駿河湾フェリー


先週末、このブログで残暑お見舞いを書きましたが、そのあと、列島は急速に涼しくなり、昨日の夜などは、我が家の外気温は20度にまで下がりました。暑いのは彼岸まで、とよく言われますが、今年も例外ではなく、やはり涼しくなりましたね。雨もそこそこ降ったようなので、関東地方の水がめもちょっと一息つけたのではないでしょうか。

さて、先週、土肥金山のことを話題にしましたが、ここ土肥は、「駿河湾フェリー」が立ち寄る港でもあり、ここから駿河湾を横断して、清水港まで一日4往復の航行が行われています。所要時間は片道65分で、乗用車で清水まで行こうとすると東名高速を使ったとしても2時間少々かかりますから、伊豆西海岸からちょっと清水や静岡方面へ行くのには比較的便利な交通手段です。

しかし、ここ修善寺からだと、土肥港まで30分以上かかりますし、沼津や三島からではさらにそれ以上時間がかかります。さらに乗船までの待ち時間などを考えると、結局あまり時間差はなくなる、かな。さらに、船賃は片道2200円、往復3960円であり、東名高速の有料運賃が1300円であることを考えると、必ずしもお得とは言えない交通手段です。

この駿河湾フェリー、正式名称は、「エスパルスドリームフェリー」と呼ぶそうで、清水に拠点を置く、Jリーグの人気チーム「清水エスパルス」にあやかってつけた名前で、静岡市清水区にある海運会社の鈴与グループの傘下企業が運営しています。

平成14年4から一隻で運行をはじめ、好評だったためか平成17年7月からは2隻体制の運航になり、年間29万人もの利用者があったそうです。しかし、その後は利用者数が伸び悩み、さらに原油高騰などによるコスト上昇が経営に影響し、平成20年12月から1隻による運航に戻しています。

その後、利用者数は年間約15万人程度で推移しているようで、フェリーとしては結構厳しい運営状況みたい。年間15万人を単純に365日で割り、しかも一日の船便数8で割ると、一回の渡航者はわずか50人あまりになります。

無論、夏場などのレジャーシーズンなどにはもっと多くの利用者がいるのでしょうが、これから冬になると、利用者も減ってくるのかも。私も冬場は駿河湾から見える富士山がきれいそうなので、一度は利用者してみたいと思うのですが、正直なところ、一回乗ればいいかな~というかんじ。リピートはおそらくないでしょう。

……などと書くと、鈴与さんから、営業妨害だ!とお叱りを受けそうなので、このくらいでやめておきます。が、お客さんを増やすためにはもっと工夫が必要でしょう。

たとえば今は、65分で清水まで行けるというスピードが「売り」なのでしょうが、これを倍ぐらいの時間にすれば、消費する油代が少なく済みます。その分、運賃を安くできるでしょう。この2時間あまりの時間をどうやって潰すかですが、私なら、もっと洒落たレストランを作って、富士山を眺めながらゆったりとお食事ができるスペースにするかな。

喫茶店でもいいと思います。2時間あれば、映画も放映できるし、ショッピングも楽しめるということで、お土産モノ屋さんを充実させる、という手もあるかと思います。無論、新に投資が必要になることなので、なかなか安易には踏み込めない領域でしょうが、そこは会社の経営ですから、鈴与さん、もう少し考えてみてはいかがでしょうか。

船好きの私としては、この駿河湾フェリーがもっと魅力的なものになり、何度も乗りたくなるような交通手段に生まれ変わってくれることを切に祈りたいところです。

しかし、この鈴与さん(正式名称は「㈱エスパルスドリームフェリー」だそうですが)、清水には、清水港クルーズが楽しめる、「オーシャンプリンセス号」という帆船ももっているようです。クルーズ船とはいうものの、通常は結婚式や宴会などのための「貸切船」としての営業しかやっていないので、時々催される特別イベント(クリスマスディナークルーズとか)などに参加しない限りはなかなか乗れません。

この船、実は結構由緒正しい豪華船だったようで、1974年にアメリカの大企業「ジョンソン・エンド・ジョンソン」の経営者のお兄さん、シェワード・ジョンソンという人が、自家用船としてデザインさせ、ポーランドで建造された帆船です。

このジョンソンさんが所有していた時代には、かの有名なJFケネディーの一族やエリザベス・テイラー等の多数の著名人が乗船したことがあるんだそうです。その後、1980年にギリシャの海運王のマルチノス一族の手を経た後、今のエスパルスドリームフェリーの所有となり、1996年(平成8年)より清水港クルーズを用途として運用されはじめたとか。

船には一流シェフが乗り、なかなかうまい料理を出すみたいで、伝統を感じさせる木造のキャビンと白い帆をかかげた優美な姿は、船フェチの私としてはぜひ乗ってみたいところ。クリスマスだけでなく、そのほかの季節にも時々一般向けにイベントを開催し試乗ができるようなので、そのうちチャンスがあったら乗ってみたいと思います。

鈴与さんのクルーズ船にはまだほかのものがあるようです。「ベイプロムナード号」という双胴船がそれで、こちらは、清水港内を周遊する遊覧船として就航しており、一日4回のクルーズが楽しめます。11時半と13時出航は、14時と15時の出航は35分コースだそうで、この10分の違いは何なのかな、と思ったら、11時半と13時のコースでは、船内で「船弁」なるお弁当が楽しめるのだとか。

ただし、「15人以上」という人数制約がある上、予約が必要だそうです。15人以下でもご相談によってはOKということなのですが、45分という微妙な時間が気になるところ。気になる「船弁」のメニューは、1800円から2900円の範囲で5種類のお弁当かお寿司が食べれるようです。値段的にはちょっと高いけれどもまあ、こんなものなのかも。

ちなみに、船弁なしの一般利用のクルーズ料金は、45分が1000円、35分が900円だそうで値段的にはまあ許せるかな、というかんじ。ですが、100円しか違わないのに、35分しかクルーズが楽しめないなんって、ちょっと不公平、などとケチなことを考えるのは私だけでしょうか。

この清水港クルーズ、さらには「ミニクルーズ」なるものもあって、こちらは、15分が450円、20分が500円のコース。結構お手軽です。ただし、鈴与さん(略称ですいません。正式名称が長いもんで)のホムペにははっきりしたことが書いてありませんが、こちらのクルーズに使うのは、おそらく「フェルケル号」とかいう20トン未満の小舟のようです。小舟といっても100人弱は乗れるようですが。

この「フェルケル号」のフェルケルとは、おそらく清水港の「日の出埠頭」の近くにある「フェルケール博物館」の名称からとった名前でしょう。「フェルケール」とはドイツ語で交通を意味し、この博物館の創設者、「鈴木与平」さんの大学の恩師の講座名からとったそうです。

鈴木与平?それってまさか……そうです。鈴与の社長さんです。「鈴与株式会社」は、物流業を営む株式会社で、持株会社の鈴与ホールディングスは、Jリーグのサッカークラブ清水エスパルスや、静岡空港を拠点とする航空会社フジドリームエアラインズを傘下におさめるほか、さきほどまで書いてきたエスパルスドリームフェリーもその関連会社。

おそらく清水、いや静岡県下でも一番古い企業のひとつで、その創業は江戸時代。幕末にもほど近い1801年(寛政13年)で、第11代将軍、徳川家斉のころです。創業者は「鈴木與平」で、無論、現在の社名はこの鈴木與平(与平)の名前を略したものです。以来、この会社の社長さんは、代々「鈴木与平」を名乗り、現在の社長さんは8代目になるとか。

もともとは、駿河国清水湊、つまり清水港で初代の与平さんが、船舶を利用した物流業「播磨屋」を創業したのがはじまりです。その後明治時代に日本郵船の母体となる「郵便汽船三菱」の代理店となることで、運送会社としての実績を積み、さらに安田火災海上(現・損保ジャパン)の母体となる「帝国海上保険会社」の代理店にもなり、船舶交通における保険業でさらに業績を伸ばしました。

さらには、倉庫業にも着手するなどその分野をさらに拡大しましたが、この倉庫部門は1918年(大正7年)には、「鈴与倉庫株式会社」として分離。鈴与倉庫は、本来の鈴与グループとは離れて独自の業務展開を行いましたが、その結果大成功して、物流会では知る人ぞ知る大会社になりました。その後1990年(平成2年)には、「株式会社富士ロジテック」と社名変更しましたが、現在も、鈴与本体との資本関係はあるものの、鈴与グループからは独立しています。

本体の鈴与のほうは、昭和に入ると、1929年(昭和年)に缶詰メーカーの「清水食品」、1933年に石油ガソリンスタンドを開設するなど多角経営をスタート。1936年(昭和11年)には「株式会社鈴与商店」に改組。

その後も、1941年(昭和16年)には清水食品をベースとして、薬品のインスリンを開発し、「清水製薬」を設立。戦中にも「鈴与建設」を設立(1944年(昭和19年))、戦後すぐの1950年(昭和25年)には「鈴与自動車運送」等を設立するなど、「戦争にも負けない」企業として、静岡県を代表する総合複合企業への発展していきました。

1991年には、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)参戦を目指して設立された清水エスパルスの運営母体「エスラップコミュニケーションズ」(筆頭株主はテレビ静岡、並びに市民後援会)の運営に参画。1997年にエスラップコミュニケーションズが経営難に陥り倒産(清算)したのを受けて、1998年からその受け皿会社「株式会社エスパルス」を鈴与がオーナー企業として設立し、事業譲渡を受けます。

今や全国的に広まっている「セルフ式ガソリンスタンド」ですが、これも鈴与が全国に先駆けて1998年に始めたもので、「セルフ24」という看板をご覧になった方も多いでしょう。

さらには、2007年、静岡空港を拠点とするリージョナル航空事業への参入を表明。2008年6月、フジドリームエアラインズを設立し、2009年の静岡空港開港と共に就航開始しています。

私は別に鈴与さんの宣伝マンではありませんが、学生時代の2年を清水で過ごしており、あちこちに「鈴与」のマークのある倉庫が立ち並ぶのをみて、「地元の誇り」とまでは思いませんでしたが、清水を代表する大企業として畏敬の念をもっておりました。

その鈴与さんが経営する「フェルケール博物館」ですが、その前身は、「清水港湾資料館」といい、当館は、昭和53年7月20日(海の記念日)から財団法人として運営されていました。

もっぱら港および海事関係の資料を集めて展示していたようですが、私自身、学生の頃、入ったことがあるかな~?とほとんど記憶にないので、かなり規模の小さな博物館だったのではないでしょうか。この当時は、もしかしたら、鈴与さんの投資はなかったのかも。

この博物館ですが、その昔「清水港線」と呼ばれる国鉄の貨物線を中心にその駅や貨物ヤードがあった場所を再開発した、「清水マリンパーク」のすぐ近くにあります。

市や県、運輸省などのお役所が主導をとり、臨海公園として新たに生まれ変わった清水マリンパークは、西欧の城壁風の歩道に囲まれたイベント広場や、ボードウォーク、ヨットハーバー、スケートボードパークなどの設備があり、展望台からは清水港が一望にみえて、とても気持ちの良い公園です。

そのすぐ近くには「エスパルスドリームプラザ」があります。ここもやはり鈴与さんが関与してできた施設で、サッカーショップやフットサルコートなど、清水エスパルスと関連した施設のほか、映画館やレストランの施設があり、サッカーファンならずとも一般観光客でいつも賑わっています。

フェルケール博物館のほうも、鈴与さんがもともとあった財団にテコ入れし、平成3年5月3日に開館しましたが、展示品としては、前身の「清水港湾資料館」が保有していた港および海事関係の資料をさらに充実させました。また、絵画や彫刻、写真やシルクといった美術品展示も行っており、博物館というよりは美術博物館的な存在に仕上がっているようです。

残念ながら私はこの博物館もドリームプラザにも入ったことがありません。が、隣接する清水マリンパークは何度も仕事で足を運んだことがあり、いつ行っても清水港からの風が潮の香りを運んできて、とても気持ちのいい場所です。

周辺にはちょっと洒落たレストランなどもたくさんあり、海をみながらお食事をしたい方、ちょっとリゾート気分を味わいたい方は、ぜひ行ってみていただきたい、おすすめの場所です。

ちなみに、この清水マリンパークのある一帯は、清水港日の出地区といって、その総称は「日の出ドリームパーク」と呼ぶようです。旧国鉄の跡地を利用した区画なので、その開発にはお役所が関わって第三セクター形式で開発したのに対し、ドリームプラザやフェルケール博物館がある一帯は鈴与さんが独自に開発した地域みたいです。

どうせなら、一緒に開発すればよかったのに……と思うのですが、まあ、開発された年代も違うみたいですし、お互いすぐ近くにあるので、相互利用もわりとスムース。何よりもいろいろ楽しめる施設が同じ場所に集まっているのは良いことです。

駿河湾フェリーの乗り場は日の出ドリームパークの一角にあります。ですから、駿河湾フェリーに乗って、清水まで行き、そこでひと遊びしてから伊豆へ帰る、ということも可能。そう考えると、我々にとっての駿河湾フェリーは結構、魅力的なものなのかもしれません。

しかし、静岡や清水の人がこれに乗って果たして土肥まで来るかどうか。土肥港のほうの観光の魅力がいまひとつなのが気になります。駿河湾フェリーがなくなったりしないよう、土肥港にももっと頑張ってほしいもの。もっとも土肥港の管理者は「伊豆市」ではなく、「静岡県」のようですが。どちらでもいいから、もっと魅力的な土肥港を考えてくださいな。

金の切れ目は……

東京以北では厳しい残暑が続いているようですね。改めて残暑お見舞い申し上げます。去年までは、やはり私も東京にいて、その暑さで辟易していましたから、その辛さはわかります。

先日、同じ別荘地内の方が亡くなり、お悔やみを申し上げたばかりなのですが、このときふと思ったのは、もしかしたら暑い夏には死亡率が高いのかな、ということ。

気になったので調べてみると、厚生労働省(厚生省)が1947年から2005年までとった統計では、6~9月の死亡率はそれほど高くなく、人口千人に対して7人(0.7パーセント)前後で、最も低いのは9月ということでした。

逆に1~3月の冬のほうが死亡率は高く、だいたい0.9~0.95パーセントで、もっとも高いのが1月でした。

夏のほうが死亡率が高い、と私は思い込んでいましたが、なぜ夏のほうが死亡率が低いのでしょうか。おそらくインフルエンザや肺炎といった寒い時期ならではの病気が多いためなのでしょうが、もしかすると、夏の暑さは逆に健康増進のためにプラスになっているのかも……

そう考えるとこの暑さも少し和らぐのではないでしょうか。暑さ寒さも彼岸まで。涼しくなるのもあと少しです。がんばりましょう。

さて、それでは昨日の続きを書いていきましょう。

近代的金山開発

伊豆の諸金山は長安の導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させていきました。特に土肥金山は、海に面していたため、採掘した金をすぐに船に積み込んで運ぶことができ、周辺の金山からも鉱石が集約されたため、拠点として大いに繁栄しました。

我々が住む修善寺のすぐ隣の大仁にも、「大仁金山」と呼ばれる金山がありましたが、ここから採掘された金も土肥まで運ばれ、船で積み出されました。

1607年(慶長12年)、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に移り、ここから全国の諸大名をコントロールするようになります。こうして新時代を迎えた徳川幕府の財政を支えたのが、伊豆の金山から産出された金だといわれています。

江戸時代に流通した慶長大判・小判の多くが、土肥から駿府まで船で直接搬送され、そこで鋳造された金でつくられたのです。

伊豆で開発された金山としては、土肥金山やさきほどの大仁金山のほか、伊豆天城鉱山(西伊豆町)、縄地金山(河津町)、蓮台寺金山(下田市)、伊豆猪戸金山(下田市)、清越金山(土肥町)などがあり、その中でも土肥金山の産出量はとびぬけており、日本でも指折りの金山のひとつでした。

これらの金山の多くは大久保長安が金山奉行になってから開発されたようですが、このように数多くの新しい金山が運営されるようになったのは、その採掘法が大きく改良されたためでもありました。

それ以前の鉱山の採掘法といえば、金鉱の一部が露出している山腹の露頭部を探しだし、その直下に抗口を開け、斜めに地下の富鉱部を求めて掘り進むという単純な方法でした。斜めに掘り進むだけの工法のため、最後は穴の底に湧水が貯まり、採掘を中止に至るというのが常で、水が貯まった坑道は放棄して、次の穴を掘るという不効率さでした。

これに対し、長安が考案した採掘法は、山腹の一番下に横掘坑道(立入)を掘削し、同じ高さで掘り進むことによって金鉱脈に達するというものです。その後主流となる「横掘法」という掘り方であり、坑内の湧水を排出するための水抜法についても長安は研究を重ね、こうした新技術の開発に力を注いだ結果、その産金量は大きく増大することになりました。

さらに、1609年(慶長14年)、イエズス会の宣教師たちが、母国から水銀を使う「アマルガム金製錬法」の技術を日本にもたらします。

この製錬法では、まず、粉砕した金鉱石をさらに微細な粒になるまで挽き、これに水を加えて練り、水銀とともに撹拌することで鉱石中の金銀が水銀に溶け込ませます。これを、これをキューペル皿(骨灰やポルトランドセメント、酸化マグネシウムの粉末などで作った皿)にのせて加熱すると、水銀が蒸発し不純物がキューペルに吸収されたあとに金銀の合金が得られるのです。

それまでの精錬方法は、細かく砕いた鉱石から数多くの不純物が含まれる金銀分を取り出し、鉛とともに炭火で溶かして、金銀と鉛の合金を作ります。その合金を灰を敷いた鍋の中で熱すると、最初に鉛が溶けて灰にしみ込み、金銀だけが残るという方法で、「灰吹法」と呼ばれていました。

アマルガム法に比べると金銀抽出の効率が悪く、また不純物が大量に出来上がった生成物に残ってしまうという欠点がありました。

アマルガム法が導入されるようになり、金の実収率が飛躍的に改善されたため、土肥金山はその後さらに隆盛を極め、本邦随一の金山とまで称されるようになり、こうして土肥鉱山の第一期黄金時代が形成されるに至ります。

明治時代以降

しかし、日本屈指の金山として多くの金を産出した土肥金山も1620年ころには、産出量が枯渇しはじめ、1625年(宝永2年)に休山に至ります。その後の江戸時代にも、再開発の作業がたびたび試みられていますが、記録に残るような成果はなく、再び開山されることはありませんでした。

土肥の町はその後も伊豆各地の金の集積地として存続し続けていましたが、土肥金山から金が産出されなくなったことから、町(村)のにぎわいも衰退の一歩を辿っていました。

明治期に入っても、土肥金山はあいかわらず閉鎖されたままでしたが、1906年(明治39年)、神戸の実業家、長谷川銈五郎(けいごろう)がヨーロッパの技術者を招き、閉鎖されていた土肥金山のふたを開け、探鉱を行ったところ、かなりの金が埋蔵されていることを発見します。

そして、長谷川がその開発に成功すると、土肥金山はふたたびその名声を高め、第二期黄金時代を築くことになりました。長谷川は、1917年(大正6年)に企業形態を「土肥金山株式会社」に改め、金山の開発操業のために最新式の機械と新技術を導入して、高品位な金鉱石の効率的な採掘を行いはじめました。

さらに、長谷川は、金以外にも銅の製錬事業にも着手し、銅の精錬に欠くことのできない珪酸鉱という鉱物の長期売鉱契約を、住友財閥の鉱山会社、住友鉱業と結びます。そして銅の売買で多額の利益を上げるなど、「土肥金山株式会社」を本邦第二位の金山会社、といわれるまでその地位を引き上げました。

ちなみに、「本邦第一」は佐渡金山を有する三菱合資会社です。佐渡金山は、江戸時代には既に産出量が激減していましたが、明治以降に三菱に払い下げらた後も採掘が続けられ、それなりの産出量を誇っていました。

佐渡金山の閉山は、1989(平成元)年でしたが、1601年の初掘からこの年までの388年間に採掘された金の総量は、諸説ありますが、76トンから83トンだといいます。

これに対して、土肥金山の金の累計産出量は推定40トンだそうで、佐渡金山の産出量の約半分にすぎませんが、それでも他の金山を圧倒する産出量だったといいます。

長谷川は、その後も神戸で摩耶鋼索鉄道という鉄道会社の経営にも乗り出し、六甲山に「六甲山ケーブル」を敷設するなど観光開発も行うなど活躍しましたが、1931年(昭和6年)に死去。

長谷川氏が亡くなったあと、土肥金山株式会社は、1942年(昭和17年)住友鉱業の傘下に入り「土肥鉱業株式会社」と改名しましたが、第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、住友の系列を離れて独立し、再び土肥周辺の探鉱を始めました。

土肥の中心を流れる恋文川(土肥山川)より北側の開発なども行われましたが、有望な鉱脈を発見するには至らず、金の産出量はその後次第に減少していきます。その後、1959年(昭和34年)には、三菱金属株式会社(現三菱マテリアル(株))がその再興に乗り出しますが、やはり高品位の金鉱石を産出することはできませんでした。

そして固定価格制度によって、金の価格が安くなっていったこともあり、1963年(昭和38年)、長い歴史を誇った金山としての採掘を中止し、翌1965年(昭和40年)、ついに本邦有数の金山として君臨した土肥金山は閉山しました。

しかし、土肥鉱業株式会社そのものは、その後も経営を継続し、1972年(昭和47年)、再び社名を変更し、今度は、「土肥マリン観光株式会社」となって観光事業会社として再出発します。

この土肥マリン観光株式会社が運営しているのが、鉱山の跡地を利用した博物館です。歴史的遺産である坑道の一部を改造し、江戸時代の坑内作業風景が理解できるように電動人形などが配され、一般に公開されています。

大久保長安のその後

家康に見いだされ、幕閣きっての能吏として実力を発揮し、徳川初期の財政を一手に支えるほどの貢献をした大久保長安でしたが、晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から次第に家康の寵愛を失っていきました。

金の切れ目が縁の切れ目といいますが、家康に嫌われるようになったのは、その素行にも問題があったのではないかと言われています。

長安は無類の女好きだったそうで、金にモノを言わせて側女を70人から80人も抱えていたと言われています。金山奉行になったころから派手好きとして知られるようになり、かなり贅沢な暮らしぶりだったようで、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという話まで残っています。

このような派手な出費ぶりが家康に長安の不正蓄財の疑いを抱かせたともいわれており、さらに、長安は、家康より伊達政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたのではないかという話もあるようです。

やがて、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていくようになり、さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、1613年(慶長18年)脳卒中のために死去しました。享年69才。

その死後、幕府に目をつけられるようになっていた大久保家では、無論黄金の棺などは作られませんでした。しかもそれだけではなく、長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れみのにして、不正蓄財をしていたという理由でお咎めを受け、大久保家は蟄居を命じられます。

そして、厳しい詮議の末、長安の不正蓄財が事実であったとされ、長安の七人の男児は全員処刑、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあいました。さらに、家康は埋葬されて半ば腐りかけていた長安の遺体を掘り起こし、安倍川の川原で斬首して駿府城下で晒し首にまでしています。

また、長安の庇護者であった大久保忠隣らも後に失脚しました。しかしこれは、当時の幕府の二大実力者である、大久保忠隣(秀忠側近)と本多正信・正純父子(家康側近)の対立のためであったのではないか、と言われています。

長安が不正蓄財を行っていたというのも本多側の陰謀で、幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・正純父子がでっちあげたのではないかというのです。

しかし、長安の財力と権勢を徳川家が警戒していたことは事実であり、その粛清は、不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあったのではないかと言われています。

一般市民には厳しい税を課し、おいしい汁は自分だけ吸う役人……、いつの世にも同じような光景が繰り返されてきましたが、いまもそのような役人がはびこっているとしたら、それこそ見せしめに斬首にしてほしいところです。

先日、土肥の浜で行われた土肥金山で亡くなった方々の魂の慰霊祭に参加してきましたが、この方々は、このように権勢を誇った大久保長安が、不正な蓄財をしていたことを知っていたでしょうか。もしかしたら、彼らが一生懸命金山で働いて作った金を横取りし、それをもとに土肥の町で女を囲い、豪遊していた長安の姿は、鉱夫の間で噂になっていたのかもしれません。

そして、安い賃金でこきつかわれた鉱夫たちは、長安らの不正役人を恨みながら死んでいき、そのためにその霊は浮かばれずにこの世に留まっているのかもしれないのです。

しかし、土肥金山で浮かばれずにそこにとどまっていた霊たちの何体かは、先日の我々の祈りであちらの世に安んじて旅立って行ったことでしょう。慰霊祭のあとに4度もかかったという虹がそれを物語っています。

それにしても、その虹を渡って成仏した霊たちは、あちらの世で長安の霊に出会ったでしょうか? 出会ったとしたら、長安に恨みのひとつやふたつは言ったかもしれません。

ただ、長安がこの人たちの霊が行くような高い次元の世界にいるとは限りません。もしかしたら、この世にいたころの素行が祟り、今もずっと低い、地獄に近い次元にいるかもしれないからです。

お金は生きていく上では大事です。けれどもそのために、死してまで苦労するようなお金の使い方はくれぐれもしないよう、気をつけましょう。