健さんと北条氏 ~旧長岡町(伊豆の国市)

 願成就院裏山の守山砦に向かう小道

俳優として名高い、健さんこと、高倉健さんを知らない日本人はおそらくいないでしょう。戦後を代表する映画スターで、代表作の「網走番外地」シリーズをはじめ、「幸福の黄色いハンカチ」、「八甲田山」、「南極物語」、「鉄道員(ぽっぽや)」と、邦画史に残る大ヒット作ばかりに出演している健さんですが、いずれの映画もその渋い演技力で、ファンを魅了してきました。

1931年生まれといいますから、もう80才を越えていらっしゃるわけで、さすがに最近はお目にかかれなくなっており、どうしていらっしゃるのかな~と思っていましたが、最近撮影された、「あなたへ」という映画にご出演されたという話を聞きました。あいかわらずのご健在ぶりのようです。

この映画、夫婦愛を描いたものだそうで、「亡き妻が残した絵手紙とともに、彼女の故郷を目指して旅立った刑務所指導技官。旅情あふれる風光明媚な地で出会うさまざまな人々と、その人生を描く物語」だとか。この夏8月25日に公開されるといいますからもうすぐです。見に行ってみようかしら。

実は、この健さん、鎌倉時代の執権北条一族の子孫だということをご存知でしょうか。高倉健さんの本名は、小田剛一さんで、福岡県出身。その祖先は、北条家の一門である名越氏の一族の「北条篤時(あつとき)」という人だということで、京都にいた篤時の子孫が西国に移り、山口の大内氏に仕えた後に北九州へ移り住んだということ。その子孫が健さんということのようです。

この事実、実はご本人はかなり晩年になるまでご存知なかったようですが、ひょんなことから自分の祖先が北条氏一門だと知ることになります。高倉健さんのエッセイ集「あなたに誉められたくて」によると、健さんは自分の先祖が北条氏一門であることを、福岡在住の大学の先生からのお便りで知ったのだとか。

その手紙には、健さんのご先祖に小田宅子(おだいえこ)という人がおり、150年ほど前、「東路日記」という紀行文を残されているという内容で、そのことをご存じでしょうか、と書かれていたそうです。筑前国の商家「小松屋」のおかみ、小田宅子は親しい歌仲間と東国への旅に出て、奈良や伊勢神宮を回り、名古屋、木曽路と通って善光寺へ寄ったあと、江戸を経て故郷に戻るという大旅行をし、そのあと、その旅行のことを旅日記としてまとめていたというのです。

高倉健さんの本名は小田であり、小田宅子は父方の何代か前のおばあさんにあたるということでした。そうした事実を知り、さっそく福岡に戻り、本家の「小松屋」に立ち寄り、残っていた家系図を見せてもらいます。そして、その一番上にあった名前が、「苅田式部大夫篤時(北条篤時)」だったというのです。ご自分が北条氏の末裔だと知った瞬間です。

この話にはさらに後日談があります。健さんは、その後、友人の萬屋錦之助さんに奨められ、鎌倉のある霊園墓地を購入したのだそうですが、その帰りに何気なく、同じ鎌倉にある「宝戒寺」というお寺にお参りをし、ご住職とお話したのだそうです。

そして、自分が北条氏の子孫であることを知ったいきさつを話し、その名前が北条篤時であることを告げると、そのご住職が、あっ、という顔をされ奥のほうへ引っ込まれたのだそうです。そして持ち出してきたのが、お寺の過去帳。そして、ご住職はそこに書かれてあった篤時の名前をだまって指さしたそうです。

このとき、健さんは驚かれたと思います。自分が北条氏の末裔だと知ったあと、何気なく寄ったお寺が先祖の菩提寺だったとは…… きっと篤時さんの霊が、ここに私は眠っているよ、と囁いたに違いありません。あるいは、死してのち、浮かばれなかった北条一族の霊の一人が、健さんにその供養を頼みたかったのかも。健さんもこれに答えて、きっとその後もご先祖の供養のためにこのお寺への参拝を欠かしていないに違いありません。



この篤時さんのことですが、鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、1333年5月、新田義貞の軍に追い詰められて、この宝戒寺の裏山にあった東勝寺で自害しています。このとき、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡しましたが、高時とともに自害して果てた北条氏の一族の中に、北条篤時がいたのです。

この宝戒寺は、北条高時の慰霊のために、後醍醐天皇が建立したとも、足利尊氏らによって建てられたとも言われていますが、過去帳にその名が記されているということは、高時だけでなく、その時亡くなった一族も一緒にこのお寺に葬られたと考えられます。

しかし、篤時の息子はなんとか岡山へ脱出。その後山口の大内氏を頼って家臣となりますが、やがて大内家を辞し、北九州へ下ります。そしてその子孫が両替商である小松屋を営んで成功。前述の小田宅子さんや高倉健さんに繋がっていったのです。

それにしても健さんのこのお顔は、武士を想像させるような渋味のあるもの。かつての鎌倉武士もかくあったかと考えると、その実像は、健さんのように、実直で一途、そしてふてぶてしさや、たくましさを感じさせるものだったのかもしれません。

今日からは、その北条一族の、伊豆や鎌倉における繁栄から、新田義貞の鎌倉攻めによって滅びるまでの盛衰について、少し探訪していきたいと思います。

歴史に残っている北条氏の足跡をたどっていくと、一番古いものは、北条政子の父、北条時政と、その父、時方になるようです。しかし、時政のほうは生年が、1138年とはっきりしているのに対し、時方のほうは、生年も没年も不明で、どんな人物だったのかもはっきりわかっていません。

この北条氏、もともとは桓武平氏の末裔の「坂東平氏」の流れをくむといいます。桓武平氏とは、桓武天皇(在737~806)の子孫から出た平氏のことで、桓武天皇の4人の息子である、葛原親王、万多親王、仲野親王、賀陽親王ごとに、4つの流派があります。

そして、さらに、このうちの、葛原親王の息子の「高望王」の流れを受け継いだ高望流という流派の平氏の中に、武士として東国で力をつけてきた流派があり、これが「坂東平氏」です。史上、最初に現れた武士集団のひとつであり、その後の武家社会の大元を形づくっていく「元祖武士」です。

坂東平氏は、最初、東国を基盤としていましたが、その後その勢力を中央(朝廷)に伸ばすようになります。これが「伊勢平氏」です。今、大河ドラマで話題になっている平清盛は、この伊勢平氏の流れをくんだ武将で、その後大きな権力を手にするようになったことから、その一族は「平氏」ではなく、「平家」と呼ばれるようになりました。

さて、伊豆土着の北条氏の先祖は、坂東で勢力をつけた平氏がここへ流れてきたもので、坂東平氏になります。関東土着の武家平氏には、北条氏以外にも「坂東八平氏」と呼ばれ、同じ高望流の流れをくむ8つの武家集団がありました。しかし、北条氏やこれらの東国の武家平氏は当初は力が弱く、源氏一門や藤原氏一門に恭順して家臣となるか、あるいは抵抗して追討されるなどして、なかなか勢力を伸ばすことができませんでした。

その平氏の北条氏が、その後、源氏の嫡男、源頼朝にくみして源氏政権の成立に力を貸すようになるというのは、皮肉な結果です。ただ、北条家は鎌倉幕府が成立後、頼朝が死ぬとその子らを次々と葬り、自らは執権となって君臨していますから、鎌倉幕府はいわば平氏によって乗っ取られたわけです。

ところが、その平氏に牛耳られた政権を奪還したのは、新田義貞や足利尊氏などの源氏であり、さらにその後の江戸幕府を開いたのも自らを源氏と称する徳川家です。このことから、東国は代々源氏が治めてきたという印象が強く、平家が勢力を伸ばした関西と比較して、平氏の関西、源氏の関東、とはよくいわれることです。

さて、北条氏が、桓武平氏・平貞盛の流れを汲む坂東平氏の流れをくむ武士団であったということまではわかりました。

しかし、時政の父、時方がどんな人物であったかは、あまりよくわかっておらず、北条氏の歴史については、時政を始祖として始めるしかないようです。

どんな人物だったのか。それについては、明日以降、詳しくみていこうと思います。