アユのお話

最近、ふもとを流れる狩野川のそばを通ると、川の中に長い釣竿を支える釣り人達をたくさんみかけます。晩秋に向かうこの時期、腹にたくさんの卵を抱えたアユ、「落ちアユ」を釣っているのです。

アユと言えば、旬の夏にこそ味わう魚、というイメージが強いと思いますが、秋も終わりになるこの時期は、初夏の時期に河口から上流へ上ったアユが、今度は産卵のために河口へ下る時期で、川へ下る、つまり落ちていくので「落ちアユ」と言われるようになりました。

その生態

アユは、ふつうは「鮎」と書きますが、「香魚」、「年魚」とも書きます。香魚のほうは、食材としてのその香りが素晴らしいことから来ており、年魚のほうは、川と海を往復しながらほぼその一年で一生を終えるためにつけられた名前です。

アユのように川と海の間を往復しながらその一生を終える魚のことを「回遊魚」といいます。

回遊とは、海や川に生息する動物が、成長段階や環境の変化に応じて生息場所を移動する行動のことで、広義には沿岸の浅場と深場を往復するスズキやヒラメも回遊魚ですが、アユやウナギ、サケなどのように川と海を往復する魚のことを、とくに「通し回遊魚(川と海をめぐる回遊魚)」と言って区別します。

とはいえ、川の魚でありながら、実は一生のほとんどを海で暮らしている魚や、普段は川で生活していても海に降りて産卵し、海で誕生したこどもが川をさかのぼってくるものなどさまざまな通し回遊魚がいます。

サケや、カワヤツメ、ウグイの一部の種類などは川で産卵して生まれますが、生活の大部分を海に降って過ごし、産卵の時に再び川に戻ってくるため、これを遡河(そか)回遊魚といいます。

また、普段は川で生活していても、海に降って産卵し、誕生したこどもが川をさかのぼるものの代表例がウナギですが、こうした魚は降河(こうか)回遊魚といいます。モクズガニは魚ではありませんが、ウナギと同じく降河回遊型の生物です。

で、アユはというと、普段から川で生活していて、産卵も生まれも川なのですがが、その一生のうち、一時期だけ海に降って、再び川をさかのぼるタイプで、これを両側(りょうそく)回遊魚といいます。

なぜ、海に入る必要があるかというと、海は川よりもプランクトンなどの栄養類が豊富なためです。川の中にもある程度の微生物はいますが、河水の中に含まれている量は海に比べるとかなり少なく、アユの「仔魚」が成長するには不向きです。

このため、河口付近で卵から生まれたアユの仔魚は、そのあとすぐに海にいったん降り、そこにある豊富なプランクトンなどを食べ、そしてある程度成長して川を遡れるほど体力をつけた「稚魚」になってからまた上流に戻っていくのです。

アユのほかにも。カジカ、ヨシノボリ類、ウキゴリ、チチブなど、一般には淡水魚と思われている魚の多くも両側回遊魚です。魚以外にもヤマトヌマエビ、テナガエビ類、イシマキガイなどの甲殻類や貝類の仲間の中にも両側性の生物がいます。

ちなみに、かつては通し回遊を行っていたものが、回遊を行わなくなったり、海の代わりに湖などで回遊するようになった陸封(りくふう)魚といいます。ヒメマスや琵琶湖に生息するアユもそうですし、最近、さかなくん」が発見して話題になった絶滅危惧種の「クニマス」なども陸封魚になります。

春先の川の水温が15℃から20℃で2週間ほどするころ、河口付近で孵化した仔アユは海水の塩分濃度の低い河口からすぐに海へ下り、河口から4km程度を越えない範囲を回遊しはじめます。そしてプランクトンなどを捕食して成長し、だいたい全長が10 mm程度になったころから、川に入りはじめます。

川の中に入った稚魚はすぐには川をのぼらず、河口付近でプランクトンや小型水生昆虫、落下昆虫を捕食しながら成長します。やがて体長が6cm前後になるとウロコが全身にできるようになり、4~5月頃には大きいものでは10cm程度にまで成長し、川を遡上しはじめます。

この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上のケイソウ類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化します。そして川の上流から中流域にまでどんどんと上っていき、たどり着いた先で水生昆虫や石に付着するケイソウ類を食べ始めます。

アユがその鋭い櫛のような歯で岩石表面の藻類をこそげ取ると、岩の上にギザギザの独特の食べ痕が残ります。これを「アユのはみあと(食み跡)」といいますが、実際にみたことがある人も多いでしょう。

こうして大きくなったアユの若魚は体の色も灰緑色になり群れをつくって泳ぎはじめます。特に体が大きくなった何割かは、えさの藻類が多い場所を独占して縄張りを張るようになります。この縄張りは1尾のアユにつき約1m四方ほどであり、この縄張り内に入った他の個体には体当たりなどの激しい攻撃を加えるようになります。

この性質を利用してアユを掛けるのが「友釣り」で、これはおとりの生きたままのアユをあらかじめ糸の先につけておき、このおとりアユの鼻やしっぽにとりつけた針に、体当たりしてきた野生のアユがひっかかるというものです。

夏になると、あちこちの川の近くで、「おとりあゆあります」の看板が出ているのをご覧になった方も多いと思います。釣り人たちが10m近い釣竿を静かに構えてアユを釣る姿やこうした看板をみると、ああ、夏になったな、といつも思います。

夏もまっさかりのころには灰緑色だったアユの体色も、秋に性成熟すると「さびあゆ」と呼ばれる橙色に黒が混じった独特の婚姻色へ変化します。アユが「成魚」になったあかしであり、この成魚は産卵のため下流域へ降河をはじめます。

これが冒頭でも述べた「落ちあゆ」です。落ちアユがみられるようになる時期は地方によっても違いますが、だいたい9月中旬から10月の後半までで、11月には殆ど産卵を終えます。

アユが産卵するのは河口付近の川底で、河床に小さな砂利質が敷き詰められていて泥の堆積のない水通しの良いところを選びます。産卵様式は、一対一ではなく必ず2個体以上のオスとの産卵放精が行われます。産卵を終えたオスもメスもやがて冬になって水が冷たくなるころには死んでしまいます。

死んだアユは川を下ってまた海に戻り、ほかの魚に食べられたり、分解されてプランクトンのえさになったり、さらにそのプランクトンを稚鮎が食べたりで、自然のサイクルの一員としてまた再生されていきます。

産卵を終えたアユは1年間の短い一生を終えますが、三島市の柿田川などのように一年中水温が一定しているような特殊な環境の河川やダムの上流部などでは生き延びて越冬する個体もいるようです。

アユを食べる

このアユですが、ご存知のとおり、高級食材として知られています。夏を代表する清涼感をもたらす食材であり、特に初夏の若アユが美味とされます。若アユの塩焼きや天ぷらは私も食べたことがありますが、なんというか、香味があって、やはり他の川魚とは一味違う、というかんじです。

同じ河川のアユでも水が綺麗で上質の付着藻類が育つ上流域のものほど味が良いとされるそうで、一般的に水質が良い河川のアユはスイカの香りで、やや水質が落ちてくるとキュウリの香りとなってくるそうです。

新鮮なものは刺身にもできるそうで、一般的なそぎ造りにされるほか、そのまま輪切りにした「背越し」という状態でも食べるとか。私は食したことがありませんが、背越しでは、歯ざわりと爽やかな香りが楽しめるとのこと。ただし、骨が小さくやわらかい若鮎に限るそうです。

酢や塩に浸けて、酢飯と合わせた「鮎寿司」、「鮎の姿寿司」はJR京都駅の名物駅弁ともなっており、このほか琵琶湖周辺などでは稚魚の氷魚の佃煮や、成魚の飴煮も名物として製造販売されています。

湖産養殖アユの放流

このように食材としても大人気な魚のため、釣りの愛好家にとっては昔からアユ釣りはたまらないターゲットのようです。

このため乱獲が進み、昭和に入ってからは川で見られるアユが激減してきたことから、人工養殖をしたアユを放流する試みが、昭和30~40年代からさかんに行われるようになってきました。

その養殖アユの先駆けとなったのが、東京帝国大学農学部水産学科の初代教授、石川千代松博士が提唱した、「琵琶湖産の鮎」の利用に関する研究でした。

琵琶湖産アユとは、琵琶湖で生まれ、琵琶湖で一生を終える陸封型のアユ(コアユ)のことで、体長6~10cmと小さく、海から川を遡上する鮎とは別種といわれており、また琵琶湖へ流入する河川で育つもっと大きなアユとも別のものと考えられていました。

ところが、1910年(明治43年)、石川博士は琵琶湖のコアユと琵琶湖へ流入する河川の大アユは同じアユであると発表します。

この研究発表を他の研究者や漁業者は信じませんでしたが、石川博士は、コアユが小さいのは食料不足が原因だから適当な環境の川へ移せば大きくなる、と主張しました。そしてこれを実証するために石川博士はその後、いろいろな角度から研究を行い、コアユが河川のアユと同じであることを証明しようとします。

1913年(大正2年)には、ドイツから新式の活魚輸送機を輸入し、およそ300匹のコアユを26時間もかけて岐阜県の米原から東京の青梅まで運び、堰ができてアユがのぼらなくなった多摩川の大柳河原に放流します。

そしてその年、約30cmを超す尺アユを釣ったという証人が現れますが、これもたまたまではないかと信用されませんでした。その後10年間も同じ研究を続けた石川博士ですが、放流したアユと川で釣れた自然アユが同じものであるという証拠をどうしても得ることができません。

ところが、1923年(大正12年)になり、滋賀県の水産試験場が石川博士のすすめにより、琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)の上流の滝の上にコアユを放流したところ、秋になってこの滝上の川で大型のアユがたくさんとれました。

これが決定的証拠となり、この事実が新聞各紙に報道されると、一躍琵琶湖のコアユは注目を集めるようになり、翌年には琵琶湖産コアユが北は岩手県から、南は熊本県までトラックや汽車で運ばれて放流されるようになりました。

そして昭和に入るころには、琵琶湖産のコアユは貧しい山村の農民の生活を助けるための一助としても使われるようになり、山間の川へ琵琶湖の稚アユが多数放流されるまでになりました。

しかし、昭和20年~30年代までは、稚アユの放流は、もっぱら漁業者のために行われていました。ところが、昭和30年代後半になると、釣り客の間では安価なグラスファイバー製の友釣り用の竿(友竿)が売り出されるようになります。この結果、一般人で友釣を始める人が急速に増え始めました。

昭和40年代これまでには友釣り愛好家はさらに増え、その遊漁料が漁協収入の大きな部分になってきたため、稚アユの放流は漁業者のためではなく、むしろ遊漁者を呼ぶために行われるようになっていきました。

水温が低くても成長が良く、なわばりの性質が強く、しかも長年にわたる放流実績のある湖産の稚アユは全国の河川でもてはやされ、特にダムや堰で天然遡上が無くなった川では湖産の稚アユは無くてはならないものとなっていきました。

天然遡上の海アユは7月頃にならなければ友釣で釣れるほどには育たなかったのに対し、放流された湖産アユは6月上旬の解禁日から友釣で釣れるほどに成長しましたし、食いつき(追い)が良いことから初心者にも容易に友釣でアユを釣ることが出来たのです。

天然遡上の豊富な川でさえも、釣り愛好家からの遊漁料収入が主たる収入となってきた漁協は、湖産アユをこぞって放流し、この放流は友釣人口を増やし、友釣はアユ釣りの代名詞とまでいわれるようになります。そして、昭和50年代までは、アユの放流といえば琵琶湖産の稚アユの放流を意味しました。

海産、河川産アユの放流

ところが、昭和50年代に入ると、コアユなどの放流であれほど豊富だったアユが激減する河川が各地に出てきました。その原因は、長年にわたる河川での砂利採取や、防災・治水・発電の名の下に建設されたダムや堰の建設、そして砂防のためとして渓流を中心に建設された砂防ダムでした。

洪水の際に安全に水を流下させるとして河川改修も頻繁に行われるようになり、コンクリートで固められた河道からは、淵や瀬、せせらぎが失われていきました。水源地帯や上流部での林道建設の際に出る土砂の沢や川への投棄も河川の荒廃に大きく影響しました。

さらに高度成長時代に伴い、家庭からの大量の排水に合成洗剤が混じるようになり、これが河川に流入した水域では、臭いに敏感なアユが忌避行動をとり、近づかなくなるようになります。

こうして天然遡上の激減により、それまで放流など必要のなかった中・下流部でも稚アユを放流しなければならない河川が増えるようになりました。湖産アユの生産も追いつかないほどになっていったことから、放流アユの価格は急上昇し、コアユだけでは遊漁客の需要をまかないきれないような事態に発展していきました。

そこで、考え出されたのが海産、河川産アユの放流です。海で採捕したものを海産アユ、海から川へ遡上してきたものを採捕したものを河川産アユといいます。

友釣愛好家の増加にともない、遊漁者の多い河川では放流できる琵琶湖産稚アユは枯渇していきました。その年の放流ができた川でも、琵琶湖産アユ特有の食いつきの良さが逆に災いし、シーズンが解禁されて1ヶ月もすると、ほとんどのアユが釣り尽くされ、8月になるころにはアユはいなくなってしまうというのが常態化していました。

遊漁料が収入の大きな部分となっていた漁協は、その対策として盛夏になってから追いが良くなる海産、河川産の稚アユを放流すれば釣期が長くなり、8月以降も釣り人に来てもらえると考えました。

そして、琵琶湖産アユに代わり、海産、河川産を補助的に放流する河川が増えていくようになります。しかし、あいかわらず需要は供給量を越え、その後平成に入ってからも放流すべきアユの量は思うようには増えません。一方では、「冷水病」といわれる病気がアユに蔓延し、大量のアユが死滅するという、これまでにはなかった新しい危機が生まれました。

冷水病とは、アユやサケなどの回遊魚の近縁種に発生する病気で、病原体によって発生することがわかっていますが、対処方法などは確率されていません。とくに稚アユでは、輸送2~3日後に急激に大量死するということで恐れられており、養殖場で冷水病が発生すると、その排水が流れ込んだ川でも発生し、大量のアユが死滅します。

その原因はまだよくわかっていません。保菌アユを掬ったタモ網や、長靴なども感染源のひとつではないかと言われていますが、これらの普及に歯止めがかからない現在、防止する手立てもみつかっていません。

人工産アユの放流

そこで、琵琶湖産アユ、海産、河川産アユに代わって登場してきたのが、人工産アユです。

ダムや堰の建設や、河川改修、砂防ダムの建設などによる河川環境の悪化は、これらのダム建設を推進していた建設省(国道交通省)も認識するようになっていましたが、建設省側の論理は、国民の安全を確保するためにはこれらの建設を中断するわけにはいかない、というものでした。

しかし、アユの生息数が激減しているのは河川行政を優先する建設省のせいであると糾弾する声は次第に漁業者の中で高くなり、このため、建設省では、「補償放流」のための資金を各地の漁協に提供するなどして、この声を静めようとしました。

ところが、それでも種苗(稚アユ)の数は増えるわけではなく、漁業者からの突き上げは日に日に増していったことから、ついに建設省は、自らアユの人工種苗を大量に生産することを考えはじめます。

人工産アユとは、卵から孵化、稚魚の飼育、親魚の飼育までアユの一生を人が育てたものです。卵から孵ったシラスアユのエサとして、ツボワムシというウナギの養殖池に大量発生するプランクトンを使い、ツボワムシの培養池とアユ仔魚の飼育池を別々にする「異槽式飼育方式」がその最初の成功例です。

その後海アユは本来海に住むものだというわけで、海水に棲むシオミズツボワムシ、ブラインシュリンプなどを餌にして、海水で養殖することなども始められ、これ以降、孵化した仔魚は濃度の低い海水でも飼育されるようになりました。

こうした技術は今でこそ完成されていますが、当初こうした研究を始めたばかりの水産庁管轄の水産試験場や種苗センターなどといった施設では常にその研究のための予算不足に悩んでいました。

一方、自ら人工アユを生産することも考えた建設省ですがが、そうした制度や十分な設備もあるわけではなく、こうした技術はあっても、どだい自分で稚鮎を生産するというお話には無理がありました。

そこで建設省は、ダム建設や河川整備等の予算の一部を削り、その予算をこうした水産研究機関に回し、これらの機関におけるアユ人工種苗の研究費や設備費の負担を減らすように方向転換していきました。

そして、研究の成果は徐々に出始め、確立された生産技術は、やがて県などの地方自治体に移管されていきました。やがて、各県の水産試験場や種苗センターで、種苗(稚アユ)の大量生産が行われるようになり、これが琵琶湖産アユや海産、河川産アユにとって代わるようになっていきました。

仔稚アユから成魚への大量養殖の基礎技術が完成したのは昭和40年代半ばのことであったといいますが、当初は、背骨の異常、顔や口唇の不整合などの奇形が高率に発生していました。

その後、飼料や養育方の改善等によりこれらの問題は次第に解決されるようになりましたが、そもそもが「大量生産すること」が目的であり、孵化から稚アユまで育てる歩留まりを上げ、奇形を減らすことに注力されたため、アユ本来が持つ放流後の遡河性とか、なわばり性質の強さの向上などは二の次でした。

このため、大量生産の初期に放流された人工産のアユは、オトリを追わないで群れてばかりいる、すぐ下ってしまう等、釣り人にも漁協にも評判が良くありませんでした。

しかし、その後の改良によって、最近の人工放流稚魚では、走流性、遡河性、なわばり性質についてもかなり改善、改良が図られるようになってきました。ただ、それでも琵琶湖産のアユのような優良性質には程遠く、いまだに釣り客の評判はあまりかんばしくないといいます。

この中にあって、群馬県水産試験場産の人工産アユでは、かつての琵琶湖産のアユのようになわばり意識が強く、どこの河川でも「追いが良い=食いつきが良い」という評判だそうで、最近では群馬県以外でも多くの河川で放流され、良い評判を得ているといいます。

アユ激減の意味

こうして、人工産の稚アユの放流割合は次第に増えていき、平成9年には、湖産、海産、人工産の放流割合がそれぞれ、58%、32%、32%であったものが、平成20年度には、24%、11%、66%となっています。

琵琶湖産はかっては全国放流量の7割以上を占めていたといいますが、それが現在では全体の四分の一にまで激減し、それに代わって人工産の放流が急増し全放流量の半分以上を占めるまでになり、まさに人工放流によってアユ漁が成り立っているといっても良い時代になりました。

ところが、人工放流によって稚鮎の放流量を増やしても、全体の漁獲量は増えるどころか、急激に減少し続け、平成14年ころからはまさに「激減」というほど減ってきています。

アユの漁獲量は、琵琶湖産稚鮎の放流が本格化してきたころから右上がりに増え始め、昭和31年にころには5300トン程度だったものが、平成13年までには1万8000トンにまで増えました。ところが、この年をピークに急激に生産量が減りはじめ、平成18年にはなんと、昭和31年を下回る3000トンにまで落ち込んでいます。

かつてアユの漁獲量が多かった頃は、岐阜県の長良川などだけで1年に3000数百トンの漁獲量があったといいますから、この減りようは異常です。人工産稚アユの放流割合が増えたH10~H14年頃に一時的に漁獲量の減少に歯止めがかかったようでしたが、H15年から再び激減し、ここ数年の減少は目を覆うばかりの惨状です。

その激減の原因として考えられるのは、やはり環境の変化。河川改修等による河川環境の変化に加え、これに伴う食物連鎖の崩壊によるアユのエサの藻の減少や、川鵜などの外敵の増加が考えられます。

また、ブラックバスなどの外来魚による食害も増えてきており、アユ以外の魚種の増加によるアユ本来の縄張りの減少などもその原因として考えられます。

ダムや堰などの河川構造物の建設により稚魚が遡上できない、孵化した仔魚が海へ流下できないという状況もその原因ではないかと疑われています。

しかし、これらの河川構造物の設置は昭和年代から始まってかなりの年月が経っていて、アユの遡上や降下への影響も恒常化しており、平成14年ころから急にアユの生産量が減少をしてきたこととの因果関係は考えにくいところです。

ただ、これらの構造物が長きにわたって存在することにより、岩・石・砂礫などの堆積がピークに達し、もはやほとんどが下流に供給されることがなくなり、一気にアユの激減につながったということは考えられるかもしれません。

また、地球温暖化の影響により、秋・冬の沿岸海水温が高くなり、春先に生まれたアユの稚魚が高い気温に適合できず、海で死んでしまうことなども考えられます。

しかし、地球温暖化による生物への影響の研究はまだ始まったばかりであり、アユだけでなくほかの生物にとってもどれだけの影響があるのかについてはまだよくわかっていません。

現在のところ、やはりもっとも疑われてしかるべきは冷水病の影響でしょう。冷水病の蔓延の原因はまだ究明されていませんが、その病原体が何であるかはわかっています。問題は、なぜその病原体が急に増え始めたか、です。

現在多くの水産研究者たちがこの問題に取り組み始めていますが、それらの研究の中には、近年、多くの釣り人がタイツやタビ、網、舟、囮缶などの釣り道具に新しい素材を使用しており、これらの多くは中国などの外国製であることが関係あるのではないかという指摘もあります。

中国などの外国から持ち込まれている「であろう」有毒物質と冷水病との因果関係が立証されているわけではありませんが、鳥インフルエンザなどと同様、原因不明の病原体は外国から持ち込まれて蔓延するケースは多いようです。

冷水病の蔓延もそれら有毒物質の広がりがトリガーになったことも十分考えられます。平成13~14年ころといえば中国製品が大量に出回りはじめたころであり、時期的にも一致します。

今後は、これらの用具の使用を禁止したり、消毒をして冷水病を広げないように気を付けたりすることが必要になってくるかもしれません。また有毒物質が多量に含まれる合成洗剤などの家庭からの排出の抑止もこれからますます必要になってくるでしょう。

さて、今日も長くなってしまいました。そろそろ終わりにすることにしましょう。

今年も大量の釣り人達が狩野川で釣りをする風景を見ることができました。が、これが未来永劫みることができなくならないとも限りません。

美しい河川で落ちアユを釣る釣り人は絵になります。この風物詩がなくならないよう、環境破壊の抑止をみんなで心がけていきたいものです。

軽野船

今日は、たなぼた……いや、たなばたです。今日の天気は曇りということなので、天の川もみえないかも。子供のころ、夜空を見上げていると、うすぼんやりと天の川が見えたのを覚えていますが、東京にいたころは、街の灯りやら大気の汚れやらで、見えたためしがありません。ここ、伊豆ではどのように見えるのか、梅雨が明けたらぜひ、試してみたいと思います。

さて、川といえば、狩野川です。昨日も、狩野川のそばにあった、狩野城について書きましたが、「狩野川」という名前は、この狩野城を作った狩野一族の名前にちなんだものだとばかり思っていました。

ところが、調べてみると、「狩野」という名前の由来は、どうやら狩野家の人々がそれを名乗ったからではないらしいことがわかりました。その由来には諸説があるようなのですが、日本書紀では、伊豆の国で船を造り、その名を「枯野」と称した、という記述があるそうで、それが軽野(カルヌ)に変わり、さらにカヌに変化。最終的に「狩野」になったという説が有力なのだそうです。

昨日書いたとおり、狩野一族の始祖の、為憲さんは、もとは藤原姓を名乗っており、最初は藤原為憲と名乗っていました。その孫の維景さんの代になって狩野姓を名乗り始めたのが1050年ころだそうで、だとすると、その頃にもう「狩野川」という名前が地元では定着していて、それを姓に使ったのではないかと思われます。

それはともかく、その語源になったという、「軽野」という名前がそのまま残っている神社がある、という記事をネットでみつけたので、地図で調べてみました。すると、修善寺の南西4kmほど離れた場所に、確かには、軽野神社というのがあります。

さらに、ネット情報によると、この神社はその昔、造船儀礼と深く関わっていた、というのですが、造船? こんな山奥で? と不思議に思ったので、ともかく行ってみようと思い立ちました。先日行った狩野城のすぐそばにあるようで、ここからクルマで行ってもすぐのところのようです。

別荘地の山を下り、伊豆市役所を過ぎ、時折みえる狩野川を左手にみながら、クルマを走らせることおよそ10分。「軽野神社」の看板が見えてきました。入口は狭かったのですが、敷地自体は、結構な広さがあり、神社の前には、村の公民館のようなものもあり、駐車スペースも十分にあります。クルマを降りて、鳥居の前で一礼。祭殿の前まで行き、お賽銭をし、いつものように、二礼二拍手。そして、この地に越してきたことのご挨拶と、今後の安泰を祈りました。

参拝を終え、振り返って改めて、境内をみまわしてみると、社殿の右奥のほうには古い祠やら、丸石をみっつほど重ねた塔のようなもの、左手奥には、ご神木ということで、楠木が植えられていました。ネット情報によれば、かつてこの地では、この楠木などを使って造船が行われたというのですが、このご神木は最近植えられたようで、それほど大きなものではありません。が、しかし、楠木がご神木ということは、やはりこの神社、造船と何かかかわりがあったのかもしれません。

この神社、標高70~80mくらいの高台にあって、境内の東側、500mほど離れたところには、狩野川がゆったりと流れているのが見えます。出来上がった船を目の前にして祝詞をあげるには、あまりにも狩野川から離れすぎているので、もしかしたら、その昔は、もっと川に近いところに神社があったのかもしれません。それにしても、こんなところでどんな船を作っていたんだろう…… と思いは古代の伊豆へ飛んでいきます。

自宅へ帰ってからも、かなり気になったので、この神社について、もう少し詳しく調べてみることにしました。すると、この神社、創祀年代は不詳ということですが、古くから狩野郷全体の総鎮守とされていたのだそうです。「日本書紀」の記述では、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という意味のことが書いてあるとか。

その昔、狩野川流域には楠の木が豊富にあったらしく、この木は、良質の船材にもなるのだそうです。なので、古くは、この軽野神社があったあたりに、楠などの木材の集積所と造船所があったのではないかという人もいるようです。この「枯野」を造った時も、きっとできあがった船を前にして、軽野神社で祭祀が行われたに違いありません。そして、神社自体ももっと川の近くにあったか、あるいは古くはこの神社のすぐ近くに狩野川が流れていたのではないかと思えてきました。

さらにいろいろ調べてみると、伊豆における古代の造船技術については、結構いろんな人が興味を持たれていることがわかりました。

そのうちのおひと方は、伊豆の東海岸の下田に近いところにある、縄文時代の遺跡で、「見高段間遺跡」というのを引き合いに出しておられ、この遺跡が、伊豆諸島のひとつ、神津島産の黒曜石の陸揚げ地と考えられてることから、ここに住んだ縄文時代人は、高い造船、また操船技術を有していたのではないかと推定していらっしゃいました。

神津島産の黒曜石の流通範囲は、関東の北部から伊勢湾にいたる、太平洋岸に広く広がっているそうで、この遺跡のある浜から神津島までですら、60kmもの直線距離があるとのこと。小さな船で流れの速い黒潮を突っ切るのは大変なことであり、かなり性能のよい船と高度な操船技術が必要だったのではないか、とおっしゃいます。

黒曜石のような硬い石を探し、採掘し、加工するという高い鉱物採集技術は、造船技術にも応用された可能性があり、そうした造船技術がその当時、伊豆の各地での船造りに使われていたのではないかと想像できるというのです。

そうした技術が、朝鮮半島から伝わってきたのではないか、という人もいます。軽野神社の「カル」や、カラ」というのは多くの場合朝鮮半島にあった古代国家の加羅、伽耶からきているのではないか、だとすると、その当時すでに高度な製鉄技術を持っていたという、伽耶の国から渡来集団が、伊豆にもいたのではないか、というのです。

伊豆の船大工の祖先が朝鮮人であったかどうかの真偽はともかく、縄文時代から伊豆は、造船がさかんな土地であったというのは定説のようです。当初は、枯野船と呼ばれる小さな船だったものが、やがては、外洋航海までできる、大船も建造されたとか。その名称が、「枯野」から「軽野」に変化するころには、全長30m、100t以上の巨船まで作られていたそうで、日本書記には、伊豆から難波まで回航され、応神天皇(270~330年に即位)が朝夕使う清水を汲むために使われたという記事があるそうです。

また、これよりもさらに古く、崇神天皇(紀元前97-29年に即位)に献上した巨船の建造地は、西伊豆町の仁科の入江なのだそうで、ここには、「鍛冶屋浜」の地名が残っていて、造船に携わった製鉄工が住んでいたのではないか、と推定されているそうです。

それにしても、狩野川で作られた古代の船って、どんなもんだろう、と気になるところです。これについても、いろいろ調べてみたところ、「軽野」や「枯野」は、世界で使われている「カヌー」の語源ではないかという説もあるようで、どうやら、当初はそれほど大きなものではなかったと思われます。

ある方は、そうした小型和船の原型が、島根県の松江市の美保神社の祭に使われる諸手船(もろたぶね)のようなものではなかったかとおっしゃっています。


(引用、http://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page016.html)

この船、船首があまり尖っておらず、構造も竜骨や肋材もない単純なもので、喫水も浅そうです。これなら、現代の狩野川でも上流で作って、海まで持っていけそう。船体が大きくないので、漕ぎ手が8名もいれば、かなりのスピードが出せるということです。

しかし、これより大きな船を海まで持っていくのは大変そうです。全長30m、100tもあるような船はどう考えても狩野川を下れそうにありません。どうやって運んだのでしょうか。

これについて、「伊豆水軍」という本を書かれた、永岡治さんという方が、この本の中で、「現在の狩野川では考えにくいが、むかしは水量豊かで、川船が頻繁に上り下りし、筏流しが行われていた「川の道」であったと考えることもできる」、とおっしゃっています(長岡治著、「伊豆水軍」 静岡新聞社刊)。

また、縄文時代には、縄文海進といって、海水面が現在よりも2~3mほど高い時代があり、軽野神社のある、伊豆市松ヶ瀬という地区も海岸付近に立地していたのだそうです。伊豆の内陸部にはあちこちに遺跡があり、そうした遺跡からは海岸が近かったことをうかがわせる貝や魚の骨もみつかっているとか。

もっとも、縄文海進があったのは、6000年も前のことですから、その後の弥生時代を経て、天皇制が始まった時代まで軽野神社近くに海があったかどうかまではわかりません。

が、それにしても、狩野川自体は今と違った流路や深さであったとしても、存在していたことは確かなことで、長岡さんが書かれているとおり、軽野神社あたりで作られた船を筏に乗せて海まで運ぶことは、けっして不可能ではなかったかのではないかと思われるのです。

もっとも、狩野川を下って海まで持って行かなくても、伊豆のあちこちには似たような造船所がたくさんあったらしく、伊豆で作られた船は、「伊豆手船(いずてぶね)」と呼ばれて珍重され、遠くは北九州まで運ばれたそうです。

東国から徴集された縄文人が遠く北九州に送られ、外敵に備える防人(さきもり)として国境警備にあたった際に使ったのが伊豆手船なのだそうで、それほど優れた造船技術がここ伊豆で発祥し、やがてはより高度な技術として発展。それを支える職人集団をかかえた武士がやがて「伊豆水軍」を形成し、歴史の舞台に躍り出ていったのです。

昨日お話した北条早雲も、その活躍において伊豆水軍の力を利用しています。早雲が茶々丸を成敗したのち、韮山城に拠点を置き、狩野氏をはじめとする伊豆の諸豪族を平定していくと、伊豆半島の水軍、海賊もこぞって北条氏の傘下へ参じるようになります。

さらに、早雲は、小田原城の大森氏を滅ぼし三浦義同(道寸)とその嫡子義意の死守する新井城を落城させると、三浦同寸の配下にあった、旧三浦水軍の出口氏、亀崎氏、鈴木氏、下里氏・・・など各諸氏を吸収していきます。

戦国時代にあって、一時は関東地方最大の武将として君臨した北条早雲を支えていたのは、古代から船造りをしてその技術を蓄えてきた伊豆の船大工の職人集団とそれを抱える伊豆水軍だったのです……

…… いかだに組んだ太い丸太をほどく人々や、船を組み立てる職人、そして完成させたばかりの伊豆船を操って海へ向かう人たち。そして、港では、北条早雲が下知するたくさんの伊豆船が帆をあげて、出航していく姿…… 狩野川をぼんやり眺めていると、そんな古い時代の風景がみえてきそうです。

まだまだたくさんの歴史秘話がありそうな伊豆。こんどはどこへ行ったら面白そうな話があるでしょうか。