タイタニックの人々

2015-8868今日は、103年前にイギリスの豪華客船「タイタニック」が沈没した日です。

当時世界でも最大級の客船が起こした事件であり、多数の犠牲者を出したことで史上最悪の海難事故といわれ、また処女航海でもあったことから、一層センセーショナルな受け止め方をされ、今日に至っています。

このブログでも再三とりあげ、もう新しく書くネタもないな、というくらいなのですが、史実を調べていくといまさらのように色々と知らなかったことも出てきたりして、ついつい深入りしてしまいます。

なぜそれほどまでに惹きつけられるのかについて考えてみたのですが、ひとつには、船の沈没という異常事態において、限られた短い時間の間にこれに対処しようとする人それぞれの生き様のようなものが浮き彫りにされること。

そこで取った行動は後世の人には様々に受け止められ、批判にもつながるようなものもある一方で、賞賛されるような英雄的な行為もあったわけですが、それぞれがそれまで生きてきた中で培った判断基準に基づく行動をとったわけであり、良かれ悪しかれ、そこにはその人の人生が凝縮されているように感じます。

あるいは、何かをしようと思ったものの、何もできなかったという人も多かったと思われ、生死を分ける瞬間にどういった時間がどの程度与えられたかによって、その人のそれまで生きてきた価値のようなものが神様に試されたような気もするわけです。

さらに、豪華客船だけにその当時一流と言われた人々が乗船していた一方で、船底に近い三等船客室には、アメリカに移民することで新たな道を切り開こうとしていた貧しい人々もおり、そうした身分の差を超えていかに人間的な行動をとったか、とれなかったか、なぜとらなかったのか、といった時代背景的なところにも興味がわきます。

ジェームズ・キャメロン監督が製作した映画、「タイタニック」はそうしたこの当時の身分差を超えた恋愛を中心とし、生死の境の場でその時代の人々がどう生きようとしたか、あるいはどう死んでいこうとしたかを見事に描き切った、ということでその当時高い評価を得ました。

私もその昔この映画をみて本当に感動したのですが、今日改めてそうした生死の狭間にあった人々がどう行動したかについて、少し整理してみようかと思います。とはいえ、膨大な人々がいる中でのことであり、どういった人を取り上げるかについてはそれこそ私自身の「判断基準」によって選別ささせていただくことにしましょう。

まず、やはりこの船を沈没に追いやった最大の責任者ということで、船長のエドワード・スミスをみてみましょう。

この人は、イングランド中部のハンリーというところで、陶芸家の父の元に生まれたという経歴を持ち、それほど上流階級の生まれというわけではありません。13歳の時に既にリバプールで船舶の仕事に就いており、その後船舶関係の仕事で研鑽を重ね、30歳でタイタニックを保有するホワイト・スターライン社に入社しました。

入社時してすぐに四等航海士となり、その後、会社のオーストラリア航路やニューヨーク航路に勤務し、瞬く間に昇進を重ねていき、37歳で蒸気船リパブリックの船長となると同時に英国海軍予備役大尉となりました。これは、戦争の際には英国海軍の一員として活動することを求められうることを意味していました。

40代からはより大型船の船長を務めるようになり、45歳から9年間はブルーリボン賞を受賞したこともある高速客船、「マジェスティック」の船長を務めました。この間、イギリスとオランダ系ボーア人が南アフリカの植民地化を争った第二次ボーア戦争が始まると、スミスはマジェスティックとともに徴用され、南アフリカへの軍隊の輸送にあたりました。

この時の南アフリカの植民地、ケープへの2回の航海では何も事件が発生せず、スミスはこの輸送で1903年にエドワード7世から「Transport Medal」を授かっており、ここでスミスは「安全な船長」という評価を受けることとなりました。

しかし、3回の座礁、3回の船内火災と、決して無事故ではなかったといい、このころからもう既にどうも船長としての資質の何かを欠いていたフシがあります。

スミスは、やがてその先任順位が上がるにつれて、乗客や乗組員から穏やかで華麗だという評価を得るようになっていきましたが、54歳になったころにはホワイト・スターライン社の他の全ての船長から報告を受ける立場の先任船長の立場となりました。

乗客の中には大西洋を横断する際にはスミスの船を選ぶ者もでるほどになり、また、イギリスの上流階級から、自分たちの乗る船の船長をスミスにしてくれという要求などもあり、「大富豪たちの船長」として知られるようになりました。

先任船長となって以来、新しい船が出来上がった際の処女航海で舵を取ることは決まった仕事となり、当時世界最大であったホワイト・スター社の客船バルチックや大型客船アドリアティックの処女航海を担当しましたが、特段事故は発生しませんでした。

アドリアティックの船長時代、スミスは予備艦隊から永年勤続表彰を受けるとともに、中佐に昇進しています。ますます評価は高まっており、世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げていきました。

そこで、ふたたびこの当時世界最大の船の最初の船長のお役目が回ってきます。それがタイタニックとともに姉妹船として建造された「オリンピック級」の客船「オリンピック」でしたが、そのリバプールからニューヨークに向けての処女航海においても初代船長としの役割を担いました。

2015-8818

この任務はほぼ無事終了しました。しかし、この航海では、ニューヨーク港に接岸する際、12隻のタグボートのうち1隻をオリンピックの船体に衝突させてしまっており、これは右舷スクリューが発生させた後流によってこの船が翻弄されたためでした。また、その3カ月後にオリンピックはさらに大きな事故を起こしました。

イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、このときホークは船首を破損し、この衝突でオリンピックの防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がりました。オリンピックは自力でサウサンプトン港に戻ることができましたが、海軍側はこの事故がオリンピックが巨大であったことによる吸引力が原因だと主張しました。

この事件の最中、スミスはブリッジにおり、その一部始終を指示する立場でした。このとき姉妹船のタイタニックはまだ建造中でしたが、オリンピックのこの事故により、タイタニックに取付ける予定だったプロペラシャフトの一つをオリンピックに使うことになり、このためタイタニックの完成を遅らせざるをえなくなりました。

このため、タイタニックの処女航海は予定より20日ほど延期となりましたが、こうしたトラブルにも関わらず、タイタニックがサウサンプトンから処女航海に発つ際に、スミスは再び船長として徴用されました。

このときスミスは既に62歳になっていましたが、出航当日もスミスは外套に山高帽という普段の服装で自宅からタクシーでサウサンプトン港に向かい、午前7時にタイタニックに乗り込みました。

しかし、その12時の出発の際にもその先を案ずるようなちょっとした事件がありました。この港に係船されていたシティ・オブ・ニューヨークという客船が、タイタニックが通過する際のスクリューの水流に巻き込まれ、係留具が外れてタイタニックに向かってしまったのです。

このときはスミスの迅速な指示により間一髪で衝突は回避されましたが、こうした似たようなことを再三繰り返してきたことをみると、エドワード・スミスという人は、やはりどこか船長としてどこか抜けていたのではないか、と想像してしまいます。

自身の操船の技術そのものは優れていたかもしれませんが、部下に安全に船を運航を指示する、あるいはそういう組織を育て上げるといった能力に欠けていたようにも思われます。管理技術者として人の上にたつための何かが足りなかったのではないかと思わざるを得ません。

サウサンプトン港出航の直前にはこんなこともありました。このとき前任の航海士が後任の航海士と入れ替わるという人事異動があり、異動となった前任の二等航海士が、双眼鏡をキャビンにしまったことを後任の航海士に引き継がないまま下船してしまいました。

このため、この二等航海士用の双眼鏡はその所在を知らないまま出向するところとなりました。双眼鏡による監視は二等航海士による専任作業であり、このため、タイタニックはその後の航海においてその進路における周辺の監視を双眼鏡を使わずに肉眼で行うしか方法がなくなります。

些細なことかもしれませんが、そうした人事に伴う大切な備品の引き継ぎなどについても組織としてきちんとした管理が行われていれば、そうしたことはおこらなかったはずであり、そうした管理面でも最高責任者としての船長スミスの力量が問われていたわけです。

この双眼鏡がなかったということは、その後の事故の直接的な要因とはいえないにせよ、その後の沈没原因の究明にあたっては疑義の対象となりました。

タイタニックは、出国直後から、たびたびその航路における流氷群の危険性が、無線通信で警告されていました。この危険性はスミス船長も認識しており、航路を通常より少なくとも18㎞南寄りに変更していたようです。

問題の海域である北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りは、多数の氷山を肉眼で発見していましたが、タイタニック号が問題の氷山に遭遇したころは海面には靄が漂っていました。

このときの当直見張員フレデリック・フリートという人物でしたが、上述のとおり、二等航海士から手渡されるはずの双眼鏡はなく、遠望はできない状態でした。

こうした靄があるような状態では双眼鏡は役に立たなかった可能性もあるわけですが、いずれにせよタイタニックのような大きな船の航海において、その目ともなりうる道具を備えていなかったという点は、当然、非難されるべき点でしょう。

2015-9801

とはいえ、夜でもあり双眼鏡があっても視界はまり効く状態ではありません。月のない星月夜でもあったため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れでした。

1912年4月14日23時40分、タイタニックは北大西洋で氷山に衝突します。船は2時間40分後の15日零時20分ごろに沈没し、約1,500人が命を落としましたが、スミス船長もまた亡くなった者の一人でした。

この氷山への衝突から沈没までの船長としての対応については、素早い救援要請を行い、脱出、救命のための指示などについても比較的迅速でした。が、一方では、1等船客を優先して避難させたことについては後年、大きな批判の声が上がりました。

沈没が差し迫ったタイタニックでは、スミス船長の指示により、左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮しましたが、彼等は1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行ったものの、それより下層の船客にはほとんど避難誘導を行いませんでした。

また脱出するためのボートが不足していた点についても被害者が増えた大きな原因です。これは会社側の責任ともいえますが、船を運航する安全管理者として、事前に会社に対して船長であるスミスから何も主張がなかった点も非難されてしかるべきでしょう。

さらに沈没までの時間の推定についても読みが浅かったといったことが指摘されているようであり、「不沈船」とも称されたこの大型客船の安全性に対しての驕りがあったことに対しては疑いようもなく、現在なら、生きていれば当然のようにその責任が問われたでしょう。

しかし、従来の慣例通り船と運命をともにしており、この点、昨年韓国で起きたフェリー事故の船長や、これ以前におきたギリシャの客船の船長のように自分だけ脱出するといった卑怯な行為は見られず、多少なりともその汚名をすすぐことができたのでは、という見方もあります。

タイタニックが沈んだ際、スミスがどのように亡くなったのかについては諸説があるようです。数人の生存者たちは、救命胴衣を身に付け海中にいるスミスを目撃したと証言している方で、オープンブリッジに浸水が及ぶ中、操舵室にいるスミスを見たという証言もあります。

また、沈没の10分前にあたる午前2時13分にスミスがブリッジに入っていったと証言している人もおり、最上階のデッキプロムナードまで戻ったスミスが、その直後に窓が割れて船内の大階段に向けて吸い込まれていくのを見たという証言もあります。

その死の瞬間がどうであれ、このときスミス船長はそれまでの人生をどう思ったでしょうか。その人生最大の失敗をしてしまったことについて、悔いるには十分な時間があったと思われますが、何を思いその瞬間を迎えたでしょうか。

エリート船長としての栄華とともに、その中で犯してきた数々の失敗を思い出し、それを悔いつつ迎えた死であったのかもしれません。

スミス船長以外にも自らの意思で船上に残り殉職した乗員も多く、沈没までの時間をいかに過ごしていたのだろう、自分だったらどうしただろう、などとついつい考えてしまいます。

一方では船員の多くは、乗客たちを脱出されるのに忙しく、皆それぞれが自分が与えられた立場においてその職責を十分に果たせたかどうかも考える余裕もなく、海の中へ消えていったと思われます。

2015-8880

この事故で亡くなった乗客側においても数々のドラマがありました。船と運命を共にした人の中には、スピリチュアリズムの開拓者であり、沈没を予言していたといわれるジャーナリストのウィリアム・トーマス・ステッドなどもおり、この人物については以前のこのブログ、憑いてますか?でもその生涯について書きました。

このほか、ブルックリン橋を完成させたことで知られる土木技術者・ワシントン・ローブリングの甥のワシントン・オーガストス・ローブリング二世とか、ドイツ出身のアメリカの実業家で後に百貨店のメイシーズを買収して世界的な百貨店に育て上げ、アメリカ下院議員も務めたイジドー・ストラウスといった人もこの事故で亡くなっています。

また、一等船客の女性で、他の女性に救命艇の座席を譲って船と運命を共にしたエディス・エヴァンズといった女性もいます。

独り身で旅をしていたエヴァンズには、付き添いの男性がおらず、エヴァンズと同じく1等船客で戦史研究家として知られ、後に生還を果たしたアーチボルト・グレーシー大佐という軍人がいました。彼は、エヴァンズと船内で語らっていたとき、彼女が数年前ロンドンで「水に気をつけるように」と占い師に言われたと語っていたことを証言しています。

二人はともに他の人々を思い遣ることができるタイプの人達であり、事故発生後も他人の避難を優先し、最後に乗る予定だった救命ボートも、降下の準備ができていたものの、エヴァンズとブラウンの両方を乗せる余裕はなく、どちらか一人しか乗船できませんでした。

このとき、エヴァンズは渋るブラウンに何度も「家でお子さんたちが待っているのだから、先にお行きなさい」と勧めたといい、この救命ボートはグレーシー大佐だけを乗せ、エヴァンズを船上に残したまま離船しました。

そのほかにも沈没の最後まで聖書を朗読し続けた神父、甲板上で音楽を奏で、最後の瞬間まで乗客の不安を和らげようと尽力したバンドの面々、船底に近い三等客室から必死で脱出の努力を続けた船客などなど、生と死の狭間でが繰り広げられたであろうドラマの数々を想像するにつけ、心が痛みます。

2015-0952

このタイタニックには、日本人も乗船しており、これは細野正文という、明治期の鉄道官僚でした。ミュージシャンの細野晴臣は孫にあたります。

細野氏は、1912年、第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の帰路の際、タイタニック号に日本人ではただ1人乗船していたのですが、タイタニック号の沈没ののち、「他人を押しのけて救命ボートに乗ったとの白人男性の「証言」を元にしたとされる誤報が流れました。

この話はすぐに日本国内でも広まり、新聞や教科書で社会的に大きな批判を集めることとなりましたが、ご本人は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えました。弁解しなかった理由は武士道精神と考えられています。

しかし死後の1981年になって彼が救助直後に残した事故の手記が発見され、映画「タイタニック」が公開された1997年に手記等の調査から人違いであることが確認されて正式に名誉回復がなされました。

このほか、この当時生後19ヶ月だったイギリス生まれの男の子は、両親や兄姉たちとともにタイタニック号に乗船して、事故に遭い彼を含む一家全員が死亡しました。その後、長い間「身元不明児」(The unknown child)と呼ばれていましたが、その身元が判明したのは、事故から1世紀近く経過した2007年になってからでした。

映画「タイタニック」ではこうした実在の人物だけでなく、主人公のジャック・ドーソン こと、レオナルド・ディカプリオやローズ・デウィット・ブケイター こと、ケイト・ウィンスレットなどの架空の人物が多数登場しました。

無論、そうした史実はないわけですが、映画の最後のほうでは、この「ローズ」という人物が事故後にアメリカに渡り、有名女優になった、といった描かれ方がされています。

キャメロン監督はとくに言及していませんが、私はこの「ローズ」というのは、生存者のひとりである、「ドロシー・ギブソン」という人物がモデルであったのではないかと思っています。

ニュージャージー州ホーボーケン生まれの彼女の家は貧しく、17歳くらいから歌手やダンサーとしてさまざまな劇場やボードヴィルの舞台に立つようになりました。20歳のころにはモデルの仕事を始めましたが、同じ年にメンフィス生まれの薬剤師と結婚しました。

結婚後もモデルなどの仕事を続けていましたが、その後徐々に人気が出始め、彼女の姿を描いたイラストは、さまざまなポスターや絵葉書、本の挿絵に使われるようになりました。更に「コスモポリタン」「レディース・ホーム・ジャーナル」といった著名な雑誌や新聞のカバーイラストなどにも採用されるようになり、その名は広く知られるようになりました。

その後この夫との仲は冷え切り別居に至りますが、22歳ころからは映画界入りし、パリを拠点とするエクレール・スタジオの主役級女優として雇用されました。まもなく、ここでもその自然で繊細な演技が賞賛を受けるようになり、とりわけ短編映画ではコメディエンヌとしての魅力を発揮して、映画スターの一人と認められるようになりました。

1912年、当時22歳のドロシーは母ポーリン(当時45歳)とともに、6週間の休暇をイタリアで過ごし、休暇の終わった後、ニューヨークで新たな映画シリーズの撮影に入る予定でした。2人はシェルブール港からタイタニック号に1等船客として乗船し、そしてこの事故に遭遇しました。

事故当時、ドロシーと母は、同じく1等船客だった乗客と一緒にラウンジでトランプ遊びを楽しんでいたといい、彼等とともに7番救命ボートに乗り込んで脱出し、生還を果たしました。この事故の後、ドロシーは自ら脚本を執筆して、事故発生から1ヵ月後に公開された映画“Saved from the Titanic”に主演しました。

2015-9119

この映画はアメリカのみならずイギリスやフランスなどでも大成功を収め、この成功によって、ドロシーは一躍ドル箱スターの座に着きました。しかし、その人気絶頂の中映画スターとしての一線を早々に退き、声楽家としてのキャリアを模索するようになります。

その後、声楽家としてもそこそこ成功し、ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスなどでも活躍しました。が、イーストマン・コダック社の大株主でユニバーサル・ピクチャーズの共同創立者でもある、映画界の大立者ジュール・ブリュラトゥールとの不倫などが発覚するなど何かと私生活では波乱が続きました。

前夫とは離婚し、二人はその後結婚しましたが、すぐにまた離婚。38歳のころ、一人身になったドロシーは、パリに移住しました。第2次世界大戦中にはナチスのパリ占領にもかかわらずレジスタンスとして活動すべく残留しました。が、2度にわたって敵性外国人として逮捕され、一度は収容所から脱走を果たしています。

しかし、2度の逮捕や脱走などは、ドロシーの健康を大きく損ない、57歳のときパリのホテル・リッツに滞在中、心臓発作を起こして死去しました。タイタニックの事故から31年後のことでした。

遺体はパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーにある墓地に埋葬されています。映画「タイタニック」の主人公とは少し異なる一生でしたが、これはこれで十分に映画にもなるような、ちょっとした物語として本にでもなりそうな、そんな人生でした。

映画「タイタニック」では、「ローズ」ことこのドロシーと「ジャック」ことディカプリオ様との恋物語が中心として印象的に描かれているわけですが、もうひとり、この映画で印象的に描かれていた人物で、実在の人物がいます。

映画のほうでも、そのまま実名で登場しており、この人は、「マーガレット・ブラウン 」といいます。

劇中、新興成金で、上流階級である他の一等船客からは成り上がり者として見下されているものの、貧乏人であるジャックが上流階級のパーティに出席する際に、彼女は息子の礼服を貸し出したり食事のマナーを耳打ちしたりしてジャックを陰から支える、という役柄で登場しました。

演技派女優であるキャシー・ベイツがこれを演じ、なかなかの見せ場を作りました。タイタニック沈没の時に救命ボート上で救助のため引き返すのを主張した乗客は彼女だけだったという設定でしたが、実際にもこの話にかなり近い行動をとっていたようです。

事故後、“The Unsinkable Molly Brown” とアメリカ国内で呼ばれるようになり、これは邦訳で「不沈のモリー・ブラウン」とされています。が、ここでのUnsinkableは、不沈の船といわれたタイタニックへの掛け言葉であり、「鉄の女」というほどの意味です。その後の人生でも不屈の精神により数々の慈善事業を成し遂げたため、こう呼ばれたわけです。

映画でもそう描かれたように、タイタニック号沈没事故の際、生存者捜索のため救命ボート6号を戻し、女性生存者の代表者格として有名になりました。その前半生は貧しかったものの、ある幸運から後半生ではこれを跳ね返すようなアメリカンドリームを体現してみせたことで、この当時のアメリカ国内ではかなり英雄視された人です。

ミズーリ州ハンニバルで、アイルランド移民の父母との間に生まれたマーガレットは、18歳のときコロラド州のリードヴィルという田舎町に姉妹とともに移り住み、デパートメントに職を得ました。金持ちと結婚する、というのが願望でしたが、実際に結婚したのはジェイムズ・ジョゼフ・ブラウンという、しがない鉱山技師でした。

しかし、夫のジェイムズは、進取に富んだ気性で、独力で勉強をし、自らの鉱山技術に磨きをかけました。その努力は実を結び、あるとき、ジェイムズの開発した技術が、堅固な原鉱に割れ目を入れるのに役立つことが証明されます。

彼が勤める鉱山会社の雇用主もこれを認め、自らが経営する鉱山でその技術を役立てるべく、資本金から12,500株をジェイムズに譲渡することを決め、理事の席を提供しました。

2015-9152

こうして鉱山からの利益で次第にジェイムズ一家は豊になっていき、その中でマーガレットは、女性の権利獲得に情熱を燃やすようになり、国立アメリカ女性参政権協会のコロラド支部の設立を助けるようになりました。

しかし、貧しい家庭に育った中でもクリスチャンとして親に厳しく育てられたマーガレットは、富裕層にありがちな高慢さなどはみじんほどもなく、夫の鉱山の鉱夫の家族を援助するスープ・キッチンで働くなどの庶民派であり続けました。

27歳のとき、一家は大都市であるデンバーに引越しますが、これによりさらに社会福祉の好機を得るところとなり、マーガレットはデンバー女性クラブの創立メンバーとなり、成人教育と慈善を通して、女性の生活の改善・解放を叫ぶ運動などにも身を投じるようになりました。

34歳のころには、ニューヨーク州のカーネギー研究所へ寄付をするなど科学研究の発展にも寄与するようになり、このころまでには社交界の女性の美々しい衣装にも順応し、芸術活動などにも没頭するようになりました。

勉強家だったようで、フランス語、ドイツ語、ロシア語にも堪能になり、42歳では、ついにアメリカ合衆国上院にも立候補しました。しかし選挙には落ち、また結婚生活23年目にして、夫とも非公式なら別居合意に達し、別々の道を歩むことになりました。が、離婚はせず、生涯を通じて互いを気遣ったといいます。

この合意によりマーガレットは示談金を手にし、現在博物館にもなっているデンバーの自宅も所有し続け、また旅行や慈善活動を続けるための費用を、月に700ドル受け取ることができました。そうした豊富な資金を惜しげもなく慈善活動に投じ、この資金によりデンバーの「無原罪聖母大聖堂」を1911年に完成しています。

さらには貧しい子供たちを助け、アメリカ合衆国初めての少年裁判所の設立に努め、近代的な少年裁判所のシステムの基礎確立を支えました。また、このころから、フランスでも人権運動などにも参加するようになっていたようです。

その関係で訪れたフランスから一旦アメリカへ帰国しようと乗船したのがタイタニックでした。マーガレットはフランスのシェルブールから、SS ノマディックという客船によってサウサンプトンまで行き、ここで旅客船タイタニックの一等船客となりました。

彼女はこのとき45歳でしたが、氷山に衝突して沈没寸前のタイタニックからの脱出の際にも博愛精神を発揮し、他の乗客が先に救命艇に乗り込むのを助け、自らの乗船は最後まで固辞していたといいます。

しかし、最終的には救命艇6号に乗って船を離れることを承諾します。離船後、この救命艇を指揮していたのはロバート・ヒッチェンズという操舵員でしたが、マーガレットなどの乗員が水に落ちて叫んでいる人々を救うために返すように促しても、彼はボートで沖へ出るのをやめようとしませんでした。

「戻っても無駄です」の一点張りを繰り返す彼に業を煮やしたマーガレットは、「乗員たちに暖を取らせるためです。オールを私たちに渡しなさい。」と、漕ぎ手を水夫たちから乗員たちに代えるよう要求しました。しかしそれでも尻込みする彼をみていたマーガレットは、ついに彼を無視して自らオールを奪い取り、乗客たちに渡し始めました。

彼はこれを見て驚き、抗議の言葉で彼女を口汚くののしり始めました。これに対して彼女は、「そこにじっとしていなさい。さもなければ海中に彼を放り投げるわよ」とやり返しました。これを見ていた他の乗客もようやく彼女に賛同を示すようになり、口々に、そうだ、静かにしていろ、と言い、水夫からオールを奪い、自らが手に手にこれを持ち始めました。

それでも彼が文句を言ったのに対してマーガレットは、”Don’t you know you’re talking to a lady?” と静かに言い放ったといいます。直訳すれば、「あなたは、女性と話しているということを知りませんか?」ですが、これは、「それがレディに対する礼儀なの?」というふうに意訳できると思います。

日本語ではその雰囲気が伝わりにくいものの、これはある種凄みの利いた恫喝です。

2015-8920

後年、こうしたやりとりが新聞で発表されるようになったときには、さらにこれに脚色が加えられ、彼女をさらに英雄に祭り上げるような書き方にされていったと考えられますが、いずれにせよ、こうして彼女は豪華客船の沈没という悲劇的な事故におけるヒロインとして人々に印象付けられるようになりました。

マーガレットはその後、カルパチア号に救助された際も、女性乗客の間でリーダーシップを発揮したといい、その後の慈善活動において、その評判は非常に役立ちました。彼女が勝ち取ろうとしていた労働者と女性の権利や、子どもの教育の推進において、彼女の名声がモノをいったわけです。

タイタニックの沈没から10年後の1922年には、夫のジェイムズが亡くなりました。このときマーガレットは、「彼ほど高潔で、心の広い、すばらしい男性はいなかった」と語っています。夫婦の間には2人の娘がいましたが、33歳と35歳になっていたこの子らとは、夫の財産の継承をめぐって5年間争うことになりました。

二人は非常に浪費癖があったといい、彼女にすれば忸怩(じくじ)たる思いがあったでしょう。しかしこの裁判の結果は彼女にとって不利なものとなり、マーガレットは現金と証券とでたったの20,000ドルだけしか受け取ることができませんでした。

が、ほかに100,000ドルの信託財産の利子が彼女の名で用意されました。これは現在の日本円の価値に換算して3億円あまりです。

とはいえ、富豪といわれた往時に比べればこの額はあまりにも少なく、残りの多くの額は2人の子供が受け取ることになりました。マーガレットはこれ以降亡くなるまで、この2人に会うことはなかったといいます。

その後、マーガレットは、第一次世界大戦で荒廃していたヨーロッパにおけるアメリカ人支援などの活動に参加するために再度フランスに渡りました。フランス人やアメリカ人兵士の傷病者を助ける運動を続けていましたが、アメリカでの慈善活動を含め、そうした一連の活動が認められ、フランスのレジオンドヌール勲章が授けられました。

人生最後の数年間は、女優業にも取り組んでいたといい、最後の最後まで活動的な女性でした。1932年、タイタニックの沈没からちょうど20年を経たこの年、睡眠中の発作により死去。65歳でした。その遺体は、ニューヨーク州ウェストベリーのホリールード墓地に埋葬されています。

その死は世界大恐慌の間のことであり、先に裁判で父親から財産の贈与を受け取っていた2人の娘は、さらに浪費を繰り返していたのか貧窮しており、彼等はマーガレットの財産をたった6,000ドルで売却したといいます。

マーガレットはその生前、夫のジェイムズ・ブラウンと結婚したときのことを述懐してこう語っていたそうです。

「お金持ちと結婚したかったけれど、私はジェイムズを愛しました。私は父を楽にさせてやりたかったし、疲れて年老いた父にしてやりたかったことをかなえてくれる男性が現れるまでは、ずっと独身でいようと決心していました。」

「ジムは私たちと同じくらい貧乏だったし、チャンスに恵まれた人生を送っていたわけではありません。私はその頃、激しく葛藤していました。私はジェイムズを愛していたけれど、彼は貧しかったのです。」

「最終的に私は、富で自分を惹きつける男性とではなく、貧しくても愛する男性と過ごすほうが幸せだという考えに至りました。だから私はジェイムズ・ブラウンと結婚したのです。」

けっして損得を考えて行った結婚ではなかったでしょうが、その結婚とその後のタイタニックの事故をきっかけに英雄視されるようになっっていったその一生を彼女がけっして計画していたものではなかったことが、これからもわかります。

人の一生というものほど摩訶不思議なものはない。いつにもましてそう思う次第です。

2015-9198

タイタニックの姉妹


その昔、どういうタイミングでだったのかよく覚えていないのですが、都内の映画館で映画「タイタニック」を見ました。

おそらく仕事が早く終わったために余った時間を使ったのだと思いますが、改めて公開された年を調べてみると、1997年といいますから、もう16年も前ということになります。

ジェームズ・キャメロン監督・脚本によるアメリカ映画であり、1912年に実際に起きたタイタニック号沈没事故を基に、貧しい青年と上流階級の娘の悲恋を描いて大ヒットした作品です。

主にSFアクション映画を手掛けてきたキャメロン監督が、一転して挑んだラブロマンス大作ですが、ほぼ実物大のセットまで作って撮影に臨んだということから、細部に至るまでかなりリアリティのある映画で、とくに後半ではパニック映画さながらの緊迫感のある展開で、見る人をぐいぐいと引き込んでいきます。

ラストシーンもまた感動的であり、驚いたのは、周囲の多くの女性のすすり泣きの声が聞こえてきたこと。私もいろんな映画をみていますが、こういうことはめったになく、それほど力のある作品だったということなのでしょう。

それもそのはず、この映画は全米で6億ドル、日本で興収記録262億円、全世界で18億3500万ドルの売り上げを記録し、同監督の「アバター」に抜かれるまで映画史上最高の世界興行収入を記録し、ギネスブックに登録されていたほどの映画でもあります。

また、1998年のアカデミー賞において、作品賞、監督賞、撮影賞、主題歌賞、音楽賞、衣裳デザイン賞、視覚効果賞、音響効果賞、音響賞、編集賞の11部門で受賞するなど、ほとんどを総なめしました。

また、セリーヌ・ディオンが歌う主題歌“My heart will go on”も大ヒットしましたが、私はいまだに毎朝のジョギングに出るときに持って出るウォークマンにこの曲を入れています。

このタイタニック号については、おそらく知らない人はいないでしょう。20世紀初頭に建造された豪華客船であり、処女航海中の1912年(明治45年)4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没しました。

犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人であり、当時世界最悪の海難事故であったことから、この映画だけでなく、何度か映画化され、世界的にその名を知られています。

ところで、この沈没したタイタニックには、これ以外にも、北大西洋航路用に計画された2隻の姉妹船があったということをご存知でしょうか。

意外に知られていないことのようなので、今日はそのことについて少し書いてみようと思います。

タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社(White Star Line)という会社によって建造された3隻のうちの2番船であり、これらの船は総じて「オリンピック級」と呼ばれていました。残る姉妹船とは、一番最初に建造された「オリンピック」と最後に完成した「ブリタニック」の2隻です。

ホワイト・スター・ライン社は、これらの船の建造に遡ること60年以上前の1845年に創業した、イギリスの老舗の海運企業です。「オーシャン・ライナー」といわれる数々の客船を運航させ、同じイギリスの海運企業であるキュナード・ライン社と19世紀後半から20世紀初頭にかけ激しい競争を繰り広げたことでよく知られています。

しかし、タイタニックの沈没を契機として、経営は次第に悪化していき、1934年、ライバルのキュナード・ラインに吸収合併され、その社名も「キュナード・ホワイト・スター・ライン」に変更されました。

その後、これも世に名高い豪華客船として知られる「クイーン・メリー」や「クイーン・エリザベス」などを就航させましたが、1945年には解散、同時にキュナード・ホワイト・スター・ラインはキュナード・ラインに社名を戻したため、「ホワイト・スター」の名前は消滅し、現在その企業的な名残はこの世に存在しません。

タイタニックなどを造船していた当時のホワイト・スター・ラインは、当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社でした。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計された船です。

ちなみに、ブルーリボン賞(Blue Riband)とは、大西洋を最速で横断した船舶に与えられる賞であり、大西洋航路の最速船の所有を広報することを目的として、1830年代に複数の大西洋横断航路運航会社の協賛によって設けられた賞です。

東回りと西回りに分かれた2種類の賞があり、当初、ブルーリボン賞を受賞した船舶は細長いブルーのリボンをトップマストに掲揚する栄誉に浴することができました。

「スピードの時代」と呼ばれた1930年代、同賞は各国の海運会社の威信を賭けた競争となり、各船は国の資金や技術協力を得て記録更新に挑みました。ブルーリボンを獲得することは受賞した国や船舶会社にとっての栄誉であるだけでなく、それに乗船する船客にとってもステータスとなったためです。

1935年にイギリスの政治家でありヘイルス・ブラザーズ社のオーナーでもあるハロルド・ケーテス・ヘイルス卿という人が自費でトロフィーを製作し、これはハレス・トロフィー(Hales Trophy)と呼ばれ、以降、世界最速記録を3ヶ月の間保持できた船にはこのトロフィーが贈られました。

しかし、大西洋横断といっても、海上に線が引いてあるわけではなく、その距離は航路によりかなり異なります。

このため、ブルーリボン賞は横断航海の平均速力に基づいて与えられることとなり、基本的には、西側の終着点はカナダ、アメリカ東海岸各港のいずれでも良く、東側の終着点はアイルランド、イギリス、西ヨーロッパのどこでも良いというきまりとなりました。

しかし伝統的に、大西洋横断の記録はニューヨークを出発もしくは目的地とした航海によるものが多く、そのほとんどがニューヨーク港を出発点または帰着点としています。

現在までのところ、西回り航路ではアメリカのユナイテッド・ステーツ・ラインの保有船で、その名も「ユナイテッド・ステーツ」という船が、61年も前の1952年に、3日と12時間12分で達成した34.5ノットが最高です。

一方の東回り航路では、1998年7月20日にオーストラリアのインキャット社によって建造された「キャットリンク5(Cat-Link V)」という船が達成した、2日と20時間9分という記録が最高で、このときの平均速度はなんと41.3 ノットでした。

これは、時速に換算すると、76.5km/hであり、波の荒い外洋をこの速度で運行したというのは天候にも恵まれたということなのでしょうが、驚異的な数字です。この数字は西回り航路でユナイテッド・ステーツが残した記録を優に上回るため、事実情この船が客船としては世界最速ということになります。

しかし、ユナイテッド・ステーツは、試験運転で40ノット以上を出したという記録もあるようで、やはりユナイテッド・ステーツが本当の保持船舶なのではないかという意見もあるようです。が、このあたりのことは本日のこの項にはあまり関係がないので、これ以上触れるのはやめておきましょう。

さて、先述の通り、タイタニックには姉妹船として、オリンピックとブリタニックという二隻の船が存在しましたが、これらの三隻もの大型客船が建造されたのは、この大西洋路線がホワイト・スター・ライン社にとってはドル箱航路だったためです。

キュナード・ラインなどの他社との激しい競争を制するためには、一隻では賄いきれず、最低二隻を常に交互に運行させる必要があったためでもあり、予備船を入れての三隻体制は実に合理的な運行体制でした。

こうして三隻体制の先駆けとして、まず最初に「オリンピック」の造船が開始され、ほぼ同時期に二番船タイタニックの建造も開始され、そして最後に少し遅れて三番船ブリタニックの造船が開始されました。

タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に造船が開始されたこともあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つでした。

しかし、キャメロン監督の映画「タイタニック」では、まるでこの当時の巨大船はタイタニックのみであるような脚色がなされていました。

が、実はタイタニックと同じ船が三隻もあり、これらを総称して「オリンピック級」と呼んでおり、またこの三隻の中では最初に建造された「オリンピック」こそがその代表であり、タイタニックは二番艦にすぎない、という印象でこの時代の人々は受け止めていたようです。

このため、ホワイト・スター・ライン社もその宣伝にはオリンピックのほうを前面に出すことが多く、タイタニックの写真としてもオリンピックのほうの写真が使われるということも度々行われていました。この当時タイタニックはオリンピックの陰に隠れた存在であったというわけです。

とはいえ、オリンピックとタイタニックは姉妹船であるがゆえに、その構造上の差違点はほんの少しでした。

しかし、タイタニックの建造が始まったとき、オリンピックは既に先立って運航されていたため、このオリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックのときから多少変更が加えられました。

その代表としては、海に面してベランダ状に設けられていた一等専用のプロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックでは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付けられ、サンルーム状の半室内にされていたことでした。

このことは映画「タイタニック」をご覧になった方は覚えておられるでしょう。主演のレオナルド・ディカプリオが、映画ではローズ役だったケイト・ウィンスレッドの母親と初めて対峙する場面がこのサンルーム内のプロムナードデッキ上でした。

これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためでしたが、この結果としてタイタニック号はオリンピック号よりも少々すっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となりました。

このほかにも、オリンピックではBデッキ(オリンピック級では最上階のAデッキから最低部のEデッキまでのデッキがあった)の窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックでこれが廃止され、代わりに窓際全体に一等船室が新たに設けられ、この結果、一等船室の数がオリンピックに比べ大幅に増加しました。

映画の「タイタニック」では、ローズとその婚約者の豪華な居住船室が映し出されていましたが、これはここに増設された一等船室のうちの2部屋あったスイートルームのひとつです。

このほかにも、外観上からはその違いがわかりませんが、タイタニックでは、船体後部に豪華絢爛な一等船客専用レストラン、「アラカルト」が設けられており、オリンピックにはこの部分にはレストランはありません。

こうした違いから、当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずでしたが、とくに一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピックの総トン数45324トンよりも1004総トン大きい46328トンになりました。

従って、厳密な意味で言えば、タイタニックはオリンピックの規模を超えており、またオリンピックには存在しないスイートルームの増設など、当時世界最大で豪華な設備を有した客船であったことになります。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉なことにその沈没によってのことでした。

ブリタニック

一方、タイタニックよりも更に後に建造されたブリタニックはタイタニックの沈没によりその悲劇を繰り返してはならないと、安全面が大きく見直され、その再設計のため大幅に造船が遅れました。その結果としてタイタニックが沈没した1912年からおよそ3年後の1915年に就航しています。

建造が遅れた理由のもうひとつは、建造ドックが二つしかなかったためでもあります

この二つのドックでは、オリンピックとタイタニックの建造が先に行われ、1908年に一番船オリンピックの建造が始まり、その1年後の1909年には二番船タイタニックの造船が開始され、そしてオリンピックが進水した1911年になってようやくドックが空いたため、三番船のブリタニックの造船が開始されました。

前述のオリンピックとタイタニックとの違いでも述べたとおり、構造的にはこの二つには大きな相違はなく、これはブリタニックも同様であり、これら三姉妹の最初の基本的な図面は全く同じでした。

しかし、実際先立って乗客を乗せて航海を始めた一番船オリンピックの問題面や改善点を受け、二番船であるタイタニックは若干の仕様が変更されたように、ブリタニックでも運営上の理由から同様の変更が加えられました。

しかもブリタニックでは、タイタニックの沈没を受けて、構造的には大幅な設計変更が加えられることになりました。底部のみだった2重船底を側面まで延長し、さらにはタイタニックではEデッキにしかなかった防水隔壁をBデッキまでかさ上げする処置がとられました。

また、最上部のボート甲板、船尾楼甲板にはクレーン式のボートつり柱の取り付けが行われ、3等船客用の遊歩甲板は標準型救命ボート12隻で埋め尽くされました。

これは、タイタニックの沈没の際、救命ボートが足らず、これが原因で多くの人が海上に投げ出されて死亡する原因となったことを受けての処置でした。

タイタニックの沈没当時、イギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく、このためタイタニックには乗員乗客合わせて2200人以上もの人が乗っていたのにもかかわらず、1178人分のボートしかありませんでした。

このようにタイタニックに少ない数のボートしか搭載されていなかった理由としては、タイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故も影響していたといわれています。

リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方がこの当時は支配的になっていたのです。

しかし、タイタニックの教訓からブリタニックではこのように多数のボートが搭載されることとなり、しかもクレーンによって短時間で多数のボートを下ろすことが出来るよう改良されていました。

さらに、ホワイト・スター・ライン社はこの新型船の船長の選定にもかなりの気を配りました。

タイタニックの船長であった、エドワード・ジョン・スミスはこの当時、世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げており、このためこの当時世界最大の船であったオリンピック級客船のネームシップでもある、オリンピックの最初の船長としてもその就任を請われることになりました。

その処女航海は、リバプールからニューヨークに向けて行われ、1911年6月に無事終了しましたが、ニューヨーク港に接岸する際、オリンピックは12隻のタグボートのうち1隻を右舷スクリューが発生させた後流によって衝突させてしまいました。タグボートは反転し、巨大なオリンピックの船体に衝突しましたが、この時は大きな事故にはなりませんでした。

ところが、この三か月後の9月、スミス船長が操船するオリンピックは初めて大きな事故を起こします。イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、この事故でホークは船首を破損し、オリンピックもまた防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がりました。

しかし、このとき、オリンピックは幸いにも自力でサウサンプトン港に戻ることができました。

このように、オリンピック、タイタニックの船長を務めたエドワード・ジョン・スミスは、船長としての経験は長かったものの、巨大船に充分慣れていなかったといわれており、ホワイト・スター・ライン社としても、タイタニックの沈没によってそのことを遅まきながら認識したのでした。

このため、ブリタニアの就航にあたっては、当時オリンピック級に匹敵する巨大船、ルシタニア・モーリタニア・アキタニアといった船を保有していたキュナード・ライン社から、こうした大きな船の扱いに熟練したチャールズ・バートレットを引き抜き、彼の指導のもとにブリタニックの艤装工事を完成させました。

そして、ブリタニックが進水すると、そのまま彼を横滑りで船長に就任させました。

このとき、タイタニック沈没以前に内定していた船名ガイガンティック(Gigantic)をブリタニックと改名していますが、実はこのブリタニックという名前の船には先代がありました。

同じくホワイト・スター・ライン社が1874年に建造した客船であり、蒸気船でしたが補助用の帆も備え付けられていたため、快速を誇り、1876年にブルーリボン賞を受賞、その後も30年もの長きに渡って客船として活躍しました。

この船も進水直前に当初の船名「ヘレニック」から「ブリタニック」と改名されており、過去に同社が保有した数々の船の中でも特に優れた船として名を残していることから、どうやらこの二代目の名称変更もそのゲンを担ごうとしたのでしょう。

こうして1914年に進水式を迎えたブリタニックですが、ちょうどこの年に第一次世界大戦が勃発しており、その就航は翌年の1915年に延ばされました。しかし、竣工直後の1915年12月、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されることになりました。

このとき、ブリタニックの黒い船体は純白に塗りかえられ、船体には緑のラインと赤十字が描かれることとなりました。

ちなみに、この時、姉妹船のオリンピックもまた軍に徴用され、軍事物質輸送船として戦場に狩り出されており、この船もまた船体に迷彩色が加えられるなどその外見に手が加えられています。

こうして、1916年11月12日14時23分、ブリタニックはギリシアのレムノス島へ向けてサウサンプトンから出航ました。この航海は、ブリタニックにとっては地中海での6度目の航海であり、その航路は馴染のものでもありました。

11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝には石炭と水の補給のため、イタリアのナポリに到着。しかし、折悪しく嵐が発生しており、このためブリタニックは19日午後までナポリに滞在していました。

が、その後一時的に天候が回復したため、ブリタニックは出航します。心配されていたように、出航後すぐに再び海は荒れ始めましたが、翌朝には嵐は収まり、ブリタニックは、イタリア最南部にあるシチリア島とイタリア本土との間にあるメッシーナ海峡付近を無事に通過しました。

ところが、翌21日の朝、ギリシャ南部の島々のひとつ、ケア島付近にあるケア海峡に入ったところ、突如ブリタニックの船底付近で大きな爆発が生じました。

のちにこれはドイツ軍が敷設した機雷に触雷したためとわかりましたが、このとき、船長チャールズ・バートレットはエンジンを停止し、防水扉を閉じるよう命じました。ところが、なぜか浸水は止まらず、船体はどんどん傾いでいきます。

しかたなくエンジンを再起動してケア島に乗り上げようとその方向に向かおうとしましたが、船体への浸水の勢いは止まらず、たったの50分ほどで沈没することとなりました。

こうしてタイタニックの沈没を教訓として厳重に施された防水対策は何の効果も果たさず、ブリタニックは、ケア海峡付近の海面下120m下に永遠に沈むことになったのでした。

氷山に衝突して沈没したタイタニックは、防水壁の改良などが行われたブリタニックよりも長く浮き続け、2時間40分ほども持ちこたえましたが、このブリタニックの沈没までの時間はその3分の1にも満たないものでした。

しかし、この沈没では死傷者は少なく、死者の21名の大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。

この2隻のボートの唯一の生存者は、タイタニックでも女性客室係を務めていたヴァイオレット・ジェソップという女性でした。このとき彼女は救急看護隊として、たまたまブリタニックに乗船していたもので、この事故のときも看護婦の制服を着ていたといいます。

救命ボートがブリタニックの巨大なスクリューに破壊され始めたとき、幸運なことに彼女はちょうどボートの下に潜りこむ位置にいたため、頭蓋骨折の重傷を負いながらも生き延びることができたのでした。

この2隻のボート以外でブリタニックに乗船していた人たちは、沈没までの時間が少なかったにもかかわらず、タイタニック以降増やされた救命ボートのおかげで、ほとんど救助されています。沈没した場所がギリシャ南部の地中海であり、海水温もそれほど低くなかったことも犠牲者が少なかった理由でした。

オリンピック

一方のオリンピックは、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない当時、一船体制で大西洋を駆け巡っていました。タイタニックの沈没を受けて、ホワイト・スター・ライン社はオリンピックの船体側面を二重構造化し、救命ボートの数を倍以上に増やすなどの措置を施し、タイタニックの沈没後の乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。

就航当時は、タイタニック同様、世界で最も巨大な船であり、それゆえに“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、タイタニックの沈没によってその伝説も海の底に沈んでしまっていました。

前述したとおり、オリンピック自身も、その処女航海で船長を務めたエドワード・ジョン・スミスの不慣れな操船から、タグボートを巻き込みそうになったり、イギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、その先行きはタイタニックの悲劇を暗示しているかのようでした。

実は、タイタニックが沈没したとき、このオリンピックもタイタニックからのSOSを受信し救難に向かった船の一隻であったというのは、あまり知られていない事実です。

しかし、このとき、両船は800kmも離れており、沈没現場に到着したのは先に到着したカルパチアが遭難者を救助した後であり、姉妹船を助けることはついにできませんでした。

その後、1914年に勃発した第一次世界大戦において、その当初オリンピックは軍からの徴用を免れていました。ところが、1914年10月、アイルランド北方でイギリスの戦艦オーディシャスがドイツ軍が敷設した機雷に触雷したため、軍からこの曳航を要請されることとなり、初めて軍務につくことになりました。

このとき、既にブリタニアは病院船として軍に徴用されており、オリンピックもまた戦争から逃げることはできなかったのです。

このオーディシャス号の救助ですが、その現場にオリンピックは駆けつけ、牽引ロープを取り付けて曳航を始めたものの、直後の荒天のためにこの曳航綱が切れ、結局、オーディシャスは沈没してしまいました。

この翌年の1915年9月には、オリンピックはイギリス海軍省の命を受け、正式に軍用輸送船として徴用されることになりました。

こうして12ポンド砲と4.7インチ機関銃を取り付け、1915年9月24日に「輸送船2410」と軍艦らしい名前を付けられたオリンピックは、リバプールからトルコ西北部に位置するガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主に東地中海を中心として輸送任務を続けることになりました。

そんな中、病院船としての徴用を命じられていた姉妹船のブリタニックが、1916年11月にドイツ軍の機雷に触れて沈没してしまいます。このころオリンピックは、カナダ政府の要請に答え、北米カナダ東岸のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行っていました。

ブリタニックの沈没の報に接したことから、1917年からは更に軍備を増強することになり、それまでの装備に加えて6インチ機関銃が装備されるとともに、船体には迷彩塗装が施されました。また、この年にアメリカが参戦すると、オリンピックにはカナダに加えてアメリカからもイギリスへの大量の部隊輸送を行うことが命じられました。

こうして黙々と北米とイギリスの間を往復しながら多くの兵士を運んでいたオリンピックですが、1918年の5月2日、オリンピックは、突如ドイツ潜水艦Uボートから雷撃を受けました。

ドイツ語の「U-Boot(ウーボート)」は「Unterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の船)」の略語であり、潜水艦を意味します。第一次世界大戦勃発当時、イギリス海軍の装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈したのを皮切りに、その後もイギリス戦艦「トライアンフ」と「マジェスティック」を撃沈しており、Uボートの勇名は世界に轟いていました。

これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、イギリス周辺の海域を交戦海域に指定し、イギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始していたのでした。

このときオリンピックを攻撃したのはU-103というコードネームを持ち、この船もまた5回の任務をこなし、8隻の船舶を撃沈した実績を持っていました。

一方のオリンピックのこの時の船長は、バートラム・フォックス・ヘイズという人物で、ホワイト・スター・ライン社の先任船長を長らく勤めた民間人でした。

しかし、のちにイギリス海軍の志願予備員にも登録していることなどからもわかるように、かなり勇猛な男だったようで、このとき、ヘイズ船長はこともあろうに、この巨大船を用いてUボートに反撃を加えようとしました。

Uボートは魚雷を発射してオリンピックを仕留めようとしましたが、この雷撃を回避したオリンピックは、その高速を生かして回頭してUボートの側面につけ、衝角攻撃を試みました。

オリンピックの最大速力は21ノットであり、これに対してUボートの速度は、浮上時でも17ノット程度、潜航時には9ノットにすぎません。

このとき、Uボートは魚雷発射のために半潜航状態であり、速力を出してオリンピックを回避することができなかったのでしょう。このため、このオリンピックの反撃は功を奏し、巨大な船体を体当たりさせて乗り上げたため、U-103はその船体を真っ二つに破断されて沈没しました。

第一次世界大戦中において、商船が軍艦を撃沈したのはこの事例が唯一のことだったそうです。

輸送船が戦闘艦に反撃を加えるというも無謀なこの行為にはこの当時批判もあったといいますが、艦長のヘイズは、この戦績により、アメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。

その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンもの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走り、無事に終戦を迎えました。

戦後は再び、客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続け、500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。

このオールド・リライアブルという愛称は、「頼もしいおばあちゃん」というような意味合いでしょうが、私はこれを「肝っ玉バアさん」と訳したいと思います。Uボートを撃退し、多くの軍務をこなした上に、長年客船としての実績も積んだこの船には、勲章さえもあげたいほどです。

オリンピックは戦後の民間復帰にあたって、点検を受けたそうです。その際、喫水線の下にへこみが見つかったといい、これを詳しく調査をした結果、この痕跡は不発の魚雷が衝突した痕であることが確認されたといい、これがもし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられます。

おそらくは、Uボートと格闘したときに放たれた魚雷だったと思われ、不運に見舞われたタイタニックやブリタニックとは対照的に、オリンピックには守り神がついていたとしか考えられません。

不幸で短命だった姉妹船のタイタニック、ブリタニックとは異なり、24年におよぶ長い就航期間と、「軍艦」としてのその輝かしい活躍ぶりから、その引退は惜しまれましたが、1935年(昭和10年)には現役を退き、解体されることが決まりました。

ところが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、その内装の一部はオークションにかけられました。そしてそのダイニングの内装一式は、イギリスの裕福な夫人によって買い取られ、この人物はこれを屋敷で再利用して使用していたといいます。

夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。かつてのオリンピックのダイニング内装は再び、この会社の保有船である「ミレニアム」という2000年竣工の豪華客船のレストランに使用されることが決定されました。

この船は現在も現役で就航しており、そのレストランは今も「オリンピック・レストラン」という名で呼ばれ、当時のオリンピックのダイニングがそのまま再現されて利用されているといいます。

オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることから、かつて映画「タイタニック」がヒットして以降、今もこのレストランは連日の人気だということです。

80年目の真実

1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラードの率いるアメリカのウッズホール海洋研究所とフランス海洋探査協会の調査団は、海底3650mに沈没したタイタニックを発見しました。

この時の調査では、海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでおり、4本あった煙突のうちの第3煙突の真下当たりで引き千切れており、これまでも沈没に際しては海上で船体が2つに折れたのではないかという説が主張されていましたが、これが初めて確実に立証されました。

深海に沈んだタイタニックの船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っており、また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いているそうです。

客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップ、また別の客室の暖炉に置かれていた置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれていることなどから、船首部分は海底に叩きつけられたのではなく、船首の先端から滑る様に海底に接地したと考えられています。

しかし、深海では通常バクテリアの活動が弱いために船体の保存状況は良いのではないかと当初いわれていましたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為にバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上でした。

このため、現在のタイタニックはこれらの鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化されており、2100年頃までに自重に耐え切れず崩壊する見込みだといいます。

一方、病院船として徴用されたまま触雷して沈没したブリタニアも、沈没から80年ぶりの1996年にケア海峡で本格的な探査が行われました。

タイタニックより改良を加えたはずの船がなぜ短時間で沈んだのかは、最近まで謎であり、第一次世界大戦後にも英海軍が調査を行いましたが、その原因については結論がでていませんでした。

沈没当時のチャールズ・バートレット船長は、Uボートの魚雷によるものと考えていたといいますが、戦後のドイツ側の調査で、ブリタニックが触雷する3週間前にUボートの一隻である、U-73がケア海峡に12個の機雷を敷設したという記録が発見されました。

そして、このときのUボート艦長であったグスタフ・ジースもまた戦後にこれが事実であったことを証言しています。

しかし、それにしても厳重な防水対策を施した巨船がたった一発の機雷だけで沈没するとは考えにくく、何等かの別の要因があったのではないかと専門家たちは首をかしげていました。

この時の調査では、120メートルの海底に沈むブリタニアの船体内部に潜水士が入り、機関室やボイラー室なども詳しい調査が行われ、その結果、閉じたはずの防水扉が何箇所か開いていることがわかりました。

ブリタニックの就航当時、敵潜水艦が出没する海域では防水扉を全て閉じることになっていました。が、それでは日々の運行上、不便極まりないため、万一のときには扉の横にある手動レバーで閉じればいいという理由がつけられ、一部の防水扉は開けっぱなしになっていたといいます。

しかし、その他の大部分の防水扉は電動で開閉できるようになっており、これは被雷時には閉まっていたはずでした。ところが、調査によればこれらの自動扉も一部が解放されていました。このため、触雷したときのショックかなにかで電気系統が故障し、開いたままになってしまったのではないかと推定されました。

さらには、規則により全て閉じられていたはずの舷窓が多数開いていたことも分かりました。

ブリタニック号はもともと北大西洋航路用の船であり、冷房はありませんでした。このため、温暖な地中海航路では、ボイラー室の真上にあり、海面にも程近い底部のEデッキなどでは相当蒸し暑かったに違いなく、これはそのために乗員たちが規則違反であることを知りながら、多数の窓を開いていたものと推定されました。

このほか、船腹の鋼鉄を留めているリベットの当時の施工技術にも問題があったのではないかといわれていました。

これを裏付けるように、ボイラーを守っていた2重の外板のうちの一部の鋼板が内側から外へ向かってめくり上がっているのもみつかりました。

これはブリタニアの建造にあたり、現在ではまず使われることのない燃鉄製などの低い品質のリベットが使用されていたこともあり、爆発の衝撃でこれが抜け落ち、結果としてこうした部分から大量の海水の浸水を許す結果となったものとわかりました。

ブリタニアの沈没原因としては長年、その石炭庫で粉塵爆発があったのではないかということも取りざたされていましたが、結局、調査の結果、船体にはそうした痕跡もみとめられませんでした。

これらの結果、ブリタニックは、触雷時にあちこちの扉や船腹に穴が空いたザルのような状態にあったことがわかり、これにより多量の海水が船内に流れ込み、沈没を早めてしまったのだろうと推測されました。

このほかにも、沈没地点の南の海底域に、機雷の基部と思われる物体や本体の破片がソナーで確認され、敷設海域がドイツ側の記録と一致したことから、この沈没はバートレット船長が主張したような魚雷ではなく機雷が起因となったことも明白になりました。

こうして、タイタニックの教訓により大きな改良が施されながらも、その機能が十分に発揮されなかったブリタニアが短時間で沈没した原因は突き止められ、オリンピック級として造られた三姉妹のすべての最後が明らかになりました。

それにしても三隻のうち、沈没を免れ、戦後まで長く生きぬいたのは最後に建造され、数々の改良が加えられたブリタニアではなく、最初に建造されたオリンピックだけであったというのは皮肉なものです。

タイタニックよ永遠に

2013年の今年、オーストラリアの資産家によりタイタニック号のレプリカのタイタニック2号の建造計画が公表されました。タイタニック2号(Titanic II)と言う名称になる予定だといい、これは、沈没したタイタニックのレプリカとして考案・計画されている遠洋定期船です。

この建造プロジェクトは、2012年4月に、オーストラリアの資産家であるクライブ・パーマー氏によって発表されたもので、タイタニック2号は、パーマー氏が所有するクルーズ会社のフラッグシップ客船として位置付けられることも決定されました。

この会社名は、その名も「ブルー・スター・ライン」というそうで、無論、かつての「ホワイト・スター・ライン」を文字ったものでしょう。

設計については、フィンランドのデルタマリン社が担当し、中国の国営造船会社である長江航運集団金陵造船所が建造を請け負うことで、同年に契約締結がなされました。処女航海は、タイタニック号が沈没してから104年後にあたる2016年で、サウサンプトンからニューヨーク間のルートを予定しているといいます。

既にオリンピック級の三姉妹の豪華客船はこの世から姿を消していますが、レプリカとはいえ、我々がまだ生きているうちに再びまたその雄姿を見ることができるということで、船好きの私としてはワクワクしてしまいます。

一方、海底に沈み、朽ちゆくタイタニックは、現在もバクテリアに蝕まれ、徐々にその姿を消していっています。

しかし、最初の発見後には、度々潜水探査船による調査が行われており、特に映画「タイタニック」の製作時には、キャメロン監督によって2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録されており、このときの記録は永久に残されていくでしょう。

ただ、その一方で、無断で海底の遺品を収拾する行為も広く行われているといい、一部の遺品は利益目的に販売されていることなども発覚しており、非難を集めています。

このため、2004年6月、タイタニックを発見した海洋地質学者ロバート・バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行い、その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまりました。

そして、同年6月18日、アメリカ合衆国がこの条約に正式に署名しました。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としています。

タイタニックよ永遠にあれ、は現実的には難しそうです。が、だとしても、違法な収集による遺物の散逸を防ぎ、その一方では合法的に遺品を回収して、少しでもその当時の美しい姿を後世に残していってほしいものです。

さて、今日はお気に入りのテーマでもあり、いつもにもまして更に長くなってしまいました。終りにしたいと思います。