先々週の大雨といい、先週末の戦後最悪の法律の可決といい、どうもこの9月はかなり記憶に残りそうな月になりそうです。
さまざまな凄惨な事件も勃発しており、テレビをみるたびに、あ~またか、と少々暗い気持ちになってきます。
しかし、明るい出来事もあり、先日は、ラクビーで日本代表が優勝候補の南アフリカを破るという快挙もありました。この連休中は、全国的にお天気にも恵まれたようで、一歩外へ出てみれば、開かる日陽射しの中咲き乱れるヒガンバナと、どこからともなく匂うキンモクセイの香りに包まれて、うっとりとしてきそうです。
そんななか……明日はもうお彼岸、ということで、お墓詣りに行かれる方も多いことでしょう。が、連休中ということで、遠方に墓所がある人たちは、さぞかしその移動に苦労をされていることかと拝察いたします。
ここ伊豆も、天気がまずまずということもあり、あちこちで渋滞が起こっています。いつものことではあるのですが、ほかに観光地も多いのだから、もう少し分散してくれんかな、と思ったりもします。
しかし、風光明媚な海に山、数々のレジャースポットがあり、しかも東京、名古屋からもさほど遠くないこの地に観光客が集まるのはあたりまえで、そうしたところを住処に選んでしまった以上は仕方ないかな、とも思います。
その伊豆のジオパークへの登録も昨今話題になっています。残念ながら、今回鳥取市で開かれた国際会議では、議論を重ねたものの、結論が出ず、保留となりました。しかし、世界ジオパークネットワーク(GGN、本部パリ)は、「後日指示を送るので、早急に詳細な資料の追加を」と11月までの書類提出を日本お推進協議会協側に求めたそうです。
つまり、今回の決定は認可の却下ではなく、継続審議ということのようです。送った書類が彼等の期待するような内容ならば、早ければ11月中に認定の可否が再度決定される可能性があるといいます。
世界ジオパークの不認定には、保留のほか、再び現地審査が必要な場合と、地質自体が評価できず認定を却下される場合があるようです。が、今回は追加資料の提出のみが求められており、最も認定に近い評価だったといいます。早期の認定に期待したいと思います。
今回伊豆はジオパークに認定なりませんでしたが、同時に審査を受けたアポイ岳(北海道様似(さまに)町)は認定を受けました。これは、北海道南部、襟裳岬の少し西にある山です。日高山脈の西南端に位置し、一等三角点を持ち、標高は810.5mあります。
ウチのすぐ近くにある、金冠山という山が標高816mですからほぼ同じです。こちらは、昔の達磨山火山が浸食されてできた一峰ですが、アポイ岳も、地名の由来はアイヌ語の「アペ・オ・イ」(火のあるところ)だそうなので、昔は火山だったのかもしれません。
が、調べてみると違いました。そもそもアポイ岳を含む日高山脈は、約1300万年前に、北海道東側に広がる北米プレートが、その西側のユーラシアプレートに乗り上げてできました。その際、プレートとプレートの激しい衝突は、北米プレートの端っこをめくれ上がらせ、結果としてプレート端部を地表に表出させました。
文字に例えると、三→川、といった感じです。つまり、プレートの端っこが90度近くねじ曲がり、完全に上向きになってその断面が表出しました。これが隆起したまま残り、日高山脈になりました。そしてその一部が、アポイ岳になったというわけです。
アポイ岳を含む日高山脈には、このときのめくれ上がりによって、地質の異なる岩石が東西に順序良く横倒しで並んでいます。このような場所は世界的に見てもほとんどなく、地球内部の様子を知るうえでの貴重な学術標本といえます。しかも、このうちのアポイ岳の部分は、「かんらん岩」という特殊な地層でした。
「幌満橄欖岩(ほろまんかんらんがん)」と呼ばれているかんらん岩でできており、特殊なものです。そもそも、かんらん岩はマントル上部を構成する岩石の一つであり、そのほとんどが地下深くに存在するため、普段あまり我々が目にすることはありません。
地表で見られるものには、マグマ等が急激に上昇する際に引きずり込まれて「捕獲岩」として運ばれてきたものがあります。が、アポイ岳の場合は、プレートとプレートとのぶつかり合いによって地殻がまくれあがってマントル物質が地表に現れたものであり、非常に珍しいものです。
ちなみに、かんらん岩はより高圧な力がかかると、いわゆる「柘榴石」という宝石を含むかんらん岩となります。柘榴石は、いわゆる、「ガーネット」という宝石で、世界的にみても、西アルプス、ボヘミア、ノルウェーなど10ヵ所くらいで見つかっているにすぎません。
残念ながら、アポイ岳の、幌満かんらん岩には、ザクロ石そのものは入っていないようです。が、ザクロ石が周りの条件の変化に合わせて輝石やスピネルといった鉱物に分解してしまったあとが観察されているそうです。また、日高山脈の他の箇所では、実際にザクロ石が見つかっているそうです。
このアポイ岳は、こうした地質的な特徴以外にも、様々な豊かな自然を包括しており、1952年には、その高山植物帯が「アポイ岳高山植物群落」として国の特別天然記念物に指定されています。また、1981年には日高山脈襟裳国定公園の特別保護区となっています。「アポイ岳と高山植物群落」として日本の地質百選にも認定されているそうです。
標高が低いわりに、特殊な岩体のため森林が発達せず、「蛇紋岩植物」が生育する高山植物の宝庫としても有名であり、花の百名山となっているといいます。今回世界ジオパークにも登録されたことで、ハイカーなどの人気が出てきそうです。が、今後は、くれぐれもその豊かな自然が壊されないことを祈りたいところです。
ところで、このアポイ岳がある、様似町には、私も行ったことがあります。町内を流れる様似川の上流に、様似ダムというダムがあり、ここに魚道が設置されている、というので、このころ魚道の調査設計に関わる技師だった私も見学に行きました。
北海道にありがちなだだっ広いながらも簡素な町で、住んでいる方々には大変失礼かもしれませんが、少々寂しいかんじがします(何もないとは言いませんが)。人口は、5000人を切っており、現在4700人ほどです。
町名のサマニは、アイヌ語起源の地名です。語源については「サマムニ」または「サムンニ」(倒れ木)、エサマンペッ(カワウソの川)など諸説あり、はっきりしたことは分からないようです。
江戸時代(1600年ごろ)に砂金採取のために和人が多数移り住むようになり、その後、1906年(明治39年) 様似郡様似村を含む周辺村落が成立しました。1952年(昭和27年)、これらの周辺の村々を吸収して、町制が施行され、現在に至っています。
寂しい町と書きましたが、基幹産業は漁業で、昆布などが獲れるほか豊かな海の幸に恵まれた町です。また、稲作、酪農がさかんなほか、馬産などもおこなわれています。
その関係から、元JRA騎手で、JRA賞最優秀新人賞、NHK杯、G1タイトルなどを獲得した岡潤一郎(若くしてレースで事故死)、厳しい調教で数多くの名馬を生み出したJRA調教師の松田国英などを輩出しています。
このほか、函館大経(だいけい、またはひろつね)という明治の陸軍軍人を出しており、この人はのちに、北海道開拓使職員、北海道庁職員として馬の生産、馬術の普及に関わるようになりました。私的にも、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献し、現代では「伝説の馬術師」ともして言い伝えられるほどの人です。
1847年生まれといいますから、第14代将軍の徳川家茂が生まれた年であり、これより7年ほどのちのペリー来航前の「夜明け前」の時代の人です。武士の子だったようですが、貧しかったからか海産商・小野市右衛門の養子となり上京。昌平坂学問所において漢学を学びました。
明治政府誕生後は陸軍)に属し、1868年よりフランスの軍騎兵士官、ペルセルという人の下で馬術を習得。陸軍省兵学寮に所属していた1870年、東京招魂社例大祭において行われた天覧競馬において優れた乗馬技術を見せ、横浜レース・クラブ所属の外国人騎手とのマッチレースを制しました。
この活躍が明治天皇の目にとまったことがきっかけで、のちに開拓使、次いで北海道庁に採用され、馬の生産技術の向上に努めるとともに、持ち前の馬術の技を後人に伝えるようになりました。また、この出来事を境に名を「函館大経」と改めました。
「函館」という変わった姓は、明治天皇からの下賜品を辞退した際、代わりに函館姓を与えられた、という説や北海道を視察中の明治天皇の目にとまり、函館姓を与えられたという説など色々な説があるようです。出生時の氏名は斎藤義三郎ですが、このとき名前のほうも大経と改めました。改名後も数回、明治天皇の前で馬術を披露しています。
34歳のとき、函館支庁長だった時任為基(のちの元老院議官、貴族院議員)の提案により現在の函館市海岸町で行われた競馬に協力したのをきっかけに定期的な競馬開催を目指すようになり、2年後に「北海共同競馬会社」を設立。同社は、海岸町に函館海岸町競馬場を開設し、競馬を開催し始めました。
のちに同社は「函館共同競馬会」と名を変え、1896年(明治29年)に現在の「函館競馬場」を建設しました。その後も同競馬会でも役員を務めるなど長年にわたり函館競馬の役員を務めました。
北海道庁を退官後は獣医、蹄鉄業を営み、のちに「湯の川競馬会社」に勤務し、人々に乗馬技術を伝授しました。その卓抜した騎乗技術は現在にも様々な逸話として言い伝えられており、中には「糸乗り伝説」といい、絹糸1本で馬を御したという話もあります。
晩年、馬に蹴られた右足が思うように動かなくなりましたが、その後も技術は健在で、難なく馬を乗りこなしたといいます。1907年に死去。享年61。墓所は函館市内にあります。
このように、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献したわけですが、こういう、競馬にかかわるすべての事に関わる人のことを、「ホースマン」というそうです。
生産者・調教師・騎手・厩務員・馬主・調教助手・獣医師・装蹄師・騎乗依頼仲介者などさまざまなことに関わるため、いわば競馬界における、キーマン、ドンです。
大経の門下生からは、日本の近代競馬を支えたホースマンが数多く育ちました。現在もその流れを汲むホースマンは中央競馬、地方競馬、生産者などに数多く存在しており、日本国内でも最古かつ最大級のホースマンの系譜のひとつだそうです。
たとえば、現代競馬で最も著名な騎手の一人、武豊は大経の直弟子の「武彦七」の子孫です。この武彦七の兄の園田実徳は、日本の近代競馬黎明期の有力者でもあり、大経が発足させた、上述の「北海道共同競馬会社」の発起人の一人に名を連ねていました。
また、現在の競馬界の調教師の大御所といわれ、元騎手でもあった、大久保正陽とその子の大久保龍志(同じく元騎手で現調教師)はやはり、大経の直弟子の大久保福松の子孫です。また、戦後の地方競馬にも大経由来の系譜は存在し、その多くを辿れば、やがて大経に行き着くといいます。
なお、現在の競馬界においては、社台グループという、競走馬生産牧場集団があり、これは今日世界最大規模の競走馬生産育成グループです。中国系かな?と思ったらそうではなく、こちらは、吉田 善哉(ぜんや)という、札幌市出身の元酪農家が創始者です。
父の吉田善助は、戦前、日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、その後息子の善哉が農場を引き継いで、現在の社台グループを築き上げました。函館大経とは無縁の人のようですが、この人も競馬界では立志伝中の人のようです。
わずか8頭の繁殖牝馬をもって元々勤めていた牧場から独立後、アメリカに渡り、現地の先進的な生産・育成方法を学んで、現在の王国を築き上げました。が、この話は長くなりそうなので、また別の機会に改めましょう。
様似町は、このように函館大経を初めとして、現在の日本競馬界にとってかけがえのない人達を輩出してきましたが、このほか、出身者ではありませんが、幼少のころ、ここで育った人物として、桑田二郎という漫画家さんがいらっしゃいます。
今では知らない人も多いと思いますが、その代表作である、「まぼろし探偵」、「月光仮面」、「8マン」と聞けば、あ~あのひとか、と誰でもが知っているでしょう。
13歳の中学生だった1948年に「奇怪星團」でデビュー。その後月光仮面ほか、数々の名作を手がけ、少年漫画誌の歴史にその名を残しました。「残しました」と過去形で書きましたが、今もってご健在です。80歳の現在では、少年漫画の世界を脱し、独特な精神世界の漫画化に取り組んでおられます。
若いころから、その描線の美しさは特筆もので、手塚治虫と双璧と言われていました。実際、病床の手塚治虫に代わって「鉄腕アトム」の代筆を務めたこともあるといい、私も子供のころに桑田さんの描いた漫画を少年漫画誌で読むのを楽しみにしていました。
様似にいたのは、小学校までだったようです。生まれたのは大阪府吹田市でしたが、お父さんの仕事の関係でしょうか、北海道でその幼少期を過ごしました。が、その後、家族とともに大阪に戻っています。
大阪では、両親と兄のつましい4人暮らしの新生活が始まりました。が、詳しいことはよくわかりませんが、このころどうやらお父さんが何等かの病気に罹ったようで、これが桑田さんにとっての転機になったようです。
中学に上がった13歳のころであり、元々漫画好きであった彼は、自分の作品を地元の出版社を回り自作を売り込んだところ、ある会社に認められました。そして1948年に単行本化されたのが、デビュー作のSF、「奇怪星團(怪奇星団とも)」です。
以後、継続して作品を発表するようになり、その原稿料は微々たるものではありましたが、これで病気で職を失った父の代わりに家計を支えていくことができるようになりました。
しかし、苦しい生活状況の中、望んでいた高校進学も叶わず、本格的に漫画の仕事で身を立てようと中学3年で単身横浜に越し、雑誌の漫画を手がけるようになりました。
そんな桑田さんが注目されるようになったのが、22歳の時に描いた「まぼろし探偵」でした。そして1年後の58年、大ヒット作「月光仮面」の仕事が舞い込みます。連載したのは少年マガジンの前身である「少年クラブ」。
当時、この月光仮面の連載だけで発行部数が3倍に伸びたといわれ、桑田さんの睡眠時間はナポレオンをしのぐ1日3時間だったといいます。ファンレターだけでなく、毎年正月の年賀状はミカン箱いっぱい届くようになりました。その人気が買われ、5年後、月光仮面に続くヒーローとして描いたのが「8マン」でした。
この作品は、当時の「週刊少年マガジン」の看板作品で、その後テレビアニメ化もされました。ちなみに、私はこのころまだ小学生の低学年でしたが、毎週親にせがんではこのマガジンを手に入れ、8マンを読むのが楽しみでした。
この8マンという名前のいわれですが、実は「8人目の刑事で8マン」ということだったようです。当時TBSで放送されて人気だった刑事ドラマ「七人の刑事」を踏まえたもので、8マンも元は東八郎という刑事でした。
ちなみにこの名前は同性同盟の有名コメディアン、東八郎(故人)とは全く関係ありません。コメディアンのほうの東八郎の芸名は、この当時所属していた浅草フランス座を経営する“東”洋興業創業者の松倉宇“七”にちなんだものだそうです。
刑事だった東八郎は、あるとき凶悪犯の「デンデン虫」の奸計に嵌って射殺されてしまいます(アニメ版では車で轢き殺される)。ところが、この刑事・東の死を、ちょうどスーパーロボットの開発をしていた、科学者・谷方位(ほうい)博士がたまたま知ります。
そしてこの谷博士によって、東刑事の人格と記憶はこの開発中のスーパーロボットの電子頭脳に移植され、警視庁捜査一課にある7つの捜査班のいずれにも属しない八番目の男「8マン」として甦りました。
平時は粋なダブルの背広姿の私立探偵・東八郎ですが、ひとたび事件が起き、上司の田中課長から要請を受けると8マンに変身し、数々の難事件・怪事件に立ち向かいます。8マンのボディは、谷博士が国外から持ち込んだ戦闘用ロボット「08号」でした。
ハイマンガンスチール製の身体(???)、超音波も聞き取れる耳、通常の壁なら透視できる「透視装置」の付いた眼、最高3000km/hで走れる能力(加速装置)を持ち、原子力(ウラニウム)をエネルギー源とした活動します。なお、漫画版では眼から紫外線を放つこともできました(……)。
電子頭脳のオーバーヒートを抑えるため、ベルトのバックルに収めてある「タバコ型冷却剤(強化剤)」を定期的に服用しなければならず、時には服用できずに危機に陥ることがありました。
……とまあ現在みれば結構荒唐無稽な話しではあるのですが、死んだ刑事をロボットとして蘇らせる、という話はなるほど読むものを惹きつけます。そういえばどこかで似たような話があったな、と思ったら、アメリカ映画の「ロボコップ」もまた死んだ刑事をロボットとして復活させる話でした。
もしかして、ロボコップの原題は、8マン?と思って調べてみたのですが、どうやら偶然のようです。ただ、ロボコップの映画製作の際、監督のポール・バーホーベンは、このヒーローの外観モデルを日本の特撮ヒーローに求めたといいます。「宇宙刑事ギャバン」がそれで、これをデザインしたのは、元バンダイ専務で、デザイナーの村上克司という人でした。
バーホーベンから、村上に対してデザイン引用の許諾を求める手紙が送られたそうで、村上はこれを快諾したといいます。
宇宙刑事ギャバンは、かつて宇宙刑事として地球に赴任していた宇宙人と、日本人女性の間にできた子供、という設定のため、8マンやロボコップとは少々ストーリーが異なります。が、バーホーベン監督が、こうした日本の特撮モノなどを含め、日本の映画やアニメを研究していた、ということはあるかもしれません。
アメリカでは、アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーの関連会社ABCフィルムズが8マンの放映権を取得し、1964年から「The Eighth Man」の題名で、ネットワークに乗らない番組販売の形で放送されていました。なので、バーホーベン監督もこれを見ていた可能性があります。
ちなみに、8マンの原作者は、「幻魔大戦」などで有名なSF作家、平井和正さんです(故人)。桑田さんは平井さんの原作をもとに8マンの作画を担当しましたが、この二人はその後も数多くの作品を共同で仕上げています。その二人が、ある雑誌で対談したとき、やはりこのロボコップと「設定が酷似しているよね」という話をしていたそうです。
漫画版の8マンは、少年マガジンに連載されて好評でしたが、と同時に1963年11月からは、テレビアニメ化されて、こちらも人気を博しました。主人公の躍動感あふれる構図に加え、タバコ型の強化剤を吸うシーンは当時の子供達に影響を与え、放送時にはタイアップで発売されたシガレット型の固形ココアが人気を得ました。
スポンサーは丸美屋食品工業で、この「ココア型シガレット」を愛用していたオヤジ少年は多いでしょう。私もそのひとりです。また、8マンは、同社のふりかけのキャラクターにもなりました。
アニメ化したのはTBSで、同社にとっては初の自社制作によるアニメ参入作品でした。最高視聴率は1964年9月17日放送の25.3%。漫画版の表記は数字の「8マン」でしたが、テレビアニメ版の表記はカタカナの「エイトマン」に変更されました。これは放送されたTBSが6チャンネルであり、8チャンネルはフジテレビだったからだそうです。
また、漫画版では、8マンのボディを開発したのはアメリカのNASAでしたが、アニメ版では、アマルコ共和国という架空の国家で製作された、というふうに変更されていました。
番組は1964年12月31日まで、およそ1年続きましたが、話その物は前週の同年12月24日で終了しており、この最後の放送は次番組「スーパージェッター」の宣伝を兼ねた最終回特番「さよならエイトマン」でした。
実は私はこのエイトマンを毎週楽しみに見ており、なぜか急にこの番組が打ち切りになったのを不思議でしょうがありませんでした。しかし、次回作のスーパージェッターは、8マンを凌ぐ面白さであり、その後このことを長らく忘れていました。
ところが、この項を書いていてわかったのですが、実は、漫画のほうの8マンの連載中、桑田さんが拳銃不法所持による銃刀法違反で逮捕される、という事件があったのだそうです。このため、連載は急遽打ち切りとなりましたが、おそらくテレビのほうもこれにのっとって、強制的に終了させる、という裁断がなされたのでしょう。
いかにも残念な話しではあるのですが、その後、エイトマンは不朽の名作として語り継がれていくことになります。1975年に広島カープをリーグ優勝に導いた山本浩二選手の背番号は8番であり、ミスター赤ヘルの称号とともに、「エイトマン」と呼ばれて人々に親しまれました(そういえば、今年のカープはもうだめでしょうか……)。
桑田さんはその後、ウルトラセブン(朝日ソノラマ、1978)、怪奇大作戦(朝日ソノラマ、1978)ゴッド・アーム(原作:梶原一騎、双葉社、1979)などの名作を残しましたが、「42歳の厄年」を境に少年漫画界から身を引きました。
その後は、精神世界の漫画化を始め、「マンガで読む般若心経」「マンガ チベット死者の書」「マンガエッセイでつづる魂の目」といった著作(漫画だけでなく文筆も)が多数あります。
若いころ、売れる一方で2度の結婚離婚を経験したそうです。こうした出来事は、デビュー当初から胸に巣食っていた「生きることのむなしさ」を、やがて「死」を現実に近づけたといいます。そして、漫画を描いても一生懸命になれない自分を見つめ直すために、42歳で少年漫画界から身を引いたのだといいます。
収入は無くなり、蓄えも底をつく苦しい暮らしの中で、精神的な放浪を繰り返し、やがてたどり着いたのが瞑想だったといいます。それを機に仏教教典や聖書、論語、古事記などあらゆる教えを読みふけるようになり、その内容を咀嚼することで自分の役目も見えてきました。
やがて「難解な内容も漫画であれば表現できるかも」とも思いはじめ、50歳のころ「般若心経」の漫画を描き始めると、タイミングよく出版社から出版依頼がきました。シリーズ全3巻のこの「マンガで読む般若心経」は大ヒットを飛ばし、再版を重ねました。
テレビや各マスコミでも取り上げられ、続編の「マンガで読む論語」「宮本武蔵―五輪の書」などを次々に発刊できるようになり、経済的な危機を脱しました。
その後、縁あって茨城県の鉾田市に東京から移り住んだのは1986年ころだといいます。鹿島灘に面する、農業が基幹産業ののんびりとした町です。一帯は別荘地として開発されたこともありましたが、バブルがはじけてからは、元の閑散とした寒村に戻りました。
鉾田市へ合併する前、大洋村、といわれていた当時の村の村長の勧めで仕事場兼住居の家を建てることになり、以来、1人で暮らしておられるようです。後半人生で新たな花を咲かせる「花咲か爺さん」と呼ばれているそうです。
「私のヒーロー漫画で育った人も今は実年世代。いろいろあるでしょうけど夢を忘れず明るく生きてほしいですね」とは、ウェブ記事でみつけた、近年の桑田さんの言葉です。私自身、励みにしたいと思います 。
最近では、ニンテンドーDSゲーム用の「It’s tehodoki! 般若心経入門」といった作品もあるそうです。秋の夜長にふけってみてはいかがでしょうか。