北の国から


今年も母の日が近づいてきました。

我が家でも毎年、山口にいる母に、たいてい花やら何やらをプレゼントするようにしています。

今年は、何にしようかな~と思っていましたが、先日母が「来豆」してきたとき、前にあげたバラを枯らしてしまったと言っていたのをタエさんが覚えており、じゃぁ、その代りのバラにしようか、ということになり、昨日、長泉町のサントムーンで、薄いオレンジ色のバラをみつけ、これを贈ることにしました。

花好きの母のことですから、きっと喜んでくれることでしょう。

ところで、花といえば、先日松崎町の花畑のお話を少し書きかけました。町の有志達が、毎年のように休耕田を利用して、ここに色とりどりの花を植えて観光客に開放しています。

春先に那賀川のサクラを見に行ったときにも、咲き誇っていましたが、今はまた季節が進んで、矢車草やひなげしといったまた別の花々がたくさん咲いていました。

休耕田は、連休明けから本来の目的である田んぼとして使われるため、この美しい花々は連休までの命ということで、我々が行ったその日が、その雄姿をみれる最後の日。どうせ翌日からは刈ってしまうから、ということで、観光客が自由に摘んでもかまわない、と自由な立ち入りが許されており、このため花目当ての多くの人たちで賑わっていました。

このとき持ち帰った花々は、両手で持ち抱えるほどあり、これをタエさんがほとんど半日かけて剪定。今、我が家のあちこちで、その蕾が開き、実に華やかです。いつまでももってくれればいいのですが、花の命は短くて……であり、今月一杯もたせるのはさすがに難しいでしょう。とはいえ、精一杯咲いてくれている花たちに感謝感謝です。

この松崎での「花狩り」の際には、そのすぐ近くにある道の駅、「花の三聖園」で昼食をとりました。タエさんの頼んだざるそばには、松崎の海岸で採れる岩のりを使った小丼と、本物のワサビまでついてきて1000円弱という安さ!しかも味も上等で、私は暖かい山菜そばを頂いたのですが、こちらも大変よかったです。

道の駅の食事には嗜好をこらしたものを出すところも多く、この「道の駅三聖園」もそのひとつであり正解だったと思います。みなさんもごひいきにしてあげてください。

依田勉三のこと

さて、以前このブログでは、この「花の三聖苑」の名前の由来になった「松崎三聖人」について触れました(3/27「松崎にて」)。

この道の駅の敷地内には、「大沢学舎」という古い建物がありますが、これはその松崎三聖人の一人である「依田佐二平(さださじべい)」が私財を投じて開校した公立小学校です。

依田家の先祖はもともと信州におり、武田信玄の子の武田勝頼に仕えていた重臣でしたが、武田家の滅亡後、一族がこの地に落ちのび、その後この地で商家として栄えるようになりました。

明治初頭にこの依田佐二平の代になってからは、群馬県の富岡製糸工場に習って製糸産業を振興したところこれが成功し、依田家は更に発展するとともに、これによってその当時の松崎は日本三大製糸の町とまで言われるほどになったことなどを先般のブログで書きました。

この三聖人の残り二人ですが、一人は、幕末松崎の漢学者で「土屋三余(つちやさんよ)」という人物。松崎のこの地の名門の武士の家に生まれ、江戸で漢学を学び帰郷し、「三余塾」を開き、この当時としては「士農の差別をなくす」という革新的な思想をもって、農家の子弟をも教育しました。

この結果、門下生に数多くの逸材が育つようになり、依田佐二平はその一人です。そして、この佐二平の弟が、三聖人のもう一人、「依田勉三(よだべんぞう)」になります。今日は、この依田勉三について、書いていきたいと思います。

本州ではあまり馴染のない人物です。北海道では札幌にある「北海道神宮」の末社である「開拓神社」の祭神にまで祭りあげられていますが、だからといってそれほど知名度の高い人物ではありません。

ちなみに、この北海道神宮というのは、北海道では一番大きな神社のひとつです。が、その歴史はそれほど古くはなく、明治時代に創建されたものです。この当時、北海道の開拓当時樺太・千島に進出を進めていたロシアに対する守りのために建てられたということで、その大鳥居が北東を向いています。

明治4年(1871年)6月14日に勅旨によって「札幌神社」と命名され、国幣小社に列せられました。国幣小社というのは、式内社(10世紀初頭には朝廷から「官社」として認識されていた由緒ある神社)としては、官幣大社、国幣大社、官幣小社に次ぐ一番下の社格でしたが、翌明治5年(1872年)には一つ上の官幣小社に昇格しています。

北海道の開拓にあたって、明治天皇は北海道鎮護の神を祭祀するように明治2年にわざわざ勅を発しており、これによって、北海道開拓の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三神が「開拓三神」として奉ぜられるようになりました。

これ以前にも北海道の各地に神社はありましたが、各地方の人々の個々の信仰に拠って建立されたものにすぎなかったため、この札幌神社ができて以降は、北海道で公式に認可される神社は日本の祭政制度にのっとって建てられるようになりました。

また、その後二次大戦前までには北海道だけでなく、全国的に国民統制のための国家神道が行われるようになりましたが、北海道においてもこの札幌神社がその中心地となり、札幌神社内には皇典講究所の分所が設けられ、北海道内の神職の養成や教布が行われるようになりました。

戦後の昭和39年(1964年)、明治天皇を合祀し、社名を現在の「北海道神宮」へと改めました。現在北海道では一番大きな神社として、多くの参拝客を集めています。祭神には、前述のように北海道開拓の守護神として三神が選ばれていますが、境内には数々の「末社」があり、ここには、北海道開拓で功績のあった人達も祀られてます。

その一つが「開拓神社」であり、ここには依田勉三だけでなく、間宮林蔵ほかの北海道開拓の功労者が数多く祀られているのです。

北海道開拓に至るまで

さて、伊豆で生まれた依田勉三が、なぜこの北海道で開拓をするように至ったのかについてみていきましょう。

依田家は、前述のように甲州武田氏の流れを汲む伊豆国那賀郡大沢村(現松崎町)の豪農で、1853年(嘉永6年)、勉三はこの家の三男として生まれました。長兄は依田佐二平です。次男は幼くして亡くなったため、勉三が戸籍上は次男となりました。

幼名を久良之助といい、三聖人の一人、土屋三余や、西郷頼母(保科酔月)などから漢籍を教わっています。西郷頼母というのは、今NHK大河ドラマで放映されている八重の桜にも登場する会津藩の元家老のことです。

幕末の動乱のあと、依田佐二平に請われて伊豆へやってきて、多くの師弟を育てたことは、3/28のブログ「頼母のこと」でも書きましたので、詳しくはそちらを読んでみてください。

佐二平と勉三の兄弟は7つ離れています。兄弟は、勉三が12歳のときに母を亡くしていまが、さらにその母の後を追うように2年後には父が死去したため、依田家は、兄の佐二平が後を継ぐことになりました。勉三が14歳ですから、兄の佐二平は21歳になっており、当主としては若いながらも申し分のない年齢でした。

しかし、若くして当主となったため、主としてはもっと学をつけさせるべきと周囲が見なしたためか、弟の勉三とともに、那賀村から3kmほど離れた松崎町にある土屋三余の私塾であった「三余塾」で学ぶようになります。

「三余」とは、塾頭の土屋が「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と彼が子弟に説いたことにより、この三余を土屋は自らの名前としても使っています。ちなみに、「三余」とは、一年のうちでは冬、一日のうちでは夜、時のうちでは雨降りのことです。

ここで、国学や儒教などの基本的な学問を習得した勉三は、19歳の時に上京します。1872年(明治4年)のことであり、維新の動乱も終わり、ようやく世の中が開明に向かって動き出そうとしていた時代でした。

この上京で、勉三は、はスコットランド出身の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840~1901)という人物が営んでいた英学塾に学ぶようになります。

勉三がこのワデルをどうやって知り得たのかについては詳しくはよくわかりませんが、兄の佐二平はこのころ、地元のリーダーとして殖産興業に励むようになっており、欧米諸国への輸出品を研究しており、その関係から兄を通じて在日外国人の情報を得たのかもしれません。

兄の佐二平はその後製糸業に注目し、これを地域の産業基盤にすべく、この当時官営だった上州(現群馬県)の富岡製糸工場に6人の子女を派遣したりしています。

彼女達が2年間の技術習得を終えて帰郷したあと、明治8年に松崎に設立された製糸工場はその後大きな繁栄をしていくことになりますが、こうした欧米の技術を導入する関係から、多くの外国通や欧米人とも知り合ったと想像され、弟の勉三が上京するにあたっては、その人脈を活用したと考えられます。

とまれ、こうして勉三は、維新後まもない東京で勉学に励むようになり、このワデルの英学塾では、後に開拓の同志となる鈴木銃太郎や渡辺勝とも知り合っています。

こうして勉強に励んだ甲斐あって、その後慶應義塾に進むことができ、さらに当時の新知識を吸収。慶応義塾の創設者、福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てるようになります。

ところが、慶応義塾に在学して2年が経ったころ、胃病を患うようになり、しかも脚気にかかってしまったことから、義塾を中退して郷里の伊豆に帰ってきてしまいます。

そして、しばらくは療養に専念していましたが、兄の佐二平が洋学校を設立したいと言いだしたためこれに協力することにし、自らもこの学校で教師として働くことを決めます。そして、ワデルの英語塾時代に知り合ったに渡辺勝に働きかけ、彼を伊豆に招致することにも成功します。

明治12年(1879年)、渡辺を教頭として下田の北側にあった蓮薹寺村に私立「豆陽学校」を開校。この学校は後に郡立中学豆陽学校と名称を変更したのち、昭和24年(1949年)4月に静岡県立下田北高等学校となります。同校の同窓会は現在でも豆陽会を名乗っています。

そもそも依田佐二平は、製糸業で成功する前から地元の青年の教育に熱心であり、明治維新直前の1864年(元治元年)には、自邸内に塾をひらき村民への新しい時代へ対応するための啓蒙運動をはじめています。これが、三聖園に現在移築されている「大沢学舎」(大沢塾)です。

大沢塾では地元の識者を招いて、主として儒学を教えていましたが、やがて明治維新が起こるとその内容も古くさくなっていたため、明治5年(1872年)にはこの大沢学舎をさらにグレードアップさせた、「謹申学舎」を設立しています。

ちなみに、松崎にはこのほかにも、1880年(明治13年)に竣工し、伊豆地域では最古の小学校として知られる岩科学校(いわしながっこう)があり、この学校は1975年(昭和50年)には国の重要文化財に指定され、現在では有名な観光地になっています。

実は、先日の「花狩り」に行った際に我々もここへ行きました。木造の寄棟造で二階建瓦葺の立派な建物であり、その外観の大きな特徴としてはなまこ壁が挙げられます。室内には「千羽鶴」の「鏝絵(こてえ)」などがあり、この鏝絵の作者は左官の名工として名高い工芸家で、松崎町出身の「入江長八」です。

正面玄関の「岩科学校」扁額は、最後の太政大臣、内大臣正一位大勲位公爵、三条実美の書ということであり、学校を作るにあたっては、東京の有名人などからも寄付やこうした協力が寄せられました。総工費の4割余りを住民の寄付でまかなうという地元の厚い熱意にも支えられて、1880年(明治13年)竣工。

この寄付をした住民の中には、当然のことながら依田佐二平も含まれていたはずです。これによって佐二平はその生涯において、「大沢学舎」「謹申学舎」「豆陽学校」「岩科学校」の四つもの学校の創設に関わっていたことになり、このことからも彼がいかに教育というものに関心が深かったのかがわかります。

この岩科学校は、国の重要文化財に指定されるまでは、学校としても使われた時期もあったようですが、その後すぐ隣に新校舎の松崎町立岩科小学校が建てられたため、学校施設としてはもはや使われることはなくなりました。

ちなみにこの隣接する岩科小学校も少子化によって2007年3月に廃校しており、我々が行ったときもガランとした広い校庭に遊ぶ子供たちの姿はありませんでした。

その後、岩科学校は老朽化も進んでいたことから、2年かけていったん解体され、1992年(平成4年)までに元の形に復元され、復元工事の終了とともに博物館として公開されています(有料)。

1875年(明治8年)、松崎町内に岩科商社として建設され、その後、岩科村役場として使用されていた建物も校庭内に移築されており、現在は「開花亭」という名前の休憩所兼お土産物屋さんとして利用されています。

さらにちなみにですが、この岩科学校の教員に「山口磐山」という人物がいたらしく、この人は会津藩の九代藩主松平容保のもとで働いていたそうです。どういう身分の人だったのかはよくわかりませんが、1877年(明治10年)、岩科学校の創案者であり岩科村戸長でもあった佐藤源吉の招きによって岩科学校の教員となったようです。

山口は岩科学校に隣接する天然寺で慎独塾も開いていたそうですが、病に倒れたため慎独塾は他人の手に渡り、1881年(明治14年)に明道義塾と改称されています。1883年(明治16年)死去。門下生によってほど近くの天然寺に墓が建てられているといいます。

このように、西郷頼母もこの山口磐山も会津の殿様に近い人だったというあまり知られていない事実があり、これらのことから伊豆と会津というのは、その昔からかなりの人物交流があったことがうかがわれます。確かほかにも会津から来た人がいたという記録を読んだことがあります。

が、今日のところはまた話が脱線中のことでもあり、そのことに触れるのはやめておきましょう。また調べてみて面白いことがわかったら、アップしたいと思います。

北海道へ

さて、ずいぶん話が飛んでしましました。こうして、東京から郷里の伊豆に戻り、病を治しながらも兄の佐二平の学校づくりに協力していた勉三ですが、その後病気もようやく癒えたのか、明治12年(1879年)、26歳のとき、同じ村出身の従妹のリクと結婚しています。

北海道開拓の志を固めたのはどうやらこのころのことのようです。なぜ、北海道だったのか、という点についていえば突拍子もない感じもするのですが、幕末から明治のはじめにかけての伊豆では、二宮尊徳の影響が色濃く、農本思想(報徳思想)と呼ばれる思想が学校でも子供たちに強く植え付けられていたようです。

土屋三余の塾でも繰り返しこの思想が教えらえていたようで、この報徳思想では、二経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説いています。

二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などの学問と、農業の実践とを組み合わせた思想であり、「豊かに生きるための知恵」として、「至誠・勤労・分度・推譲」を行うことが大事と説いており、これによって物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるということを思想の根本に置いています。

要するに社会のために、私利私欲を捨てて生きろ、ということであり、このころまだ未開拓であった北海道の大地を切り開き、国民の利益のために供することこそが、勉三にとっての報徳思想の実践と考えられたのでしょう。

色々な史料にざっと目を通しところ、どうやらこうした開拓精神は既に幼少時代から勉三に植えつけられていたらしく、東京で学び、伊豆へ帰ってきて子弟に教育をしている間にもその理想は熟成されていき、やがては未知の北海道の荒野へ自らを投入することに憧れを抱いていくようになっていったのではないでしょうか。

また、勉三は慶応義塾で福沢諭吉の薫陶を受けています。福沢諭吉は独立自尊を説き、人口激増・食料不足を補うために北海道を大いに開拓すべきであるということを、その門人たちに語っていたようです。

これによって勉三はしだいに開拓報国の念を強くしていったとも考えられ、とくに明治8年(1875)に発表された北海道開拓の全体構想を示した「ケプロン報文」に出会い、北海道開拓に生涯を賭ける決意を固めたともいわれています。

ケプロンというのは、アメリカのマサチューセッツ州出身の元米国農務省長官(農務局長)であった、ホーレス・ケプロン(1804~1885)のことであり、1870 年(明治3 年)に開拓次官となった黒田清隆らが、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求め、開拓使顧問として招聘した人物です。

1869 年(明治2 年)、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、その2年後の1871 年(明治4 年)に来日し、開拓使顧問に就任。当時67歳でした。同年、このケプロンの指導で、東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作、家畜の飼育や農業技術者の養成などが行われています。

その後ケプロンは3年10ヵ月もの間日本に滞在し、この間3回にわたり、北海道内各地の視察・調査しており、このときに作成したのが「ケプロン報文」です。

「報文」は、北海道の基本的な開発計画を提案したものであり、札幌を首都とすること、農業開発のために高等教育機関を設置することなどを明治政府に進言しています。このケプロンの進言により、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・S・クラークが学長に迎えられ、明治9年に札幌農学校が開校しています。

ケプロンの提言は、すべて、北海道開拓の基礎事業、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その後の北海道の開拓・開発の重要な指針となるものであったといわれています。

若き日の依田勉三もまた、その報文を目にし、幼いころから身についていた開拓精神にこれが火をつけたに違いありません。

開拓の開始

こうして、結婚してわずか二年後の明治14年(1881年)、とりあえずは妻をも連れず単身で現地へ渡ることを決め、北海道の中でもとくに人跡未踏といわれるほど険しい原野ばかりであった「十勝」へ向かうことになります。

明治14年(1881年)8月17日に北海道に渡った勉三は函館から胆振、函館に戻り根室に向かい釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につきます。

さらに翌15年(1883年)、かつて英学塾で同学だった旧上田藩士族・鈴木銃太郎に声をかけ、賛同を得ると彼を連れて再び北海道に渡った勉三は、開拓の目標をいよいよ十勝に定め、当時札幌県に属することになっていた現地で、土地貸し下げの申請まで行っています。

そしていったんは伊豆へ帰郷して、兄の佐二平に十勝の将来性を力説します。このころには製糸業で成功を収めていた佐二平もまたこの弟の熱意に心を打たれ、農場建設のため、自らを社長とする「晩成社」を設立して彼に協力することにします。

社名は「大器晩成」にちなんだもので、たとえ長い年月がかかろうとも、かならず成功させたいという、兄弟の意気込みがうかがわれます。

こうして晩成社を設立した勉三らは、まずは政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようと考え、渡辺と鈴木、そして鈴木の父らとともに横浜港から北海道に向かい札幌県庁にて開墾の許可を願い出ます。

この鈴木銃太郎の父は親長といい、英学塾でも親しかった渡辺勝とその妻のカネも含めて全員が洗礼を受けた熱心なクリスチャンだったそうです。勉三だけはクリスチャンではなかったようですが、生涯にわたって勉三の盟友となった彼らの篤い信仰心は、その後の未開地入植において大きな精神的支柱になったようです。

勝と結婚したカネは横浜の共立女学校(ミッションスクール)の英学部を出た才媛で、入植後は、熱心に社員とアイヌの子供たちにも読み書きを教え、「十勝開拓の母」と称されているそうです。

こうして十勝へ向かった彼らは、十勝国河西郡下帯広村(現帯広市)を開墾予定地と定めましたが、この頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだったといいます。

この地に鈴木銃太郎と鈴木親長を残し、勉三は今度はここで働く人材を集めるため、いったん渡辺勝とともに伊豆へ帰り、移民の募集を開始します。その呼びかけによって、13戸27人を集めることができた勉三らは、明治16年(1883年)4月に彼らとともに横浜港を出港しました。

函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月に帯広に到着。かねてよりの念願であった帯広の開拓を開始しました。

しかし、その開拓への道のりはなまやさしいものではありませんでした。帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にはイナゴの大群が襲います。食糧としてアワを蒔き付けますが、天候の不順に見舞われ、ウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫はできません。

明治17年(1884年)になっても、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間には次第に絶望が広まっていきます。勉三は内地から取り寄せた米一年分を帯広南部の海岸沿いにある街、大津(現在の豊頃町)に貯蔵しましたが、内陸部にある帯広への輸送が困難な状況でした。

このため食糧不足を打開するため、大津のすぐ近くにあった当縁村生花苗(おいかまない、現在の広尾郡大樹町)で今度は、牧畜を主とした主畜農業を始めます。明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指しました。

また、馬鈴薯澱粉などの栽培の研究も始め、農耕の機械化を試みました。しかし始めた事業はどれもうまくいかず、当初13戸あった移民住宅はついには3戸にまで減少してしまいました。

しかし、その後も努力を続けた結果、明治25年(1892年)頃までには、ようやく色々手がけた試みが効を奏するようになり、食糧事情は徐々に好変し、とくに小豆・大豆などの収穫が少しずつ多くなってきました。

とはいえ、当初晩成社の設立に当たっては15年で1万町歩の土地を開墾しようとの目標を掲げていましたが、9年を経たこの時点では目標には遠く及ばず、わずか30町歩を開墾するのにとどまっていました。

兄の佐二平はそんな弟を責めることなく援助を続け、自らの製糸業は好調であったことから、叙勲を受けたのを機会にさらに強気に晩成社の事業を拡大しようとします。そして、会社組織を合資会社とし、社名も「晩成合資会社」と改めました。

函館に牛肉店を開業し、札幌北部の石狩にある当別村に畜産会社を新たに創設。帯広にも木工場を作るとともに、帯広に近い然別村(現在の音更町)には新たな牧場も開くなど、むしろ事業をどんどんと拡大していきました。

明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると、思いがけなく多くの移民が殺到しました。これを追い風として、明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等も造るなど、内地での佐二平の財にモノを言わせて、考えられる限りのありとあらゆる事業に進出していきました。

しかし、結局のところ、晩成社が手掛けたこれらの事業は何れも成功することはありませんでした。彼らが手を着けたこれらの事業は、現在の十勝・帯広地方を育む重要な地場産業に成長しましたが、佐二平、勉三が育てた晩成社の経営は、その多角化が裏目に出、やがていずれもが芽を出すこともなく、じり貧に追い込まれていきました。

大正5年(1916年)には、とうとう主な収益源であった売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却せざるを得ないほど業績は悪化し、これを皮切りに他の事業も次々と閉鎖に追い込まれ、晩成社の活動は事実上休止することになります。

それから4年の歳月が過ぎました。この間、なおも勉三は細々ながら帯広開拓を続けていたと思われます。農場経営等の事業は相変わらずも厳しいながら、大正9 年には、現帯広市南部に新たに開いた「途別農場」ではそこそこの収益を上げることができ、その一応の成功を記念して関係者を集めた祝宴を開いています。

久しぶりに鈴木銃太郎や渡辺勝など晩成社同志12人が顔を合わせて、勉三の成功を心から祝ったといわれ、この時、勉三は68 歳になっていました。苦難つづきの晩成社の開拓の歴史の中で、この日だけは最良の日であったと勉三は後年述懐しています。

しかし、その後も経営難をかかえたまま事業を継続せざるを得ず、晩成社の所有地売却などを行いながら、なんとかしのぎを削って生活を続けていました。

そんな中、大正14年(1925年)、勉三は中風症に倒れます。その勉三を献身的に看病をしたのは、二番目の妻のサヨでした。

最初の妻のリクは、勉三とともに当初から帯広で開拓の手伝いをしていましたが、無理が祟って体を壊したため、伊豆へいったん帰国させました。そして明治22 年(1889)に4年間の伊豆療養から帯広に戻りますが、やがて病気が再発。

このため、明治27 年(1894)、勉三はリクと「愛ある離婚」を決意。その療養のため泣く泣く伊豆へ帰しています。その後世話する人があって、再婚したのが翌年函館生まれで、二人の娘を持つ馬場サヨでした。

勉三・サヨの間に千世という男子が生まれますが、わずか二ヶ月で病死。リクと間にも子供を設けなかった勉三は、結局実子には恵まれていません。

しかし、このサヨもまた、勉三への献身的な看病が祟り、大正14年(1925年)の9月に死去。この年の10月には、兄の佐二平も亡くなりました。

そして、その2か月後の12月、勉三もまた、彼らの後を追うように、帯広町西2条10丁目の自宅で息を引き取りました。享年73。

勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」といいながらこと切れたといいます。

勉三の死後、昭和7年(1932年)には晩成合資会社は解散し、まるでこれと入れ違いのように、翌年の昭和8年(1933年)帯広が北海道で7番目の市制を施行しました。

晩成社設立当初の15 年間の償還期間はその後25 年に延期されましたが、事業が順調に推移しなかったことから、借金も雪ダルマ式に増えていきました。

佐二平の配慮によってさらにこの開拓目標期間は50 年に引き延ばされましたが、それでも成功せず、昭和7年、創業50年満期となったため、莫大な負債をかかえたまま倒産同様に解散したのです。

晩成社員に残された土地も、出資者への配当もなく、勉三所有の土地も一坪もなかったそうで、すべて借財の返済にあてられました。

しかし、勉三が若き日、慶応義塾の福沢諭吉の薫陶を受け・ケプロン報文に出会って北海道開拓の決意を固めた決意は、入植以後約半世紀すこしも揺るがず、十勝開拓の先駆者としてその名をこの地に残しました。

開拓済民の使命感をもって困難な開墾作業にあたり、さらに役所の手続き、農作物の種子肥料・牛馬豚の買い付け、小作人集めなどに東奔西走した苦闘の生涯は、現在でもあらゆる十勝産業の基盤整備の「礎」として高く評価されています。

「ますらをが心定めし 北の海 風吹かば吹け 浪立たば立て」という歌は、依田勉三が若き頃詠った歌とされています。「ますらを」とは、「益荒男」と書き、りっぱな男、勇気のある強い男を意味します。

勉三が北海道入植を決意した際、その強い志を周囲に示すために歌ったものであり、現在でもこの歌だけは、入植者の心意気を示した歌として帯広市民だけでなく、道内では広く知られているようです。

勉三の死後から、16年後の昭和16年(1941年)帯広神社前に銅像が建立され、この銅像は戦時中に金属応召によって供されましたが、昭和26年(1951年)7月に銅像が再建されています。

昭和29年(1954年)9月には北海道開拓神社(現北海道神宮)に勉三は合祀されました。

帯広市の菓子メーカー六花亭が作るお土産物として有名なお菓子、「マルセイバターサンド」は勉三等の晩成社を記念したものだそうです。

このように、帯広開拓を通じての勉三の生涯はけっして平坦なものではなく、その結果も本人に報いるようなものではありませんでしたが、彼の苦闘の生涯は多くの開拓民の中にあっても代表的なものとして数多く記録に残され、その後の北海道を形成した開拓精神を培った人物として高く評価する人も多いようです。

その出身地である伊豆においても、昭和60年(1985年)の4月、出身地である松崎町では勉三と兄の佐二平、土屋三余の3人の偉業を讃え、第1回中川三聖まつりが開催されました。以後毎年4月第1日曜日に開催され、現在に至っています。

北海道でも、平成元年(1989年)に、明治26年(1893年)から大正4年(1915年)頃まで勉三が当縁村生花苗で住んだ住居が復元され「依田勉三翁住居」として大樹町の史跡の一つになるなど、もうすぐ死後100年になろうとしている昨今、その業績を再評価する動きも高まっているようです。

10年ほど前の平成14年(2002年)には、勉三が十勝の開拓を始めた開基120年を記念して、勉三の生涯を綴る映画「新しい風 – 若き日の依田勉三」が製作され、この作品は第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いたそうです。

勉三役は北村一輝さんだそうで、無論私もこの映画はみたことがありませんが、今度TSUTAYAででも探してみようかと思っています。みなさんもビデオ屋さんでみかけるかもしれませんので、気に留めておいてください。

さて、今日も今日とて長くなりました。この項は終わりにします。

明日はひさびさの雨模様のようです。せっかくの週末なのに……ですが、あさってには回復するとのこと。このあいだ行けなかった、奥の院にも行かなくてはいけません。新緑は始まったばかりかと思っていましたが、日に日にその緑も深くなりつつあります。

手遅れにならないうちに、思う存分、新緑狩りに出かけることにしましょう。

頼母のこと


昨日話題として取り上げた、西郷頼母については、少々書き足りないことがあったので、今日それについて少し補足したいと思います。

多くの人が、この「西郷」という苗字が、あの薩摩藩の西郷隆盛と何等かの関係があるのではないか、と思うでしょうが、その推察は「当たり」です。

武家として名を残した西郷氏の中では、室町時代の九州北部で勢力を振るった肥前(現熊本県)の伊佐早(後の諫早)の西郷氏が歴史の古い名族として知られています。この肥前西郷氏は、同じく肥前での有力武将、菊池氏の一族であり、江戸時代以降には、その一族を称する家の中から多数の著名な人物を輩出しました。

例えば、三河の国人領主から徳川家康に仕えて大名にもなった三河西郷氏がそれであり、会津における西郷頼母の西郷家は、この分家になります。頼母ら幕府軍と敵対する官軍の総大将になった西郷隆盛は、元は薩摩藩の下級藩士であり、この隆盛の西郷家もまた、肥前西郷氏から古い時代に分かれてできたものです。

従って幕末の世にあって奇しくも西郷頼母と西郷隆盛は、官軍と幕府軍という敵対関係にはあったものの、そのルーツをたどれば、同じ一族であるということになります。

実はこの二人、幕末の慶応の時代にすでに知り合いだったという記録があり、実際、隆盛と頼母がやりとりした手紙が残っているということです。

どの程度親しかったのかについては不明ですが、頼母が明治8年(1875年)に、福島県の東白河郡にある都都古別神社(つつこわけじんじゃ)の宮司となったころ、西南戦争が勃発し、この際、頼母は西郷隆盛と交遊があったとして、謀反の罪を着せられかけています。

結局は、はっきりとした証拠もなく罪は免れましたが、このことがきっかけで宮司を解任されています。その後、頼母は今度は日光東照宮の宮司の職に就きますが、明治13年(1880年)にはこれを辞して自由民権運動に加わり、政治活動に身を投じています。

政治活動に加わったという事実から、隆盛と共同での謀反論はあながち根拠がないともいえませんが、逆に考えればこうしたあらぬ疑いをかける新政府への反感から、民権運動へ身を投じるようになっていったのかもしれません。

……と、書きだしてはみたものの、話が前後して、わけがわからなくなりそうなので、ここでもう一度、西郷頼母という人物の経歴をみていきたいと思います。

その生まれは、1830年(文政13年)であり、明治36年(1903年)に73才で亡くなっています。前述のとおり、その生家は菊池氏族の流れを持つ西郷氏であり、三河西郷家の分家が会津に定着してできた家系になります。

三河西郷家は、もともとは室町時代に仁木氏の守護代を務めた名家でしたが、やがて勢力を拡大させる松平家に臣従し、その後、徳川政権下で御三家や有力譜代の家臣として存続し続けます。徳川家康に仕えて大名も輩出しており、会津藩の藩祖である保科家同様、徳川家譜代の名家ともいえます。

このため、家紋も会津藩の祖である保科家と並んで、九曜紋を許されており、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄となり、西郷頼母の代では9代目となっていました。

明治維新後、頼母は苗字を西郷から保科へと変えていますが、これも西郷家が旧藩主であった保科家と同等の格式を持っていたという証拠です。

なぜ保科を名乗るようになったのかはよくわかりませんが、おそらく旧藩主の松平容保から、保科の名を名乗るようにと許されたのではないかと思われます。

もともとは西郷家は保科家と縁戚関係もあり、保科家の「分家」の扱いになっていたようです。しかし、幕末までは保科家のほうがランクは同格とはいえ、藩主の血筋の名前を名乗るのははばかられたのでしょう。

しかし、明治になってからはそうした遠慮も必要なくなり、頼母に更に一ランク上の藩祖の名を与えることで、幕末からの動乱の中で会津藩を支え続けた頼母をねぎらい、恩賞としたのではないかと考えられます。

さて、会津藩の家老職になって以降、明治までのその足跡は昨日書いたとおりですが、少しだけ振り返りましょう。

1860年(万延元年)、30才で家督と家老職を継いで以降、藩主・松平容保に仕えますが、容保が幕府ら京都守護職就任を要請された際に、これを辞退するよう進言したために、容保の怒りを買い、蟄居を命じられます。

その後、明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許され、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていましたが、新政府側からの容保親子の斬首要求に態度を一変。

一転、白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃しましたが、新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥。若松城に帰参した頼母は、容保に再び恭順を勧めますが、会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。

意見の折り合わぬ頼母は、他の藩主から命を狙われるまでになり、やむなく長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することになりますが、この際、母や妻子など一族21人が自邸で自刃しています。

会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなります。この間、明治3年(1870年)、40才で頼母は保科に改姓し、保科頼母となっています。

そして明治5年(1872年)に赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となったというのが、昨日まで書いたストーリーでした。

その後、謹申学舎塾で塾長を二年ほど勤めた頼母は、明治8年(1875年)、45才で前述の都都古別神社(現福島県東白川郡棚倉町)の宮司となりますが、西郷隆盛との交遊を疑われ、宮司を解任されてしまいます。

このためやむなく頼母は、同じ福島県内の、伊達郡霊山町にある霊山神社に再び宮司として奉職し、ようやく生活は落ち着きを見せます。

ところが、明治12年(1879年)には、会津を共に脱出して長年苦楽を共にしていた長男の吉十郎が22歳で病没してしまいます。

先妻や一族のほとんどを会津戦争で失っていた頼母にとって、最愛の息子の死による悲嘆がどれほどのものだったでしょう。想像するだけで心が痛みます。

しかし、同年、会津藩士で妹の夫、つまり義理の甥の志田貞二郎の三男として若松に生まれ、3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移り住んでいた志田四郎を養子とします。

実は頼母は、西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門という、「御式内」と呼ばれる柔術と陰陽道を学んでおり、その達人だったとも言われています。

後年、明治31年(1898年)に霊山神社を訪ねた武田惣角という会津出身の武術家に、「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と指導し、これに薫陶された武田惣角は、その後、達人とまでいわれたその剣術の修行をやめ、大東流合気柔術の修行に専念するようになったといいます。

この大東流合気柔術というのは、柔道と合気道の合いの子のような武術のようで、現在も武田惣角の大東流合気柔術を継承する会派や武術教室が全国に多数あるそうですが、柔道における講道館、合気道における合気会のような広く認められる中心的な組織はないそうです。

その大東流合気柔術の祖ともいえる人物に伝授したほどですから、頼母の柔術の腕前はかなりすごかったのでしょう。養子とした16才の志田四郎、改め西郷四郎にも丹念にその義技術を伝え、その結果、四郎は成人した後、柔道家として大成することになります。

1882年(明治15年)といいますから、頼母の養子となってすぐのこのころにはもう頼母によって柔術の基礎を学び終えていたのでしょう、四郎は単身上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校(新宿区原町)に入学。

ここに通いながら、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍します。そして1883年(明治16年)には初段を取得。

1886年(明治19年)に行われた警視庁武術大会では、講道館柔道は柔術諸派に圧勝しますが、このとき四朗は有力候補といわれた戸塚派揚心流の好地圓太郎に勝ち、大いに講道館の名を高めました。

この試合は両流派のホープと目されていた二人の試合であったことから、一般からも高い注目を集めており、この試合に勝ったことで、四朗の名は一躍日本中にとどろくようになります。そして、これがあの小説や映画で名高い「姿三四郎」の誕生の瞬間でした。

講道館柔道は、この戦いで勝利したことにより、その後警察の正課科目として採用されるようになり、これが現在の柔道大国日本の発展の起点となりました。

四郎は、1889年(明治22年)、23才のとき、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となりましたが、この洋行にかねてより反対する意見を持っており、嘉納が洋行中の1890年(明治23年)、「支那渡航意見書」を残し講道館を出奔。

その後、東アジア共同体を主唱する、いわゆる「大陸運動」に身を投じるなどの共産活動をめざすようになり、1902年(明治35年)からは、長崎で「東洋日の出新聞」の編集長を務めています。その傍ら、この地で柔道、弓道を指導し、また「長崎游泳協会」の創設にも関わり、同協会の監督として日本泳法の確立に尽力しました。

しかし、1922年(大正11年)、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。56才でした。没後、講道館からは六段を追贈されたといいます。

さて、頼母のほうの話に戻りましょう。四郎を養子に迎えた翌年の明治13年(1880年)には、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となり、このとき頼母は容保に請われて同神社の禰宜となります。

しかし、7年ほど務めあげたあと、明治20年(1887年)、57才でその職を辞し、突然、大同団結運動に加わるようになります。

大同団結運動というのは、帝国議会開設(第1回衆議院議員総選挙)に備えた自由民権運動各派による統一運動のことであり、このころ、自由民権運動は政府の弾圧によって衰微しており、その運動の中心であった自由党は解党、立憲改進党も休止状態にありました。

この前年の1886年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用などの大幅な譲歩が含まれていました。

これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされるようになります。こうした中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、言論の自由や地租軽減、対等な立場による条約改正などを訴える「三大事件建白」と呼ばれる建白書を提出しました。

これがいわゆる「三大事件建白運動」であり、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治を打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、旧自由党・立憲改進党の主だった人々に一致団結を呼びかけはじめたのが「大同団結運動」です。

それまで日光の禰宜として神事を奉職していた頼母が、それまでの静かな生活を捨てて政治活動に身を投じようと決心したその理由はよくわかりません。

しかし、1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる自由民権運動は、それ以降に徐々に混迷を深めていく薩長藩閥政府による政治に対する不信の表れであり、頼母のように新政府によって虐げられてきた旧会津藩などの幕臣にとっては、その憤懣をぶつけるためには、格好の起爆剤であったはずです。

憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの数々の要求を掲げた大同団結運動の始まりとともに頼母もまた、会津と東京を拠点としてこうした政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていました。

しかし、結局大同団結運動は対立する諸派の意見が折り合わずに瓦解。頼母もまたこれを機会に政治運動から身を引き、郷里の会津若松に戻りました。

その後は、かつて宮司を務めた福島県伊達郡の霊山神社に戻って再び神職を務めるようになり、ここで明治22年(1889年)から明治32年(1899年)の10年間を過ごします。

その後再び若松に戻り、明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で死去。享年74歳でした。墓所は最初の妻、千重子の墓とともに、会津若松市内にある善龍寺というお寺にあるといいます。

伊豆へ一緒に伴ったという「きみ」という女性のその後について調べてみたのですが、よくわかりません。記録にもあまり出てこない人物なので、後妻というよりは側女のような存在だったのかもしれません。また、格式を重んじる会津に帰った頼母にはあまり表に出てきてほしくない存在だったのかもしれません。

主君の松平容保は、幕府瓦解後、鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居しますが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられ、自らもれから間もなく蟄居を許され、前述のとおり、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となりました。

頼母同様、晩年こうした神社での神職に自らを奉じたのは、会津戦争で亡くなった多くの死者を弔うためでもあったといわれています。

容保は、その後正三位まで叙任し、明治26年(1893年)に東京・目黒の自宅にて肺炎のために死去。享年59才。死の前日には明治天皇から牛乳を賜ったといい、八月十八日の政変での働きを孝明天皇から認められ際に賜った、宸翰と御製を小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったといいます。

そして、会津戦争については周囲に何も語ることはなかったといいます。

これより更に10年長生きした頼母もまた、晩年にはあまり多くを語らなかったようですが、「栖雲記(せいうんき)」という自叙伝を残しており、この中には会津戦争で自決した子女たちの死に際の様子なども記載されています。

また、一人息子の吉十郎が22才で亡くなったときの心情も述べており、「ただ一人残った子を失った心中は、じつに切ないものであった」と書いています。

また、かつて箱館戦争においては、頼母は「山田家」という会津の家を継いだ弟の山田直節とともに政府軍に捕縛されますが、弟の直節は古河藩に幽閉された後に国家転覆の反逆を企てたとの疑いによって牢獄に繋がれ、そこで獄死しています。

頼母自身も弟に連座して逮捕されるところだったようですが、救う人があったために助かったと記されています。栖雲記にはこれが誰であったかは記されていませんが、この頼母を救った人物こそが、西郷隆盛だったともいわれています。

そして、この栖雲記には、長かった人生を述懐するような言葉が最後に記されています。

昔わが栖にし雲と尋れば涙の名残なりけり

昔住んでいた場所はどこだろうと探してみたが、涙の名残のごとく消えてしまっている、というような意味でしょうか。

会津、伊豆、日光と、各地を渡り歩いたあとの自分の足跡を探してみたけれども、結局は何も残っていない、といっているようで、何やら人生の空しさを感じさせるようなことばです。

会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるとの好意的評価が多い中、そうした他人のための人生はやはり自分のものではなかったと、最後に悟ったのかもしれません。

しかし、そうした悟りのようなものを最後の一瞬に感じることができたとすれば、その一生はけっして無駄ではなかったでしょう。

現在、会津若松市の東山町というところに、かつての会津の武家屋敷群が約7000坪もの広大な敷地の上に復元されているということです。家老だった西郷頼母のおよそ280坪の邸宅を中心として、旧陣屋など会津の歴史的建造物が軒を連ねているそうで、かつての会津の生活を再現した歴史館もあるそうです。

いつの日か、我々もここを訪れ、頼母の墓参もして、その一生をもう一度彼の地で振り返ってみたいと思います。ではいつ行くか。

……今日というわけにはいきそうもありませんが、年内中には行ってみたいものです。