あじさいの季節に

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カラ梅雨であるそうな。

それでもわが家の庭のあじさいは、今年もたくさんの青い花をつけてくれています。

ここ修善寺では、青いあじさいをよく見かけるような気がします。あじさいは一般に酸性度の高い土地では青くなり、アルカリ性の強い場所では赤くなるそうです。修善寺一帯は、ほとんどが古火山である達磨山からの流出物でできている土壌が基盤であり、火山性土壌にはアルミニウムがたくさん含まれているとか。

これが溶け出し、酸性になりやすいため、青いあじさいになりやすい、というもっともらしい説なわけですが、本当でしょうか。

実際、同様に火山性土壌の多い伊豆では、あちこちで青いあじさいを見かける機会が多いように思います。が、品種の改良によって、酸性度が強い土壌でも赤い色になるあじさいもあるようで、また土や肥料を調整してわざわざ赤いあじさいにする場所もあるとのこと。

伊豆での紫陽花の名所、下田公園もそのひとつなのでしょう。長年、地元の人によって数多くの品種が育てられてきたこの地では、いろいろな色のあじさいが楽しめます。

下田市内の南西部の海に面した丘の上にあり、毎年6月末まで「あじさい祭」がおこなわれており、この時期には、およそ15万株、300万輪のあじさいが咲き乱れます。丘全体があじさいに覆われているようで、初めてこの青と赤の氾濫を見た人は圧倒されるようです。

この下田公園、実はその昔の城跡です。九州平定を終え、天下統一に向け、歩みをすすめていた豊臣秀吉に対し、後北条氏が秀吉方との対決に備え、南伊豆防衛の拠点として築城したもので、伊豆半島でも最大規模の山城です。

天正18年(1590)3月、総勢1万人を超えたともいわれる豊臣方の軍勢が下田に押し寄せたとき、これを迎え撃つ城将・清水上野介康英をはじめとする軍勢は、わずか600名だったといわれています。ここでの篭城戦は50日にも及びますが、秀吉方軍の海上封鎖及び陸上での包囲作戦により、後北条側はついに力尽き、4月下旬には開城されることとなりました。

6月には後北条氏の拠点であった小田原城も開城し、前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老などほぼ全員が切腹。豊臣家と親交のあった一部の一族が助命されましたが、そのほとんどは高野山などに追放になりました。

北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となりました。しかし、忠次の子・尊次は慶長6年(1601年)に三河国の田原城へ転封となり、以後、下田城は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配するところとなり、廃城となりました。その後、長い間ただの木々が生い茂るうっそうとした森でしたが、戦後、地元の有志によりあじさいの植栽が始まり、現在では静岡県、いや日本を代表するほどの紫陽花の名所となりました。

この下田城、山城とはいいますが、標高は約70mにすぎません。「鵜島山」という正式名称があり、その頂上に主郭(現在の天守台跡)を置き、そこから伸びる尾根の要所には曲輪(くるわ)が設けてありました。曲輪とは、役割や機能に応じて城内で区画された小区域のことで、城の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓などが建てられていました。

現在あじさいが多数植えられている場所の多くは、こうした城としての機能を保つ設備で覆い尽くされていたに違いなく、現在のような公園としての風情などはこれっぽっちもなかったでしょう。

主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられ、戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯ました。最南端のお茶ケ崎や狼煙埼に物見櫓があり、直下の「大浦(和歌の浦とも)」とよばれる船溜りがありました。ここに、戦国時代最強とされた伊豆水軍の艦隊が集結するとともに、常時城の周りの海の警戒にあたっていました。

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この城を造営した、清水康英という人は、後北条氏の譜代の家臣で北条家第3代当主である北条氏康の傅役(もりやく)、つまり養育係でした。さらに母は、氏康の乳母でした。このことからも、伊豆へ進出してきた後北条家と、地侍であった清水氏とが強い関係を築いていたことがうかがわれます。

康英は、後北条氏に帰依した数ある伊豆衆のうちの五家老の一人にも数えられる実力者であったようです。訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆も務めており、氏康の参謀でもあったと思われます。

ちなみに、下田城が落城した後、康英は河津に退去し、家臣らに籠城の苦労を謝して離別。自らは菩提寺である河津の三養院という寺に入って隠栖。天正19年(1591年)に59歳で没しました。

清水康英はまた、伊豆水軍の頭領でもありました。もともとは三島宿以南の伊豆半島を中心とした地域を拠点とした土着の水軍で、北条早雲が興した後北条氏が伊豆に腰を据えるようになってからは、清水康英の配下に組み込まれ、以後、「北条水軍」ともいわれるようになりました。

伊豆水軍は、北条早雲が伊豆に侵攻してきた際にその配下に下った在地領主が中核となっており、土肥(現伊豆市)の富永氏や、西浦江梨(沼津市)の江梨鈴木氏、三津(沼津市)の松下氏らが含まれていました。それに加えて三浦半島に勢力を持った旧三浦水軍や、後北条氏の始祖、北条早雲の出自といわれる熊野から招かれた梶原氏を組み込んで組織されていました。

伊豆水軍は、この下田条とは別に、西伊豆、現在の沼津市西浦に位置する長浜城を本拠にしており、北方から伊豆に侵入してくる敵の脅威に常におびえていました。実際、付近の武田氏、今川氏と対峙し、駿河湾では幾度となく武田氏の水軍と衝突していました。

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そうした中、現在では戦艦に相当する「安宅船」を有した強力な艦隊を伊豆水軍は編成しました。上の秀吉の下田城攻めに遡ること10年前の、天正8年(1580年)には、駿河湾海戦で武田水軍と衝突し、その際、大砲を積んだ、特大の安宅船を用いたことが記録されています。

この安宅船は、あたかぶね、と呼びならわすことが多いようです。が、阿武船(あたけぶね)という呼称もあるようです。由来は定かではありませんが、戦国時代に淡路近辺を根拠としていた安宅氏からきているという説、巨大で多くの人の乗り組める船であったから「安心できる家(宅)→安宅」となったという説、「暴れる」という意味があった「あたける」という動詞から来ているという説、などなどさまざまです。

北陸道の地名である安宅(あたか、現石川県小松市)と関係あるという説、陸奥の阿武隈川流域を指した古地名の阿武と関係があるという説などもあります。

言葉の定義はともかく、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船です。巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ませんが、戦闘時には数十人から百人単位の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができたといわれます。

室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の「関船」と関船をさらに軽快にした「小早」があり、安宅船がこれらで構成される艦隊の中核を成していました。

近代艦種でいえば、安宅船が戦艦に相当し、関船が巡洋艦、小早は駆逐艦に例えられます。近代的な戦艦や巡洋艦、駆逐艦の役割と、この時代の安宅船・関船・小早の用途分担は比較できるものではない、とはよくいわれます。が、快速で、火縄銃や弓矢による射撃を得意とする関船は、中型高速で艦砲射撃の得意な巡洋艦とよく似ています。また、小型俊足で、焙烙火矢や投げ焙烙(ほうろくひや・なげほうろ、火薬を用いた兵器)を主要武器として用いていた小早は、魚雷を主兵装とする現在の駆逐艦と似ています。

戦艦に例えられる安宅船のほうは、遣明船でも使われた二形船(ふたなりぶね)や伊勢船(いせぶね)などの大型和船を軍用に艤装したものです。船体構造は航(かわら)と呼ばれる板材を船底部に置き、前後両側に重木(おもき)というL型の丈夫な部材を用いました。何枚もの横板を重ね継ぎして周囲を囲った上で、横断方向には多数の船梁(ふなばり)を渡して補強しており、これは「棚板造り」と呼ばれる構造です。

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室町時代以前、日本では、古代には諸手船(もろたぶね)と呼ばれる同じ構造の小型の手漕ぎ船が軍事用に使われていたことが記録にあり、これが、のちの安宅船の起源と考えられます。

中世の前半には海上で活動する軍事勢力が活躍するようになりますが、もともとは水軍専用に建造された軍船はなく、漁船や商船を陸戦で用いられる楯板で臨時に武装したものを使用していました。つまりは、軍事目的で開発されたものではなく、民間利用の商船の外壁を固めて軍船として利用したのが始まりと考えられます。

この当時の日本の有力者には、海外に出かけてまで紛争に関わるような力はなく、海での戦いといえば、国内の閉鎖水域で断片的な海戦を繰り返す程度でした。従って欧米のような本格的な外洋船の建造には至らず、内海限定で作られた軍船であったため、構造的には弱いまま建造技術が固定されました。

西洋の船が応力を竜骨や肋材を使用し強度を得ることで大型化をなしとげたのに対し、日本の船舶はそのような構造を持たず、古代の丸木舟以来、外板を継ぎ合せたのみの構造で引き継がれました。

ヨーロッパでは、8-10世紀にはヴァイキングと呼ばれたノルマン人たちがガレー船と呼ばれる独特の丈夫な船を駆って西ヨーロッパの海を支配していたのに対し、日本ではこうした安宅船のような大きな和船の登場すら、14世紀の室町時代中期以降のことでした。

このように、日本の造船技術はこの当時のヨーロッパ諸国と比べて極めて見劣りがするものでしたが、片や船を集めて「船団」として運用する技術には長けており、戦国時代に入ると、戦国大名により、いわゆる「水軍」の組織化が進みました。

彼らは当初は海賊行為を主体とした小規模な集団に過ぎませんでしたが、陸上で武士階層の成立が進んでいく中、海上でも同じように海上の武力をもって世業とする海の武士たちが登場するようになり、これが水軍と呼ばれるようになっていきました。

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戦国大名の側から、積極的に海賊衆と呼ばれていた彼らに水軍の編成に対する働きかけを行い、警固衆として陸上の土豪や国人と同じように家臣団に組み入れるようになり、農村に対する動員とともに漁村に対しても水軍への参加を呼びかけ、組織としての補強を行いました。

とくに、後北条氏では、相模田浦(現横須賀市田浦)や武蔵本牧(現横浜市本牧)の漁民に対して、葛船と呼ばれる大型漁船での操業を許可するという漁業上の特権を与え、その代わりに有事に際して水軍として参加を要請する、といった形での動員が行われました。

水軍の兵士たちは、平時には漁業に従事しており、後北条氏の必要に応じて水産物を上納する義務を負っていましたが、一方ではそれらを自らの糧とすることが許されていました。しかし、いったん戦闘が勃発すると戦闘員として動員されることも課せられており、平時の漁民と有事の水軍兵士という二つの顔を使い分けていました。

毛利氏、武田氏、後北条氏などの有力な大名もまた、こうした平時は漁民、有事は兵士として機能する便利な民の使い方を重要視するようになりました。初め、諸大名配下の水軍は少数にすぎませんでしたが、あちこちの大名に便利に使われるうちにその技術も洗練されていき、やがては主要な軍事集団に成長しました。

大名たちは、船の構造にも詳しい彼らを徴用し、さらには軍船を建造させるようになります。そして、彼らが建造した大型軍船は、いつの時代からか総称して「安宅」と呼ばれるようなっていきました。

安宅船は、小さいものでは500石積から、大きいもので1000石積以上の規模を誇り、これを千石船と呼びました。「石」はこの時代の米の分量を示す単位であり、一石は100升(1升は1.8リットル)になります。米一石=40貫(150kg)であり、これからすると千石積船=150トンということになります。積載能力は150トンということになり、排水量は約200トンと推定されます。

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200トンというと、どれぐらいの大きさか想像しかねると思いますが、漁船でいえば遠洋漁業に使えるようなかなり大型な船になり、また海上自衛隊のミサイル艇がだいたい200トンありますから、現在の軍艦でいえば大きさとしては小型の駆逐艦程度、といったところでしょう。ただ、この時代の軍艦の動力は風力もしくは人力ですから、大きさだけの比較は適当ではありませんが。

比較と言えば、船としての形状も現在の船とはまったく違っており、船首上面が角ばった形状をしており、矢倉と呼ばれる甲板状の上部構造物も方形の箱造りとなっているのが特徴です。上部構造物は船体の全長近くに及ぶため、総矢倉と呼ばれ、聖書に出てくるノアの方舟のようなずんぐりとしたものでした。

この形状によって確保した広い艦上に、木製の楯板を舷側と艦首・艦尾に前後左右の方形に張って矢玉から乗員を保護します。もともと速度の出ない大型船であるため船速は犠牲にされ、楯板は厚く張られて重厚な防備とされました。楯板には狭間(はざま)と呼ばれる銃眼が設けられ、隙間から弓や鉄砲によって敵船を攻撃しました。

また、この時代は「移乗攻撃」がかなり有力な攻撃方法でした。このため、敵船との接舷時には楯板が外れて横に倒れ、橋渡しとできるようになっていました。楯板で囲われた総矢倉のさらに上部には箱状の「屋形」が重なり、外見の上でも城郭施設に似ています。このため、その構造と重厚さから、安宅船はしばしば海上の城にたとえられます。

戦前に活躍した日本や欧米の戦艦も城のような巨大な上部構造物を擁していましたから、そうした点からも、安宅船と現在の戦艦がよく比較されるのでしょう。

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特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣があり、これは、高い望楼があればあるほど索敵が容易になるためです。この当時の和船に共通する船体構造としては、板材を縫い釘とかすがいによって繋ぐことが基本であり、西洋や中国の船のように「背骨」としての、いわゆる「竜骨」はありません。

現代の自動車や、鉄道車両、航空機などのように、外板で応力を受け持つ構造を「モノコック構造」といいますが、安宅船もまさにそうした構造でした。竜骨などの内部の骨組みが必要無い分、軽量で頑丈な構造船を建造することができましたが、一方では外壁一で作ったいわば風船のような構造であるため、衝突や座礁等による漏水には非常に弱かったようです。

これはとくに、自らの体当たりで敵の船を沈める、といった攻撃が不可能である事を意味し、大きな欠点となりました。西洋の軍船の船首には古代から「衝角」という喫水線下に取り付けられる体当たり攻撃用の固定武装具が設けられるのが普通でしたが、これは船体が丈夫な竜骨で作られているからこそできる技でした。

安宅船にはこうした体当たり攻撃、といった発想はなく、また西洋の航洋船と違い、国内での沿岸戦闘を目的とするため、外洋に出る能力はほぼゼロといえました。

推進には帆も用いることもあったようですが、戦闘時にはマストを倒して、艪だけで航行しました。艪の数は少ないもので50挺ほどから多いもので150挺以上に及び、50人から200人くらいの漕ぎ手が乗ったとされます。

大きな安宅では2人漕ぎの大艪を用いる場合もあったようで、戦闘員は漕ぎ手と別に乗り組むため、数十人から数百人にのぼった、という記録もあるようですが、これから計算すると、乗船する者の数は400~500人にものぼることになります。

船の規模を考えると、いくらなんでもこれは多すぎるため、おそらくは漕ぎ手と戦闘員が兼ねることが多く、実質は200人内外が限度だったのではないでしょうか。ただ、「海上の城」として限定使用し、極端に移動性能を犠牲にした場合には、それぐらいの人数は乗せたかもしれません。

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戦国時代も後期に入ると大型化と重武装化がいっそう進み、特に火器を使った戦闘に対応して楯板に薄い鉄板が張られることもありました。武装も陸上の持ち運びに適さない大鉄砲や大砲が配備され、強力な火力で他艦を圧倒しました。

1573年(元亀4年)、織田信長は自領の内海となった琵琶湖で長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型船を建造したとされます。同年、この大船は坂本から湖北の高嶋に出陣し、ここにあった木戸城、田中城を落城させています

1578年(天正6年)には信長の命により、九鬼水軍を率いる部将九鬼嘉隆が、黒い大船6隻を、滝川一益が白い大船1隻を建造した、という記録があります。九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いたといわれ、その本拠は志摩の国(現三重県)でした。

九鬼水軍は、強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口(後述)の戦いで破り、信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取しており、その後の信長の全国制覇を支えた文字通り織田軍のホープです。

九鬼嘉隆が建造したとされる、黒い大船の規模は、その噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録「多聞院日」によれば横七間(幅約12.6m)、竪十二、三間(長さ約24m)鉄張りであったといい、これは現在の200トン型漁船よりもやや小ぶり、といった大きさです。

そして、これが有名な信長の「鉄甲船」といわれるものです。鉄張りにしたのは毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐためと考えられ、当時の軍船としては世界的にみても珍しいもので、最新鋭技術といっていいでしょう。

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この鉄甲船の戦闘を実見した宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノの証言によれば、各船は3門の大砲と無数の大鉄砲で武装していたといいます。この年、6月20日に伊勢から出航して雑賀衆や淡輪の水軍と戦い、大阪湾に回航し、9月30日に堺湊で艦船式、11月6日に木津川口で、九鬼嘉隆の6隻が毛利氏の村上水軍や塩飽水軍と交戦、勝利しており、これが第二次木津川口の戦いです。

ちなみに、このオルガンティノという宣教師は、主として戦国時代末期に宣教活動を行っていたイエズス会のイタリア人宣教師で、人柄が良く、日本人大好きな好々爺したオジサンだったようです。40歳前に来日した彼は、「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となりました。

日本に好感を持っていたオルガンティノは、書簡の中で「ヨーロッパ人はたがいに賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べています。

また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べています。昨今のせちがない世の中に住み、気性も態度も矮小になってしまった我々にとっては少々面はゆい評価ではありますが。

1591年に始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では軍需物資や兵員を輸送し、兵站を維持するために大量の輸送船が西国の大名によって建造されました。これらの輸送用の船舶とは別に、緒戦期に朝鮮水軍の襲撃で被害が出ると、日本側も水上戦闘用に水軍の集中と整備を行いました。

「太閤記」などの記述によれば、このとき秀吉は、各大名に石高十万石につき安宅船二隻を準備させたといいます。その結果、慶長の役ではこうして建造された多数の安宅船で構成された日本水軍が活躍することとなりました。

この役のために九鬼嘉隆が建造した「鬼宿」は、山内一豊に宛てた手紙では、「船長十八間(約32m)、幅六間(約11m)」の大きさだったとされます。櫓百挺で、漕ぎ手と戦闘員をあわせて180名が乗り込んだとされ、豊臣秀吉の命名によってその後「日本丸」と改名されました。

現在の韓国南部、閑山島と巨済島の間の海峡に、単独出撃をした脇坂安治率いる1500人の水軍が、朝鮮水軍の誘引迎撃戦術により壊滅状態に陥った、閑山島海戦(かんざんとうかいせん)では、敵の襲撃を強靱な船体で受け止め、多くの兵士の脱出に寄与したといわれています。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは九鬼水軍を率いる九鬼嘉隆(西軍)と子の九鬼守隆(東軍)が東西に分かれて戦い、西軍が負けたため、嘉隆は自害しました。

嘉隆亡き後、守隆は水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城に当たっては木材や石材を海上輸送して幕府に貢献しました。しかし守隆没後は家督争いが起き、九鬼氏は二分された上に内陸へ転封となり、ここに、日本を代表する水軍として長年高い評価を得てきた九鬼水軍の歴史は終わりを迎えました。

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関ヶ原の戦いを経たのちの江戸時代初期には、日本の各地で次々に巨城が築城され始めました。こうした軍事的な緊張の時代を反映して、西国の諸大名によって九鬼氏の日本丸を上回る巨艦が次々に建造され、安宅船の発展はピークを迎えました。しかし慶長14年(1609年)に江戸幕府は西国大名の水軍力の抑止をはかるため、500石積より大きな船を没収しています。

元和元年(1615年)に大坂の陣が終わり、ようやく平和の時代が訪れると安宅船の軍事的な必要性は薄れていきました。速力が遅く海上の取り締まりの役に立たない安宅船は廃れ始め、かわって諸藩の船手組(水軍)は快速の関船を大型化させて軍船の主力とするようになっていきました。

寛永12年(1635年)には武家諸法度により全国の大名に大型の軍船の保有が禁じられました。「大船建造の禁」といい、500石積み以上の軍船と商船を没収し、水軍力を制限したもので、軍船に転用可能な商船も対象としていました。ただ、500石以上の船格であっても外洋航行を前提とする朱印船は除外されていました。

一方、江戸幕府は500石積より上の軍船保有を禁じたのと同年に、超大型の安宅船を建造しています。長さ三十尋(約55m)で3重の櫓をあげ、200挺の大櫓を水夫400人で漕ぐという史上最大の安宅船で、その名も「安宅丸」と命名されました。ただ、この安宅丸は、伝統的な和船構造ではなく竜骨を持つ和洋折衷船であり、典型的な安宅船ではなかったといわれています。

建造を命じたのは徳川秀忠であり、その後に将軍職を襲った家光によって絢爛豪華な装飾が付けられたといいます。その巨大さから「日本一の御舟」などとよばれ、江戸の名物の一つでもありました。外板の厚みは1尺(約30cm)もあり、当時の関船を主力とした他の大名の水軍力では破壊は不可能であり、さらに船体・上構すべてに銅板を張っていたため、防火・船喰虫対策は完璧でした。

しかし、あまりに巨大であったため大艪100挺でも推進力が不足であり、実用性がなく将軍の権威を示す以外にはほとんど機能せず、また維持費用も巨額にのぼりました。巨体のために航行に困難が伴い、このため隅田川の河口にほとんど係留されたまま長年留め置かれたままでした。その後、奢侈引き締め政策の影響もあり、1682年(天和2年)に解体され、和船最後の巨船となりました。

安宅船の消滅以降、幕府や諸藩が巡行や参勤交代に使う御座船を始めとした、関船主力の時代が幕末まで続きます。そして幕末には西洋式海軍の建設が図られ、在来型の軍船の時代は終わり、安宅船は再び世に出ることはありませんでした。しかし、安宅船の建造で培われた「頑丈な船を創る」という技術は後世に引き継がれることになります。

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その後、幕末の動乱を経て、明治を迎える中、島国であった日本は古くから海外との交流を展開し、異国の文化を輸入する中で、建造技術においても、これを海外から取り入れていく方針に転じます。

近世においては鎖国して外界との接触を避けてきた日本にとって1800年代前後から黒船来航など海外の国々が日本に忍び寄る危機に直面したことが、その転換のきっかけでした。尊皇攘夷を唱える水戸藩が海防を強く主張、水戸藩主徳川斉昭は腹心の安島帯刀に日本初の洋式軍艦「旭日丸」を建造させ幕府に献上しました。しかし、この旭日丸は進水する時に座礁するなど、当時の日本の西洋船舶建造技術はまだ不十分でした。

明治以降の日本は明治政府によって富国強兵、脱亜入欧政策の下、文化的、経済的に一等国となるよう近代化への道を歩んでいきました。小さな国土の島国で地下資源の乏しい日本が貿易による経済とエネルギー供給を支えたのは海運業であり造船でした。

当時、政商として栄えた三井財閥や三菱財閥などの大企業が、国策事業として支援を受けながら海運と造船業界を成長させました。この時代は、西欧列強による植民地拡大政策の脅威と帝国主義の時代であったため、国防上、海軍の役割は一層重要となりました。造船業界は海運業だけでなく軍艦建造でも大きな需要を得るようになり、その後、日本はさらに艦船建造による軍備増強の道を歩み、太平洋戦争に至るまでそうした時代が続きました。

しかし、太平洋戦争で日本は保有船舶の大半を喪失しました。ある統計によれば、日本が喪失した艦船は、軍船・商船も含め、100トン以上のものだけでも2800隻にも上ったといわれます。ところが、戦後、傾斜生産政策や朝鮮戦争での特需によって早期に造船業は回復するとともに海運業とともに成長路線に戻り、戦後日本の経済成長を支えました。

日本の高度経済成長時代には「造船業は日本のお家芸」とまで言われましたが、これは、安宅船の建造以来、500年以上にわたって蓄積された造船技術が一気に開花した時代、といっても過言ではないでしょう。

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しかし、オイルショック以降、造船業は伸び悩み、その間に中韓の2か国が力をつけてきました。2015年現在、世界シェアは中国が40%、日本が30%、韓国が20%程度と東アジア3か国で90%を占めているため、「三国志」と形容されています。

とはいえ、低迷していた日本の造船業も2000年前後からの世界貿易増加に伴う船舶不足により息を吹き返し、高付加価値の船舶を中心に受注が増えています。

ただし、同時期に始まった鋼材の高騰により高騰以前の受注案件が軒並み利益を確保できない状況であること、典型的な労働集約型産業であるため、「2007年問題(団塊の世代の一斉退職にともない、発生が予想された問題)」による優秀な職工の大量退職への対応も迫られるなど、造船各社とも苦しい経営を強いられています。

また、2000年代後半のリーマン・ショック等を契機とする世界的な景気減退と急激な円高ドル安の進行は、さらに日本の造船業界の競争力を低下させ、2014年には受注残すら無くなるのではないかとする「2014年問題」も懸念されることとなりました。これは、2010年代初頭、世界の造船会社の受注残が極端に減少し、2014年頃には新たに造る船舶がなくなるのではないかとする危機感を問題視したものです。

中国や韓国では徐々に中・小造船会社の淘汰が始まり、メーカー間の価格競争も厳しく、利益率の大きい大型案件を受注しても、後日、他社が行った受注条件に応じて、追加値引きを余儀なくされる例も見られるようになりました。

中国では、半数近くの会社が2014年問題を乗り越えられないとする推測があります。2014年からは既に3年が経っていますが、現在の中国の造船業は「受注の崖」から抜け出せず中国造船所の75%が閉鎖しているといいます。

一方、日本の造船業界は、合併などで生き残りを図るようになったほか、2012年末に成立した第2次安倍内閣がアベノミクスを提唱すると70円台だった円相場が100円台になるなどの追い風を受け、2013年後半には各社が徐々に競争力を取り戻し、新規受注に成功するなどの動きが見られるようになりました。韓国の造船業は2010年代以降、構造不況に陥っているため、相対的に日本の造船業の復権が進んでいます。

今年の1月、急激な「受注絶壁」で数年来危機を持ちこたえてきた韓国造船業が、ついに受注残高で日本に抜かれる状況に至っており、1999年末に日本を抜いて世界首位に上がって以来、17年ぶりに“「造船王国」の地位から陥落しました。

しかし、日本も安閑としてはいられません。今後、島国日本の造船業がどうなっていくかは、コスト削減もさることながら、安宅船以来培ってきた造船技術に加え、いかに新たな技術を加えて他国の造船業立ち向かっていけるか、にかかっています。

そんな中、スポーツとしての造船技術も日本の技術は飛躍的に進歩しつつあります。1851年より現在まで続く国際ヨットレース、アメリカズカップで日本は、これまで蓄積してきた造船技術を駆使したヨットを投入し、1992年・1995年・2000年の3回に渡り「ニッポン・チャレンジ」がアメリカズカップに挑んできました。

いずれも準決勝にて敗退(3回とも4位)していますが、今年、6月初めから英領バミューダ諸島で始まった、第35回アメリカスカップでは、ソフトバンクが関西ヨットクラブと連携し「ソフトバンク・チーム・ジャパン」として久々に挑戦しました。

残念ながら今回も日本は敗退したようですが、そのレースのために建造された、新しいレース艇は、全長50フィート(約15m)と、これまでよりもサイズが大きくなり、性能面なども桁違いです。 スピードは最高で時速80kmにもなると言われる、このカタマラン型(双胴)のこのレース艇は、まさに高い技術力で進化する現代日本の造船技術を体現するものといわれます。

造船工学・建築工学・材料工学・流体力学・航空力学・気象学など、各国の最先端技術や軍事からの応用技術が投入されるなど、参加国の威信を賭けた国別対抗レースとしての一面も持ち合わせているこのアメリカズ・カップ。

その最終決戦は、アメリカとニュージーランドの間で戦われます。

ディフェンダー・アメリカ オラクルチーム VS チャレンジャー・プレイオフで挑戦権を得た、ニュージーランドのチーム “Emirates Team New Zealand” の間の決勝戦はもうすぐ火ぶたが切って落とされます。

テレビでの放映予定はないようです。ご興味のある方は、ネットでどうぞ。

2017年6月17日、18日、24日~27日

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靖国

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先日、一人息子君の大学の卒業式があり、九段下の日本武道館に行ってきました。

式は滞りなく終わり、午後は卒業生のみで懇親会行われるとのこと。この会に出席できない我々父兄は、当の本人と記念撮影をしただけで、あえなく、その場で解散となりました。が、せっかくだから、これまで参拝したことがなかった、隣接する靖国神社に詣でようと、二人でランチを済ませた後、参拝に向かいました。

同じく九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀るあの神社です。一昨日桜の開花宣言があったばかりですが、この神社の境内にある標本木がその開花宣言の指標になっていることはみなさんもご存知でしょう。

元来は「東京招魂社」という名称でした。

その昔、平安時代の中頃から「招魂祭」というものが民間で行われるようになり、やがて貴族社会にも浸透しましたがそれに由来する名前です。人には「魂」というものがあると信じられ、熟睡したり悩み事に屈託したときには衰弱した肉体からその「魂」が遊離すると考えられていました。

このほか、病気やお産などの際にも魂は身体から遊離するとされ、このように体から離れていった魂を屋根の上で衣を振るなどして招き戻す祭祀を行ったのが招魂祭です。生者に対して行う祭祀であり、もともとは死者に対して行うことは禁止されていました。

一方、死者・生者に対する神道儀礼は「鎮魂祭」と称されて区別されていました。鎮魂とは、「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式であり、魂を外から揺すって魂に活力を与えることで、これを「魂振(たまふり)」ともいいました。

こちらは、宮中で「新嘗祭」の前日に天皇の鎮魂を行う儀式でした。この新嘗祭とは皇家における収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する、というものです。

片や、前日の鎮魂祭は太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われる儀式であり、新嘗祭と同じく太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期に行われます。太陽の日が弱まるということはすなわち天皇の力も弱まることになるため、新嘗祭という重大な祭事に臨む前に、弱くなっている天皇の霊力を強化するわけです。

以後、長い間、この鎮魂祭は皇室で受け継がれ、現在も行われていますが、この「鎮魂」という言葉は天皇家の間では毎年の儀式で使われてきたのに対し、もともと民間信仰から出た行事である招魂祭に基づく「招魂」という言葉は長い間あまり日の目を見ることはありませんでした。

招魂の儀式はもともと民間の儀式ですが、江戸時代ころまでにはかなり衰退し、江戸幕府が管理していた天文道、暦道である陰陽道などに啓示されていた行事の中にも入っていません。

というのも、もともとこの儀式は朝鮮人が行う儀式である、と考えられたためのようです。招魂とは、元は朝鮮から入ってきた概念であり、彼の国では彷徨える御霊を招き、この世での未練を断ち切らせ、あるいは自分の肉体が既にこの世には無いことを教え、死者の国(常世の国あるいは黄泉の国)へ行かせる儀式と考えていました。

それが平安の時代に入り、日本にも入ってきて民間にも定着しましたが、上述のとおり、日本には皇室を中心に鎮魂という考え方があったため、招魂はオフィシャルにはなれませんでした。

ところが幕末になって、急にこの招魂祭と言われるものが広く行われるようになりました。そのきっかけは、実は、明治天皇の父、前の天皇である孝明天皇が謀略で殺害されたためだったとする説があります。

孝明天皇は、もともと攘夷運動に熱心で、西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な天皇でした。また、晩年には公武合体に傾き、これに批判的な薩長の要人たちからは、できれば排除したい対象となっていきました。

孝明天皇は悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていましたが、それ以外では至って壮健であったといわれています。ところが、慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして満35歳で突然崩御。死因は天然痘と診断されました。

その死の直後から、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していきます。こうした状況などから、その死因に対する不審説が漏れ広がっていきました。現在に至るまでこの他殺説は根強く、研究者たちの間では議論が続いています。

このとき、孝明天皇を暗殺した中心人物こそが三条実美、伊藤博文 西郷隆盛ではなかったか、とする説もあり、このほか彼らは李王家の家臣を祖とする派閥だったとする奇説もあります。謀略で殺した孝明天皇の招魂が必要だと考えた朝鮮系の彼らは、その魂を招魂して、無事にあの世に旅立たせ、明治の時代を安穏にしようとした、というわけです。

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真偽はともかく、ここで、長らく埋もれていた招魂という言葉が改めて世に出るようになります。日本で初めての招魂社は、「櫻山招魂場」と呼ばれ、これはその当時の長州、現山口県下関にあることから、朝鮮にも近いこの長州を基盤に全国に広まっていったと考えられます。

ちなみに、この神社は慶応元年(1865年)8月創建で、現在も「櫻山神社」と呼ばれ、現存しています。私も行ったことがありませんが、グーグルマップをみると、下関駅から北へ1.5kmほど離れたところにあり、ストリート・ビューで見ると、確かに入り口の鳥居のそばに「櫻山招魂社」と書かれた石碑が立てられています。

こうした長州での動きに連動して、戊辰戦争終戦後の1868年(慶応4年)明けには、東征大総督、有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行しました。また、同年春、太政官布告で京都東山(現京都市東山区)に戦死者を祀ることも命じました。この招魂社が現在の「京都霊山護国神社」です。

さらに同年夏、京都の河東操錬場において神祇官による1853年(嘉永6年)以降の殉国者を慰霊する祭典が行われるなど、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設として、各地で招魂社創立の動きが出てくるようになります。

それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇は即座にその勅許を出しました。これを受けて1869年(明治2年)に、現在の九段下の地に招魂社創建が決定され、ここに、「東京招魂社」として現在の靖国神社が竣工しました。ただし、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは1872年(明治5年)のことでした。

同年8月には、皇室付きの五辻安仲(いつつじ やすなか)が勅使として差遣され、時の軍務官知事、「仁和寺宮嘉彰親王」を祭主に戊辰の戦没者3,588柱の合祀鎮祭が、この出来たての招魂社で執り行われました。

その後、その名称は靖国神社へと変わりましたが、「靖国」の名は、明治天皇の一声によって改称されたものです。この「靖国」は中国の古典「春秋左氏伝」に出てくる「吾以靖国也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠としています。

明治天皇は「招魂社」という名について、「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」と唱えたといわれます。どういう意味かというと、「招魂」は臨時・一時的な祭祀を指し、「社」は恒久施設を指すということであり、明治天皇は招魂社の中に二つの意味が含まれることに矛盾があると考えたようです。

こうして靖国神社への改称が1879年(明治12年)に行われ、以来、東京では招魂社というよりも靖国の名のほうが親しまれるようになっていきます。

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ところが、地方では招魂社という名前の神社が多数残りました。それまで明治政府はこうした招魂社の創立には官費を支給していました。しかしあまりにも招魂社創建の出願が増えたため、その数を制限することとし、1901年(明治34年)には官費支給対象の招魂社には「官祭」を行うことを義務付けました。

一方、支給対象外の招魂社は「私祭招魂社」と呼んで区別しました。しかし、その後の日清・日露戦争後もさらに私費による私祭招魂社創建の出願が増えたため、内務省神社局は1907年(明治40年)に「招魂社創建ニ關スル件」を内務省通達として発し、さらに細かく招魂社の設置基準を定めました。

そしてその中で、真の招魂社の祭神は靖国神社合祀の者に限る、ということにしました。これによってその創設に制限を加えて抑制したわけですが、にもかかわらず、1931年(昭和6年)に満州事変、1937年(昭和12年)に支那事変(日中戦争)が勃発すると、戦没者の霊を郷土で祭りたい、招魂社を建てたいという要望が各地でさらに高まりました。

このため、さらに1939年(昭和14年)にも「招魂社ノ創立ニ關スル件」をこのころ創設されていた「神社局」の名で通達し、一部の例外を除いて各道府県に招魂社は1社のみ創立を許可する、という厳しい制限を加えました。

また、同じく同年に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年)を内務省通達として発し、それまでの公認招魂社の名を「護國神社」と改称、それまで曖昧だった神社としての制度を明確にしました。

この「護国」の名称は、1872年(明治5年)の徴兵令詔書の一節「國家保護ノ基ヲ立ント欲ス」や、1882年(明治15年)「軍人勅諭」の一節「國家の保護に尽さば」に基づいています。祭神の勲功を称えるに最も相応しく、既に「護国の英霊」といった用語が広く用いられていて親しみも深い、との理由で採用されたものです。

こうした一連の改革により、招魂社改め、護国神社の総数は、1939年(昭和14年)4月時点で131社にまで減りました。詳しい統計は残っていませんが、おそらくはそれまでは1000、あるいはそれ以上の招魂社があったものと考えられます。

ただ、こうして現在に至るまで残る各地の護国神社の祭神は靖国神社の祭神と一部重なるものの、必ずしも靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っているものも多くあります。そのため、公式には、各地にある護国神社は「靖国神社とは本社分社の関係にはない」とされているものも多いようです。

しかし、共に「英霊を祀る」とする靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種の交流もあります。主要な護国神社52社で組織する全國護國神社會は靖国神社と連携し、英霊顕彰のための様々な活動を行っています。

なお、沖縄県護国神社では沖縄戦で犠牲になった一般住民、遭難学童及び文官関係戦歿者も祭神として祀られています。また、広島護国神社では原子爆弾の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒、女子挺身隊員も祭神として祀られています。

このように、靖国神社にせよ、護国神社にせよ、亡くなった戦没者の魂を慰霊する、というのは尊いことです。しかし亡くなった魂というのは、何も幕末から維新、またその後の戦争にかけてのみ生じたわけではなく、古くは平安の時代から戦国時代に至るまで多数の魂が失われてきているわけであり、幕末以降の魂だけを祀るというのは、そもそもヘンな話です。

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ところが、靖国神社や護国神社の多くはこれを「幕末以降の動乱で亡くなった人」、と限定つきでこれを祭神にしてしまいました。幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、1853年(嘉永6年)のペリー来航、いわゆる「黒船来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等のすべての戦没者がそれです。

当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていましたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになりました。

この「英霊」という語は直接的には幕末の水戸藩の学者、藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来します。

藤田東湖は、日本古来の伝統を追求する「水戸学」の提唱者であり、その「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となりました。

本来は他者を救うために亡くなった人々全般に対する敬称ですが、大日本帝国憲法体制成立後は公式には天皇の命令に従い戦って戦死した者を指すようになりました。

やがてそれまでは靖国神社や各地の護国神社に祀られている戦没将兵を「忠魂」・「忠霊」と称していたものをも、人々はこの国粋主義者的な用語を知ってか知らずしてか(おそらくは知らずして)、「英霊」という言葉で呼ぶようになっていきます。

ところが、太平洋戦争敗北以降、政教分離政策の推進により靖国神社は国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなりました。護国神社も同様です。当然、戦前の軍国主義を思わせる「英霊」という用語も失われていくかと思われました。がしかしこれを存続させようという人々も多く残りました。

とくに敗戦を契機に成立した日本国憲法に対しては、その発布の直後からこれを否定し敗戦以前の政体を復活させようとする動きがすぐに出始めました。その中で、1947年11月には「日本遺族厚生連盟」が発足、1953年には日本遺族会へと発展しました。

現在に至るまで「英霊」の顕彰と慰霊に関する事業、戦没者遺族の相互扶助、生活相談に関する事業などを実施している法人であり、この遺族会は、現在でも靖国神社など特定の宗教団体と密接な関係があるとされています。

こうした「英霊」の復活の動きは、政教分離政策によって切り離されたはずの靖国神社の国家管理を復活させようとする動きと合致する部分も多かったようです。これすなわち、現日本国憲法体制の否定にもつながる、というわけであり、当然こうした解釈は日本国憲法を守るべきとする立場の人々には認められるものではありません。

このために、長年、政治的・思想的な論争の対象となってきており、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等起こるたびに、批判とそれに対する応酬が繰り返され、様々な問題が生じています。

また、戦争被害を受けた、という主張をしている中国や韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に、これを猛烈に批判、反発しています。

これに対し、満州国や朝鮮半島一帯は第二次世界大戦時には日本領であり、そもそも日本と交戦関係になかったとし、中国や韓国が「戦争被害」にあったとする事実はない、と主張する日本人もいます。が、無論、そんなのは屁理屈にすぎません。

こうしたことから、1985年の中曽根康弘首相、2001年の小泉純一郎首相の公式参拝は日本国内や中国・韓国との間で問題となり、国内では公人の公式参拝が政教分離原則など憲法違反かどうかを確認する訴訟も行われました。このほかにもこれまで11人の首相と多数の閣僚が参拝していますが、これらの是非もともに問われるようになりました。

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こうした靖国神社参拝に対する反対者の主な意見としては、彼らは戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているというものです。戦前の軍国主義を象徴するような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社が主張する第二次世界大戦に対する歴史観を公的に追認することになるという主張です。

靖国神社が主張しているという、この「歴史観」の中心になるものは、言うまでもなく、戦没者の「英霊」を祭神として祀るということですが、これを言い換えるならば、すなわち「軍神」という考え方です。

靖国神社の境内には、本殿に隣接して「遊就館」という、合祀された「英霊」の遺品や資料、戦争で使用された兵器などを展示する「戦争博物館」がありますが、この中の展示物の説明文の中にはふんだんにこの「軍神」という言葉出てきます。勇猛な戦死者の美称として古来から使われてきましたが、戦争を美化する用語の最たるものです。

こうした戦争必肯論の賛同者はよく、アメリカの公式儀礼の様子を引き合いに出します。アメリカも日本と同じく政教分離が原則となっていますが、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてます。しかし、これが問題になったことは一度もない、というわけです。

同様に、もともと靖国神社は古来からある神道に基づき建造された神社であり、しかも国家のために殉難した人の霊を祀るための国策でできた神社なのだから、諸外国からも文句は言われる筋合いはない、と彼らは主張します。

しかし、殉難者を祀るというのは理解できますが、靖国神社は明治の創建以来わずか150年弱しか経ておらず、伊勢神宮や出雲大社のように、文字通り日本の歴史そのもののような神社とは同列に扱って議論することはできません。

そうしたいわば底が浅い神社に、なぜか政治家は執着したがります。とくに自民党の議員・閣僚などは、公人としての靖国参拝を批判されると、「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という主張を繰り返しています。

公人であっても、戦争で亡くなった御霊を慰霊する気持ちは一般人と変わりない、というわけで、人権的な観点からも私人の側面を強調視しており、「個人の信仰や信念も尊重されるべきである、と言っています。参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」とも。

これはある種正しいといえるでしょう。個人としてふるまっているわけであるから、とやかく言われる筋合いはない、というわけです。公人だってゴルフに行くことがあり、これがとがめられているわけではありません。

しかし、これらはあくまで個人の意見にすぎず、その個人を包含する与党である自民党ですら、このように靖国神社に参拝することを是とするか非とするかについては党としての公式見解を出していません。これは民主党(民進党)も同じです。この二つの政党に属する議員の中には賛成派も反対派もいます(公明、共産は基本的には反対)。

ところが、この靖国神社に合祀されている「戦犯」の扱いについて、日本の国会は、靖国神社に合祀されている、国内・国外の軍事裁判で戦犯として有罪判決を受けた者も、国内法では犯罪者ではないと決議してしまっています。諸外国からこの「戦犯」とされる人々が合祀されていることを批判されているにもかかわらず、です。

戦犯の国内での扱いに関しては、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていませんでした。

しかし、1950年代には、国内外で収監されている戦犯の赦免や減刑に関する国会決議が相次いで採決され、1952年(昭和27年)、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達されました。

これにより、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われるようになりました。つまり、国内においては、第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所で有罪となった人々の復権は正式に認められたわけです。従って靖国神社に祭られているすべての「英霊」についてもその存在を認めた格好です。

ただ、「戦犯」という汚名の名誉回復については「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」としています。この戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、現在に至るまで歴代の政権は判断を避けています。

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このように、なにやら非常にもどかしい「政治的判断」の上に、現在に至るまで靖国問題の議論は続いてきているわけです。ただ、上述のとおり、靖国神社は国家管理を離れた一宗教法人となっており、日本政府との直接的な関係はない、とする点だけは明らかです。

しかし、裏返せば、これはすなわち、政府とは関係はないが、その存続に対してもは否定していないということにほかならず、またその存在を認めているということは、そこに合祀されている、かつて戦犯とされた人々をも含めた「英霊」の存在を認めている、ということになります。

こうしたあいまいさが、諸外国を怒らせているわけであり、判断があやふやな状況のままに歴代の閣僚や議員が、繰り返し繰り返し、靖国に参拝することがまた新たな批判を浴びています。

国民の間においても、肯定派と否定派がそれぞれ多数おり、「英霊」という「神」、あるいは考え方を認めるのか、また閣僚による公式参拝を認めていいのか、ひいては靖国神社の存在の是非は、と現在でも国を二分するほどの大議論となっています。が、それにもかかわらずなかなか解決の道は見えてこないようです。

私自身の意見を言わせていたただくと、そもそも「神社」という呼称でありながら、そこに人が「神」として祀られている、ということ自体がおかしいと思います。

たしかに、神道においても「人物神」という考え方があります。いわゆる、御霊信仰(ごりょうしんこう)というものであり、これは、人々を脅かすような天災や疫病の発生は、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖したところから来ているものです。

これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとしたのが日本古来からある「人物神」信仰のはじまりと考えていいでしょう。

古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王といった奈良時代の貴族、皇室関係者などは亡霊になったとされ、こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこりました。これが御霊信仰です。

大宰府に左遷されて非業の死を遂げた菅原道真もその一人ですが、こうして死して怨霊となるというのは、それなりの理由があって怨霊になるのであって、その根本は「意趣」を返すためです。古代から中世の一般的な認識としては怨霊というものは非業の死、恨みによって生まれるものと考えられていました。

このため、平安時代から鎌倉時代にかけては崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇、後醍醐天皇などが怨霊となったと怖れられ、朝廷や幕府は慰撫や慰霊のために寺社を立て続けに建立しています。

こうして考えると、確かに戦争で亡くなった方々の多くの死も同じく非業の死であったかもしれません。しかし、そうして戦争で亡くなったことに対する「意趣返し」のために怨霊になるとは考えにくく、これを祀るために社を建造する、というのは古来から伝わっている御霊信仰の思想からみてもおかしな話です。

従って、戦争で亡くなった戦士を「護国の英雄」として、死後賞賛の対象となるような人物神として扱って祭祀することはそもそもの神道教学上からも間違っているということになります。

また、靖国神社では、戊辰戦争・明治維新の戦死者では新政府軍側のみが祭られ、賊軍とされた旧幕府軍(彰義隊や新撰組を含む)や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となっています。西南戦争においても政府軍側のみが祭られ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外です。郷軍戦死者・刑死者は鹿児島市の南洲神社に祀られています。

戊辰戦争以前の幕末期において、日本の中央政府として朝廷・諸外国から認知されていた江戸幕府によって刑死・戦死した吉田松陰・橋本左内・久坂玄瑞らも「新政府側」ということで合祀されているばかりか、病死である高杉晋作も合祀されています。

さらに、戦後のいわゆる東京裁判などの軍事法廷判決による刑死者と勾留・服役中に死亡した者が合祀され、合祀された者の中には文民が含まれています。加えて、軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者が対象で、戦闘に巻き込まれたり、空襲で亡くなった文民・民間人は対象外です。

唯一の救いは、「軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者・戦犯裁判に於ける死者」であれば、民族差別・部落差別等の影響は一切無い、という点であり、これは評価できます。

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このほか、靖国神社はその創建当初、主に長州人を中心に建立されたことも気になります。戊辰戦争で賊軍とされて戦死者が靖国神社に祭られていない会津藩士の末裔で戦後右翼の大物だった田中清玄は「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と述べています。

そもそも明治天皇に東京招魂社(靖国神社)の建立を進言したのは、事実上の「日本軍」の創設者であり、長州出身の元勲、大村益次郎です。現在の靖国神社の参道には、一番目立つところに彼の銅像が立っています。

彼は純粋なる「兵学者」であり、国学や神道に傾倒するといった「文学的」な性格は持ち合わせていなかったようです。が、維新を通じて数多く亡くなった母国長州の数多くの同志の魂をどうしても慰霊したい、という思いがあったのでしょう。しかし、「最高軍司令官」の立場を利用して、そうした葬祭事を天皇に進言した、と批判されても仕方ありません。

このほかにも、靖国神社への合祀には多数の矛盾があります。

明治維新の功労者であっても後に叛乱を起こした西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていない、乃木希典、東郷平八郎といった著名な軍人や八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者等は、戦時の死歿者でないため祀られていない、戦後に殉職した自衛官、海上保安官、政府職員等に関しては祀られていないなど、合祀の基準があいまいなのも気になります。

こうしたことも反映してか、先代の昭和天皇をはじめ、今上天皇は靖国神社への参拝を長く行っていません。また、戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していましたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言しました。

同年を最後に、それまで隔年で行なわれていた天皇の親拝が行なわれなくなりましたが、これはこの三木総理の発言が原因であると言われてきました。ところが、2006年になって昭和天皇の側近で宮内庁長官を務めた富田朝彦が、「富田メモ」を発表し、この中に昭和天皇がA級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかりました。

以下が該当部分です。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ

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「松平の子の今の宮司」というのは、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男で、幕末の四賢候といわれた松平春嶽の孫、松平永芳のことで、この人は戦前は海軍軍人、戦後は陸上自衛官を務めたあと、靖国神社第6代宮司となり、このとき、A級戦犯の合祀を実施したことで知られている人物です。

また、「筑波」とは、筑波藤麿(ふじまろ)という元皇族で、終戦直後の1946年(昭和21年)に、靖国神社宮司に就任し、宮司在任中に、いわゆるA級戦犯合祀が討議されました。しかし、合祀はするものの、時期については慎重に判断すると決まり、結局在任中には合祀は実行されませんでした。

一方、松岡とは、日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した「松岡洋右」のことで、「白取」とは、戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた「白鳥敏夫」のことです。

昭和天皇はドイツびいきだった松岡を嫌っていたといい、また日独伊三国同盟の推進を図った白鳥についても同様の理由であまりそりが合わなかったといわれています。このため、この二人が戦後の極東軍事裁判でA級戦犯になったあと、筑波はその合祀を後回しにしたのにもかかわらず、松平宮司の代にこれを靖国神社に合祀したことを怒っていたようです。

靖国神社が彼らを含むA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードも残っており、上のメモはそれを裏付けるものとされています。

こうした事実から、昭和天皇は靖国神社存続にも反対だった、と決めつけるのは早計ですが、それまでは足しげく参拝されていたのに、A級戦犯合祀後からは次第に足が遠のいて行った、というのは事実のことのようです。

繰り返すようですが、現在の靖国神社は旧皇居に隣接し、まるで公共施設のようにみなされていますが、戦後は一宗教法人にすぎず、しかも国立ではなく、ただの神道の一神社にすぎません。

そうした事実を再確認するだけでも、公人の靖国参拝の不合理性ははっきりしていると私的には思うわけですが、戦前の国家神道の復活の動きや、こうしたA級戦犯合祀問題が複雑にからまって議論がいまだに続いています。

こうした議論は、今から50年ほど前の1969年(昭和44年)に始まったようです。この年、靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとする靖国神社法案が議員立法案として自由民主党から提出されたことがあり、このときから神社の政教分離に関する現在のような議論が沸騰し始めたといわれます。

しかし、靖国神社を国家管理の施設に復活させる案として国会に提出されたこの案は、宗教色を薄める内容への反対もあり、廃案となりました。

現在に至るまで、それならA級戦犯だけ、合祀から分離すればいいじゃないか、という意見も存在しますが、靖国神社はA級戦犯の「分祀」は「不可能」として拒否しています。

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それなら、もう靖国神社というものは切り捨てて、いっそのこと新しい追悼施設を作ってはどうか、という意見も当然ながらに存在します。

もともとは、2001年(平成13年)、当時内閣官房長官だった福田康夫氏(のちに総理大臣)が、私的諮問機関として「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させ。4年後には超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」が設立されたのがきっかけです。

日本人ならば、戦没者の魂をねぎらう常設の国家的な戦没者追悼施設はぜひ必要と考えるのは当たり前です。しかし、靖国神社では、これまで述べてきたように、歴史的・宗教的・国際的などの多数の問題があり、それならば靖国神社に代わる国立の追悼施設を設置すればいい、というわけです。

実は、靖国神社すぐ隣には、「千鳥ケ淵戦没者墓苑」という国立の施設が既にあります。無宗教形式の施設であり、靖国神社のような宗教色はありません。ただ、納められているのは引き取り手がない無名戦士の遺骨のみであり、戦死者全体を追悼・慰霊する場ではありません。

ならば、これを拡張・強化し、現在の日本にふさわしい追悼施設にすればいい、という意見も根強くあるようです。が、それなら、すでに靖国神社に合祀「されてしまっている」魂はどうするのか、という議論が他方ではあって、一筋縄ではいきません。

また、仮にこうした施設ができたとしても、すぐ靖国神社廃止、というわけにもいきません。そもそも民間の一宗教法人を国家が廃止するなど信教の自由上不可能です。

ただし、民間の一宗教法人である靖国神社に国家の公式の追悼・慰霊の役割を担わせることそのものは、津地鎮祭訴訟で示された基準に照らし、政教分離の原則に反するため憲法違反です。1965年に三重の津市で市立体育館建設の際に行われた地鎮祭をめぐり、憲法に定められた政教分離原則に反するのではないかと争われた行政訴訟では市が敗訴しました。

一方では、1952年以降、全国戦没者追悼式が毎年開催され、特定の宗教によらない形で天皇、内閣総理大臣、衆参議長、最高裁判所長官なども出席しています。対象は民間の空襲被災者なども含み、これこそがそうした目的の場に違いありません。が、惜しむらくは常設の施設ではありません。

ちなみに、この戦没者追悼式は1964年に一度だけ靖国神社で開催されたことがあります。スペースの問題もあるから、というのが当時の表だった理由だったようですが、このころから閣僚の靖国参拝の問題も影響が出始めました。翌年は上の裁判結果も出たため、以後は日本武道館で開催されています。

以上の現状を前提に、国が公式に戦士・戦没者を追悼する常設の施設が必要との立場からは、新たな国立追悼施設が必要との意見があり、その中にはやはり千鳥ケ淵戦没者墓苑を拡充したほうが安上がりだ、とする意見も根強いようです。

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現在、自民党とタッグを組んでいる公明党は「日本国民も外国要人も天皇陛下もわだかまりなく、心から戦没者を追悼できるような施設のあり方を検討してもいいのではないか」とこの「国立追悼施設」に賛成しています。

自民党の中からも賛同の声が上がっています。2001年、小泉純一郎政権時代に首相官邸において、戦没者追悼施設の在り方、必要性、既存施設との関係について議論するため「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が設けられ、2002年には報告書が出されました。

また2005年、超党派の議員連盟の国立追悼施設を考える会が発足したほか、従来、「靖国神社に代わる戦没者追悼国立施設の設置」には反対の立場を取っていた日本遺族会も、最近ではこの新施設に賛同をしているようです。

昭和天皇が靖国神社参拝を中止した理由がA級戦犯の合祀とされる上の富田メモが2007年に見つかったことが、その翻意のひとつの理由のようです。当時会長であった、自民党の古賀誠議員が2007年の10月に三重県津市で開かれた同県遺族会の講演で、分祀の検討を始めたことを述べました。

靖国神社へのA級戦犯合祀に関し、「首相の公式参拝だけで事足りるのか。天皇陛下を含め国民すべてがお参りできる、わだかまりのない施設を残すべきだ」と述べており、天皇の参拝実現も念頭に、A級戦犯分祀を含む論議を進めるべきだとの考えを表明しました。

古賀議員のこの発言をみると、戦犯の分祀をすれば、天皇の靖国神社への参拝が実現する、ひいては新しい施設を建設する必要はない、ということではないようです。このため、現在の遺族会は、こうしたリーダーの発言を受け、靖国神社問題を解決する手段として戦没者追悼国立施設の設立を積極的に検討しているといいます。

東京オリンピックまで、あと4年です。

4年後のこの大会のときには、この靖国問題をはじめとして各種の国際問題でぎくしゃくしている中国や韓国も含め、世界中から人々が訪れます。

それまでには、そうした靖国神社に変わる新たな国家施設をぜひ作り、問題解消したうえで、すっきりとした気分で競技大会を開くべきだと思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

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