昨日のフェンシングは、すごかったですねー。思わず興奮してしまいました。今オリンピックで一番エキサイトしたかも。ただ、残念ながら、またしても金メダルを逸してしまいましたね。金メダルを取ることがすべてではない、とはいうのですが、今大会、あとひとつが出ない、というのは何かあるのでしょうか。ま、後半での金メダル奪取の予兆というふうに考え、今日も応援しようと思います。
ところで、なんとなくフェンシングの試合をみていましたが、ルールが良くわかっていないまま見ていたので、なんか不消化の部分が残りました。とくに、「攻撃権」って何だ?と基本的なこともわからず、見ていたのは恥ずかしい限り。
で、ご存知のない方も多いかもしれないので、一応調べてみました。すると、「攻撃権」というのは、フェンシングにおいては、原則的には、「先に攻撃をしかけたほうが、試合運びをする上での優先権がある」という原則があるとのこと。
???どういうこと? とさらに知らべたところ、単純にいうと、もし攻撃された場合には、反撃はしてはいけない、ということみたい。自分自身が突かれる可能性がある場合には相手を攻撃せずに、まず自分を守ることを優先しなければならない、というのがフェンシングの基本なのだそうです。
たとえば、一方の選手が攻撃を行い、もう一方の選手がすぐに反撃して、相撃ちのように見えたとしても、最初に攻撃をしかけたほうの選手の攻撃のほうが有効になり、反撃した選手は間違いを犯したと判定されるんだそうです。反撃した選手のほうは、防御に徹しなければならないのに、それをしなかったから負け、というわけ。
それでわかったのですが、昨日の試合でも、審判がビデオをみて判定を再度判断する、という場面が何度もありましたが、動きの速いフェンシングの場合、早すぎてどっちの切っ先が先に出たかなどが、目で見ただけでは判断できない場合があるからなんですね。
ただ、どんなにビデオをみたところで、どうみても、同時に突きが決まったように見える場合もあり、こうした場合でも、主審はどちらの側に攻撃権があってどちらの得点になるのかを決定しなければならないんだそうです。もしそれができない場合は両者の突きは無効と宣言され、試合が再開されるのだそうで、そういえば、無効、と判断されたケースが何回もありましたね。
これで、疑問が解けてすっきり。今日の話題には入っていけます。
先週から、オリンピック特集ということで、このブログの話題もイギリスに関連したことを書いてきました。今週もそれでいこうと思います。
日英同盟
さて、横須賀にある、「三笠記念館」というのをご存知でしょうか。正確には、記念艦「三笠」というのだそうで、文字通り、そのむかし、日露戦争の時代に活躍した戦艦「三笠」の内外を改装し、博物館として整備したものです。
なんで突然、三笠なの?ということですが、実はこの三笠、明治の日本海軍が、宿敵、ロシア帝国のバルチック艦隊に対抗するため、イギリスに発注して作られた戦艦なのです。おそらく、昨年NHKで放送された、「坂の上の雲」をご覧になった方はご存知だと思いますが、ご覧にならなかった方もいると思いますので、一応、時代の背景から解説をしておきましょう。
明治の半ば以降、日本にとって、隣国であるロシア帝国は、自国の存続を脅かす最大の脅威でした。日清戦争に勝利し、中国大陸へ進出していくことで、国力を維持していこうとしていた日本に対し、ロシア帝国側はこれを阻止し、中国における影響力を維持するため、あらゆる外交政策を打ってきました。
万一戦争になった場合にとくに軍事的に重要なる旅順や、大連の租借権を中国からもらい、また、満州鉄道の利権も手にするなど、次から次へと日本を出しぬき、日本を焦らせます。
日本も手をこまねいてこれを見ていたわけではなく、ヨーロッパの世論などを味方につけようと、日本なりの外交政策を続けていましたが、それには限界があり、徐々にロシアとの開戦の機運が高まっていきます。
当時のロシア帝国は対ドイツ政策としてフランス共和国と露仏同盟を結んでいましたが、もし、日露開戦となると、日本はロシアだけでなく、フランスも敵として戦わなければなりません。このためには、フランスをけん制する上で、日本もヨーロッパのどこかの国と同盟を結んだほうがよい、ということになり、その候補としてあげられたのがイギリスでした。
フランスとも、もしロシアと戦争になった場合には手をださないように、みたいなお願い外交もやったようですが、結局無為に終わり、他にもアメリカとかいろんな候補があった中でも、フランスと仲の悪い、イギリスを日本は選びます。
こうして結ばれた日英同盟は、もし日本がどこかの国と戦争する場合、1対1の戦争の場合は中立を、1対複数の場合には参戦を義務づけるというもので、もし、ロシアとフランスがタッグを組む場合は、イギリスさん、お願いね、という形のもの。これにより、フランスは対日戦に踏み込むことができなくなったばかりか、イギリスと本気で戦争するのはいやなので、あからさまにロシアへの協力することもできなくなりました
こうして、もし戦争になるならば、日本とロシアの一騎打ち、というお膳立てができたわけです。日本にとって日英同盟は、フランス参戦の回避のための盾だっただけでなく、資金調達の上でも大きなメリットがありました。戦争をするためのお金をイギリスが用立ててくれただけでなく、他のヨーロッパ諸国から借りる際の保証人にもなってくれたからです。
また、当時、世界の重要な主要港はイギリスの植民地になっており、もし、ロシア帝国の持つ世界最大の艦隊、バルチック艦隊が黒海から極東へ回航する際には、こうした港に入ることを拒否してもらうことができました。
さらに、スエズ運河の所有権はイギリスにあり、バルチック艦隊は、アフリカの南端の希望岬を通って遠回りで極東へ向かわなければなりません。実際、日本海海戦の際、アフリカ南端を回って日本に来るハメになったバルチック艦隊は、長旅のため、船底に大量の牡蠣殻がつき、日本に達したときには、全艦艇が思うようにスピードが出せない状態にありました。
また、途中途中の寄港地では、イギリスから停泊を拒否され、船の動力に使う石炭もなかなか入手できず、粗悪な石炭を積んで日本海海戦に望んだといいます。
前弩級戦艦
さて、イギリスの日本援助はこうした資金援助や、ロシアへの嫌がらせだけではありませんでした。ロシアと戦争する上で、日本がイギリスから得ることができた恩恵の最大のもの、それは武器でした。その当時、イギリスの軍隊の装備は、ライバル国フランスをしのいでおり、とくに、伝統の海軍を持つイギリスが作った艦船は世界一の機能を持っていると言われていました。
そして、日本は、対ロシア戦に備え、イギリスからお金を借りながら、次々と最新鋭艦をイギリスに発注するようになります。そして、その最大のお買いものが、「敷島型」と呼ばれる戦艦群でした。「前弩級(ぜんどきゅう)戦艦」とよばれ、「ロイヤル・サブリン級戦艦」の次にイギリスが開発していたその当時の最新鋭艦でした。
ロイヤル・サブリン級戦艦は、近代戦艦の始祖と呼ばれ、この開発により、次世代の前弩級戦艦の基本設計が確立されるとともに、その後、明治、大正、昭和に至るまでに作られたあらゆる戦艦の基本形ともいわれるくらいの、「元祖戦艦」です。
三笠よりも前に、イギリスに発注され、すでに日本に引き渡されていた、ロイヤル・サブリン級戦艦は、日本では「富士型戦艦」と呼ばれ、「八島」と「富士」の二隻がありました。八島のほうは、日本海海戦の前に、機雷に触れて沈没してしまいましたが、「富士」のほうは太平洋戦争終結まで海軍に在籍していた長生き艦でもありました。じょうぶな戦艦だったんですね。残念ながら、太平洋戦争終結とともに、解体処分になってしまいましたが。
さて、前弩級戦艦は、イギリスに4隻発注され、「敷島」、「朝日」、「初瀬」、「三笠」と名付けられ、日本では「敷島型」と呼ばれるようになりました。
このうち、三笠が一番最後に建造され、日露戦争に間に合った4隻の中では最新鋭ということで、これが連合艦隊の「旗艦」となります。ちなみに、時の海軍大臣、山本権兵衛(ごんのひょうえ、ごんべいとも)が主導したのが、「六・六艦隊計画」というもの、これは、戦艦6隻+装甲巡洋艦6隻により連合艦隊の主力を形成するというもの、上記の富士型と敷島型の6隻の戦艦が、この六・六艦隊計画によって建造されたわけです。
ちなみに、これだけの大艦隊を作るだけの十分なお金は、この当時に日本政府にはなく、日清戦争以前から続けていた海軍のリストラ、必死のやりくりにも関わらず海軍予算は尽きようとしていました。
そこで、山本権兵衛が、同じ薩摩出身の海軍軍人で盟友である西郷従道(この当時政府元老、枢密顧問、西郷隆盛の弟)に相談すると、西郷は、完成させるには予算を不法流用して、カネを作るしかない。無論、違憲になるが、議会で追及されたら二重橋で腹を切りましょう、といったそうです。
のちの連合艦隊司令長官の東郷平八郎も薩摩出身で、日本海海戦は、薩摩出身の海軍軍人で勝った、とまでいわれるほどです。薩摩では、古くから海洋貿易がさかんで、江戸時代には幕府の目を盗み、琉球だけでなく中国や世界を相手に密貿易をやっていました。
薩摩人のこうした豪快な性格が、日露戦争の立役者となった多くの薩摩人にも備わっており、その「太っ腹」が日本を救ったというわけです。その後の日本海軍、現在の海上自衛隊の伝統の中にも、薩摩流の習慣が多く残っているそうで、日本の海軍は薩摩が作ったといわれるゆえんです。
バロー・イン・ファーネス
さて、イギリスに建造が発注された4隻の戦艦ですが、いずれも、イギリスのヴィッカース社という造船会社に発注されました。このうち、三笠は、1899年(明治32年)「バロー・イン・ファーネス造船所」で起工され、およそ二年弱で完成。
「バロー・イン・ファーネス」というのは地名で、グレートブリテン島のちょうど真ん中ぐらいの西側に位置する港町。産業革命で鉄道が敷かれ、製鉄が行われるようになってから、造船もさかんになり、ヴィッカース社の前身である「バロー・シップビルディング」が1871年に設立され、その後イギリス海軍の艦艇を建造する中心的な港町になっていきます。
ちなみに、このヴィッカース社は、第二次世界大戦後、現在に至るまでもその継承会社が営々と戦争兵器を作り続けており、船だけでなく、機関銃や大砲、戦車や飛行機、潜水艦まで作っているイギリスでも最も古い武器製造会社です。1960年にその大部分が国営化されましたが、造船事業は、1968年に「ヴィッカース・シップビルダーズ・グループ」という名前に改称され、さらに、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー傘下の「BAE」に買収され、現在、バロー・イン・ファーネスの造船所も、BAE傘下の企業として存続しているそうです。
バロー・イン・ファーネスに今も続くこの造船所、BAEシステムズ・サブマリンという名前だそうで、1960年代から原子力潜水艦の建造を専門的に扱うようになり、イギリス海軍のヴァンガード級原子力潜水艦の全ては、この地域で建造されたそうです。冷戦の終結で軍事費が減り、たくさんの従業員が失職しましが、今でも潜水艦の生産設備はイギリス随一を誇る規模だとか。
戦艦三笠を作った技術は、今や潜水艦づくりに受け継がれているんですね。
回航
さて、その三笠は、1900年(明治33年)11月に進水。1902年(明治35年)1月に5日ほどかけて試運転が行われ、3月にサウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われました。
サウサンプトンは、イギリス本土のほぼ真南のど真ん中にある港町で、ローマ人が最初に港町として移住してきた後、今に至るまで貿易港として栄え、かの有名なタイタニック号が出港した港としても知られています。
イギリス有数のコンテナターミナルが所在するほか、いくつかのクルーズ客船の母港ともなっており、民間向けの港としては、イギリスを代表するものです。ここで日本軍に手渡された三笠は、軍港プリマスまで回港され、ここでイギリス海軍への表敬訪問を行うなどの初仕事を終え、3月初めに出航。スエズ運河経由で日本に向かい、2ヶ月ほどかけ、5月の初旬に母港となる、横須賀に到着しました。
そして、横須賀で整備後、7月、連合艦隊の本拠地である舞鶴に回航。来るべき日本海海戦に備え、兵員の猛烈なる訓練の場となり、かつ戦備も整えられていきます。そして、進水から6年後の1905年、運命の日本海海戦では旗艦となり、連合艦隊を主導。その勝利によって、連合艦隊司令長官、東郷平八郎の名とともに、世界に知られるようになるのです。
しかし、その後の「三笠」は、不運続きでした。その運命は、二転、三転しますが、現在当時のままの形で残っていること自体が奇蹟のようです。
その後の三笠については、長くなりそうなので、明日に続けたいと思います。