三笠と日本海海戦

昨日も夜遅くまで女子サッカーをみていて、寝不足です。それにしても連日連夜、銀メダルと銅メダルラッシュが続きます。ここまで銀と銅が増えるのなら、いっそのこともう金メダルはあきらめて、銀と銅の数だけで世界一になる、というのもいいかも。しかし、残りの競技で金メダルをめざして一生懸命頑張っている選手にそんなことは言えませんね。引き続き、こちらも頑張って応援しましょう。

ドレッドノート

さて、昨日の続きです。

イギリスに発注して作られた戦艦三笠ですが、日本はこの戦艦の造船方法をイギリスに人を派遣してまで徹底的に研究したとみえ、日露戦争が終結した1905年(明治38年)から、初めて自国で戦艦を作り始めています。戦後の1910年(明治42年)に完成した、「薩摩(さつま)」という戦艦です。

薩摩は常備排水量19,372トンもあり、建造当時は世界最大の排水量を誇ったといいます。明治維新後、わずか40年でそういった戦艦まで作れるようになった日本人というのは、世界からみてもすごい!と映ったでしょうし、私自身、日本人であることを誇りに思います。

事実、それまでまったく歴史に登場してこなかった東洋の有色人種が戦艦を建造できたこと自体が、西欧諸国にとっては驚異的であったようで、薩摩が無事進水できるかどうかで、当時の日本在住の外国人の間で賭けが行われていたという逸話が残っているぐらいです。

しかし、この国産艦、薩摩は、イギリス製の戦艦に比べるとその能力はかなり劣っていたようです。主砲からの弾丸の発射速度が低いという問題があり、三笠をはじめとする敷島型戦艦と比べると、やはり見劣りがするものでした。

しかも、1906年(明治39年)イギリスで「ドレッドノート」という最新鋭艦が竣工したため、薩摩は、進水する前に旧式艦となってしまいました。薩摩だけでなく、同じ年に就役させた巡洋戦艦「筑波」や翌年(明治40年)就役の巡洋戦艦「鞍馬」も旧式装甲巡洋艦の烙印を押され、日本海軍は大ショックを受けます。

このころ、イギリスでは、日露戦争での黄海海戦や日本海海戦の結果を分析し、戦艦の主砲による遠距離の砲撃力が海戦の雌雄を決する重要な要素であると考えるようになっていました。このため、主砲の力を大幅に強化し、かつ「全主砲の砲撃力を平準化する」ことが、これからの戦艦のあり方である、と考えるようになり、この思想に基づいた画期的な建艦計画を建てはじめます。

そして、この思想に基づいて設計された戦艦が「ドレッドノート」です。この船は、それまで、ちまちまと搭載されていた中間砲や副砲を撤廃し、単一口径にもかかわらず高速で連続して砲弾を発射できる主砲を5基も搭載することによって、当時の戦艦の概念を一変させた革新的な艦でした。

余分な大砲を整理し、これによって空いたスペースにさらに主砲にも勝るとも劣らない火力のある大砲を搭載し、これにより舷側でも、最大4基8門の高性能の大砲が使用可能となりました。このため、一見1隻にみえるようで、「従来艦2隻分」以上の戦闘能力を持つようになったといわれています。

しかも、従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット程度であったのに対し、蒸気タービン機関の採用により一躍21ノットの高速で走ることができ、旧式の機関で動いていた前時代の戦艦に比べ、より高い機動力を得ることに成功しました。

ドレッドノートの出現により、それ以前に建造された戦艦だけでなくイギリスを含めた建造中の戦艦までもが一挙に時代遅れとなり、これ以後各国で建造される戦艦はドレッドノートに準じた「弩級戦艦」を目指すようになり、列強各国は前弩級戦艦から新時代の戦艦づくりへの転換を迫られる事になりました。

金剛と比叡

薩摩などを自前の設計で建造していた日本も、あわててその大砲の改良を図ったりしていますが、なかなかイギリスのような優れた大砲や動力機関の開発が進みません。結局、その頃の海軍大臣、斎藤実は英国の技術導入もかねることにし、ヴィッカース社に、装甲巡洋艦を発注し、その技術を「盗む」ことにします。この技術の盗用は成功し、その後日本は独自の造船技術の確立に成功します。

こうしてイギリスの技術をわが物にした日本はその後、イギリスには造船を依頼しておらず、これがイギリスに発注して建造させた最後の艦艇となります。

その装甲巡洋艦、「金剛」と「比叡」の二隻はイギリスの弩級戦艦「エリン」を基礎に巡洋戦艦として設計されたもので、金剛のほうが先に建造に着手されました。1912年(大正元年)11日21日に進水し、大正天皇臨席のもと「卯号巡洋戦艦」としてお披露目されます。

金剛は、その後、第二次世界大戦までの間に何度も改装され、巡洋艦から戦艦相当にクラスがひきあげられます。改装後は、日本戦艦では唯一30ノットを超える高速性能を持ったといいます。空母機動部隊の随伴艦として最適であったため、同型艦である比叡、榛名、霧島よりも古い船であったにもかかわらず、最も活躍しました。

しかし、1944年の11月12日、米海軍潜水艦「シーライオン」の魚雷攻撃を受け、2本の魚雷が命中。被雷してから沈没まで2時間があったにもかかわらず、損害の軽視、総員退艦の判断の遅れなどにより、艦長以下1300名と共に海に沈むことになりました。ちなみに、「金剛」は、唯一潜水艦の雷撃により撃沈された日本戦艦だそうです。

また、比叡のほうも、1936年に大改装され、戦艦として太平洋戦争に投入されますが、第三次ソロモン海戦で艦艇と航空機の両方から激しい攻撃を受け、火だるまになります。そしてついに走行不能になったため、総員退去命令が発令され、キングストン弁(船底に設けられた取水用の弁)を開いて自沈。戦闘で亡くなっていた戦闘員の遺体180名あまりとともに海に消えました。

ちなみに、金剛と比叡の同型艦の「榛名」と「霧島」は、榛名が、神戸川崎造船所(のちの川崎重工業)で、霧島が、三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)にその製造が発注されました。

それまで海外発注か海軍工廠でしか建造されることのなかった、いわゆる主力艦として初めて民間造船所に建造が発注されたわけで、工程の進捗状況がほぼ同時であったことから、両社は激しい競争意識をもって建造に当たったといいます。その建造過程で学んだイギリスの造船技術は日本流にアレンジされ、その後建造される大和や武蔵といった国産の巨大戦艦を作る基礎となり、戦後も受け継がれ、その後の造船大国日本を作る礎になりました。

こうして国産初の弩級戦艦として建造された榛名は、終戦間際まで生き延び、呉の海軍工廠で修理を行っていましたが、本州まで空爆にやってきていた米軍機による攻撃を受け、着底。その後、戦列に加わることもなく終戦を迎え、終戦後、1946年に解体されています。一方の霧島は、先の比叡と同じく第三次ソロモン海戦で戦闘不能の状態になり、自沈しています。

開戦前夜

こうして、イギリスで建造され、あるいは、イギリスから導入された技術で作られた輸入戦艦およびイギリスの建造技術が色濃く残る日英ハーフの戦艦群は、第二次世界大戦で沈没するか、戦後の武装解除で解体され、すべて失われたかに思われました。

しかし、戦後、現代に至るまで、唯一生き残ったイギリス製戦艦がありました。それが三笠です。

三笠がその建造をイギリスに頼んだのは、その当時まだ発展途上だった日本の造船技術をイギリスをお手本にすることで向上させることが目的でもありました。発注を受けたヴィッカース社としても、新たに開発した技術を海外からの受注艦に実装して試すことができるというメリットがあったといいます。その技術は、その後の弩級戦艦に比べればまだまだ幼稚なものでしたが、この当時としては最新鋭のものでした。

「三笠」は122メートルの船体の前後に旋回式の連装砲塔を各1基備え、舷側にずらりと副砲を並べています。このスタイルは、当時の軍艦としてはスタンダードなものですが、艦橋や居住部、火砲の配置に無理がなく、古いフランス式建造技術を導入したロシア戦艦と比較して先進的でした。均整が取れたその容姿はイギリス国民からも絶賛され、いまもなお横須賀でみることができるその雄姿を実際に目にしたとき、私もきれいな船だな、と感心したのを覚えています。

艤装を終えた後、三笠は1902年3月1日にサウサンプトンでイギリスから日本海軍に引き渡され、翌2日、イギリスの新造戦艦「クイーン(Qeen)」の進水式に参列するため、イギリス海軍の軍港であるプリマスに向かいます。このときの初代艦長、早崎源吾は、海軍大臣、山本権兵衛に対して参列式の模様を報告しており、この中でイギリス側から非常なる歓待を受けたと記しており、これはその直前に締結された日英同盟のおかげである、と書いています。この当時の日英の蜜月ぶりを思わせるエピソードです。

黄海海戦

こうして日本海軍の船として初めての任務を終えた三笠は、数日後にプリマスを発ち、約2ヶ月後に横須賀に到着。そこで、さまざまな整備を施されたあと、所属港である舞鶴に廻航され、他の軍艦とともに、来る日露開戦に備えて猛烈な訓練をはじめます。そして1903年には連合艦隊の旗艦となることが決定。連合艦隊司令長官として東郷平八郎が座乗する船になります。東郷が就任したのは、日露開戦が間近となった1903年12月のこと。

その初戦は、翌年の1904年の日露開戦後の8月、ロシアの旅順艦隊と対決した黄海海戦でした。ここで、他の新鋭艦とともに初めて本格的な戦闘に参加しますが、この海戦では思うような戦果があげられず、ロシアの旅順艦隊の多くを港の奥深くに逃げ込ませてしまうという失態を演じてしまいます。

しかも、三笠はロシア側からの砲撃の洗礼を受け、被弾は二十余カ所に達しました。この結果、後部砲塔が破壊され、メインマストも倒れそうになるほどの損傷を受け、戦死33名、負傷92名の被害を蒙るなど、散々なありさまでした。呉におけるその修理にはおよそ二か月も要し、再び戦列に加わったのはその年の暮れ12月のこと。

しかし、黄海海戦における教訓をもとに、再び日本海で他艦とともに激しい訓練を積み重ねた結果、1905年5月27日、ヨーロッパからはるばる日本海までやってきた、ロシア帝国海軍のバルチック艦隊(バルト海艦隊)との海戦において、ロシア艦隊を撃破。三笠は世界海戦史に残る大勝利の主役となります。

遭遇

この日本海海戦については、長くなりそうなので、そこそこにしておきますが、日本海軍は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻を主力とする艦隊を率い、ロシアのバルチック艦隊の、戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻を主力とする艦隊を迎え撃ちました。

日本海の対馬沖で、両者が遭遇したとき、ロシア艦隊が反航戦(お互いが反対方向に行き違いながら砲弾を打ち合う)を望んでいたのに対し、日本艦隊は同航戦を望んでいました。ロシア艦隊が戦闘後、旅順港に逃げ込む前に、たとえ共倒れになったとしても相手を殲滅してしまいたかったためです。

このため、日本側はロシア艦隊と遭遇後、敵の面前で180度の逐次回頭を行います。縦列で航行していた日本の各戦艦が海上のある一点で、方向を変え、ロシアが進むのと同じ向きに方向転換したのです。

これにより、縦列状態の一番頭に位置していた旗艦三笠が方向転換するときには、ロシア側からの砲弾が集中し、かなりの被害が出ました。日本海海戦全行程で三笠が受けた被弾数三十余個はほとんどがこの時に受けたものです。ほかに、戦死者8名、負傷105名という人員的被害も受けました。

日本側が回頭して同航戦に持ち込んだため、両者の戦列は、「イ」の字に近い形となりました。のちの世に、この回頭は「T字戦法」とよく言われますが、実際の形はいびつなTの字でした。

いずれにせよ、日本側が、ロシア艦隊の頭を抑える形になり、ロシア側には大きな艦隊の乱れが生じました。縦列の頭を押さえられたまま、同航戦に持ち込まれたロシア艦隊は、練度の高い日本兵が発射する砲弾の雨に襲われ、徐々にその能力を奪われていきます。

反撃するロシアの艦艇に対し、日本艦艇からはそれを上回る命中精度の集中砲火が浴びせかけられ、次々と相手をボコボコにしていきます。戦前の予想に反して、30分程度で主力艦同士の砲戦は決着がついたといい、その結果としてのロシア側の被害は甚大なるものでした。

下瀬火薬

このあたりのお話は、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」に詳しく描写されています。司馬さんによれば、日本軍が勝利したのは、このとき日本軍がとった「敵前回頭」という離れ業や兵員の質の高さもさることながら、この当時日本が開発した砲弾に使う火薬、「下瀬火薬」の威力によるところも大きかったといいます。

余談ですが、この下瀬火薬を発明した「下瀬雅允(しもせまさちか)」という人は、私の高校の先輩にあたります。1859年(安政6年)に広島藩士の鉄砲役の長男として生まれ、1884年(明治17年)に私の母校の前身である、広島英語学校(のちの広島一中、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、工科大学応用化学科(東大工学部の前身)を卒業。

内閣印刷局に勤め、10代で印刷に関する数々の発明をするなどの天才ぶりを発揮しますが、18歳で海軍に転向。海軍では、イギリス北部のニューカッスル・アポン・タインという町にある、軍事企業、アームストロング・ホイットワース社に留学を命ぜられ、そこで兵器造成技術を学んだといいます。帰国後は、海軍技手となり赤羽火薬製造所で火薬研究に専念。

28才のとき、爆発事故で左手を火傷し、手指屈伸の自由を失うという大けがをしますが、屈せず、1893年(明治26年)、34才のときについに下瀬火薬を完成。その功もあって、その年に技師に昇格。さらに、1899年 (明治32年)には、工学博士の学位を受け、若干40歳で帝国学士院賞を授与されました。

ちなみに、このアームストロング・ホイットワース社は、三笠を製造したヴィッカース社と並んで、高い造船技術を持っており、日本海軍も、筑紫、浪速、高千穂、吉野、高砂、浅間、常磐、出雲、磐手などの巡洋艦8隻と、八島、初瀬、鹿島の3隻の戦艦の製造をこの会社に依頼しています。

日本海海戦で活躍した日本艦艇の9割近くがこうしたイギリスの会社で製造されたことを思うと、この海戦の勝利はイギリス技術によって支えられていたといっても過言ではありません。

しかし、下瀬雅允が発明した下瀬火薬は、純国産技術といってもよいもので、その破壊力は世界を驚かせたといいます。ピクリン酸という薬品を主原料としており、この薬品は金属に触れると激しく反応して大量の熱を発します。

これを用いた砲弾の威力はすさまじく、ひとたび艦艇に命中すれば爆風と熱によって、艦上の構造物を破壊しつくしたといいます。日本海海戦に先立つ黄海海戦でその威力を目の当たりにした、ロシア水兵は口々に「日本の砲弾はすごい」といい、「あれは砲弾ではない。空飛ぶ魚雷だ」と言ったそうです。

ロシア水兵の間では、「旅行鞄」というあだ名がつけられていたそうで、文字通り、カバンのような形(にみえたらしい)でばたばたと回りながら飛んできたそうです。

それが、ロシア艦隊の艦艇を飛び越えて海中に落ちたとき、通常の砲弾なら大きな水煙をあげるだけですが、日本の砲弾は海面にたたきつけられると同時に海面で大爆発し、このため船には命中しなくても弾体が無数の破片になって艦上を襲ったといいます。そして、その熱風は、艦上物の火災をも誘発し、多くの船が大火炎に包まれたそうです。

凱旋

この日本製の新型砲弾と高い命中率によって、ロシア艦艇は、そのほとんどが艦上を著しく破壊されます。そして、司令長官のロジェスト・ヴェンスキー中将が自らも負傷したことなどもあり、やがて統制を失い、舵をやられる船も続出したことから、戦列はまったく乱されてしまい、各艦が単独で航行するようになります。

しかも、その多くは日本海軍の砲撃に遭って水面から上の構造体が、それがかつては戦闘艦だったとは思えないほどぐちゃぐちゃになり、火災をおこし、あるものは積載していた爆弾の誘爆を引き起こして大爆発を起こし、次々と沈没していきました。

日本艦隊は主力艦の喪失ゼロだったのに対して、ロシア艦隊は最終的に沈没21隻、拿捕6隻、中立国抑留6隻と壊滅的な打撃を受け、ウラジオストク軍港にたどり着いた軍艦はわずか巡洋艦1隻、駆逐艦2隻に過ぎなかったといいます。ほぼ完勝だったといえるでしょう。

こうして、日本に凱旋した三笠が、横須賀で修復を終え、横浜沖の東京湾凱旋観艦式(日露戦争凱旋観艦式)に望んだのは、1905年(明治38年)10月23日のこと。このとき参加した軍艦は38隻にのぼり、ほかに仮装巡洋艦12隻、駆逐艦28隻、水雷艇77隻、潜水艇5隻、計165隻(32万4,159トン)という大規模なものでした。各艦とも軍艦旗で彩られ、さぞかし壮観なながめだったことでしょう。

今日はその後の三笠の運命について書くつもりでしたが、途中かなり寄り道をしてしまったので、ここでやめようと思います。続きはまた明日、ということでご了承ください。