緒明菊三郎のこと

以前、このブログで三島駅前の「楽寿園」のことを話題にしましたが、その時この庭園を朝鮮王朝の李王家から買い取った、「緒明圭造(おあけけいぞう)」なる人物がいることを書きました。

この緒明圭造は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後造船王になったという「緒明菊三郎」の子孫ではないかとも書きましたが、最近これに関する記事をみつけ、どうやら緒明圭造は緒明菊三郎の娘婿だったらしい、ということが分かりました。

どういう経緯で緒明家に養子に入ったのかまでは分かりませんが、これで緒明菊三郎と緒明圭造がつながり、この当時の緒明家の系図がはっきりしました。

つまり、江戸時代に船大工だった嘉吉の息子が、菊三郎、その娘婿が圭造、そしてこの圭造の子孫は、今も三島に在住されており、現在も三島市の名士、ということのようです。

伊豆の戸田で宮大工をされている方のホームページによれば、楽寿園の東側にある「三島市民会館は」はこの緒明家の御子孫の方の土地で、これを三島市に貸しているそうで、また緒明家は静岡銀行の大株主で、かつてその頭取を勤めた方を排出されたこともあり、しかも緒明家の今の御当主のご母堂は西郷隆盛の孫娘さんということです。

これらのことから、この緒明家の「開祖」ともいうべき「緒明菊三郎」氏は、どうやらその当時の明治政府の要人と関わりの中で、大きな財を得るようになった人物であったことがうかがわれます。その人物関係の詳細はまだよく分からないことも多いのですが、とりあえず今現在で私が把握していることを以下にまとめておきたいと思います。

まず、緒明菊三郎のお父さんの嘉吉です。江戸時代に戸田の船大工で、この当時はまだ平民ですから、緒明姓は名乗っていません。これも以前このブログで紹介した戸田造船資料博物館で公開されている資料の中に、ロシアのプチャーチン提督の帰国のために造られた「ヘダ号」の建造に関わった大工7人の名前がありますが、このひとりが、この嘉吉です。

ヘダ号の造船は、この7人だけで行われたわけではなく、そのほかにも数百人単位の大工が関わりましたが、この7人は他の大工の「世話人」ということで選ばれたようで、要するに大工頭、頭領という立場だったようです。

ほかに、上田寅吉、佐山太郎兵衛、鈴木七助、渡辺金右衛門、堤藤吉、石原藤造の名前がありますが、このうち、上田寅吉がリーダー格です。

この上田寅吉はヘダ号の建造に加わったのち、江戸に「長崎海軍伝習所」が開設されると、幕府から「蒸気船製作習得」の命を受け、この伝習所に入所。さらにその後、幕末の1862年(文久2年)から5年間にわたって、榎本武揚や明治政府で重職を歴任した「肥田浜五郎」らと共に「職方」、つまり「技術担当」ということでオランダに留学しています。

オランダから帰国後は、学んできた西洋の造船術を国内で他の技術者に伝授していましたが、やがて幕末の動乱に巻き込まれます。そして榎本武揚に従って箱館戦争にまで参加しますが、維新後許されて、1870年(明治3年)から明治政府に出仕。

その後横須賀造船所(のちの横須賀海軍工廠)で造船技術者として、国産軍艦の「天城」「清輝」などの多くの明治海軍の艦船製造に従事しました。

戸田の造船郷土資料博物館前には上田寅吉を顕彰した「大工士碑」があります。また、ここから2kmほど離れた牛ヶ洞には、「造船記念碑」が立っており、碑に刻まれた顕彰の言葉のなかにも「上田寅吉」の名が記されており、戸田の人々にとっては誇るべき郷土の偉人とされているようです。

この上田寅吉と嘉吉は仲がよかったようで、「ヘダ号」の造船時には、嘉吉の息子の菊次郎を手元に置き、そのころまだ10才程度だった菊次郎に船大工としての指南をしています。

後年、こうした上田と交流のあった嘉吉は息子の菊次郎を最新の造船技術を学ばせるため、上田の元に送っていたようです。そしてそこで菊次郎は榎本武揚とも知り合ったようで、戊辰戦争で幕府が新政府軍に敗れた際、幕府軍艦である「開陽丸」に座上して大阪から江戸へ引き上げる榎本に、菊次郎も修理工として付き従っています。

しかし、「蝦夷共和国」終焉まで榎本と行動をともにした上田寅吉とは異なり、菊次郎は箱館戦争には参加していません。このころ父の嘉吉の病気が悪化していたためと伝えられています。

上田寅吉とともにヘダ号の造船のリーダーとして活躍した嘉吉ですが、ヘダ号が建造された江戸末期の時代は、大工頭とはいえ生計は大変貧しく、船大工をしても日銭しか入らないため、そのお母さんが内職をして家計を助けていたといいます。

先だっての戸田の宮大工さんのHPによれば、古着をさばいて「鼻緒」にする内職をしていたそうで、一晩中この鼻緒作りを続け、夜明けを迎えることもしばしばだったようです。

明治になると、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、1870年(明治3年)に平民も苗字を持つことが許される「平民苗字許可令」出され、1875年(明治8年)からは、平民すべてが苗字をつけるよう義務付ける法令もでました。

このとき、大工の嘉吉の家でもその苗字を何にしようかと色々と考えましたが、上述のように母が「夜明け」まで鼻緒の内職をしていたことにちなみ、「緒明」という名字にしたといいます。まるでウソのような話ですが、「緒明」という名前は全国的にみてもほとんどないことから、事実かもしれません。

こうして、嘉吉の息子であった、菊三郎もこのころから、緒明菊三郎と名乗るようになったようです。菊三郎は1845年(弘化2年)生まれですから、明治3年には25才になっていたはずです。

このころ、父親の嘉吉がどういう仕事をしていたのか不明ですが、上田寅吉とともにヘダ号造船に関わったことでもあり、おそらくは嘉吉を初めとする戸田の大工たちも横須賀に呼ばれ、上田寅吉から最新の造船技術を伝授されながら、海軍の艦船の製造に携わっていたのではないでしょうか。

このころ榎本武揚は、明治5年に新政府から許されて開拓使となった後、東京に帰任。明治7年には海軍中将となり、駐露特命全権公使としてロシアに渡って千島・樺太条約を結び帰国。翌年には海軍卿に任じられています。

こうした海軍での要職を務めるようになっていた榎本の紹介か、あるいは横須賀造船所で新しい造船技術を駆使して新造船に励んでいた上田寅吉の紹介で、菊三郎もまた横須賀、あるいは東京に出てきていたと思われます。

現在、横須賀に「緒明山」という公園がありますが、ここはその昔、緒明菊三郎が持っていた土地だそうで、横須賀にも縁が深かった菊三郎が後年財を成してから購入したものと思われます。

しかし、その父の嘉吉の収入は明治になってもまだ乏しく、このころの菊次郎はそうした父に頼ることもできず、東京で暮らし始めたころは生活も苦しかったことでしょう。

あるいは父とともに横須賀造船所で働いていたのかもしれませんが、厳しい生活の中で苦労して貯めたお金で、小さな和船とこれに乗せる蒸気エンジンを苦労して入手することに成功します。

この当時はまだ庶民にとって蒸気で走る船などというものは夢の乗り物であり、これが水の上を走る姿はさぞかし人々の耳目を集めたに違いありません。菊五郎青年の偉いところは、これをただ走らせるだけでなく、「乗船料」をとって、人を乗せれば儲かるのではないか、と考えたところです。

そして、この蒸気和船を隅田川に持って行き、これにひとり一回「一銭」で乗れるという「一銭蒸気船」なる商売を始めました。このころ隅田川に浮かぶ船のほとんどは手漕ぎや帆かけの和舟でしかなかったはずで、そんな中をポンポンと軽やかな音を立てて快走する蒸気船に人々は殺到したようです。

連日行列ができるほどの大繁盛となり、菊三郎はたいへんなお金持ちになっていきました。

このころ、榎本武揚は、かつて同じ伊豆出身の代官である江川太郎左衛門が建造したお台場のうち、4号お台場が何も使われていないので、明治政府が手放そうとしているらしいという話を耳にします。

維新後の明治政府は、このころたいへんな財政窮乏状態にあり、近代国家建設のために国内だけの資金では足りず、イギリスやフランスなどの諸外国からも借金をしまくっていました。旧幕府が保有していたもので売って金になるものは片っ端から売り払っていたようで、使いどころもなく草ぼうぼうになっていたお台場もその候補のひとつでした。

このころ海軍卿にまで上り詰めていた榎本武揚はこの話を聞き、上田寅吉に相談したところ、それなら一銭蒸気船で大儲けしている菊三郎にここを買わせ、そこで我が国初の本格的な西洋式造船所を造ろうと上田が提案しました。

こうして4号お台場に造られたのが「緒明造船所」です。しかし、このお台場を菊三郎は購入したわけではなく、明治政府からの「貸し出し」ということで格安に入手したようです。そういうことができる人物といえばやはり榎本武揚以外には考えられず、その入手にあたって裏で暗躍したに違いありません。

現在での場所は北品川の天王州アイル駅の前にある「第一ホテル」の敷地がそれだそうです。この造船所はその後昭和14年ころまで操業されましたが、太平洋戦争に突入する前に軍備増強をしたかった昭和海軍も金欠であったため、とんでもない安い金額でこの造船所を緒明家から買い取ったという話が残っています。

ちなみに、港区の東京海洋大学の構内に保管され、国の重要文化財に指定されている帆船「明治丸」は、明治政府がイギリスから購入した船ですが、この船のマストを当初の2本マストから3本マストに改造したときの責任者は緒明菊三郎という記録が残っており、改造されたのもこの緒明造船所ではないかと思われます。

榎本武揚の部下に「塚原周造」という人がいましたが、この人は、下総豊田郡(茨城県下妻市)出身で、江戸開成所、箕作塾、慶応義塾で学び、明治政府にあっては大蔵省管船課に入って、鎖国制度で遅れた日本の海事行政の整備を進め、1886年(明治19年)には逓信省管船局長となりました。

このころ、榎本武揚が箱館戦争当時の同僚で、明治後は農商務大臣になっていた荒井郁之助が、箱館(函館)で討ち死にした戦友の中島三郎助という人物の供養のために造船所の創設を提唱しました。

中島三郎助は、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた人で、その後築地の軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、浦賀にあった長川という川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設し、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行うなどの功績のあった人です。

1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁であった榎本武揚らと行動を共にして江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に加わりました。「蝦夷共和国」下では箱館奉行並、砲兵頭並を勤めましたが、箱館市中が新政府軍に占領された後、本陣五稜郭降伏2日前に二人の息子とともに戦死。享年49才でした。

この荒井郁之助の提案に榎本武揚も賛成し、榎本の部下であった塚原にも声がかかり、榎本、荒井、塚原の三人は会社設立に向け奔走しました。この結果、浦賀の豪商の臼井儀兵衛と、緒明造船所社長になっていた緒明菊三郎も参画し、五人による合資会社を設立することになりました。

後年、さらにこの会社には後の浅野セメント社長になる浅野総一郎らも参加し、1897年(明治30年)、日本で最初のドライドックを保有する浦賀船渠(ドック)株式会社(現東洋汽船)が設立されました。

こうして、菊三郎は、、自らが興した緒明造船所の経営の傍ら、浦賀船渠などの経営にも参画し、造船業を中心に多角的な事業展開を図っていきました、造船のほかにも海運業を手掛けるようになり、このほかにも銅鉱石の採掘と精錬所の経営、伊豆や関東各地での緑林や開墾なども行うようになりました。

最盛期に菊三郎の所有した汽船の総排水量は3万tにおよんだそうで、明治時代における文字通りの造船王・海運王になりました。

ところが、お台場に造った造船所は、その後、焼失してしまいます。原因は不明ですが、同じ地に再建をしようとしたところ、政府からの貸地であったことから、明治政府からその継続借地の許可が下りなかったようで、この地での再建をあきらめます。

そして、移転を繰り返したのち、1903年(明治36年)になって三重県の志摩郡鳥羽町安楽島(現鳥羽市)に造船所を移す計画を立てました。

この地は遠浅の湿地帯だったようですが、ここに流れ込む「加茂川」という川の下流の浅瀬を埋め立て、ドック、倉庫等を建設し、7~8000トン級の汽船を4~5艘を横付けにし、参宮線も延長するといった遠大な計画でした。そして、大規模な埋立工事を開始しましたが、泥の深い海に堤防を築く事はかなりの難工事だったようです。

三重県関連のホームページ「三重県案内」の中の資料には「現に工事中に属す、今や湾内の浚渫及埋立を企て大船渠数個を設け倉庫を建設し・・・資を投すること百数十万」とあり、多くの経費を投入して工事を進めていたことがわかります。

その後も工事は続けられましたが、日露戦争で所有船が買い上げられてしまい、ついに工事が完工するのを見届けることもならず、菊三郎は、明治42年に死去。65才でした。

この干拓事業は、戦後農林省により再開され、昭和39年に完成しました。昭和45年には鳥羽市に払い下げられ、この土地には、「大明東町・西町」という名前がつけられました。この町名は「緒明」にちなんだものといわれています。

以上が緒明菊三郎に関するまとめです。緒明菊三郎という人物は、歴史上それほど有名な方ではなく、あまり資料のない中でのとりまとめなので苦労しましたが、なんとか形にしてみました。

まだまだ書ききれていない部分もあることでもあり、また後日新資料などを入手したら書き改めてみたいと思います。今日のところはここまでにさせていただきます。

キミサワ

その昔、伊豆の西北部の沼津から修善寺にかけて、「君沢郡」という名前の一帯がありました。明治維新後の1877年(明治10年)に施行された「郡区町村編制法」により新しく設けられた行政区画です。この新しい区画管理のため、郡役所として「田方・君沢郡役所」が、田方郡韮山町(現伊豆の国市)に設置され、田方郡とともに管轄がなされるようになりました。

しかし、その後、1896年(明治29年)の郡制の改革により、田方郡・君沢郡および賀茂郡の一部の区域を統合することになり、これらを合わせ、改めて田方郡とすることに決定され、「君沢郡」は消滅してしまいました。

現在、沼津市内や伊豆市内などのあちこちに店を構える「スーパーマーケット・キミサワ」の名前は、この君沢郡に由来しているそうで、またこの地域には、君沢姓を名乗る方が今もたくさんお住まいだということです。

このまぼろしの君沢郡には、昨日のブログに書いた「ヘダ号」が建造された戸田村も属しており、その後、このヘダ号をモデルとして、幕府が量産したスクーナー船のことを、のちに「君沢型」と呼ぶようになりました。本日は、この君沢型スクーナーが明治大正期以降の日本の造船史と貿易に与えた影響についてみていこうと思います。

増産された君沢型

ヘダ号が建造され、この船によってプチャーチン提督らが無事ロシアに送り届けられたあと、幕府は同型船10隻が建造しました。この同型船は、「君沢型」と呼ばれるようになり、ヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、その後の洋式船の建造技術を実地で習得する上で、貴重な経験となりました。

明治以降、「君沢形」の名は、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられるようになり、日本の造船史上における「名船」として、その後も多くの日本製帆船のお手本とされました。

1855年(安政元年)、ロシアの海軍提督プチャーチンの要請により、駿河湾で沈没してしまったディアナ号に代わる洋式帆船を造船することを許可した幕府は、人員と機材を無償で提供するなど「ヘダ」の建造に積極的に関わりました。

これは、幕府がこの機会を洋式造船技術習得の好機と考えたためであり、このため、「ヘダ」の建造許可をプチャーチンに与えたわずか15日後には、ヘダ号の建造責任者、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示しています。

その後「ヘダ」が無事に進水すると、6月にも2隻を戸田で建造することを指示し、9月にも3隻の追加を指示していますから、戸田の造船所では「ヘダ」以外に合計6隻の君沢型がつくられることになりました。さらに、1853年(嘉永6年)、幕命により徳川斉昭が隅田川河口に建設していた、石川島造船所でも4隻の建造を命じ、これで、幕府が決定した「ヘダ型」洋式帆船の数は、ヘダ以外の合計が10隻を数えることになりました。

戸田で建造された6隻は、1856年(安政2年)の1月頃までにはすべて完成し、このときはじめて幕府は、これらの同型スクーナー船を「君沢形」と命名しました。

幕府は、このほかにも、箱館奉行所にも君沢形のスクーナー船の建造指示を出しましたが、箱館奉行所では君沢型を参考にはしたものの、多分に独自設計を行って別型のスクーナー「箱館丸」を完成させ、これを箱館形と呼称しました。

しかし、スクーナー船の特徴である二檣帆装形式や基本構造は君沢型と同じであり、その後建造される多くの国産スクーナー船のデザインの基本は、ヘダ号および君沢型をお手本にしたものでした。

構造と装備

「ヘダ」および君沢形各船は、比較的に小型の洋式帆船で、帆装形式は2本のマストに縦帆を張った「二檣スクーナー」という形式に分類されます(「檣」はマストの意)。

「ヘダ」は全長24.6m、幅7.0m、深さ3.0m(尺貫法をメートルに換算)で、排水量は87.52トンだったといいます。これに対して、記録に残っている絵図などから推定される君沢形の大きさは、全長22.7m、幅6.1m、深さ2.6mというサイズで、記録に残っている「ヘダ」よりも若干小ぶりになっています。

設計が変更されたとする見方がある一方で、ヘダ号はその後、函館方面で行方不明になっており、明治維新後にも健在であった君沢型と比較するすべはありません。このため、記録に残っていた「ヘダ」の要目が実際よりは過大な記録だったのではないかと考えられます。

いずれにせよ、その設計の基礎となったのは、旧ロシア帝国の首都、サンクトペテルブルグ郊外にあった、「クロンシュタット軍港」の司令官ベリンスハウゼンの専用ヨットとして建造された試作スクーナーといわれています。

「ディアナ」に積み込まれていたロシア海軍の機関誌にその図面が掲載されていたそうで、この試作スクーナーは全長21.0m、幅6.4m、排水量75トンといいますから、ヘダ号や君沢型とほぼ同寸法、同排水量ということになります。

ヘダ号の設計は、ディアナ号の乗員、アレクサンドル・モジャイスキーとアレキサンドル・コロコリツェフ少尉が、この図面を参考にしながら行いました。アレクサンドル・モジャイスキーは後年、ロシアで、初めて蒸気エンジンを搭載した飛行機を製作を試みた人で、専門の機械工学の知識を生かし、ロシア政府から蒸気エンジンの開発も委任されていました。

造船についてもある程度の知識を持っていたと思われますが、船のことは、海軍少尉だったアレキサンドル・コロコリツェフのほうが詳しかったと考えられ、この二人が知恵を出し合い、補いあうことで、ヘダ号の設計は進んでいきました。

「ヘダ」の船体は木骨木皮で覆われ、船首から船尾までを貫く竜骨と、これと直角に組まれた35組の主肋材および11組の副肋材で構成されていました。船底は生物付着防止のため銅板で被覆されていたといい、こうした発想のなかった日本人には驚きの技術だったでしょう。

船を構成する部品のすべては日本で製造され、木材は天領各地から切り出した松やクスノキを使用されたといいますが、その多くは古くから造船がさかんであった伊豆の山地から切り出されたものと考えられます。

金具のうち水線上のものは銅製、その他は鉄製でしたが、伊豆で製造が困難なものは、江戸の鍛冶師に製造が依頼されるか、大きなものは直接江戸から鍛冶師を呼びよせて製造しました。また、日本での製造が難しかった帆布やロープは最小限の量に抑えられました。

例えば帆は、船首の三角帆1枚と各マストにガフセイルと呼ばれる大帆布1枚ずつの計3枚のみであり、予備帆は造られませんでした。補助推進設備としてオリジナルのスクーナーにはなかった和式の艪が6丁が備えられ、これだけで3.5ノットの速力が得られました。

「ヘダ」には大砲などの武装は施されませんでした。もっとも、艦載用の小型の大砲などが8門程度装備できるように、艦内に火砲の設置場所だけが確保されていましたが、舷側には砲門は設けられませんでした。これに対して、ヘダのあとに建造された君沢形では、舷側に砲門が設けられ、小型砲8門が実装可能でした。

船体の建造過程における材木の加工は、かねてより造船大国であた伊豆の船大工を中心として手際よく進められましたが、その当時の日本にはまだ製造技術のなかった、ボルトなどの金属部品の製造は困難を極めたといいます。

舵の構造が和船と大きく異なるため、日本の船大工が船体の一部に不必要な切開をしてしまうといったトラブルもありましたが、日本の船大工や役人たちの新たな技術へのチャレンジ精神知識欲は旺盛だったといいます。作業用の定規などの小道具を独自に製作したり、船体の製造方法についても詳細かつ膨大な記録を残しました。

わずか80トンほどの小型洋式帆船とはいえ、その複雑な製造工程を理解し、優れた技量で多くのトラブルを克服した日本人大工や役人たちの技量は、プチャーチンやモジャイスキーらロシア人たちを驚かせたといいます。とくに、ロシア側は、日本の大工道具の精密さに驚嘆したといい、とくにそのうちでも、「墨壺」の便利さを称賛したといいます。

しかし、ヘダ号を建造した伊豆の船大工たちには、かつても大型の洋式帆船を建造した経験がありました。当ブログの、「遥かなるイギリス」で紹介した三浦按針こと、イギリス人のウィリアム・アダムスらが、ヘダ号の完成に先だつこと250年前に建造した、120tの帆船「按針丸」がそれです。

按針号は、ヘダ号のような近代的なスクーナー船ではありませんでしたが、この船を建造した実績は、その後の徳川将軍の御座船のような巨船を作るのにも生かされ、伊豆の船大工にその建造技術が伝えられていたと考えられます。

おそらくはヘダ号の建造に携わった大工の多くはその技術の継承者であり、江戸幕府がその建造場所を伊豆の戸田村に指定したのも、幕閣の側に按針丸建造当時の記録が残っていたためでしょう。按針丸の製造技術の継承者の多くは、250年間、戸田で脈々とその技術を培っていたに違いありません。

1番船の最後

さて、完成した君沢形の各船は、その後、主に幕府海軍の航海練習船及び運送船として使われました。1番船から順に「君沢形一番」「君沢形二番」というかたちで、船名を与えられ、このうちの「君沢形一番」が、ロシア側から返還された「ヘダ」となりました。

その後、戸田で完成した6隻は、1856年(安政2年)の1月に品川へ回航されましたが、同じ年の8月頃には、長州藩と会津藩に2隻ずつ譲渡するよう指示が出されています。このころはまだ長州藩も幕府に反旗を翻していませんから、そのころから九州沖に頻繁に出没するようになった諸外国の船を長州藩にも哨戒させる目的があったものと考えられます。

東京湾においても、品川の台場を守るための護衛艦として砲装した君沢型ほか、君沢型をさらに小型化した韮山形(後述)と合わせ、12隻が配備されたという記録が残っています。

元土佐の漁師の子で、沖で遭難後にアメリカの捕鯨船によって助けられ、のちに帰国して幕府の通訳官となっていたジョン万次郎は、この君沢型を捕鯨船として使うことを提案し、なんと幕府はこの案を採用しています。

万次郎の指揮する「君沢形一番」、つまりヘダ号は、1859年(安政6年)4月に品川を出港し、捕鯨を行うために小笠原諸島へと向かいましたが、残念ながら、途中暴風雨により損傷し、航海は中止になっています。万次郎は、その航海が失敗に終わったのは、君沢形が小さすぎたためであるとして、後年、別の船でも小笠原での捕鯨を試みましたが、やはり十分な成果をあげることはできなかったといいます。

「君沢形一番」こと、ヘダ号の最後については、明らかになっていません。昨日も書いたように、函館戦争で使用されたとする説もありますが、そのころ既に蒸気船同士の戦いになっていた函館沖の海戦で、ヘダ号のような非力な船が使われたとは思えません。

函館戦争時にまだ健在であったという根拠は、1872年(明治5年)にアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(ロシア皇帝、アレクサンドル2世の子)が来日した際、その随行員として一緒にやってきた元「ディアナ」乗り組みの「コンスタンチン・ポシェット中将」という人が、函館港で廃船となっているかつての「ヘダ」を見かけという記録が残っているためです。

ポシェット中将は、日本側に対してヘダ号の保存措置を取るよう要望したそうですが、彼がみかけた船が本当にヘダ号だったかどうかは定かではありません。もしかしたら、後年建造された君沢型の同型船であったかもしれず、そのことを知らないポシェット中将がそれをヘダ号と見間違えたとしても不思議ではありません。

いずれにせよ、同船が保存されることは無かったそうで、おそらくはこの船を最後として、君沢型帆船は時代から消え去っていきます。

技術の伝承

しかし、君沢形の建造は、その後の日本の洋式船建造技術の向上において、極めて大きな役割を果たしました。

日本海軍の礎になった、幕府の海軍伝習所(海軍操練所)を創設した勝海舟は、君沢形以前に幕府が建造した「鳳凰丸」などの洋式船国産化の試みは外見だけのもので、「ヘダ号」と君沢形こそが真の最初の国産洋式船であると評価していたそうです。

造船の技術的な見地からみると、竜骨から船体を組み上げていく手順や、テレビン油(タール)を用いた造船法とテレビン油そのものの製造方法などは、船底銅板を張る際にタールを用いる技法と合わせて、日本の技術者が実地で学び、得られた最大の成果として評価されています。

君沢形の建造に携わった船大工たちは、その後も、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍しました。その一人で、元船大工の上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、明治維新後も横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮しています。

また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、戸田村などで学んだ長州の船大工の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を萩で建造しました。

昨日のブログでも少し触れた韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)は、幕府の命によって君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造させ、これを韮山形と命名しました。

1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも君沢形関係者が多く参加しています。

また、君沢形は、日本の内航海運へのスクーナー導入の契機ともなりました。逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で大いに活躍し、日本で建造された多くの洋式船の原型となりました。

さらに、和船の船体にスクーナー帆装を取り入れた和洋折衷の合いの子船は、その頃、明治政府によって洋式船に課されていた厳しい建造基準を回避できるという制度上の利点もありました。また、旧式の和船を改良した船にも実装できることから、実際のスクーナー以上に普及し、機帆船登場前の内航海運の主力を担うことになったといいます。

その後、明治以後の日本の帆船の型式は、部分的な洋式帆装化から全面的な洋式帆装化に徐々に移行していきましたが、大正期末期になると、帆船を改造して補助機関をつけた補助帆船が造られるようになります。

さらに、昭和期に入ると、内燃機関が主とする「機帆船」が新造されるようになり、これが本格化します。1935(昭和10)年頃の船腹構成は汽船約20%,機帆船40%,帆船40%程度であり、このときはまだ帆船の比率がかなり高いことがわかります。しかし、この時期を境に、内燃機関を持たない純粋な帆船は急激に姿を消していき、戦後は純粋な帆船といえばレジャー用のヨットぐらいしか造られなくなってしまいました。

スクーナー船として、現在日本に残っているものは一隻もありません。ただ、非常に操船性が優れ、他の帆船に比べて少ない乗組員で航行できることから、日本以外では個人で所有しているお金持ちも多いようです。そのほかのスクーナーでは、海軍が所有しているものもあり、たとえば、フランス海軍の2本マストスクーナー、「エトワール号」などは、白鳥のようなその優美な姿でファンを魅了しています。

これらの諸外国の海軍所有スクーナーは、時折、練習航海などで日本を訪れることもあるようですから、運がよければその雄姿を見ることができるかもしれません。

さて、船好きが高じて、今日の項の執筆も熱くなりすぎ、分量をかなり越してしまいました。船の話題となると海に近い伊豆のことでもあり、また書いてしまうかもしれませんが、またその時にはお付き合いいただければ幸いです。今日のところはこの辺で。