神津島発 上野村

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およそ1200年ほど前の今日、伊豆諸島のひとつである神津島(こうづしま)の「天上山」が噴火したそうです。

神津島は伊豆諸島の有人島としては最も西にある島で、この島の中央にあるこの火山の噴火は、838年(承和5年)であったことが、「続日本後紀」などに記録されています。

何分古い記録なので、どの程度の噴火だったのか定かではありません。が、島にはこのときの噴火でできた火口原があり、ここに、「表砂漠」「裏砂漠」と呼ばれる砂地があることから、これらの地域をえぐり取るような大噴火だったことが想像できます。島を南東部から遠目に見れば、そのいかにも火山らしい険しい地形がみてとれます。

頂上が平坦で高度もあまり高くないにもかかわらず、本州では2000m級の高山に生育しているような高山植物も見られる山だそうです。最高地点は、火口原西の、外輪山上の571.5mで、この東に2つの展望地があり、その内のひとつは、新東京百景に指定されています。

展望地からは、伊豆大島、利島、新島、式根島、三宅島、御蔵島などが見渡せ、また、山の別の場所からは、伊豆半島も望むことができるといいます。

神津島は、この天上山(標高571m)を中心とした北部と秩父山のある南部とに大きく分けられており、地図ではひょうたんをさかさまにした形に見えます。

御蔵島や青ヶ島など、他の伊豆諸島には断崖絶壁に囲まれた島が多い中、神津島は比較的平坦で砂浜海岸が多く、また近海を黒潮が流れているため夏は涼しく、冬も温暖で、一年を通じてしのぎやすい気候です。このため古くから人が居住してきました。

島では、「黒曜石」が産出します。後期旧石器時代から矢じりや槍の穂先などの製造を目的として採取され、ここに住む人々によって大量に本州に送られたと考えられています。神津島産と思われるこれら黒曜石製の武具の出土流布範囲は広く、東は東京都、西は静岡県西部、さらに内陸部の山梨県北杜市にまで達し、半径約180kmまで拡がっています。

これはすなわち、旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠でもあり、その採掘は縄文時代まで続いたと考えられています。

神話によれば伊豆の島々を造った神様が集まるところということから「神集島」の名が生まれ、それが転訛して神津島と呼ばれるようになりました。また、天上山では出来上がった伊豆七島の神々が集まり、水の分配の会議が行われたという「水配り伝説」もあります。

840年(承和7年)の記録では「伊豆国上津嶋」とされており、この頃から定住者がいたことうかがわれます。人口は約2千人で、約900世帯がここに暮らしています。村内の道路は入り組んでいますが、ほとんど前浜の道路にアクセスしており、迷うことはありません。

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この道路は「都道」です。すなわちここは東京都です。保育園、小・中学校が1校づつあるほか、都立高等学校まであります。このほか、開発総合センター、多目的広場、運動公園、郷土資料館があり、想像以上に文化的なのは、ここが東京都だからにほかなりません。

しかし、産業としては、漁業、農業、観光が主であり、田舎そのものです。こうした離島ではどこもそうですが、とくに漁業が盛んです。キンメダイ、イセエビ、赤イカ、タカベなどの魚種が採れ、ほかにとこぶしやあわびなどの貝類、天草、イギスなどの海藻類など季節ごとに多くの海の幸が採れます。

また、農業では、あしたばやレザーファン、パッションフルーツなどが代表作物です。観光業も島の重要産業であり、年間約4万人の観光客が島を訪れます。その昔、30~40年前は、夏になると大勢の若者がここを訪れるため、ナンパの島としても有名でした。

このころは、ディスコも2~3件あり、夜になるとメインストリートは人混みで、満足に歩けない状況でした。その頃デザインTシャツの店があり前日の夜に注文すれば翌日の午前中には完成していたといい、夜はナンパ、喧嘩などで賑わい、日中の前浜はレジャーシートも満足に敷けない位に人、人、人で、ごった返していました。

しかし、最近では沖縄やグアムへ行く旅費が安くなっていることもあり、旅客は年々減少しています。客が減ると、自然に船の便数も減り、前は夏季になると東京からの直行便がありましたが、現在では大島・利島・新島・式根島を経由する便に変更されています。

江戸時代は流刑地だったため、一般船舶の寄港は許されない、という過酷な歴史を持ちます。江戸初期、キリシタンの「ジュリアおたあ」が流罪になり、ここで没したという伝説があり、島内に墓所とされるものがあります。また、「ジュリア祭」が毎年行われています。

ジュリアおたあは朝鮮人女性です。生没年は不明ですが、安土桃山時代、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際に日本に連行され、キリスト教に改宗して小西家の猶子となりました。

出自は戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮の官僚の娘ともいわれますが、実名や家系などの仔細は不明です。「ジュリア」は洗礼名、「おたあ」は日本名を示します。

文禄の役で平壌近郊で日本軍に捕縛・連行されてのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられました。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれます。

のちに関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、彼女の才気を見初めた家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、寵愛を受けました。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされます。

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しかし、家康は慶長17年(1612年)に禁教令を発布。このときおたあは、棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示しました。このため、駿府より追放され、伊豆諸島の八丈島(もしくは新島)、神津島へと相次いで流罪となったとされます。

3度も遠島処分にされたのは、家康のほうに未練があり、駿府へ戻して更生させようとしたためと考えられます。しかしそのつど家康を拒んだのでしょう。家康にすれば愛し憎しで複雑な思いだったでしょうが、女心とはそんなものです。嫌いなものはキライ、スケベジジイには死んでも恭順するものか、ということだったでしょうか。

また、新島時代には駿府時代の侍女とともに流されましたが、ここで彼女たちと一種の修道生活に入ろうとした、とも伝えられます。引き離されて神津島に流されたのは、新たに徒党を組んでキリスト教を布教されてはたまらん、と幕府が思ったのでしょう。

しかし、おたあ自身は、どの地においても信仰を捨てませんでした。見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされます。その後島民を教化し、多くのキリシタン信仰を獲得したとも言われます。

が、現在の神津島にはカトリックの教会どころか信者もいません。このため、その最後は神津島ではなかったのではないかという人もいます。1622年2月15日付「日本発信」のフランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあは神津島を出て大坂に移住し神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったとも記されています。

しかし、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎により、島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、神津島で没したとする説が出ました。

以来同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、おたあの慰霊祭が行なわれ、1972年には韓国のカトリック殉教地、切頭山に神津島の村長と村議会議員らがおたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てました。

切頭山は19世紀末に起こったカトリック教徒の大量虐殺事件で殺害された信者の殉教地です。信者の首を切って頭を漢江に投げ捨てたという話からこう呼ばれるようになりました。

ただ、その後、上述の「日本発信」が発見されて、おたあが大阪長崎に行ったという説が有力視されるようになったため石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切頭山にある殉教博物館内で保管されているということです。

なお、駿府時代におたあは灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は、静岡市葵区常磐町(旧下魚町)にある宝台院に移されています。

この寺は、駿府公園南約500mを東西に走る東海道線の脇にあります。家康の側室で2代将軍となった秀忠の生母西郷局の菩提寺で、幕末の江戸開城後に、慶喜が水戸・弘道館からここへ移り、謹慎していたことでも知られています。また、日露戦争時には、ロシア兵の捕虜収容所でした。

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このジュリアおたあの悲劇は、日本の伝統芸能を基盤とした演目に特色がある、劇団わらび座(秋田県仙北市)のミュージカルとして公演されているようです。この劇団は、ジェームス三木、内舘牧子、ラッキィ池田など外部の著名なクリエーターからも協力を得て、オリジナルミュージカルの制作に取り組んでおり、東北では人気があるようです。

今年は、先月末に仙台市の若林区文化センターで公演があったようですが、劇団HPをみたところ、次の公演予定はまだ決まっていないのか、表示がありませんでした。ご興味のある方は劇団のほうに問い合わせてみてください。

その昔、サザンオールスターズも「夢に消えたジュリア」というシングルを出しています。2004年にリリースされたもので、タイトルはピンク・フロイドの「夢に消えるジュリア(Julia Dream)」のもじりです。

1960年代後半から70年代前半に一世を風靡したGSや歌謡曲を強く意識した曲になっていますが、実は桑田さん自身はこの物語の存在を全く知らずにこの曲を作ったといいます。

歌詞の内容はタイトルの通り伝説になった人物“ジュリア”を描いたものですが、歌詞を書いている途中に、非常に似たような伝説「神津島のジュリア・おたあ伝説」が存在することを知り、大変驚いた、と多数の雑誌のインタビューなどで語っています。

その詩は、「燃えろ夏の十字架南の空高く 夜の闇を照らす星座は涙のシャンデリア まるで虹のように夢に消えたジュリア…」といった具合でおたあとは何の関係もない内容です。が、十字架のほかにも「ロザリオ」などキリシタンをイメージした単語が多く登場します。

繰り返すようですが、桑田さんはこの曲を作るまでおたあ伝説のことを知らなかったといいますから、亡くなったおたあが彼にこの曲を作るようにささやいたのかもしれません。

日本航空JALの「FLY! JAL!」キャンペーンのCMソングにもなり、CMではPVの映像がそのまま使われました。テレビでJALのタイアップが終わった後も、JALがスポンサーである「JET STREAM」のラジオCMで2年近くOAされていたそうです。

私はこの歌を知らなかったので、You-Tubeで探して聴いたところ、なかなかいい曲です。今度ダウンロードしてジョギング中のBGMにしてみたいと思います。また、曲を聞きながら、晩年を長崎で過ごしたというおたあにも思いを馳せてみたいと思います。

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ところで、JALといえば、日本航空123便の墜落事故が、1985年(昭和60年)に起こってから今年でちょうど30年になります。

同年8月12日月曜日18時56分に、羽田発伊丹行の定期123便ボーイング747SR-100、通称ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783が、群馬県多野郡上野村の山中の尾根に墜落した航空事故です。

通称「御巣鷹の尾根」といいますが、厳密には御巣鷹山の尾根ではなく、上野村楢原の「高天原山の尾根」になります。この呼び名は、この当時の「黒沢丈夫」上野村村長によって墜落事故直後に使われ始めました。事故当時、墜落現場の詳細特定が難航する中、上空からの報道映像を見た黒沢村長が、記憶に残るその尾根形状からこう呼び始めたものです。

黒沢は「御巣鷹の尾根」の名称で、救助関係者に道案内をするよう、村下の消防団員に命じたといいますが、彼等もまたこれをすんなり受け入れました。すなわち事故現場の尾根は、黒沢のみならず村民の多くが「御巣鷹山」であると思っていたことになります。

しかし、御巣鷹山の本名、高天原山の地名もこの当時の国土地理院の地図に記載がなかったそうで、それほどこの墜落現場が名もない、とてつもない僻地だったことがわかります。

ただ、「御巣鷹山」だけではピンポイントの誘導ができないため、黒沢はさらにテレビ映像を分析して、「神流川源流の国有植林地」と判断しました。地元では「スゲノ沢」と呼ばれる場所で、土地勘のある消防団員や猟友会に機動隊をここに誘導するよう要請しました。

現場までは上野村の中心からは30km程も離れており、しかもその道程は熊笹の生い茂る30度の急斜面です。猟友会副会長らが案内する機動隊が沢近辺に来たときはすっかり夜が明けていました。更に進むと午前7時ごろ、北西方向に煙が上がっているのが見えました。

急斜面を登ると、V字形に山が削られ、飛行機の主翼が落ちている尾根がはっきり見えました。7時34分のことで、副会長はこのとき、「墜落現場は、スゲノ沢の索道土場の上の中尾根だ」と叫びました。

こうして正確な場所が特定されたことからすぐに連絡が捜査本部に飛び、墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半に、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、その後陸上自衛隊第1空挺団員も現場に降下して救難活動を開始しました。

陸路では10時頃までに消防団員約30人がスゲノ沢を遡りました。現場に到着すると上空にはヘリが旋回しており、周囲には遺体と機材が散乱していました。カラマツやクマザサがうっそうと生え、昼でも薄暗い沢筋なのに、そこだけ明るく日が差していたといいます。

やがて、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊らも現場に到着し、ようやく本格的な救難活動が開始されました。午前11時前後に、4名の生存者が長野県警機動隊、上野村消防団などによって相次いで発見されました。

生存者4人は後部座席にいた乗客でした。いずれも重傷を負っており、陸自のヘリで上野村臨時ヘリポートまで搬送され、2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて藤岡市内の病院に運ばれました。

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その後、死亡者数520名の最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要しました。最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に上野村中心部の「慰霊の園」へ納骨埋葬されました。

現在、墜落現場には、財団法人慰霊の園によって御巣鷹山慰霊碑(昇魂之碑)が建立されて維持されており、毎年ここで慰霊祭が執り行われます。今年は30年目の節目ということもあり、例年以上に手厚い法要が営まれることでしょう。

ところで、この日航機墜落直後に、迅速な対応を講じ、事故処理にも尽力した黒沢村長は、実は元海軍士官で、自身、戦闘機を操るパイロットだったことは意外に知られていません。

1913年(大正2年)、上野村の酒造業を営む家に生まれました。父もまた後に上野村村長となっています。県立富岡中学校を経て1932年(昭和7年)に海軍兵学校に第63期生として入隊。ここを卒業する際の遠洋航海では、アメリカ・ニューヨークまで行っています。

まさか後年この国と戦争を始めるとは思っていなかった黒沢はこのとき、日米の国力の差に圧倒されアメリカの生活の豊かさを嫌というほど思い知ったといいます。帰国後、巡洋艦「那智」・駆逐艦「夕霧」乗組を経て、1937年(昭和12年)9月に第29期飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に転じました。

航空隊を志願した動機は、兵学校時代の成績の悪さを反省し、さぼれない環境に身を置きたかったからだと言います。1938年(昭和13年)、大分県の佐伯海軍航空隊に移り戦闘機乗りとしての訓練を受けたのち、第12航空隊に配属され中国湖北省の漢口に着任しました。

既に前年の1937年(昭和12年)7月に日本軍と中国国民党軍が衝突する、盧溝橋事件が勃発して、日中戦争が始まっていました。黒沢らは九六式艦上戦闘機(96艦戦)に爆弾を積んで、中国軍の北省西部の拠点、宜昌(ぎしょう)などへの爆撃に従事しました。

1939年(昭和14年)、霞ヶ浦空の教官として内地に帰還しましたが、11月に訓練中の事故で入院。翌年、新設された「元山海軍航空隊(現在の北朝鮮・元山(ウォンサン)が拠点)」へ分隊長として転任し、1941年(昭和16年)4月には再び漢口へと進出。

この時の装備戦闘機も96艦戦でしたが、既に旧式戦闘機であり、同じ漢口にあった最新型の零式艦上戦闘機の活躍を横目に、上空哨戒などの任務を黙々とこなしました。この年、9月に元山空戦闘機隊は、鹿児島の鹿屋で編成されたばかりの第3航空隊に編入されました。

その後さらに第3航空隊(通称3空)は台湾の高雄へ本拠を移しましたが、黒沢らはここで、対米英戦を控えて96艦戦の航続距離を延ばすなどの訓練を行いました。

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1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃により、太平洋戦争開戦。3空は同日から4度に亘ってフィリピン・ルソン島の米軍基地に大きな空襲を行い、在比米軍の航空勢力を壊滅させました。さらに戦局の進展に伴い、フィリピンのミンダナオ島ダバオ、インドネシアのセレベス島メナド、同ボルネオ島バリクパパンへと進出しました。

その後3空はインドネシアのケンダリーやバリクパパン、アンボンを拠点に、同国各地の残敵掃討・船団護衛に従事。さらに南下して、オーストラリア領、チモール島クーパンに進出し、翌年1942年の3月には、西オーストラリアのブルームへ攻撃を加えたのを皮切りにオーストラリア本土への本格的な空襲を行い始めました。

ところが、黒沢はこの頃、漢口で罹患していたアミーバ赤痢を悪化させていました。体調が悪い状態で戦闘機隊の指揮を取り続けていましたが、それも限界となり、秋には内地帰還となりました。しかし、診察の結果入院するほどではないと判断されたことから、10月には長崎県東彼杵郡大村町の大村海軍航空隊に飛行隊長にとして赴任しました。

しかし、体調は万全ではなかったことから、年末には同じ県内で医療施設の整った佐世保に移動し、ここの佐世保海軍航空隊飛行隊長として勤務しながら病院に通いました。翌年9月までには、病も癒え、千葉の館山で新設された第381海軍航空隊の飛行隊長として赴任。

381空では副長・飛行長が欠員で、黒沢が1人3役をこなすことになりました。新型戦闘機「雷電」が装備されており、南方油田の防空任務に就く予定でしたが、雷電はまだ完成したばかりの機体で、故障も多く数も揃わないため、やむなく零戦で順次進出しました。

しかし、黒沢が日本で療養している間に、かなり戦況は日本に不利な具合に進展しており、このころまでには揃えることのできる零戦の数も限られていました。1944年(昭和19年)1月、黒沢はなんとか揃えたその残存勢力を率いてバリクパパンに進出しますが、このとき381空に担当しろとあてがわれた地域は、蘭印全域の広大な地域でした。

この「蘭印」というのは、かつてオランダが宗主国として支配した東南アジア島嶼部であり、ほぼ今日のインドネシア領土と等しい東西2200km、南北1000kmにも及ぶ範囲です。

しかし、油田が多いために比較的燃料は潤沢で、訓練用に豊富に使えたために搭乗員の練度は高く、彼等を各基地に分散派遣して任務にあたらせました。しかしこの年後半には連合軍の攻勢が激しくなり、9月にはインドネシア中央部のモロタイ島に上陸し始めました。

連合国は、ここに飛行場を完成させ、日本軍が拠点とするボルネオ島・バリクパパンを攻撃圏内に収めました。そして、B-24によって大規模な空襲を頻繁に加えるようになりました。これに対して、黒沢の指揮下にあった381空はソロモン諸島など東部を管轄としていた331空(大分佐伯が本部)と合わせ、邀撃戦で敵爆撃隊に大きな損害を与えました。

豊富なガソリンを使って猛訓練を積んだ経験がものを言った格好でしたが、もっとも連合国軍が5回に亘って行って空爆のうちの3回目以降の空襲では、敵も戦闘機を随伴させるようになり、このためその後の戦果は減って味方の被撃墜機が増えました。

それでも5回の空戦で連合国側の損害はB-24が19機・戦闘機6機であり、381・331空の戦死者が18名であったことから、黒沢らの日本海軍航空隊はかなり善戦したと言えます。

上空での空戦を目撃した地上部隊からは、戦闘機隊の戦果を讃える電文が多く打たれ、士気高揚にも貢献しました。しかし、隣のフィリピンでは敵が優位なまま戦況は進んでおり、戦闘の激化により、331・381空を「S戦闘機隊」として臨時編成することとなり、黒沢はこれを統合する飛行機隊指揮官となりました。

そして、フィリピン・ルソン島への進出が命ぜられ、黒沢率いる23機がマニラの北西約60kmの地点のクラーク空軍基地に派遣される予定でした。これは日本が緒戦で米軍から奪取した基地です。ところが、このころ機体が払底していた大西瀧治郎中将指揮の第一航空艦隊によって、黒沢はこのなけなしの飛行機全機を取り上げられてしまいます。

第一航空艦隊は、海軍の空母艦隊ですが、マリアナ沖海戦で壊滅的な打撃を受けており、これを立て直すために就任した大西中傷は、「神風特別攻撃隊」を編成するために、S戦闘機隊の航空機を要望したのでした。後の10月末に行われたレイテ海戦こと、フィリピン海戦においては、これらの特攻によって敵空母を撃沈し初戦果をあげ活路を開きました。

しかし、与えた損害をはるかに上回る損害を日本海軍は被り、空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、本土にあって燃料のない残存艦艇と、燃料はあっても本格的な修理改装のできない南方艦隊とに分断され、組織的攻撃能力を失いました。

乗機を失った黒沢ら23名は、しかたなく一式陸上攻撃機(一式陸攻)に乗って内地へ渡り、新しい零戦を受領して11月初めにフィリピンに帰りましたが、レイテで敗戦を喫した日本には残機は少なく、このときもせっかく持ち帰った零戦全機を取り上げられてしまいます。

上級司令部に出向き、黒沢が談判を行いましたが埒はあかず、結局S戦闘機隊をまたも内地に戻し、戦闘機受領後にバリクパパンの原隊に戻ってくるよう逆に説得されてしまいます。しかたなく黒沢らはこのときもまた一式陸攻で内地に戻りましたが、このときにはもう国内の航空機の生産能力はガタ落ちになっており、ほとんど機体は揃いませんでした。

なんとか4機だけを受領した時点で黒沢が先発隊としてバリクパパンに戻りましたが、燃料補給に立ち寄ったクラークで3たび飛行機を取り上げられてしまいます。この頃はもう南方戦線における日本軍は末期状態といえ、フィリピン戦線の過酷な戦況を知っている黒沢は、完全に断ることもできず、3機を引き渡して、1機のみでバリクパパンに戻りました。

原隊に復帰した黒沢は、このとき381空飛行長に昇格しました。その後381空在籍のまま、南西方面戦闘機隊統合指揮官兼任を命ぜられ、シンガポールに移って指揮をとることになりました。しかし、その後保有機わずか1機のS戦闘機隊にも内地転進命令が出され、これに伴い黒沢も内地に戻り、今度は第5航空艦隊の第72航空戦隊作戦参謀となりました。

第5航空艦隊は、2月に新編されたばかりの艦隊で、本土防衛のため九州を中心に展開し、沖縄への積極迎撃・艦船や機動部隊への攻撃・特攻及び本土防空を担当していました。が、艦隊とは名ばかりで保有船舶はなく、残存航空部隊の寄せ集め部隊でした。

終戦の詔勅(玉音放送)が流されたた直後に、宇垣纏(まとめ)長官が独断でその一部の部隊に特攻を命じたことでも知られています。特攻隊は合計11機(3機不時着)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸し、16名が犠牲になりました。自らもこのとき艦爆「彗星」に乗って出撃し、「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」の無電を最後に突撃死したとされます。

黒沢が任官した72航戦はこのうちの西日本の戦闘機隊、203空・332空・343空・352空を統括する航空戦隊と位置付けられていましたが、すでに沖縄戦は終盤に差し掛かっており、日本の制空権は事実上連合軍側のものになっていました。

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8月15日、終戦。黒沢は九州で戦後処理にあたり、10月からは前橋で海軍の人事部員に転任となって地元群馬県軍人の復員業務につきました。10月末に海軍が解体した後もこの仕事を続け、退官して上野村に帰ったのは1946年(昭和21年)9月のことでした。

しかしこうしてようやく戻った上野村で、黒沢は村人から戦犯呼ばわりされ、冷たく扱われたといいます。このため最初は妻子を前橋に残し、一人で農民生活を始めました。9年後の1955年(昭和30年)、群馬県議会議員選挙に立候補しましたが、落選。しかし、この選挙以降、周りの人たちの相談を受けるようになりました。

そして、1965年(昭和40年)、上野村村長に就任。しかし、すぐに複数の問題に直面します。それは丼勘定による村財政の赤字であり、急激な過疎化でした。また、村民が、県内の甘楽冨岡(かんらとみおか)などで「破廉恥な行為」をやったという記事が相次いで2件ほど新聞に載る、といったこともありました。

このため、黒沢は村人の不評を買いながらも緊縮財政を押し通し、道徳教育に力を入れました。産業振興にも力を入れ、イノブタ畜産・味噌造り・木工業などを次々に起こしました。そんな中起こったのが、1985年(昭和60年)の日本航空123便墜落事故でした。

村は、救援の自衛隊・機動隊および報道陣を受け入れ、現地に消防団員を派遣しましたが、これを指揮した黒沢村長の働きは、迅速適切で見事なものであったと評価されています。

当時身元確認の責任者であった県警のある警察官は、黒沢の有事に際しての落ち着いた対応や日航と遺族の双方に信頼される人柄について言及し、遺族に対する優しい心遣いには、戦争で露と消えた部下や戦友をどこか被害者にかぶらせているのでは、と記しました。

この警察官は飯塚訓(さとし)さんといい、その後退職して、ベストセラー「墜落遺体――御巣鷹山の日航機123便(講談社)」「墜落の村(河出書房)」などを出しています。

その後、上野村では御巣鷹の尾根に「昇魂之碑」を建立して霊地として守り、犠牲者の遺骨が埋葬された村内の墓所「慰霊の園」では毎年、慰霊祭が行われています。

黒沢はその後平成7年から4年間、全国町村会会長として全国地方自治の牽引役を務めるなど幅広く活躍しました。そして平成17年、91歳の時に墜落事故の犠牲者慰霊事業への参加が困難になったことを理由に、10期40年務めた村長の職から引退しました。この当時日本最高齢の首長となっていました。

2011年(平成23年)12月22日、富岡市内の病院で肺炎のため死去。97歳没。その翌日23日は誕生日であり、98歳になる直前でした。

誕生日といい、亡くなった日付といい、さらには墜落した日航機も123便であり、123の3つの数字に縁がある人でした。事故が起こる前からこのことに当たる運命だったのかもしれません。

黒沢さん自身も文才のある方で、著書、関連本がいくつあり、以下のようなものです。これから迎えるみなさんの夏休みに読んでみてはいかがでしょうか。

「過疎に挑む~わが山村哲学(清文社、1983年)」
「道を求めて~憂国の七つの提言(シグマユニオン、2001年)」
「わが道これを貫く(上毛新聞社出版局、2005年)」
「誇りについて~上野村長黒澤丈夫の遺訓(上毛新聞社出版局、2013年)」

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伊豆大島のこと


上天気が続きます。先日降った雨は富士山には雪をもたらし、今はもうここから見える富士は五合目あたりから上はもうすべて真っ白です。冬至はまだひと月さきですが、ここ静岡だけでなく、全国的に冬モードに入っているようで、北海道では積雪があちこちで見られるようです。

伊豆での積雪は比較的少ないようで、昨年もここ修善寺では積雪があったという話は聞きません。が、標高の高い天城山(標高1500m程度)では毎年のように積雪があるそうなので、今度雪景色がみたくなったら行ってみようと思います。

このほか伊豆大島の三原山でも時折、積雪が見られるということです。が、こちらの標高は800mにも満たないので、降ったとしても大した量ではないでしょう。

この三原山ですが、先日大室山に登った時、もかなり間近に見えるのをみてビックリしました。双眼鏡でみると三原山の頂上の火口付近の様子まではっきり見えるほどです。

そういえば、それほど昔ではない時代に噴火したことがあったよな~と記憶に残っていたので調べてみると、最後に噴火したのは1990年だそうです。それでも20年以上も昔の話です。

しかし、これに先立つ1986年の噴火はかなり大きかったようで、溶岩流が麓の町に向かった流下しはじめ、地震活動が活発化するとともに、住民の多い波浮地区周辺で火山活動による割れ目が発見されるなどしたため、最終的に住民全員の島外避難が行われました。

帰島は約1ヶ月後になりましたが、幸い人的な被害はなく、農作物に被害が少し出た程度で、この噴火においても著しいダメージはありませんでした。

こういう話を書いていると、つくづく伊豆という土地は、火山と切っても切り離せない環境にあるなと感じてしまいます。先日来登山している山々のほとんどはその昔火山であったり、また大室山のように今は静かではあるものの、現役の活火山であったりします。

それだけパワーにあふれている土地柄だということなのでしょうが、我が家でもこんこんと湧き出る温泉の恩恵を受けています。ここに住んでいることだけでもなんだか元気にしてくれるような何か「気」のようなものを感じるのは気のせいでしょうか。いわゆるパワースポットということなのかもしれません。

そんなパワーにあふれた土地柄なのですが、伊豆半島も伊豆大島もその昔は、京都や奈良などの中央からみるととんでもない僻地であり、それゆえに「流刑の地」でもありました。伊豆に流された人で最も有名なのは源頼朝ですが、その子の頼家も修善寺に幽閉されており、日蓮も鎌倉幕府に嫌われて伊豆へ流されています。

では、伊豆大島にはどんな人が流されていたのかなと調べてみました。すると、一番古い
ところでは、天皇家の皇子の麻績王が675年にここに流されており、また中世では、699年には修験道の開祖といわれる役小角(えんのおず)が、更に平安時代末期には大物僧侶で立川流という密教の開祖である仁寛(にんかん)が1113年に流されています。

そして中世に流された人で有名なのが、源為朝(みなもとのためとも)。平安時代末期の武将で、弓の名手といわれ、鎮西を名目に九州地方で大暴れしたため「鎮西八郎」ともいわれます。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方について後白河法皇側と戦いましたが、負けてしまい、このため、1156年(保元元年)に伊豆大島へ流されました。

ところが、ここでも大暴れして国司に従わず、伊豆諸島の海賊を味方につけて伊豆大島だけでなく伊豆諸島を事実上支配したため、朝廷の追討を受け自害。ところが、ここでは実は為朝は死なず、琉球まで逃れて生き残り、その子が琉球王家の始祖といわれる「舜天」になったという伝説も残っています。

この為朝さんという人は非常に面白い人物なので、また機会あればじっくり取り上げてみたいと思います。

その後戦国時代に入るころには伊豆大島は後北条氏の北条早雲の子孫の支配下になったため、あまり公の流人は流されていませんが、江戸時代に入ってからは引き続き流刑地としての役割を担うようになり、主として政治犯が流されました。

有名どころでは、「越後騒動」という越後国高田藩で起こったお家騒動で、藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対する一派重臣とが争い、幕府の裁定は争った者たち同士両成敗という結果でしたが、その処罰の一環として、小栗美作の弟の小栗兵庫という人物が1682年(天和2年)に伊豆大島に流されています。

また、1702年(元禄15年)には有名な赤穂浪士の討ち入り事件があり、四十七士のひとりであった「間瀬正明(ませまさあき)」とその長男の「間瀬正辰(ませまさとき)が、吉良上野介の首をあげたあと、間瀬正明は熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられ、翌年切腹。息子の正辰も水野忠之の屋敷に預けられたあと、切腹しました。

間瀬正明には、次男がおり、間瀬正岑(まさみね)といいましたが、幼かったため討ち入りには加わらず、しかしお咎めを受け、1703年(元禄16年)に伊豆大島へ流されました。

伊豆大島へはこのほかにも、吉田兼直・中村忠三郎・村松政右衛門といった、赤穂浪士の遺児が流されましたが、本家浅野家の瑤泉院(松の廊下で吉良を切りつけた浅野長矩(ながのり)の正室)の運動などが功を奏して、三年後の1706年(宝永3年)に赦免されました。

しかし、間瀬正岑だけはそれを目前にして大島で病死しており、大島の元町というところにそのお墓があります。その命日は4月24日だったそうで、300年目にあたる2005年のこの日には、その墓前で「300遠忌慰霊祭」が行われたそうです。

このほか、1612年(慶長17年))にはキリシタンの「ジュリアおたあ」という女性も伊豆大島に流されています。

この人物、私的には全くノーマークだったのですが、知れば知るほど興味深い人生を送っています。

その出自は秀吉が行った朝鮮出兵、いわゆる文禄の役(1592年(文禄元年))の際、秀吉の配下にあったキリシタン大名の小西行長が、戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘を捕虜として日本に連れ帰ったのだと言われています。

朝鮮の最後の王朝である李氏朝鮮の上級官僚「両班」の娘ともいわれていますが、生没年や実名、家系などの仔細は不明です。

文禄の役では、日本軍に平壌近郊で捕縛・連行されてのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで「おたあ」と名付けられ実子のように育てられました。

やがて両親もそうであったように洗礼を受け、ジュリアと名付けられます。そしてクリスチャン名でカタリナと呼ばれていた夫人の教育のもと大名の子としての英才教育を受けるようになります。とりわけ小西家に伝わっていた「薬草」の知識においてとくに造詣を深めたといわれ、聡明で気品のある女性であったと伝えられています。

その後の1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦いでは、小西行長は石田三成に呼応し西軍の将として参戦し、奮戦するも敗退。この年の10月に市中引き回しの後、京都の六条河原において石田三成や安国寺恵瓊と共に斬首されました。

カタリナ夫人は、その後薩摩の大名家に嫁いだといわれています。が、カタリナは実は行長の夫人ではなく娘だという説もあり、この人物の生涯は不明な点が多いようです。

育ての親を失い、またしても天涯孤独の身なってしまった、おたあでしたが、その才気と美貌を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として暮らすことになりました。

やがて長じると家康の側近く仕えるようになり寵愛を受けるようになりますが、クリスチャンとしての気概は忘れてはおらず、昼間は家康の側妾としての仕事を行い、それを終えた夜には祈祷を行い、他の侍女や家臣たちに聖書を読んでその内容を聞かせ、キリスト教信仰に導いたといわれています。

しかし家康は、天下をとったあとキリシタン棄教の方針を諸大名に伝え、おたあにもこれを要求するようになります。おたあはこれを拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、1612年(慶長17年)に禁教令を犯したとして駿府より追放され、伊豆大島へ流罪となりました。

伊豆大島に流罪になったあとも、八丈島(もしくは新島)、神津島へと次々と島を変えて流罪となったといわれますが、どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされます。

3度も遠島処分にされたのは、他の流人の赦免との引換えを望んだからだとも、また再三の家康への恭順の求めを断り続けたためとも言われていますが、このほかにも駿府時代の侍女でクリスチャンだった仲間と再会したため、この仲間とともに八丈島、または新島などで修道生活に入ることを希望したのではないか、という説もあるようです。

おたあは、島民にもキリスト教を教え、その教化によって多くの島民も洗礼を受けたといわれていますが、現状において伊豆大島には教会はひとつしかなく、この教会にもおたあにまつわる話は残っていないようであり、おたあの布教によって大島の人にキリスト教が深く根付いたという事実はないようです。

おたあはその後、神津島で亡くなったと伝えられています。しかし、1622年にイエズス会のフランシスコ・パチェコという神父が書いた「日本発信」という書簡には、おたあは神津島を出て大坂に移住してこの神父の援助を受け、のちに長崎に移った旨の記述があるそうです。

このことから、神津島での刑期を終えた後許され、大阪から長崎に移ってそこで亡くなったという説もあるようです。しかし、神津島以降の実際の消息および最期についての本当のことはわかっていないようです。

しかし、1950年代に神津島のある郷土史家が島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、おたあは神津島で死んだという定説が生まれ、このためこれ以降神津島では毎年5月に、おたあの祖国と考えられる韓国のクリスチャンも加え、日韓のクリスチャン合同での慰霊祭が行なわれているそうです。

伊豆大島への罪人の配流は、島民による流人の受入れや三宅島までの流人船の御用が大きな負担となっていました。このため、1766年(明和3年)には、島民への年貢の上乗せを条件に流人船御用が免除されるようになり、これ以降は大島への流人は途絶えるようになります。

そして、1796年(寛政8年)には、御蔵島・利島とともに正式に流刑地から除外されるようになり、これ以降、伊豆大島は流人の島ではなくなりました。

その後、明治に入り、伊豆大島と伊東の間には定期航路も開かれるようになり、1928年(昭和3年)に東京との間に日本航空による航空便も就航するようになって、伊豆大島はもはや孤島ではなくなりました。

この同じ年に、は野口雨情作詞・中山晋平作曲の「波浮の港」という歌がヒットしたため、訪れる観光客が増加し、これ以降、現在でも伊豆大島では観光は重要な産業のひとつです。

1931年(昭和6年)には三原山の砂漠(溶岩原の通称)にロバやラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園しています。

明治30年代ころから、乳牛・酪農が行われるようになり、現在でもさかんに行われています。伊豆大島牛は味の良いブランド牛として有名であり、酪農製品も数多く本土に出荷されるようになりました。

この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は「大島産椿油」として高級品として取引されました。現在では整髪用にはほとんど使われないようですが、食用の高級品油などが取引されているようです。このほか、海洋性の温暖な気候を利用し、切花等の栽培も盛んです。

また、漁業においても日本でも有数の好漁場を近海に持ち、恵まれた漁業環境にあることから、採貝や伊勢えび漁に従事する漁業者が多いようですが、最近は漁獲量も減っているということで販売対象も観光客目当てのことも多くなってきているようです。

伊豆大島の人口は、昭和27年には13,000人を数えたこともあるそうですが、平成24年10月末現在の島の人口は8459人となり、年々減少気味。昭和40年代に入り起こった離島ブームによる観光の活発化や、オイルショック等によるUターン現象で、人口の増加がやや上向いたこともありましたが、不況による観光の停滞などで昭和50年頃からは微減を続けているようです。

温暖な気候で、住みやすそうですが、実際に住むとなるとやはり気になるのは三原山の噴火でしょうか。

やはり、行くとしても観光目的の短期滞在でしょう。東京の竹芝ターミナルからは高速船で1時間45分で着くようで、この便は一日に2~3便ほどあるようです。このほか夜発朝着ののんびりした船便もあるようで、これは横浜からも出ているようです。

伊豆半島からは熱海~大島間を45分で結ぶ定期便があるようです。なので、一度も行ったことのない伊豆大島へは今度ぜひ訪れてみたい場所のひとつです。

なお、空路は羽田から一日一往復の便(片道30分)が全日空により運航されているほか、調布飛行場からはコミューター機が飛んでおり、こちらは一日三往復だとか(片道35分)。東京以西の山奥?に住んでいる方々には、「ちょっと海を見に」行くためには良い場所に飛行場があるものです。

伊豆大島では年明けの1月ころから椿の花が咲くようで、300万本ともいわれる椿の木の群生はなかなか見応えあるようです。年が明け、まだまだ桜や梅の咲かぬこの時期、伊豆大島へ行って椿でも鑑賞しながら伊豆大島牛を食す。なかなか良いと思います。あなたも行ってみませんか?