西南戦争のこと

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昨日の彼岸の中日を境に、秋が深まっていく感じがします。

暑さ寒さも彼岸までといいますが、一夜明けた今朝のこの山の上はかなり気温が下がり、20度を切りました。

彼岸明けは、26日なので、お墓参りにまだこれから行くという人も多いでしょう。我が家では先祖代々の墓は金沢にあるので、さすがにお参りには行けません。こちらで手を合わせただけで、済まさせていただきます。

かの西南戦争では、このお彼岸の時期に終結しました。現在に至るまで、「最後の内戦」とされるこの戦争では、官軍の死者は6,403人、西郷軍の死者は6,765人にも及んでおり、その英霊たちの供養もまた、このお彼岸の時期に各地でなされていることでしょう。

明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、西南の役とも呼ばれるこの戦争について語ると長くなります。なので、ここでその詳細を書くつもりはありません。

が、その始まりと終わりの部分についてだけ、ざっと整理してみましょう。

この戦争は一言で言えば、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。1877年(明治10年)の下旬に熊本城で始まった戦いは、熊本県内だけに収まらず、その後、宮崎県・大分県へとその激戦地を移しながら、鹿児島県で終わりを告げました。

事の発端は、明治政6年の政変で下野した西郷が、1874年(明治7年)に、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設したことです。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することでしたが、同時に外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していました。

このため、この学校では外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させるなど、積極的に西欧文化を取り入れていました。が、やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していきました。

一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月に廃刀令、同年8月にも「金禄公債証書発行条例」を発布しました。これは、秩禄処分(ちつろくしょぶん)ともいわれるもので、旧来の「禄」つまり、江戸幕府の賃金体制を全廃する、というものでした。

この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせました。これが契機となり、同年10月に熊本県での「神風連の乱」や福岡県の「秋月の乱」、さらに山口県では「萩の乱」が起こりました。

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下野後、現在も指宿市にある鰻池湖畔の鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、心を揺り動かされます。西郷の真意は明治政府に自分の主義主張を認めさせるために何が何でも武力で押し通す、といった好戦的なものではなかったと言われています。

しかし、自分が育て上げた私学校の卒業生や維新に至るまでに西郷を慕い、側近となっていた面々に担ぎ上げられた、とするのが定説です。

一方では、この決起は、この当時日本へ触手を伸ばそうとしてきていた、ロシアのための防御・外征を意味していたという説があり、自らが育てた軍でもって中央政府にも対ロシア戦への奮起を促したかったのだ、ともいわれているようです。

また、西郷は、1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって提唱された、武力をもって朝鮮を開国しようとするいわゆる「征韓論」にも熱心でした。

しかし、西郷ら不平不満士族を中心とするこうした「強兵」重視路線は、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた格好となり、それに対する不満や反発が彼等の中に生まれました。西郷自信の心中にも同様の不満が全く無かったとはいえないでしょう。

とはいえ、「人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである」といったことを信条にするほど、国家の安泰ということを望んでいた人です。どうしてこうした暴挙に出たかについては、その真意はいまもって謎とされ、多くの学者や研究者の間で議論があるようです。

とまれ、そうした西郷が本当に築きたかった国家がどういうものであるかを理解することなく、鹿児島においては、私学校党による県政の掌握が進み、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする雰囲気も蔓延していきました。

こうした動きを見ていた、中央政府の面々のうち、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派はとくにこの鹿児島の動きに敏感でした。そして木戸は「鹿児島県政改革案」を提案するに至り、1876年(明治9年)に、薩摩藩出身の内務卿、大久保利通に対して、これを受諾させました。

こうして、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされることになりましたが、この改革案は、この時の鹿児島権令(県令)、大山綱良の猛反発を受けました。この当時、明治新政府では廃藩置県後に旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるということとしていました。

ところが、大山は薩摩出身であり、同国人が鹿児島県令になるのは、この廃藩置県の原則に反する特例措置でした。大山は、西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けるようになりました。

県令を拝したあとは、鹿児島県は新政府に租税を納めようとしなくなり、私学校党を県官吏に取り立てるなどしたため、鹿児島はあたかも独立国家の様相を呈するようになりました。この大山の暴発に加え、上述の萩の乱ほかの地方の乱の発生により、結局、木戸が提案した「鹿児島県政改革案」はその大部分が実行不可能となりました。

ちなみに、大山はその後鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供するなど官軍に敵対する動きを見せましたが、西郷軍の敗北後は、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首されています。享年53。

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しかし、実際に実行された対鹿児島策もありました。その1つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視である川路利良が「中原尚雄」以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことです。これに対し、私学校徒達は中原などの大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していました。

また、新政府は、このころ、赤龍丸を持つ三菱会社に命じて、薩摩藩が一朝に緩急ある時のために藩士からの醵出金を集めて備蓄していた兵器・弾薬を大阪に運び出そうとしました。鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬がそれで、この中には当時の陸軍が主力装備としていた最新鋭のスナイドル銃などが含まれていました。

やがて彼等は警視庁帰藩組の内偵を行った結果、彼等の帰郷が西郷暗殺を目的としている、という事実を掴みます。私学校幹部らは善後策を話し合いますが、当の本人の西郷は、このときはまだ戦をするつもりなどは全くなく、大隅半島の南部の根占(ねじめ)で猟をしていました。

しかし、この暗殺計画の事実とともに、政府による弾薬掠奪事件の顛末を、私学校幹部が派遣した使者から聞いた西郷は、「ちょしもたー(しまった)」との言葉を発し、暗殺計画の噂で沸騰する私学校徒に対処するため鹿児島へ帰りました。

帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼっていました。血気に逸る私学校党は、ついに中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問がおこなわれた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」がとられました。

この話を聞いた多くの私学校徒は激昂して暴発状態となりました。根占から帰った西郷は幹部たちを従え、私学校本校に入り、ここに私学校幹部及び分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われました。

この会議においては、武装蜂起と政府との対話の両論が出ましたが、このほかにも諸策百出して紛糾しました。が、座長格の私学校幹部、篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、また長年西郷につき従ってきた側近中の側近、桐野利秋が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得ました。

また、どのルートで東征に向かうかについては、数案が出されましたが、結局「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用されました。

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こうして、一番~五番大隊からなるおよそ14000名の部隊が編成され、2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による閲兵式が行われました。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発しましたが、これがその後、8ヵ月に及ぶ西南の役の始まりでした。

これに対して政府側は、西郷軍が熊本城下に着かないうちにすでに天皇から征討の詔を得ており、西郷軍の邀撃(ようげき)に動き出していました。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を得たのが2月19日でした。

西郷軍が動き出してわずか4日目のことであり、彼らが熊本城を包囲する2日前でした。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかります。熊本城は熊本鎮台司令長官で、元土佐藩士、谷干城(たてき)の指揮の下、4000人の籠城で西郷軍の攻撃に耐え、ついに撃退に成功しました。

なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったといいます。しかし、熊本城はこのとき、原因不明の出火で大小天守などの建物を焼失しました。が、現在国宝になっている天守などの多くが焼け残りました。

薩軍はその後、九州各地で政府軍と戦いましたが、上述のように最新式の銃はなく、装備の劣った小銃と少ない大砲で堅城に立て籠もる政府軍と戦うという、無謀この上もない作戦を採用せざるを得なくなりました。これに対して、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する政府鎮台側は圧倒的に有利でした。

また剽悍な士の多くが、熊本城ほかのこうした攻城戦で消耗していきました。しかし、全般的に戦いはこう着状況が続き、4月になり春となっても終結せず、さらに7月、8月と夏になっても各地で激戦が続きました。ただ、兵力と武器の双方の不足に悩む西郷軍は次第に本拠である鹿児島に追い詰められていきました。

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9月1日、西郷らは鹿児島入りすると、私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は、錦江湾西部(桜島の対岸)にある城山を中心に布陣しました。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなりました。

この城山というのは、鹿児島城下の高台にあり、現在公園になっており、私も行ったことがあります。その展望台からは、桜島をはじめ錦江湾と鹿児島市街地を一望できます。その北端に洞窟があり、ここに西郷らは立て籠もりました。

しかし、3日には官軍が形勢を逆転して城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐し、6日までには城山包囲態勢を完成させました。その後、両軍の間には目立った交戦はなくにらみ合う形で20日ほどが過ぎました。

が、23日になって、海軍の総司令官の中将、川村純義からの降伏を勧める書状が届けられました。しかし、西郷はこれを無視し、また、陸軍総司令官の山縣有朋からの自決を勧める書状にも西郷は返事をしませんでした。

こうして、9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まりました。このとき西郷とその側近の将士40余名は籠もっていた洞窟の前に整列し、ここから岩崎谷と呼ばれる谷を下って、500mほど東へ離れた地に進撃しました。

この進撃に際しては、側近たちの多くが弾丸に倒れ、傷ついた者は自刃しました。最後に西郷らがいたのは、島津家の家臣と思われる、「島津応吉久能」という人物の邸宅だったようです。調べてみましたが、どんな人物かどんな邸宅だったかはよくわかりません。が、敵の弾を避けるだけの構えのある、豪壮な邸宅だったと推察されます。

この島津邸の門前で西郷も股と腹に被弾しました。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた側近の別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼しました。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯しました。

その後別府晋介もその場で切腹しました。西郷の切腹を見守っていた桐野利秋ほかの側近たちも敵陣に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死しました。そして、午前9時頃、すべての銃声は止みました。

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この西南戦争は、士族の特権確保という初期の目的を達成出来なかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、無産階級(プロレタリアート)を増加させました。

しかし、その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となりました。結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになりましたが、貧富の格差は拡大しました。

また、官僚制が確立し、内務省主導の政治体制が始まりました。士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させるとともに、士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着しました。

西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まり、西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになりました。結果、太平洋戦争による敗戦まで続く軍国主義へと日本は邁進していくことになります。

ところで、冒頭で述べたとおり、この戦争では、両軍合わせて13,000人以上の死者が出るとともに、それ以上の多数の負傷者が出ましたが、これを救護するためには、この当時発足したばかりの日本赤十字社の前身である「博愛社」が活躍しました。

西南戦争で政府軍と薩軍が激戦を交わす最中の5月に創立されたばかりであり、この当時の標章は日の丸の下に赤線一本でした。現在のようにレッドクロスになるのは、ジュネーブ条約に加入した明治20年からになります。このときはまだ、未加入であったため、赤い十字と類似の記号を用いることを避けて暫定的標章を使うことにしたようです。

標章案としては、赤ではなく別の色のクロスにする、という案もあったようですが、その検討の過程で、キリスト教を嫌っていた三条実美太政大臣の「耶蘇のしるしじゃ」の一言で一本線になったと伝承されています。

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また、この博愛社の活動とは別に、熊本の医師・「鳩野宗巴(はとのそうは)が敵味方なく治療を行いました。この鳩野宗巴というのは、初代から10代まで、世襲によって代々同じ名を受け継いで活動していた医師の家系で、この西南戦争で活躍したのは第8代の鳩野宗巴です。

初代の宗巴は、寛永18年(1641年)、肥後長崎に生まれました。先祖は姓を中島といい、長州毛利家に仕えた武士でしたが、家督相続の処理に不平を抱き長州を離れ、浪人として肥前長崎で生活するようになり、そのなかで初代の宗巴が生まれました。

この初代宗巴は、幼いころから出島のオランダ館に出入りしていたといい、ここで海外の事情、特に西洋の医学が大いに進んでいることを知りました。「解体新書」よりも約100年早い、まだ鎖国中の万治年間(1658~1660年)に、密かにオランダ船に紛れ込んでオランダに渡り、5年間医学などを学んで帰国しました。

このとき、密航の犯跡をくらますために出島にとどまり、オランダ人の医師、カスパル、アルマンスの二人のもとでさらに研鑽を重ねました。この間、肥後細川藩主の飼い鳩を治療したことから、「鳩の医者」の称号がつき、君命によって姓を「鳩野」に改めたと伝えられています。その後、大阪に移り開業し名をなし、細川侯から厚遇を受けました。

第二代宗巴のとき、肥後に移り、以来代々「宗巴」を襲名し、中でも7代宗巴は豊後竹田にて華岡門下の十哲といわれた植村文建の門に入り、華岡流外科を学びました。

熊本では広大な医院(活人堂)や病室(養生軒)、医師養成の家塾(亦楽舎・えきらくしゃ)を建てて、診療を行いました。また多くの弟子を持ち、彼等の医師として育てるための教育にも力を尽くしました。

西南戦争に関わった8代宗巴は1844年(天保15年)、熊本城下で生まれ、19歳でこの世襲制の鳩野家の家督を継ぎました。25歳のとき、藩命で上野戦争に参加し、熊本一番隊医長として、横浜の軍事病院で薩長土3藩の負傷兵300人の治療を担当しました。このときの功績により宗巴は熊本藩より白銀3枚賞与を受けています。

34歳のとき、西南戦争に巻き込まれました。熊本城での戦闘が勃発した際、熊本士族の薩軍幹部より、病院を設けて治療に従事しろ、との強要を受けたのがことの発端です。

このとき宗巴は「あなた方の負傷者は実にお気の毒だが、官軍の負傷者にも手が届かずいる者が多いので、あなた方だけの治療をするわけにはいかない。また、軍人だけでなく、戦争の余波で負傷した普通人も少なくない。医は仁術であるので、官薩民隔たりなく負傷者の治療をしろ、というのなら応じましょう」と答え、薩軍側もこれを承服したといいます。

宗巴はさっそく同僚の藩医とともに、仮病院を開いて治療にあたりましたが、傷者はたちまち200人に及んだため、急きょ近隣の学校、寺院や民家41戸を借り上げて病室としました。

この医療活動は皆自費で行われといい、近隣の婦人達が競って看護に協力し、初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われました。こうした活動は、5月27日に熊本で設立された博愛社よりも、94日早い2月23日だったため、日本の組織的赤十字活動は宗巴によって始められたともいわれています。

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戦後もその慈善活動は継続され、明治25年には、熊本貧児寮(現・社会福祉法人大江学園の前身)が設立されると、宗巴は進んで施設医(内科外科)となり、その後20年に渡って報酬を受けずに働き続けました。また、先祖から受け継いでいた鳩野の家塾、亦楽舎も、明治14年の医療制度改革によって私塾廃止のやむなきに至るまで継続しました。

後輩の医師の養成にも力を尽くし、亦楽舎では天保10年に創立されてから明治14年に廃止されるまでの43年の間に、総数156名の医生が学びました。明治に流行した数え歌のなかで、「医者の名所は鳩野」と唄われるほどであり、九州日日新聞でも慈善家としての鳩野宗巴の記事が掲載されるなど、慈善事業家としての宗巴の名声は高いものでした。

この8代宗巴は、医業のほかにも、質屋を営業し、貧民のために無利息受出しをしていたそうで、公益のために義援金を投じることも少なくなかったといいます。往診で出されたお菓子を包んで帰り道で貧しい家庭の子供に与える、といったことも日常的にしていたようです。

また、日清戦争の後に行われた招魂祭では、軍人と共に戦死した馬も、等しく君国のために倒れたのだからと、独力で近隣の寺の境内に馬の碑を建立したそうです。

しかし、60歳ごろから中風症を煩い、1917年(大正6年)3月に74歳で没しました。墓は熊本市横手町の妙永寺にあります。

8代宗巴を継いだ、9代の宗巴も父の業を継いで活躍しましたが、昭和20年に67歳で没しました。墓は熊本市高麗門妙永寺にあります。

また、8代宗巴の二男、長世は大正12年に分家して、熊本市内の辛島町に鳩野医院を開業しましたが、昭和44年に没しました。本家9代宗巴の後は、その長世の子、長光が昭和21年の10代宗巴を継いで医業に励みましたが、こちらは昭和40年に没しました。

鳩野家はこの10代宗巴を最後に医系としては絶えることになります。

歴代の宗巴のうち、西南戦争を機に最も活躍したとされる8代宗巴は、1977年、熊本県近代文化功労者として表彰されています。

遺訓は、次のとおりです。

「世は名利に馳せ、医も亦これを学ぶ傾向あるは、はなはだ患うべし」
「医は素より仁恤をもって天職とする。故にかりそめにも其の天職を忘却するが如きはもっての外の癖事なり。」

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