昨日の九州地方の大雨はすごかったようです。50mmでもバケツをひっくり返したような雨といいますから、時間雨量100mmなどというのは想像もできません。ここ、修善寺でも夜遅くになってから、かなり降りましたが、それでも九州で降った量には遠く及ばない量で、事なきを得ています。
朝起きてみると、もう雨は止んでいました。庭に出て、アサガオの苗を植えているポットをみると、なんと、そこには、セミの抜け殻が。梅雨ももうすぐ明け、まぶしい日差しの夏がもうすぐそこに来ていることがわかります。
ところで、ご縁あって住むことになった伊豆ですが、これまでも何度か、その歴史にまつわる話題をこのブログで書いてきました。ひとつの物事について、ひとつ調べるとまた、別の事実が出てきて面白いなとは思っていましたが、伊豆の場合、とくに鎌倉や駿府(静岡)にも近く、思った以上に歴史的な物語の宝庫だ、と感じるようになっています。
なので、今後は、過去に伊豆でおこったさまざまな歴史的事実について、少しずつ調べ、このブログでまとめていこう、と思います。
とはいえ、堅苦しい歴史談義は苦手ですし、自分でもやっていて楽しい、人にも読んでもらって面白い、わかりやすい、といってもらえるような「伊豆ものがたり」を書いて行こうかと思います。その中で、また面白い発見があれば、それに特化したことをシリーズで書いてみるのもよいでしょう。時に、現地取材もありかも。なかなか面白くなるのではないでしょうか?
その手始めとして、まず、そもそも伊豆の歴史って、文献として残っているもので、どこまでさかのぼれるのだろうか、という疑問が沸いたので、そこんところをいろいろ、つっついてみました。
すると、古代史ということになると、文献的な資料は非常に乏しいようで、伊豆に関する記述があるもので最も古いものは、やはり、日本書紀になるようです。
そもそも、日本書記ってなんだ? と私と同じような歴史オンチの方も多いと思うので、一応解説しておきましょう。日本書記とは、奈良時代にできあがった日本の歴史書で、現存する最古の日本史、しかも、朝廷が太鼓判を押した、「正史」のことを指すのだそうで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、すなわち、のちの天智天皇以降に成立した、律令国家で編纂された歴史書です。
中大兄皇子は、それまで執政として、朝廷を牛耳っていた、蘇我入鹿(そがのいるか)を中臣鎌足(なかとみのかまたり、別名、藤原鎌足)らと組んで暗殺します(西暦645年)以後、宮廷改革の中心人物として、遷都をはじめとし、この国の行政改革を次々とやってのけます。
これが世にいう大化の改新ですが、数ある改革の中のひとつとして、それまで誰も実現してこなかった国史の編纂がありました。日本の歴史の編纂を完成させ、日本の国威を内外に示そうとしたのだと思われますが、日本書記というのは、そうして作られた6つある歴史書のうちの一番最初のものを指すのだそうです。
この6つの歴史書、「六国史(りっこくし)」といいますが、このうちの最初のものを編纂したのが舎人(とねり)親王という、天武天皇の息子さんで、697年からスタートして、720年に完成したといいますから、20数年もかかっています。
その内容はというと、アマテラス大御神の神代から持統(じとう)天皇が退位した、697年ころまでの歴史的事実を詳しく書き上げており、古代日本のことを記した、いわばタイムマシンともいえるような存在です。
全30巻もあるそうなのですが、登場人物の系図などが欠落していて、また固有名詞が極端に少ない、といった難点があるらしい。さらに、誰がいったい何のためにそういうことをしたのか、といった具体的な事実がわかりにくいのだそうで、学者泣かせの代物らしいのですが、それでもともかく、1300年以上の昔のことが、これでわかる、ということはすごいことです。
さて、前置きが長くなりましたが、そんな日本書記の中に出てくる記述のひとつが、先日もこのブログでも紹介したように、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたとところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という記述。これが、おそらく歴史書に出てくるもっとも古い伊豆に関する記述と思われます。
これ以降は、天武天皇の時代の、653年に三位麻績王という皇族の息子が伊豆島に流されたという記述があるのをはじめ、686年には、に大津皇子という皇子の家臣で、張内礪杵道作(張内という場所に住んでいた、「ときのみちつくり」という人)が伊豆に流されたという記述があるそうです。大津皇子は、朝廷に謀反の意があると言われ、朝廷から自害を命じられており、「ときのみちつくり」は、これに連座したのです。
また、699年には、役小角(えんのおづの、おづぬ)という人が「伊豆島」に流されたという記述が出てくるそうですが、この伊豆島とは、伊豆大島のことを指しているという人もいるようです。
この役小角、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍?した呪術者なんだそうです。修験道者、ようするに山伏の元祖で、その死後の平安時代に山岳信仰がさかんになるとともに、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになったようで、こちらのほうが、名前を聞いたことがある人が多いのでは。
実在の人物だそうですが、のちの世に至って、いろんな伝説で彩られていて、実のところはどんな人だったかよくわかっておらず、伝説ばかり残っているらしい。しかし、奈良で生まれ、17歳の時に元興寺というところで、「孔雀明王の呪法」という呪術を学んだということはわかっているらしい。その後、葛城山(現在の奈良と大阪の境界にある金剛山)で山岳修行を行い、熊野や吉野の山々で修行を重ねて、修験道の基礎を築いた人だということです。
20代の頃に、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説が残っていて、呪術に優れていただけでなく、医療技術ももっていたらしく、そのお弟子さんの中にはその後朝廷の薬局である、「典薬寮」の長官になった人もいるとか。鬼神を自由に使って、水を汲ませ、薪を採らせているとか、その命令に従わないときには呪で鬼神を縛ることもできたということで、ほんとかウソかわかりませんが、ボリショイサーカスの猛獣使いとMr. マリックを足して二で割ったような人だったのでしょう。
で、なんで伊豆へ流されたんかなーということですが、誰かに、人々を言葉で惑わしていると讒言(ざんげん)されたようで、その当時の天皇、文武天皇という天皇から伊豆大島へ流罪を命じられたそうです。
この、伊豆へ流罪になったという話は、伝説になっていて、その伝説のほうのことの顛末は次のようです。
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていて、常に左右に鬼を従えるほどの力をもっていたそうです。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々にこれをやらせようとしたのですが、そのうちの一人、葛木山にいる「一言主(ひとことぬし)」は、醜い自分の姿をすごく気にしていて、夜にしか働こうとしませんでした。
そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立て、昼間も働かせようとしました。それに耐えかねた一言主。朝廷まで行って、役行者が謀叛を企んでいると讒訴します。時の天皇、文武天皇は、これを怒り、役人に役行者の捕縛を命じます。役行者はこれを法力で退けようとしますが、役人が、彼の母親を人質にしてつれてきたところ、おとなしく捕縛され、ついに、伊豆大島へと流刑になります。
しかし、役行者は、流刑先の伊豆大島でも、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていって修業していたとのことで、富士山麓の御殿場市には、役行者が建立したといわれる、青龍寺というお寺が今もあります。
その後、大宝元年(701年)正月に赦されて郷里の奈良に帰った役行者ですが、伝説では、その後仙人になったといわれています。が、実際には大阪府の箕面(みのお)市にある天井ケ岳というところで、68才で亡くなっています。
その後、時代が下るとともに、役行者は、信仰の対象にもなっていきますが、その超人的な伝説は、日本各地で語り継がれていきます。そして、近代では、江戸時代に書かれた、滝沢馬琴の南総里見八犬伝にも登場します。八犬伝の中で、「八犬士」の生みの母親である、伏姫に、「仁義礼智忠信孝悌」の文字が書かれた八つの玉を授けるのはこの役行者です。この南総里見八犬伝をもとにした、NHKの人形劇、新八犬伝(1973年)を見られた方も多いのではないでしょうか。
日本書紀には、このほかにも「伊豆島」へ罪人が流されたという記述が随所に見られるそうです。675年には麻績王(おみのおおきみ)という皇族の二人の子が流罪になっているほか、また、677年にも「杙田史名倉(くいたのふびとなくら)という人物が、天皇を批判したとかの罪で、「伊豆島」に流され、この場合は処刑された、とされています。
このほか、流罪ではありませんが、620年には掖玖(やく、現・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着したという記述もみられるとか。
このように、伊豆半島や伊豆諸島は、古くから流刑地とされていたようで、六国史のひとつで、日本書記の次に書かれた「続日本紀(697-791)」には、724年には「伊豆国」が安房国、常陸国、佐渡国などとともに遠流の地に定められたという記述がみられるそうです。
ちなみに、この続日本紀にも、699年に役小角が伊豆島に流されたという記述があるそうですが、これよりずっとのちの1094年ころに書かれた「扶桑略記」という六国史の要約版のような歴史書にも同じ記述があるとか。そこには、「仍配伊豆大島(よって、伊豆大島に配流される)という記述がみられるそうなので、これを根拠にして、伊豆島とは、伊豆大島だったと考える学者さんが多いのだそうです。
さて、このように古代の伊豆は、流刑地という印象が強いのですが、日本書記に記されている記述以前の伊豆がどういう場所であったかについては、伊豆北部から中部にたくさんある古墳や横穴群にその当時の状況を知る手がかりがあるようです。
これについては、大化の改新のあとの670年代以降に出来上がっていく、律令国家の体制の中に伊豆の国が取り込まれていった状況とともに、明日以降、また詳しく書いていきたいと思います。
今日の伊豆の古代史、史料が少ないので、まとめていくのは結構大変でした。明日以降が思いやられますが、まあ焦らずぼちぼちやっていくことにしましょう。