今日は、たなぼた……いや、たなばたです。今日の天気は曇りということなので、天の川もみえないかも。子供のころ、夜空を見上げていると、うすぼんやりと天の川が見えたのを覚えていますが、東京にいたころは、街の灯りやら大気の汚れやらで、見えたためしがありません。ここ、伊豆ではどのように見えるのか、梅雨が明けたらぜひ、試してみたいと思います。
さて、川といえば、狩野川です。昨日も、狩野川のそばにあった、狩野城について書きましたが、「狩野川」という名前は、この狩野城を作った狩野一族の名前にちなんだものだとばかり思っていました。
ところが、調べてみると、「狩野」という名前の由来は、どうやら狩野家の人々がそれを名乗ったからではないらしいことがわかりました。その由来には諸説があるようなのですが、日本書紀では、伊豆の国で船を造り、その名を「枯野」と称した、という記述があるそうで、それが軽野(カルヌ)に変わり、さらにカヌに変化。最終的に「狩野」になったという説が有力なのだそうです。
昨日書いたとおり、狩野一族の始祖の、為憲さんは、もとは藤原姓を名乗っており、最初は藤原為憲と名乗っていました。その孫の維景さんの代になって狩野姓を名乗り始めたのが1050年ころだそうで、だとすると、その頃にもう「狩野川」という名前が地元では定着していて、それを姓に使ったのではないかと思われます。
それはともかく、その語源になったという、「軽野」という名前がそのまま残っている神社がある、という記事をネットでみつけたので、地図で調べてみました。すると、修善寺の南西4kmほど離れた場所に、確かには、軽野神社というのがあります。
さらに、ネット情報によると、この神社はその昔、造船儀礼と深く関わっていた、というのですが、造船? こんな山奥で? と不思議に思ったので、ともかく行ってみようと思い立ちました。先日行った狩野城のすぐそばにあるようで、ここからクルマで行ってもすぐのところのようです。
別荘地の山を下り、伊豆市役所を過ぎ、時折みえる狩野川を左手にみながら、クルマを走らせることおよそ10分。「軽野神社」の看板が見えてきました。入口は狭かったのですが、敷地自体は、結構な広さがあり、神社の前には、村の公民館のようなものもあり、駐車スペースも十分にあります。クルマを降りて、鳥居の前で一礼。祭殿の前まで行き、お賽銭をし、いつものように、二礼二拍手。そして、この地に越してきたことのご挨拶と、今後の安泰を祈りました。
参拝を終え、振り返って改めて、境内をみまわしてみると、社殿の右奥のほうには古い祠やら、丸石をみっつほど重ねた塔のようなもの、左手奥には、ご神木ということで、楠木が植えられていました。ネット情報によれば、かつてこの地では、この楠木などを使って造船が行われたというのですが、このご神木は最近植えられたようで、それほど大きなものではありません。が、しかし、楠木がご神木ということは、やはりこの神社、造船と何かかかわりがあったのかもしれません。
この神社、標高70~80mくらいの高台にあって、境内の東側、500mほど離れたところには、狩野川がゆったりと流れているのが見えます。出来上がった船を目の前にして祝詞をあげるには、あまりにも狩野川から離れすぎているので、もしかしたら、その昔は、もっと川に近いところに神社があったのかもしれません。それにしても、こんなところでどんな船を作っていたんだろう…… と思いは古代の伊豆へ飛んでいきます。
自宅へ帰ってからも、かなり気になったので、この神社について、もう少し詳しく調べてみることにしました。すると、この神社、創祀年代は不詳ということですが、古くから狩野郷全体の総鎮守とされていたのだそうです。「日本書紀」の記述では、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という意味のことが書いてあるとか。
その昔、狩野川流域には楠の木が豊富にあったらしく、この木は、良質の船材にもなるのだそうです。なので、古くは、この軽野神社があったあたりに、楠などの木材の集積所と造船所があったのではないかという人もいるようです。この「枯野」を造った時も、きっとできあがった船を前にして、軽野神社で祭祀が行われたに違いありません。そして、神社自体ももっと川の近くにあったか、あるいは古くはこの神社のすぐ近くに狩野川が流れていたのではないかと思えてきました。
さらにいろいろ調べてみると、伊豆における古代の造船技術については、結構いろんな人が興味を持たれていることがわかりました。
そのうちのおひと方は、伊豆の東海岸の下田に近いところにある、縄文時代の遺跡で、「見高段間遺跡」というのを引き合いに出しておられ、この遺跡が、伊豆諸島のひとつ、神津島産の黒曜石の陸揚げ地と考えられてることから、ここに住んだ縄文時代人は、高い造船、また操船技術を有していたのではないかと推定していらっしゃいました。
神津島産の黒曜石の流通範囲は、関東の北部から伊勢湾にいたる、太平洋岸に広く広がっているそうで、この遺跡のある浜から神津島までですら、60kmもの直線距離があるとのこと。小さな船で流れの速い黒潮を突っ切るのは大変なことであり、かなり性能のよい船と高度な操船技術が必要だったのではないか、とおっしゃいます。
黒曜石のような硬い石を探し、採掘し、加工するという高い鉱物採集技術は、造船技術にも応用された可能性があり、そうした造船技術がその当時、伊豆の各地での船造りに使われていたのではないかと想像できるというのです。
そうした技術が、朝鮮半島から伝わってきたのではないか、という人もいます。軽野神社の「カル」や、カラ」というのは多くの場合朝鮮半島にあった古代国家の加羅、伽耶からきているのではないか、だとすると、その当時すでに高度な製鉄技術を持っていたという、伽耶の国から渡来集団が、伊豆にもいたのではないか、というのです。
伊豆の船大工の祖先が朝鮮人であったかどうかの真偽はともかく、縄文時代から伊豆は、造船がさかんな土地であったというのは定説のようです。当初は、枯野船と呼ばれる小さな船だったものが、やがては、外洋航海までできる、大船も建造されたとか。その名称が、「枯野」から「軽野」に変化するころには、全長30m、100t以上の巨船まで作られていたそうで、日本書記には、伊豆から難波まで回航され、応神天皇(270~330年に即位)が朝夕使う清水を汲むために使われたという記事があるそうです。
また、これよりもさらに古く、崇神天皇(紀元前97-29年に即位)に献上した巨船の建造地は、西伊豆町の仁科の入江なのだそうで、ここには、「鍛冶屋浜」の地名が残っていて、造船に携わった製鉄工が住んでいたのではないか、と推定されているそうです。
それにしても、狩野川で作られた古代の船って、どんなもんだろう、と気になるところです。これについても、いろいろ調べてみたところ、「軽野」や「枯野」は、世界で使われている「カヌー」の語源ではないかという説もあるようで、どうやら、当初はそれほど大きなものではなかったと思われます。
ある方は、そうした小型和船の原型が、島根県の松江市の美保神社の祭に使われる諸手船(もろたぶね)のようなものではなかったかとおっしゃっています。
(引用、http://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page016.html)
この船、船首があまり尖っておらず、構造も竜骨や肋材もない単純なもので、喫水も浅そうです。これなら、現代の狩野川でも上流で作って、海まで持っていけそう。船体が大きくないので、漕ぎ手が8名もいれば、かなりのスピードが出せるということです。
しかし、これより大きな船を海まで持っていくのは大変そうです。全長30m、100tもあるような船はどう考えても狩野川を下れそうにありません。どうやって運んだのでしょうか。
これについて、「伊豆水軍」という本を書かれた、永岡治さんという方が、この本の中で、「現在の狩野川では考えにくいが、むかしは水量豊かで、川船が頻繁に上り下りし、筏流しが行われていた「川の道」であったと考えることもできる」、とおっしゃっています(長岡治著、「伊豆水軍」 静岡新聞社刊)。
また、縄文時代には、縄文海進といって、海水面が現在よりも2~3mほど高い時代があり、軽野神社のある、伊豆市松ヶ瀬という地区も海岸付近に立地していたのだそうです。伊豆の内陸部にはあちこちに遺跡があり、そうした遺跡からは海岸が近かったことをうかがわせる貝や魚の骨もみつかっているとか。
もっとも、縄文海進があったのは、6000年も前のことですから、その後の弥生時代を経て、天皇制が始まった時代まで軽野神社近くに海があったかどうかまではわかりません。
が、それにしても、狩野川自体は今と違った流路や深さであったとしても、存在していたことは確かなことで、長岡さんが書かれているとおり、軽野神社あたりで作られた船を筏に乗せて海まで運ぶことは、けっして不可能ではなかったかのではないかと思われるのです。
もっとも、狩野川を下って海まで持って行かなくても、伊豆のあちこちには似たような造船所がたくさんあったらしく、伊豆で作られた船は、「伊豆手船(いずてぶね)」と呼ばれて珍重され、遠くは北九州まで運ばれたそうです。
東国から徴集された縄文人が遠く北九州に送られ、外敵に備える防人(さきもり)として国境警備にあたった際に使ったのが伊豆手船なのだそうで、それほど優れた造船技術がここ伊豆で発祥し、やがてはより高度な技術として発展。それを支える職人集団をかかえた武士がやがて「伊豆水軍」を形成し、歴史の舞台に躍り出ていったのです。
昨日お話した北条早雲も、その活躍において伊豆水軍の力を利用しています。早雲が茶々丸を成敗したのち、韮山城に拠点を置き、狩野氏をはじめとする伊豆の諸豪族を平定していくと、伊豆半島の水軍、海賊もこぞって北条氏の傘下へ参じるようになります。
さらに、早雲は、小田原城の大森氏を滅ぼし三浦義同(道寸)とその嫡子義意の死守する新井城を落城させると、三浦同寸の配下にあった、旧三浦水軍の出口氏、亀崎氏、鈴木氏、下里氏・・・など各諸氏を吸収していきます。
戦国時代にあって、一時は関東地方最大の武将として君臨した北条早雲を支えていたのは、古代から船造りをしてその技術を蓄えてきた伊豆の船大工の職人集団とそれを抱える伊豆水軍だったのです……
…… いかだに組んだ太い丸太をほどく人々や、船を組み立てる職人、そして完成させたばかりの伊豆船を操って海へ向かう人たち。そして、港では、北条早雲が下知するたくさんの伊豆船が帆をあげて、出航していく姿…… 狩野川をぼんやり眺めていると、そんな古い時代の風景がみえてきそうです。
まだまだたくさんの歴史秘話がありそうな伊豆。こんどはどこへ行ったら面白そうな話があるでしょうか。