後も、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などし、その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となりました。ところが、解散したデモ参加者らが大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとしたところへ30人の警察官が追いつき、解散した(元)デモ隊と衝突しました。

これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出ました。この際に警官が発砲しデモ隊の4人が重傷を負いました。のちに列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市もこれを承認しています。

この事件における裁判では、吹田事件弁護団は後に保守系の吹田市長となった山本治雄を主任弁護士として結成され、弁護団には国会議員をしていた弁護士の加藤充や亀田得治らも加わり、国会でも吹田事件を取り上げて警察などによる「弾圧」の不当性を訴えました。

この結果、1963年6月の第一審判決で裁判所は騒擾罪の成立を認めませんでした。検察は111人の被告人のうち47人を起訴していましたが、その後行われた1968年7月の第二審判決でも一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となっただけで、騒擾罪の無罪は変わりませんでした。

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さらに、1952年7月6に起こった「大須事件」は、先の「血のメーデー事件」とこの「吹田事件」と並んで「三大騒擾事件」とされています。愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件で、中華人民共和国の北京で日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の「帆足計」と改進党の「宮越喜助」の両代議士が帰国し、この日に名古屋駅に到着した際に起こりました。

両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行しましたが、これは名古屋市警察によってすぐに解散させられました。しかし、その際12人が検挙され、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚しました。

このため、翌日の1952年7月7日(月曜日)に、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させました。午後2時頃から、会場の大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行されました。

集会は夜の午後9時50分まで行われ、これが終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めました。警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、果たしてデモ隊は放送車に向かって(予定通り)火炎瓶を投げ込み炎上させました。

警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行しましたが、デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥りました。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生しています。

この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷しました。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙しました。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である「祖国防衛隊」とも連携しながら実行に移されたことが判明しました。

名古屋地方検察庁は騒乱罪等を適用し、152人を起訴し、裁判は当初の予想よりも長期化しましたが、1978年9月、最高裁判所は上告を棄却し、有罪が確定しました。

なお、これに先立つ6月2日には、「菅生事件」が起こっていますが、この事件には朝鮮人は関与していません。大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件とされます。

犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件でしたが、この事件が起こった背景には、この年頻繁におきた多くの動乱に関与し、背後で操っていたのが日本共産党である、と警察がみなしていた、ということがあります。

日本共産党は党内の過激派である「所感派」が1950年に武装闘争方針を採り、農村に「山村工作隊」を組織。左右の対立が先鋭化する中、この6月の菅生事件までに白鳥事件(1月21日)、青梅事件(2月19日)、辰野事件(4月30日)などを発生させており、この当時は現在では考えられないほど「活動的」な党派でした。

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こうした動乱の歴史的な意味はさておき、このように、「日本の主権回復の日」である、4月28日以降の1952年は、大荒れで日々が過ぎゆく、といった感じであり、波乱に満ち満ちた「戦後」の始まりでした。しかし、こうした、騒ぎは7月以降は沈静化していきました。そして、1952年8月28日には第3次吉田内閣下での衆議院の解散が行われました。

これ以前の1946年には、GHQ統治下のもと、第1次吉田内閣が誕生しました。その後、第2次、第3次吉田内閣が発足しますが、1951年に、サンフランシスコ講和条約締結によってGHQの占領が終了すると、GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが追放を解除され、これによって鳩山を支持する鳩山系議員が吉田茂首相の辞任を要求しました。

このころから政局は混乱するようになり、吉田派の派内では「広川弘禅」と「増田甲子七」の派内抗争が発生。1952年7月、吉田は自由党幹事長ポストを、増田から自身の側近であった1年生議員の福永健司に指名し、議員総会において抜き打ちでその指名を敢行しようとします。ところが、反対派が激しく抵抗し失敗に終わります。

吉田は、このような事態を打開するために、8月28日に不意をつく形で解散を断行しました。この解散は、池田勇人蔵相、岡崎勝男外相、佐藤栄作郵政相、保利茂官房長官、党内の松野などを中心に側近集団のみで決定されました。

いわゆる「抜き打ち解散」であり、この解散は、自派では密かに選挙の準備を進めておき、準備の整っていない鳩山派に打撃を与えようという目的で行われたものでした。

このときの衆議院議長は、8月26日に議長に就任したばかりの大野伴睦でしたが、わずか2日後に衆議院解散が行われたため、在職期間わずか3日間で議長失職となりました。

大野は第一次吉田内閣発足のころから、吉田茂のお目付け役として幹事長に就任するなど党内の実力派でしたが、その後の10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後に吉田によるバカヤロー解散が行われたため、このときも議長を長く務めることはありませんでした。

この解散を受けて、10月1日に第25回衆議院議員総選挙が行われ、466議席中、自由党吉田派199議席、自由党鳩山派35議席という結果となり、自由党そのものは大きく議席を減らしました。

そして、新たに発足したこの第4次吉田内閣による政府下で、10月25日、「ポツダム命令」が完全に廃止されました。

ポツダム命令とは、第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で、GHQ最高司令官の発する要求事項があった場合には、日本の法律よりも優先して、その要求事項が実施されるように、日本政府が便宜を図る、とされるものです。

一応、日本政府が命令する、という形をとりますが、日本の政府が定めた法律を飛び越して頭ごなしにGHQの命令がまかり通るよう、その要求事項を無条件に受け入れるよう定めたものであり、罰則も可でした。

ポツダム命令により定められた事項は多岐にわたりますが、占領初期にはこのポツダム命令は「非軍事化・民主化」政策の推進という役割を果たしました。

GHQは、昭和21年(1946年)にこのポツダム命令のひとつである、「公職追放令」を出しましたが、これにより戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われるとともに、戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象となり、こうした財閥関係者には大きな打撃となりました。

その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となりました。また、公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返りました。

しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまいます。

逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰しました。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されましたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多くありました。

その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、中国の国共内戦における中国共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(いわゆる「逆コース」)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わりました。

逆の見方をすれば、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた、ということになり、これを「レッドパージ」と呼びます。1万を超える人々が失職し、「赤狩り」とも呼ばれました。

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こうした労働運動や社会主義運動の取締りの役割を果たして行くようになったのがポツダム命令であり、「公職追放令」がこれに含まれていた他、「政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件」や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが含まれていました。

このポツダム命令は、上述のサンフランシスコ講和条約が発効する、4月28日には廃止される予定であり、GHQはその条約の発効が近づくと、行き過ぎた占領政策の見直しが図られました。

その一環として、1951年5月にマシュー・リッジウェイ司令官は、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めました。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われました。

そして、昭和27年(1952年)4月28日、ついにサンフランシスコ平和条約が発効(1952年)し、と同時にポツダム命令は廃止され、「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」が発布されて、公職追放令も廃止されました。

上でこの年の5月以降の多くの争乱、動乱について長々と書き連ねましたが、これら動乱の発生は、こうした公職追放令や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが廃止されてすぐから発生しており、ポツダム命令の廃止と無縁ではないことがわかります。

こうしたポツダム命令の多くは、サンフランシスコ講和条約の発効に伴って、「日本の主権回復」がなされた4月28日に廃止されましたが、ただし、その後の混乱を避けるため、必要なものは条約発効の日から「180日間限り」で廃止される、という決まりになっていました。

日本政府としても、こうしたGHQが定めたいくつかの命令は、その後も社会主義運動などを取り締まる上で便利だったため、この間に引き続き新たに代替の法律を制定したり、法律としての効力を有するように存続措置がとられました。

しかし、180日が過ぎた10月25日にその残ったポツダム命令も完全廃止されたことから、これにより、GHQからの縛りだ、という言い訳は通用しなくなり、これらの法律のゴリ押しはできにくくなりました。こうしてポツダム宣言という過去の亡霊の影響も受けることなく、日本は完全に自由になり、国際法的にも日本は完全独立した、というわけです。

従って、本当の意味での日本の終戦は、平和条約が発効してポツダム命令が完全廃止された、1952年10月25日である、ということがいえるのかもしれません。

ただし、このとき、ポツダム命令を完全に日本の法律・政令・省令に代えてしまったものの中には今も効力を持って存続しているものもあります。

・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……
・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く運輸省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……(その他多数)

といった「ポツダム宣言の……」という文々が含まれている法律がそれであり、法令番号は制定時のものがそのまま付されることになっています。

無論、日本国の法律としての効力を持っており、連合国から何ら干渉を受けることはないものですが、いまだにポツダム宣言の名残がここにある、というのは何やら悩ましい限りであり、日本の戦後はまだ続いているのか、と思わせるようでいやな感じです。

とはいえ、この10月25日をもってひとまず日本は、「いまだ戦時中」という呪縛からは完全に解き放たれることとなりました。

この年は動乱争乱のような暗い話題ばかりではなく、5月19日には、白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになるなど明るい話題も増えました。

1月23日には、国会中継の放送がスタート、3月31日には日本文化放送協会(現在の文化放送)開局、4月1日には、硬貨式の公衆電話が登場、7月29日、日本のアマチュア無線が再開(全国の30人に戦後初のアマチュア無線局予備免許発給)など、国内の通信網がようやく正常化した感のある年でもあります。

また、4月18日・西ドイツの間に国交樹立、5月15日・イスラエルの間に国交樹立、7月19日~8月3日・日本代表がベルリンオリンピック以来16年ぶりにヘルシンキオリンピック(夏季大会)に参加、8月13・国際通貨基金 (IMF) に加盟、といったふうに徐々に日本の国際社会への復帰が始まった年でもあります。

その後1950年代は、冷戦構造の固定した時代として位置づけられるようになっていきます。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになりましたが、これは日本も同じです。都市近郊には郊外住宅が発達し、政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視されました。

こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつきました。また、世界的にみれば、朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍拡競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こりました。そしてこの緊張は日本にもおよび、政治的な保守化につながっていきました。

1960年代は、日本ではいわゆる「高度成長期」となり、著しい高度経済成長を経験しました。以後、1970年代の「成長期」、1980年代の「最盛期」を踏まえ、1990年代ついにはバブルがはじけて、「衰退期」に入りました。その後2000年代は「成熟期」という見方もありますが、衰退期の延長とみなす人も多いようです。

2010年代をどう呼称するか、についてはまだその途上にあるため、なんともいえませんが、東日本大震災からの復興も含めて、早くもこの時代を「再生期」とする人も多いようです。が、これが正しいかどうかはまだわかりません。

ただ、日本の主権が回復し、戦後復興が始まった1950年代と今のこの2010年代が似ている、という人もおり、そうだとするならば、これからの日本は再び高度成長を遂げ、再び絶頂期を迎えることになります。

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パラダイムシフト(paradigm shift)というのがあります。その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することを言います。こうした「再生」の時期にこうしたパラダイムシフトが起こると時代は面白くなるし、かつ起こりやすいともいわれるようです。

広義でのパラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるため、厳密な定義は特になく「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」、「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイディアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われています。

人が物を見る時には、ある種のレンズのような物(パラダイム)が存在し、それが認識、理解、解釈、行動、態度を決めています。従って、そのパラダイムを転換させることにより、自分のあり方を大きく変えることができます。

「妻と義母」というだまし絵(隠し絵)を見たことがある人も多いでしょう。1枚の絵が、画面奥に顔を向けている若い女性、あるいは横顔を見せている老いた女性のどちらにも見えるというものです。19世紀からある古いもので作者は不詳ですが、これはパラダイムシフトの例として、良くとりあげられます。

このほかパラダイムシフトの例としては、「天動説」があげられます。旧パラダイム(天動説)が支配的な時代は、多くの人(科学者)がその前提の下に問題解決(研究)を行い、一定の成果を上げますが、その前提では解決できない例外的な問題(惑星の動きがおかしい)が登場します。

このような問題が累積すると、異端とされる考え方の中に問題解決のために有効なものが現れ、解決事例が増えていくことになります。そしてある時期に、新パラダイム(地動説)を拠り所にする人(科学者)の数が増えて、それを前提にした問題解決(研究)が多く行われるようになり、以後、歴史的にみても以上の動きが繰り返される、というものです。

こうしたパラダイムシフトの例としては、ほかにも相対性理論(アインシュタイン)があり、また進化論(ダーウィン)もそのひとつです。日本では、織豊政権・江戸幕府による、武士の在地領主から大名直属の軍団・官僚への転換が、過去における大きなパラダイムシフトだったといわれています。

大日本帝国憲法が日本国憲法に全面改訂されたことによる大日本帝国の体制消滅と日本国の成立も近代におけるパラダイムシフトです。また今日、これまで述べてきたような第二次世界大戦という経験とそれに伴う「終戦の日」にかかる様々な出来事も、歴史的なパラダイムシフトであったことは間違いないでしょう。

2010年代に、さらにどんなパラダイムシフトが現れるか楽しみではあります。が、同時に昨今の日本の右傾化をみていると、なにやら空恐ろしいかんじがしないでもありません。

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