ネコはツクモ神

酷暑は一段落したようです。

一昨日は伊豆も35度を記録し、我が家の温度計も34度まで上がり、さすがにいたたまれず、この夏、初めて日中からクーラーを入れました。

夏でも涼しい北海道では、クーラーすら入れていない家が多いといいますが、北のはての彼の地でも時折こうした熱波が襲うことがあり、そうした際にはクーラのない家では結構往生する、という話を聞いたことがあります。

それに比べれば、クーラーを完備している我が家ではかなりましといえるのですが、ところがクーラーのうちの一台が、長らく使っていなかったせいかなかなか起動しません。しかし、とうとうあきらめかけていたところ、夜になってあきらめきれずにもう一度トライしたら動き出しました。

おそらくは長い間クーラーを使っていなかったため、内部部品が錆びていたかなにかだと思われ、こうした機械モノはやはり普段から少しだけでも使わないとダメになるのだな~と改めて思った次第。

ウチだけでなく、電気代がもったいないからと、やせがまんでクーラーを使っていない方も、ときには起動させて、動作状況を確認しましょう。

ところで、この暑さのせいなのかどうなのかよくわかりませんが、我が家のアイドル、テンちゃんが、いつも普通に使っているおトイレで用を済ませず、その外でしてしまっているのをおととい発見。

その後もこのトイレを使わず、近くにあったネコ砂飛散防止のマットの上などでしていたことから、どうやらトイレかトイレの中のネコ砂に何らかの原因があることが予想されました。

おそらくはこの熱暑で何等かのバイキンが繁殖したか何かで、臭いに敏感なネコのことですから、これを嫌がったのではないかと推察はしてみたのですが、なにぶん人間である我々には認識できない領域のはなしです。

ともかく原因がわからなかったので、トイレと中のネコ砂ごと、まったく新しいものに変えたところ、新しいトイレを見た瞬間、それに近づき、中をおそるおそるチェックしたそのすぐあとに、私の目の前で用をたし始めました。

やはりトイレそのものが原因だったようです。そういえばいつもトイレの砂は頻繁に変えてやっているものの、ここ最近、トイレそのものの水洗いを怠っていたので、何等かの原因でネコが嫌がる臭いが発生するようになったのではないかと思われます。

それにしても気になることだったので、ネットで改めてネコの嗅覚について調べてみました。

そうしたところ、ネコの鼻は、イヌなどの他の動物に比べてそれほど優れているわけでもないようです。

ただ、ヒトと比べれば数万から数十万倍と言われる嗅覚を持っているそうで、ネコの鼻は体のバランスに比べて小さくできていますが、鼻腔内部は凹凸に富み、大きな表面積を持ち、小さな鼻の外観だけからは予想できない優れた嗅覚があるのだそうです。

イヌのように嗅覚を狩りに利用することはほとんどないといいますが、ネコの嗅覚は食物の峻別や縄張りの確認に主に使うと考えられているとのことで、ネコは頬腺(きょうせん)と呼ばれる場所から出す唾液や尿などによって、周囲のモノに自分の臭いを付け、縄張りづくりをします。

この臭い付けの行為は、仲間同士のコミュニケーションのためともいわれ、家猫では、飼い主やほかに飼われているネコに対して行うそうです。ネコが飼い主の足に顔をすり寄せるのは、頬腺などから出て顔の周囲にくっついている分泌物を付け、「自分の物」というマーキングをしているのだそうです。

この分泌物とやらも、我々の目や鼻では識別できないほど微量のもののようですが、ネコにとっては、これが敏感にわかるらしい。

従って、我が家のテンちゃん専用のトイレにも、何等かの他の生物の分泌物がついていたのかもしれません。考えられるのは私の大嫌いなゴキとかのほか、カメムシなどもあるでしょう。

ほかにも何等かのバイキンの繁殖とかも考えられますが、ともかく、我が家と同じようにネコを飼っていらっしゃる方は、暑いときや梅雨時のトイレ掃除はかかさないようにしましょう。

さて、ネコの話題に入ったので、今日はついでながらネコ話を続けていきましょう。

ペットとしてネコを飼育した例で、現在知られている世界最古のものとしては、トルコ南部の地中海にあるキプロス島のシロウロカンボス遺跡で確認された、人骨とともに埋葬遺体として発見された1匹のネコの骨だそうです。

紀元前8千年紀中盤、約9500年前のものだそうで、新石器時代もしくは石器時代後期から人類がすでにネコをペットとして手なずけていたことを示唆するといわれています。

またこれより後の古代エジプトの時代でも、ネコがライオンの代わりとして崇拝されていたり、「バステト女神」という神様として神格化もされていました。さらに後年の中世ヨーロッパでもネコは麦穂の精霊と同一視されており、中国でも、けものへんに苗、すなわち「貓」と書くように、その語源は稲穂の精霊だそうです。

日本名の「猫」もこの中国から伝わったもののようですが、その読みの「ネコ」は、「ネズミを好む」の意で、古くは「禰古末(ネコマ)」と書き、これは「鼠子(ねこ)」つまりネズミを「待つ」という意味の言葉「ネコマチ」が「ネコマ」に変じたものではないかといわれています。

このほか俗説としてよく言われるのが、「ネコ」は眠りを好むことから「寝子」と呼ぶようになったという説。また虎に似ていることから「如虎(にょこ)」が語源ではないかという解釈もあって、「ネコ」という読み方については、さまざまな説が存在しています。

その人間との付き合い方については、古代では蓄えられた穀物や織物用の蚕を喰うネズミを駆除する益獣として扱われ、とくに農家に親しまれていたといい、ヘビ、オオカミ、キツネなどとともに、豊穣や富のシンボルとして扱われていたようです。

とくに奈良時代頃から増え始めたようで、これは中国からの仏教の伝来と同時に、経典などが大事にされるようになり、これらの文書をネズミの害から守るためのネコが中国から輸入されたことによります。

ただここのころはまだペットとしてではなくあくまで益獣としてであり、愛玩動物として飼われるようになったのは、「枕草子「や「源氏物語」にも頻繁にネコが登場する平安時代からだとされています。

この時代に、宇多天皇という天皇がいましたが、彼の日記には、宇多天皇が父の光孝天皇より譲られた黒猫を飼っていた、という記述があるといいます。

さらに後年の鎌倉時代には、武将の北条実時が建設した金沢文庫の中に、南宋から輸入したネコによって典籍をネズミから守っていたと書かれた文書が残っており、同時代に書かれた「今昔物語」にも、加賀国(現石川県)で、の蛇と蜈蚣(むかで)が争う島でネコが人を助ける話が書かれた「猫の島」という物語が掲載されているとのことです。

平安時代には位階を授けられたネコもいて、「枕草子」にその話が出てきます。それによると、藤原道長が権勢をふるっていた時代に即位した一条天皇とその妻の定子は非常な愛猫家だったそうで、その愛猫に「命婦のおとど」と名付け、位階を与えていたといいます。

命婦(みょうぶ)とは、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性のことをいい、またおとどとは、おそらくは「御殿」と書いたとおもわれ、要は官位をもったお殿様、といった感じで愛情をこめたニックネームでしょう。

ある日このネコが翁丸(おうまる)というイヌに追いかけられて天皇の懐に逃げ込むという事件があり、怒った一条天皇は翁丸に折檻を加えさせた上でなんと島流しにまでしたそうです。

ところがその後、翁丸はボロボロになった姿で再び朝廷に舞い戻ってきて、天皇に向かって頭を垂れたといい、人々はそのけなげさに涙し天皇も深く感動したという話が残っています。

ネコに官位を与えたり、犬を島流しにしたりと、この時代には朝廷にいるペットすら人間並みであったことがうかがえますが、十二単を着たネコや、ボロになって着流しをまとったイヌが想像されてちょっと滑稽なかんじがします。

ただ、ネコに位階を与えたのは、結構真面目な理由からだったようで、この時代は従五位下以上でなければネコといえども昇殿が許されないためであり、そうした高位の地位にあるネコをいじめたイヌは当然島流しという感覚だったのでしょう。

このように、日本に伝来してきて直後のネコはまだ、貴重な愛玩動物扱いであり、経典などを守るための鼠害防止の益獣としての使用も限定されていたようです。

放し飼いにされていたイヌと異なり、ネコはもっぱら屋内、またはつないで飼育する動物であり、絵巻物等にも魔除けの猿同様に紐・綱等でつながれて逃げないように飼育されているネコの様子が多数描かれています。

江戸時代前までは、貴重なネコを失わないために首輪につないで飼っている家庭も多かったようで、このため、江戸に入ってからは初代将軍の家康の時代の慶長7年(1602年)に、猫の綱を解き放つことを命じる高札が出されたところ、江戸市中で鼠害が激減したと言われています。

とはいえ、江戸時代もまだネコはかなり貴重な存在であり、江戸はともかく、全国的にはネコを飼っている家庭も少なかったことから、ネズミを駆除するための呪具として「猫絵」を描いて養蚕農家に売り歩く者もいたそうです。

日本各地には、猫に縁が深い寺院が多くあり、これらは地元の人たちから「猫寺」と呼ばれていることがありますが、これらのお寺には猫に救われたり、または祟られたりしたため、猫を祀った由来を持つものが多く、こうした寺には例えば絵に描かれたネコが古寺で大ネズミに襲われた主人の命を救う、といった話も残っています。

ネコの効用を説く猫絵師などが深く関わって、地方を流布した説話がこうしたお寺に残り、やがては地元のひとたちからは猫寺と呼ばれるようになったのでしょう。

やがて江戸時代中後期になると、ネコは繁殖によって数を増やし、一般の庶民・農家にも広まっていきましたが、それと同時に、ネコが人々を災いや病から救う救世主であったり、ネズミの害を防ぐ穀物霊として崇拝するという習慣は次第に失われていきました。

この江戸時代のいつのころのことからかわかりませんが、その後、ネコは妖魔や妖怪といった「あやかし」といわれるような存在に変じていくようになります。

ネコはだいたい、20年ぐらいが寿命といわれますが、これ以上生き、さらに50年を経るような老猫になると、尾が分かれ、霊力を身につけて「猫又」という存在になるといわれています。

この猫又は、ひとえに妖怪のような怪しい存在とばかりはいえず、地方によってはこれを、家の護り神となると考えたりするところもあり、解釈はさまざまです。

この「尾が分かれる」という言い伝えは、ネコはかなりの老齢に達すると背の皮がむけて尾の方へと垂れ下がり、二股に分かれて見えるようになることが元になっているといわれます。わたしはこうした老猫をみたことがありませんが、実際に尾が数本に見えるネコがテレビ番組で紹介されたこともあるそうです。

長い間飼った古猫は化ける、とされるのは、こうして長い年月を経て古くなったり、長く生きた依り代(道具や生き物や自然の物)には、神や霊魂などが宿るとされる日本の民間信仰における観念であり、こうした神格化された文物や道具、またイヌやネコのようなペットは、付喪神(つくもがみ)という存在になると考えられてきたためです。

こうして神や霊魂などが宿ったものは、荒ぶれば禍をもたらし、和(な)ぎれば幸をもたらすとされ、荒ぶる神の良い例としては、「九尾の狐」があり、和ぎる神としては「お狐様」がその代表です。

「付喪」自体は当て字で、正しくは「九十九」と書き、この九十九は「長い時間」つまり、99年にも及ぶ期間を示し、また「多種多様な万物」つまり99種類などの意味を持ちます。

古代から、「神さび」という言葉がありますが、付喪神もこれと同義であり、古くから使われ、長く生きたものや、古くなったものはそれだけで、神聖であり神々しいとされてきたわけです。

日常の道具なども長く使ったものには神が宿るとされており、例えば柄杓や臼といった日常用具さえも神格化し、このほか庭にある古木を神籬(ひもろぎ・木々のこと)として祀ったり、石なども磐座(いわくら・岩や山のこと)として信仰したりしてきました。

これらの価値観をもたらす背景には、道具や家畜などを「大切に扱い手入れを絶やさぬように」という教訓的なものや、手入れがおろそかになっている古道具を安易に用いることによる破損や事故の回避の意があり、長く身の回りの役に立ってくれた道具や家畜・愛玩動物に対する感謝の心としても解釈されます。

従って、こうして丁重に扱われ、付喪神となったネコが、可愛がられたゆえにそのご主人に恩を返すといった古民話や伝承も数多く残っています。

貧乏な寺に飼われていたネコが、世話になった恩返しのため、飼い主の和尚に手柄を立てさせる「猫檀家」という説話があります。

この話は、幼児受けしないためかあまり絵本にはなったりはしていないようですが、日本の昔話・民話の類型の一つです。

各地に伝承があり、典型的なあらすじは、こうです。

ある寺が貧乏の挙句、食事にも事欠くほどになり、寺の和尚さんはずっと飼っていたネコに泣く泣く暇を出すことにしました。

するとこのネコは、和尚さん和尚さん、近いうちに長者の家で葬儀があるだで、その時にお手柄を立てさせてあげるから、追い出すのはやめて、といって、和尚さんにある秘策を授けます。

ある日のこと、ほんとうにその村の長者が亡くなり、葬儀が営まれることになりました。この長者の家は和尚さんの檀家ではありませんでしたが、和尚さんも長年の付き合いがあったため、この葬儀に呼ばれて参列していました。

亡骸を納めた前で、別の寺から呼ばれた坊主たちが読経を始めたところ、驚くなかれ、この棺桶が突然、中空に舞い上がりました。

驚いた参列者たちが驚き、その場にいた僧侶たちは必死に祈祷するものの、棺桶は動きません。これをみていた和尚さんは、ネコが言っていたことを思い出し、咄嗟に経を唱えはじめたところ、やがてするすると棺桶が降りて来て、静かに元の位置に戻りました。

こうして、長者の家では無事に葬儀を済ますことができ、この一件でこの貧乏寺の和尚さんの名声は一気に広まるところとなり、多くの家がこの寺の檀家となり、寺は後々まで栄えたといいます。

話の中、葬儀の棺桶が持ち上がったのは、無論、貧乏寺のネコの仕業であり、長年世話になった和尚への恩返しです。

ところが、日本中に残るこの猫檀家の話の中には、ネコが火車(葬式や墓場から死体を奪う妖怪)に化けて葬儀を襲うなど、ネコを妖怪と見なして語られているものもあります。

寺が貧乏に喘いでネコに暇を出すのではなく、ネコが踊り出したのを見て追い出すといった具合に、怪異性をともなっている場合もあるようで、必ずしもネコを善玉として扱っているものばかりではないようです。

このように地方に残る「猫檀家」などで悪役としてネコが登場するのは、「ネコは死体を盗む」「老いたネコは火車に化けて葬儀を襲い、亡骸を奪う」といった、俗信を持つ地方のようです。

とくに、九州などの西南地方では猫又=火車とする伝承が多く伝わっており、ネコと葬儀との関連性に関しては、この地方ではネコの魔力を封じる呪法に僧侶たちが深く関っていたため、こうした話にすり替わっていったようです。

このように、ネコは善玉としてよりも悪玉妖怪として登場する例のほうが、民話や伝承の類ではむしろ多く、とくに「鍋島騒動」を始め、「有馬の猫騒動「などといった講談で語られる化け猫の話は有名です。

このほか、山中で狩人の飼い猫が主人の命を狙う「猫と茶釜のふた」や、鍛冶屋の飼い猫が老婆になりすまし、夜になると山中で旅人を喰い殺すという「鍛冶屋の婆」、歌い踊る姿を飼い主に目撃されてしまう「猫のおどり」などもあります。

さらに、盗みを見つけられて殺されたネコが自分の死骸から毒カボチャを生じて怨みを果たそうとする「猫と南瓜」などなど、これらの話では付喪神と化したネコはいずれも悪役として扱われています。

死者に猫が憑いたり、死者の骸を盗むといった類の話が、岐阜県や佐賀県、愛知県にあり、岐阜県の例では、ネコが死者をまたぐと「ムネンコ」が乗り移り、死人が踊り出すと言われ、ネコを避けるために死者の枕元に刃物を置いたり、葬式のときにはネコを人に預ける、蔵に閉じ込める、といった風習があったそうです。

愛知県の知多郡、日間賀島に伝わる話では、百年以上も歳経たネコの妖怪を「マドウクシャ」と呼び、これが死者の骸を盗りにくるため、死人の上に筬(おさ、機織機の部品)を置いてこの怪を防ぐそうです。

このように、江戸期以降の猫は、化け猫として扱われることが多くなってしまいましたが、そもそも昔は、蚕を守ったり、経典を守ったりしてくれるありがたい存在であり、こうした名残は、ネコを「猫神」として祀る風習として各地に残っています。

養蚕がさかんだった宮城県内には、猫の石碑が51基も残っているそうで、このほか岩手県にも8基、福島県と長野県にも6基ずつその存在が確認されています。さらに、宮城県には猫神社が10カ所あることも確認されており、これは江戸時代に養蚕が盛んだった宮城県南部に集中しています。

宮城県内では、ネコは、漁業の神様としても祀られており、仙台湾(石巻湾)に浮かぶ田代島では、「猫神様」が島内の猫神社に祀られています。この島では、ネコが大事にされており、ネコが大好きなアマチュア写真家からは「ネコの島」として良く知られており、有名な動物写真家の岩合光昭さんも撮影のためにたびたび訪れています。

田代島沿岸では、気仙沼周辺から来る漁師と島民によって漁業が営まれ、昔から島内にいくつもの番屋(作業小屋兼簡易宿泊所)が設置され、番屋に寝泊りする気仙沼漁師らの食べ残しを求めてネコが集まるようになり、漁師とネコとの関係が密になって、ネコの動作などから天候や漁模様などを予測する風習まで生まれたそうです。

ところがある日、漁網を設置するため、重しの岩をある漁師が採取していたところ、崩れた岩がネコに当たり死んでしまったそうです。これに心を痛めたここの網元がその死んだ猫を葬ったところ、その後大漁が続き、海難事故もなくなったとか。そのため、葬られた猫は猫神様となり、島内で猫が大切にされるようになったという伝承が残っています。

同島には昔からイヌはおらず、島内へのイヌの持ち込みも島民から拒否されるほどの「ネコの島」が現在も維持されているそうです。が、一昨年の津波地震のときに、流された猫も多かったそうで、しかも震災直後の島はエサ不足だったため、猫が減った時期もあったようです。しかしその後、子猫が次々に産まれ、猫の数は回復しているとのこと。

このほか、養蚕がさかんであった、東京多摩地方の、立川市にも「立川水天宮」内に「蚕影神社」があるそうです。ここも蚕の天敵であるネズミを駆除する猫を守り神として祀っており、飼い猫の無事や健康、いなくなった飼い猫の帰還に利益があるとされ、「猫返し神社」として呼ばれ、親しまれているといいます。

このほかにも日本人は「招き猫」がそうであるように、ネコには人間に益する特別な力が備わっていると考える向きも多く、現在ではペットブームもあいまって、ネコを悪玉扱いする向きはほとんどないと考えていいでしょう。

しかし、日本でネコを飼われている数は350万頭程度だそうで、アメリカの6000万頭には遠く及びません。アメリカやイギリスは、大の猫好きで知られており、アメリカでは30%以上、ヨーロッパでは24%以上の家庭でネコが飼育しているといいます。日本では18%前後だそうですから、これらの国に比べればまだまだです。

さて、ネコ好きがあいまって、ずいぶんと枚数を重ねてきてしまいました。そろそろ終わりにしましょう。

今日は、お盆三が日の中日ということで、何かこの別荘地もいつになく静かなかんじがします。さきほど、どこかの家からポンポンという音が聞こえてきたのは、お坊さんを呼んでの読経でも始まったのでしょう。

我が家では息子ともども一家そろってのネコ好きですが、亡くなった先妻もネコが大好きでした。そんな先妻を弔って、我が家でもお線香をあげ、故人に祈ろうと思います。

そんな中、我が家の「付喪神」テンちゃんはというと……いましたいました。一階北側の涼しい風鈴の音のする窓際で、静かに眠っています。その窓の向こうの伊豆の空には、今日も静かに風がそよいでいます……

招き猫

今日、9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」ということで、副を招きよせる「招き猫の日」なのだそうです。

と、いうことは、2月29日は、副が逃げる日なので、「あっち行けニャンの日」ということになるのでしょうか。ネコが嫌いな人には良い記念日になるかも。が、愛猫家としては、断固としてネコの駆逐には反対です。税金を上げる前に、ネコ保護法を作ってもらいたいくらいです。

……冗談はさておき、今日はその「招き猫の日」ということで、この週末の土日を中心に、三重県の伊勢市や、愛知県の瀬戸市、長崎県の島原市などでは「来福招き猫まつり」なるものが開催され、毎年大勢の人で賑わっているそうです。

この招き猫、もともとはネコが農作物や蚕を食べるネズミを駆除してくれるため、養蚕業を営む人たちの縁起物として造られたようです。これがなぜ養蚕業以外の商売全体の縁起ものに担ぎ上げられたのかについては後述するとして、江戸時代には既に商売繁盛のマスコットとして全国で大人気になっていたようです。

右手(前足)を挙げている猫は金運を招き、左を挙げている猫は人(客)を招くとされています。私は見たことがないのですが、両手を挙げたものもあるのだそうで、これは「金」も「客」の両方を招きよせるということなのでしょうが、欲張り過て「お手上げ万歳」になるからやめたほうがいい、という人もいます。

一般的にみられる招き猫はほとんどが「三毛猫」風で、茶、黒、白の三色ネコです。ちなみに本物の三毛猫は99.9パーセントが♀だそうで、オスのミケは1000匹に一匹いるかいないかということです。これは、メス猫になるネコだけが、毛並がオレンジ(茶色)になる遺伝子を持っているためだそうで、ウチのテンちゃんも茶色を持っていて、メスです。

招き猫として教育したことがないので、本当に招き猫かどうかわかりませんが、いまのところ、テンちゃんのせいで災いがあったということはありません……

……さて、一般的なミケ招きは、「幸運を招く」として、全般的に運気上昇を願う招き猫とされています。招き猫として売られているものは、このほかにも白や赤、黒色の他に、ピンクや青、金色のものまであります。

色によってその「使用目的」が違うそうで、青い色の招き猫は、「学業向上」や「交通安全」用だそうです。また、ピンク色の招き猫は、「恋愛成就」。黒いのは、「魔除け」や「厄除け」もしくは「家内安全」とされているようで、これはネコが夜でも目がみえることから来ているようです。

白い招き猫は、お稲荷さんの白狐から来ているのではないか、ともいわれており、これは三毛猫と同じく、一般的な「幸運を招く」または「副を招く」ネコだそうです。赤い猫は、江戸時代に赤い色の服やはぎれを身に着けると、疱瘡や麻疹が治るということで、こうした病気が嫌う色、ということで、「無病息災」の意味を持ちます。

そして金色のネコ。これはやはり「金運」でしょう。江戸時代には金色の顔料は高価でしたから、出てきたのは最近かと思われます。右手を挙げている招き猫はそもそも金運アップ用なので、これを金色に塗ることで、さらに金運アップということになるようです。しかし、あまり欲張りすぎると、「お手上げ」になるかも。

この招き猫、日本一の生産地は愛知県の常滑市だそうです。常滑市といえば中部国際空港のある市として近年有名になりましたが、同県の瀬戸市と同じく陶器の産地として有名なところです。瀬戸市も招き猫の「名産地」で、いずれも陶器製の招き猫を作っています。

このほか、群馬県の高崎市でも招き猫を作っていますが、こちらは張子の招き猫です。高崎は毎年1月に行われる「だるま市」で有名なところで、同じく張子の達磨を作っており、同じ業者さんが招き猫も作っているのでしょう。

最近は中国でも、街角でモーターで手を振る機能を備えた、金色の招き猫が増えたそうで、この「中国産」のネコの多くは左手に「千両小判」を持っているのだそうです。

なので、昔から中国にあったわけではなく、多分日本の招き猫を意識して作ったのだと思います。ドラえもんやディズニーなどのアニメキャラのぱくりの多いことで有名な中国ですが、招き猫を「開発」するにあたっては、ただマネするだけでは、「著作権」の侵害になると思ったに違いなく、電動にすればいいと思ったに違いありません。

アメリカでも、ニューヨークの中国人街では招き猫はポピュラーな存在だといいます。こちらは「正統派」の招き猫が置いてあることが多いようで、レストランの入り口などに日本のものとほぼ同じ型の招き猫がよく置かれています。

おそらく同じくニューヨークにある日本人街の日本人から影響を受けたのでしょう。ヘンなマネなどせず、素直に他国の文化を受け入れている中国人街の中国の人たちはエライと思います。

ちなみに、招き猫はアメリカでもお土産用や輸出用として製作されています。”Welcome Cat” とか “Lucky Cat” と呼ばれ、ペニーなどの硬貨を手にもった”Dollar cat”というのもあります。

ただ、アメリカの招き猫は、日本の招き猫が、手のひらを下に、甲を上に向けて「招く」のに対し、手のひらを上に向け、指を上にまげ「カムカム」と言っているようなしぐさをしています。

日本では、手招きのジェスチャーでは、手のひらを下にして「おいでおいで」とするのが普通ですが、欧米では手の甲を下にして、指先をまげて「カムカム」としながら人を呼びます。欧米では、手のひらを下にして指先を振ると、見ようによると、「あっちゃへ行け」ととられるためです。日本における「しっしっ」と同じですよね。

文化の違いというのは、こういう作りモノにも出てきます。面白いですね~。

さて、この招き猫の由来が日本でポピュラーな縁起物として普及した由来としては、有力な説が二つあります。

浅草神社由来

そのひとつは、1853年(嘉永5年)に記された「武江年表」という江戸の地誌書に書かれていた逸話です。これによると、江戸時代の初期、浅草の花川戸(現台東区花川戸町)に住んでいたおばあさんが、貧しさゆえにかわいがっていた猫を手放したのだそうです。

そうしたところ、ある夜、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にして祀ったら福徳が授かるニャン」と言ったといい、おばあさんがその猫の姿の人形を「今戸焼(この周辺で今も造られている素焼きの焼き物)」の職人に頼んで土人形にしてもらいました。

近所の浅草寺三社権現で売り物にしたところ、たちまち評判になって大売れし、そのおかげでおばあさんはお金持ちになったといいます。

これが招き猫の発祥の一つと言われ、同じ浅草にある「今戸神社」では、昭和50年代ころから、「招き猫発祥の地」「縁結びの神」として看板を掲げ、多くの招き猫が奉られるようになりました。

もともとの発祥の地は浅草寺であるはずで、古い文献等には招き猫と今戸神社との結びつきを示す記録は見当たらないのだそうです。なので、今戸神社が招き猫のメッカになったのは、おそらくそのころ始まった「招き猫ブーム」に今戸神社側が乗っかったということのようです。

しかし、まるで関係がないというわけでもなさそうで、今戸神社の前身の旧今戸八幡が、今戸焼の産地である浅草今戸町の産土神であったこととも関係しているようです。ただ、現在今戸神社より授与されている招き猫の形状は、江戸時代や明治時代の今戸焼製の招き猫の伝世品や遺跡からの出土品とは少し違っているとか。

浅草寺三社権現(現浅草神社)で造ら得た招き猫の原型は、丸〆(まるしめ)のネコといい、今も浅草神社に江戸時代のものが保管されているそうで、公開されているかどうか知りませんが、オリジナルを見たい方は浅草神社まで行くしかなさそうです。

伊井直孝

さて、招き猫の発祥とされる、もうひとつの有力な場所は、東京都世田谷区にある「豪徳寺」です。小田急線に同名の駅があり、ここからは歩いて10分ほどのところ。たしかその昔、私もすぐそばまで行ったことがあるように思うのですが、記憶によればなかなか豪壮なお寺さんだったと思います。

このお寺さん、江戸時代の彦根藩第二代の藩主、「井伊直孝(なおたか)」が寄進して今のような立派なお寺になったといいます。

彦根藩の伊井家といえば、幕末に強権を発して「安政の大獄」などを執行したために、志士たちの反感を買い、江戸城の桜田門外で暗殺された人物として有名な「伊井直弼(なおすけ)のご当家です。

直弼は1815年生まれ、直方は1590年生まれですから200年以上も前のご先祖となりますが、伊井家はこの直孝のおかげで、江戸幕府きっての名家として幕末までその権勢をふるうことができるようになりました。

この直方さん、なんと静岡県生まれで、今の焼津市でその生を得ました。焼津はこの当時、駿河国中里と呼ばれており、駿河でも名家の誉れ高い伊井家の当主、「伊井直征」の二男として生まれました。

伊井家は、代々徳川家の家臣の筋で、戦国時代には、戦国屈指の精鋭部隊として有名な「伊井の赤備え」を有し、家康の天下取りを全力で支えました。その当主の直政は、徳川氏きっての政治家・外交官としても名高く、北条早雲を攻める小田原征伐などでは大きな武勲を立てるなど活躍していました。

しかし、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いのときの鉄砲傷が原因で病死したため、その長男であった、直勝が直政の跡を継ぎ、関ヶ原の恩賞として与えられた領地の近江・佐和山藩の藩主となります。このころ、直孝も佐和山城に移り住みました。

しかし、直勝が幼少であり、かつ病弱だったため家臣がまとまらなかったといい、それを心配した徳川家康は、伊井家の相続に介入。その裁定により、伊井家本来の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは直孝に配属されました。

しかし、井伊家の領地のうち直孝は街道筋に近い一等地の彦根を継承し、直勝はより田舎の上野安中の所領を継ぎます。家康は伊井家をまとめるためには直孝のほうが適していると考えたのです。

しかし、兄の家督はそのままに、直孝はその後しばらくは江戸で家康の長男の秀忠の近習として仕えるなどして過ごします。しかし、徐々にその才覚が認められるようになり、慶長13年(1606年)に書院番頭となって、上野刈宿5000石を与えられます。

さらに二年後には上野白井藩1万石の大名を任じられるとともに幕府の大番頭に任じられ、慶長18年(1613年)には伏見城の番役まで任されるようになりました。

ところが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、家康に井伊家の大将に指名された直孝は大失態をおかしてしまいます。大阪城の真田丸を守っていた真田信繁勢の挑発に乗り、突撃したところを敵の策にはまってしまい、信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出してしまうのです。

後に先走って突撃したことを軍令違反と友軍の将からは咎められましたが、家康が「味方を奮い立たせた」とかばってくれたため、処罰はされずに済みました。

そればかりか、翌慶長20年(1615年)には井伊家の家督を継ぐよう、家康から正式に命じられ、伊井家の所領18万石のうち彦根藩15万石を直孝が拝領し、直勝は安中藩3万石の領主となることになりました。

そして、続いて起こった大坂夏の陣においては、藤堂高虎と共に先鋒を務め、敵将木村重成と長宗我部盛親を打ち破り、冬の陣での雪辱を遂げます。さらに秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し、大阪城に向かって大砲を打ち込み、これにおののいた秀頼親子を自害に追い込むという大任を遂げます。

こうして、伊井直孝はその勇猛さを「井伊の赤牛」と恐れられるまでになり、その結果5万石が加増され、直孝は官位として従四位下を拝領するまでに昇進します。

以後、二代将軍秀忠が亡くなったあとも、三大将軍徳川家光の後見役の「大政参与」となりますが、この大政参与が、「大老職」のはじまりと言われます。その後、家光からも絶大な信頼を得ながら参与を続け、のちには徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石(最終的には35万石)の領土を与えられ、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導しました。

彦根城主としては善政を敷いたお殿様として知られており、城下でも質素倹約を徹底させようとしました。しかし、彦根城下は都にも近く、派手ないでたちの者も多くなかなか民たちの素行も改まりません。

そこで直孝は「衣服を質素に改めない者は、自分に泥を塗ることになる」と触れを出し、派手な者を見つけ次第着物に泥を塗りたくるという罰を与えたそうです。これにより、城下で派手な着物を着る者はいなくなったといい、このころから彦根藩では質素で厳格な規律が重んじられる藩風が育って行ったと考えられます。

直孝は、晩年になってからも質素倹約を実践したそうで、藩主でありながら粗末な身なりで畳も敷かず竹のスノコの上で寝ていたそうです。屋敷内にもすきま風が吹き荒ぶような生活をしていたそうで、庭には植木もなく雑草が生い茂っていたといいます。

こうした暮らしぶりにあきれた侍医が「不養生が過ぎる」とたしなめたところ、「戦場では湿った土の上でも寝るものだ。体を温めるようでは徳川の先手は務められぬ。これしきの寒さで死ぬようならもっと頑強な者が当主になったほうが将軍家の御為になる」と言い返したといいます。

後年、幕末に徳川政権を維持するため、これに抗う不平分子を「安政の大獄」という形で粛清した伊井直弼もまたこの質素を是とする家風の中育ち、自藩の規律には厳しかったといいます。200年を経る間にも直孝の血は受け継がれましたが、その血は長い年月を重ねて凝縮され、より厳格さを増したものになっていたのかもしれません。

豪徳寺由来

さて、前置きが長くなりました。招き猫の話でした。

伊井直孝が40才を過ぎ、江戸で幕府の宿老として活躍するようになっていたころのことと思われます。直孝が鷹狩に出た帰り、ある小さな貧しい寺の前を通りかかると、その門前の石畳に一匹の三毛猫がいました。

みると、その猫は自分に向かって何やら手招きをしているようにも思えます。鷹狩の帰りで疲れてもいた直孝は、これも何かの縁だと思い、手招きするネコの誘いに応じ、その小さなお寺、「弘徳庵」の境内に足を踏み入れました。

すると辺りは、急に暗くなったと思ったらポツポツと雨が降りはじめ、やがて激しい雷雨となって、寺の屋根を激しくたたくまでになりました。直孝が雨宿りに入ったそのお寺には、好々とした和尚がおり、この和尚と雨宿りをしながら話をしているうち、直孝はすっかりこの和尚が気に入りました。

そして、その後直孝は、このお寺に多額の寄進を申し出し、これを受けた弘徳庵では、その金子で寺を立派なものに再建しました。直孝の生前は弘徳庵の名前はそのままでしたが、その後、直孝はこのお寺を菩提寺と決め、直孝が亡くなった時にその法名「久昌院殿豪徳天英大居士」に因んでその名を「豪徳寺」と号するようになりました。

和尚はこの直孝が招いた猫が死ぬと墓を建てて弔ったといいます。さらに後世になって豪徳寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、境内に「招猫堂」というお堂を立てて祀るようになりました。

この招猫堂に据えられているのが猫が片手を挙げている姿をかたどった「招福猫児」であり、招き猫の由来のひとつとされています。

現代になっても、豪徳寺は「招き猫の寺」として有名で、多くの人が「招猫堂」を訪れ、境内で販売されている招き猫を買っていきます。こちらのネコは、白い招きネコで、赤い首輪をしています。豪徳寺の招き猫は右手を掲げており、一般の招き猫が持っている小判は持っていません。

豪徳寺の招き猫が右手を挙げているのは、豪徳寺が井伊家の菩提寺であることに由来しているといわれます。武士にとって左手は不浄の手のためだからという言い伝えのためですが、これは実は間違っています。武士の多くは右利きであり、左側に鞘(さや)を指すことが多かったので、こういうふうに言われるようになっただけです。

しかし、右手の使い手が多かったため、左手は不浄という風潮は確かにあったようです。ちなみに、江戸では右側通行にするとさや同士がぶつかって危ないので、左側通行が普通だったそうです。これが、近代の日本にも引き継がれ、日本の道路交通法では人は左を歩くことに決められています。

そして、豪徳寺の招き猫が小判をもっていない理由は、「招き猫は機会を与えてくれるが、結果までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方からだそうで、質素で厳格さを重んじた伊井家の家訓さながらです。「結果」とは要するに小判のことで、豪徳寺の招き猫が小判を持っていないのはそのためだそうです。

ひこにゃんと……

さて、この伊井家が築いた近江の彦根城は、2007年に築城400年を迎えました。これを祝うため、近江の彦根市では、彦根城の築城400年祭マスコットキャラクターを募集していたところ、多数の応募があったということです。

その中のひとつ、「ひこにゃん」は、伊井直孝が豪徳寺の招き猫に招かれた逸話に基づいての作品であり、彦根市ではこれが最も優れているとしてメインキャラクターに採用。以後、日本中で大人気になりました。

今や招き猫をしのぐほどの人気ぶりですが、招き猫のようなご利益があるかというと、そういう話はあまり聞きません。

幸運を招く猫といえばやはり招き猫。これに尽きると思います。

我が家のマスコット、テンちゃんは果たして招き猫でしょうか。少なくともこれまでのところ、テンちゃんがウチへ来てからというもの、良いことづくめであることは間違いありません。伊豆の今の素敵な住処もみつけることができたし、息子も無事大学に受かったことでもあります。ここは一発、ウチでも「招猫堂」を作りましょうか。

いやいやお堂なんか作って死なれたら困ります。まだまだ何十年も幸運を運んでくれる招き猫として生きていてほしい、そう切に願う親バカな飼い主なのでした……